渡辺ヤスヒロ
0.ゴミは投げられた。
もう何度目かの同じような放物線に沿って飛んだ紙くずはごみ箱をかすめて壁で跳ね、床の上で動きを止めた。
ちっ、また失敗か。よし、今度こそ‥‥。
‥‥
はっ!!!何をやっているんだ俺は。こんなことしてる暇なんてないのに!あーもうこんな時間だし。やんなっちゃうなーもう。ほんっとうに俺ってばかだなあ。
1.人はつまらないことをすることがある。
ごみ箱にゴミを投げ入れることに失敗した場合に、人はそのゴミをごみ箱まで運ぶのではなく元いた位置に戻って再度投げ入れようとする。こう言った行動を取る場合が存在することを否定する人はいないだろう。実際にこちらの調査でも「そうそう、良くやるよね。」とか「分かる分かるその気持ち。」と言った賛同の声も多く聞くことができた。別に「ごみ箱にゴミを入れる」と言った特定した行動のことではなく、「人は自分に対して全く利益にならないと思われる行動を取る」ことがあると言うことである。例えば、手の上でペンを上手く回せずに繰り返すとか手近なものを何度も並べなおしたり積み上げたりするとか髪や爪をいじりだすとかさいころで好きな目が出るまで振りつづけるとかでも構わない。とにかく何かそれまでしようとしていたことやしていたことを中断してまで、ほとんど役に立たない行動に出ることである。そしてそういった行動は本人の意志とは無関係に続けられることがある。なぜ人はつまらない行動を取る衝動に駆られるのか。また、なぜ人はそれを続けているのか。その論理的な解明が本稿の目的である。
ただし無意識のうちに出てしまう行動にはくせと呼ばれるものがある。今回はそういった長年身についているために出てしまう行動ではなく、原理をはっきりさせるためにもより複雑でより無駄な行動、代表的な例としては「ごみ箱にゴミをいれる」という行動を研究対象とした。
2.人はつまらないことを始める。
なぜ続けているのかと考える前になぜ続けはじめるのか、そのきっかけは何だったかということにまずは着目するべきである。
「ごみ箱にゴミを投げ入れる」動作はなぜ発生したのか。この場合に必要な環境はごみ箱、ゴミ、投げ入れねばならない距離の三点である。なにかしらの理由によって出来たゴミをごみ箱に入れようとする。ここには何の意志も感じることは出来ない。至極当然なほとんど条件反射のようなものである。次に「投げ入れる」という動作が行われる。ゴミをごみ箱に入れたいがごみ箱まで行くのが面倒くさい又はそのための時間も惜しまれると言った状況が考えられる。そしてゴミは投げられる。しかしゴミはごみ箱に入らない。
忙しい又は面倒くさいと思うのならばそのままそのゴミを放置すると自然に考えられる。部屋が散らかるのを嫌ったり当初の目的通りごみ箱にゴミを入れたければ、ゴミを拾いごみ箱まで近づいてゴミを確実にごみ箱に入れると言う方法も考えられる。しかしここで行う行動はゴミを拾いに行った上に元の位置まで戻りゴミを投げ直すのである。そのままごみ箱まで行かないのは早く元の作業に取りかかれるから席に戻ると考えられるが、ゴミを持って戻るとなるとこの考えも当てはまらない。では一体何なのか。
ここで考えられるのが行動の価値と失敗への恐怖である。「ごみ箱にゴミを投げ入れる‥‥簡単なことだ‥‥出来て当たり前だ。」と言う図式が無意識の内に出来上がる。そして失敗する。「こんな簡単なことを失敗するはずがない‥‥今のは何か必然的に失敗する原因があったに違いない‥‥もう一度やれば必ず成功する。」と考えてしまっていて「今のはなし」という結論が出たに違いないだろう。そしてさらに「自分はこんなことも出来ないような人間ではないはずだ。」と無意識に恐怖すら感じてしまうこともあるかも知れない。だから再び同じ状況を作りださねばならないのである。
この現象は簡単であれば簡単であるほど、つまらないことであればつまらないほど大きな力が働くと考えられる。また、その時にしていた作業との価値に差があればあるほど強くなるとも考えられる。締切りが迫っているなど心に余裕の無い時ほど(短気な人ほど)そう思い易く、その気持ちは大きくなるだろう。元々やらねばならない作業の価値とくだらない動作の価値の比の大きさ大きいほどつまらない動作を続け始める推進力、起爆剤となっていると考えられるのである。
3.人はつまらないことを続ける。
