happiness! -浮気-

 

 

 壱『マナ』

 

 「そんなに邪険にしなくてもさぁ。ほら、これあげるから」

 テーブルのむこうでこちらをにらみつけるマナに、アスカは大福ののった皿をさしだした。

 マナは、無言のまま皿ごとそれを奪うと、次々と口の中に放こみはじめた。

 

 アスカがマナのマンションを訪れたのは昨日の夜のことである。

 娘の愛美を連れ、荷物は大きめのハンドバックだけだった。

 「今夜、泊めて。あの人が浮気したの!」

 だから、愛娘を連れての家出をしたのである。

 あの人とは無論シンジのことである。

 以前はそうでもなかったようなのだが、結婚してからシンジはやたらともてるようになったとアスカは思う。高校の教員という職柄上、女生徒から慕われるということはあるのだろうが、それにしても尋常ではない。お子様の女の子にもてるのは、加持リョウジのような男であって、シンジのような男ではないというのがアスカの持論であったから心配はしていなかった。が、それがここ二〜三年ほどで音をたてて崩れてきている。

 『高校生がなに言ってんだか。あの人の良さを知ってるのは私と愛美だけで充分よ!』

 ここ数年は感じたことのないジェラシーに、アスカは半ばヒステリックにもなっていた。

 そんなおり、帰宅したシンジにいつものように四歳になった娘と一緒になって抱きつくと、襟元にルージュの跡があったのである。

 「父さん。浮気したわね!」

 「あ、いや。これは」

 「問答無用!」

 アスカは、その場で踵を反すと、手短に荷物をまとめて娘の掌をとった。

 「母さん?」

 「きちっと清算してらっしゃい」

 アスカは、呆然とするシンジの言葉も聞かないでマンションを飛び出した。

 映画館と喫茶店を転々とし、

 次はレイのところにいこうかと思ったが、彼女は半年前に渚カヲルと結婚したばかりだ。邪魔しては悪いような気がしてやめた。

 ヒカリのところにしようとも思ったのだが、それよりも都合のよさそうなのがいた。それが霧島マナである。彼女は一人暮らしだったはずだ。そのくせマンションだけは広かったと記憶している。引っ越しを手伝いにも行ったことがあるのだ。

 

 が、実際に来てみると誤算があった。

 マナは、相田ケンスケと同棲を始めていたのである。ここ一ヶ月くらいのことだからアスカはまだ知らなかったのだ。

 が、その晩は仕事の都合で東京市方面に行っているとのこと。で、一泊はさせてもらえることになった。

 

 で、マナがこうも不機嫌なのは、明けた朝もアスカが未だ居座ろうとしているからだった。

 娘を保育園に送りつけたらそのままここにはこないものと思っていたのだが、何食わぬ顔で買物袋をさげて帰ってきたのである。

 「だいたい、あのシンちゃんが浮気するわけないでしょう」

 そんな甲斐性があれば、中学生の時に、アスカと二人して手玉に取られていたに違いないとマナは思っていた。

 マナの、自分の夫の呼びようには今だに多少の抵抗がある。が、碇シンジに対して最初に「好き」と言えたマナにはその権利があるとも思っていた。

 「だったら、あのルージュはなんだってのよ」

 まだ追い出されてはたまらないので、あまり強い口調にはなれない。

 確かに、浮気をしてその証拠を引っさげたまま帰宅するなんて間の抜けた話だ。何かの誤解なのではないかと思うのだが、浮気以外にあのルージュ痕を説明できるものが今のアスカにはなかった。満員電車でつけられるなんていうのはドラマにありがちだが、シンジは徒歩出勤である。事故でつくようなことは考えられない。

 「付き合いで飲むっていうのがあってさ。隣で酔いつぶれた同僚のが付くっていうのだって」

 「あの日は、学校からまっすぐ帰ってきたってことになってるの。それならそういった説明してくれてもいいじゃない」

 「自分の奥さんが信じてくれてないって思えば、腹も立って説明する気もおこらないんじゃないの」

 「私は、いい奥さんだもん」

 アスカは、大福の皿を奪い返す。

 子供がいないから、口調がだんだん乱暴になってきた。

 「いい奥さんなら。愛美ちゃんにだってこういうのよくないって解るでしょう」

 「三つ指付いてお帰りなさいませなんてやったことないけど。一緒に出かけたって三歩さがって歩くことなんてないけど。お帰りなさいって、抱きついて愛情表現してたし、同僚が来た時にはおいしいご飯作ってあげてたもん」

 まるで子供みたいなしゃべり方になって、アスカは泣きだしそうになった。

 思い出し泣きなんて本当に子供みたいだと思いつつ、マナには思い当たるフシが浮かんだ。

 「そういえば、シンちゃんが女の人と一緒に歩いてるの見たことあったっけ」

 「なによそれ!」

 アスカに迫られて、マナは少々たじろいだ。泣きだされるよりはましかと思いながら、その時のことを説明することにした。

 「顔はよく見えなかったんだけどブロンドでさ。二人っきりでいいのかなって思ったもの。ケンと一緒に住みはじめた頃だから、そんなに前のことじゃないわよ」

 アスカは蒼白となる。自分の中では誤解という一縷の期待があった。迎えに来てくれて、誤解であることを淡々と解く夫の姿を想像してもいた。が、近場の人間の目撃証言があればそうは言っていられなくなる。

 「よりにもよって舶来女と浮気ですって!」

 「まあまあ落ち着いて。ね」

 マナは、アスカ本人だって半ば以上はその舶来じゃないかと思いつつ、コーヒーを入れるから一息つきなさいと言った。

 「ありがと。で、その金髪女とあの人はどこ行ったのよ」

 「そこまでは。でもシンちゃん笑ってたから、やましいことなんてないのかも」

 「私の知らない交友があるってだけでも裏切り行為だわ」

 取り着くシマもないと思いつつ、それでも今夜はケンと二人きりになりたいと思うからどうやってアスカを追い出したものかと思った。

 「別に、シンちゃんところに帰りなさいとは言わないけど、今夜は都合が悪いのよ。夕方には引き上げてもらわないと?」

 「解ったわよ。それでも、せっかく材料買ってきたんだから、お昼は私に作らせてよ。一泊宿泊のお礼にさ」

 「アスカのご飯?」

 「これでも、シンジよりはうまくなったわよ。毎日作ってんだから」

 中学時代。シンジは家事全般が得意であるというのは有名だった。アスカやミサトの身の回りの世話をまるで召し使いのようにこなしているということであれば、如何にアスカが家事を苦手、もしくは嫌っているのか想像に難しくはない。そのアスカが食事の用意をするというのであれば、多少の抵抗もあった。が、冷静になってみればアスカ自身の言うとおりである。シンジは外で仕事をこなしている。アスカが家事全般を毎日こなしているということであれば、腕もあがろうというものだ。それに、シンジの腕前だってそれぞれのプロには遠く及ばないのは判りきっていることである。

 

 

