指に滲んだ血 Blood which spread on the finger. 今年、私が選んだ作品は、個性派俳優として知られるゲイリー・オールドマンの初監督作『ニル・バイ・マウス(NIL BY MOUTH)』である。高校二年の時に、地元の単館系映画作品ばかりを上映している小さなシアターで観た作品で、暴力や麻薬というディープな世界を映し出す中に、友人や家族との愛情が見え隠れする物語の構成や、物語の主人公であるダメ亭主が暴力を振るって家を飛び出した妻に向かって涙を流しながら「愛している…許してくれ、俺は、お前を愛してる…」と何度も訴え自分の愚かだった行動を謝罪する姿が、ただただ切なく、エンドロールが流れ出した時に初めて、私は泣いていたことに気付き、そんな不思議な作品に、私は心を奪われた。ストレートに自分の想いを表現出来ない不器用な人間たちが、足掻きながらも懸命に生きようとする姿が無様だけれども、私はとにかく羨ましく思えた ─── ので、今年はこの作品を取り上げてみた。 今日、また紙で指を切った。 これで二度目、今度は左手の中指を、スパッ、と切った。 つい一時間ほど前にも右手の人差し指の腹を切ったばかり。 ただでさえ先に切った切り傷がカットバン越しでも振れるだけで痛いのに、また同じ傷を似たような場所に作ってしまった自分に、心の中で叱咤する。 硬い紙だから折り難いし、油断したら紙の端で確実に指を切ってしまう。 慎重に作業していても、大量の紙を折るのは、とにかく疲れる。 B4サイズに裁断されたやや硬めのケント紙を二つ折りにする、単純な作業。 だけれど、数が全て合わせて二千枚以上となれば、並大抵の作業じゃない。 会場準備に出ているメンバーや、食料や必要備品の買い出しとかで外に出ているメンバー以外で、部室に残っているのは、私と……少し離れた場所で、紙折り作業に徹している、『奴』……の二人だけ。 作業を始めてから、殆ど互いに口も聞かず、紙折りに没頭していた。 「痛っ…っ!」 指に熱を感じた、と、思った時は既に手遅れだった。 皮膚の上に生温かい血がふわっと中指の丘に盛り上がり、小さな滴となって、真っ白の紙の上にポタッと、一滴落ちる。 咄嗟に私は中指を自分の口に含んだ。 その真っ白な紙は明日の大学祭のウチのサークル……映画鑑賞研究サークル……でお客様にお配りする、大切なパンフレットの表紙。 毎年、大学祭でウチのサークルは、部員個人で自分の気に入っている映画作品を1作品取り上げ、それを一日かけてノンストップでの上映会を行う。 上映会に伴い、「いっそやるんなら、何か心に残る上映会にしたい」という、私の知らない古い先輩の提案で、上映会では自分たちが選択した作品に対する論文とも作文とも言い切れない文章を数頁に自由にまとめて、それらを手作りの冊子化にする……いわば、ミニコミ誌のようなノリのパンフをお客様にお渡ししている。 パンフの表紙に刻まれている二桁のナンバーを遡れば、このパンフ制作は私が生まれた頃から始まっている。 伝統があるんだか無いんだか、よく分からないけれど、時代が目まぐるしく変わっている今の世の中で、映画好きの大学生が今でも存在しているんだな、と、妙に醒めた気分で、最新のナンバーを見つめてしまう。 時代と共に、世の中が目まぐるしく変わっていくように、映像の世界も革新に次ぐ革新を繰り返し、アナログからデジタルに映像録画に切り替わっているのだから、ウチのサークルも「アナログ」テイストの冊子作成から転向すればいいのに、と思ってしまう。 大して面白くない小説を書いているばかりの文芸部や、ホモやエロ漫画ばっかり描いて何が楽しいんだかよく分からない慢研でさえ、最近は手頃なオフセット印刷でパンフなり作品集なりをまとめているのに、ウチのサークルはいまだに「手作り」に固執し、手差しコピーをフルに活用して(時にはコピー機を壊して学生課の主任職員に平謝りしながらも)学祭前夜はパンフ作りに部員は没頭する。 部員の数は毎年約十五人前後で、他の部活と掛け持ちで参加している人もいるので、学祭の準備に付きっきりになるのは、その内の約半数。 私は一回生の時はバドミントン部と掛け持ちだったから、それほど手伝いに参加出来なかったけれど、去年からこのサークルだけに籍を置いているので、去年は自分の「本業」を横に置いてサークル活動に没頭した。 去年も一昨年も、先輩後輩入り乱れて、上映会場に借りている小さな講義室の中で千枚以上も刷られた紙を分担で折りながら、酒盛りをしていた。 不眠不休と酒のせいで妙なハイテンションの状態の中、上映会開始二十分前にしてやっと出来あがるパンフの中には、いびつな形をしているものもあったりして、それを手にしたお客様にはお詫びに、上映した作品中で好きだと思った作品をビデオテープにダビングして後日渡すようなこともしていた。 