大抵の場合において一回目の失敗には特に理由はない。それほど簡単なことではなかったのであるが、目的がくだらないために価値と難易度とを見誤って、簡単なことのように感じていたりするのである。従って当然のように二回目も失敗することになる。何の考えもなく回数を増やしても成功することはないと言って良いだろう。無意識に始まった行動は無意識に続けられるのである。
一度走りだした車が急に止まったりできないように繰り返す行動にも慣性が付く。N回繰り返した行動はN+1回目も同じように行われるのである。始まった原因を考えれば同じように繰り返すだけではなく失敗が続くことによって加速されているとも考えられる。繰り返す回数が増えるほど自分の価値を下げていると言う恐怖は大きくなり、着実な推進力となるだろう。
そこでは初めは元の作業を考えながらゴミを投げているために完全に無意識の部分によって行われた動作が繰り返すことによってその行動のために脳内に占める無意識の領域が大きくなって行き、いつしか全身全霊を掛けていく様がある。失敗のまま終わることはもはや許されなくなっていくのである。それは生ぬるい成功すら認めなくなっていて、満足できない成功は失敗としてしまう。費やされた労力やエネルギーに見合うだけの、努力によってのみ報われる形の成功でなくてはならなくなるのである。例えばついうっかりゴミを拾い損ねてごみ箱へ入れてしまった場合にはゴミをごみ箱から拾い出してまで元の位置へ戻るように。これはもう既に慣性つきまくりな暴走している状態である。必至になって同じ動作を繰り返す様は、非理性的(感情的)無意識が理性的意識(自我)を崩壊、喪失させている。
この状態は、人の脳の中に残るタマネギの皮を剥き続ける間抜けなサルの脳の部分が起こさせているのではないかとも考えられる。ヒトとして進化するまでの記憶が脳の中には残っているという説がある。例えばワニの残虐性がヒトにあるのは爬虫類だった頃の記憶が脳の中にあるからだとかいう話である。サルの方がヒトには近い。同じような動作をするのならば脳が同じ働きをしているとも考えられる。つまり繰り返す無意識とは動物的本能、野性そのものだったのである。繰り返しているうちに理性的な自我がその無意識に負けて、行動するための脳内活動すべてを占領されていると言うことは動物的本能に負けて野性に帰っているのである。
4.つまらない動作を繰り返すことへの抵抗と終了
失敗し続ける限り繰り返される動作もいつかは終わる。期待通りの成功による終了はもちろんのこと、そうでなくても繰り返しはいつかは終わるのである。それは目的が達せられないで終わるための抵抗力が存在していることを意味する。前述の強い衝動に駆られて繰り返す動作を止めさせる程の力とは何か、まず考えられるものは本来やらねばならないことが更にひっ迫されて優先されるという環境的なもので、次に考えられるのは時間による体力的、精神的な消耗である。全身全霊を掛けるほどの集中を長く続けるための消耗は非常に大きいと考えられるだろう。不本意ながら諦めるということであるが、「これだけ努力したから(たとえ結果は負けであっても)十分満足した」というスポーツマンシップな気持ちもあるかも知れない。当初の「ゴミをごみ箱に入れる」と言う目的が「(イメージ通りに)ゴミを投げてごみ箱へ入る」になり、更に「(気が済むまで)ゴミを投げ続ける」と変化していったために最終的な目的が達せられたと感じているのである。
繰り返しが動物の本能的無意識によるものであるならば、理性的自意識(自我)が当然抵抗として考えられる。意識がどんどん本能的無意識に占領されていくと説明したが、残る理性的自意識は当然反発していると考えられる。理性的に見て合理的でない行動を続けることは明白に無駄である。この理性的な意識はともすれば簡単に本能的な無意識に敗北するが、気を静めて客観的な自己観察をすれば勝つ見込みがないではないと言える。非合理な行動をつまらないと自覚し、無意識に行っていた行動を自我の芽生えによって制止する。本能のみで生きているわけではない人間の理性の勝利がここにあるのである。「はっ!俺は今までなにをやってたんだ。こんなことしてる場合じゃなかった。」なさけないけど勝利。
5.人はなぜつまらないと自覚しても続けるのか。
しかしたとえつまらないことを自覚しても動作を止めない場合が存在する。
動物的本能による成功への欲求が満たされない場合には、くだらないと分かっていてもとにかく成功して終わらせようという感情になって残るのである。その場合には全意識の中で理性的な自意識の占める部分が早く終わらすべく成功のための難易度を下げる働きをすることがある。「後1回やったら止めよう」と回数を決めて、自らを追い込むこともある。これらは理性の側による終了の一形態としてすぐには終わらないが終わりに確実に近づくものと捉えられる。
