□投稿者/ westgenius 18回-(2005/11/22(Tue) 21:50:41)
少し前に全ルートクリアしたわけなんですが・・・。
まあなんと言うか理論とかについての難しい感想やらはおいときます。 私は「演奏者」としての自分が本職で、作る人としてはまあなんと言うか5流なので。 一応理論も勉強しましたがすべて必要に迫られての物なので民族音楽は弱いんです。 (しかしクラシックも大きく言えばヨーロッパの民族音楽ではあるのだけど) だから感覚的なことについて書きます。
こんかいの風雨来記2は沖縄音楽との交わりが印象的なわけですが、まあなんと言うか良くまあ手を出しましたねと思います。 私だったら裸足で逃げ出しますよ。(ホントヨ) 何故かと言うと・・・。
まあ主観なんですが、一般的にこういう地域的な民族音楽は感動のベクトルが一般的になってしまった音楽とは違うんじゃないかと思うわけです。 自分でも何を言いたいのかは良くわからないのですが・・・。その血と時代に反応すると言うか・・・。
グレゴリオ聖歌、ガムラン音楽、能、狂言、その節回し、またはそれらの日本の伝統芸能のバックでかかってる音たち、または雅楽、南方で焚き火をかこんで踊りながらたたく太鼓。 その他聴いた事も無い世界に点在するであろう旋律。 またある意味で言えば調性を捨ててからの現代音楽。 楽しむためであった物もあるだろうし祈りのためでもあっただろうし新しい時代を開くためだったかも知れない、流れていった音楽たち。
そのような今一般的な日本人が耳にするであろう種類の音から外れた物を使うのはすごい賭けだと思う。 今の我々の調性感覚を舐めてはいけない。 今我々が一般的にクラシックだと呼んでいるのは大体17、8世紀以降の音楽である。 和声の教科書なんかはそのとき作られた音楽を基に作っているわけだが・・・。
それ以前にも音楽は作られていたわけだから当然理論書の類などはあった。 7,8世紀や11,12世紀などいろんなときに作られている理論書。 そこには和声の教科書で認められている音たちも心地悪い物として書かれており認められていない。 当時の人たちはモーツアルトを聞いてもあちこちに不協和音だらけで気持ち悪いと感じたと言うことだ。 またチャイコフスキーはいまやそのロシアの息吹と融合されたロマンチシズムが人を問わず人気だが当時はロシアの馬小屋臭いなどと言われたと言うのを聞いたことがあるような無いようなはれひれほれ。
まあそこまで極端にせずとも日本での作曲家の人気を見ればわかる。 ロシアで言えばチャイコフスキーはロシアの香りはあるがかなり西洋音楽的に傾倒していった結果西洋音楽としての馴染みはヨーロッパよりも薄いにしてもそれを一般的な感覚として持ってる日本人にも受け入れられやすい。 しかしラフマニノフやチャイコフスキー的なロマンチックなロシア作曲家が好きという人でもさらに国民音楽色を強くしていったロシア五人組みと言われる人たち(バラキレフ、キュイ、ボロディン、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキー)の曲は一部は有名だがそれほど知られているとは言いがたい。
ある超有名な作曲家が言っていたのを聞いたのだが南方の土人もアラスカに住んでるイヌイットも程度の差はあれ暑い場所を暑いと、寒い場所を寒いと思うようにいい音楽にはいいと思う力があり名曲は人を感動させる力がある、とか言っていた。
しかしいくらなんでもそんなことは無いと思う。音楽にも国境はあると思う。 前に述べた言葉の「程度の差」はハッキリ言って馬鹿にならない物なんである。 それこそ皮膚感覚なんかとは比べ物にならないほど。
音楽に力があるだけなら同意できるが・・・。
しかしそれでもその民族音楽にあるなんだかよくわからない成分に素人でもふと感動してしまうこともあるのもまた事実。
それは土の匂いを感じると言うかそんな感じ、でもやはりハッキリとわかるわけでは無い。微かに通り過ぎるだけである。
その土地の人に成りきったときにこそその音楽の本当の感動は伝わって来るんだと思う。 南方の土人の太鼓も今渋谷を歩いている女子高生に聞かせてもわかんない〜、であろうがそこの土地の人は同じ物を聞いて楽しいのだから。 まあ例えが悪いか・・・。理解する気の無い奴は何を聞いても無駄なのだろうから。
あー何が言いたいかわかりにくいと思うけど、極端に言うと民族音楽は本当のトランスミュージックとしたほうが解りやすいかもしれない。 もちろんパチンコ屋で流れている流行歌のトランス物ではない。 あんな物でトランスするならドラッグや酒や病気によるトランス状態のほうがまだ上等だと思う。 (これはわたしがJ−POPの特定の誰かが嫌いとか言うことでなくトランスって言うジャンルが嫌いなだけ。ファンの人ごめんね)
そうではなくそこに生きる物としての土地との生活との一体としての音楽なのかも知れない。 そういう民族として人と土地と生活のカオスとなった上でのトランスと言うか・・・。 でも俺グレゴリオ聖歌でもトランス状態は入れるしなぁ・・・。 あのね、こう脳にくるんよ、ずっと聴いてると。エッヘッへ。
いかん、自分で言っていて収拾つかんくなってもうた。
さて脱線したけど音楽を風雨来記2に戻す。これはゲーム音楽なんですよね。
一般的にこういうバックで流れている音楽は大本を楽しませるためである。 映画音楽がわかりやすい。映画音楽はその場を盛り上げなくてはいけないのだ。
たまにクラシックのマーラーやラフマニノフの音楽が使われるがアレはちょうどいいのである。ヴァーグナーではきつすぎる。 まあヴァーグナーは劇音楽みたいな物が多いけどアレはそれ専用って感じだしね。
