126

 

 

 

 

「いいわよ」

 

「…………え?」

 

ほぼ間違いなく、「行かない」という答えが返ってくるものと思っていたシンジは、間抜けな顔で聞き返した。

アスカは、リモコンでテレビを切って立ち上がった。

 

「なに馬鹿面してんのよ」

「え?」

「鈴原の妹のお見舞い、行くんでしょ」

「あ、う、うん」

「レイは?」

「ああ…えっと、ミサトさんと買い物。夕飯作るんだって」

 

それを聞くと、アスカは露骨に「ゲッ」という顔をした。

以前、カップメンにレトルトカレーをぶっかけたものを食べさせられて、ひどい目にあったことがある。

 

「…作るのは、綾波だと思うけど」

 

シンジがフォローを入れるが、アスカはまだ胡散臭げに眉間にしわを寄せていた。

 

「じゃあ、さっさと行くわよ」

 

早めに帰って、ミサトが手出ししないように見張ってなきゃ…と呟きながら、アスカはリビングを出た。

 

「戻って着替えてくるから、マンションの前で待ってなさい」

「あ、うん…」

 

ただのお見舞いなんだけど、わざわざ着替えるんだ…と愚にもつかないことを考えながら、シンジは続いて葛城家の玄関を出た。

 

「あ…」

 

外は、静かに雨が降っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

127

 

 

 

 

かつての四季でいう秋が来ても、この地の「夏」は終わらない。

 

午前中のうだるような暑さで、しんなりしている街路樹の緑を癒すように、細い雨が降っていた。

かすかな雨音が、ほかのすべての音を吸収してしまうかのように、静かな世界を生み出している。

雨滴のはねるアスファルトの上を歩きながら、シンジは少し前を行く赤い傘を見つめた。

彼女の乗機、あるいは髪飾りと同じ真っ赤な傘は、時折、端から水を滴らせながら、ゆっくりと回っている。

赤い色は、雨の世界にわずかに滲んで、どこか幻想的だった。

薄グリーンのブラウス。ベージュのキュロットから、すらりとした足が覗いている。

 

あまり、見覚えのない光景だな…と、シンジはぼんやり考えた。

雨の中を歩くのも、アスカが傘を差しているのも。

 

「…うわっぷ!」

 

アスカの傘がくるりと回って、それをぼーっと見ていたシンジの顔を水滴が直撃した。

 

「ちょっと、アスカ。傘回すのやめなよ」

 

顔を拭っていると、傘の向こうからアスカの顔が覗いた。

そして、絶好のいたずらを思いついたように、ニヤリと笑う。

 

「うりゃ、うりゃ、うりゃっ!」

「うわぁっ」

 

先ほどとは比べ物にならない勢いで、赤い傘が高速回転する。

とっさに自分の黒い傘を盾にするが、お構いなしに水滴が襲いかかった。

アスカは楽しそうに笑っている。

 

「ああっ、お見舞いが濡れちゃうよ!」

 

それを聞いて、ようやくアスカは傘を回すのをやめた。

 

「まったく、トロいんだから」

 

誰のせいだよ…と思ったが、口にするとまた傘が回り出しそうなので、シンジは黙っていた。

 

お見舞いは花にしようかと思ったのだが、もうかなり調子は良いと聞いたので、思い切って果物にした。

りんごやらバナナやらの入ったかごを確かめていると、アスカも足を止める。

 

「あのジャージ男の妹って、どんな子かしらね」

 

その言葉には、多分に興味本位なものが混じっている。

それで、ついてくるのをあっさりOKしたのかと、シンジは納得した。

 

「ケンスケに聞いたんだけど…トウジと違って、関西弁じゃないらしいよ」

 

それだけで、アスカは「信じられない」という顔で絶句した。

 

「そんなの、鈴原の妹じゃないじゃない!」

「………」

 

 

 

 

 

 

 

 

