美人教師と秋の空

作:きっくん&ヒロポン


昼休みの学食。
うどんのだし汁とカレーの香辛料が空気中で絡まり合う食の異空間。
燃費の悪い欠食学生どもがたむろするその空間の一角で、俺−御門 武(みかど たける)は親友の有坂 汰一(ありさか たいち)と共にのんびりと昼食をとっていた。

俺はいつものように、学食のおっちゃん自慢の一品、進取の気鋭に富んだ激烈火山定食麻婆風味(日替わり)。向かいの席に陣取った汰一は、安心と信頼の伝統メニュー、サンマ定食大根おろし大盛り(50円増し)。
並んだトレイの朱と白のコントラスト。こうまでも違うと、相手の趣味にどうこう言いたくなるのが、人の性というものだろう。

「なあ、汰一」
「ん?」

汰一は飯を頬張りながら俺の顔を見る。 目が「なんだ? 早く言えよ」と云っている。

「お前って、大根おろしの中にサンマ突っ込んで食うよな?」
「ああ。 旨いぜ」
「水っぽくねぇの?」
「ふっ。 やったことねぇ奴にはわかんねぇよ」

こいつは魚から身をひっぺがして、ドンブリいっぱいの大根おろしをその身でくるんで食すのだ。
俺から見れば、サンマを食ってるのか大根おろしを食ってるのか分からない。
なぜなら、それを飯と同じようにしてかき込むのだから。 薬味だろ、それ。

「そう言う武こそ、そんな激辛麻婆に一味なんか一瓶丸ごと入れてよ。 味分かるのか?」
「失礼な。 辛いおかずで飯を腹一杯食う。 これぞ日本人だぜッ!」
「麻婆食いながら日本人を語るんじゃねぇよ」

箸を握ったまま親指を立ててニカッと笑う俺を、汰一は何のためらいもなく一蹴した。
こんなどうでもいいような会話を交わしながらその日の昼食を無事に終え、食後に缶コーヒーでも、と席を立った。
だが、いつもの快適な日常生活も、いつもの台詞でいつもの不快な日常生活に早変わりだ。

「嫌ッ!! 離してよぉッ! たけちゃん、助けてぇッ!!」

俺と汰一は、またか……と顔を見合わせたが、見捨てるわけにもいかず、助けを求める声の主の元へと急いだ。

現着。
案の定、悠利が栞に言い寄っている。
出来ることなら毎回同じ場所でやって欲しいものだ。探す身にもなれよなぁ。
杵築 悠利(きづき ゆうり)。当校の不良共の頭として、子分を従えて我が物顔で校内をうろつくお山の大将だ。
その傍若無人ぶりには、教師ですら手が出せない。
一方のわめいてる方が斉 栞(いつき しおり)。俺の従妹兼幼なじみ兼同居人。明るく快活でルーズソックスを履かないなどで、全校生徒から人気があるらしい。
俺に言わせれば、ただガキっぽいだけだと思うけどな。『俺離れ』はまだまだ先のようだ。
ただ、ソックスの件では大いに賛同できる。

「たけちゃんッ!!」

俺を見つけて喜びの声を上げる栞。

「ちっ。御門か……毎度毎度、なぜ俺と栞の仲を邪魔するんだ!!」
「……栞が嫌がってるから……かな?」
「嫌がってなどいるものかッ!」
「嫌がってるのよッ!!」

思いっきり嫌われてんじゃねーか。

「何をそんなに照れる必要があるんだ栞ッ!!」

こりゃ、もうかなりのビョーキだな。しかも手遅れときた。
ストーカーもここまでおおっぴらにやられると、ストーカーという言葉自体を変えなきゃならないかもな。

「悠利」

静観を決め込んでいた汰一が口を開いた。

「………」

睨み返す悠利。

「もうウンザリするほど、こんなやりとりをほぼ毎日繰り返してるが……もう何度振られたと思ってるんだ?」

確かに汰一の言うとおり、俺が覚えているだけでも数ヶ月は前から続いている。

「……確か、もうすぐ100回だ」

悠利がさも悔しそうに答える。 おめーも数えてんじゃねーよ。

「101回目には、プロポーズでもすんのか?」

俺は心底馬鹿にしたように突っ込んでやった。
すると、

「……それは、卒業してからだ……」

あまりに小さな声でよく聞こえなかった。が、手を捕まれている栞にはバッチリ聞こえただろう。

「嫌ぁぁぁァァァッッ!! たけちゃ〜〜〜んッ!!」

栞が手を振りきって俺の元へと駆けてきて、そのまま胸へ飛び込んできた。
俺はそっと抱きしめ、慰めるように頭を撫でてやる。

「くっ………御門、テメェ………ッ!」
「おい、行こうぜ武。 もう昼休みも終わるぞ」
「そうだな」
「エヘッ。 ありがとね、たけちゃん。汰一っちゃんもね☆」
「ちぇっ。俺はオマケかよ……」

俺達は悠利に背を向け、歩き出した。

「おいッ!! ちょっと待てよッ!! 話はまだ終わってねぇぞッ!!」

しつこく悠利が食い下がってくる。
そこで俺は振り返ってこう言い放った。

「悠利よぉ。 今まで黙っていたが、今日こそ言わせてもらうぜ。 お前、自分の立場と外見、どんなか知ってるか? 気付いてないなら教えてやるよ。 お前はどう見ても不良。しかも番長なんだろ? かたや栞は善良な一般生徒。 これがどういうことか分かるか?」

「と、突然、何を………」
「つまりな。栞とお前は、少なくとも外見上、全く釣り合ってねーんだよ!」

ビシィッと指をさして言ってやった。
ガビーンという効果音が聞こえてきそうな表情の悠利。
きっと今、頭の中で「ねーんだよ」が、強力なエコーとディレイを伴ってグルグル回っているに違いない。

明日からは標準制服と七・三もしくは一・九分けの黄金コンビで瓶底眼鏡かけて参考書でも持って読みながら歩くこったな。
ちゃんと髪は黒く染めろよ……と言おうとしたとき、やはりというか何というか、悠利が襲いかかってきた。

バシィッ

奴の右ストレートを手で受け止める。

「……俺が……」

また何かブツブツ言ってやがる。

「俺がそのことに気付かなかったとでも思っているのかぁッ!? 人が気付かないフリをしていたというのに、それを貴様はぁッ!!」
「………わ、わりぃ………」

ちょうどその時、昼休み終了のベルが鳴った。

「武、そんな奴放っておけよ。行こうぜ」
「そうだよたけちゃん。行こっ」

汰一も栞も、完全にシカトを決め込んでいる。
「そうもいかねーよ。俺が踏んだ地雷だしな。 多分、あとで進路指導室で説教だから先に帰っててくれよ」
「たけちゃん……」
「栞は汰一に送ってもらうんだぞ。 じゃ、行くぜ、悠利ッ!」
「御門ォ!! 今日こそ決着を付けてやるッ!!」







 
 

いてててて……いいのを2発ほどもらったか……クソッ。人が気後れしてるのをいいことに張り切りやがって……
万葉が止めに入らなければ、もう何発かもらってたかも知れない。

高原 万葉(たかはら まよう)。初めて会ったときの「I kill you」もどこへやら、今では結構仲良くやっている。
そして、いつもこのケンカの仲裁に入ってくれている。
「もうッ! どうして御門くんはいつもいつもケンカばっかり………」と、こんな感じに。
だが今日は、説教の真っ最中にクラスの女連中の「まよちん」コールに土煙と共に押し流されて拉致されていった。
俺に説教をしながら。