そういう悪ノリも含めて、去年の学祭は、妙に楽しかった。 直径一センチの真紅の血は、真っ白の紙に良く映える。 今年のパンフの表紙は、白抜きにした明朝体のタイトルロゴに通算ナンバーを入れただけの、シンプル重視とも手抜きとも言えそうなデザイン。 思わず、そっけないデザインを見て溜息が出てしまう。 何故なら、今年のパンフ編集の責任者は私であり、表紙のデザインをしたのも、私。 だから、である。 貰った原稿をどのようにまとめるかなんて生まれてはじめてする作業だし、メンバーの書いた原稿以外の全て……事務的な原稿……を書くこともはじめてだし、それに、まさか今年、自分にその役が振られるとも思ってなかったし、と、悪い意味で思いがけない役が回ってきて、私は正直、憂鬱だった。 特に表紙の作成を頼めそうな友人が身近に居らず、でも、他のサークルのメンバーに頭を下げてお願いすることもそれほど考えてなく、それで、仕方なくパソコンのワープロ機能を使用して作成したのが、それである。 去年は、パンフ編集を任された先輩が、デザイン科に籍を置く友人(同人活動をしているらしい人)を一ダースの缶ビールで口説き落として制作してもらったこともあってか、黒・緑・青の三色を使った様々な映画のイメージをワンシーンにし、それらを散りばめた豪華なデザインの表紙………去年のそれとでは、明らかに雲泥の差であるから、きっと去年のパンフを持っている人は今年のを見てガッカリするだろう、と思う度に、私は打ちのめされた気分になってしまう。 事実上、私達はこれが最後の学祭参加になる。 来年は就職活動や教育実習で、遊ぶ時間なんて無くなってしまう。 去年は先輩がという力強い味方がいたから、まだ準備も楽だった。 今年は違う、何から何まで私達が計画して、後輩や他のメンバーに指示を与えなきゃいけない。 「責任」の重さに気分が悪くなる。 (これ、つまんないよな……) そんなことをぼんやりと考えていた、が、自分の血が落ちたその紙が「何」であるかを改めて認識した途端、蒼ざめた。 (…あ、ヤバ…) 心の中で舌打ちする。 毎年、パンフの表紙だけはケント紙で、残りは全て大型日用雑貨品店の特売で購入した白色のコピー用紙を使っていたが、今年は「表紙がシンプル」だからという理由で、本文も表紙と同じ厚みのケント紙で刷ることになった。 厚手の紙だから手差し吸引のは仕方ないとしても、コピー機と紙の相性が余り良くない。必要部数分のコピーを全て刷り終えるまでに、学生課の前に設置した十円コピー機を始め、殆ど出入りのない学部の学生に提供されたコピー機を数台、大学の周囲にあるコンビニのコピーを数台、果ては、隣接している市の、一度も入ったことのないコンビニのコピー機、それら全てを壊してしまった。 方々に迷惑をかけてしまったことや、思った以上にコピーに手間取ったことを踏まえて、製本の失敗は無いようにしようと決めた矢先の、私の指の怪我。 白い紙に血の色は非常に目立つ。 これが黒の紙ならまだ目立ち難いから血が紙に染み込む前に拭きとってしまえばなんとか使えそうなのに、とつい、思ってしまう。 (また一枚、ダメにしちゃったよ…) その時、少し離れた場所に座っていた『奴』が叫んだ。 「あっ!」 指を口に咥えたまま、私はそっちを見た。 困惑というよりも呆れに近い表情をした、『奴』の視線が私の視線と交錯する。 「またかよ…」 そう言いながら、『奴』は私の傍に近付いてきた。 私の指よりも、私の血がついた紙の方を心配している素振の『奴』。 まるで私に見せつけるように、落胆の溜息を一つ、深く、大きく吐いた。 「この紙、意外と高いんだぜ」 視線をこちらに向けてなくても、明らかに私を責めている口調。 思わず私はそんなことを吐く『奴』にムッとしてしまう。 でも、私は『奴』に言い返せない。 紙を汚したのは私だし、私の不注意で貴重な紙を無駄にしたことを責められて当然のことだと思う、だから、私は『奴』に何も言い返せない。 「……ゴメン」 私は口から指を離し、肩を竦めて『奴』を上目遣いに見ながら謝る。 そんな私を『奴』はちらっと見るが、すぐに視線を紙に戻す。 「……別に、」 血の付いた紙をグシャグシャにしながら、『奴』は素っ気無く言う。 「俺に謝らなくていい。どうせ謝るんなら、会計係に謝って」 『奴』は丸めた紙を足元のコミ袋に放り込むと、また私の方を見た。 「……カットバン、まだ持ってる?」 私は『奴』の言葉に、素直に頷く。 「まだ、一枚残ってたはず…」 そう呟きながら、私は切った指を庇いながら、傍に置いている自分のカバンの中から黒色のアニエスb.