「ここか……」
西洋館のたたずまいを見せる、モダンな建物と、その軒先に掲げられた艶やかな色使いの看板に書かれた文字を見上げた青年は、ごくり、とひとつ喉を鳴らした。
彼こそ誰あろう、『帝国華撃団』花組隊長・大神一郎少尉である。
大神は、その手にしっかりと握られているチラシと、看板の文字を見比べて、大きく頷いた。
……間違いない。
大神の瞳が燃えていた。
そのチラシが、大帝国劇場が定期購読している、帝国日報に折り込まれて来たのは、かれこれ3週間前のことである。
大神は、有事にこそ「帝国華撃団」花組隊長という職責にあるが、普段は世を忍ぶ仮の姿として、劇場のモギリ、兼雑用係という立場にある。
そんなわけで、毎朝の新聞を取りに行くのも彼の日課であった。
その日、朝靄の中、欠伸をしながら帝劇の玄関に出た大神は、新聞受けから取り出した新聞から舞い落ちた、一枚のチラシに目を留めた。
そこには……
「な、なんだ、こりゃ!?」
そこには、目にも艶やかな桃色の印刷で、何やらいわくありげな文章が書き連ねてある。
要するに、見るからにいかがわしい代物であった。
「な、なんて破廉恥な……。一般の目に触れる帝国日報に、こんなチラシが入っているなんて……。最近の帝都は、一体どうなっているんだ」
……と、一瞬目を背けた大神であったが。
(び、美少女たちと、夢の一時!?)
内心、どきどきしていた。
対降魔迎撃部隊「花組」 隊長 大神一郎
隊員 マリア・タチバナ、桐島カンナ、イリス・シャトーブリアン、李紅蘭、神崎すみれ、真宮寺さくら、ソレッタ・織姫、レニ・ミルヒシュトラーセ
輸送空挺部隊「風組」 隊員 藤井かすみ、榊原由里、高村椿
副司令 藤枝かえで
総司令長官 米田一基
以上が、太正14年における帝国華撃団の陣容である。
これを見れば分かるように……帝劇は著しく男女比の均衡を欠いた。
つまるところ、女っ気が多すぎるのだ。
ほとんど老齢、といっても良い米田を除けば、男性は大神ただひとりである。
その上、女性のほぼ全員が、彼に対して淡い想いを抱いているというのだから、これは一種、現世の極楽とでも言うべき状況ではある。
しかしながら大神は、上に超が付くほどの堅物であった。いや、初心といった方が正しいのかもしれない。
清く正しく美しく、正義を愛する男。
しかし、そんな大神も、やはり男であった。
大帝国劇場というひとつ屋根の下、総勢12人もの女性と寝食を共にしていれば、やはり男のリビドーが、熱き滾りとなって溢れ出しそうにもなろう、というものである。
しかし、彼にとって帝劇の女性たちは、何よりもまず大切な仲間なのだ。
男・大神一郎、まさに苦悩の日々であった。
そんな、暴走寸前の蒸気機関のような状態にある大神にとって、そのチラシがひどく魅惑的に見えたとしても、致し方のないことだろう。
一旦は破り捨てようと思ったものの、雑用の特権で、そっと懐に仕舞い込む大神であった。
「(そ、そうだ。こんないかがわしいものが、さくらくんや花組のみんな、そうとも、ことにアイリスの目にでも留まったら、健全な教育上良くないじゃないかっ!!そうだ、こんなものは、俺が密かに処分してしまわなければ……)」
……しかしそれは建前、単なる言い訳であった。
隊員たちへの愛情と、男性としての劣情。
その狭間で苦悩し続けた大神の出した結論は……。
「や、やはり、帝劇のみんなに迷惑をかけるわけにはいかないよな」
……要するに、そのチラシの店に興味があるらしい。
というわけで、彼はこの店へと行くため、軍資金を溜め始めたのである。
思えば、長い道のりだった。
決して高いとはいえない、帝劇の給料。大っぴらに「あるばいと」などできるはずもないので、こつこつと、造花の内職もした。
そして、長かった3週間の労苦の末、彼は真新しい一円札の束を手に、ここに立っているのだ。
よく見ると、手にしたチラシもヨレヨレになっている。
これまでの、彼の苦悩の跡が窺えた。
「よし……大神一郎、行きます!」
変なところで気合を入れる男である。
大神は、手にしていたチラシを、ぎゅぎゅっと握り締めると、決意も固く、店内へと続く扉をくぐった。
カラン、コロン……と涼やかな音を立てて、「カウベル」が鳴る。
それが、彼の人生にとって最大の不運(幸運?)のはじまりであるとも、知らずに……。
その頭上の看板には、桃色の板に白抜きの文字で「ようこそ『魅溜酌(みるく)』館へ!」と書かれていた。
『いらっしゃいませぇ』
「どわぁっ!!」
だが、扉をくぐった瞬間、大神は盛大にずっこけた。
彼を出迎えた幾つもの声は、どれも聞き覚えのある……というより、あまりにも良く知っているものであった。
「あ、お、お、み、み、み………」
思わず、意味不明のことを口走る大神。
あまりの衝撃に、ぱくぱくと口を動かすだけで、言葉が出てこない。震える指の先には……。
「お、ほほほほほほほ……。やっといらしたんですのね、少尉」
「待ちくたびれちまったぜ、ほんと」
「大神さん……。来てくれたのは嬉しいんですけど。何か複雑です」
某「アンナ・○ラーズ」のような「うぇいとれす」姿に身を包み、トレイを片手にそこに立っていたのは。
「み、み、みんなっ?!こ、こんなところで何をやってるんだい?!」
片手を口元に置いて、高笑いをしているのは、もちろんすみれ。その横で腕を組んでいるのはカンナ。そして、さくらはトレイで口元を隠しながら、上目遣いで大神を見やっている。