………結構、友達も増えたようだ。
 
 
 
 
 

「い〜い? ちょっとしみるかも知れないわよ」
「お、おう。優しく頼むよ……いってぇぇぇぇ!!」

俺は今、保健室で、万葉の取り巻き達の騒ぎを聞きつけてきた沙夜先生に手当を受けている。
常磐 沙夜(ときわ さや)先生。 俺のクラスの担任で国語教諭。生徒からも慕われていて非の打ち所のない美人。当校人気ナンバーワンの先生である。

そんな沙夜先生の治療を真っ先に受けたのは、見掛けのやられ方が派手な悠利。俺は後回しだった。

「はいはい、男の子がギャーギャーわめかないの!」

    ポンッ

「………………ッ!!!!!」

わざとなのかどうかは判らないが、痛いと知っているところを叩いてきた。はっきり言って、悠利のパンチより効いた。

「………う、恨むよセンセ〜……」
「あ、あら。ごめんなさいねぇ」

手の甲を口元に当ててホホホと笑っている。
わざとだ。 絶対にわざとだ。 俺が先生に何したってんだよ。
そうこうしているうちに手当が終わった。

「それにしてもキミ達、よくもまあ飽きもせずに顔見るたびにケンカしてるわねぇ。 全く…仲がいいんだか悪いんだか…」
「「悪いんだよッ!!」」

仲良くユニゾンする俺と悠利を交互に見ながら苦笑する先生。

「どうせ、今日もまた斉さんの取り合いからこんなコトになったんでしょ?」

呆れて肩をすくめながらケンカの原因を聞いてくる沙夜先生に、俺は否定で答えた。

「いや。今日は多分、俺がわる……」
「こいつが…御門が、人が気にしていることを……ううぅっ」
「あッ! 泣くなよテメっ 卑怯だぞっ?!」
「あ…あら、そうだったの……ごめんなさいね、御門君。 さっきの、痛かったでしょ?」
「えっ? ま、まあ…」

なぜ栞が原因じゃないと、先生が謝るんだろう……?
さっきの、ひょっとして、ヤキモチ? 俺に? まさかね………

「でも、ダメじゃないの。 人が傷つくこと言っちゃ。 杵築君も、もう泣かないで?」
「ぐすっ。 ……ウン……」
………おい。ここはいつから幼稚園になったんだ? 誰か教えてくれ。

「ううっ………いつだってそうだ。俺なんか………。大事なものには、いつだって手が届かない…………」
「泣かないで杵築君、落ちついて。ね?」
「あの時だってそうだった………………俺が命より大事にしていた、ぴょんこちゃんが…………」
「ぴょんこちゃん?」

よせばいいのに思わず聞き返してしまった。

「ぬいぐるみだよ!俺が大事にしてた…………知らねぇのか!」

知るワケねーだろ……………

呆れ果てている俺を尻目に、悠利の幼児退行はどんどんひどくなっていく。
ぐすぐすと鼻を啜りながら、幼少時に無くしてしまったうさちゃんのぬいぐるみの話を真剣な目でえんえんと語り続ける番長の姿は、きっぱりと、十二分に異様だった………………………。

「ううっ………ぴょんこちゃん………」

 眉毛もねぇくせにセンチメンタルな野郎だ。

うんざりした俺が、困惑顔の沙夜先生と顔を見合わせた時、保健室のドアが軽い音を立てて開いた。

「治療は済んだかね? 悪ガキ共」

俺達が振り向くと、仕立てのよい英国製のスーツを着こんだ男、芦屋 幹久(あしや みきひさ)が戸口に持たれかかるようにして立っていた。
なにもかもが芝居がかった男だ。額にかかる前髪をかきあげながら、不必要な大股で俺達の方に歩み寄ってくる。

「治療が済んだのなら、とっとと廊下に出ろ。お前達のような単細胞にはおあつらえ向きの単純な仕事を用意しておいた」
「はっ?仕事ですか?」
悠利の奴も、鼻をぐすぐず鳴らしながら、不思議そうな顔で幹久を見る。

「感謝して欲しいものだな。学食での乱闘騒ぎの罰が、1階全フロアのトイレ掃除で済むのだから。ここが鑑別所だったら独房行きだよ」
 

ふっ
 

と鼻を鳴らしながらいいきる顔は、不快指数120%を軽く突破していた。
それにしても、1階全フロアのトイレ掃除とは……………独房の方がまだマシと思うのは俺だけだろうか?
救いを求めて沙夜先生を見たが、仕方ないわね、と肩をすくめただけだった。こういう仕草も綺麗なんだから…………美人って奴は。

「さあ、とっとと出ていきたまえ。治療が終った以上、ここはお前達がいるべき場所ではない!」

何事につけても、人に指図するのが好きな男だ。
常に生徒側に立つ沙夜先生も、PTAや一部の悪趣味な女子生徒にウケが良いだけのこの男を止める術を持っていない。

しょうがない、ここは従っておこう。 これでケジメになるのなら。
俺がそう思ったところで、隣に座っていた悠利が、突然ガバッと立ち上がった。

「先生!」
「どうした………杵築」
「俺とこのアホが、罰を受けなくてはいけないことは重々承知しています。しかし、俺にはどうしてもやらなくてはならないことがあるんです!」
「………はっ?」
「ぴょんこちゃんを、ぴょんこちゃんを探さなくてはいけないんです…………今でも、あの河原でぴょんこちゃんは俺を待ってるはずなんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

悠利は、目尻に涙まで浮かべながら一気にそう言うと、ダッシュで保健室を出ていった。

「……………………………」
「……………………………」

なんとも言えない空気が、保健室に漂った。

「………………………帰っちゃいましたね」

ぽつりとつぶやいた沙夜先生の声に、俺は意識を取り戻した。
そうか………その手があったか…………

「先生………罰を受けなくてはいけないことは重々承知しています。しかし、俺には今、やらなくてはならないことがあるんです!………………ぴんこちゃん、ぴんこちゃんはまだ、あのモンゴルの草原で俺のことを待っているんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「まてぇぇぇぇぇぇぇぇい!」

叫んで、駆け出そうとした俺の襟首を幹久がぐっと掴んだ。

「そうそう同じ手が通用すると思わんことだな。杵築の分の責任も君に果たしてもらおうか」

そう言ってニヤリと笑う幹久の後ろで、沙夜先生があきれ顔で俺のことを見ていた。
 
 
 

1階教員用トイレの採光窓から見える夕日は、感動的なほどに美しく、くすんだタイルの上に、朝顔の影が幻想的に咲いていた。勤労と奉仕の精神に目覚めた俺は、その神々しい光景に涙した………………………というのは嘘で、このようなつまらん仕事を押し付けた悠利と幹久に対する怨念が骨髄まで達していた。
案外、人間と言う奴は、こういうつまらないことで人に恨みを抱いてしまうものなのである。

………………ああっ心狭き罪人よ。人というのは、なんて醜いんだ……………………………………………………さっ、帰ろ帰ろ。

俺は、モップを用具入れに叩き込むと、芳香剤の香り漂う空間を後にした。
 
 
 

靴を履き替え、生徒通用口のコンクリートの庇の下から眺めた空は、どんよりと曇っていた。
さっきまでの茜色の光景は一体なんだったのだ。
辺りは薄暗く、時間も時間なせいか、俺以外に人の気配はない。
残暑残暑とうだうだ言っている間にも、季節は着実に秋の装いを纏いはじめていたらしい。
半そでの腕を撫でるひんやりと湿った風に、俺は覚えず体を震わせた。

