written by FUJIWARA


 

The Next Generation of  "NEON GENESIS EVANGELION"

第1話 回り始める、運命の

 

 

 

穏やかなチェロの調べが、第3新東京市、コンフォート17マンションの一室から流れている。

ヨハン・セバスチャン・バッハ、「無伴奏チェロ組曲第1番ト長調」。

プレリュード。

わずか2分半の曲。

だが、いま流れているのはオリジナルに比べてテンポがやや遅い。

その旋律はややたどたどしく、未熟なのは明らか。しかし、何かしら聴く者をひきつけてやまない、温かみのある音がつむぎ出されている。

 

夕陽が差し込む窓の方を向いてチェロを弾いているのは、第壱中学校指定の制服を着た少女だった。

背中の中ほどまで伸びた薄い紅茶色の髪と、サファイアを思わせる紺碧の瞳。

整った顔立ち。白い肌。

外国の血が混ざっているのだろうか、日本人離れした類い希な美少女である。

だが、その顔には笑みはない。

難しい曲だから、と緊張しているわけではなさそうだ。

 

無造作に譜面台に立てかけられた楽譜。

少女のやや厳しげな眼差しは、まっすぐその楽譜に向けられている。

時々目を閉じて音楽に身を任せ、ぎこちないながらも弓を扱う。

 

ビブラートをかけるため、小刻みに動く左指。

少女の額に、うっすらと汗がにじむ。

しかし、その汗すらも少女の美貌を引き立てている。

 

少女は窓を向いて演奏していたから、背後にあるドアが開いて少女の保護者が入ってきたことに気づかなかった。

入ってきたのは若い女性。

少女の演奏を邪魔しないよう、物音を立てないよう細心の注意を払っている。

背が高く、痩身。ショートに整えられた青みがかった銀髪にルビーのような紅の瞳、うっすらと血管が透けるような白い肌が印象的な美女だった。

 

女性の名前は綾波レイ。

元エヴァンゲリオン零号機専属パイロット、28歳。

その少女の保護者になって、もう10年になる。

 

レイは近くにあった椅子に腰掛け、少女が奏でるチェロの調べに身を任せた。

演奏に没頭する少女の背中を見つめるレイの瞳は、優しい。

口元には笑みも浮かんでいる。

かつて身につけていなかった「感情」を、いま、レイは自分のものにしていた。

 

単に弓が弦をこすっているだけとは思えない、温かな音色がレイの心を満たす。

やがてチェロの旋律は、ビブラートを響かせながら、ゆっくりと消えていった。

 

パチパチパチ……!

 

小さいが、熱心な拍手が背中の方からして、少女は振り返った。

少女の保護者が、柔らかい笑みを浮かべて手を叩いていた。

少女は顔を赤らめながらも、初めて笑顔を見せた。

太陽のような輝く笑顔に、レイの顔がほころぶ。

 

「お帰りなさい、ママ!」

「……ただいま、アイ」

 

碇アイ。

元エヴァンゲリオン初号機専属パイロットである碇シンジと、弐号機専属パイロットである惣流・アスカ・ラングレー。

彼ら2人の忘れ形見の少女は、13歳になっていた。

 

 

 

「……ただいま、アイ」

レイは静かな笑みをたたえていった。

「もう。ママったら、黙って聴いているんだから……。恥ずかしいよ」

アイは少し頬を膨らませて、チェロを片づけ始める。

胴体や弦についた松やにを丁寧に布で拭ったあと、ケースにしまう。レイは微笑みを残したまま、じっとアイのその動作を見守る。

 

「……チェロ、上手になったわ」

「ううん、そんなことない」

レイの賞賛にアイは首を横に振って否定する。

「6年もやってたら、誰だってこれくらい弾けるようになるもん。あたしなんて、まだまだ」

それでもアイは褒められて嬉しそうだ。

「そんなことより、お仕事ご苦労さま、ママ。すぐに晩ごはんの支度するね」

そういって制服の上からエプロンをまとうアイを、レイは呼び止めた。

 