の化粧ポーチを取り出した。 日焼け止め乳液、ファンデーション、アイラインペンシル、マスカラ、ビューラー、グロス、リップ、口紅……ゴチャゴチャしているポーチの中、その隅の方に追い遣られた真っ白のカットバンを見つけ、取り出す。 「貼ってやるよ」 いつのまにか『奴』は私の隣に座っていた。 指に挟んだカットバンを『奴』は私から引ったくり、おもむろにヨレたカットバンの紙を剥いて中身を取り出す。 「手、出して」 言われるがままに、私は『奴』の前に左手を差し出す。 中指の腹を縦断するように切れた傷口から、血が僅かに滲んでいる。 その上に『奴』はカットバンのガーゼ部分を当て、粘着テープを指に巻き付ける。 俯き加減な『奴』の顔。 どこにでもいる、普通の顔をした男。 とりわけカッコイイこともなく、でも、不細工でも言えない、ごく普通の男。 ジャンルを問わず映画全般が好きな男で、暇さえあれば映画館に通っている、言わば「映画バカ」。 なのに、何かに憑かれたようにのめり込んでいる奴……いわゆる『オタク』という人種……特有の独特なオーラを発散させていることもなく、どこか飄々とした雰囲気を持っている、男。 それに、あどけなさを残した表情の中に潜む、男らしさの一面が見え隠れしているから、そういう雰囲気を持った男に惹かれる女の子が居たって、おかしくない。 現に、私は「憧れの君」の枠内で『奴』に興味を持っている友人や後輩を何人も知っているし、中には『奴』に告白したって子が居るのも知っている。 不意に、私は『奴』の睫毛に視線が釘付けになった。 真正面から見ると、それほど気にもならなかった睫毛。 奥二重だから今まで分からなかったけれど、思った以上にそれは長く、綺麗、だった。 「……おい、」 『奴』に呼びかけられて、私は我に返る。 跳ねるように顔を上げると、『奴』は心配げな目で私を見ていた。 「…大丈夫か?」 その言葉に私は小さく首を横に振って見せる。 「平気、疲れてない」 それは、嘘。 私は昨日から一睡もしてない、明日の準備に追われて、家に帰ってもお風呂に入って食事を摂る程度で、他は準備の作業に没頭していた。 本当は家に帰って寝たい気分だけれど、目の前にある紙の山を見るとそんなことは言っていられない。 隈を眼の下に作っている顔をしていながら、よくそんな嘘が吐けるものだと、自分で自分を笑ってしまう。 そんな私に『奴』は、呟くように言った。 「……指、気をつけろよ」 そう言って、『奴』は椅子から立ち上がると、私に踵を返して元の場所に戻り、また紙折り作業に戻った。 思いがけない、『奴』の優しい、一言。 私は思わず、頬を赤らめてしまう。 『奴』と私は、同郷の出身で、しかも同じ高校で、二年間、クラスメイトだった。 座席は出席番号順で並べられ、お互い苗字の頭文字が「い」と「ゆ」と大きく離れていたこともあってか、隣合わせになることも、近くになることもなかった。 それに、私は校内では仲の良い同性としか喋っていなかったこともあって、『奴』と言葉を交わす機会は、殆どと言って良いほど、なかった。 私が一般前期で第一志望だったこの大学に合格したことを担任に報告した時、担任は「あれ、お前もそこに行くのか」と驚いた顔をしていたから、私は担任に尋ねるとあっさりと担任は答えた。 「ああ、あいつもお前と同じ大学に進むって、昨日電話で連絡して来たんだよ」 クラスメイトの殆どの志望校は本人や人伝で把握していたつもりだったが、『奴』の志望校だけは知らなかったから、意外な事実に私は、正直なところ、面食らった。 けれど、私の選択した学部と『奴』の進む学部は違うと担任から聞かされた時、妙に「安心」したことを、覚えている。 印刷作業が終わったのが今日の明け方で、二十四時間営業のファミレスで一息つき、その後昼過ぎにまでアパートに戻って、いろいろして、それから大学に戻ってから、ずっとこの部屋の中で紙折りの作業をしている。 腕時計を見ると、後三十分もしたら日付が変わる時刻になっていた。 窓のない部屋の中に篭っていると、時間の感覚が麻痺してしまう。 部室に入る前に近くの自販機で買った缶紅茶はとうの昔に空になっていたし、全身がだるくて仕方なかった。 指を切って集中力が散漫になりかけている。 (気分転換しよ) そう思うや、私は鞄から財布とハンカチを取り出し、席を立った。 椅子を引く音に『奴』は反応してか、こっちを向いていた。 刹那、交差する視線。 先に目を反らしたのは私だった。 「何か飲み物買ってくる………要る?」 素っ気無い私の言葉に、『奴』も、素っ気無く答える。 「温かいコーヒーがいい。ブラックで」 明快でかつ簡素な注文に私はうんうんと頷きながら、部室を出た。 