鈴原トウジの妹は、関西弁でもジャージでもない、小学校低学年の明るく元気な子だった。

まっすぐな黒髪と、わずかに端の垂れた大きな瞳が、少しトウジに似ていた。

退屈そうにベッドに半身を起こしていた少女は、シンジが果物かごを差し出すと、無邪気に喜んでお礼を言った。

病院で落ち合ったトウジが2人を紹介すると、彼女は目を輝かせる。

そして、

「鈴原ユキです!」

と元気に自己紹介した。

 

シンジは、少しためらって、「ごめんね…」と口にした。

それは、長い、長い間伝えられることのなかった、彼女のけがに対する謝罪の言葉。

ユキのけがは、第3使徒との戦いの際、シンジの乗る初号機の暴走の巻き添えをくって負ったものだった。

すると少女は、はにかみながら、あっけないほど簡単に許してくれた。

責める気持ちなど初めからなかったようだ。

逆に、トウジの方がシンジを責めたことを怒られていた。

 

「スマン。カンニンやで、ユキ…」

 

トウジは、この小さな妹にまったく頭が上がらないようだった。

かいがいしく世話を焼こうとする姿は、普段のトウジからはちょっと想像できない。

 

そして、もっと意外だったのは、少女がすっかりアスカに懐いてしまったことだ。

アスカの青い瞳と、気の強い喋り方は、これまで彼女の周りにはいなかったタイプらしい。

しきりに話をせがまれて、アスカはめずらしく困ったような顔をしていた。

「アスカお姉ちゃん!」とはしゃぐ妹を見て、トウジは複雑極まりない表情を浮かべる。

 

「…ユキが惣流みたいになったら、ワシ、死んでも死にきれんわ」

 

シンジは苦笑するしかなかった。

 

「元気そうだね」

「ああ…。再来週には退院や。近頃は退屈やゆうて、うるさくてかなわんわ」

 

そう言いながら、トウジは嬉しそうだった。

 

「そっか…。よかった」

「今日はおおきにな、シンジ」

「ううん。…僕の方こそ、来るのがこんなに遅くなっちゃって」

 

シンジは、彼女とこれが初対面であることをとても恥じた。

以前はなぜ、彼女に会いに来ようとしなかったのか。

会おうと思えば、いつでもそれができたはずなのに…。

シンジはもう一度、心の中で彼女に詫びた。

 

 

 

 

 

 

 

 

帰り道は、まだ雨が降っていた。

 

赤と黒の傘が、並んで揺れる。

 

「トウジがお礼言ってたよ。お見舞いありがとうって」

「…鈴原の妹にしては、まともな子だったわね」

 

澄ました顔で、アスカは傘を回した。

 

「アスカ、ずいぶん気に入られてたみたいだけど」

 

含み笑いをしながら、シンジは横を盗み見た。

アスカは、ぴたっと傘を回すのを止めると、表情を隠すように一歩前を歩く。

 

「…子供は苦手なのよ」

「え……?」

「それより!」

 

はぐらかすように、アスカはくりっと振り返って、シンジの顔に人差し指を突きつけた。

 

「最近あんた、この雨みたいに鬱陶しい顔してるわよ」

「え?…そ、そうかな」

 

シンジは、片手で自分の顔をなでた。

 

「やっぱり気にしてんの、あんた?」

 

 

 

 

 

 

 

 

128

 

 

 

 

ネルフ本部 第2実験場

 

7日前

 

 

 

 

「主電源、全回路接続」

 

「主電源接続。フライホイール、回転開始」

 

実験場の壁面に、紫色のエヴァが固定されている。

エヴァ初号機は、第八使徒との戦闘の3日後、ようやく司令の許可が下り、この日の起動テストにこぎ着けていた。

 

「次の使徒が来ても、これでなんとか間に合いそうね」

 

起動シークエンスの進むコントロールから強化ガラス越しに初号機を見やって、ミサトが皮肉ともつかない呟きを漏らす。

 

「稼働電圧、臨界点を突破」

「起動システム、第2段階へ移行」

 

