117
「Ａ−１７……？」
UN所属のUH-60Aブラックホークから降り立ったミサトは、待っていた青葉に聞き返した。
ローター風で暴れる髪を左手で押さえながら、怪訝な表情を浮かべる。
浅間山火口を往復したブラックホークには、給油作業のためスタッフが次々と取り付いてくる。
「葛城さん、声が大きいです」
青葉は、周囲に目をやりながら声を潜めた。
ミサトはそれには構わず、勁（つよ）い表情で質した。
「どういうこと。 私が要請したのは、Ｅ−１７。該当地域から周辺５０ｋｍに及ぶエリアからの住民の避難、およびネルフへの指揮権譲渡を含む特別措置よ」
ミサトは、わざわざその内容まで口に出して確認した。
対するＡ−１７はといえば、使徒捕獲を目的とした特別措置であり、これが発動されれば、現資産の凍結を含む、日本中のあらゆる指揮命令権のネルフへの移譲が行われる。
まさか、発音が似ているからといって、ＡとＥを聞き間違えたなどということはないだろう。
「さあ、私にはなんとも…。とにかく、５分前、１７３０時付けで正式に日本政府に通達されたそうです」
伝令役にすぎないシゲルは、困ったような顔で手にしたファイルを差し出した。
命令書を一瞥しただけで、ミサトはそれを返す。
「司令は？」
「副司令とともに、松代の方に。…実は、第二の方もやられたらしくて、直接行く必要があると」
「第二東京も…？」
それは初耳だった。
ネルフが何者かの工作によって停電状態に陥ったのは、正午過ぎ。同じ頃、第二東京でも同様の工作によるとみられる停電と、日本政府やUN関連施設への侵入工作があったという。
「被害からすると、うちより大きかったようで。そこへもってきて、使徒発見の報でしょう。政府もてんてこ舞いみたいですよ」
「MAGIの判断は？」
「同一組織による同時多発的な工作との見方が１、現段階ではどうにも情報が少なすぎるんで、保留が２です。 政府のお偉方は、タイミングが良すぎるんで、報復工作じゃないかなんてイチャモン付けてるらしいですが」
「あきれた…。それじゃ、ネルフへの工作は自分がやりましたって言ってるようなもんじゃない」
ミサトは辛辣なため息をついた。
「リツコは…下？」
「いえ、地上で使徒捕獲作戦用の陣頭指揮をとってます」
「…用意周到だわね」
「何か？」
「いえ。案内してくれる」
「わかりました、乗ってください。 …あの、腕、だいじょうぶッスか？」
シゲルが助手席のドアを開けながら聞くと、初めてミサトは笑顔を見せた。
右腕を吊って、ジャケットを引っかけただけの姿は、痛々しい。
「ありがと、平気よ。今は泣き言なんか言ってられないしね」
ヘリの発着場から遙かに望む稜線には、夕闇が迫っていた。
118
浅間山の地震観測所から、不審な影を捉えたとの報告は、かなり早い段階から上がってきていた。
しかし、停電騒ぎとその復旧作業のため、確認作業が大幅に遅れた。
銃弾が上腕部を貫通したミサトの傷は決して軽いものではなかったが、簡単な処置と投薬だけで現地へ飛び、使徒を確認したのは、すでに夕方近くだった。
第八の使徒は、マグマ溜まり下１，３００メートル、まだ胎児の状態で発見された。
葛城ミサト作戦部長は、使徒殲滅を前提にネルフ本部にＥ−１７の発令を要請し、現地の準備を日向二尉に任せてトンボ返りした。
しかし、実際にネルフから一方的に日本政府に通達されたのは、Ａ−１７の発動だった。
「どういうこと？」
感情を排した口調が、むしろ怒りの度合いを表している。
「…どうもこうもないわ。Ａ−１７の発令は、碇司令の正式な決定よ」
「そんなことを言ってるんじゃないわよ」
柳眉をつり上げて、ミサトはリツコをにらんだ。
一度発令されたものは、今さら取り下げることはできない。ミサトもそんな無益なことを議論するつもりはない。
「発令はついさっき。…にしては、ずいぶんと準備が進んでいるみたいだけど」
「当然でしょう。Ａ−１７が発令されたからには、一刻の無駄も許されないわ」
淀みない口調が、癪に障る。
聞きたいのは、建前ではない。
「既定事項だったってわけ」
「何のことかしら。あなたなら、賛成すると思ったけど」
「………」
使徒がまだ胎児の状態にあるとの観測結果から、実はミサトも捕獲を真っ先に考えた。
しかし、セカンドインパクトの原因ともなった前例を考慮し、リスクが大きすぎると判断した。
何より捕獲となれば、チルドレンをエヴァで直接火口に送り込む必要がある。
それは、できればさせたくなかった。
殲滅が目的ならば、ほかにやりようもある。
それ故の、Ｅ−１７要請だったのだが…。
ミサトは、臨時のハンガー代わりとなっている発進口の１つを見上げた。
技術部と整備員によって、エヴァンゲリオン弐号機の特殊装備への換装が、急ピッチで行われている。
停電からの復旧が十分でないことから、地下で換装を行った場合、地上への搬送手段がないため、このような措置が取られたそうだ。
影を作らないようにするためのカクテル光線を浴びて、鋼鉄の潜水服に半ば埋もれた弐号機は、笑えるほど場違いで、リアリティに欠けていた。
「こんなもので、本気で使徒を捕獲しようっていうの」
「失礼ね。耐熱・耐圧・耐核防護服、局地戦用のＤ型装備。制式よ。先日、あなたにも仕様書は見せたでしょう」