 「マナはさ。もうモデルの仕事とかしないの」

 「もうもなにも、何回か雑誌の表紙を飾ったくらいでさ。何度か声もかかったし、その度に出向いてはいたんだよ。でもさ、才能ないと駄目なんだって」

 ダイニングキッチン、カウンターむこうで頬杖をつくアスカの言葉に、キッチンのマナは少してれてみせた。

 「私、写真とか観るの解んないんだけど、あんたの部屋にあった写真観れば、いいんじゃないって思うんだけど?」

 「あれは、ケンが撮ってくれたのよ。この部屋で」

 マナの寝室には、彼女がモデルになった写真がパネルになっている。

 ベッドの上で、全裸の彼女が膝を抱えてシーツに包まっているというものだ。あの笑顔なら充分モデルとしてやっていけるのではないかと思うのはアスカだけではないだろう。まちがっても夫に見せるつもりはないが、世界中の誰が観たって感動するのではないだろうかとアスカは思う。

 「ケン以外には、無防備な顔は見せられないって?」

 ふいに口をついて発た言葉だが、そう言ってみてそれが原因かも知れないとアスカは想像していた。マナが最初にコミック雑誌の表紙を飾り、中の三ページのグラビアとともに好評を得た写真は相田ケンスケが撮ったものだ。それ以降、商業ベースに乗ったものでマナを撮ったのは彼ではない。モデルの仕事が先細りになるのと相田ケンスケが彼女を撮らないのとは一致するのである。スタジオカメラマンだった相田ケンスケは、あの写真で有名になった。が、マナ以外の写真はどんなモデルでもうまくいったことが少ないらしい。

 「カメラのレンズってさ、何もかも映し込まれそうで恐いってあるのかも」

 マナは、指先で遊びはじめた。

 アスカは、以前に聞いたことを思い出す。

 マナが、ケンスケの仕事場に行った時のことだ。ケンスケが、レンズごしにとはいえあんまりモデルを見つめるから嫉妬してしまったのだという。そのどうしようもないいらつきから、マナは「あんたみたいんじゃ、ケンが困るのよ!」とそのモデルを押しのけてしまったのだ。その時に撮影された数枚が、ケンスケのつきあいのあるプロデューサーの目に止まって、彼とマナを有名にしたのである。

 こんなこともあった。ケンスケがいぜんウチに遊びに来た時のことだ。夫と晩酌を交わして、酔いが回ってきたころにケンスケが「あんなカメラマンじゃ、霧島の良さを写せるもんか。どいつもこいつも下手なんだ!」と泣きだしたのだ。

 二人でやったことだからいい評価を得られるということなのかも知れない。

 「それで、相田は風景写真に転向したのかな?」

 「わかんないわよ。でも、その方が世間様の評判はいいみたいだけど」

 マナは、照れ隠しに不機嫌そうな顔をした。

 『この娘、こんな表情も出来るんだ』

 結婚したとはいえ、自分だって夫のことでこんな表情が出来るんだという自負もあった。だから、娘の愛美には迷惑極まりないとわかっていてもここにいるのだし、夕べだってまともに眠れなかったのだ。男に媚びているのではない。むしろ、男を陥落させる魅惑の表情。

 だから、今夜ここにケンスケが帰ってくるのならばその前に退散しなくちゃいけないと思った。自分のためだけに、同じ女のマナに迷惑をかけられないのだ。

 今夜、私から問い詰めればいい。清算してきているのであればそれでいいし、そうでなければ妻であることを本格的にサボタージュするだけだと、アスカは眦を決したつもりになっていた。

 愛美を迎えにいった足で、一緒に家に帰ろうと思った。

 

 

 弐『ヒカリ』

 

 アスカが愛美を迎えにいくと、彼女は砂場で男の子と遊んでいた。

 愛美とは仲良くさせてもらっている、アスカも顔見知りの男の子。

 鈴原マサル。

 二人の向こうには彼の母親のヒカリがいた。

 どうやら、アスカを待っていたようだが?

 「マナから聞いたのよ。帰りにくそうだから泊めてやってくれないかって」

 アスカに近づきながら、「余計なことだったかしら? でも、マナを怒らないでね」とも言った。

 「それはないけど。もうあの人にガツンって言ってやることにしたから」

 「いい機会だから、遊んでいきなよ。マサルも喜ぶわ」

 もともと、マナのところにはいられないというなりゆきからでた消極的な決心だから、子供をダシにされてしまうと甘えたくなってしまった。

 

 鈴原トウジは、企業を興していた。

 高校生の時にはまりこんだアーケードゲーム。

 そこからプログラミングに興味を持つこととなり、同人活動で利益が上がるようになったのが発端である。税金対策に会社を興したのである。とはいえ、同人上がり、税金対策などと侮れるものではなかった。従業員数四十名を抱えるほどまでに成長しているのだ。去年の夏に発売したシュミレーションゲームが大ヒットして、会社はさらに大きくなろうとしていた。

 今度は、自社製のハードまで考えているというのである。

 

 

 「旦那さん、帰ってこなければ淋しいでしょ」

 子供たちは別の部屋に寝かせて、二人は布団を並べて床についた。アスカは、寝付けなくってヒカリに話しかけた。

 忙しいこともあり、トウジは帰ってこない日も多い。それでも、三日と帰ってこないということはないが、ヒカリやマサルが眠ってから帰ってきて、二人が起きてくる前に出かけるなどということもままあるというのだ。

 「マサルがね。でも、あの人がくしゃくしゃのままにしていった布団を見せて言うようにしてるの。お父さんは頑張ってるのよ。マサルの近くにいたいから少しの間だけでも帰ってきてるのよってね」

 「なんだか、かっこいいけど、」

 「なによぉ」

 アスカは、薄明かりの中意味ありげな表情でヒカリを見た。

 「ヒカリの方が淋しいんじゃないのって訊いてるの」

 アスカは、ヒカリの布団の中に飛び込んだ。中学生の頃に時々おこなったお泊まり会のノリである。

 「まさかぁ。マサルがいるもの。淋しいなんて思う暇なんてないよ」

 「今日だって、ひとり寝のくせに。私たち、まだ若いのに!」

 アスカに抱きつかれて、ヒカリは悲鳴を上げた。

 「そりゃあ、二人目がほしいって思うけど」

 「もう。ずいぶんご無沙汰なんじゃないの?」

 耳元で囁かれて、ヒカリは顔を真っ赤にした。結婚してもう五年になるのに、初々しい反応である。アスカは、なんだか可愛くなって、嬉しくなって、ヒカリを抱きしめた。

 「に、二週間くらい前だったかな?」

 「ひとりでシテるんでしょ。不健全だわ」

 「な、」

 ヒカリの赤いのがさらに増す。全身が赤くなっているのではないかとかと思えるほどだ。

 こんなに可愛い反応ができれば、浮気されることもないのかなと思う。

 「こんなにいい身体、持て余してるに決まってるじゃないの。手伝ってあげるわよ」

 「ちょ、冗談やめてよ。アスカ」

 アスカは、深くヒカリを抱きしめていた。

 シンジに抱きしめてもらっている時の強さと優しさを想像していた。

 「ヒカリは、声が大きいから」

 首筋に唇を滑らせる。自分の腕の中でヒカリが震えていることが快感だった。

 最初のうちヒカリは抵抗をしていたが、アスカがそれ以上をしてこないと解ると、身体の力を抜いた。そして、ヒカリはアスカが嗚咽をしているのに気づく。いつの間にか、ヒカリがアスカを抱きしめていた。その腕の中に、夫とはまた違う安堵を感じていた。勇気を分けてもらえるような気がした。