唖然を通り越して、混乱に陥りながら、大神は視線を移す。
そして、さらに。
「お待ちしておりました、隊長」
「遅いでぇーす」
「相変わらず、奥手やなぁホンマ」
普段からは、ちょっと想像もつかない、乙女ちっくな「ゆにふぉむ」に身を包んだマリアが、丁寧に頭を下げる。接客業の見本のような礼だ。
織姫は苛立ったように靴のかかとを鳴らし、紅蘭は意味ありげに眼鏡の縁に指をかけている。ジト目だ。
「ま、マリアまで……な、なんで」
最も良識派のマリアまでがいることに、大神は自分のことを棚に上げて眩暈を感じた。
しかし、事態はさらに深刻だったのだ。
「わーい、わーい!やっと来たんだね、おにいちゃん♪」
「あ、ああああああアイリスっ!!??」
「……当初の予測より2週間も遅れています」
「れ、レニ……君もか……」
ここまででも、相当衝撃だったのだが。
次の人物の声が、大神にとどめを刺した。
「……初心なのね、大神くん。もう少し、積極的にならなくてはダメよ?」
「か、かえでさん……」
しっかり、「うぇいとれす」の「ゆにふぉむ」に身を包んだセミロングの髪の女性の姿を見出した時、大神は情けない声を上げるので精一杯だった。
『わたしたちもいまーす♪』
ちゃっかり列に加わっている帝劇3人娘の声が、極寒のシベリアとなった大神ののーみそを、空しく通りぬけて行った。
「だから、さ。隊長があんまり苦悩してるんで、今回のことを考えついたってわけ」
放心状態の大神を席につかせ、ようやく話ができるくらいに冷静になつたところで、カンナが説明を始めた。
「そうですわ。少尉の苦しみは、わたくしたち全員の苦しみ……。ならば、それを少しでも解消するお手伝いをしたい、と思い立ちましたの」
カンナの横ですみれが続ける。
現在、彼の座る席を、総勢12人の女性が囲んでいる。
彼女らが一様に(アイリスやカンナまで例外なく)同じ「ゆにふぉむ」を身につけているのを見やって、大神は深々とため息をついた。
「そうです。大神さん、ここのところ、凄く思い詰めていたみたいだったから……」
「そうだよ、おにいちゃん。アイリス、心配してたんだから」
「そ、それは悪かったけど。だからって、こんな……」
風俗店まがいのことをするなんて。
喉まで出掛かった言葉を、大神は飲み込んだ。
自分がこの店に来ている以上、何も言う資格がないことに思い至ったからである。
それに、元を質せば、自分が彼女らに気を遣わせてしまったのが原因だったのだから、どうして責めることができるだろう。
「……すまない。俺が不甲斐ないばっかりに、みんなに迷惑をかけちゃって」
「そんなの、気にすることあらへんて」
反省を込めて頭を深々と下げる大神に、紅蘭がひらひら、と手を振る。
「大神はんやって、男の人やもん。そういう気分に、ならへん方がおかしいわ」
「隊長は、極めて正常です」
「は、はは……いや、どうも、その」
核心をずばりと突かれて、しどろもどろになる大神。またレニが真剣な口調でフォローするものだから、大神としては、身を縮めるしかない。
しかしやはり、アイリスやレニまでいるというのは、倫理上まずいのではないだろうか。
そういった大神の考えを察したように、紅蘭が先回りして答える。
「心配あらへんで、大神はん。ここは、普段営業しとるわけやないんや。だから、大神はんが想像してはるようなことは、してへんよ?」
「え……?だって、あのチラシは……」
「あれは、少尉サンに見せるための、プレミアム品でぇす」
「は、はは……。そうだったのか」
つまり、まんまと彼女たちの計画にはまってしまったわけだ。
大神は、あまりの恥ずかしさと情けなさに、ただ乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。
「せやから……」
きらん、と紅蘭の眼鏡が光る。
「ここは、隊長のためだけにあるんですよ……」
「え……」
不意に、マリアがぐっ、と身を寄せてきた。
思わず、及び腰になる大神。
彼はその時になってようやく、彼女らの着る「ゆにふぉむ」が、やけに刺激的なことに気づいた。
胸の膨らみを強調するような胸元のつくり、やけに短く、両脚を露出するスカート。
それに、身を寄せてきたマリアの表情が、やけに妖艶なものに見える。
「あったろ、チラシに。『美少女たちと夢の一時を』ってさ」
「は?」
「まぁ、その『美少女』という表現に、不適格な方もいらっしゃいますけど」
「あんだと、こらぁ……」
「まぁまぁ、二人とも。……というわけで、ここは、あなたの欲求不満を解消するために作られたのよ、大神くん」
「えぇぇぇぇぇぇっ!!??」
まさに、寝耳に水。
担がれた、とばかり思っていたのだが、彼女たちは本気でそんなことを考えているようである。
「い、いや……みんなの気持ちは嬉しいんだけど。やっぱりそういうのは、まずいんじゃ……」
周りから一斉に詰め寄られて、大神はたじたじになる。
「あら……ここはただの『喫茶店』なんですよ、大神さん」
「ただし……」
いたずらっぽく微笑むさくらに、すみれが艶っぽい笑みを浮かべる。
なんとなく、イヤな予感を感じて、生唾を飲み込む大神。
なにやら、気まずい沈黙が流れた。
『ようこそ、<魅溜酌>館へ』
大神を取り囲んだ女性たちは、一斉に妖しげな笑みを浮かべて、声を唱和させた。
(つづく)