では自覚すれば確実に終わりに近づくかというとそうでない場合もある。
大抵の人は、「俺は馬鹿なことしてる」と気が付くことは「自分はなんて馬鹿なんだ」と言う自己発見であり、それを修正する機会があたえられているわけである。したがって通常は「俺は馬鹿じゃないんだからこんなことやってられない」という結論に達するために止めることになるのだが、ここで「なぜ自分は馬鹿なことをするのか」と言う命題を逆措定して「自分は馬鹿なんだから仕方がない」と自己評価する結論が出てしまうと止めるどころか返って拍車が掛かってしまうことも考えられる。行動の無価値さが自分自身の価値まで転倒させてしまうまさに価値の転倒である。
6.つまらない行動の成功報酬
では果して成功した場合にはどのような現象が起こるのであろうか。
自意識によりつまらないと自覚する以前に成功した場合には、それまでの努力が実ったわけだから注ぎ込んだエネルギーに見合う十分な満足が得られるのだろうか。実際はそうではない。成功した瞬間はわずかに満足するが、その直後にその検証が行われるのである。「今までやっていた行動はなんだったのか」という疑問に対して、当然その理性的な回答は「つまらない、くだらないもの」であり、成功したとしても何ら得られるものはないということである。そうした評価の結果、「ああ、自分はなんてつまらないことに無駄な労力と時間を費やしたのだろう」と感じる上に途中で止めなかった自分に対する自己嫌悪に陥ってしまうのである。
予測以上の結果が得られることもある。この場合には費やしたエネルギー以上の成功のためにその差分だけの幸せな気分が味わえるのではないかと考えられる。その後に同じような自己嫌悪が来ることがあるとしても小さいものであり、その後の作業に悪影響を残すことはないと言えるだろう。結局無駄なことをしていたことには変わりはないので後々、あの時あんなことしなければという気持ちにならないとも言えない。勇気を持って止めておき、すっかり忘れて作業に戻るのが理想なのだろう。でもやっぱり成功した方が精神衛生上、良いような気はするけれど。
7.結論としては。
自意識や時間的感覚の麻痺するほどの機械的繰り返しは非人間的である。この動物的本能は何のためにあるのか。つまらない動作を続けることによって得られる僅かな満足のためとはやはり考えにくい。では何なのか。ここで考え方を変えて繰り返さねば得られないものは何かということから考えてみることにする。繰り返して行うものに様々な練習がある。体を鍛える肉体的なものや勉強のための練習は基本的なところでかなり非人間的な繰り返し作業であろう。特に頭を使わず体に覚えさせる練習ではその傾向が強くなっていく。もしもその練習の最中にその繰り返しを「つまらない」と思ってしまったらどうなるだろうか。いくら大切で必要な練習と分かっていても身が入らなくなり余程精神的に強くなければ「やってられない」と思うだろう。このつまらない動作をつまらないと思わずに続けることが出来ればきっと早く上達するに違いない、と言うことなのではないだろうか。
つまり体に覚えさせるためのつまらない練習をつまらないと思わずに繰り返すためのものでであり、この機能が備わっていなければ人間は今のように器用になれなかったのではないだろうか。厳しい自然界でヒトが生き残るためには他の動物より知恵があるからだと言われているが、これも二足歩行で自由になった両手を細かく制御するために脳が発達したためである。その自由になった二本の腕を器用にしたのはこの、「どんなつまらないことでもいいから続けてしまう」という本能の性なのではないだろうか。
この一見非功利的な行動も自身を鍛え磨くための貴重な行動と言えよう。しかし他にもっと有効な方法を考える方が、どんなことでもいいから続けてみると言う方法より有効なことは確かである。恐らくサルからヒトへ進化しているのは、この部分なんだろうなあ。だから変な意地を張ったりしないで、とっととゴミをごみ箱に入れて仕事を続けることにしようではないか。役に立つかどうか分からない受験勉強もいつかヒトも頭を使うことでも面倒臭いと思わずに続けられるようになり、それを制御できるようになるための進化の一つと思えばそれほどつまらないことでもないだろうし。