学祭前夜だけあって、殆どのサークルが今の時間になっても、明日からの祭の準備をしている。 中には廊下で作業をしているサークルもいた。 一応、学祭前夜であっても、午後十時には学生は作業を止めて帰宅しなければならない規則が大学側から提示されてはいるが、そんな悠長なことは言っていられない。 この学祭は各部・サークルの、今後の活動資金を稼ぐ為の恰好の、そして、唯一の場であるから、どの部も祭とはいえ真剣勝負そのもの。 多少の無理も、規則無視も平気でやっている。 いろいろなサークル・同好会・部の部室が集まっている……学生の中では通称「部室棟」で通っている……校舎を出てすぐ傍に、自動販売機と喫煙場所を兼ねたベンダーコーナーがある。 そこは明かりこそ付いてはいるけれど、人一人いない、静寂に包まれた別世界だった。 約二十畳ほどの広さのベンダーコーナーの一辺を、八台の自動販売機が連れて置かれており、缶ジュース類を始め、カップ麺やアイスクリームの自販機、そして極めつけは……大学の場にあって然るべきかどうか首を傾げてしまう……煙草の自販機と、バラエティに富んでいる。 それらの前にプラスティック製の赤色のベンチが、背合わせに三台ずつの計六台が置かれている。 私は缶ジュースの自販機と向き合っているベンチに腰掛けると、大きな溜息を吐いてしまった。 肉体的な疲労感もあったけれど、私はそれ以上に、心理的な疲労感に襲われていた。 不慣れなパンフの編集や印刷、方々のコピー機を故障させての謝罪など、普段の生活と掛け離れたことをする疲労以上に、私は一時の帰宅以外、数えてみれば、約三十時間以上『奴』と行動を共にしている……それが、「心理的な疲労感」の原因。 疲労感の根元を辿れば、自ずと見えてくる、本当の自分の気持ち。 ────── 私は『奴』のことを、特別な異性、として見ていること。 いつからそう気持ちになっていたのか、私は覚えていない。 どうしてそういう気持ちになっていたかも、定かでない。 気が付けば、私は『奴』の姿を見ただけで、心臓を鷲掴みされるような思いになっていた。 けれど、高校の担任から『奴』が私と同じ大学に進むことを告げられた時に、初めて、私はその気持ちに気付いたことは、よく覚えている。 同じ学部でないことへの「安心」と、同じ大学に通うことへの「安心」。 その二重の「安心」は、私の心の表裏を的確に表していると思った。 常に『奴』が自分の視界内に存在していないことへの「安心」、それから『奴』が身近に存在していることへの「安心」。 別に私は『奴』が何をしていようが、どんな友人とつるんでいようが、どんな彼女と付き合っていようが、そんなことは気になど留めなかった。 ただ、私は遠巻きに『奴』を見つめていることが出来さえすれば、それで良かった。 「憧れの君」………私にとって、『奴』は特別な存在、そのものだった。 私は、このことを、ずっと誰にも言わなかった、いや、言えなかった。 『奴』に興味を持った女の子はみんな、どこでからか、私が『奴』と同じ高校の同じクラスメイトだったことを聞きつけ、必ず、私に接触してきては、「高校ではどんな感じだったの?」とか「彼女とか居るのかな?」とか「高校の時、よくモテてた?」とか、色々聞いて来た。 そんな女の子たちの、いじらしさや素直さが私は疎ましくある反面、たまらなく、羨ましかった。 私は昔から、好きなものに対して素直に「好き」と言えない性格で、それが災いして、何度もいろいろなことで失敗してきた。 とりわけ「恋愛」に関してはそうだった。 好きな男の子にチョコレートを上げたり、手紙を書いたり、告白したり、と、積極的に特定の相手にアプローチする彼女たちの熱意に圧倒される私が存在する、その一方で、そんな彼女たちを冷ややかに見据えている私が存在した。 それを「好き」だと言うことで、それまで普通だった視線が悪意や嫌悪や、悪い意味での好奇の混じったものになるかもしれない。 そんなことを考えるだけで、私は「好き」だと言うことを表現することに、臆病になってしまう。 怖い、だから、何もせずに口を噤んでしまう……。 そんなことをぼんやりと考えていて、時間のことをすっかりと忘れていた。 腕時計を見たら、既に時計の針は、十二時を十五分も過ぎていた。 「あ、ヤバイ…」 いつのまにか私は項垂れていて、全身が気だるさで重かった。 その時、私は傍で人の気配を感じ、その方へ頭を向けた。 やや痩身で、背の高い…男。 「あ……」 そこに立っていたのは、『奴』だった。 心配げな表情をして、私の顔を覗っている『奴』の目。 「おい、大丈夫か?」 不安な口調で『奴』は私に話しかける。 大丈夫じゃない、それが私の本音。 でも、言えない。 「…あ、大丈夫。