第3実験場で使徒出現の報を受け、リツコは発令所へと向かっていた。
以前アスカ来日の際に運動不足を実感し、
Nerv内のレクリエーション施設で走るようにはしていたが、全力疾走は流石に息が切れる。
また、そうすぐに足が速くなる筈もなく、先行していたミサトの背は既に見えない。
まあ、向こうは受けた訓練の質からして違うのだが。
「ミサト、状況は!?」
「全く、急いでるんだからそれ、置いてくれば良いのに。」
発令所に飛び込んだリツコにミサトが視線で示すのは、彼女が抱えている小型のノートパソコン。
シンジのA.T.F実験のデータをバックアップしていたものだ。
ミサトよりスタートが遅れた原因でもある。
だが、元々プライベートに属する実験でもあったし、それに、
「何が必要になるか、判らないでしょう。」
使徒戦では何がヒントになるか判らないのだから。
使徒の出現までに行っていた実験のデータだ、もしかしたらという事もある。
「それで?」
「鬼ごっこの最中よ。」
メインモニターに映し出されたNerv内部の3D図面。
その上でかなりのスピードで動く青の点と、追いかける様に伸びていく黒い線が走っている。
「完全にシンジ君に狙いを定めたみたい。」
「レイとアスカは?」
あの子達の足の速さはミサトのそれに匹敵する。
自分たちより少々回り道する事になるとはいえ、もうとっくに着いていてもいい頃なのだが。
「アスカ、聞こえてる?」
ミサトも変に思ったらしい、先程から着けたままのヘッドフォン型通信機に呼びかけてみる。
『ええ、こっちもちょうど到着したところよ。』
「到着?今どこにいるの?」
『アタシ達はチルドレンよ。ケイジに決まってるじゃない。』
なるほど、使徒相手ならばEVAが必要というセオリーに従ったという事か。
『それに、ここにも端末はあるのよ。情報の連結をお願い。』
「解ったわ。」
「マヤ、繋いで。」
彼女達の通信をスピーカーに出して聞いていたリツコが指示を出す。
「大丈夫なの?」
「多少呼吸が乱れていても思考に問題は無いわ。始めましょう。」
おそらく、EVAを用いない初めての使徒戦を。
Evangelion The World
第弐拾弐・二話 Intelligence 後編
かのっちPresents
メインモニターの巨大な逃走経路と重ねる様に、
サブウインドウにはシンジのリアルタイムの逃走劇が映っている。
彼は私服の上に羽織ったマントを翻しながら、追ってくる黒い線へとA.T.F弾で攻撃していた。
走るスピードは逃走開始時より落ちているものの、使徒もA.T.Fで防御しているせいか、
追走の早さは少年のものと等しい。
「刀で攻勢には出ず、牽制しながら逃げるだけ。見事な囮ね。使徒が他には目もくれないわ。」
『でも危険すぎるわ。相手は使徒でシンジは生身なんだから。対策は?』
「これからよ。まずは相手を知る事から。」
「第一に、なぜシンジ君を狙っているのか?」
初歩的ではあるが重要事項だろう。
使徒の第一目的はアダムとの接触だ。
わざわざシンジを追いかけ回す必要性があるとは思えない。
『攻撃に反応してるんじゃないの?ラミエルみたいに。』
『それだけじゃないと思う。あの使徒は攻撃される前にお兄ちゃんに向かっていたもの。
多分、サハクイエルの様に。』
アスカの隣にいるであろうレイの意見に、数日前の作戦会議が思い起こされる。
「EVAと同じ、攻撃対象と見なされる要素・・・。A.T.Fね。」
「なら、やってみる価値はあるわね。シンジ君。」
『はい。』
「敵はA.T.Fを探知している可能性が高いわ。A.T.Fを使わず隠れて。
そうね、出来れば気も断ってみて。」
『了解。じゃ、次の曲がり角で。』
「OK。マヤちゃん、ズームして。」
「了解。」
3D見取り図の一部が拡大される。
長い廊下を走る青の点とそれを追う黒い線。
その向かう先、十数Mに右へ続く交差路がある。
「曲がる寸前でA.T.F停止よ。」
『はい。』
警備用監視カメラが、逃げるシンジを捉える。
彼は結構なスピードを思いっきり床を蹴って強引に方向転換、
さらには気弾を壁に向かって打ち込み、その反作用をも利用してほぼ直角に曲がった。
殺しきれなかった勢いは、空中で一回転して着地した足で滑りながらブレーキ、
完全に動きを止める。
「A.T.Fの反応は?」
「シンジ君のものは消えています。」
「使徒は?」
「今曲がり角に。動き、止まりました。」
「カメラを向けて。」
新たにウインドウが1つ開き、件の交差路を映し出す。
道の交わったその中心部で、黒い線の進行は止まっている。
そしてその場を中心に、円形を保ったまま広がり始めた。
先程までの勢いとは違い、インクを紙に落とした時の様なじわじわとした広がり。
「よし、見失っているわ。」
「広がりを止めるわよ。マヤ、浸食部分に監視カメラのレーザーを照射。
先端部分と、その途中部分に追加2カ所。出力のリミッターも解除よ。」
監視カメラの下部に付属する対人用小型レーザー照射装置。
そこから発射された光束が黒い床の少し手前の空中で、
ややオレンジ色に近い八角形の波紋に遮られる。
「レーザー、使徒のA.T.Fで止められました。」
「でも浸食も止まったわ。」
黒の広がりは肉眼では認められない。
念の為機械の目でも確かめてみたが、動きは完全に止まっていた。
「でも、なぜ?」
「動きが止まったかって?使徒はその活動のエネルギーにS2機関を使っているわ。
S2機関が何なのかは知ってるわね。」