ミサトの呟きが聞こえているのかいないのか、リツコは淡々と指示を進める。

作戦部がなんと言おうと、技術部にしろ整備班にしろ、この日を待ちこがれていたのだ。

何日、残業が続いたか分からない。

司令の指示とはいえ、使徒捕獲作戦に初号機を投入できなかったのは、彼らとしても無念であった。

おかげで、今度は弐号機が傷ついて帰ってくるはめになったのだから。

 

「パルス送信」

「全回路正常」

「初期コンタクト、異常なし」

 

弐号機の破損は、前回の初号機に比べれば、はるかにマシな状態だった。

強制的に切断された右足を除けば、基本的に、装甲の交換だけで事は足りる。

現在は、主として外部兵装の規格合わせのためにマイナーチェンジを施される零号機とともに、ケイジで修理が進んでいる。

 

「第2次コンタクト開始」

「A10神経接続異常なし」

「パルス、及びハーモニクス正常」

「双方向回線、開きます」

「初号機、起動しました」

 

どこからともなく、安堵の声が漏れる。

これでようやく、初号機が戦列に戻る。

 

「あれ……」

 

モニターを見ていたマヤが、首をかしげた。

 

「どうしたの?」

「あ、いえ……初号機、シンクロ率41.3%」

「え?」

 

モニターを確認して、声を上げたリツコは、ふとある可能性に思い当たる。

以前も、実験中に被験者が呆けていたため、同じような状況になったことがある。

 

まさか…。

 

同じような可能性に思い当たった者たちが、顔を青くした。

すわ、また赤木リツコ博士の雷が落ちるのか…。

 

「……シンジ君?」

 

黒い眉をぴくりと動かしながら、リツコはエントリープラグ内に呼びかけた。

しかし、反応は意外なほど早かった。

 

『はい、なんですか』

「え……」

 

リツコの顔が、一瞬にして真剣なものに変わった。

マヤに指示し、システムの再チェックを開始する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンジは、久しぶりに初号機の中にいた。

覚えているだけでも、こんなに長く初号機に乗らなかったことはないのではないだろうか。

 

『…シンジ君、調子はどう?』

 

リツコからの呼びかけの後、少し間を置いて、ミサトがモニターに現れた。

 

「はい、特に問題ないです」

 

レバーの感触を確かめながら、シンジは答える。

 

『いつもと変わった感じはない?』

「え? そうですね…久しぶりなんで。でも、別に違和感はないですけど」

『そう…』

 

少し、間があった。

 

『シンジ君、悪いけどもう一度最初からやるわ』

「え? あの、何か問題でも…」

『いえ、たぶんこっちの問題だと思うから気にしないで。それじゃ、いったん電源落とすわね』

「あ、はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どういうこと?」

「こっちが聞きたいくらいよ…」

 

思わず、懐のタバコに手を伸ばしそうになって、リツコは眉を寄せた。

コントロールルームは禁煙だ。

代わりに、マグカップのコーヒーを流し込む。

 

「システムに異常はないわ。チェックは事前に念入りにしてあるし。第一、問題があればテストは許可していない」

「パイロットの問題ってわけ?」

「そうなるでしょうね」

 

ミサトは、結局4回にわたって行われた、今日のテスト結果をめくる。

 

シンクロ率は平均40%。

パイロットに異常はない。ハーモニクスも正常。

本来なら、文句の付けようのない結果である。

第五使徒戦での戦闘結果を見なければ、だが。

 

すでに3カ月ほど前になるが、シンジがその時記録したシンクロ率は、今回の結果とは比較にならない。

瞬間的には、100%を超えていたことも報告されている。

しかし、この戦闘で初号機は多大なダメージを受けたため、長期の修理に入ることになった。

 

「でも、その後のシンクロテストでも、安定して高いシンクロ率を維持していたわよね?」

「…疑似プラグによるシンクロテストは、あくまでも疑似でしかないわ。初号機に似せた反応は返すけれど、決して初号機と同じではない」

「それにしたって…」

「そうね。…差がありすぎるわ」

 