少しウトウトしてたみたい」 「………」 その私の言葉に、『奴』の顔がより心配げな色に染まる。 私は嘘を吐く。 「大丈夫だってば、そんな顔しないでよ」 無理矢理、私は疲れた頬の筋肉を収縮させて、作り笑いを見せる。 それでもまだしばらくは、『奴』の表情は変わらなかった。 その眼差しの中から見えてくる、『奴』の優しさ。 思わず私はそれに釘付になってしまう。 両親の共通の趣味である映画好きは、三人兄妹の中で、とりわけ私の遺伝子に組み込まれた。 聞けば、物心付く頃から、玩具や絵本よりも、映画のチケットやパンフレットを私はねだっていたと、母親は言っていた。 実家に帰れば、両親の集めた数々の映画のパンフやビデオが、それ専用に買ってきた本棚にぎっしりと年代とタイトル別に保管されている。 妹や兄はそれほど映画に対する興味はなく、中学生の頃には平気で独りで映画館に通う子になっていた。 その一方で、私は体を動かすことが好きで、同じクラスの子に誘われて中学から大学一年までバドミントン部に所属していていた。 映画というインドアな一面と、バドミントンというアウトドアな一面が均衡して、私という人格が上手く付き合っていたのかもしれない。 そんな私の前に不意に現れた、『奴』の存在。 別に、特別な目で最初から見ていた訳じゃない。 でも、人伝で『あいつの趣味は、映画』と聞いた時には、何故か、胸が躍った。 その頃はまだ、自分自身が『奴』に対してそういう感情を抱いていることを分かっていなかったから、胸が躍った理由が分からなかった。 一度だけ、『奴』と映画館で偶然逢ったことがあった。 その時、私は別の同じ学年の別のクラスの男と付き合っていて、その男と映画館に来た。 『奴』は私の知らない女の子と一緒に手を繋いで映画館から出て来たところだった。 二人とも、お互いの姿を学校で無い場所で見たことや、デートの最中だったことで、かなり驚いた顔をした。 すれ違いざまに遭遇し、そして、お互い何も見ていなかったかのように、お互い別の方向を見て、その場をやり過ごした。 私は、一緒にいた男がこの「一瞬の出来事」に何か突っ込んでくるかと身構えていたけれど、全く気付いてない雰囲気だったから、少し安心したのを覚えている。 その時観た作品は、話自体がつまらなくてタイトルすら覚えていない。 けど、妙に艶のあるキスシーン……雨が降り頻る汚い路地裏の、暗がりの中で、貪り合うようにお互いが激しく求め合っている……が、印象的で、そこだけは鮮明に覚えている。 映像からの強烈な印象、というよりも、横に座っていた男がそのシーンで何度も生唾を呑んでいたことが原因だと今でも思っている。 映画を観終えた後、食事をして、ウィンドショッピングをして、帰りの満員電車に乗った時、私は男に「求められ」た。 私には全くそういう気は無かった、けれど、映画館を出てからずっとしたそうな素振をする男が哀れだったし、やっとの思いで勇気振り絞ってアプローチする姿が私には可愛く映った。 私は男に笑顔でOKのサインを出して見せた。 今まで一度も降りたことのない駅の、すぐ傍に立ち並ぶラブホテル街の一角に、私達は飛び込んだ。 入った部屋は、チープな装飾品と安い壁紙で覆われた、煙草のヤニが染み付いた、本当に「する」ためだけに設えた雰囲気の空間だった。 体を洗うこともなく、部屋に入るなり男は私をベッドの上に倒した。 不器用な男の手付きと荒い息を肌で感じながら、私は不意に『奴』のことを思い出した。 一緒に手を繋いで寄り添うように歩いていた女の子……もしかすると、『奴』も別の場所で、この男のようにあの女の子とこんなことをしてるのかと思うと、途端に体が熱くなった。 目前の男を『奴』と見立てて、私は男と限られた時間の中で貪りあった。 あの映画のキスシーンと『奴』の顔をオーバーラップさせながら、激しく、強く……。 「………」 じっ、と私を心配げに見つめる『奴』の眼差しが、突然軟らかなものに変わった。 そして、何かを言いかけそうな『奴』の口。 咄嗟に私はそれを封じるように、先に椅子から立ち上がり、声を出した。 「確かホットコーヒーだったよね、ブラック…だよね?」 はっきりと覚えている注文の品を、私はわざと『奴』に言って聞かせながら、小銭を自販機に注ぎ込む。 何を『奴』が言おうとしているのかは分からない、けれど、これ以上『奴』と向き合っている空間が私には耐えられず、先に動いてしまった。 「…あ、ああ…」 私の問い掛けに一瞬の間を置いてから、『奴』は答えたのと同時に、私はホットのブラックコーヒーのボタンを押した。 勢い良く取り出し口に出て来た缶コーヒーを取り上げ、『奴』に投げて渡す。 