「当然でしょ。私の父が研究していた永久機関でしょ。」
そして、2nd-Iの規模の大きさはアダムのそれが暴走した為。
「たとえ永久機関でも出力は無限ではないわ。
アダムの引き起こした2nd-Iがダムの放水なら、この使徒は家庭の水道の蛇口止まり。
対人用レーザー3機分の出力が限界といったところね。」
つまり現在浸食にエネルギーを廻している余裕が無いのだ。
『でも、シンジを追いかけていた時はA.T.Fを展開しながらじゃなかった?』
「シンジ君のA.T.F弾はレーザーと違ってそれ自体は単発だもの。
でも、追うスピードは遅くなっていたでしょう。」
『なるほどね。で、ミサト、これからどうするの?』
「移動距離がそれなりに長かったのがこの場合幸運だったわ。
監視カメラは通路の各部分に設置してあるし、当然レーザーは標準装備。
一斉に攻撃してA.T.Fの出力以上のダメージを与え続け、削っていく。」
「作業用の携帯型レーザーもあるわ。
動きが止まっているのなら、手の空いた作業員に背負わせて途中部分を潰していきましょう。」
『今までの使徒の様に能力を増す可能性は?』
サキエルやイスラフェルはN2攻撃を受けた後、攻撃能力を増加させていた。
「シンジ君の懸念はもっともだけど、EVAを使えない以上長期戦にならざるを得ないわ。」
「出力以上の付加を与え続ける事で進化の余裕をなくさせるのを期待しましょう。」
モニター内ではA.T.Fを貫通した光束が黒い床に接触し、細い煙を立ち上がらせていた。
「効いてますね。」
「今のところは順調ね。実験場はこの方法で処理するとして、
実験場からタンパク壁まではどうする?」
なにせ壁の中を一直線に進んでいたのだ。表層に出ていない分、作業は難易度を増す。
「無人機を併用してスタート地点から挟み撃ちにしましょう。でも、問題は時間よ。」
「解ってる。相手に余裕なんて与えないわ。日向君、今のうちに処理班を組織するわよ。」
その時、発令所内に使徒出現ではない警報が鳴り響く。
「なに!?」
「警備部へのハッキングです!」
「こんな時に!?」
「マヤと日向二尉は防衛!青葉二尉は逆探!今の作業は部下に引き継がせなさい!」
「「「了解!」」」
すぐさま作業を開始する3人。
リツコ程ではないが、マヤのプログラミング能力も常人を遥かに超えた高水準にある。
キータッチの速度も彼女を超えるのはリツコ以外にいない。
その彼女をもってしても、なおかつマコトの手伝いを受けても押し返せないでいる。
「人間業じゃないぞ、これは・・・!」
『リツコさん、何か変です。ただの黒いシミだったのが何かの模様に光ってます。
これ、電子機器に関係してませんか?』
「なんですって?」
「逆探、成功しました!場所は、第3実験場です!」
「映像出して!」
再び新しいウインドウが開き、第3実験場内部が映される。
そこにはいつの間にかオペレートルームにまで浸食した黒と、その上で光る複雑な線。
「追走でフルパワーじゃなかったのね・・・!」
「これは、電子回路だわ。」
偶然なのか判らないが、実験場内の端末に接触して、この方向への進化が始まったのだろう。
あの広大な部屋一面が電子回路の光に埋め尽くされている。
ある意味壮観というやつだが、その性能を考えればゾッとするどころではない。
「警備部のメインバンク、乗っ取られました。」
「使徒、パスコードを検索中・・・。これは、まずい!MAGIに侵入するつもりです!!」
「マヤ、今すぐ全ての防壁を展開しなさい!」
「はい!」
「目標バルタザール!侵入、始まりました!」
MAGIはNervの中枢とも言うべきもので、
スーパーコンピューター3台で一つのユニットを成している。
バルタザール、メルキオール、カスパールのそれぞれのプログラムには僅かな差異を設けてあり、重要課題は3台の間での合議制をとらせているのだ。
ちなみに開発者はリツコの母、赤木ナオコで、システムアップしたのがリツコである。
完成から数年経ったとはいえ、ユニット中の一台でも世界最高の性能を誇っているのだが、
それをあざ笑うかのごとく使徒はバルタザールの中へと食い込んでいく。
「駄目です!バルタザール、リプログラムされました!」
同時に、
『バルタザールよりNerv本部の自律自爆が提案されました。合議を開始します。』
「赤木博士、I/Oシステムのダウンだ!」
今まで黙していたコウゾウが宣言する。
コンピューターの入出力装置そのものを落とす事で、これ以上の被害を食い止めるという事だ。
この場においての最終手段とも言える。
「了解!用意は!?」
I/Oシステムダウンには二人同時の操作が必要。
その操作鍵をマコトとシゲルが握っている。
「Okです!」
「こちらも!」
「否決と同時に落とすわよ!」
メルキオールとカスパールが未だこちら側である以上、MAGIは自爆を否決させる筈だ。
『反対2、賛成1。』
「カウント、3、2、1・・・。」
『自律自爆は否決されました。』
「落として!」
リツコの声を合図にシステムダウン用の鍵を同時に回す二人。
しかし、落ちない。
「反応、ありません!」
「メルキオールへの侵入、始まりました!」
『どーいうことよ!使徒はアダムを目指してるんじゃなかったの!?』
事の推移を見ていただろうアスカの大声に、ついミサトも大声を返してしまう。
「聞いたとおりよ!邪魔者を手っ取り早く排除しようってんでしょ!」
『爆発の規模は!?下手したらアダムと心中じゃない!