「こんなに早く使うことになるとは、思わなかったわ。…失敗すれば、あれの二の舞になるのよ」
「セカンドインパクト。…二度とごめんだわ」
しばらく、二人はお互いの表情を探り合っていた。
「…準備でき次第、キャリアに搭載して。それから、零号機と初号機もバックアップに回します」
「言ってなかったわね」
背を向けかけたミサトをリツコが呼び止めた。
「今回、初号機の作戦参加は認められないわ。調整が済んでいないの」
「な…」
今度こそ、ミサトは声を荒げた。
「バカ言わないで、Ａ−１７が発令されているのよ。初号機なしでやれっていうの？！」
「で、あればこそよ。少しでも不安要素のある機体を投入させるわけにはいかないわ」
「先日、マヤちゃん…いえ、伊吹二尉は出撃は可能と…！」
「それはあの子の勝手な判断ね。 技術部長である私の判断は異なるし、碇司令からも初号機の扱いには万全を期すようにとのご命令よ」
言って、リツコは少し表情を和らげた。
「実際に火口に潜れるのは弐号機だけよ。バックアップなら、零号機だけで十分だと思うけれど」
「それは、作戦部が考えることだわ」
碇司令はどういうつもりなのだろうか。
Ａ−１７という背水の陣を強いておいて、作戦行動に制限を加えるなんて…。
「…いいわ。初号機が使えないのなら、作戦を一部修正します」
ミサトの説明を聞いたリツコの顔が強張った。
「本気なの、葛城一尉！」
「もちろん。これが現状で考え得る最上のシフトよ」
119
約１時間のフライトを終えて、UNのC-21A輸送機から降り立つと、ミサトが待っていた。
「おかえりなさい、レイ。シンちゃん」
「た、ただいま」
ミサトはまずレイ、次にシンジの頭を後ろから抱え込むようにして、抱擁した。
手荒いながらも温かいその感触に浸りそうになりながら、シンジはミサトの姿に表情を曇らせた。
「ミサトさん、その腕…どうしたんですか！」
レイが無言でいるところを見ると、彼女の方が先に気付いていたらしい。
ミサトは笑いを張り付けたまま、自由になる左手で頭をかいた。
「いやぁ…ちょっち、火事場泥棒と取っ組み合いのけんかになっちゃって…」
「は…？」
よく意味が分からず、呆けたような顔をするシンジの傍ら、レイは上目遣いで、少し怒ったような顔をしていた。
「.........」
「あははは…は…」
「.........」
「ごめんなさい。これから無理はしません」
素直に反省するミサトに、レイはこくりと頷いた。
「本当に大丈夫なんですか？ 一体どうして…」
「ちょっと。タラップの下にいられると、降りられないんだけど」
「アスカ…」
後から機外に姿を現した彼女は、仏頂面をしていた。
ミサトは、２人と同じように抱擁しようと腕を伸ばしかけるが、その顔を見て手を下ろした。
代わりに、穏やかに微笑む。
「おかえり、アスカ」
「…あ〜あ、バカンスももう終わりかー」
ぷいと、そっぽを向いて、さっさと迎えの車両に歩いていくアスカに、ミサトは軽く吐息した。
そして、最後に降りてきた無精髭の男は、わざとらしく驚いて見せた。
「おやっ。どしたの、そのけが」
「…あら、あんたいたの」
「おいおい、ちゃんとおつとめ果たしてきたってのに、ねぎらいの言葉もなしか？ 察するところ、悪い男に引っかかったってところかな」
「ええ。あんたと同じくらい、最低の奴にね」
思いっきり憎らしげに、ミサトはアカンベーした。
やれやれと、加持は肩をすくめる。
「葛城」
レイとシンジを促して、さっさと歩き出そうとするミサトの背を呼び止める。
鬱陶しそうに、それでも一応振り返ったミサトに、加持は口を開きかけてやめた。
そして、いつものように軽薄な笑みを浮かべる。
「…みやげ、食べる？」
「勝手に食べてなさい！」
120
「胎児……ですか」
ミサトの説明を聞いたシンジは、おうむ返しに呟いた。
それは予想通りの事実だったので、驚きはない。
「そう。今回は、火口内に潜っての使徒捕獲が作戦目的になります。
そこで、今回の担当だけど…」
「あたしがやるわ！」
ミサトの言葉の先を制して、アスカが名乗りを上げた。
「…いいのね、アスカ？」
「あったりまえよ」
それを確認して、ミサトはあっさりと頷いた。
「捕獲作戦は、弐号機の担当とします」
「......私は」
「レイは零号機で火口外に待機。バックアップをしてちょうだい」
「ハイ」
あれ？
ふと、シンジは違和感を覚えた。
アスカが潜って、綾波がバックアップなら、自分は…。
「あ、あの僕は…？」
慌てて口を挟むと、ミサトは一瞬、黙り込んだ。
「今回は調整が済んでいないので、初号機は作戦に参加できません」
「えっ！」
予想外の答えに、一瞬、頭が真っ白になる。
「シンジは、また留守番？」
意地悪く笑って、アスカはシンジの顔を覗き込む。
しかし、その余裕のある態度も、ミサトの次の言葉を聞くまでだった。
「いいえ。そういうわけだから、シンジ君にはアスカと一緒に弐号機に搭乗してもらいます」
「ええっ！？」
三度目が一番の驚きだったが、それもすぐにアスカの剣幕にかき消された。
「冗っ談じゃないわ！なんでシンジなんか乗せなきゃなんないのよっ」
「それがベストの布陣だからよ。機体のないパイロットをただ遊ばせておく手はないわ」
