外伝2「んぐんぐんぐんぐんぐ」
作・ヒロポンさま
１３年前−
アスカのマンション−
んぐんぐんぐんぐんぐ
そんな音がしそうだった。
一生懸命、アスカの乳首に吸い付いているユイカのことを見ながら、綾波レイは不思議な安らぎを覚えていた。
自然分娩を主張したアスカの意に従って、この部屋でユイカが生まれてから、すでに一月。レイがこの場所を訪れたのは、その時以来だ。
あの日、赤黒く染まった布切れを握り締めながら、自分と生まれてくる子供のために苦しみに耐えていたアスカを見て以来、レイの心の中には奇妙な細波が立っていた。
悔しさと悲しさと尊敬と劣等感。
ごちゃ混ぜになった心を選り分けることは、出来なかった。未分化の心は、ただ戸惑い震えていた。
それは恐れだ。
レイははじめて、恐れを感じていた。消滅への恐怖。何者も生み出さないまま、誰の心に残ることもないまま消えてしまう恐怖。
自分が、血を流さない女であることを、悲しいと思った。
強烈な感情は、少しずつ彼女自身を覆っていき、その輪郭が彼女の形を明確にしていった。
行き場を失った彼女の心は、いつしか一つの想いにたどり着いた。
ぎこちない仕草と、優しい微笑み。一人の少年の姿が、浮かんでは消えた。
碇シンジの消滅から、約十ヶ月。綾波レイは、初めて、シンジに対する自分の気持ちを自覚した。自分ではない女性が、碇シンジとの絆を結んだのを目撃したことによって……。
んぐんぐんぐんぐ
赤ちゃんのことを見詰める優しいアスカの瞳。あまったるい匂い。部屋の中は、なんだか柔らかな雰囲気に満たされていて、ここ一ヶ月、冷たさを増していたレイの心をゆったりと包んでくれた。
んぐんぐんぐんぐ
静脈が青白く浮き出たアスカの乳房。クォーターゆえだろうか色素の薄い桜色の乳首に口をつけて、彼女の大切な絆が、生きるための単調で優しい作業を続けている。
−アスカとユイカちゃんのこと、色々助けてあげなさい
ミサトに言われて、重い心のままここに来た。
さっきまで私は、この人となにを話していたのかしら。
目の前の光景に、短い記憶と重苦しい何かをレイは忘れてしまっていた。
「………生きてるのね……」
赤ちゃんに対してか、それとも自分自身に言ったのか…………
アスカはその言葉を受けて、レイに優しい視線を送っただけで、再び胸の中の幼子に意識を戻した。
＊
「………………………」
「すぅーすぅー」
静かな部屋。
レイとユイカだけが、マンションに残されていた。
アスカは、ちょうどユイカが寝付いたので、近所に買い物に出かていた。本来なら、レイはそういうことを手伝いに来たのだが、日用品やベビーグッズにあまりにも無知であったため、説明中に業を煮やしたアスカが自分で買いに出かけたのだ。
「………………………」
「すぅーすぅー」
レイは、ペタンと女の子座りでカーペットの上に腰掛けて、小さな布団の上で寝息を立てているユイカのことを覗き込んでいる。
起きちゃ駄目、起きちゃ駄目、起きちゃ駄目、起きちゃ駄目
レイは正直、この子が怖かった。ふれたら壊れてしまいそうで、どう対応したら言いか分からない。突然目が覚めて、泣き出してしまったらどうしよう。そんなことばかり考えて、ひたすら、アスカが帰宅するまで、ユイカがお昼寝を続けてくれることを祈っていた。
赤い瞳で、ジッーーーーーーーーと、赤ちゃんのことを「監視」する。
チッチッチッチッチッチッ
レイには、時計の音がやけに大きく聞こえていた。
「んっ、ぶぁ」
どれくらいたっただろう。
自分に注がれる気配を感じたのか、ユイカは突然、ぱっちりと目を開いた。
ビクッ
レイは驚いて目をみはる。
泣かないで泣かないで………お願い
赤ちゃんと少女は、数秒の間黙って見詰め合っていた。
最初に焦れてきたのは、やっぱりというか、ユイカの方だった。レイの方に差し伸べるように手をパタパタと動かす。
突き動かされるかのように、レイが差し出した手。その指先を、小さい手がぎゅっと握った。
「あぁー、うぅ」
何かを伝えるように、レイのことを見詰める。動くその手に指を任せるうちに、柔らかなほっぺたに指先が触れた。
あったかい……
体温と体温が、レイの緊張を溶かしていく。
硬さの残る少女らしい美貌が、柔らかくほころびていく様に、ユイカも笑顔で答えた。
「ぶぅ、ぁあぅ」
ユイカの笑顔は、彼女の心に住む少年のそれに、本当に良く似ていた。
気付いた時、レイは自然に手を差し伸べて、その温かい体を胸に掻き抱いていた。
「………碇君」
一人呟いてみる。
「…………碇君碇君…いかり…くぅん」
冷たい頬の上を熱い涙が滴り落ちていく。
駄目………止まらない
今まで押え込んでいたものを吐き出してしまうかのように、次から次ぎへと溢れてくる涙。
その内の何粒かが、ユイカの顔の上に落ちた。
「ごめんなさい………ごめんなさい」
レイは、泣きながら、その涙を優しく指で拭う。
すすり泣くその声を押さえることも出来ず、自分の中に湧き起こった情動に戸惑っていた少女の頬に、柔らかい何かがふれた。
「……？」
何時の間にか、ユイカが、あの笑顔を浮かべながら、レイの頬をペタペタ叩いていた。
「あぶぅ」
レイの真紅の瞳に、優しい光が宿った。
アスカと同じような、暖かい光。
「……………そうね。わかったわ」