 「お母さんなのに、こんなに甘えちゃって」

 ヒカリは、ため息をつくようにいうと母親がするようにアスカの頭を何度もなでた。

 アスカにとっての母親といえば、ヒカリのことかも知れなかった。

 血のつながった母親、継母と、アスカは母親に恵まれなかった。幼少の頃からネルフに在籍していた為に、彼女は常にエヴァンゲリオンのパイロットか研究の対象でしかなかった。幼い時の彼女を、成長させるファクターは圧倒的に不足していたのである。そんな事実が、アスカが子供を産んでなお時折見せる幼い言動の背景にあるのかも知れない。

 ヒカリと親友になれたことは、アスカが日本にきて受けた最も大きな恩恵の一つであろう。

 「だってヒカリ、ママの匂いがするもの。マサル君だけずるいわ」

 アスカは、ヒカリの乳房に顔をこすりつけた。

 ヒカリは、もう抵抗をしないでアスカを抱きしめていた。

 アスカが、日本でいちばん最初に心を許した少女。サードインパクト後の混乱期をともに乗り切った親友。

 夫が浮気をしたとすれば、妻がどんな行動にでたって不思議ではない。それがアスカなら、ヒカリに甘えたって何の不思議もないことだった。彼女の性格では、腹癒せに浮気をするなどということはとうてい考えられない。

 ヒカリは、アスカがかわいそうになって、マナとのことを話すことにした。

 「アスカ。本当に旦那さんが浮気したって?」

 「あの人がそんな事するわけない。だって、愛美が産まれてきたのに」

 間髪おかず、ヒカリの胸の中でアスカは顔を上げ、叫んだ。

 そして、次には自分がそう言えてしまったことに疑問を感じ、さらに腹が立ってくる。証拠まで残したまま、のこのこと帰ってきた男を信用できるはずがない。信用しようとしている自分に怒りを感じた。今の言葉が、確信から発ていることに気付けないから、自分の願望から発た言葉だと思ってしまったのである。

 「アスカ?」

 「だって、ルージュだってついてたし、マナはブロンドの女の人と一緒にいるのを見たって!」

 即座に自分を否定する。

 自己の否定。

 結婚前のアスカだったら決しておもてだってやらなかったこと。自分の否定は、常に胸の中でだけで完結していた事だったはずだった。

 「アスカは、いつも綺麗なのに?」

 「つまみ食いしたくなれば、誰だっていいのよ。私だって、床上手って訳じゃないもの」

 「セックスだけ? だって、アスカお料理とかお掃除とか、いっぱい頑張ってるじゃない」

 「だって、浮気したんだもん」

 まるで、子供の道理である。

 いっぱい愛されて、幸せいっぱいの中にいると人間は幸せに対して麻痺してしまうらしい。

 こうなってくると、夫のシンジのことも不憫になってくる。

 結婚して、保育園に行くようになる子供までいて、なんで中学生みたいな恋愛をしているのか。

 先刻は夫との接点が少なくても淋しくないと言ったが、こういった風になれば少しいたずらしてやりたい気分にもなる。アスカは間違いなく幸せだ。少なくとも、彼女の一存につき合わされている愛美よりは幸せである。それでもなお不幸であると言い続けるのなら、ヒカリも、本格的にマナの話に一口乗せてもらおうと思った。最初は霧島マナを止めようとしたが、彼女の気持ちが解らないでもなかった。ましてや、今となってはいい思い出ではあっても、マナにとってみれば碇君を奪われたという事実に違いはない。これは、時が経ったとしても女としては重要な問題なのである。

 ヒカリの同情が、アスカのわがままで牙に変わる。

 「アスカこそ、こんな風なら淋しいんじゃないの」

 映画館に泊まり、カプセルホテルに泊まり、昨日はマナのマンションで今日はヒカリの家だ。人一倍さみしがりやのアスカが淋しくないわけがない。娘の愛美がいなかったらとっくにギブアップしてシンジのもとに帰っていただろう。浮気をしたのは夫の方なのだから理不尽だとは思いながらも、謝り倒しているに違いないのだ。

 「淋しくなんか、ないもの」

 「なによ。毎日かわいがってもらってれば、今日で四日目なのに」

 「毎日なんかじゃ、ないモン。……きゃ」

 先刻とは逆に、ヒカリがアスカに抱きついていた。

 アスカは、後ろから抱きつかれるかたちになって迂闊にも身悶えてしまった。

 それが、いつもの夫のポジションと一緒だったからである。

 アスカの挙動にを感じたヒカリは、この体制が綾波夫妻のホームポジションだと感づいた。向かい合ってするものだと決めつけていたヒカリは少々驚く。

 それに、アスカが上だと決めつけていたということもある。

 「アスカ、後ろからなんだ?」

 「だって」

 耳元で、小声で話しかけられるからよけいに恥ずかしい。

 アスカは、紅潮して顔を掌で覆うと頭を振った。

 「顔が見えないと。……後ろからって怖くないの?」

 自分の夫婦生活に置き換えてきた時の、率直な疑問と感想である。

 「最初は怖かったけど。だって、あの人ったらチェロばっか弾いて私のこと無視したから」

 恥ずかしさに引かれて、アスカは余計なことまで口走っていた。

 寝転がって後ろから抱きしめてもらっているわけではない。二人は、たぶんベッドか何かに腰掛けているのだ。でなければチェロなどという楽器の名前が出てくるはずがない。ヒカリにしてみれば、二重三重の驚愕である。

 とはいえ、その驚愕をアスカに悟られてしまったら彼女を冷やかしたりいじめる事なんてできない。幸せボケをしているアスカに、正義の鉄槌を食らわせるべく、ヒカリは、彼女にしては珍しく冷静を保っているように演じることができた。暗に、惚気られて黙っていられないと言うのが本音だった。

 とうのアスカは、もう気が気ではない。ヒカリの演技がどのこうのというよりも、彼女にそれを見抜くだけの冷静さはなくなっていた。羞恥を振り払うのだけに必死だった。挙動から夜の生活を言い当てられてしまえば、総てを見透かされているのではないかという恥ずかしさまでがおそってくる。