「外に食べに行きましょうか」

「ほんと!? ヒカリさんのところ?」

「ええ」

「じゃあ、すぐに支度するからね!」

アイはその場で制服を脱ぎ捨てると、下着姿のまま自分の部屋に飛び込む。レイは床に散らばったアイの制服を拾い上げて、柔らかく微笑んだ。

 

数分後。

アイはレイにすがりつくように腕を組みながら、マンションから商店街へと続く道を歩いている。

「それでね、ミサキが同じクラスの男の子に告白されたんだけど断ったんだって」

「この前の数学のテスト、1番だったの」

「今度、授業参観なんだ。ママ、やっぱり忙しいのかなあ?」

アイがひっきりなしにレイに話しかけ、レイはいちいち頷きながら、アイに答える。

レイは雄弁ではないが、それだけにレイの言葉はアイの心に残る。

明るい笑顔を振りまくアイと、優しい微笑をたたえるレイ。

腕を組みながら歩くその姿は、誰が見ても仲の良い姉妹のようだった。

 

しかし。

アイはレイが、自分の本当の母親でないことを知っている。

第一、アイとレイは姓が違う。

そのことに疑問を抱き、理由を確かめようと自分の戸籍を見たのは2年ほど前のこと。

そこで見つけたのは、自分が知らない名前。

碇シンジ。

惣流・アスカ・ラングレー。

もう覚えていない、本当の両親。

小さい頃の記憶は、成長するにつれて失われていた。

 

仕事から帰ってきたレイに、泣きながら訊ねた。

そして、レイはためらいながらも、本当のことを教えてくれた。両親は別にいる、と。

アイが3歳の時に、レイに預けられたのだという。

その事実を知った時はショックだった。

死んだ、と聞かされていた父が生きていたなんて。

大好きだったレイが、母ではないなんて。

 

『じゃああたしの本当のパパとママはどこにいるの!?』

詰め寄るアイに、レイはただ一言、

『……行方不明なのよ』

泣きじゃくるアイを、レイはずっと抱きしめてくれた。

 

(この人はあたしの大好きなママ。たとえ血がつながっていなくても、本当のママなんだ)

 

そう信じるアイの心には一点の曇りもない。

自分が作る料理をいつも喜んで食べてくれるレイ。

レイの前でチェロの演奏を披露したときは、無邪気な子どものように拍手をしてくれるレイ。

悪いことをしたときは、頬をぶってまで叱ってくれたレイ。

レイとの思い出は、アイの心に深く刻まれている。

 

だが、本当の両親が気にならない、といえば嘘になる。

両親が生きているのなら会いたい、と思う。

アイのベッドの横にいつも飾ってある、一枚の写真。

そこには、小さい赤ちゃんを抱いた少年と少女が写っている。

 

レイは教えてくれた。

その赤ちゃんは自分。

ぎこちなく微笑んでいる、繊細そうな顔立ちの少年が父。

赤ちゃんを抱いた、赤みがかった金髪の何だか怒っているような表情の少女が母だと。

2人とも、アイが進学を希望する第壱高校の制服姿。

でも、どうしてアイを捨てていなくなってしまったのか、詳しいことは教えてくれなかった。

『もう少し、大人になったらね……』

レイはいつもそういう。

 

やがて2人は、小綺麗なレストランにたどり着いた。

めったにないが2人が外で食事する時は、たいていこの店を利用する。

店内に入ると、陽気な関西弁が2人を迎えた。

 

「おう、綾波。珍しいやないか」

茶色のスラックスに同色のベスト。黒い蝶ネクタイ。

お世辞にも似合ってるとはいえないウェイター姿の背の高い男性が、笑いながらそこに立っていた。

 

 

 