「いやよっ！」
「先日は一緒に乗ったじゃない」
「あれは…テストだったから仕方なく！」
「テストは実戦のためにするものよ。そんなのは理由になりません」
「とにかく、イヤったらイ・ヤ！ それならあたし、やらないわ」
「…シンジ君はどうなの？」
「えっ？」
予想外の展開に、二人のやり取りをぼーっと聞いていたシンジは、急に水を向けられてあたふたした。
「僕はもちろん、構いませんけど…」
どうしたら、アスカを危険な目に遭わせずに使徒を倒せるだろうかと考えて、途方に暮れていたところなので、これはある意味、願ったりの状況だ。
しかし、こんな状況は考えてもみなかったので、アスカと同じかそれ以上に戸惑いはある。
「潜る…んですよね」
「そうよ？」
「！ハ、ハーン…」
どことなく硬いシンジの表情をいち早く読み取って、アスカは目を細めた。
「アンタ、怖いんでしょ」
「っな…ちが」
「そうよねぇ、シンちゃんは泳げないんだものねぇ〜」
「ぐっ…」
図星だったので、シンジは二の句が継げない。
「ほら、ミサト。こんな臆病でカナヅチのお供なんて必要ないわ！」
「…悪いけど、シンジ君。それは我慢してもらうしかないわね。別に生身で潜るわけじゃないんだから」
「は、はい。わかってます」
そうだ、泣き言なんか言ってる場合じゃない。
火口の外で見ているしかできなかった以前より、よほどやれることは多いはずだ。
シンジが腹をくくったのと裏腹に、アスカは苦々しげにミサトをにらみつけた。
「…あたし一人じゃ、不安だっていうの？」
おそらくそれが、シンジを乗せたくない一番の理由であり、最後まで口にしたくない疑問だったに違いない。
アスカの目は、半ば据わっていた。
「アスカ」
しかし、ミサトは負けず劣らず厳しい顔で、アスカに向き直った。
「あなたもパイロットなら、わきまえなさい。これは作戦であり、命令よ。
命令にはきちんとした根拠もあるわ。
第一に、前回の複座試験による結果。理由はどうあれ、平均値より高いシンクロ率を残している。これは無視できない事実よ。
そして第二に、今回はＡ−１７が発令されている。決して失敗は許されない。
マグマに潜って、使徒を捕獲するなんていうのは、ネルフにとっても初めてのことよ。
あなた一人では心配？もちろん心配よ。二人一緒だって心配なのは同じだわ。
であれば、少しでも成功確率の高い選択をするのが、私の務めなの」
シンジは、口をはさむこともできなかった。
はたで聞いている方がハラハラするくらい、ミサトの言い方は厳しかった。
そして、反論を許さないほど理路整然としている。
勝手なわがままで反対するなら、これ以上の理由を提示してみなさいと言わんばかりだった。
「それに…最初にやると言い出したのは、アスカだったわよね？」
腕組みをしたミサトは、挑発的に口元を歪めた。
「…やるわよ。やってやるわよ！」
思い切りミサトを睨みつけてから、アスカは背を向けてドスドスと車両に乗り込んだ。
「時間がないから、移動中にプラグスーツに着替えてちょうだい。ネルフに戻ったら、すぐに出発よ」
アスカの背に向けて言いながら、ミサトはレイを促した。
レイは無言で頷くと、アスカに続いて車内に入る。
我に返ったシンジは、もう一台の助手席に向かって歩き出したミサトの背を追った。
「ミサトさん！ 今のはちょっと…」
アスカに酷だ…と続けようとして、ミサトがくるりと振り返った。
いつもの、優しい顔だ。
「アスカ、調子悪いんでしょう」
「え…」
どうしてそれが…という顔をすると、ミサトは「見ればわかるわよ」とあっさり答えた。
「今の状態のアスカに、なだめたり説得したりするのは逆効果よ。
どうやっても機嫌が悪いんなら、ストレートに怒っててくれた方がマシね」
「それで、あんな言い方を…」
シンジは唖然とした。
「覚えときなさい、シンジ君。 月の障りの女は、扱いづらいわよ？」
ぬっ…と、正面から間近に顔を寄せられて、シンジは思わず首をすくめた。
よく見ると、目が笑ってない。
あ、あれ…ひょっとして、ミサトさんも…？
すると、その考えを見透かしたかのように、ミサトは満面に笑みを張り付かせた。
「そうそう、シンちゃん。悪いんだけど、耐熱仕様のプラグスーツって、プロダクションモデル用しかないのよ」
「え、それって…」
「我慢してね」
「結構、似合うわよシンジ君」
笑いをかみ殺しながら、リツコはさりげなく口元に手を当てた。
その横で、マヤがクリップボードで顔の下半分を覆っている。
そして、２人の前に仏頂面をしたアスカと、仏頂面をしたシンジが並んで立っている。
揃いの赤いプラグスーツ姿だ。
シンジの胸の部分には、通常あり得ないふくらみが存在しており、腕組みで隠そうとしているのだが、うまくいっていない。ちなみに、不自然に内股。
アスカは、その姿を視界に入れたくないのか、やはり腕組みをして、目だけあさっての方角を向いている。
「…で？ これのどこが耐熱仕様のプラグスーツなわけ」
「左手のスイッチを押してみて」
「左手？」
「…押さなきゃだめですか？」
非常にいやな予感を覚えて、シンジは真顔でリツコに聞き返す。
しかし、返事を待たずに、アスカの悲鳴が響いた。
「なによぉ、これぇ〜っ！！」
横を見るまでもなく、視界に赤色が迫ってくる。