 「綾波先生は、音楽専攻で、チェロが専門分野だったものね。アスカのことも、ずいぶん上手に弾いてくれるって?」

 「夫婦でどうだって、ヒカリには関係ないのにっ」

 アスカは、怒った素振りをしてみせて必死で羞恥をかき消そうとする。しかし、ヒカリが怯むことはない。ヒカリは、いたずらっぽく話しかけているだけで、アスカに特別に刺激を与えているわけではなかったが、快感に枯渇した肢体は、背後にいる親友を夫だと条件反射して震えだしていた。どんなに強がってみせたって、アスカには分が悪い。一種の羞恥責めにはまり込んでしまったパターンである。

 「強がらなくても、あたしが慰めてあげようか?」

 ヒカリは、アスカのうなじにとどめの接吻をした。

 「ひっ!……

 アスカは、どうやら気をやってしまったらしかった。

 二〜三分ほど気絶したようになっていたが、やがて嗚咽しはじめた。

 「アスカ」

 「ふぇえ。あの人にだって、イかせてもらったことそんなに無いのにぃ〜」

 まるで、夫を裏切ったような気分にでもなったのだろう。でも、アスカはヒカリを責めることはなかった。ちょっとしたいたずらだからこそ許せないことではあるが、それでも、甘えてここにまできたのは自分だ。だから、自分こそが悪いのだ。大好きな人の胸に、裸になって飛び込んでいけばいい。それはアスカの座右の銘である。にもかかわらず、こんなところにいるのは自分なのだ。今、自分のそばにいてくれるのはヒカリではなく、シンジのはずだった。

 「ごめんね。アスカ」

 「いいのよ。だって、私あの人のものだってどうしようもなく解っちゃったもの」

 「ごめんね」

 「いいんだって」

 アスカは、ヒカリの方へ振り返るとその胸にしがみついた。

 「アスカ」

 「温かいよヒカリ。明日、帰る。何かあるんだよ。私の早とちりかも知れない」

 「それがいいよ。アスカ」

 アスカは、ヒカリの胸でそのまま寝息を立て始めた。

 

 参『レイ』

 

 「こんなところで寝てると、夏だってカゼ引くよ。アスカ」

 肩を揺すられて、アスカは目覚めた。

 アスカは、マンション近くの公園のベンチで眠っていたようだった。

 起こしてくれたのは、

 碇シンジ。

 「あ、あなた?」

 「夫婦みたいな言い方しないでよ。今日は、君にお礼が言いたくて」

 と、右掌を差し出す。

 確かに、目の前にいるシンジは夫とは違った。第壱中学の制服を着た少年、碇シンジだった。

 にもかかわらず、自分はサマーセーターにタイトスカートといういつもの身なり。カッターシャツの少年が、二十歳をこえた女性に開放的な口の利き方をする。夫と自分の年齢差などゼロのはずだということは解っている。にもかかわらず、アスカはこの状況を不可解には思わなかった。

 アスカは、シンジの優しい掌をとると、ベンチから立たせてもらう。

 「お礼?」

 「うん。彼女と僕を、仲介してくれたじゃないか」

 「え?」

 「あの娘も、好きだって言ってくれたんだ。僕に勇気がないのにしびれを切らして、助けてくれたんだよね」

 「なに?」

 「ホント、ありがと。これからも、友達でいてよね。これから、彼女と映画観に行くんだ」

 アスカの疑問をよそに、シンジは淡々と言葉を並べてゆく。

 そして、アスカの掌をふりほどくと踵を反して駆けだした。

 その先には、ブロンドの見知らぬ女性。

 「あなた。……シンジ、行かないで」

 アスカはシンジを追いかけるが、足下がぬかるんで走れない。軽快に走ってゆくシンジは、今まさにブロンドの女性の掌をとった。

 「アスカの好きな女優が出てたよね。パンフレットは買ってくるよ」

 「シンジ!」

 アスカの絶叫はシンジには届いていなかった。

 

 『!』

 アスカは目覚め、ヒカリの布団の中だと悟った。

 「夢」

 上体を起こすと、ほっと胸をなで下ろした。こんなひどい夢を見るのは久しぶりだと思う。夕べもヒカリとの会話でさんざん思い知らされたこと。それを夢のなかで再確認してしまっていた。苛立ちもあり心地よくもあり、アスカは、久しぶりに舌打ちをしていた。

 「お母さんは、お寝坊さんですね。愛美ちゃんが叱ってあげなくちゃね」

 ふすまの隙間から、ヒカリと娘の青い瞳がのぞいていた。

 「あ、ごめん。無茶するモンじゃないって事かしらね」

 今日は土曜日で、娘を保育園に連れて行かなくてもいいという油断からだと思う。自分の家だったら、夫に家事を任せて眠っていたい気分だった。尤も、自分の家にいない理由が夫なのだからどうしようもない。

 「レイが来てるわよ」

 「レイ?」

 それで、あんな夢を見てしまったんだと思う。

 

 旧姓、綾波レイ。

 養子縁組によるシンジの妹。

 

 アスカは中学を卒業と同時にシンジと別れてドイツにいた。無論、アスカはシンジとは二度と会わないつもりでドイツに帰ったのであり、シンジもアスカとの復縁はないものと思っていた。

 冬月はシンジがひとりになってしまったことから様々を懸念し、一緒に住んでいた綾波レイをシンジと養子縁組して一つのマンションに住むようにしたのだ。レイが改名するかたちで話が進められたが、シンジが養子になるかたちで落ち着いた。ゼーレとつながりの深い碇姓を嫌ってのことである。それに、なによりレイに綾波姓を捨てさせることが、彼女を天涯孤独にさせるという気分にもなったからである。

 

 二人が同居していたことは、シンジに新たな女性が近づくのを妨害した。

 シンジは、世間ずれをしていないレイのことばかりを心配して、何事にも優先していた。半端にシンジのことを理解している者には、シスコンとまで言われたほどである。

 

 七年ぶりに日本に帰ってきたアスカは、レイに感謝した。

 同時に、シンジと二人きりで暮らしていた彼女に嫉妬もした。

 とはいえ、気持ちはどうあれ長きにわたって恋人であることを放棄した自分にそれを口にする権利はなく、アスカが今の幸せを享受できるのは、レイのおかげであるところが大きいのは間違いない。たとえ彼女の思惑が他にあったとしてでもある。

 そんなレイが近くにいれば、今朝のような夢を見てしまうとも思えるのである。

 

 「あ、義姉さんおはよう」

 アスカがリビングにはいると、レイはしょうゆ煎餅をくわえたまま迎えてくれた。水色のマタニティードレスを着ている。

 愛美が、特等席のようにその膝の上に坐って煎餅をねだった。

 レイが結婚したのが半年前、それまでは一緒に暮らしていたのだからレイも愛美の面倒はよくみているのだ。愛美にしてみれば、物静かな方の母親という認識ですらあるようだ。

 

 「あんた、ヒカリん家になにしに来てんのよ」

 「知らなかった? 毎日来てるのよ。何たって妊婦ですから、看護婦さんのそばにいた方がいいでしょう」

 レイは、かつての彼女からはおよそ想像のつかないほどに相好を崩し誇らしげに言う。アスカがドイツにいる間に、ずいぶん感情を表現できるようにもなっていたが、愛美が産まれて、それから渚カヲルと結婚して、更に妊娠して、と段階を踏んで確実に減り張りがついてきていた。

