関ヶ原与市の墓(伝)

せきがはらよいち のはか

関ヶ原与市は平安末期の関ヶ原の郷士であり、 この地を開拓するために水利を求めて「与市堀」を掘ったと伝えられる。
またの名を藤原基清といい、京の粟田口で牛若丸に汚水を蹴上げて殺され、 関ヶ原に墓を建てた、と謡曲で謡われている。
明治十五年、鉄道が関ヶ原に敷かれたとき現在の駅の西辺りから、 この大きくて古い五輪塔が出土した。すると誰言うとなく、
「これこそ関ヶ原与市の墓だ」といい、今もそのように信じられている。
(関ヶ原歴史を語る会案内板より)

茶畑の中に宝篋印塔の笠石と台石だけが残っている。

(1998.5.10)


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