「サンキュ…」 「どういたしまして」 缶コーヒーを軽く顔の傍に掲げる『奴』に私は一瞬視線を向けたが、すぐに自販機に戻し、自分の欲しかった缶紅茶を購入すると、『奴』の横を無言で通り過ぎようとした。 その時、偶然、私の薬指と小指が、彼の指に、触れた。 いや、偶然じゃない。 明らかに彼の指が私の二本の指を……握った。 (………!) 男の、固くて乾いた、皮膚の感触。 触れられたことへの驚きが、私の腕から脳へと伝達していく。 でも、私はどうしていいか分からず、なにごともなかったように私はその手を引っ込め、歩みをより早く進めた。 ベンダーコーナーを出る時に、私は立ち止まり、小さく『奴』に言った。 「……心配、かけさせてゴメン、早く続きをしよ」 私は『奴』の言葉を聞く前に、部室棟に向かって歩き出した。 どうしていつもこうなんだろう、と思ってしまう。 同性にも異性にも、私は、優しくされることが好きになれなかった。 優しくされればされるほど、私はその優しさに反発してしまいたくなる。 どうしてなのか、分からないことは…ない。 優しくされることに慣れていない、という理由もあるけれど、それ以上に、自分の本心を曝け出してしまいそうな気がする…からだというのが一番近い理由だと思う。 別に両親から虐げられた記憶もなく、二つ上の姉と仲が悪いこともない。 友人とも「腹の中を探り合う」ようなことをした覚えもない。 でも、私は何故か自分の本性を曝け出して、人と付き合うことが出来なかった。 友人の打ち明け話にはいくらでも耳を貸し、頼まれれば意見も出していた。 けれど、私は決して誰にも打ち明けることを拒み、頼まれても口を噤んだりはぐらかしたりして、自分の心情を吐露することはなかった。 確かに、過去に何度か優しくされて、それに靡こうかと思ったことはあった。 でも、その「後」のことを考えると、思わず欲情に流されそうになる自分にブレーキをかけてしまう。 優しさに靡いた後、私は一杯どうなるのだろう、相手は一体どうするのだろう……と思うだけで、私の頭の中は混乱する。 だから、私はあえて理知的な態度を盾に、本性の自分をひたすら守っている。 優しくされるのを拒む度、可愛げのない女、だと私は自分を卑下する。 「なあ、」 部室に戻って来た時、突然、『奴』が話しかけてきた。 「いつまでに冊子、仕上げたらいいんだっけ?」 その『奴』の問い掛けに私は淡々と答える。 「……出来るだけ早く」 「だよな」 そう言いながら、『奴』は伸びをしつつ自分の席に座ると、作業に戻った。 私も同じように席に着き、作業に取りかかった。 怪我をしている二本の指を庇いなから、作業をするのだから、必然的にスピードはそれまで以上に落ちてしまう。 でも、タイムリミットが刻一刻と差し迫っている。 最悪でも客入れ開始の十五分前までには、会場入口の横に置いている机の上に冊子を積み重ねていたい。 紙の端がカットバン越しに当たる度に痛みが走るけれど、私は紙を折り続ける。 私はふと机の上にある紙の山を見て、驚いた。 部室を出る前は、山の三分の一ほどしか消化しきっていなかったのに、今は山の半分は消えていた。 私は『奴』の傍に畳まれて積み上げられている、折った紙の束を見た。 明らかに私の三倍以上、『奴』は折り上げていた。 「………」 黙々と単調な作業をこなしている『奴』。 やってもやってもなかなか終わりの見えてこない作業を、愚痴一つ零さずやっている。 思わず、私は胸が熱くなった。 そして、心の中で奴に手を合わせた。 考えてみれば、『奴』は私が一時アパートに戻った時以外、ずっと一緒に居てくれた。 束にしたら重くて持てないケント紙をずっと持っていてくれたのも、あちこちのコンビニに車で連れて行ってくれたのも、コピー機が壊れた時にお店の人に一緒に怒られてくれたのも、私が思わず「疲れた…少しファミレスでお茶して休みたい」と零したのを黙って頷いてくれたのも、全部『奴』だった。 忙し過ぎて、疲れ過ぎて、今までそのことが頭から欠落していた。 良く考えてみれば、途中で「俺、用があるから」と言って、私をどこかのコンビニに置き去りにして別れてもおかしくないのに、何も言わず、『奴』は私と一緒に今まで付き合ってくれている。 コンビニの店主に怒られたこと、この後の準備活動のスケジュールのことを喋って、間が持たないから、この間観た映画のことや、他愛のないことをポツポツと喋ったりしたけど、『奴』は真面目に聞いてくれた。 ずっと立ちっぱなしで、おまけに荷物持ちとドライバーまでして、いい加減疲れていたと思うのに、『奴』は文句一つ言わなかった。 私が『奴』なら、途中で逃げ出してる。 余り積極的に喋ろうとしないし、どちらかと言えば喋ることを拒んでいる女と何時間も一緒にいるだけで、発狂してしまいそうになる。 