サハクイエルでもブレーキかけてたのに、何考えてんのよ!』
「使徒に直接訊いて!!」
「・・・それよ!!マヤ、これをあなたの端末に繋いで!!」
リツコがマヤへと投げてよこしたのは、自分のノートパソコンに繋がったままのケーブルの一端。
彼女はいすを持ってくる時間をも惜しみ、床へと直に座り込む。
そして、物凄い勢いでキーボードを叩き始めた。
「いい、今から送るデータをカスパールに送り、他の2機と直結、三者合議させなさい!」
終了までの時間、僅かに5秒。まさに神速。
「え、でも・・・。」
「やりなさい!」
「は、はい!」
「リツコ!?」
まさか自暴自棄になったのではないかと危ぶむミサトだったが、
リツコの横顔は真剣そのもので理性を失っているとは思えない。
「黙って見てて。」
遂にメルキオールも完全に使徒の支配下に置かれ、2度目の合議が始まった。
3台のうち2台が向こうの支配下という状況下での合議。
数の上では自爆の決定は為されたも同然だが。
『反対2、条件付き賛成1。自律自爆は否決されました。』
瞬間、発令所全体が歓声に包まれた。
大きく息を吐き出して力を抜くリツコに、同じく緊張の解けたミサトが近づく。
「ねえ、どんな魔法を使ったのよ。」
「魔法じゃないわ。ただ考えさせたのよ。判断材料をプレゼントしてね。」
彼等の目的がアダムとの同化である以上、アダムが消滅するまねは絶対に避ける筈だ。
前回のサハクイエルが落下速度を調節していた事からも、その事は伺える。
今回この使徒がNervを自爆させようとしたのは、アダムが今どういう状態にあり、
自律自爆には複数のN2兵器を使っていると知らないからではないか。
そう考えてアダムのA.T.Fの推定強度やN2兵器の破壊力などを材料に、
自律自爆したらどうなるかを判断させたのだ。
ちなみにA.T.Fの推定強度は、以前測ったシンジのものを流用している。
だからこそ5秒間で必要なデータを作成出来たというわけだ。
「半分賭けだったけど、上手くいったわ。」
「時間は稼げたってわけね。それで、どうする?さっきまでの方法は使えないでしょ。」
「ええ。この使徒はとにかく学習スピードが、というより、進化のスピードが速い。
そして電子回路としての側面を手に入れたわ。残り時間は少ないわね。」
「MAGIの物理破棄は?」
自律自爆を提案、実行できるのはMAGIだけである。
「無意味よ。本体はあくまで黒いシミだもの。下手をしたらMAGIの機能をコピーしかねないわ。
そこで、電子回路の特性を逆手に取って、
アポトーシスプログラムを組んで流し込んでみようと思うの。」
『自殺因子?でも、攻勢プログラムの類いは効かないんでしょ。』
通信を聞きアスカが会話に混ざって来た。
彼女も一応大学を卒業した才女、この手の思索は得意分野である。
「性質としては進化の促進に近いわ。おそらく受け入れる。」
「それにしたところで、コンピューター内限定じゃないの?」
「かもね。だから確実性を高める為に、直接打ち込むの。
使徒の体が光の様な物質で出来ているって言ったのは憶えてる?
ゆえに、レーザー光線を高出力パルス発進装置に見立ててプログラムを叩き込むの。」
『随分とまた、荒唐無稽な・・・。』
幽霊に高圧電流を流して滅ぼそうといったノリだ。
「自分で言っててもそう思うわ。
でも、使徒の存在の仕方を考えれば、充分に効果を期待できるの。」
少なくとも彼等の存在は物理的に確認されているし、そのDNAパターンも解析中だ。
人間がDNA治療という形で自らの存在プログラムに干渉できるなら、
それに類似した存在に同じ事をするのは、そう困難な事ではない。
「人の場合その効果が現れるのに成長、もしくは新陳代謝という時間経過を必要とする。
でも、彼等は自らの変化をかなりの短時間で済ませてしまえる。
効果ありとなればそのスピードはかなり早いと思うわ。」
例えるならば、燎原の火。止めようとした時には既に手遅れといったところか。
「信じるわ。用意にはどれくらいかかる?」
「プログラムを組むのは1分もあれば出来るわ。雛形はここ。」
元々ポジトロンライフル用に転化出来ないかと研究中だったの、と、ノートパソコンを見せる。
「持って来てて正解だったでしょ。」
そう得意げに笑う親友に苦笑いを浮かべるミサト。
「そうね。でも警備部を押さえられたのはきついわね。」
監視カメラの制御は警備部が担当する事になっているのだが、
そのメインバンクは既に使徒の支配下にある。
そうなれば、結局人の力が必要となるのだ。
「携帯型レーザーをパルス発進モードにするのはそう難しい事じゃないわ。」
「なら、機械関係はそっちに任せるわ。日向君は作戦部を使って実動部隊を組織させて。
あと、使徒の動きはどう?」
「今のところは何も、目立った動きはありません。」
「嵐の前の静けさ、か。気を抜かないで。まだ使徒を倒したわけじゃないんだから。」
『ミサトさん、聞こえますか?』
平常時とは違う、緊迫した雰囲気のシンジの声。
もちろん彼の目の前には使徒がいるのだから、張りつめた雰囲気もそう不思議ではない。
しかし、この声はまるで、今まさに直接使徒と相対している時の様な色。
「どうしたの?」
『変な感じです。』
「変?」
感覚によるものとはいえ、この少年にしては余りに曖昧な物言いだ。
『狙われている感じがするのに、接近してくる気配を感じない。』
と、メインモニターに変化があった。
先程の3D見取り図が現れたかと思うと、それにあらゆる検索をかけ始めたのだ。
マヤの方に視線を向け問うてみるが、ミサトと同じく怪訝そうな顔で首を振るだけ。
(追走劇の履歴を洗ってる?何の為に?)