正面にある植えこみからも、湿気を帯びた土の香りが漂ってくる。これは、間違いない。
今朝天気予報で確認した降水確立は30%。
3割か…………バッターだったら一流だな…………。

………パラ…………パラ………ザッザザァァァァァァァァァ

そんなつまらない思考にツッコミを入れるように、物凄い勢いで雨が降り始めた。
これは、もう、極太ゴシック体で、でかでかと「雨」である。
30%?冗談ポイッだ!
一つ息をついてから、俺はくるっと踵を返した。この通用口の傘立てに誰かが残して行った傘があるのではないかと思ったからだ。
別に人の物を盗もうなどと言う殺伐としたことを考えていたわけではない。ちょっと借りようとしているだけだ。
中には何年前から置いてあるのか分からないようなのもあったはずだし、いずれにしても、明日にでも元の場所に戻しておけば問題ないだろう。
 

全てのものは、必要な時に必要な人物に与えられるべきなのである。
ということで、放置された物件の正当な占有者になるべく、傘立てに向った俺だったが、その成果は芳しくなかった。
ビニールが完全にはがれてしまったもの、中途から折れ曲がったモノに骨があっちこっちから飛び出して原型を留めてないもの。
端的に言えば、見事なくらいに一本もまともな傘はなかった。
大体において、まともな置き傘は、盗難を恐れて、部室や教室に備え付けの自分のロッカーに保管しているものなのだが………
しかし、ここまでなにもないとは。
………人が人を信じられなくなったら、おしまいだな。
失われてしまった美徳に惜別の念を抱きながら、俺は再び生徒玄関へと戻った。

ザァァァァァァ

雨は相変わらずザアザアと降っている。
ここに戻る前は、この雨は実はなにかの冗談で、俺が戻ってみるとホースを片手に持った高原万葉が、「ごめぇん御門君、実はこの雨は、私が2階から降らせてたのぉ………てへっ」とか言って可愛い舌をペロッと出して見せて、そしたら俺が「くらぁ高原ぁ、キャラクターにないことしやがってぇ」なんていって近づくと、少し湿った高原のブラウスごしに薄いピンク色のブラジャーが透けて見えたりして、「もう、どこ見てるの………エッチ」「なにがエッチだよ。この俺をたばかったくせに………ええい、お仕置きしてやるぅ」「きゃん、もう、いや」だきだき…………なんてことになったらいいな、などということを考えていたのだが、そんなことはもちろんあるはずもなく、俺はマヌケな面を晒して、ぼうっと雨空を見上げるしかなかった。

このまま雨に飛び込んで行けば、家に帰るまでには、酷いことになっているだろう………かと言って当分止みそうな気配もないし………
遠い雲まで真っ暗だ。
やっぱ………雨の中に飛びこむしかないか………

どれくらい逡巡していたのだろう。
気が付くと、ためしにカバンを頭の上に載せて思案している俺の事を、帰り支度を整えた沙夜先生が不思議そうな顔で見ていた。
神の助けとはまさにこのことだ。そして、それは求めなければ与えられない。
というわけで、その助けを求めるべく、俺は沙夜先生に近づいた。

「トイレ掃除、お疲れさま。 一人で大変だったでしょう? こんなに遅くまで頑張ってたのね」
「ああ、まあね。 傘探して少しうろうろしてたけどね。 ……先生も今帰り?」
「そ〜よぉ。 誰かさんが問題起こしてくれたおかげでね」
「へぇ? 誰だろ。困ったヤツもいたもんだね」

わざとすっとぼけてみた。

「あら? 私の傘、使いたくないみたいね?」

カバンを頭に乗せて突撃するべきかどうか迷っている姿を見られた時点で、すでにお見通しか。 

「………ご迷惑おかけしました………」
「ふふっ、う・そ。 資料整理で遅くなったの。 御門君のせいじゃないから安心して」
「本当に俺、迷惑掛けてない?」
「だって、いつもの事じゃないの」

悠利のせいだ。 俺は善良な生徒のはずなのに。多分。
とりあえず、返す言葉もないのは事実だ。

「じゃ、先生。行こうか」
「あら? 一緒に帰るの?」
「………お供させていただきます………」

下手に出て軽く頭を下げると、

「よしっ!」

と言って満面の笑顔を俺にくれた。
ああ、この笑顔を俺だけの物に出来たら………
そう思った矢先、笑顔のついでに傘までくれた。

「………? 持てと?」
「まさか、貸してくれた女性に傘持たせて自分も濡れずに帰ろうなんて、そんな甘いこと考えてないわよねぇ?」
 
 
 
 

先程までは、豪雨とでも称するのが妥当と思われたこの雨も、今になって多少は弱まってきたようだ。
頼む。せめて家にたどり着くまでは止まないでくれ。
せっかくの沙夜先生との相合い傘。 そう滅多にあるチャンスじゃない。
寄り添って歩いているのだから、こう、肩でも抱きたい衝動に駆られるが、残念なことに二人で歩くための口実である、そう大きくもない赤い傘は、俺の右手によってその存在理由を主張していた。
俺の右側に立ち、そっと歩く先生に少しでも雨が当たらないようにと、気持ち程度だが傘を右へと傾けた。

「……ふふっ」
「え? 何、どうかした?」

急に含み笑いをする先生の優しい眼差しは、振り向いた俺の目をまっすぐに見ていた。

「……ううん。 なんでもないの。 ただ、ちょっと、ね」
「なんだよもう。 ……聞いてやるから言ってみな」
「ふふっ、な・い・しょ」
「…内緒禁止」
「いいわ、じゃあ、ひ・み・つ」
「秘密もダメ」
「………………」
「黙ってもダメ。 ちょっと…なんだよ? ね、教えてよ」
「…知りたい?」
「うん」
「ただ知りたい、ってだけじゃダメよ。 絶対に何が何でもスッゲェ知りたい、ってくらいじゃなきゃ教えてあげないんだから」
「…命賭けてもいいよ。 沙夜…先生の為なら」

なぜかふと、夏祭りの時の出来事を思い出していた。
それ以降、例の発作は見ていない。
またいつそれが起きるか分からないが、一時的とはいえ彼女のそれを治めるためなら、いつでも手首を切り裂く覚悟は出来ている。
手首どころか腕の一本くらいなら惜しくないとさえ思っている。
沙夜先生は無理して押さえ込もうとするから、俺が顔色を注意してないと……
(「顔色」より「化粧の濃さ」と言った方が表現は正しいのかも知れないが…)

ついマジな表情を表に出してしまった。

「…御門君?」
「あ、あははは、命なんて大袈裟だよね。 そうだな……せめて勉強が手に付かない、くらいにしなきゃな」
「それはそれで問題あるけど……まあ、現国さえきちんとやってくれればいいわ」
「……それ、教師の言葉かよ……?」
「そ。 あなたの担任のありがた〜いお言葉よ♪」

そう言ってくすくすと笑う沙夜先生は、こんな他愛もない俺とのお遊びをここぞとばかりに楽しんでいるかのようだ。
なんか、脱線してきたな……話を戻そう。

「で、さっきは何が可笑しかったの?」
「あ、あの……あのね……………」
「うん?」

「………………………」

俺は沙夜先生が話し出すまで、辛抱強く待った。そして、その答えは、

「やっぱり教えるのや〜めた♪」

と言う、お約束であった………。
 

「あ・の・な・ぁ〜」
と、ツッコミを入れようとした俺を、先生が遮った。

「あら、あなた、肩濡れてるじゃないの?」
「え?」

沙夜先生の方に傘を傾ければ、当然俺の方の守りが甘くなるワケで。

「ああ、このくらい何ともないよ」
「そう? でも……」

そう言って、傘を持っている俺の右腕に自分の左腕を絡めてきた。

「…こうすれば、二人とも濡れないわよ?」

肘のあたりに彼女のぬくもりを感じる。
肩が触れ合う。
吐息が耳元で聞こえるようだ。
心臓が鼓動を早める。
傘と足下で鳴る雨音が、二人の世界を現実から切り離すかのような錯覚を憶えた。