忍耐強いのだろうか、それとも同じサークルのメンバーだからか……分からない、どうして『奴』がここまで一緒にいてくれるのかが。 不意に、ついさっきのことが脳裏に蘇る……触れた指、いや、握られた指の感触。 明らかに『奴』は私の指を、「握った」、偶然じゃない。 まさか……? ───── しかし、私は頭に浮かんだその疑問符の先をすぐに掻き消す。 そんな、バカなことはない、有り得ない、と。 ……でも。 それから、二十分ばかし時間が過ぎた、時。 私はまた指を切ってしまった。 三度目の怪我。 今度は右手の中指、第一関節から第二関節にかけて襷掛けに、綺麗に切った。 ゆっくりと折っていたけれど、でもペースを決めてそれに乗せて折っているうちに調子に乗って、最初に指を切る前のペースで折ろうとした矢先、である。 折り終えた紙を傍に置こうとした時、紙の端で中指に深い線を描いた。 「っつ…!」 指から腕に伝わる激しい痛み、それから引いた線の回りが急に熱くなり、血が滲み出そうな感触を覚えるや、私は手を紙から遠ざけ、下に何もない場所に持って行った。 その直後、突然、私の右手首に激しく強い圧力が掛かった。 「………!?」 私は手首を見た。 自分の左手ではない左手が、私の手首を掴み上げていた。 華奢で長い五本の指が、私の手首に絡まっている。 その左手の先に伸びる腕を伝い、視線の行きついた先は、『奴』の顔だった。 私の傍に片膝を床につけてしゃがみ込んでいる『奴』。 いつのまに『奴』がそこに居たのか、私は驚いてしまう。 怒っているようにも、心配しているようにも見える、『奴』の表情。 だけど、その瞳は真摯そのものだった。 「………」 私はどぎまぎしていた。 また紙で指を切った私を言葉で責めることもなく、じっと私を見つめている、その眼差し。 そして、今まで見たことのない『奴』の表情が、私の前にある現実に。 私の顔を見つめたままの『奴』の視線が私にはただ、辛かった。 視線を反らすことも出来ず、苦しかった。 不注意に怪我した私を責めている、そんな眼差しが、痛い。 見つめられていることで、頬が仄かに赤く染まっているのを感じていた。 「離して」 苦しさの余り、私は掴まれた手を振り払おうとした。 ところが、『奴』は無言のまま、より強い力で私の手を封じ込め、自分の顔の傍まで引き寄せる。 「………!?」 ゆっくりと『奴』は視線を私から反らす。 その先にあるのは、私が新たに作った傷。 大きく切った傷口からは生温かい血が滲み出し、今にも筋を成して掌に流れていきそうな感覚を覚える。 『奴』は自身の右手を私の手に添え、私の少し湾曲した中指を、真っ直ぐに伸ばす。 そして、『奴』は自分の口を私の傷口に当てた。 「………や、やめ…!」 私は掴まれた右腕を引き剥がそうと懸命に、後ろに引こうとするけれど、『奴』の両手は私の腕を捕らえて離そうとしない。 むしろ、より力を込めて、私を引き付けようとしているのを感じた。 「…やめて……」 突然のそんな行為に、私はうろたえてしまう。 どうして急に、と混乱する。 私の顔も耳も、恥かしさの余りに真っ赤になっていて、涙まで込み上がりそうになっていた。 そんな私の様を『奴』は、私の指に唇を当てたまま、見つめていた。 ゆっくりと指から唇を剥がし、鋭い口調で私を制す。 「……止血してるんだ、じっとしてろ」 その上目遣いな眼差しは明らかに、「男」の、眼差しだった。 獰猛で、荒々しい、まるで獣のような、眼差し。 私は竦み上がった。 同時に、そんな表情もする『奴』の意外性に私の心は大きく揺さ振られた。 私の動揺を見抜くかのように、『奴』はより強い眼差しを私に送る。 怖かった、それ以上、強く見つめられたくなかった。 降参……腕に込めていた力を弛め、私は『奴』の一言に従順する。 抵抗するのを諦めると、『奴』も視線を私の指の方へと戻した。 私の右手は、今はもう『奴』の物になっていた。 今一度、『奴』の唇は私の傷口に触れ、それを口の中に含んだ。 指に触れる『奴』の唇は薄い割に意外と柔らかかった。 (……気持ち、良い) 微かに傷口に歯が当たって痛いけれど、決してそれは不快な痛みではなかった。 むしろ、その痛みは「幸せ」なものだった。 止血が目的だとしても、『奴』の唇が私の指に触れている、その事実に私は胸がはちきれそうだった。 その一方で、どうしてこの男が止血の目的で、私の指を吸っているのか、その理由が分からなくて困惑する。 傷口から出て行く血と一緒に、「私はあなたのことが好きなんです」という言葉が『奴』に伝わっていそうな気がして、それがただ、恥かしかった。 「悟られたい」と思う一方で、「ひた隠しにしなければ」と思う、ジレンマへ陥っている自分が今、存在している。 