アスカの体を包むプラグスーツが、まるで風船のように膨らんでいた。
「わかった？」
「…はい」
やっぱり、こうなるのか…と、シンジはため息をついた。
「なに一人で納得してんのよ…シンジ、押しなさい」
「え？ い、いや、もうわかったし…」
「なんで、あたしだけこんなみっともない姿をさらさなきゃなんないのよ！ いいから、押しなさい！」
「うわあっ」
左手のスイッチにアスカの手が伸びて、シンジは強引に「だるま化」された。
「笑い」が普段のキャラクターにないせいか、その姿はアスカ以上に滑稽だった。
遠巻きに見ていた整備員たちから、笑いが巻き起こる。
「フン！」
「あの…あ、足の間がちょっと…きついんですけど」
必死に足をすり寄せようとするが、体形がアンバランスすぎて思うようにいかない。
恥ずかしそうにシンジが言うと、さらに笑いが大きくなる。
今度は、リツコまでもが肩を小刻みに震わせていた。
とりあえず、場を和ませることに成功したシンジだった。
…ちっとも嬉しくなかったが。
「.........」
「…レイ、何やってんの？」
プラグスーツの左手首をいじり回しているレイを見とがめて、ミサトは訊ねた。
「......いえ」
「？」
「なによぉ、これぇ〜っ！！」
あれ…？
再び、アスカの悲鳴を聞きながら、シンジは輸送機に搭載された弐号機を見上げた。
鉄の潜水服のようなＤ装備は、記憶にあるのと少し違うような気がした。
「これが、あたしの弐号機…」
アスカは、愛機の変わり果てた姿に茫然としているが、そのフォルムはややシェイプアップされている。
何より、鋼鉄の輪っかを途中から割ったようなぞんざいなマニピュレーターではなく、きちんと５本の指を備えているのが一番の違いだ。
今回の捕獲のための電磁柵展開装置、通称「使徒キャッチャー」がしっかりと握られている。
そして、両腕部には、手の甲に沿うように槍の穂先のような突起が見える。
リツコの説明によれば、内蔵型のSG-02Pソニック・スピア（ソニック・グレイブのバリエーション）で、唯一の外部兵装だとか。
「水中なら、ほかにも持たせるものがあるのだけど」
今回は高温・高圧のマグマに潜るため、ほとんどが使用不能になるのだという。
「アスカ、シンジ君、搭乗急いで。着いたらすぐに作戦開始よ」
「…あたしがメインでいいんでしょうね」
「当たり前でしょ。あなたじゃなきゃ、弐号機は動かないんだから」
そう言われて、アスカは少し機嫌を直したらしい。
「シンジ、足引っ張らないでよね。 …いくわよ！」
「うん！」
そして、二人は弐号機のエントリープラグへ走った。
121
シンジは、足下に迫ってくるマグマの海に、知らず喉を鳴らした。
灼熱の泡が時折、表面で弾けているのが、モニター越しにもはっきりとわかる。
潜るというより、まるで呑み込まれていくような感じだ。
震えがきそうになるのを、シートに強く体を押しつけてこらえる。
夜の闇の中で、不気味に朱く光る裂け目が、ぽっかりと口を開けていた。
縦に裂けた火口に、対岸から互い違いになるように二台のクレーンが首を伸ばし、蜘蛛の巣のように四方八方に補強用のワイヤーを張り巡らせている。
片方のクレーンの先には、「KERMADEC-3」とボディに書かれた観測機が、そしてもう一方の先に、５本のケーブルを繋がれたＤ装備のエヴァ弐号機が重たげにぶら下がっていた。
弐号機は今も下降を続けており、夜の闇を切り裂くサーチライトが、その姿を追っている。
ライトによって照らし出された岩肌は、半分溶解した岩が冷え固まってできたものか、不気味な紋様を描き出していた。
「…何よ。 さっきからずーっと、黙りこくっちゃって」
ミサトと機体状況についてやり取りをしていたアスカが、回線を切って言った。
「え？ …いや、別に…」
急に話しかけられたことに驚いて、シンジは表情の選択ができないまま、引きつった顔をした。
それがまるで見えているかのように、アスカは続けた。
「怖いんだ？」
「なっ…ぼ、僕は…」
別に…と言おうとして、マグマが目と鼻の先まで迫っているのを目にしてしまい、思わず呼吸を止めて体を固くする。
膨らんだプラグスーツとシートの向こうで、アスカがわずかに頭を動かした。
こちらを覗き見たのかもしれない。
そして、いきなり回線をオープンにすると、含み笑いの混じった声を出した。
「見て見て、レイ。 ジャイアント・ストロング・エントリーぃ！」
「ぅわっ」
唐突に機体が揺れて、目までつぶっていたシンジは、慌てて身じろぎした。
次いで、小刻みな振動が足下から伝わってくると、弐号機はあっという間にマグマの海に潜り込んでいた。
「あははははっ、おんもしろーい！」
「ひっ、ひどいよアスカ！」
「あははははっ…」
シンジの慌てぶりが面白かったのか、アスカはしばらくけらけらと笑っていた。
しかし、やがて笑いが収まると、静寂が訪れた。
辺りは真っ暗な闇。
すべての音が吸収されているように、シンと静まりかえっている。
時折、深度メーターの発するカウント音だけが、やけに耳に付く。
全身にのしかかってくるような、圧倒的な熱と圧迫感。
特殊装備に包まれていなければ、エヴァの機体とてそう長くは保たない。
そこは、まさに死の世界だった。