笑顔をみせる短髪の男性は鈴原トウジ。元エヴァンゲリオン参号機専属パイロット、28歳。

14年前に左脚を失い、いまは義足の生活。

そのときから彼を精神的、肉体的の両面で支えてきた女性と2年前に結婚し、小さなレストランを開いた。

「飾らない、家庭的な料理を食べさせてくれる店」として、第3新東京市でも人気を集めているその店の名前は「ami」。

フランス語で、「友だち」。

 

「……こんばんは」

「トウジさん、こんばんは!」

「よう来たなあ、アイちゃん。まあゆっくりしていきや」

アイに笑いかけるトウジ。

 

「いらっしゃい。綾波さんにアイちゃん」

声を聞きつけて厨房から声をかけた黒髪の美女は鈴原ヒカリ、旧姓洞木。

レイを除いて、アイの最も憧れている女性だ。少し潔癖性のところはあるけれども、いつも笑顔で、優しくて、料理が上手で。

 

「こんばんは、ヒカリさん!」

「来てくれて嬉しいわ。今日は腕をふるっちゃうからね」

「わあ、楽しみ! ねえ、ママ?」

「……そうね」

 

アイとレイの2人が奥のテーブルに座るのを見届けたあと、ヒカリはトウジの耳元で囁いた。

「碇君とアスカがいなくなってから、もう10年になるのね」

「そうやな」

「でもアイちゃん、ますますアスカに似てきたわね。私でもびっくりするくらい」

「ほんまやな。あのころの惣流とよう似とるわ」

「……あの2人、まだ戻ってこれないのかしら?」

「リツコさんがずっと研究続けとるそうやけど、まだまだみたいやな」

「はやく戻ってきて、3人で暮らせるようになれたらいいのにね……。さあ、お仕事お仕事。トウジ、綾波さんとアイちゃんのオーダー、お願いね」

「おう」

 

「おふたりさん。メニューは決まったんかい」

伝票片手にトウジはレイとアイのテーブルに歩み寄る。

 

「あたし、フランス風オムレツってのにしようかな。ママは?」

「……じゃがいものパンケーキとオニオンスープ……」

「綾波、相変わらず、肉あかんのか?」

「そんなこと、ないけど……」

レイの肉嫌いは、もうほとんどなくなっていた。もちろん、アイの努力の賜物である。

 

トウジが行ってしまうと、アイはレイの前に置かれたグラスワインを見つめた。自宅でレイが酒を飲むことはまずないから、アイは驚く。酔って帰ってきたこともないから、恐らく外でもほとんど飲まないのだろう。

 

「ママがお酒飲むなんて、珍しいのね」

「……そう?」

白いほっそりした指でグラスを持ち上げ、レイは中の液体を口に含んだ。熱い感覚が、レイの胸を駆けめぐる。

「……美味しいわ」

 

「何か、あったの?」

心配そうに訊くアイに、レイは微笑んでみせた。

「いいえ。なんにも」

 

2人の側で偶然にもその会話を聞いてしまったトウジは内心、呟いた。

 

(シンジ、惣流。オマエらがおらんようになって今日でちょうど10年や。ええ加減、帰ってきたらんかい。このままずっとい綾波にアイちゃんの面倒みさせるつもりなんか。

綾波も普段と変わらんみたいやけど、やっぱりオマエらがおらんで寂しいんや。見てみい、滅多に酒なんか飲まん綾波がワインなんぞ飲んで)

 

やがて料理が運ばれてきて、楽しい食事が始まる。

「美味しい! やっぱりヒカリさんのお料理って美味しいね、ママ!」

「本当。美味しいわね」

「そうだ、それでこの前ね……」

 

食事をしながら、学校のこと、友達のことなどを無邪気に話すアイ。優しく微笑みながら、アイに応えるレイ。

(ずっと、こんな日が続けばいいな)

いまアイは、いいようのない幸せを感じていた。

 


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