DEATH AND REBIRTH
新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生
感想と考察




題字の通りです。思った事、感じた事をつらつらと書いてみました。
多少記憶違いの部分があるかも知れませんが、
その時は遠慮せずに指摘してください。
尚、かなりネタばれがありますので、まだ映画を見ておらず、
先を知りたくないという方はご遠慮ください。




それでは、いきます。


『DEATH』篇

他の人の感想を見ると、「テレビシリーズを見た人じゃないとわからない」とか、「わざわざ総集編をやることに意味があるのか」という感想が結構多いのが気になります。
私に言わせれば、「テレビ放送終了から1年間、あなた達は結局何も変わらなかった、メッセージを理解しなかったのだ。」という事です。
ただ、人から与えられるのを待っているだけ。自分からは何も求めようとしない。
「エヴァ」というのはそんなに親切な作品ではないはずです。本気で楽しもうと思うなら、何度も見直し、自ら情報を求めなければならない。
「商業主義だ!」と罵るならそれもいいでしょうが、私は敢えてそれに乗りました。制作者が血を流してくれたなら、私も血を流そう。金を出すに値するだけの作品を提供してくれたのだから。
つまり、劇場版を本気で楽しもうとするならば、劇場版が完全オリジナルではなくテレビシリーズの真の続編であるというのならば、テレビシリーズを一通り見てから来るのが礼儀というか、本来の姿なのではないのでしょうか。
でも、それを全ての人に強制することはできない。エヴァが放送されていない地域もあるわけだし、テレビシリーズ終了後の盛り上がりや、深夜の再放送でエヴァを知ったという人もいる。そんな人達のために、この『DEATH』は制作されたのではないのでしょうか。
だから、エヴァを初めて見る人にはわかりにくく(私達がエヴァをテレビで目の当たりにした時、最初のエアチェックで理解できましたか?恐らく何度もビデオを再生して理解を深めていったはずです。)、既にエヴァに濃い人には物足りなく感じられるのは、いわば仕方のない事なのでしょう。
ということで、私は『DEATH』の在り方や内容については文句はありません。

ただ表面的な苦言を言えば、テレビシリーズのフィルムを流用している以上仕方のないことですが、リテイク部分とそうでない部分の作画の差が激しい。大画面のスクリーンのために、どうしてもアラが見えてしまうのです。あと、音響。フィルムの台詞に「終わる世界」などで使われた台詞が被さる表現はいいとは思うのですが、如何せん映画館向きではないと思いました。ドルビーサラウンドの新しい使い方といえばそれまでですが。


『REBIRTH』篇

まず大論争になっている冒頭のシンジの自慰。
「ショックだった。」「なぜあんなシーンを入れたかわからない。」
といった意見が多いですが、まず前者については、『余りにもリアルな』シーンであるためでしょう。
この場合のリアルとは、少なからず興味のある少女(「瞬間、心、重ねて」で、既にシンジはアスカにキスをしようとしていた)と2人きり、しかもその少女は自分を意識することなく、あられもない姿を晒している、となれば、健康な14歳の少年なら当然あのような行動に及ぶに違いない、という意味です。人間は真実からは眼を背けたがる。「毒がなければ免疫がつかない」の庵野監督の言葉も引用できるでしょう。
あとは、同人誌やインターネット小説で作られたシンジの「純情な少年」というイメージを壊したかったのかも知れないという、うがった見方もできますが。
問題は後者。私は、このシーンは『REBIRTH』の最重要シーンだと思います。話は飜びますが、なぜシンジは自らの命の危機にも抵抗しなかったのか、ミサトに対して「もう死にたい」と言ったのか、私はこう考えます。
本能に任せ、射精するシンジ。終わって「最低だ、俺って・・・」という言葉を吐きますが、まさにこの時のシンジは罪悪感で潰されそうになっているのでしょう。無抵抗のアスカを犯してしまったという意識で。やがて、その罪悪感の対象はアスカのみでなく、女、人間、周りの世界へと広がっていきます。
「他人に嫌われるのが怖いんだ」。疑心暗鬼。いつも通り振る舞ってくれているが、本当は僕のした行為を知っているのかもしれない。口や態度には出さないが、僕のことを内心馬鹿にしたり、白い目で見ているのかもしれない。「自分が傷つくのが怖いんだ」。
心労の溜まったシンジがこれくらい考えても不思議ではないでしょう。罪の意識に押し潰されそうだ。消えてしまいたい。そして、シンジは『消極的な死』を願った。
なぜシンジがいままで以上に殻に閉じ篭ってしまったかの答えが、このシーンにあると感じました。