「…現在、深度１７０。沈降速度２０。各部問題なし。視界はゼロ。何もわからないわ。ＣＴモニターに切り替えます」
モニターが切り替わり、ややオレンジがかった色がプラグ内を満たした。
それでも、やはり暗闇の中にいるのは変わらない。
何も見えないな…。
「これでも、透明度１２０か…」
シンジの感想を代弁するように、アスカが言った。
そして、交信が途絶えると、再び圧力を伴った静寂が訪れる。
シンジは、知らずに額の汗をぬぐっていた。
おかしな話だが、エヴァに乗って実戦をするのは、随分久しぶりだ。
考えてみると、アスカと一緒に乗ったのが最後だった。
そのことを口に出しそうになったが、アスカは怒りそうなのでやめた。
ふと、前席のシートの端から揺れる、アスカの髪が視界に入る。
暗闇の中でその色を確認して、シンジは少し、肩の力を抜いた。
…アスカは、怖くないんだろうか。
そんなことを考える。
シンジは、この先に起こるであろうことを知っている。
捕獲が失敗し、羽化した使徒と戦うことも。その使徒を倒すための方法の一つも。
それでも、やはり怖い。
地上で戦うのとは、まったくわけが違う。
命綱でもある冷却液循環ケーブルが切れれば一巻の終わりだし、援護も期待できない。普通に動くこともままならない。
それなのに、アスカは泣き言一つ言わなかった。
果たして自分は、一人きりだったら、この静寂に耐えられただろうか。
「…なんか話しなさいよ」
「え？」
「退屈だって言ってんのよ。外はなーんにも見えないし」
「ああ、そっか…ええと…暑いね？」
「………」
「あれ、アスカ？」
「あんたバカぁ？！ そんなのマグマに潜ってるんだから、当ったり前じゃないの！」
「ご、ごめん…なんか息苦しくて、頭がよく回らなくて…」
「………」
「………」
「…で？」
「え？」
「話はそれで終わりかって言ってんの！」
「ええと、じゃあ…さっき外でさ、上の方で何かキラキラ光ってなかった？」
「ああ…」
「…なんだろうね、あれ」
「知らない。どうでもいいわ、そんなの」
「………」
身も蓋もない。
そもそも、会話を続けようという気がないんじゃないだろうか。何か話せって言ったのは、アスカの方なのに。
まあ、あれが自分たちが失敗した時のために待機しているUNの戦闘機だなんて言って、余計に空気を重くすることもないので、シンジは黙っていた。
話をしたせいか、少し気持ちに余裕ができていた。
「ねえ、シンジ…」
アスカが再び口を開きかけた時、弐号機の機体が、がくんと揺れた。
14式大型移動指揮車内
「深度１，３００。目標予想地点です」
マヤの報告と同時に、ミサトは弐号機の降下を一時停止させた。
目を細めて、モニターを見つめる。
「アスカ、シンジ君。何か見える？」
自身もモニターから得られる情報を精査しながら、回線の向こうに呼びかける。
一拍置いて、返答が返ってきた。
『反応なし。いないわ』
『視界は相変わらずですけど、この辺には何もいないみたいです』
「………」
予想通りの答えに、ミサトはあごに手を当てて考え込んだ。
「思ったより、対流が速いようね」
「目標の移動速度に誤差が生じています」
「再計算、急いで」
リツコと日向のやり取りを背後に聞きながら、ミサトはモニターを見つめ続ける。
すでに安全深度はオーバーしている。
耐熱バチスカーフでの観測も、この辺りが限界だった。
幸い、圧壊するには至らなかったが…。
「ミサト？」
「………」
「ミサト！」
「…アスカ、まだいけそう？」
『当ったり前でしょ。まだ使徒を見つけてもいないのよ』
「シンジ君？」
『そうですね…なんかミシミシいってますけど、まだいけると思います』
「…マヤ、あと１００下げて」
「了解しました」
『...二人とも、無理しないで』
エヴァ弐号機 深度１，３００
「強がっちゃって…」
「え？ 何か言った？」
「なんでもない。しっかりモニター見てなさいよね」
「うん、こっちは任せて」
沈降を再開してしばらくして、弐号機のプラグ内で、パシンッという明らかな破砕音が響いた。
アスカは眉をしかめ、シンジは緊張した面もちでプラグ内を見回した。
14式大型移動指揮車内
「第２循環パイプに亀裂発生」
「深度１，４５０。限界深度オーバー！」
ここまでか、とミサトは背を伸ばした。
「沈降止めて」
「ミサト、ここでやめる気」
その行動を予測していたように、リツコが横から顔を覗き込む。
「…一度、上げるべきだわ」
「それに、どんな意味があるというの」
「計測値と違いすぎよ！続行は不可能だわ」
「それじゃあ、作戦は失敗ね」
突き放したリツコの物言いに、ミサトはカッとなって声を荒げた。
「このまま、弐号機が圧壊するまで見てろっていうの？！」
「そうは言っていないわ！」
「同じことじゃないの！限界深度オーバーしてるのよ、設計したアンタが一番わかってるでしょう！」
二人の剣幕に、日向とマヤは困ったように顔を見合わせる。
そこへ、アスカの怒鳴り声が割り込んだ。
『なに、そっちでゴチャゴチャ喧嘩してんのよ！ こっちは汗だくなの、さっさと終わらせるわよ！』
「アスカ…」
『ミサトさん…Ａ−１７って、失敗したらまずいことになるんでしょう？』
「………」
『ほら、ミサト。ちゃっちゃと、やっちゃってよ』