どこを見ているともなく、『奴』は視線を虚空に置いたまま、私の傷口を吸い続ける。 少し面長の顔……通った鼻筋、綺麗な線を描いている下顎、引き締まった頬、それら全てが今は「綺麗」に見えて仕方なかった。 溢れ出る血を吸い上げる度に、皮膚が引っ張り上げられる感触と一緒に『奴』の口元から血と唾液を吸い込む音が漏れ出てきて、その独特で卑猥な音を耳にする度、私は頬を染めてしまう。 時折、生温かい感触が傷口をなぞり上げる。 別の生き物のように、上に下に、何度も何度も、執拗に這う。 「……んっ…」 ひりっとして、思わず体を強張らせ、小さく叫んでしまう。 その度に『奴』は視線をこっちに向け、私を見据えながら、より舌で傷口をなぞる。 弄んでいる……としか表現出来ない、舌の這わせ方。 まるで、私の理性がどこまで耐えられるか、試しているかのような……。 『奴』の執拗なまでの止血はまだ続く。 もう止まっているように思える傷口。 それでも、『奴』は私の指を離そうとしない。 『奴』の口は私の指を、吸う、というよりも、食べている、と表現した方がいいほど、傷口やその回りをしつこく舐めていた。 それは、舌による愛撫……そのもの。 キスの時の舌遣いに、似てる。 吸い上げたり、絡ませたり、擽ったり、噛んだりする行為。 きっと『奴』は他の女の子にもこういうことをしてきたんだ、と思う。 こんなキスをされたら、私はたちまち無防備になってしまう。 (…あ、だめ…) 耐えきれず、私は瞼を閉じた。 恥かしかった。 ただ私は『奴』に止血してもらっているだけなのに、体の奥は『奴』のことを想って、熱くなっている。 一枚一枚、理性で包んでいた私の本性が剥がされていくような錯覚。 『奴』の手で本当の自分が暴かれるような気がして怖かった。 ……でも、もう降参する。 このまま自分が今まで秘めていた本当の想いを、『奴』の腕で乱暴に暴かれたい。 いや、もうこのまま暴いて欲しい…。 突然、『奴』の唇が指から引き剥がされる。 それに気付いて私は目を開けた。 『奴』の視線と私の視線がぶつかる。 私は堪らず俯いてしまう。 ゆっくりと『奴』は手にしていた私の手を私の膝の上に置いた。 「……血、止まった」 ぶっきらぼうに『奴』は言うと、床から体を浮かせ、私を見下ろす恰好になった。 「………」 私には何も言えず、頷くのが精一杯だった。 それまでの、されるがままにされていた『奴』の行為に、いまだに私の頬は赤く染まったままだった。 顔が、上げられない。 まともに『奴』の顔が見れない。 「………なぁ、」 しばしの沈黙を破ったのは、『奴』の声だった。 「さっき、お前探しに本館行ってみたら、医務室が解放されてた」 「………?」 私は『奴』の方を見上げた。 「もう、カットバン、一枚も持ってないんだろ?」 「……あ、うん」 素直に頷く。 「その新しい傷と一緒に、今までに作った傷、全部、綺麗に消毒しよう」 「……うん」 「それからさ…」 そう言うと、『奴』は言葉を止め、一瞬、天井を見るような仕草をして、再び私の方を見た。 「俺、ずっと寝てないんだわ。少しだけ仮眠取りたいんだけど、」 「………」 「…お前も、全く寝てないだろ? 目にクマが出来てるしさ」 『奴』の視線が私を捕らえて離さそうとしない。 私は頷く。 「少し…休まない?」 もう一度、私は無言で頷く。 僅かの沈黙、そして、口を開く。 「ねえ…私さ、君にお願いがあるんだけど、」 「………?」 私は、思い返す。 冊子の編集をしていた時に読んだ、『奴』の書いた原稿を。 今年、『奴』が選んだ作品は『ラン・ローラ・ラン』……その中で、『奴』はこんなことを書いている。 ……人生に何度もリセットがあってたまるか!…って、観ながら俺は無性にムカついてしょうがなかったんだけど、でも、俺はこの作品全編で語られる、ローラとマニの愛のパワーに圧倒されっぱなしだった。「愛があれば怖い物なんて何もない」って言葉を俺は鵜呑みにはしたくないけれど、俺はこの作品についてだけは、鵜呑みにしても良いと思った。それに、ローラのひたむきさを観て、「素直にならなきゃ」とも思った。まぁ、作品自体はそんなに好きじゃないけど……。 素直、になる。 言葉は耳にしてない、でも、それは確信した。 二度の明確な意思を受け止めていながら、それを無視するのは 今、私が心から「素直」にならなきゃ、私も『奴』も、可哀想過ぎる。 「医務室に行く前に一つ、して欲しいことがあるんだけど、」 「………何?」 『奴』は密かに目を細める。 一瞬、『奴』から目を反らし、気持ちを整え、それから、私は毅然と『奴』の目を見た。 そして、その一言を言うために ───── 私は自分自身の頑なな心の封を、切った。 《終》 |