 妊婦といっても、四ヶ月目に突入したばかりである。マタニティドレスなど全く必要のない体型なのだが、いたく気に入っているようだった。

 それも無理からぬ事で、実は、レイは不妊の宣告を受けていたのである。それでも、諦めずに頑張っていたのだ。生理が止まって三ヶ月目、想像妊娠かも知れないと半ば諦め半ば希望を込めて産婦人科に行くと、受胎しているということが判った。歓喜した彼女は、その帰りにマタニティドレスを十着も買った。そして、その内の一着を来て帰るということまでしたのだ。

 ヒカリは、五年ほどの産婦人科の看護婦経験がある。結婚してやめてしまったのだが、アスカの時もいい相談相手になってくれたのだ。

 「なんだ。てっきりあの人に言われてきたのかと」

 「言われてはいるわよ。でも、義姉さんがどこにいるのか判らないから、困ってたんだけど。尤も、いずれはここに来るだろうなとは思ってたけどね」

 レイは、アスカの携帯電話とマンションの鍵を預かってきたと言って差し出した。

 鍵も持って出かけないさまにヒカリは呆れるが、「出かけたんじゃなくって家出なんだもの」と言って鍵を受け取ろうとはしなかった。

 「夕べ、帰るって言ったじゃないの」

 ヒカリが悲鳴を上げた。

 「まさか。あの人が迎えにきてくれたってんならまだしも、なんで」

 「じゃ、少なくとも今日と明日の夕方までは帰れないわね。兄さん、第二東京の方に行ってるから」

 「妻と娘が家出してるってのに、なにやってんのよ」

 「弦楽器部がコンクールに出場するんだって。引率よ。部長の先生やってるでしょ」

 アスカは、そう聞いて肩を落とした。当人はそのつもりはなかったかも知れないが、少なくとも周りからは落胆したようにしか見えなかった。

 「なんかさぁ。結婚した頃と立場が逆転してんのよね。カカァ天下にできるかと思ったんだけどなぁ」

 「私には、亭主関白には見えないけど。アスカ好きにできてると思うけどな」

 テーブルに突っ伏しのの字を書いて拗ねだしたアスカを、ヒカリがへんな慰め方をする。

 夕べのヒカリとの話ではないが、夜の生活の体位が変わってからこんな調子のような気がする。結婚前に、シンジが着衣にルージュ痕をつけてきたって、ここまで不安になんかならなかった。確かに、悋気もあればひっかき傷でかき消すようなこともするだろう。それでも、自分が家出をする前にどうとでだって引き止めようとしてくれるはずだったのだ。シンジは私だけのモノだ。それは、自分がシンジだけのモノであることと同じだけの比重を占めていると思っていた。が、そうでもないような気がする。

 「それでも、義姉さんにしてはよくもってるわよね。以前までなら、二日もてばいいんじゃない。やっぱり、愛美がいるから?」

 「まっさか。あの人がいなくたって、一ヶ月や二ヶ月」

 「……

 そのアスカの言葉に、ヒカリとレイは必死で吹き出しそうなのをこらえたが、結局吹き出してしまった。

 「アスカ、へんな冗談はやめて。誰が聞いたって、強がりか嘘にしか……

 「なによぅ。そんなことないわよっ」

 「……

 言えば言うほど泥沼である。レイにいたっては「お願いだから笑い死にさせないで」と言ってついにはテーブルを拳で叩く始末である。

 アスカは、顔を真っ赤にして怒りだした。

 レイやヒカリがそんなことで怯むはずもない。アスカが本気でどう思っているのかは別にして、事実そんなにもつわけないのは解っているからである。強がりにしか聞こえないのだ。

 レイは、芝居じみてヒカリに話しかける。

 「ちょっと奥さんお聞きになりました? 綾波さんところの奥さんったら、一ヶ月や二ヶ月ですってよ」

 「ええ聞きましたとも。図々しさにも程がありますわよね。一時間や二時間の間違いじゃないのかしら?」

 ヒカリも、その口調にあわせて戯けてみせる。

 「なによ。一年だって二年だって平気なんだから」

 アスカは、バンと音を立ててテーブルを叩きながら立ち上がった。

 「結婚式の次の日から、兄さんったらいきなり出張だったのよね。ね、義姉さん?」

 レイは、脂下がった表情でアスカを挑発する。

 「な、なによ」

 「県下の、軽音楽部の会合で四日間の出張だったんだけど、二日目の晩にはシンジに捨てられちゃったよ〜。帰ってこないのよってもう鬱陶しいったらもう。あの頃は一緒に住んでたから、いい迷惑だったわよ」

 「そんなこと」

 「それから、兄さんが帰ってきた夜の激しさったら。壁だってそれなりの厚さがあるはずなのに、よく聞こえるんだな」

 「カヲルのところに行ってたあんたがそんなこと知ってるわけない……!」

 まさに語るに落ちるというかなんというか。

 アスカは、怒りではなく羞恥で顔を真っ赤にし、両掌で顔を覆うと必死で頭を振った。

 「まったく、兄さんなしでいられないくせに、何でこうなるんだろ」

 「お姫様は気むずかしいのよ。だだをこねて、王子様にかまってもらいたいんじゃない。中学生じゃあるまいし」

 ヒカリやレイにしてみたら呆れるしかないのだ。

 夫が浮気しただの家出してどうだのと言って騒いでいるのですら、単純に惚気られている様にしか受け取れないのである。結婚して四年経ってもこんなにラブラブなのよ。子供ができたって目の前でキスくらいしちゃうんだからと言っているようにしか見えないのである。

 「ふ、ふ〜んだ! あんたたちの旦那なんて、浮気したくたってできないくせに! うちの人ほどいい男じゃないですもんね〜」

 アスカも、稚拙な反撃にでる。

 「なんですって〜。義姉さんこそ、飽きられたんじゃないの。バァさんは用済みって!」

 「淫乱で夜が激しいから、うんざりしちゃったのよ。慎ましやかな女の方がいいって」

 もう、こうなってくると中学生の口喧嘩である。

 子供が二人もいることを忘れ、隠語が部屋中を飛び交った。

 

 とはいえ、もともと仲のよい間柄だからすぐにおさまった。

 もっとも、アスカが疲れてしまったのだ。

 男であれば、それが二人でも口喧嘩で勝つ自信もあるが、女が相手では、単純に一対二というわけで部が悪いということである。

 「今日は、あんたん家に泊まるわ」

 口で負けてしまったが、アスカであるから素直に引き下がりはしないということだ。ビシッとレイを指さして高らかに宣言した。べつに威張って言えるようなことでもないが、そこはアスカだからである。表層的な挙動は、中学生の時から変わってない。