「せっ、先生!?」
「あら、ご不満?」

まさかこういう形で腕の一本が取られるとは………惜しくないどころか、大歓迎だったりする。

「いや………そんなことは………ない、けど………その………」

マズいよ、こんなところを他の生徒に見られでもしたら(特に栞と万葉だけど…)
そんな言い訳が頭をよぎり、言葉にする直前。
肩にかかる軽い重みと、甘いリンスの香りが俺の脳を麻痺させた。

「ねえ、私達、どんな風に見えるのかな?」

俺の肩に頭を預け、軽く目を閉じたままそっとつぶやく沙夜先生。

「……傘をさして歩いてる二人」

照れ隠しにこんな事しか言えなかった。

「そうじゃなくて」

明らかに不満そうだ。

「……ただの教師と生徒」
「ちょっと。 せめて『仲のいい教師と生徒』くらい言えないの?」
「じゃあ、綺麗なお姉様にもてあそばれる、いたいけな男子高校生」
「あら。それなら、ジゴロ気取りの高校生に騙されかけてる可哀想な美人教師、っていうのはどう?」
「………なんか、俺だけ誉めて損した気分…だいたい自分で美人って言っちゃダメだよ」
セー○ームー○じゃないんだから。

「誰が『いたいけな男子高校生』なのよ?」
「え? 俺だけど?」
「……ケンカ売ってる?」
「…うん。少しだけ」

戯れの会話についた軽いオチがお気に召さなかったのか、沙夜先生は眉根を寄せて俺のことをじとっと見た。

しばらく沈黙が続いた後、彼女はコロっと表情を変えてまじめな顔を作ると、再び口を開いた。

「綺麗なお姉様にもてあそばれる、いたいけな男子高校生か…………ちょっとショックな表現だわ。私、もてあそんでるかなぁ……」

そう言って俺を見る視線の色っぽさ。湿った空気でしんなりとした髪が、大人っぽくひきしまったラインの顎にかかっている。俺は、情けないことに、その姿と口から発せられた単語の魔力に言葉を失ってしまった。

「どうしたの?御門君」

俺の顔をのぞき込むようにして聞いてくる。そんなにくっついたらむ、むむむむ、胸が…………
悪戯っぽい瞳の色からして、自分が与えた効果を十分に自覚しているに違いない。
くそぉ、ずるい女(ヒト)だ。

「……………やっぱり、もてあそばれてるのかも」

ぷいっとそっぽを向いて言ってやる。

「ふふっ、そんなに拗ねないでよ。大丈夫よ、もてあそんでなんかいないから………」

そう言って、俺の頬をつんつんとつつく。

「安心して、た・け・ちゃん♪」

ちくしょー、絶対にもてあそばれてる。

そう思いつつも、そっぽを向いて、再び拗ねている自分をアピールしてみせる俺。
我ながら「かまって光線」拡散しまくりの恥ずかしい態度だ。

だが、幸か不幸かそれは彼女に届いていないようだった。
それどころか足までも止めてしまい、そのため、腕を組んでいる俺も止まらざるを得ない。

「ど………どうしたの? 先せ………」

沙夜先生は一点をじっと見つめ、身じろぎ一つしない。
まさか、発作………? いや、違うか……?
そこでやっと、俺にも聞こえた。

救いを求める声が。

先生の視線をたどるまでもない。
ほんの数メートル先にある橋の手前に、段ボール箱に入れられたまま、孤独と冷たい雨に打たれて震える一匹の仔猫がいた。
くそっ。命をなんだと思ってやがる。 人間の身勝手な都合で捨てられる生き物なんて、そんなこと許されるはずがないだろう!
そんなこと………転生を繰り返さなくたって解るだろうに………

「……ウチと、おんなじや………」

先生は、組んでいる腕をはらりと解くと、力無くそれに歩み寄り、気丈に涙をこらえているようにも見える仔猫を胸に抱いた。

「寒かったやろ……辛かったやろ………もう、大丈夫やで………」

先生、関西弁なんて喋ったっけ………?
いや、昔……遠い、遠い…昔………
 

   ………観………樹………
 

ドクン、と大きな心拍音と共に、俺の中の誰かが小さく呟いた。

「ウチは、信吾にもう十分護ってもろうたさかい、今度は、ウチがアンタの信吾になったげるな……」

  …違うッ…俺は、俺は観樹を…ッ!

言葉では表現できない感情が俺の体を支配し、気付いたときには彼女を後ろから強く強く抱き締めていた。

「あッ……御門君……?」

強い触覚を受けることにより『沙夜』に戻った先生は、突然の抱擁に動揺を隠しきれないでいた。

「……先生……風邪、ひいちゃうよ……?」

先生の呼びかけで、辛うじて『武』に戻れた俺だが、それでも彼女を離すことはなかった。
むしろ、その腕でさらに強く抱き締める。
傘を持つ手が僅かに震えている。
そして、少しだけだが雨に濡れた、緩やかにウェーブのかかった髪に顔をうずめた。

「あ…御門君……ちょっと、痛いわ……」
「ゴメン……でも、少しだけ…もう少しだけでいいから、このまま……」
「………………………」
「………………………」
先生は小さく頷くと、抱き締め返してくる代わりに仔猫の頭を撫でてやった。
雨の音より、彼女の鼓動の方をよりハッキリと感じ取っていた。
 
 
 

どのくらいの時間、そうしていたのだろう。
やっと彼女の体を解放すると、目だけで会話をし、再び歩き始めた。
雨でふやけた忌々しい段ボール箱に背を向け、橋を渡りはじめた時、再び何かを求める声を感じた。
ぐるりと周囲を見渡してみるが、特に何もないようだ。
この仔猫を狙う、魑魅魍魎・餓鬼共かとも思ったが、それも違うようだ。
急にキョロキョロしだした俺を、不思議そうな顔で見つめてくる沙夜先生。

                        「…………お〜〜〜い…………」

人の声だ。
再び見回してみるが、人っ子ひとりいない。

                   「…………おお〜〜〜い………」

一体なんなんだ? どこから呼びかけてるんだ?

           「………どこに行ったんだよぉ………」

ん? この橋の下か? 河原………だよな………

      「………ぴょんこちゃぁぁぁん………」

「………………………………」

恐る恐る橋の上から覗き見てみると、増水した川辺を、傘もささずに悠利が走り回っていた。
全身びしょ濡れだ。 その顔を濡らしているのは、雨だけではなさそうだ。

アイツ、あのあと本当にぬいぐるみ探しに河原に来ていたのか………?
俺が便所掃除を終わらせて、ここを通りかかるまで? ウソだろ………?