「どうするの。目標予測修正地点まで、あと１００よ。パイロットは二人ともやる気みたいだけど」
ミサトは、リツコをキッと睨みつけて、唇を噛んだ。
ダメな指揮官だ。パイロットにあんなことを言わせてしまうとは…。
「あと１００だけ許可します。そこに何もいなかったら、作戦は中止。
…マヤ、再度沈降よろしく」
「は、はい」
エヴァ弐号機 深度１，５００
あと１００潜っても何もいなかったら…その時はどうなっていたのだろう。
結局、その心配は杞憂に終わった。
再度、弐号機が動き出してからいくらもしないうちに、シンジはモニターの隅に黒い影を見つけた。
「いた…！」
「あれね…」
実物を間近で見るのは、シンジも初めてだった。
想像していたよりも、かなり大きい。
14式大型移動指揮車内
同じ映像は、指揮車でもモニターしていた。
スタッフは一様に、ホッとしたような表情を浮かべる。
皆、感情的にはミサトの肩を持っていたからだ。
しかし、ただ一人、当のミサトだけが厳しい表情でモニターを凝視していた。
「目標を映像で確認」
「捕獲準備を…」
「待って」
再び止めたのは、ミサトだった。
リツコが振り返る。
「様子がおかしいわ…」
「えっ…」
ミサト以外で唯一、作戦開始以前に使徒の幼生体を確認している日向が、慌ててモニターをチェックする。
特に、変わった様子は見られないが…。
だから、ミサトが命令したのは、ほとんど勘だった。
「弐号機、すぐに戻して！ アスカ、キャッチャーを破棄、急いで！」
エヴァ弐号機 深度１，５５０
「えっ」
使徒捕獲準備に入ろうとした、まさにその時だった。
ミサトの指示に、アスカは一瞬戸惑う。
「アスカ、前！」
シンジが叫んだ。
一見、丸い岩塊のようだった影が、まばたきする間に、四本の触手を持った不気味なモノに変わった。
「Scheisse! 擬態だっての！？」
身震いするたびに容積を増す影に向かって、アスカは使徒キャッチャーを投げ捨てた。
触手の一本が無造作に払われると、高温・高圧に耐えていたキャッチャーは、あっけなくへし折れた。
あのままノコノコ近寄っていたら、弐号機が同じ運命を辿っていただろう。
がくん、と衝撃があって、弐号機のケーブルが巻き上げられていく。しかし、そのスピードはイライラするほど緩やかだ。
「正面、来る！」
「バラスト放出！」
沈降用の重りが強制排除され、一気に浮力が増す。
しかし、それ以上に使徒の動きは速かった。
「このぉっ！」
アスカは咄嗟に、左腕を使徒に向けた。
Ｄ装備の外装に仕込まれたソニック・スピアが、銛（もり）のように飛び出して、使徒を襲う。
だが、使徒に突き刺さることはなく、表皮で弾かれてしまう。
しかし、その衝撃で使徒は進路を変え、弐号機は危うく難を逃れた。
半ば逆さ吊りのような姿勢になった機体の下を、使徒は信じられないようなスピードですり抜けていく。
「速い…！」
すれ違いざまに垣間見えたその姿は、４本の触手を持つエイのような躰。
溶岩の中を抵抗をものともせず泳ぎ回るその能力は、まさに驚異的だ。
アスカは以前、こんなものと戦っていたのか…！
「効かないじゃないの、これ！」
発射され、ワイヤーの伸びきった銛を回収しながら、アスカが悪態をついた。
使徒の表皮が非常識に硬いのか、銛の威力が不足しているのか、ともかくダメージを与えられたようには見えない。
使徒はこちらの様子を伺うように回遊したあと、死角に消えた。
「シンジ！」
「…ダメだ、センサーの範囲外に出たみたい」
「この状況でロストするなんてね…」
苦く笑って、アスカはしたたり落ちてきた汗をぬぐう。
「ミサト、そっちでモニターできないの？！」
『…センサーの感度は、そっの方がいいわ。今、ＭＡＧＩに行動パターンを分析させてるけど』
「そんなんで間に合うの？」
『…コアの位置を特定したわ。９２％の確率で、外殻上前部にある目のような突起よ』
「コアの場所がわかっても、武器が通用しないわよ。さっきの見てたでしょ！」
『この高温・高圧下で活動してるのよ、使徒の外殻はとんでもない強度だわ。外からで駄目なら、内部からダメージを与えるしかないわね』
「…それって、第六使徒の時みたいに？でもどうやって。あんなのとまともにぶつかったら、ひとたまりもないわ！」
『それは…』
「方法はあります」
それまで、二人のやり取りを聞いていたシンジが口を開いた。
「ＡＴフィールドで受け止めるんです。荒っぽいですけど」
『ＡＴフィールドで？』
「そんなの、やったことないわよ」
シンジとしては、ある程度、勝算のある賭けだった。
事実、以前同じ方法で第十使徒を受け止めたことがある。
あの時はエヴァ３機がかりだったが、成層圏から落下してくる相手に比べれば、今回の方が分はいいはずだ。
「相手の動きを止めたら、内部に弐号機に使ってる冷却液を注入してやれば…」
『なるほど、熱膨張か…。命綱を自分で切るようなものだけど、それっきゃないか』
ミサトの決断は早かった。
『いいわ、その手でいきましょう。こっちはいつでも準備しておくわ』
「………」
「アスカ…？」
「わかってる……やるわ」
一拍遅れたアスカの声に、シンジはハッとした。
その語尾がわずかに震えていることに、今更のように気付いたのだ。
