熊の平駅で慰霊祭 |
1999.6.6 |
●6月9日午前9時半より、旧熊の平駅跡で地滑り災害の50回忌慰霊祭が行われます。松井田町内の13寺院すべてが協力し、約50人が参列する予定です。 ●災害の概要 1950年(昭和25年)6月8日20:30分頃、熊の平駅構内の第10号トンネル出口(アプト式旧線)で約3,000立方mにおよぶ土砂崩れが発生し線路が埋没。夜を徹しての復旧作業が直ちに開始されました。しかし、翌6月9日06:06分、さらに約7,000立法mにおよぶ大規模な土砂崩壊が発生し、復旧作業中の職員と駅前にあった職員用宿舎5棟を直撃。作業中の職員38名と宿舎にいた家族12名の合計50名が死亡、24名が重軽傷を負うという大惨事になってしまいました。 降り止まぬ雨の中、生き埋めになった方々の捜索作業と復旧作業が必死で続けられました。最後の遺体が発見されたのは22日、貨物列車の開通は20日、旅客列車の開通は22日でした。 国鉄当局と職員の浄財により殉難現場に「熊の平殉難碑」が建立され、一周忌である1951年(昭和26年)6月9日、一周忌法要に続いて碑の除幕式が行われました。 1968年(昭和43年)12月にそれまでは線路をまたいだ山側にあった殉難碑は、参拝者の安全確保のため現在の位置に移設、翌年11月には霊堂が建立されました。 参考:八木富男著「碓氷線物語 急勾配とのたたかい」 あさお社刊 | |
熊の平殉難碑 | |
殉難碑・霊堂全景 |
碑文 昭和25年6月9日の朝、この静かな碓氷の山峡に山崩れが起きて作業中の職員と家族を一瞬にして埋め去りました。 鉄道の安全を守って犠牲になられた五十のみたまにゆき交う人々と共に哀悼を捧げたいと思います。 日本国有鉄道総裁 加賀山之雄 この碑は全国の国鉄職員から寄せられた浄財をもって建立されました。 あの大事故によって殉難された方々のみたまを永久に祀らんとするものであります。 日本国有鉄道高崎管理局 国鉄労働組合高崎支部 |
|
殉難碑の母子像 分部順治氏作 犠牲者の中には、生後間もない赤ん坊を抱いたまま母子ともに亡くなられた母親もおられました。この像はその母子をかたどっています。 事故後、新線の開通・アプト旧線の廃止、そして一昨年の同区間廃止に至る歴史を、この像は静かに見つめ続けてきました。 |
旧熊の平駅構内は立入禁止ですので、一般の方の見学はできません。 また、沿線は警察によるパトロールが強化されていますが、付近で不審者もしくは停車中の不審車両を見かけた方は警察に通報してください。 ※上記画像は1999年5月14日、松井田町の許可を得て撮影・掲載したものです。 なお、通常は一般の方に現地立入許可が出ることはありません。 | |
ニュースTOPへ戻る |