とはいうものの、起動指数は十分に満たしている。

初号機のテスト自体は成功ということで上には報告した。

 

「思えば、第五使徒戦のときだけが例外なのよね。この数値って、それ以前と同じ水準じゃない?」

 

初搭乗となった第三使徒戦、二度目の第四使徒戦、いずれもシンジのシンクロ率は平均40%といったところだ。

データの上からいうと、第五使徒戦を入れなければ、今回の結果は正常ということになる。

 

「あん時だけ、まぐれだったー…ってことはない?」

「ミサト…。まぐれでシンクロ率は上下しないわ」

 

なははー、と笑うミサトを白い目で見やって、リツコはため息をついた。

 

「シンジ君は?」

「…さすがに、ちょっとショックだったみたい。沈んだ顔してたわ」

 

真顔に戻って、ミサトは心配そうに顔を曇らせた。

シンジがシンクロ率に執着しているとは思えないが、やはり、まったく気にしないというわけにはいかないだろう。

 

「そう…」

「でも、起動自体に問題はないし、実戦にも十分耐えられるわ。アスカは好調だし、レイだっているし…」

 

実際に、使徒が現れたとなれば、そんなことも言っていられない。

起動レベルを確保していれば、御の字だと思わなければ。

 

「しばらく、起動テストとカウンセリングを続けてみましょう」

「そうね。原因がわかれば、シンクロ率だって戻る可能性あるし」

 

…しかし、その後いくどか行われたテストでも、結果は同じだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…あたしには、エヴァが全てじゃない―――なーんて偉そうなこと言ってたけど、あんたの方が執着してるんじゃない」

 

赤い傘が、くるくる回っていた。

揶揄するような口調は、もしかすると、アスカなりに気を遣ってくれているのかもしれない。

シンジは、努めて明るく、口元に笑みを浮かべた。

 

「そうじゃないよ…。別にシンクロ率を気にしてるわけじゃないんだ」

 

しかし、すぐに憂いに取って代わられる。

 

「じゃ、なによ」

「いや……」

 

シンジは、無意識に視線を泳がせた。

 

「ちょっと、考えちゃって…」

 

最後は、独り言を呟くような感じだった。

 

「僕、どうしてここにいるんだろう」

「はあ?」

 

 

 

 

 

129

 

 

 

 

 

「あの…失礼します」

 

遠慮がちにドアをくぐったシンジは、思わず室内を見回していた。

リツコの部屋を訪れるのは、初めてのことだった。

いつものように白衣姿のリツコは、椅子をくるっと回して、シンジに向き直った。

 

「ああ、シンジ君。そこにかけてちょうだい」

「あ、はい…」

 

リツコの対面に置かれた椅子に、ぎこちなく腰を下ろす。

背もたれから体を浮かして、背筋を伸ばしているシンジを見て、リツコは細いフレームの眼鏡の向こうで、くすりと笑った。

 

「そんなに固くなる必要はないのよ。ただのカウンセリングなんだから」

「はあ…」

 

と答えてはみたものの、「カウンセリング」という言葉自体、敷居が高い。

それに、こうして向かい合わせに座っていると、病院で診察を受けているような気分になる。

女性と向き合って話すというのも、シンジは苦手だった。

 

「悪いわね。午後も授業があるんでしょう?」

「いえ…平気です」

 

実は、午後は水泳の授業だったので、抜け出せてほっとしていた。

 

「学校は楽しい?」

「はい」

「そう…」

 

口元に軽い笑みを浮かべたまま、リツコは手元のカルテのようなものに目を落とした。

シンジは、落ち着かなげに体を揺すった。

 