『いえ、既に周囲を包囲されている様な感じです。』
時間の経過で変化する青の点と黒の線。
そしてそれらが通過した地点の警備カメラの映像が瞬く間に表示される。
全ての画像が巻き戻しと早送りを行い、目的のものを見つけ出し、止まった。
画面を埋め尽くす様に表示された、マントを翻しつつ走るシンジ。
すると画面が三者合議のモードへと入った。
先程の様な音声警告が無い以上、通常レベルの合議なのだろうが、嫌な予感がする。
「マヤちゃん、議題内容は!?」
しかしその問いは、MAGI自身による回答の提示という形で返された。
『賛成2、条件付き賛成1で、この個体をアダムと判断する。』
気配を殺してただ待っているシンジは、ヘッドフォンからの会話を聞いていた。
自分の得意とする戦いのタイプとは異なり、知力を駆使した戦い。
どことなく将棋やチェスを思わせるそれに口を挟む事も出来ない。
さすがNervのトップに位置する人達である。
特にリツコの知力は抜きん出ていて、あのアスカですら案の提示以上の事が出来ていない程だ。
絶体絶命の危機も寸前で躱し、今は既に使徒の攻略法の実行に移っている。
(出る幕が無いってのはこういう事かも。)
これは、これ以上自分に出番は無いかもしれない。
そんな事を考えていると、ふと、空気が変わった。
碇家の裏庭で夜を過ごしている時の様に、周囲の気配がとても鋭く感じられる。
しかし、この空気は自分が狙われている時のものに近い。
「ミサトさん、聞こえますか?」
『どうしたの?』
「変な感じです。」
『変?』
「狙われている感じがするのに、接近してくる気配を感じない。
いえ、既に周囲を包囲されている様な感じです。」
気配を殺したまま空気を読む。
確かな気配は感じない。しかし、近づいて来ているという空気はある。
本能も危険の接近を察知し、逃げるべきだと言っている。
なのに、どっちに逃げるべきか、全く判断がつかない。
(なんなんだ、一体。こんな感覚は初めてだ。)
無論、目の前の黒い床から注意を外していない。
しかし、それに対する危機感と全く同レベルのものを、周囲からも受けているのだ。
いや、使徒に周囲を包囲されてしまったと考えるべきなのか?
その時、こちらを見下ろす確かな視線を感じた。
咄嗟にその視線の先を見ると、そこには先程までレーザーを照射していた監視カメラが。
ハッキングが始まった時に動きを止めていたそれが、今こっちを見ている。
そう、見ている。
視線を感じる。
その向こう側にあるのは、自分を今取り囲んでいる空気と同じ気配のもの・・・!
気力を最大に、黒い床に背を向けて走り出すシンジ。スタートからトップスピードで。
しかし、
『シンジ君逃げて!!』
一瞬後のミサトの警告と同時に、進行方向の通路の隔壁が向こう側から次々に下りて来る。
その速さから、このまま進めば閉じ込められると悟りブレーキをかけ、
最後の一枚の寸前で停止した。
「何があったんですか!?」
『MAGIが三者合議でシンジ君をアダムだって判断したのよ!
支配されていないカスパールまで条件付き賛成で!』
「カスパールが!?」
つまり、自分をアダムだと判じるに値する何かを見出したという事。
接近してくる気配に振り向けば、通路一杯に広がった黒の絨毯が、
こちらを威圧するかの様にゆっくりと迫って来ていた。
『使徒はあなたに狙いを絞ってるわ!
こちらもカスパールと保安部権限を利用して干渉してるけど、
警備部が完全に押さえられてフォローが難しいのよ!
なんとか反撃に出るまで逃げ延びて!』
通路の大きさは、目算で高さも幅も約2.5Mの正方形というところ。
両方の壁に両手を突っ張って張り付くには幅がありすぎる。
天井と壁で同じ様にしたところで移動速度はナメクジが進む様なものだし、
第一この使徒の事だ、壁に逃げたとなれば壁を登り始めるだろう。
隔壁を破壊するのもまず不可能だ。
刀とA.T.Fを以てすれば切断くらいは可能だが、ちらりと見た隔壁の数を考えると、
切り抜いている間に追いつかれてしまう。
(それなら・・・。)
隔壁から少し離れて助走距離にし、その隔壁へ向かってジャンプ、
ちょうど中央に両足をつくところ迄は実験場の時と同じ。
今度は高度の低い長距離飛行が必要なのでA.T.Fを展開して重力を遮断、
体を横倒しにして最大の力で壁を蹴り、通路と平行に飛行する。
さながら宇宙遊泳の様に。
しかし、シンジはここでミスを犯した。
いや、他に手だての無かった彼にとって、これをミスというのは余りに酷だろうか。
しかし、使徒戦において重要な事を失念していたのは間違いは無い。
本来生身で戦うなどという事の無い相手故の事だろう。
おそらくEVAに乗っていれば忘れる事など無かった、余りに基本的な選択肢。
つまり、A.T.Fの中和を。
空中をまさに飛行していたシンジの体を包む力場が消え失せ、
体が思い出したかの様に下へと沈む。
(しまった!)