「………なあ、先生………」
「な、なにかしら………?」
「俺達は、何も見なかった。 何も知らない。 いいね?」
「………ええ。 大賛成よ」
 
俺達は何もなかったことにして再び歩き始めた。
 
 

生ぬるい風が頬に当たる。雨足は再びその強さを増していた。
聞こえるのは、傘に当たる雨音だけで、二人の靴音でさえ何処か遠い。
猫を拾った橋の上から今の今まで、俺と沙夜先生の間には会話がなかった。

ごそり

柔らかにブラウスを押し上げる膨らみの間で、小さな毛玉が何度目かの寝返りをうった。

ごくり

俺は、我知らずつばを飲み込む。
ぺったりとした子猫の毛。ハンカチでは拭き取れなかった湿りで、沙夜先生の白いブラウスは一部分だけうっすらと透けていた。
なるべく見ないようにはしているのだが、そこはそれ、健康な高校生の男の子、どうしても、なんというか、ほら、なのである。
俺の視線を意識してか、先生が、透けた部分を隠すように猫を抱え直すと、困ったような視線を俺に向ける。
拒絶でも、窘めでも、からかいでもない。困った表情。

なんとなくらしくない。どういうわけかいつもと違う……………。
俺と沙夜先生は、明らかに、二人で歩き始めたときの心地よいなれ合いの雰囲気とは、異質の空間のなかにいた。

原因は……………、やはり、あの不思議な包容だろうか。
柔らかな体。いにしえの記憶。寂しさで心を絡め取る女の瞳。

あの時の沙夜先生…………彼女は…………………確かに…………

「…………ぴょんこちゃん」

……………そう、ぴょんこちゃんだった……………うさ耳付けた沙夜先生が、濡れた唇で「いいのよ」って囁いて、何がいいんだか分かんないけど、もう、俺はたまんなくなって、うはうはって……………ちがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁう。

「……御門君、あれ」

ばかげた妄想にセルフつっこみを入れていた俺の袖を、沙夜先生がひっぱる。

その視線の先には…………………………

「やっと見つけたよ。ぴょんこちゃん…………………」

ゲーセンの店先に置かれたUFOキャッチャーを前にして、静かにたたずむ杵築がいた。
妙にさっぱりした笑顔を浮べ、ケースの向こうに並ぶウサギのぬいぐるみを熱心に眺めているその姿は、
異様を通り越して哀愁の域にまで達していた。

さっきの「ぴょんこちゃん」は此奴だったのか………………

「そっとしておきましょう」
引きつった顔で呟く沙夜先生に俺は大きくうなずく。
 
 

「待ってろよ、ぴょんこちゃんッ、いま救い出してやるからなぁぁぁぁぁぁぁ」
ゲシゲシゲシ
「お客様、そんなことをされてはこまりますぅぅぅぅぅぅぅぅ」
「うぅぅるせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
ゲシガキボキバキ…………………………………

背後から聞こえてきたそんなやりとりが、俺たちの歩みを早めさせた。
 
 

その後、再び会話が途切れたが、相変わらず俺の頭の中ではバニーガールになった沙夜先生が尻尾のボンボリをふりふり俺を誘惑していた。
なにが「カモン オゥ イエ〜」だよ。 国語教師だぞ沙夜先生は←関係ない
まったく………隣に本人が居るのに、なんて失礼な奴なんだ俺って。

「………ねえ」
「ゴ、ゴメン!俺………」
「何を謝ってるの?」
「あ、あ〜、そのぅ………ちょっとボーっとしてて………」
「なんだ。そんなこと? ところで、私の部屋、こっちの方なんだけど……御門君って、逆の方よね?」

気が付かなかった。
この広い通りの交差点で別れないと帰ることが出来ない。

「うん。まあ、ここまで来たら、走って帰ればそんなに濡れないし………。傘、入れてくれてありがとう」
「あ………」
「はい、傘」

沙夜先生は俺から返された傘を受け取ろうとしない。

「……………………」
「……………………」
「………あ、ゴメン。やっぱりちゃんと送るよ。 もう暗くなってきたし、猫抱いてたら傘もちゃんと差せないよね」
「そ、そうなの! それで、あの………………この子のこと、ちょっと手伝って………くれないかしら?」

どこか意を決したような表情。
そ、そそそそれは、部屋に上がっていってくれということ………か?

「俺にできることなら………」
「ふふっ。い〜〜っぱいあるわよ?」

そう言って沙夜先生は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
なんだか、随分と長い時間、その笑顔を見ていなかった気がする。
それにしても………

「何させられるのかなぁ………(^^;」

先生はただクスクスと笑っているだけだった。
 

「最初の猫の世話とか躾って、やっぱりエサとトイレだと思うんだけど、猫の砂なんてないだろ?」
「ええ。だから、そこのスーパーに寄っていくわ。 その間、ちょっとこの子預かっててね?」
「あ、うん」

返事はしたものの、俺から先生の胸元へ手を伸ばせるはずもなく、されるがままになっていた。

「じゃ、すぐ戻るわ。ちょっと待っててね」

そう一言言い残し、スーパーへと入っていく先生を仔猫と一緒にぼへーっと眺めていた。
仔猫が俺の顔を見上げてうにゃあ、と鳴き、もぞもぞと動いて腕の中から逃れようと試みる。

「くぉら。俺なんかより沙夜先生の方がいいってのは分かってるから。 そりゃああんな所に抱かれてたんじゃ、居心地いいに決まってらぁな」

ザアァァァァァァァ

仔猫は大人しくなり、行き交う人もほとんど無い。
ただ雨の音だけが響いていた。
水たまりの中で幾重にも弾ける波紋を見るともなく見ながら、いつしかぽつぽつと独り言をこぼしていた。

「お前の他に多分、あの段ボールに兄弟達がいたんだろ? 自分から出ていったのか拾われて行ったのか分かんないけど、、きっとお前と同じく、沙夜先生みたいな優しい人に拾われてるよ。なんてな。そんな無責任なこと言っちゃいけないか。お前は一人で頑張って辛い思いした分、先生の所で幸せになれるといいな……あ、先生を幸せにするのは俺の役目だからな。取るなよ」

スーパーのドアの前で女物の赤い雨傘を差して仔猫にぶつぶつと言葉をつぶやく高校生。
怪しさ120%だな。
ま、誰も聞いちゃいないし、いいか。

「御門君の役目って?」
「おわあっ! せ、先生、早いなぁ! あ・あははははっ!!」

いつの間にか背後に立っていた沙夜先生に聞かれたっ?! もう笑ってごまかすしかない。

「なによぉ。寒い中待たせてると思って急いだんじゃない。で、仔猫ちゃんに何を取られる心配してるの?」
「なんでもない!なんでもないよ!気にしないでよ!買い物終わったんなら、行こう!なッ?」

しばらく「ぶーっ」とふてていた沙夜先生だったが、また悪戯っぽい笑みに変わった。

「ひょっとして………『なにを』じゃなくて、『誰を』だったりして?」

………どこからどこまで聞かれたんだろう………?

