陽雲寺

よううんじ

元久2(1205)年の創建と伝えられ、初めは唄樹山満願寺と称した。 元弘3(1333)年新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立し、新田勝軍不動堂などと称された。 天文9(1540)年金窪城主斎藤定盛が諸堂を修復し、寺名を崇栄寺と改めたが、 天正10(1582)年の神流川合戦の兵火で焼失した。
天正10年の武田氏滅亡後、信玄の甥信俊は徳川氏に仕え、天正19年川窪与左衛門と名乗ってこの地に八千石を与えられ、 養母である信玄の夫人を伴って入封した。
信玄夫人は当境内に居住したが、元和4(1618)年に没した。夫人の菩提を弔うため 法号である陽雲院をとって寺号を崇栄山陽雲寺と改称した。

(2000.1.9)

境内奥に陽雲院の墓がある。

(96.12.8)

参道入口に、新田義貞の家臣で金窪城に居した畑時能[はたときよし]の供養塔がある。 時能は長瀞町の出身で義貞死後も南朝方のために戦ったが、暦応2(1339)年越前で足利方に討たれた。 従臣児玉五郎左衛門光信が時能の首級を携えて敵陣を脱出し当地に持帰り供養したという。

(2000.1.9)

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