突然の事で動揺し空中で姿勢を乱した彼は、それでもなんとか受け身をとりながら着地する。
落ちたのは一面黒の床の上。
すぐに体を起こして逃げようとするが、使徒の方が行動は早かった。
床に接していた服から黒がどんどんと這い上がり、たちまちの内に体への浸食が開始された。
『うあああああああああああああ!!』
発令所内に響き渡るシンジの苦悶の叫び。
メインモニターの一番大きなウインドウには、黒い床に膝をつき、
徐々に這い昇って来る、床と同じ色の何かに苦しんでいる少年の姿が。
『シンジ!!』
『お兄ちゃん!!』
「リツコ!」
「無理よ!浸食部分からでなければ全く効果がないわ!!」
使徒はシンジの逃走経路を塞ぐと同時に、自分にとっての危険を遠ざけてもいた。
おかげで携帯型レーザーを背負った作戦部員が、目標に辿り着けないでいる。
マコトのサブモニターには最大出力のレーザーで隔壁を焼き切っていく彼等の姿が映っているが、
彼等の前に用意された壁の量は10枚を下らない。
「目標までの通路の隔壁を物理排除するには、最低でも20分以上かかります!!」
『それじゃあシンジが!!』
「シンジ君のA.T.F、増大!」
シゲルの声に再びモニターを見るミサト。
眉間にしわを寄せ、目を閉じて必死に何かを耐えている彼の背からは、
4日前にも見た大きな黒い翼があった。
黒の浸食もややゆっくりとしたものになっている気がする。
「ジェミニの3倍モードで耐えてるんだわ。でも長くは保たないわよ!」
「解ってるわ!それまでになんとか一機だけでも・・・!」
監視カメラのレーザー照射装置を取り返しすれば、そこからの直接狙撃が出来るのだ。
しかし、使徒の抵抗は凄まじく、未だ一進一退を繰り返すだけ。
このままではシンジが使徒に乗っ取られてしまう。
『UUUUUWOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!」
突然の雄叫びが発令所内を震わせる。
「今のは、初号機!?」
「まさか暴走!?アスカ!!」
『自動的に初号機が起動してる!でも暴走じゃない!A.T.Fを展開してるだけ!』
「暴走じゃない・・・?じゃあ・・・。」
「多分A.T.Fの共鳴によるシンクロ。」
思い出す、シンジが初めてNervへと来た時の事。
落下して来た巨大な瓦礫から動けないレイを身を挺して庇う少年を、
動かない筈の紫の鬼神は守ってみせたのだ。
『お兄ちゃんを助けにいくのね。』
再び、自らの意志で。
黒々とした雲が日の射さない空全体を覆っている。
とても早く流れるその中で、そして下へと雷光をほとばしらせていた。
閃光は大嵐を突っ切り大海原へと突き刺さる。
巨大な波と複雑かつ激しい潮流。
そんな空を映した様な黒い波間で、シンジはなんとか顔を水面の上へと出していた。
現実の風景ではないのは感覚で判る。ここはあの使徒の心の中だ。
そのせいだろうか、水が体にまとわりつく様で上手く泳げない。
何度も海中へと沈められ、その度にスタミナを、精神力を削り取られていく。
当然全身の力を抜いて浮力に身を任せる、などの手段は使えない。
それをいい事に一気に底まで引きずり込まれるだけだ。
しかも時間と共に引き込む力が強くなってきている。
消耗のせいか、シンジの姿も薄れてきている様に見えた。
「ごはっ・・・!」
またも海中に引きずり込まれた。
必死になって泳ぐシンジだが、海面は一向に近付いてこない。
(駄目だ、限界だ。)
存在の大きさが違い過ぎる。
流石に諦めかけたその時、力強い何かに体を海面上へと引き上げられた。
驚きながらも振り返ると、そこにはぼんやりとした光る人影がいる。
その気配や波動には覚えがあった。
「初号機・・・?」
『・・・。』
抵抗する為の3倍モードが図らずも初号機を呼び覚ましたらしい。
「ありがとう、助かったよ。」
『・・・。』
「うん、力を借りるね。」
人影が重なり、シンジ自身を光が包む。
つば広帽子に、体にぴったりとしたライダースーツを思わせる上下。
いつもは体を包んでいるマントは翼へと変化し、より強い輝きを纏って力強く広げられていた。
はっきりとした、全てが黒で統一されたその姿は、3倍モードのジェミニそのもの。
海はさらに荒れ狂い、波も高さを増してこちらの足を掴もうとする。
風は吹き荒び、雨は鉄の礫のごとく体を打ち付けてきた。
天と海を繋ぐ大きな柱は竜巻か。
次々と襲い来るそれらをシンジは防ぎ、躱し、打ち払って凌ぐ。
『・・・。』
初号機が怪訝そうに訊ねて来る。
なぜ敵を攻撃しないのか不思議らしい。
「ここは確かに使徒の精神世界の中だけど、今見えているのは所詮風景、
本体には違いないけど意志の核の部分じゃない。
それに、今はまだ彼、もしくは彼女を滅ぼす気はないんだ。」
『・・・?』
「この使徒は圧倒的な存在の圧力で僕を押しつぶす事が出来た。
僕を消し去るつもりなら簡単に出来ただろうに、そうしなかった。
海に引き込もうとしたけど、溺れている者が縋り付く様な印象を受けたんだ。
だから、話がしたい。」
『!?』
「聞こえている筈だよ。出てきてくれないかな?
理由は知らないけど、君は僕を求めていた筈だろう。」
声を掛けた途端、嵐が治まった。
未だ暗雲が天を閉ざしているが、雷も雨も止まり、風は凪ぎ、波も消えた。
密度の高い気配を感じたシンジが下を見ると、
鏡の様な水面から一人の少年が浮かび上がり、目の前で止まった。
マント姿で短い黒髪、左こめかみ辺りに一房ある白髪を紐で結ってある。
(僕、か。)
マントの下の私服は今日着ていたものだ。
監視カメラからか、とにかく自分の姿をモデルにしたという事らしい。
「君、だね。僕の名前は碇シンジ。君は?」
「名前という概念すらなかったよ。
でも、君らの流儀に会わせるなら、イロウルと名乗るべきなんだろうね。」
驚いた。ここまではっきりとした会話が出来るとは。
しかしそれならより好都合。
「じゃあイロウル。君はなぜ僕を狙った?
今まで僕らが使徒と呼んでいる君の仲間達は、みんなアダムを目指していた。
君はそうじゃないのか?