怖くないはずないじゃないか。
溶岩に潜って、得体の知れない怪物と正対して。
それに、アスカは調子だって良くないのに。
そんなことはおくびにも出さずに、一人で戦ってたんだ。
たぶん、きっと、以前も同じように…。
そんなことも知らなかった。
シンジはプラグスーツを通常モードに戻すと、前席に移動した。
ちょうど、第六使徒と戦った時のように。
体感温度がみるみる上昇していくのを感じたが、気にしなかった。
「ちょっ…アンタ、なにやってんのよ！バカじゃないの？！」
これでは、専用のプラグとプラグスーツの意味がない。
アスカは、本気で呆れているようだった。
一瞬、状況を忘れるくらいに。
シンジは、アスカのすぐ側に来て言った。
「大丈夫、アスカならできるよ」
「……ほんとにバカね。それでご機嫌取ってるつもり？」
警告音が鳴り響いた。
センサーに反応。
「来るよ…６時方向。真後ろだ」
「言われなくても…！せいぜい振り落とされないようにね！」
「接触まで、２秒！」
「…フィールド全開…！！」
アスカは、ぎゅっと目をつぶって叫んだ。
実戦でＡＴフィールドを使うのは、初めてだった。
弐号機の前面に壁が生まれる。
直後、マグマを通して、振動が伝わってきた。
「やった！」
「つかまえたっ！」
『ナイス、アスカ！』
弐号機のマニピュレーターが、使徒の触手を掴んで引き寄せる。
…と、唐突に、怪奇映画のように使徒の口が割れて、イソギンチャクのような舌（？）をむき出しにした。
「うわっ」
「く、口を開いた…」
それが絶好にして唯一のチャンスだった。
しかし、モニターに大写しになったその異様な姿に、２人は度肝を抜かれた。
そして、一瞬の隙を突くように、残る３本の触手を器用に使って弐号機の背後へと回り込む。
「しまった…！」
「後ろを取られた？！」
「こんちきしょーッ！！」
とっさに裏拳気味に機体を反転させようとするが、触手がからまってうまくいかない。
繰り出した左腕そのものを２本の触手に封じられてしまう。
背後から衝撃が弐号機を襲った。
「うわあっ！」
「きゃああっ！」
一瞬、計器がブラックアウトし、通信回線が途絶した。
14式大型移動指揮車内
「アスカ！シンジ君？！」
矢継ぎ早に周囲に指示を飛ばしながら、ミサトは２人に呼びかけ続けていた。
モニターは映っているから、断線はしていない。
音声の伝達回路をやられたのか…？
ミサトはすぐに、零号機のレイを呼び出した。
「レイ？弐号機はモニターできている？」
『ハイ。...ただ、音声が途絶しています』
「そっちもか…すると弐号機本体が原因ね」
『ミサトさん......アスカと碇君は』
「大丈夫。…二人なら平気よ。零号機はパレットガンを装備。徹甲弾を用意させるわ。準備でき次第、火口のすぐ側まで行って待機してちょうだい」
『...了解』
静かだが力強いその返事に、ミサトは救われる思いだった。
エヴァ弐号機 深度１，０００
「アスカ、平気？！」
「つ…何がどうなったのよ…」
計器の灯が半分落ちて、プラグ内にはミシミシと不吉な音が絶え間なく響いている。
「後ろに、張り付かれちゃったみたいだ…」
「…ひ、左腕が…」
２本の触手にからめ取られた左腕は、Ｄ装備がメキメキと悲鳴を上げている。
循環させている冷却液も漏出が始まっている。
「う…動かない」
間接部に触手が巻き付いて、身動きを封じられているようだった。
ガン！
「うわっ」
「あうっ」
ガン！
立て続けに、頭部に衝撃がきた。
後ろから、頭に食いつこうとしているのかもしれない。
「このままじゃまずい…アスカ、後ろにＡＴフィールドを張って！」
「そんな器用なこと、できないわよっ」
「できなきゃ、やられるよ！」
「んもぉっ！」
頭部への衝撃がやんだ。
どうやら、アスカがうまくやったようだ。
しかし、密着しすぎているせいか、使徒を引きはがすまでには至らない。
そして、今度は各部の間接が、メキメキと悲鳴を上げ始める。
噛み付きがうまくいかないので、締め上げる方にしたらしい。
「さっきより…悪く、なってるじゃないの！」
「ぐ…ご、めん」
アスカが苦しげにうめく。
Ｄ装備越しなので直接にではないが、全身を締め上げられる痛みがフィードバックとなって２人を苦しめた。
ひときわ大きな破砕音に、警告音が重なる。
「くっ…右足損傷」
「！…耐熱処置」
ボンッという衝撃とともに、右足装甲が弐号機本体の足とともに吹き飛んだ。
筆舌に尽くしがたい激痛が走る。
「このおぉぉぉぉっっ！！」
痛みからか、怒りからか、アスカは力任せに肘を背後に打ち付けた。
だが、マグマの中にあって勢いを減じられているせいか、使徒には一向に効いていないようだ。
「これなら…どうだぁっ！」
弐号機は、右手のソニックスピアで、羽交い締めにされている左手の冷却ケーブルを切り裂いた。
肘の部分から断たれたケーブルから、冷却液が使徒の上に降り注いだ。
まるで水蒸気爆発のような衝撃が、マグマを揺るがす。
これには使徒もたまらず、締め上げる力を緩めた。
間髪置かず、弐号機は反転して強引に体の向きを替える。
しかし、運の悪いことに、暴れ回る使徒の触手の１本が、弐号機と地上とをつなぐ５本の命綱のうち、３本までを切断した。
がくんっ！
あ……