 レイは、

 「お願いなら、それもいいわ」

 と、ゆっくりと頬杖をついた。こちらは対照的に、結婚、懐妊して特に変化のあった女性。

 「お願いじゃないわ。メーレーよ。メーレー」

 「これからも長いおつきあいをしてかなくちゃいけないのに、義妹としては命令なんて受けたくはないわ」

 このまま口喧嘩モードに突入しそうだったので、アスカはやっぱり退いた。

 「浮気亭主のために、家を守るなんてまっぴらだわ。帰ってきたら、久しぶりに家事をフルコースでやらせてやるんだから。帰らない方がいいのよっ」

 口上は、いかにもいつものアスカらしかった。

 アスカとしては、もう帰りたかった。たとえ夫がいないとしても、帰って、彼が帰宅した時のために台所の整理もしておきたいし布団も干しておきたかった。まめな正確の夫のことだから、家が荒れているようなことはないだろう。しかし、それは夫の匂いだけの家になっているだけで自分の匂いは無いということなのだ。家は、夫婦や家族のモノだ。それを夫のモノだけにしておくというのは浮気を容認したようなものだと今になって解る。抗議のための家出であったが、実はそうすることは本末転倒だったのだと解ったのだ。

 そこまで解っていながらにしてレイの家に泊まるというのは、口喧嘩で負けた二人にさんざん「帰れ」と言われたからである。妙な意地がアスカを素直に行動させないでいた。

 

    

 

 「カヲルに挨拶しなくっちゃ」

 「せっかくだけど、今日中はさわらない方がいいわ。締め切りが明後日の早朝のなのよ」

 「そうなの?」

 舞台作家、演出家をしていた渚カヲルだったが、ここ二年間に二つの月刊誌に小説の連載が一つずつ、一つの週刊誌に舞台、映画評論のコラムをもっていた。それでも、それだけで生活費を捻出するには及ばず、舞台の仕事をせざるおえなくなっていて家を空けることも多い。レイとの結婚、さらには彼女が妊娠したこともあって舞台がらみの仕事を減らす、あわよくば完全なる小説家への転向を図りたいのだという。今回、連載が文庫化され、そこに一つ書き下ろしをすることになり、この好機を生かしたいと躍起になっているとのことだ。

 「恋人じゃなくなったんだ。夫婦になったんだから、なおさらレイを淋しがらせたくないからね」

 結婚披露宴の席で、カヲルがそう言っていたのを思い出す。

 結婚前のシンジなら、こんなことも言ってくれたかなと今になって思う。

 今の状況はまさに、

 釣った魚には餌をやらない

 ではないか。

 自分が夫を釣った気などないが、それでもよもや餌のお預け状態になるとは思わなかった。

 捨てられそうになった女は、可愛くよがるだけじゃだめだ。テクニックにはしらなくちゃ

 なんて言葉を片耳に入れたことがあるが、その時は自分とは無関係だと思っていた。

 暗い気持ちになってしまう。

 

 「そうそう、思い出したけど、マヤさんとシゲルさん、結婚するそうよ。伊吹の方へ、養子に入るみたい。マヤさん、一人っ子だから」

 「それはよかったわね。マヤの奴、嫌がってる素振りだったけど、満更じゃなかったってことよね。以外と、出来ちゃった結婚だったりして」

 アスカが、当人たちがいないというのに茶化してみると、

 「そうみたいよ。だから急いで来月なんだって。おととい、仲人にって兄さんのところに来てたみたいだけど?」

 「え〜!」

 二重の驚きである。とはいえ出来ちゃった方の驚きは後の仲人に押されて小さくなってしまってはいた。

 あの潔癖大女王の伊吹マヤがまさかの出来ちゃったも驚きであるが、自分とシンジだって事実はそんなものである。だから、それも有りだと思えるのだ。が、よもや自分たちが仲人だなんて話になるとは思いの寄らないことだったのである。

 レイは、どっちに驚いたのと言う顔をしながら、

 「その仲人の妻の方が家出中なんて、シゲルさんとマヤさんも考えた方がいいかも。不幸になるだけかも知れないから」

 呆れてみせた。

 「それまでに、金髪女をあの人の中から追い出せばいいのよ。ちょちょいのちょいってね」

 その金髪女本人がなに言ってんだかとは思ったが、アスカはかつてないほどに燃えているようだったので黙っておいた。仲人は夫婦でなければ出来ないものだ。それは、アスカにとって心強い認識なのである。

 

 「ところで義姉さん。うちに泊まる以上は、手伝ってもらうべきものは手伝ってもらいますからね」

 「はい」

 急に話が切り替わり、虚をつかれたアスカは思わず礼儀正しい返事をしていた。

 「それから、出産経験者、先輩としてご指導をお願いします」

 出産経験者

 先輩

 指導

 アスカは、なんだか誇らしくなって嬉しくなってしまった。

 「義妹よ!」

 アスカは、レイを優しく抱きしめてしまっていた。

 

 

 カヲルは、食事になっても部屋から出てこなかった。

 レイを淋しがらせないために、在宅で仕事が出来るようにと頑張るのはいい。しかし、食事は家族みんなで楽しくというのがアスカの持論であり、綾波家ではすっとそうしてきたから、これでは本末転倒だと少々憤慨する。

 「カヲルさんも戦ってるんだから、半年くらいは仕方ないわよ。我慢してくれって、言ってくれたし」

 「ま、夫婦には他人の入り込む余地はないってか。けどねレイ、甘やかしたらいけないわ。あんたがこうだって思ったらそれは言わないとね。恋人の時とは違うのよ。死ぬまでつき合うんだから、息詰まっちゃうわよ。

 それから、あと二ヶ月以内にはそのカヲルさんってのはやめにしなさい」

 アスカは、ビシッと音が発そうな勢いでレイを指さした。

 「え?」

 「おなかには赤ちゃんがいるのよ。可愛い我が子なのよ。そしたらお父さんとかパパとか言いようがあるでしょう。第三者に対しては主人とかあの人とか。あと二ヶ月くらいで母親の喋ってることが聞こえるようになるってことだから、そう言うようにしないとダメよ。私がそう言ってたって、カヲルにも言っときなさい」

 レイは、自分がカヲルをパパと呼び、自分がママと呼ばれる情景を思い浮かべて思わず赤面した。色素が薄いから一発なのだ。

 アスカも、シンジをお父さんと呼ぶようにするのに勇気がいった。はずかしくってたまらなかったのを思い出す。でも、そういう風になると本当に夫婦になれたような気がした。子供のいない夫婦もいるが、それでも結婚したらそう呼び合うのがいいのかなと最近では思い始めている。

 

 

 「赤ちゃん、楽しみね」

 「うん」

 「男の子か女の子かは訊いたの」

 「産まれるまでのお楽しみって、訊いてないわ。でも、男の子だと思う」

 愛美を寝付かせると、アスカはダイニングでレイとテーブルを挟んで坐った。それでも、零時を回ったらカヲルのところに夜食くらいは持っていくべきだというアスカの言葉に納得して、レイは雑炊の用意をはじめようとしていたところだった。