いやそれよりも、君はMAGIを支配した上で僕をアダムと判断した。なぜ?」
「君がアダムでしかあり得ないからだよ。
現に僕の支配下に無いカスパールも、条件付きとはいえ君をアダムだと判断した。
誤解が無い様に言っておくけど、バルタザールもメルキオールも、
その理論系までは支配してない。
3台とも思考力に関しては完全に正常なんだ。」
「でも、僕はアダムじゃない。」
「なら、何者なのさ。僕が知る限り人間という種に僕らの様な能力は無い。
君は明らかに人間と比べて特殊な存在だ。」
「A.T.Fの事を言っているのなら、アレは僕だけが使える能力じゃない。
A.T.Fは全ての生物が持っている力だ。」
「知ってる。誰もが持っている、自分以外を拒絶する境界の能力。
君たちがEVAと呼んでる存在も知ってる。
でも君はEVAなくしてA.T.Fを使用出来る。」
「ジェミニがある。それを使えば他の人達もA.T.Fの外部展開は可能だよ。」
「なら、訊こう。A.T.Fを展開する条件は?」
「それは・・・。」
既に2日前、リツコへと述べた自分の意見が思い返される。
「僕が君をアダムだと判断する最大の理由がそれ。」
「他生物とシンクロする事。でもそれはジェミニがあるからだ。」
「どういう形でかは関係ない。君はその能力を持っている。だから君はアダムでしかない。」
思いもしなかった。
P.Fという能力の一つとしてのジェミニが、ここまで使徒の重要視されるとは。
彼は確かに自分のA.T.Fの反応を追っていたが、
それはシンクロするという能力の結果としての事らしい。
「それじゃあ、君たちの目的は一体何なの?アダムに返るって一体どういう意味?」
突然、気温が急激に下がった。
強すぎる冷房どころじゃない、まるで冷凍庫に閉じ込められたかのようだ。
それに合わせてか、海面は完全に動きを止め、空から舞い落ちる雪がその表面を白く染めていく。
その白いのもたちまちの内に量と勢いを増す。
風は幸いの事に凪いだままだったが、染み入る寒気は決して緩いものではない。
叔父のカズマに連れられて雪の国にも行った事はあるが、凍えるという経験は流石に初めてだ。
「ぐっ・・・・・。」
(寒い、いや、痛いくらいだ・・・。)
ふと、その痛みが少しだけ和らぐ。
シンジの体を包む光がまるで彼を寒さから守る様に、いや、守ろうと強まったのだ。
「ありがとう、初号機。」
『・・・。』
「解るだろう、君にも。この痛みが。」
「・・・よく、解るよ。」
この世界は彼の心理世界、この凍てつく世界もそのままの意味ではない。
そしてそれが意味するものは、感覚として理解出来る。
ここまで圧倒的なものではなかったものの、覚えのある感覚だった。
子供の頃、母を亡くしたあの頃に。
「君は、寂しいんだね。」
「ああ、寂しというのか、これは・・・。だが君と一つになればそれも感じなくなる筈だ。」
「一つに・・・?」
「そう。今、君達がしているように。」
「僕達・・・。僕と初号機?シンクロするという事?」
確かに今、自分は初号機によってこの寒さから守られている。
彼の言うとおりシンクロする事によって。
(もしかして、この寂しさから逃れる為にアダムを、他者を求めているという事なの?
今まで来た使徒は、全てこの寒さを抱えていたの?)
だとすると、彼等という存在はなんと哀れな事だろう。
不死身に近い存在でありながらその内側は孤独の寂しさに満ち、
3rd-Iの危険性から自分達は彼等を倒す事しか出来ない。
「さあ、アダム。僕と一つになろう。それはとても気持ちのいい事だから。」
そう言って手を差し伸ばしてくる、自分と同じ姿の少年。
その目は幼い迷い子の様に自分を求めていた。
そんな彼の手を弾いたのは、彼の眼差しに動けないシンジを包み込む光。
「なぜ?なぜ拒む。初号機、君だって一つになる気持ち良さは知っているだろう。
いや、それ以前に、なぜ彼と一つにならない?」
「待って。僕と初号機は既にシンクロしている。一つになっているんじゃないのか?」
「不完全だ。共にあっても、一つにはなっていない。」
不完全?
今ジェミニは3倍モードになっている。A.T.Fの共鳴でのシンクロだ。
既に暴走寸前でなんとか踏み止まっているという状態だというのに、不完全?
ならば、完全なシンクロというのは、3倍モードの先にあるのは何だ?
その時、頭の中にイメージが瞬く。
ジェミニを使った通常のシンクロ。
飛鳥とのシンクロでの2倍モード。
アスカと出会ったあのドイツでの、鳥達の乱舞。
そして10年前、ガラス越しに見たあの日の光景。
エントリープラグ内の母の姿が少しずつ薄れていき、消えてしまった。
(ま、まさか、そう言う事!?)