次に、各国MAGIタイプによるMAGIオリジナルへのハッキング。
私はいたく気に入っています。貧乏学生の私にビデオ購入を決心させたのは、「使徒、侵入」のMAGI侵入シーンといっても過言ではありません。しかも、ほとんど新作映像。ぜひじっくりコマ送りで見たいものです。
リツコの「母さん、また後でね。」の言葉も意味深です。

そして、戦自のネルフ本部突入。次々に殺されていくネルフ職員。感じたのは、「ごまかしのない映像」ということです。妙なオブラートに包まず、淡々と表現する。感情論的な嫌悪はありますが、もはや善も悪もない。戦自はネルフを「サードインパクトを起こそうとした人類の敵」と見なしているし、ネルフや私達観客からすれば戦自は「無慈悲な虐殺者」という事になります。それと、良くも悪くもミサトさんです。確かに殺される寸前のシンジを救ったミサトは最高に格好良かったです。しかし、私が一番眼を背けたくなった瞬間も、ミサトの命令で通路に注入されたベークライトにネルフ職員の死体が沈む瞬間でした。

あとは、アスカ復活&弐号機大活躍。「死にたい」シンジと「死にたくない」アスカ。全てはここにありますね。ふっきれたようなアスカの活躍。痛快以外の何物でもありませんが、この後が心配ですね。
アスカの復活の仕方に疑問を持つ人が多いですが、確かに簡単過ぎではあります。でも、復活のきっかけが「母親の愛情」という意味では間違ってはいないでしょう。本当はもっと時間をかけて表現したかったところなんでしょうが、「違う、こんなのわたしじゃない!」の場面のように一部から文句がつきかねませんからね。

夏に期待することは・・・とにかく、アスカ・ミサト・マヤ・シゲル・マコトを殺さないでってところですか。あ、そういえば夏にまたあの虐殺シーンを見ることになるのか・・・


で、最後に。「映画として失格だ」とか、「未完なら上映するな」といった意見について。
私は映画人ではないので偉そうなことを言えませんが、敢えて言わせてもらえば、前者については、そもそもテレビで放送されたものの続きを映画にするのがおかしいのであって、無理に映画という枠の中で話をしようというのが間違っていると思います。映画館でやるテレビ作品と割り切った方がいいのではないでしょうか。そう考えれば、最後の引きも充分納得できるいいところで終わっていますから。
後者については、見に行かなければよかったのです。映画館にも完結は夏になったと張り紙がしてありますし、色々なところで完結延期の情報は流れています。それらを一切知らなくて映画を見たというのなら仕方ありませんが、知っていたのなら既にそれについてとやかく言う権利はありません。途中で終わるのはわかっているのですから。わかっていて、それでも少しでも新しい映像を見たくて足を運んだのでしょうから。


以上、私の私的な意見でした。かなりめちゃくちゃなことを書いてますが、これでもまだ最初に書きたかったことの半分も書き切れていません。
未完だろうと何だろうと、私は見る価値があると思います。それなりのポリシーがあるのなら別ですが、人の噂や評判だけで見ない、というのはもったいないと思います。迷っている人は、とにかく映画館に足を運んでください。「何かをしないで後悔するよりは、何かをして後悔するほうがいい」ですから。それでは。

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