リツコに対して極端な苦手意識はもうないが、こうしているとやはり緊張することには変わりない。

ほとんどずっと生活をともにしてきたミサトと比べると、リツコのことは、あまりにも知らなすぎた。

ネルフ以外のことで話をした記憶は、数えるほどしかない。

それに、ミサトは今さらだが、リツコは「大人の女性」を強く意識させる辺り、シンジが居心地の悪い一因でもあった。

 

しばらく雑談を続けてから、リツコは本題を切り出した。

 

「それで、何か心当たりはあるかしら。…シンクロ率の変化について」

「いえ…全然」

 

それが事実だったので、シンジはそう答える以外になかった。

 

シンジにも、まったく予想外のことだった。

これまでと同じように、やっているだけだ。

しかし、数字には確実に変化が現れていた。

頭打ちしたように、40%そこそこから上がる気配がない。

かといって、シンジ自身に特別な変化があるわけでもないのだ。

 

「じゃあ…何か気付いたことはある? 些細な違いとか、そういうものでいいんだけれど」

「…それも、別に」

 

シンジは、少し首をかしげて、やはり同じように答えた。

 

「弐号機に乗った時と比べては?」

「それは…全然違いますよ。二人で乗っているわけですし」

「それは、そうね」

 

リツコは、キャップのついたペン先をあごに押しつけた。

 

「発想を変えてみましょうか。…そもそも、シンクロ率が急に上がったのは、何故なのか」

「え……」

「何か心当たりは…?」

 

リツコの目が、まっすぐこちらを見ている。

シンジは言葉に詰まった。

 

心当たりというなら、もちろんある。

シンジ自身が、おそらく別人だからだろう。

しかし、それは説明のしようのないことで、また説明できるわけがないことだ。

 

「何か、思い当たる節があるのかしら」

「いえ…」

 

シンジは、とにかく否定した。

黙っているのは、思い当たることがあると言っているようなものだ。

加持にしてもミサトにしてもそうだが、やはりこんな風に問いつめられると、ボロが出そうになる。

知るはずのないことを知っているとはいえ、考えることは中学生レベルでしかない。

リツコは黙っていたが、眼鏡の奥で何を考えているのか、シンジにはまったくわからなかった。

 

「では、何のきっかけもなく、突然、シンクロ率が上がったということ?」

「ええと……はい。……ただ」

「ただ?」

「なんとなく……一体感みたいなものは感じるようになりました」

 

これは、嘘ではなかった。

シンジは、訓練や使徒との戦闘を経て、やがてはアスカのシンクロ率を抜くまでになる。

しかし、現在のように、シンクロ率を思うように操れるようになったのは、最後の戦いの時だ。

実際には、操っているという意識もない。

ただ、あの長い戦いの中で、いつの間にか初号機との一体感を感じるようになっていた。

動こうと思わずとも、機体は手足のように動き、時にそれが過ぎるようであれば、気持ちを落ち着かせて抑制する。

それが、あの時だった。

意識してそうなったわけではない。

戦っている間に、自然とそうなっていた。

二度目の第五使徒との戦いの時は、その延長線上だった。

特別、シンクロ率を意識したりはせず、体が覚えているままに戦った。

その意味では、心当たりと言われても、なんとなくとしか答えようがない。

 

「一体感、ね…」

 

少し興味を持ったように、リツコは繰り返した。

 

「それで、今はその一体感を感じられないということかしら」

 

言われてみて、シンジは初めてそれを考えてみた。

エヴァに乗ることは、あまりにも自然になりすぎて、考えたこともなかったのだ。

 

「よく…わかりません。動かせはしますし。

 でも、言われてみれば、何か物足りないような気はします」

「そう…」

 

カルテに何か書き込んで、リツコは眼鏡を外した。

 

「シンクロ率が下がったのは残念だけど、気にすることはないわ」

「え?」

「今のシンジ君のシンクロ率でも、十分にすごい事よ」

 

シンジは、少し驚いた。

まさか、リツコから優しい言葉をかけてもらえるとは思わなかったから。

 