以前からジェミニとA.T.Fは気の対局にある、精神に関係した能力だと思っていた。
だが違う、もっと直接的だった。
(魂を重ね合わせる能力。そしてそれがA.T.F発生の条件。)
そうなると、EVAのシンクロシステムは厳密には『シンクロ』しているとは言えない。
なぜなら、それはあくまで機械を使った感覚の共有であるからだ。
しかしその先にいるのはEVA、機械によるものとはいえ『ライン』は作られてしまう。
それを利用してチルドレンは魂を重ね合わせている。
擬似的なシンクロ故に、アスカやレイはシンクロ率を100%にする事が困難なのだ。
擬似的にでもシンクロしている故に、母は過度のシンクロで消えてしまったのだ。
ならば使徒はどういう存在なのか。
A.T.Fを外部展開出来るという事は、魂を重ね合わせている。
だが、どうみても自分の様にシンクロしている様には見えない。
(魂の重ね合わせではなく、魂が混ざり合う事。それが、3倍モードの先。)
つまり使徒とは複数の魂が融合した存在。
「それなら、なおの事君とは一つになるわけにはいかない。
いや、誰とも一つになるべきじゃない。そんな事しても寂しさはなくならないよ。」
「な、なぜ、そんなことを言うの?」
「僕はさっき君の中へ取り込まれかけたからだよ。
僕達と君じゃあ魂の大きさが違いすぎるんだ。
例え一つになったところで、僕という存在はそう長く形を保っていられない。
そうなれば君はまた孤独になる。
何度試しても結果は変わらない。地球上の全ての命を取り込んだとしても。
逆に、君の孤独は永遠に続く事になる。」
無論、全ての命と同化するつもりならば、その前に止める事になるが。
「そんな筈は無い。」
そう否定する彼の声には、シンジをアダムだと判じた先程までの力は無い。
「なら、なぜ君は今、こんなに寂しいと感じているのさ。
君は既に複数の魂の融合体じゃないか。
ここで僕一人取り込んだところで、たいした変化じゃないだろう?」
「それは・・・。でも、君は違う。君はアダムだ。」
「僕はアダムじゃない。それにアダムだとしても、やっぱり結果は同じだ。
君がアダムを取り込むか、君がアダムに取り込まれるか。
結局は主体となった方が永遠の孤独に取り付かれるだけだよ。
アダムにも意志は、心はあるんだろう?」
「・・・・・・。」
彼は理論的な思考が出来る使徒だ。
おそらくはこちらの推論に誤りがないか必死になっているに違いない。
しかし、その表情を見る限り、こちらの予想を打ち崩す何かは見つかっていないようだ。
「ねえ、なぜ寂しさを感じると思う?孤独だからだよ。一人っきりだからだよ。
どんなに魂を融合させていても、今の君は一人だ。」
使徒が一人であってもA.T.Fを使えるのは、複数の魂の『要素』を持っているからだ。
例えるなら、魂のミックスジュース。
オレンジ、アップル、バナナ、ピーチ、何が混ざっていても関係ない、
名称はミックスジュースだ。
さらにそこにトマトが混ざったところで、やはりミックスジュースでしかない。
どんなに量が増えようと、どんなに要素が増えようと、
そこにあるのは一種類のミックスジュース。
器の中にオレンジだけが分かれて存在するなんて事は無い。
「誰であろうと、そんな事はさせられないよ。」
凛として立つシンジの向かいで、イロウルは途方に暮れている様子。
「僕の推測だから、三者合議してもらってもいいけど。」
「必要ないよ。僕も同じ結論だもの。だから、僕は君に頼むしかない。」
「何?」
「僕を、殺してくれないか?」
「な、何でいきなりそんな結論になるのさ!?」
「君は、僕にこの寂しさを抱えたまま生きろっていうのか?」
確かにこんな痛みが癒せる事は無いと知れば、絶望する以外に無いかもしれない。
しかしシンジが否定したのは方法だけで、彼自身ではない。
「僕達だって魂は一人きりだ。でもみんなと一緒だから寂しくないんだ。
君だって僕らと共存すれば・・・。」
「人間とは共存出来ない。僕達か君達か、そのどちらかしか生き残れない。
今迄だってそうだった筈だよ。」
「意思の疎通すら出来なかったからだよ。君とは話し合えているじゃないか。」
「それは、ここが意志のみの世界だから。夢を見ているのに近いんだ。
残念だけどアダムを求める本能は消えはしないし、本能は肉体に宿るもの。
意識を肉体に戻した途端、再びアダムを求め始めてしまう。
そうなれば君だけでなく、他の人達をも取り込んでしまう可能性がある。」
それは君の本意じゃないだろう、と、ひどく穏やかな笑みを浮かべる。
「そんな・・・。」
「だから、君が僕を殺すんだ。今、ここで。
いくら魂の要素が多くても、僕自身を形作る核の部分を破壊されては存在出来ない。
それに、君になら出来るだろう?」
最早悲しみすら感じさせない透明な眼差しを向けられ、
それでもシンジは躊躇いを捨てられないでいた。
決断すべき時は心得ているし、人を斬る覚悟も持てる。
刀を与えられるとあって、そういう事は十分に叩き込まれたからだ。
だがそこにはどういう形であっても、覚悟させるだけの『納得』が無くてはならない。
そうでなくてはただの『気違いに刃物』でしかない。
そして、今自分の目の前にいる彼は、むしろ救われるべき存在ではないかと考えている。
最終的な安楽としての死も知っているが。
「なにか他の手段は無いのかな。リツコさんにでも相談出来たらいいんだけど。」
「残念だけど、その為にはこの世界を解除しなければならないだろうね。
それに、時間の余裕もそう無いと思う。特に、君のが。」
いくらイロウルにシンジを取り込む気がなくなったとはいえ、
それでもここは彼の精神世界の中なのだ。
時間をかければかける程、何らかの悪影響を受けるだろう。
暫く何も語らないままに互いを見つめ合う二人。
やがて、ジェミニの姿をしたシンジは愛用の日本刀を作り出すと、
躊躇い無く鞘から刃を解放した。
その目は斬るべき覚悟をした者の目。
「恨んでくれていいよ。」
「救い主を恨んだりはしないよ。」
静かに笑って両手を広げるシンジの姿を模した存在に、
モデルとなった少年は両手で持った刀の切っ先を向ける。
「待って、お兄ちゃん。」
そこに、突然の思いも掛けない声。
振り向くと、自分と同じ様に光に身を包んだ、袴姿の10歳の頃のシンジがいた。