こういうものは流れていかなくてはいけないのだ。強すぎてはダメだ。 (しかしそういうことになるとマーラーやラフマニノフは単体の作曲家としては力不足かもしれない。在り方の問題かもしれないが。)
それに対して民族音楽はそれ単体が楽しむためや祈りのためやまあいろいろあるがつまり何となく思うのは少なくとも場面を盛り上げるためではない。 あ、でも祇園精舎ノー鐘ぇノー声ーベベンー所業ー無常のー響きィーありーベベン。 というのもあるな。 でもしいて言えば映画音楽のようなものとは正反対なあり方だと思うのだ。 なんとなく。
それを合わせると言うのだから難しい。 民族色を出しすぎては話の盛り立て役としては使えないし(想像して欲しい。風雨来記の最後の感動すべきところで延々と流れるガムラン音楽や土人の太鼓・・・。いや沖縄関係ないけど・・・。まあ蛇皮線が単体でぺけぺけなっててもなんだかなぁ・・・。)ただ音色をそうするだけも意味は無い。
音色さえ押さえればいいわけではないがもちろん旋律さえ抑えればいいというわけでもない メロディーだけ使ってカッコいいと感じる感じにしてはダメなんである。
旋律は同じでも音色がエレキでギュギューンっとカッコいいなワシらえいえいおーどうだ文句あるか今後ともヨロシクと言うか社会に反抗する俺らカッコいいぜー ではダメなわけだ。
あくまで民族的な音と空気を出しつつ場面を盛り上げなきゃいけない。
うむむ。そんなことすれば上手く行くのは考えにくいんですが・・・。
いいんだよな、なんでか。なんでだろ。
と言うところで思ったのが合わせたのが嵯峨さんのいつもの音楽だったからと言う所にあるのではないかと思うんですよ。 これは嵯峨さんの合わせるセンスが凄いと言うことじゃなくて、あ、別にセンス悪いだとかそういうわけではないですよ? むしろ良いですから。
そうじゃなくて普段の嵯峨さんの音楽の持つ力に秘密があるのではないかと・・・。
むむむ・・・。となると今までの嵯峨さんの音楽の魅力の秘密も今回崩れなかったところからも探れるかも・・・。
・ゲームやってるときに涙腺を緩まさせる。 ・心地いいところは心地いい。 ・露骨じゃない。 ・ドラマティックな所はドラマティックに。 ・後でサントラ聞いてまたポロポロ。
・・・・・・えへへ、わからん。(なんやそれ)
しかし思うのはこれはとても悩んだんじゃないかなーとは思います。 少なくとも私なら悩んだ末鬱になって夜逃げくらいはするでしょうかあるいは安易に適当に作って出したかも。 (コレモホントヨ)
???? 自分で書いてても良くわからん。 っつーかさらに収拾つかんくなってもうた。ごめんなさい。
と言う訳でゲーム感想に逃げる。 超長文ごめんなさい。 あと一応書いとくと以下ネタバレ。
風雨来記2というゲームで主人公が同じな以上いい意味で今回はこれ以外の展開はありえなかったんじゃないかと思います。
感動的な景色がある。 多くの場合本当に美しい景色はそれが何のためでもなくその自然の為だから自然自身が美しいのだけど。
昔見た風景が心の中に残っていることがある。 それはその人の人生の中で人生を決めるほどの物を見るとそれを求めて旅に出ることになる。
人生を決めるような風景を見るために旅に出たのにいつからか自分の人生よりもそれを求めるようにもなってしまう。
きれいな星空、泣けてくるほどの景色を見たときに誰かにその感動をだれか伝えるにはどうすればいいか。
絵や写真はいらない。音楽も言葉もいらない。
そのためには自分がかわるしかないのだし、かわらさせられてしまう。
前回の轍君が色々青かったのにたいして今回は人間的に成長してた。
だから今回はその上で話を作るしかないんだからまた前回と同じような精神の葛藤で話を作るわけにはいかない。
曲も前回は心情表現みたいな曲多かったですよね。 星空の景色の下のキャンプしてる曲でもそこに居る自分が表現されてるみたいな。
具体的に言うとソレソシドシソレシドラファミーって奴とか。 (ワカルカ・・・イアワカランネゴメンアノキョクスキヤノヨ)
別のお話しにするなら今回みたいな展開しかなかったと思います。
誰かと共有したい美しい時間もその時間を求めるあまりさらに一人で旅に出てしまうかもしれない。 でもそれは居ない誰かが居ればと最高の瞬間を幻視すること。
今回も轍君は暖かい場所を捨てて旅に出た。
それは届かない星に手を伸ばすのと同じ。
そして長い人の歴史で究極に知りたいことを知ろうとしても結局は屋根の上から星空に手を伸ばすくらいの進歩。
でもだからこそ感動できる心がある。 その人の知識の浅さが感動を呼ぶのだから。
たとえばファウストが若返りたいと願ったのならファウストはまだファウストではなかっただけ。 そもそもファウストとは実在したとも言われるがゲーテの作中ではすべてを極めた賢者の偶像。 そんなものが存在したらそれは生きていく力を失ってあとはただ腐っていくだけなはずだから。
今回もいろんな風景が出てきたけど、それを感動するかというテーマもあった。 でもその自然が語りかけてくるものは、それを見るものの心の風景にあるのだから。
自分もその宇宙の中に浮かんでるわけだから。
その意味では今回は娯楽性も含めて最高の「風雨来記2」だったと思いますよ。
でも轍君の「うほっ」っていう言葉使いはどうかと思う・・・。 あ・・・そういえば一人旅ルートしてねえや、しなきゃ。
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