「ほらッ!荷物持つから、コイツと傘頼むよ!」
「なぁに怒ってんのよぉ〜。ひょっとして図星?そうなんでしょ?ねえ!ねえってば!待ってよ〜」

俺は黙って買い物袋二つをひったくりつつ猫と傘を押し付け、無理矢理に持ち物を交換すると、先生の部屋へ向かって歩き出した。

「それにしても、随分買い物したんだね。こっちの袋は猫の物ばかりだけど、よくあんな短時間でこんなに…先生って以外と大食い?」
「失礼しちゃうわね。手伝いだけさせて『ありがとハイさようなら』じゃ、私ってただの非道い女でしょ?だから、ご飯一緒に食べようと思って買い出ししたのよ。なんたって君、食べ盛りだもんね」

……………神様、心からありがとう。
 
 

白亜のマンションなどという表現は死語になって久しいが、沙夜先生の住むマンションはその言葉にふさわしい佇まいだった。
その外観に「女性の一人暮らし」を強烈に意識させられた俺は、不覚にもごくりと喉を鳴らしてしまった。

「御門君………信用してるからね」

もしかして、いやもしかしなくても、その音に気がついたのか、沙夜先生が真剣な顔で俺を見つめていた。

「いや、俺は、その、別にそんな」
「ぷっ………………ふふっふっ、冗談よ」

焦る俺に、優しげな視線をくれながらエレベーターに向かって歩き出す。

「でも、ちょっと安心しちゃったわ」
「えっ?」
「御門君っていつも女の子に囲まれてるでしょ。だから、結構こういうシチュエーションには慣れてると思ってたの」
「こういうシュチュエーションって?」

思わず問いかける俺の前でエレベーターの扉が開く。先生はそれには答えず黙って身をくぐらせるとくるりと振り返って、もう一度こう言った。

「御門君………信用してるからね」

その口元には、からかうような笑みが浮かんでいた。
 
 

「ちょっと待ってね」

傘を立てかけ、片腕で器用に仔猫を抱きながら、バッグに手を忍ばせる。
自分の生活スペースに入って、リラックスしているのだろうか。
エレベータのなかで見た横顔や、いま部屋の扉を開けている後ろ姿は、いつもより無防備に見えた。

「本当は、ちょっと恥ずかしいんだけどね」

そんなことを呟きながら彼女が開いた扉の向こうからは、何ともいえない良い匂いがした。

「おじゃまします」

とりあえずそう言って部屋に上がったまでは良かったが、どうして良いのかわからず立ちつくしてしまった。
柄にもなく緊張しているのが自分でもわかる。
女の子(?)の部屋なんて、栞の部屋で慣れているはずなのに、沙夜先生の部屋だと思うとどうも勝手が違う。

「この部屋に上がった男性は、御門君で二人目ね」

えっ?!
玄関先に足を踏み入れた途端のその言葉に、俺の意識は彼岸の彼方まで吹っ飛んだ。
夏の初めに一緒に帰ったときは、「彼なんていない」って言っていたのに………。
秋になったらもう彼氏持ちなのか…。
そうだよな。世の男達がこんな美人を放って置くはずもない。

「一番目はねぇ………この子」
呆然と突っ立ったまんまの俺にしてやったりの笑顔。
彼女は、胸に抱いた仔猫の前足に引っ掻く仕草をさせながら「にゃお」と小さく鳴いて見せた。
 
 
 
 
 
 

「何か手伝おうか?」
「いいの、男の人はじっとしてて」

言葉を交わしながら、こんな会話が実際にあるんだと感動してしまった。
俺は、リビングの片隅に置かれたトイレをくんくんとにおっている猫を横目で観察しながら、キッチンで揺れ動く沙夜先生の後ろ姿を眺めていた。

………俺、何しに来たんだっけ………

トイレの設置とエサの供給。
全て沙夜先生が一人で手際よく終わらせてしまっていた。
「トイレは明日、ちゃんとしたの買ってきてあげるわね。今日だけ段ボールで我慢してね」などと言いながら。
俺はと言えば、貸し与えられたタオルで、逃げようとする濡れた毛玉の湿り気を取ろうとした程度。
「じゃ、腕によりかけちゃうからね」
と言って料理を始めた先生を、毛足の長い絨毯の上であぐらをかいて眺めていた。

トントントントントン

包丁のリズミカルな音が耳に心地いい。
ゆったりした普段着にピンクのエプロン。
時折ちらりと見える横顔に、それに合わせて揺れる髪。
楽しげに流れる鼻歌が、なんだかとても幸せそうだ。
フライパンからジュワッっと景気のいい音が鳴る。

「お、いい匂いしてきたッ。なんて料理?」
「うふふ。出来てからのお楽しみ〜♪」

適当な節を付けた返事が返ってくる。
………もうちょっとかかりそうだな………
少しずつ余裕を取り戻しつつあった俺は、そぉっと立ち上がって先生の肩越しにフライパンを覗き見ようとした。

「こらッ!まだ見ちゃダメよ!もうッ。大人しく座ってて」

が、バレた。
でも、ちらりと見えたあれは……亀と………蛇………じゃなかったか?
察するに、スッポンとマムシなのか………?
いや、まさか。スーパーにそんなもん売ってないだろう。
そうそう。きっと見間違いに決まっているさ。
でも………見間違えるか?普通………
しかし、全身から「あっち行け」のオーラを噴出しているのを感じ取り、問いただすことも出来ずにスゴスゴと退散することにした。
 

料理完成まで黙っているのもなぁ………と無礼を承知で部屋をウロウロしていると、奥の部屋にベッドが見えた。
ここで沙夜先生もあの悪夢を………血生臭い、狂気にまみれた異常な世界を垣間見ていたのか。
『……泰子はいま教師で常磐と名乗り…我らに関わりのある人間が…あの方も反応し…』
以前、俺の夢の中に現れた謎の祭壇の前で聞こえた男の声が、ふと脳裏をよぎった。
俺と沙夜先生の悪夢には関連がある………そう、それは………

………洗濯物だ………

普段、日中は留守がちな先生が部屋干ししていてもなんの不思議もない物なのだが、俺の思考を麻痺させるには十分すぎるインパクトを持っていた。
立ち位置はそのままで、裸眼でズームをするという離れ業をやってのける。
「こっ、こんなの履いてるのか………」
どれもこれも勝負パン

ゴキッ

思わず上げてしまった驚きの声を聞きつけた沙夜先生のグーパンが炸裂した。
頭を抱えてうずくまる俺にゲシゲシと容赦なく追撃が襲ってくる。

「いてッいててッ!蹴らないで踏まないで!ゴメン!俺が悪かったッ!」

顔を真っ赤にして目の前に仁王立ちしている沙夜先生は鼻息も荒く、手にしているおたまを首筋にトントンと当てつつ、数あるお仕置きの方法の中でも最高にキツいものを吟味しているように見えた。
下から見上げているため、形の良い胸に隠されてその口元はうかがい知ることは出来ない。大体想像付くけど………

「先生、そんなに蹴ったらパンツ丸見……エ゛」

ドゴッ

一層赤みを増した表情から繰り出される打ち下ろした拳が、俺の意識を根こそぎ刈り取っていった。
気付いたときには、既に部屋の片隅につり下げられているブツは無かった。
 
 

衣擦れの音が耳に届いたのか、沙夜先生が声を掛けてくれる。
「あ、気が付いた?もうすぐ出来るからね」
「いてて……もうちょっと手加減できないのかよセンセ〜」
「そーゆーことは、もっとデリカシーってものを身につけてから言ってちょーだい」

全くである。

ウロウロしてたら、また余計な物見付けそうだしな………テレビでも見るか。
「先生、テレビつけるよ〜?」
「いいわよ。どこかその辺にリモコンあるでしょ?」

振り向かずに返事をする先生の言う通り、俺が寝かされていたソファの近くに転がっていたそれを適当に操作する。
『……連続白骨通り魔事件は未だに容疑者の特定が出来ず、ただいま警察で証拠の発見に全力を挙げて……』
忘れかけていた事件の続報だ。
言い知れない不安。確信は無いが、俺とこの事件は無関係ではない気がする。

………ん?
テレビの上の写真立て…スナップ写真?……人物は沙夜先生と………?
煩悩というブースターが無いため、先ほどのようなズームは出来ない。
しかも一日一回という、厳しい使用制限があるのだ。掟を破ると暫くはお天道様を拝めなくなるという危険を伴う。
よく見るため、立ち上がってテレビに近付こうとすると、気配を察知した彼女が全速力で写真立てを奪い去っていった。