「あなたは……ユイカは……絆なのね……あの人のだけじゃない、碇君を知っているみんなの絆」
絹の様に滑らかな頬に自分の頬を擦りあわせる。
レイの水色の髪を引っ張りながら、ユイカがけらけらと笑った。
＊
「たただいまぁ」
一人呟くようにそう口にして、アスカはマンションに帰宅した。声が小さいのは、寝ているユイカを起こさないためだ。両手一杯に持ったビニール袋が、カサカサと音を立てる。
ユイカは、まだ寝てるのかなぁ？ファーストはどうしたのかしら？
ペタペタペタ
フローリングのダイニングを横切り、リビングを覗き込む。
アスカの、動きがぴたっと止まった。
「…………」
そこには、ブラウスの前をはだけて、ユイカに乳首を含ませているレイの姿があった。
……ファースト？
水色の髪が、頬に流れていた。胸元の赤ちゃんを覗き込むその顔には、美しく柔らかい笑顔が浮かんでいた。
この子………こういう顔も出来るんだ。…………なんだか、シンジの笑顔に似てる。
その感想は、アスカを不快にさせなかった。
「レイ」
その声に、レイは首だけで振り返る。細い首筋。はだけた胸元にはり付いたユイカが、不思議そうにその顔を覗き込んだ。
青い瞳に覗き込まれて、レイは耳まで真っ赤になった。
「………ごめんなさい」
慌てながらも、落とさない様に気を付けて、ユイカを布団におろすと、はだけていたブラウスをぎゅっと閉じあわせる。
アスカは、自分のイメージにはない少女の動揺に、クスリと笑った。
「いいのよ。やってみたかったんでしょ？」
布団の縁にかかっていたレイの指先を、ユイカが再び握った。
離しちゃ嫌だとばかりに、自分のことを覗き込むその瞳を見詰めながら、レイはゆっくりと肯いた。
少し間が開いた。
アスカは、少し迷ったように視線をさまよわせていた。
「ねぇ、私あんたに頼みがあるんだけど」
何時になく真面目な調子で言う。
「あなたが……私に頼みごとがあるの？」
レイは、即座に言い返した。彼女としては、別に嫌みで行ったわけではない。純粋に不思議だったのだ。
その言葉に、アスカの形の良い眉が片方だけクイッとあがる。
器用……
その動きを見て、レイは場違いな感慨を脳裏に浮かべていた。その冷静な態度が、アスカの激しやすい神経を更に逆立てる。
アスカは、どすどすと音を立ててレイに近づくと、むき出しになっていたレイの乳房の先端を、人差し指で突っついた。
ツンッ
「あんっ」
珍しく女の子らしい声を上げて、レイが体を竦ませる。慌てて、再びブラウスの前を掻きあわせると、真っ赤になってアスカのことを睨み付けた。
「ユイカ、けっこう強い力で吸ったでしょ」
アスカは、レイの取り乱した様子に溜飲を下げたのか、にっこりと笑うと、自分もユイカの側に腰掛けた。
「ユイカは、このおねーちゃんのこと好きでちゅか？」
ぷくぷくの娘のほっぺを突つく。
「ぶぅああぁぁ」
ユイカは、楽しそうに笑った。
「ねぇ、レイ」
「なに？」
「私はこれから、大学院に戻るわ。……それからネルフに入って、シンジを取り戻すためのノウハウを復元してみせる。なに……簡単よ、一度は、出来た事だもの…………」
大丈夫よね。シンジ。
ぎゅっと手を握る。
「ても、その間、ユイカのこと、あまりかまってあげられなくなるかもしれない………そういう時………そういう時、あんたに、ユイカのことお願いしても良い？」
自分とレイのことを交互に見詰める娘の無邪気な仕草を見守りながら、アスカはそう語った。
「……いいわ」
レイも、ユイカを見詰めながら答えを返す。
同じ少年への思いを込めて………
ユイカを通して、二人はやっと少しだけ分かり合えたような気がしていた。
「さっきからもう呼んでるけど、今日からあんたのこと、レイって呼ぶから、アンタもアタシのことは、アスカって呼びなさい」
アスカは、早口でそういうと、さっさと立ち上がって、ダイニングに行ってしまった。
「わかったわ」
残されたレイの口元には、言われたらそれと分かるぐらいの微量な笑みが浮かんでいた。
ガサガサ
しばらくすると、ダイニングからビニール袋の音がした。レイが覗き込むと、アスカが、買ってきた食糧を冷蔵庫の中に入れていた。
レイが再び、ユイカに目線歩向けた時、彼女は眠りの世界の住人になっていた。
ふぁ
天使の寝顔を見詰めているうちに、レイの口に小さな可愛いあくびが浮かんだ。
数分後、紅茶を入れたアスカが、レイを呼びにリビングに足を踏み入れた時、レイとユイカは仲良く並んでお昼寝をしていた。
アスカは、苦笑しながらも、二人の体にタオルケットをかけてやると、部屋の隅に積んでおいた洗濯物の山をたたむ作業をしはじめた。
これはまだ、碇レイが綾波レイだった頃のお話。
綾波レイは、これから１０日の後、碇レイになった。
終わり
どうも、誤字脱字及び繰り返し表現王のヒロポンです。
「レイ母さん振興会」用の投稿でございます。
ほんと、拙作ごときに(T_T)
感謝感激ひなあられです。
この喜びを胸に、乾ききった日常を生きていきたいとオモッとります。
しかし・・・・・・・・・題名適当ですなぁ・・・・・なにも浮かばなかったから(^_^;)
一ヶ月にしては、ユイカの表情が豊かすぎるし・・・・・
みゃあさん、ここまで読んでくださった方々、本当にありがとうございました。
読んだら是非、感想を送ってあげてください。