「ミサトが言ってたわ。前に戻っただけだ、って」

「戻っただけ、ですか…」

「気休めかもしれないけど、あまり気にしないことね。顔色、あまりよくないわよ」

「そ、そうですか?」

 

シンジは思わず、自分の顔をなで回した。

リツコは、小さく笑っていた。

 

「そんな疲れているところで悪いけど、この後、起動テストをしてもらいたいんだけど」

「あ、はい。わかりました」

「じゃあ、30分後に始めましょう」

 

カルテを閉じると、リツコはテーブルに置いてあったカップを取った。

シンジが来る前に煎れたコーヒーは、すっかりぬるくなっていた。

 

「あ…」

「ん?…シンジ君も飲む。新しく煎れた方がよさそうだわ」

「いえ…」

 

シンジが見ているのは、カップだった。

側面に大きく描かれたネコマークに、口元をほころばせる。

 

「…ミサトから聞いたのね」

 

リツコの猫好きは、知る人ぞ知る趣味だ。

そして、あっと気付いたような顔をする。

 

「もしかして、これもシンジ君の差し金?」

 

言って、引き出しからイリオモテヤマネコのキーホルダーを取り出してみせる。

 

「あ…」

「そうみたいね」

 

リツコは目を細めて、こわい顔をつくって見せた。

 

「い、いえ…綾波が選んでくれっていうから…」

 

しどろもどろになるシンジをジッと見ていたリツコは、フッと笑った。

 

「…なかなかいい趣味してるわよ。ありがとう」

「いや…僕はアドバイスしただけですし…」

 

恐縮しながら、シンジはなんとなくうち解けた雰囲気を感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、行った起動テストでは、やはりシンジのシンクロ率は変わらなかった。

 

 

シンジは、初号機の中で目を閉じていた。

こうしていると、あの時のことが思い出される。

それは、もう遠い昔のことのようにも感じられた。

 

長い、長い戦いだった。

指示を出すのは、ミサトではなく、マヤだ。

時折、副司令の声も聞こえる。

皆の声援だけをたよりに、延々と槍を振るった。

 

戦って、戦って、戦って…。

そして、敗北。

そのあとは、どうなったのか、まったく覚えていない。

一度だけ、目を覚ましたような気がするが、記憶がおぼろげではっきりしない。

 

そして、気がついたときには、アスカと二人だけだった。

あそこは、一体どこだったのだろう。

ただ、他に誰もいないことだけは、嫌と言うほど味わわされた。

 

口の中に、あのLCLの味がよみがえる。

それは、エントリープラグに満たされているLCLの味だったかもしれない。

 

短いのか長いのか、よくわからない時間を物言わぬアスカと過ごした。

そして…。

 

やはり、目を覚ますと、隣にはレイがいた。

それは、第五使徒との戦いの直前で…。

 

不意に、シンジは自分が立っている場所の頼りなさに気付いた。

エントリープラグの中だから、ではない。

あの時、自分に何が起こったのか、なぜあの場所にいたのか、まったくわからないことを自覚したからだ。

決して、今ここにいることを、この機会が与えられたことを後悔しているわけではない。

目覚めてから育んできたものに、迷いを感じているわけではない。

 

ただ、漠然とした不安を感じたのだ。

それは、シンクロ率が低下した影響かもしれない。

少し、弱気になっているのを感じる。

予期せぬことが続いていることも、一因だった。

歴史は少しずつズレを生じており、次の使徒がいつ来るのかも、まるで予測がつかない。

 

(母さん……?)

 

気が付くと、シンジはそう呼びかけていた。

この中に、初号機とともにいるはずの、母・ユイに。

答えはもちろん、返ってはこなかった。

 

 

 

その時、ネルフ内に警報が鳴り響いた。

 

『旧熱海方面に、正体不明の反応が接近中。繰り返す、正体不明の反応が接近中』

 

「使徒……!」

 

シンジは、勢い良く目を開けた。

 

 

 

(つづく)

 

お名前  mail

 ご意見・ご感想などありましたらどうぞ。

もどる