レイのP.F、ハートフルジェム。つまりはレイの精神体。
「レイ!?でも、どうやって?」
「A.T.Fの共鳴でシンクロ出来る事は、サハクイエルの時に体験済み。
そして初号機が3倍モードでお兄ちゃんとシンクロしているのも解った。
だから零号機を起動させてA.T.Fを共鳴させたの。」
ここに迄潜ってくるのに時間がかかったけどと言いながら、彼女は兄の隣に並ぶ。
「でも、話は聞こえてた。おかげでリツコさんの知恵も借りられた。
ねえ、イロウル。肉体を捨ててMAGIに宿る事は可能?」
リツコが言うには、ここ迄電子回路としての進化を遂げられたのならば、
意志や自我を含む自分という存在を完全に情報生命体へとの進化も可能ではないか、と。
ならばMAGIをその受け皿にするのも簡単だろうし、肉体の本能に引っ張られない。
「それに、気が向いた時に私達とお話しする事も出来るわ。」
リツコの案にしてはかなり突拍子もないものだが、理屈ではある。
器物に魂が宿るというのもシンジの知る世界では珍しくもない。
「出来そう?」
期待を込めてシンジは訊ねる。
「元々僕らの体はかりそめのものという色合いが強い。今の僕は特にね。
だったら、自分の存在を別の物体に移し替えるのも不可能じゃないかも。
どうせ他には死ぬしか手段を持たない身の上、賭けてみるだけの価値はある。」
風景が再び動きを取り戻し始めた。
しかし来た時の様な荒々しさはもう無い。
波も風も穏やかで、空は未だ雲が覆いをしているものの、ずっと明るくなった様に感じる。
「外へ出て。早速試してみるから。」
「解った。レイ、先に。」
「うん。」
フッと消えたハートフルジェムを見、
シンジも負荷のなくなった自分をこの場から離脱させようとする。
「シンジ。」
「何?」
「暫くは3倍モードを解かないでいてくれないかな。
君の気配を感じていれば、アダムへ向かおうとする本能を押さえていられそうだから。」
「うん。お易い御用だよ。」
「シンジ。」
「ん?」
「また、後で。」
「うん!」
「・・・疲れた。」
なにしろ今日は予想外の事が怒濤の様に起ったのだ。
いくら鍛えているシンジといえど、そんな言葉が漏れるのも仕方のない事だろう。
今は午後十時を回った頃、ここは自分の部屋のベッドの上。
電気もつけず横になりながら眠りもしないまま、薄ぼんやりとしか見えない天井を見上げる。
結果として、イロウルの魂の宿替えは成功した。
流石に使徒だけあってその構成する情報量は膨大なものだったが、
彼自身のコアとなる部分と必要な情報を選ぶことで、MAGIの一台に収められたのだった。
ちなみに彼が新たな宿に選んだのは、なんと唯一支配されなかったカスパール。
しかもイロウルが言うに、カスパールからの勧めがあっての事だという。
それに一番驚いていたのはリツコだった。
なんでもMAGI3台の思考形態のモデルは赤木ナオコのもので、
それぞれに『科学者』『母親』『女』としての性格付けをしていたのだという。
『カスパールは母さんの『女』の性格を受け継いでいるのよ。
まさかそれを明け渡すなんて思わなかったから。』
科学者としてイロウルという存在を見逃せないと思ったのか、
母親として子供達の安全を優先させようとしたのか。
『意外と独り身が寂しくなったのかもよ。』
というのはミサトの意見だったが、何となくそれが正鵠を得ている気がする。
(だったら、イロウルも余り寂しさを感じなくて済むかもしれないな。)
リツコもそう思ったのかもしれない。
彼女は少し驚いてみせた後、『そうね・・・。』と小さく笑っていたから。
イロウルの浸食部分についてだが、
イロウルの宿替え完了と同時に、何事も無かったかの様に全ては元に戻った。
イロウル曰く、
『浸食と言っても元々の物質に自分の要素を混ぜたせいで一時的に変化しただけ。
浸食の意志が消えれば不自然な部分は自然に消滅する。』
だそうだ。
光の様な物質を体に選んでいるだけあって、
その構成のコアとなる『存在したい』という意志がなくなれば、形を保っていられないわけだ。
おかげで体に直接浸食を受けていたシンジは傷一つなく、服も体も全て元通りだった。
「それにしても、僕は一体何とシンクロしてるんだろう。」
今回の接触でいろいろな新事実を手にしたシンジだったが、
おかげで新たな疑問をも手にする事になった。
他者とシンクロするという事は、他者の魂と自分の魂を重ね合わせるという事。
その副産物として、シンクロしている生物はA.T.Fを外部展開できる。
しかしシンジは2倍モードという条件があるにせよ、自分自身でA.T.Fを外部展開できるのだ。
イロウルにも確認したが、他者とのシンクロはA.T.Fを使う上での必須条件らしい。
かつては自分の肉体と魂のシンクロ率が上昇したからだと考えていたが、
「考えを改めなきゃいけないな。」
想像の上を行くジェミニの危険性をも含め、新たに考えなければならない事は少なくない。
とはいえ、すぐに答えの出るものでもないというのも確かだ。
「追々、考えていくしかない、か。」
それはおそらくNervの機密とする部分に深く関係する筈だから、
リツコに相談したところで、そう簡単に答えは得られないだろう。
答えは自分自身で見つけるしかないのだ。
「まあ、アスカもレイもいるし。」
力強い相談相手がついていれば、答え迄の道のりもそう困難ではないかもしれない。
だが、一つだけ早急に解決しなければならない問題がある。
こればかりは他人任せには出来ないし、相談も不可だ。
自分の責任の上でやらなければならないと思う。
なぜなら、自分の仕事だからだ。
今日の事ではっきりと解った初号機の自我。
ならば、それに対してシンジは一つの答えを出さなければならないのだ。
「初号機の名前、どうしようかな・・・。」
To be continued
あとがき
イロウル編です。
残念ながら作者はコンピュータには余り詳しくない為に、
原作をそのまま再現は出来ません。
というわけで、このような展開になりました。
二次創作ゆえに、様々なネタが盛り込まれているので、
それが何なのかを探してみるのも面白いかもしれません。
あと、重要な事が一つ。
当初プラスJOJOとして始まったこれですが、
プラス荒木飛呂彦作品に変更すべきかなと。
何せ現在の連載はSBRですから。
では、次回で。
かのっちでした。