アスカは、ケーブルが千切れていくさまを、なかば茫然と見上げていた。
裂けたケーブルは、弐号機の自重で傷を広げ…。
ガシッ！
伸ばした右のマニピュレーターが、残るケーブルを手繰るように掴んでいた。
やったのは、アスカではない。
「こんな…ところで…終わってたまるかぁぁぁっ…」
全身汗だくで、真っ赤な顔をしたシンジが、すぐ横で歯を食いしばっていた。
いつの間にか、レバーに右手が重ねられている。
「……知らなかったわ。シンジって、結構しぶといのね」
感心…というよりは呆れたように軽口を叩いてから、アスカもそれに同調した。
だが、先ほどのが効いたのか、全身にからみついた使徒が暴れるので、徐々にケーブルを掴む手がずり下がっていく。
「く…うぅぅ…」
「つうぅ…っ」
その時、視界に使徒以外のものが現れた。
『アス……ジく…つか…って！』
無線通信なのか、ノイズ混じりのミサトの声が聞こえた。
弐号機は、必死に腕を伸ばして、それにしがみついた。
同時に、力強い上昇が始まる。
それは、観測用の耐熱バチスカーフだった。
「ミサト！」
「ミサトさん！」
14式大型移動指揮車内
「アスカ、シンジ君、絶対に放さないでね！」
弐号機が掴まったのを確認して、ミサトはクレーンの巻き上げを指示した。
岩質調査のためのアンカーを発射して、使徒をがんじがらめにする。
あとは、これが地上に出るまで保つかどうかだ。
すでに深度は４００を切っている。
ミサトは回線を切り替えて、零号機を呼び出した。
「レイ、精密射撃。インダクションモード準備しておいて。上がってくるわよ」
『...了解』
エヴァ弐号機 深度３５０
「このまま逃がしたら、次のチャンスはないわね」
「うん」
満身創痍の弐号機の中、二人はいつかのようにレバーに両手を重ねていた。
弐号機の右足はすでになく、左腕は力無くぶら下がっている。
観測機から打ち込まれたアンカーでからめとられた形の使徒は、そこから逃れようと、弐号機を深淵に引きずり込もうともがいている。
アンカーの強度はたかが知れている。このまま地上まで保つかどうかは疑わしかった。
相変わらず、各関節部にからみついたままの触手を確認して、アスカは力強く眉根を寄せた。
「やるわよ」
「うん。…同じこと考えてた」
「…なに笑ってんのよ。あんた、怖いんじゃなかったの」
「最初は。…でも、今はそんなに。アスカが横にいるからかな」
「…バカ言ってなさい。熱くて死ぬわよ」
「いつでもいいよ」
「…Ｄ装備、強制排除！」
小さな爆発音がして、各部の装甲が強制排除される。
しかし、関節に入り込んだ使徒の触手、そして観測機のアンカーが複雑にからんで、中途半端に外装が外れた状態で、弐号機と使徒の間の隙間を埋める。
赤い巨人と原生生物のような第八使徒は、互いにほとんど身動きができなくなった。
代償は、マグマの熱だった。
特殊装備がはがれた弐号機の装甲を容赦なく灼いていく。
「ぐぅっっ……」
「ぁぅっ…」
「…ぐ…あと８０………７０………６０………」
全身を走る灼ける痛みをこらえながら、２人は地上を求めて天を仰いだ。
14式大型移動指揮車内
「軸線その他はセントラルコンピューターに直結したＭＡＧＩが補正してくれるわ。
地上に現れたと同時に照準開始。トリガーのタイミングは任せるわ。
コアとみられる場所に一点集中、５秒間斉射したのち、効果がみられてもみられなくても、いったん射撃中止。
いいわね、レイ」
『了解』
「バチスカーフ、及び弐号機、地上まで１０……５……出ます！」
マヤのカウントダウンに続いて、灼熱の溶岩をまき散らしながら、奇怪なオブジェが姿を現した。
見ていた者は、一瞬、息をのむ。
それが、弐号機と使徒であると分かるまでに、しばらくの時間を要した。
――――彼女を除いて。
ドドドドドドッッッ！
連続した射撃音が、夜闇を裂いて響き渡った。
零号機が、正確に射撃を開始していた。
サーチライトのカクテル光線を浴びた使徒の目のような部分に、弾着が連続する。
マグマから揚がって、化石のような色に変化した外殻に、亀裂が生じた。
撃ち下ろしから、ほぼ水平射撃になった辺りで、零号機は射撃を中断した。
『…っレイ！ 右の触手を狙って！』
外部スピーカーから、アスカの声がした。
ミサトは一も二もなく、射撃許可を出す。
再び、射撃音が轟いた。
「そう…そいつが邪魔だったのよ…っ」
解放されて唯一動くようになった右手をテイクバックさせながら、アスカは呟いた。
「「これでも……食らえぇぇぇぇぇぇっっっ！！」」
アスカとシンジ、二人の雄叫びが重なった。
繰り出された拳は、溶岩内とは違って、本来の威力を発揮した。
使徒の口に拳がめり込んだ瞬間、外れずに残っていた手甲から、ソニック・スピアが射出される！
ズガッッッッッ……ブシュッ！！
口腔を突き破った銛は、裏側からコアを砕いていた。
２つの巨体は、複雑にからみ合ったまま、その動きを停止した。
それまでの騒音が嘘のように、周囲に静寂が戻ってくる。
いつの間にか天頂に届いた半月が、雲の切れ間から姿を現すところだった。
「…目標、完全に沈黙。 パターン青、消滅しました」
日向の報告に、ミサトは全身で息を吐き出した。
「作戦終了。パイロット２人の救助、急いで！」
（つづく）