「…………………………」
「…………………………」
「見せてくれないの?」
「だぁメ。絶っっっ対見せない」
「ひょっとして、学園祭の時に撮った………」
「ちっ…違うわよ。見間違いじゃないの?じっ、自意識過剰は良くないわよ」

早口で否定しまくりながら、戸棚へ伏せて仕舞ってしまった。
同じ写真、俺も買ってたような気がするなぁ………帰ったら確認してみよう。
 
 

あ。そうだ。忘れてた。帰ったらと言えば………
「先生、電話貸して欲しいんだけど」
「んっ?どうかした?」
「先生の所でご飯ご馳走になるって節子さんに電話しなきゃ」
「………節子さん?」

知らない女性の名前を復唱する語尾に怒気が含まれている気がする…気のせいじゃないと思う……

「あ、俺が居候させてもらってる、栞の母親です」
「あら、そうなの?そうね。保護者には連絡した方がいいかも知れないわね」
「はい」
保護者、というところが微妙に強調されているのが気になったが、黙っていた。

トゥルルルル、トゥルルルル…………

『はい、斉でございます』
「あ、栞?俺だけど」
『あッ、たけちゃ……』

プッ、ツー、ツー、ツー………

先生がフックを押して電話を切っていた。
「なんで切るんだよ!」
「あら、君の為を思ってのことよ?」
「は?」
「君が私の所にいる、なんて斉さんが知ったら………なんとなく想像つかない?」

なんとなくどころか、完璧にシミュレーション出来るところが単純で分かりやすい栞の良いところだ。

「………汰一のところに寄ってるってことにするよ」
「賢明ね」

エプロンをつけた見事な肢体がキッチンに戻るのを見送りながら、「嘘のアリバイ作ってる今の俺って、なんだか愛人宅を訪ねた不倫親父みたいだな」なんてことをちらっとだけ考える。
どっちかっていうと、沙夜先生って愛人顔だし………。
無礼なことを考えながら、俺は再び受話器を取った。

いや………まてよ?
無二の親友である汰一のところにいることをわざわざ知らせることは、嘘ついてます、って言ってるようなものだな。
今日の晩飯が無駄になったと文句の一つも言われることさえ覚悟しておけば、連絡はしない方が信憑性があるような………
一言話した栞には、嘘の理由を正当化して適当にあしらっておけば、なんとかなりそうな気がする。
修羅場経験の無さが浮き彫りになっている浅知恵を振り絞って出た結論に従い、再度電話することをやめることにした。

一応、汰一には口裏を合わせておくように頼んでおくか。

しかし、何度コールしようと、彼は出ることはなかった。
う〜む………とにかく、二人でコンビニ前で語り合ってたことにしよう………。
 
 
 
 
 

「たいしたものはできなかったけど…………」
食卓に並べられた料理を前に、彼女は照れたようにそう言った。
目の前で湯気を立てている料理は、とにかくうまそうで、最前のぞき見た凶悪な食材の痕跡はどこにも存在しなかった。
 
 

謎だ。
 
 

「いただきます」
「はい」

和やかな雰囲気の中に、わずかな緊張感が混じっている。
俺の口元に最初の一口が運ばれるのを、気にしない風を装いながら注目している沙夜先生がたまらなく可愛い。

「美味い………………美味いよ先生」
最初の一言は思わず出た言葉だ。
「よかった」
彼女は、ホッとしたように胸に手をやっておどけたように笑った。

「まあ、自信はあったんだけどね」
「いつも、作ってるんだ」
「当たり前でしょ。私のこと、どういう風に思ってたのかしら」

正直なところ、今日この部屋に来るまで、沙夜先生が料理している姿というのは、想像できなかった。
大人の女性の魅力にあふれた艶っぽい顔立は、あんまり、というか全く生活感の香りがなかったからだ。
急に降り出した雨のおかげで、今まで知らなかった沙夜先生の本当の姿を思いがけず知ることができたわけだ。
干してあったあの下着とか…………………。
いかん、油断すると想像してしまう。
いけない考えを振り払って、とにかく箸を進める。
冗談めかしてたけど、信用してるから俺を部屋に上げてくれたんだもんな。

「なんだか、二人きりで差し向かいっていうのは照れるわね」
「考えてみたら、こうやって先生と二人きりで食事ってなかったよね」

そんな俺の言葉に、沙夜先生は曖昧な笑みを浮べた。
妙に浮かれていた俺の気分に、その表情が水を差した。
遠い昔にみた面影を見たような気がしたのだ。

「まあ………教師と生徒だから、当たり前か………」
教師と生徒。………叔母と……甥………?
不確かな過去の記憶が呼び起こす相似。
ことさら口に出して見せた俺は、極めつけの野暮だった。

「そうよね、教師と生徒は普通こんな風に二人きりで食事をとったりしないものね」
先生は、少しだけすねたような顔をしていた。
どこかしら冗談の匂いがするその発言で、俺があっけなくうろたえてしまったのは、悔しいけれど経験の差だろう。

「いや………あの………」
「それに、御門君の周りには、同年代の可愛い女の子が一杯いるし、こんなおばさんと一緒にいても楽しくないだろうし………」
「そんな、おばさんなんて…………先生はすごく綺麗で、外見だけじゃなくて中身も素敵で、俺はどっちかって言うと………」
「ふんふん、どっちかって言うと?」

気がつくと、つい熱く語ってしまっている俺の顔を、沙夜先生がのぞき込んでいた。
からかうような視線。
なんつーか、強烈に恥ずかしい。

「………勘弁してよ」
「ごめんなさい。はしゃぎすぎたみたいね」

口元だけで笑いながら、細い指をグラスに絡めた。
それの中身はただの水だ。
俺がもう少し大人だったら、おそらくは、いや確実に別の液体だったろう。

「でも、なんだか口説かれてるみたいで、嬉しかったわ」
唇をしめらせてから、彼女は再び俺をからかう。
…………………すごく可愛くて、すごくきれいだ。
その姿を見ながら、俺は自分の心の内を少しずつ自覚し始めていた。
今度は俺が反撃する番だ。

「………………本当に、口説いてたんだとしたらどうする?」

「う〜ん………どうしよっかなぁ〜………」

口調も態度も、凍ってしまったモノを隠すような………。
「……はぐらかさないでよ」
「ごめんなさい。………なんだか、喜んでしまったら、また貴方がどこかへ行ってしまいそうな気がして………」
「また?」

どこかへ行く?俺が?どこへ? この女(ひと)を置いて?
沙夜先生はそれには答えず、少しだけ時間をおいてから伏し目がちに言った。

「………ねえ、待てる?」
「え?」
「一年半………再来年の春まで………」

俺だって関係が壊れることを心配していなかったわけじゃない。
でも、それなりの勝算はあるつもりでいたんだが………。
箸を握る右手から力が抜けていくのを感じていた。

「春………御門くんが卒業したら、もう一度二人でこうやって食事しましょ?」
「………え?」
「遠くの大学とか行っちゃヤぁよ」

それって………

「にゃぁ〜〜〜ん」
「あらぁ、アンタも私のご飯、食べたいの?」

アンタこと拾ってきた仔猫が可愛くおねだりの声を上げた。
………なんか色々ぶち壊し………良かったような悪かったような………
 
 