 「元気な男の子にしないと、うちの愛美にいじめられちゃうわよ。幼稚園でも悪で通ってるらしいから」

 「兄さんと、義姉さんみたいに?」

 「なによそれ。私は、あの人のこといじめたことなんてないわ。ただちょっと頼りなかったから鍛えてやってただけよ。今じゃ、いい男でしょ?」

 家族を語るときのアスカは本当に誇らしげで嬉しそうだ。自分が築き上げてきたものに対して絶対の自信がある証拠になるだろう。

 「愛美ったら、本当に義姉さんそっくりよね。兄さんがまえ言ってたわ。家に帰ると大きい母さんと小さい母さんがいて、二人で競うように世話をやいてくれるから幸せだって」

 「ちょっとね、ファザコンのケがあるのよ。幼稚園でやんちゃやってて、家でもそうなんだけど、あの人が帰ってきたとたんになよっとしちゃってさ」

 「もう、まさに義姉さんそのものじゃないの。きっと、いい男を捕まえるわね」

 レイは、そう言って台所に向かった。

 アスカは、その誉め台詞にくにゃくにゃになりつつ「私の分も作って!」と目を輝かせた。具には、今日の買い出しでかってきた安っぽいハムとを入れてくれと言う。

 「玉子にはあんまり火を通さない方がいいのよ」

 「解ってるわよ。夕飯あれだけ食べておいて、まだ食べるって太ったって知らないから」

 この細い身体のいったいどこにあれだけの食べ物が入るのだろうかとレイは思い、ひょっとしてアスカは身重なのかも知れないと思う。自分も生理が止まる直後に食欲がましたことがある。個人差がかなりあるとは言うが、きっとそうだ。二人目がいるに違いない。

 それを知っているのかどうか訊こうとしたが、アスカの方が少し早かった。

 「名前、もう決めたの?」

 「え? あ、うん、まだなの。義姉さんとこの真似して、漢字は使おうって話はしてるんだけど」

 「漢字? 愛美?」

 「うん」

 

 漢字の名前は、セカンドインパクトの前にはやっていたものだ。

 日本語を勉強しはじめた頃、一つの字にいくつもの読みのあるこの文字を「効率が悪い」の一言で片づけていた。が、シンジが、アスカの名前に漢字を当てはめたことがある。

 「飛ぶ鳥で飛鳥って文字がぴったりだけど、明日が香る明日香って方がいいかな。だってどこかへ飛んで行ってしまいそうで心配だから」

 てれながらのその言葉はアスカが身体を熱くするのには充分な言葉だったし、ゲンキンにも漢字への印象をがらりと変える動機になった。

 「馬鹿なこと言ってんじゃないの。あんたがいなきゃ、飛べないわよ」

 アスカは、返事にこの言葉を絞り出すだけで精一杯だった。

 

 レイは、このエピソードを聞いていた。レイは、綺麗の麗だねと夫に言ってもらいたいということもある。だから、産まれてくる子供には漢字で名前を付けたいのだ。

 愛美。

 愛しく美しい。

 エミではなく、愛美とするだけでなんて名前にふくらみがでるのだろう。

 漢字は、音だけでなく意味を伝えることが出来る。

 「それに、これからはやるかなって思うのよ。私たちの子供は、それをリードするの」

 「漢字って、書くの難しいから子供に恨まれるかもよ?」

 飛鳥のことを思いだしたアスカは、てれかくしに茶化してみせる。つまりは、大賛成ということだ。

 「子供の名前を決めるって思えば、辞典を見るのも結構楽しいのよね」

 

 それから、カヲルをよそに名前談義は続いた。

 

 

 翌日の夕方。

 レイの夕食づくりの手伝いの最中に、携帯電話が鳴った。

 電子メールが届いていた。

 シンジからだ。

 手紙の内容は、傲慢きわまりなかった。

 不本意だけど、迎えに行く

 

 「そうか、兄さん、帰ってくる時間ね」

 レイは、声を踊らせた。

 「不本意ってなによ。土下座したって許さないんだから」

 アスカは憤慨をあらわにしたが、「ちょっと鏡台借りるわよ。食事の準備は、あの人を追い返してから手伝うからさ」とさっさと奥に引きこもった。

 レイは、含み笑いを抑えられない。アスカは、本当に夫が浮気をしたと思っているのか、そのことの方を疑ってしまう。タネあかしは今日ヒカリから聞いていたが、もとより、レイはそんなこと毫も信じてはいなかった。二人きりで、お互いを本当に観察できるように生活した時間ならばアスカよりも多いくらいだ。学生の時の優柔不断な時であればいざ知らず、教員になると決めた時からの彼であれば、それはあり得ない。まして、あのゲンドウの血を色濃くひいているようなのだ。そうでなければ、アスカが日本不在の七年間に恋人のひとりも作っていたはずだと思う。

 「こう、いつまでも学生気分って言うのかしらね。夫婦ってより、子供付きの恋人同士だもんね」

 レイは、足下にやってきた愛美に「仕方ない母さんね」と微笑んでいた。

 愛美は、元気にそれに頷き、踵を反してアスカのところへ向かったらしかった。「父さんが来たら、思いっきり睨みつけてやるのよっ!」とアスカは息巻いている。嬉々として出迎えるのはいいが、本当に喜んでいるのではないだろうか?

 浮気をした亭主を出迎えるのに、しかも謝る気など微塵も持ってない男を迎えるのに、化粧して着飾る妻なんて義姉さんくらいのものだと思う。義姉に手伝ってもらうと食事の準備も楽だったのだが、そうも言ってられないということだなと思う傍ら、今日は兄も食事に招待すればいいかなとも思った。

 

 

 ドアのベルが鳴り、レイがリモートでドアを開けるとそこにはサングラスをしたシンジが立っていた。

 アスカは、玄関の一番遠くで腕を組み、夫を迎え撃つ準備を整えた。

 「ただいま母さん。愛美。

 レイ、世話になったね」

 シンジは、サングラスを外すと彼らしい笑顔で微笑んだ。

 「いいのよ。いろいろと助かっちゃったこともあったし」

 「ちょっとレイ、私、帰るなんて言ってないわよ」

 アスカが背後のレイに語気を尖らせると、本当に?といった目で見つめ反された。

 アスカは、言葉を詰まらせる。

 「身内だっていったって、そんなに迷惑はかけられないじゃないか。マナのところや鈴原のところにも行ってたんだろ」

 「明日は、どこかのホテルにでも泊まるわよっ。とにかく、私も愛美も帰りませんからね」

 アスカの声はどんどん大きくなっていくが、愛美は意に反して父親に向かって走り出そうとした。アスカの立ち位置よりも一歩前にでたところでレイが肩を掴まえて製するが、

 「あ、こら!」

 アスカも、思わず走り出していた。ただこっちはレイが製することはなく、シンジに向かってまっしぐらである。

 「母さん?」

 シンジは条件反射のように両の掌を広げた。

 夫の顔がみるみる近くなる。夢に現れただけで、実際に見るのは何日ぶりだろうか。その夢に現れた時だって、他の女と一緒にいた。それでも駆けるスピードはますます速くなる。だって、目の前に夫がいるのだ。シンジがいるのだ。

 『駆け出したら止まるわけないじゃないのよっ』

 アスカも両掌を広げていた。

 「淋しかったのよ〜」

 夫の胸に飛び込んだ瞬間、

 夫に受け止められた瞬間、

 何でもっと早く迎えに来てくれなかったのかと恨んだ。

 だだをこねたって、自分はいつだって帰るつもりだったと今になって解る。

 どうだって、夫の気持ちを確かめたかっただけなのだと解る。

 我が侭だって解っている。でも、迎えに来てほしいのだ。だって、こんな気持ちになれるのはシンジだけだし、こんな気持ちにはもうなりたくない。

 アスカは、シンジとの間にある空気を押し出すようにしがみ付いた。

 

 ふとシンジの胸元を見ると、そこには再びルージュの跡が!

 「あ、汚しちゃった……。!」

 シンジは、微笑みながらアスカを見つめ、

 「気をつけなくちゃ。洗濯だって大変だろう?」

 何気なく諭す。

 アスカは、しどろもどろになって顔を真っ赤にした。

 「え、あ、だって?」

 アスカは、化粧を絶やさないようにしている。入浴時と眠るとき以外は、少なくともルージュをひくようにしていた。「妻は、いつだって綺麗でなくちゃいけないのよ。夫と死に別れるその瞬間までね」と言うとおりにである。

 ただそれだけのことだ。

 シンジの浮気疑惑は、なによりもアスカがシンジを愛しているという証拠でありシンジがアスカを大事にしているという証拠だったのだ。

 レイやヒカリ、マナに言わせるところの壮大なる大惚気”“愛の大ボケである。

 抱き合う両親の足下に愛美がやってくると、父親のズボンを引っ張った。

 シンジは屈んで何か言いたげな娘に耳を貸す。

 愛美は、本当に小声で父親に耳打ちした。

 「そうか。そうだね。薄情なお母さんとは別れて愛美と結婚しようか。それがいい!」

 シンジは、娘を抱き上げると肩車をした。

 「あ〜ダメダメ。お父さんは愛美のお父さんだけど、お母さんのモノなのよっ!」

 「だって服を汚したの、人の所為にするんだもんな」

 シンジは、愛美を肩車したままくるくると回った。

 愛美は、久しぶりに父親に会えたのが嬉しいのかはしゃぐのをやめなかった。

 「あ〜ん。だって!」

 日に日にいい男になっていく貴方だって悪いんだと言いたかった。自分は日々美しくなって貴方を満足させてあげなくちゃいけないけれど、夫は結婚した後はそれ以上に格好良くなってはいけないのだ。だって、妻は不安になるばっかりだから。信じていたって、やっぱり不安だ。

 「だってじゃないでしょ。悪いんだって思ったら、ほら。愛美だって見てるよ」

 「う〜」

 「ほら」

 アスカは、どこか納得いかないモノを感じつつも、それが我が侭だと解ってぺこりと頭を下げた。

 「お父さん、ごめんなさい。こんなことはもうしません」

 「はい、よくできました。これはご褒美」

 「!?」

 と、シンジは妻の可愛い唇に接吻をする。

 愛美は、約束が違うとばかりにだだをこねた。

 

 

 「だって、貴方が金髪の女と一緒にいるところをマナが目撃したって。一ヶ月くらい前に」

 渚家におよばれをすることになって、その席でアスカはそれでも糾弾しようとしていた。

 「僕が、金髪で碧眼の子持ちの美女とデートしちゃいけないのかい?」

 「あれ?」

 「義姉さん。兄さんをどう攻撃したって、ぼろが出るばっかよ。こっちにしてみたら、惚気られてるだけなんだからいい加減にしてほしいわ。マナやヒカリに一杯食わされたんじゃないの」

 「あんたもでしょ」

 「ははは」

 レイは、エビフライを口の中に放り込んだ。

 何でみんなもっと早くに言ってくれなかったんだと、アスカは辺り一帯を恨めしく思った。これではいい道化だ。この数日間はいったい何だったのか。ただ淋しい思いをしただけではないか。先刻、愛美にも聞いたが、彼女もルージュのことには気づいていたというのである。あちらこちらを泊まり歩いている母親をずいぶん哀れんでいてくれたのであろう。なんだか本当に情けなくなってきた。

 「コンクールもいい成績だったし。愛美も母さんも帰ってくるし。今日は枕を高くして眠れるなぁ」

 シンジは、レイに茶碗を差し出しながら呵々と笑った。

 「やっぱり、心配してくれてたのね」

 アスカは、食事を中断して夫の腕にしがみ付いた。夫の向こうにいる娘がブーイングをするが無視する。

 「それなりにはね」

 「それなりにって何よぅ」

 「携帯電話持っていっててくれれば、印鑑探すのに苦労しなくてすんだかなって。カギ持っていってないから、留守中に帰ってきたら可愛そうかなとか」

 「なぁんだぁ」

 あまりに所帯じみた懸念と苦労にアスカは落胆してしまう。先刻の接吻がちょっとさめてしまったような気がした。

 シンジはこともなげに続ける。

 「だって、愛美には君がついていたんだし、君には愛美がついていてくれたんだろう?」

 シンジは、レイから茶碗を受け取ると、てれくさそうにお茶漬けを作り始めた。

 

 

 hikaruのあとがき

 

 シンジとアスカがくっついちゃうんだろうなぁとは、たいていのエヴァンゲリオンのファンは思っているでしょうね。

 テレビのシリーズでそのあたりを漠然と思っていた人たちも、映画のあのシーンでちょっと驚愕しつつも納得したでしょう。まさに傷を舐め合う恋人たちですわね。

 そういったファンの中でいわば不文律がありますね。

 『アスカはシンジを尻の下に敷く』

 これにちょっと待ったをかけてしまったのが今回です。

 あんたが全部私のものにならないのなら、いらない!

 こうまで言えるアスカが、

 あんたとだけは絶対にイヤ!

 こう言えてしまえるアスカが、

 果たしてシンジ君よりも優位にいられるのかちょっと疑問になったのです。

 私のシミュレーションでは、こうなりました。

 夫の手の上で踊らされ、

 娘にまで……

 十代前半で大学を卒業するくらいの明晰な頭脳も、愛すべき家族の前ではなんの役にも立たないようです。

 

 マナちゃんとケンスケ君とくっつくことになった経緯、

 レイちゃんとカヲル君とくっつくことになった経緯、

 そして、アスカがシンジ君と別れ、でも結果的にくっつくことになった経緯、

 もう一つのバカップルぶり。

 

 これらもネット上のどこかで公開していますので、見かけたらよろしくお願いしますね。

 ヒカリちゃんとトウジ君、マヤさんと青葉さんの話も描きたいんですけどねぇ。

 

 

 hikaru[wild heaven]