結局食事の間、一度そがれてしまった雰囲気が元に戻ることはなかった。

まあ、なんというか、脈はあるというか………意外と決定的かつ可愛いセリフを先生言ってたし………。
あの一連のやりとりは、冗談ではない………はずだ。……と思いたい。

だからといって、どうにもできなかったんだけど。

俺自身、勢い込んで恥ずかしいセリフで迫ってみたものの、彼女の気持ちをそれ以上突っ込んで聞くことにためらいを覚えていたのも事実だ。
先生も、それからの当たり障りのない会話の中で、何度か何ともいえない表情で俺を見ていたことがあったが、俺と目が合うと柔らかく笑ってごまかしてしまっていたし。
二人の間に、決定的な何かがあるのは分かっていたんだけど、お互いにそれに触れることにためらいがあったというのは、やはり、機が熟し切っていないと言うことなのか、それとも単に、俺が未熟なだけなのか。
 
 

気がつくと、時計の針は、結構な時間を指していた。
もともと天気が悪かったせいか、レースのカーテン越しに見える空はやけに暗く見えた。
食卓の上の皿は、全てきれいになくなっている。
正直、栞のことも気になって来ていた。

「そろそろ、帰るよ」
俺は、なるべく未練がましくならないように意識しながら、そう口にした。
その瞬間、先生が寂しそうな顔をしたように見えたのは、気のせいではない…………………と思いたい。

「うん」
俺の言葉に曖昧に頷くその顔を見ながら立ち上がると、彼女もそれにあわせるように席を立った。
それから自然な流れで、テーブルの上の食器をいくつか重ね、流しの方に運び出した。
あっ、そうか、洗い物………。
たいした手伝いもせず、飯だけ食ってさようならでは、あんまりだよな。

「あっ、ごめん、やっぱ、片づけ手伝ってから帰るよ。」
自分の気遣いのなさに気がついて、慌ててそう言ったものの、俺の前の食器は既に無く。
対面にあった彼女の食器は、不器用に伸ばした手の先で、するりと繊指にすくい取られた。

「いいのよ。御門君はお客さんなんだから。」
ステンレスの上に食器を置いてから振り返った彼女は、言い聞かせるように俺に言った。
「それに早く帰らないと、お家の方が心配するでしょう。」
………………うっ
気遣いに含まれた微妙なニュアンスは、お姉さんっぽい言葉遣いの落としどころだ。

「じゃあ、お言葉に甘えて」
妙な気まずさを感じながら、玄関に向かっていく。その背中に、つぶやくような声がかかった。
「いずれは………二人並んで洗い物なんてのも良いかもしれないけど………」
「えっ!」

背中にかけられた声に、思わず振り返った俺に、さらなる追い打ち。
「結構、決定的なこと言ったつもりだったのに、何の反応もないんだもんなぁ」
卵形のきれいな顔には、今日何度か垣間見せた寂しさが漂っていた………気がする。
曖昧にしか感じられなかったのは、その言葉の意味することに、俺自身が動揺していたからに他ならない。

「あっ!えっと………」
とっさに何も答えられない俺を見て、彼女は薄く笑って言った。
「ごめんなさい。また、はしゃぎすぎたわね。」
 

会話の流れに任せたとはいえ、最初に話を振ったのは俺自身。
ところが、いざ微妙な関係が変わってしまうとなると、これだ。
…………なんだか本当に情けない。
 

「俺………」
「待って………。今は良いわ。」
呟いた俺の顔がよっぽど情けなかったのだろうか、言いかけた俺の言葉を遮ると、沙夜先生は今度は包む込むようなやさしい笑みを浮かべた。
「それより、今度の日曜日あいてる?」
「あっ、うん」
「あの子のちゃんとしたトイレとか買ってあげたいの。つきあって欲しいな」
あの子というのは、いわずもがなのお邪魔ネコのこと。でも、今度はそいつの話題が、雰囲気を良い方に変えてくれた。
「もちろん。喜んで。」
「ありがと」
俺の返事へのお礼の言葉、そして………………………

ふっと彼女がつま先立って、鼻先に良い匂いがしたと思ったら、唇に柔らかいものが触れた。
ほほに触れた髪の毛が、何ともいえないむず痒さを伴って、俺の胸をくすぐる。

しばらく、間が抜けた顔で、照れている彼女の顔を眺めていた。
俺の顔も相当赤いに違いない。

それから、俺は、口の中でもごもごと挨拶をすると、だらしなく笑おうとするほほを何とか引き締めながら部屋を辞した。
 

雨は随分前にやんでいた。
部屋を出てからも、しばらくの間頬に残ったむず痒さは消えなかった。
今の感触を忘れないように記憶に刻み込む作業をしつつゆっくりと歩を進めていると、沙夜先生の部屋の辺りからなにかが暴れるような物音がしていた。
………きっと、猫が言うこと聞かないんだろうな………そーいや、名前何にするんだろう………
俺は、辺りに漂う水の匂いを嗅ぎながら、彼女の部屋の甘い香りを思い出していた。
 

そんな調子だったから、しばらく歩いた道の向こうに我が家の屋根を見つけるまで、栞のことはすっかりきれいさっぱり完膚無きまでに忘れていた………。
 
 

「あ、やっべ………」
マズった。言い訳を考えていなかった。

だが、考える暇を与えないかのように、俺の独り言に返事があった。
「私に会うことが気まずいみたいね。武」
そういって街灯の陰から姿を現したのは………

「た、高原? どうしてここに?」
「私のことは『万葉』って呼んでって言ってあったわよね?」
「あ、ああ………そうだったな………」

下の名前で呼ばなかったという理由だけでは説明が付かないくらい、こめかみがピクピクしている。
「さて……私に殺される覚悟は出来てるわよね?」
「お前、まだそんなこと言ってるのか?何を理由にそんな!」
「自分の胸に聞いてご覧なさいッ!」
「俺がお前に何をしたッ?」

いつの間に出したのか、叢雲の剣を構え、じりじりと間を詰めてくる。
「私というものがありながら………どうして他の女のところに行くのよぉぉぉッ!」
そう叫びつつ、振りかぶって飛びかかってくる。
「おわっ! あ、あぶ………」

紙一重でかわし、再び間を取る。
「やめろって! 当たったら痛いだろ!」
「あなた………私が夕飯も食べずにずっとあなたのこと待ってたのに………沙夜先生とこんな時間まで何してたのよッ!帰り際に何したのよ!」
徐々にテンションが上がってヒステリックになってきた。

「……………チョット待て。万葉、なぜ俺が沙夜先生のところに居たと知っている?」
「……………え?」
少し冷静になってきたのだろうか。というよりも、言葉を…いや、言い訳を探しているのか。(俺と同じだ)

「や、やぁね。…………女のカンをナメてもらっちゃ困るわ」
目線が泳ぎ気味だ。 そのまま見据えていると口笛でも吹きそうな勢いで怪しい。
後ろ手になにやらごそごそしている。
「今、何か隠さなかったか?」
「べ、別に………」

問い詰めるようにじっと見詰めていると、耐えきれなくなったのだろう。
「きょ、今日はこの辺にしておいてあげるわ」
そう言い残して、颯爽と民家の塀を飛び越えて目の前から消えた。

鞄の中から俺の物ではないペンケース………盗聴器らしきものを見つけ出すのに、そう時間は掛からなかった。

………万葉………君がストーカーだという噂………本当だったのか………
 
 

そ、それはそうと、もう結構な時間になってしまった。
ご近所のみなさん騒がしくてゴメンナサイと心の中でしっかりと土下座をし、家路を急ぐ。

そうして着いた家の前。
すでに寝静まったのだろうか、部屋の明かりは消え、耳鳴りがするほどの静寂に包まれた我が家(居候だけど)は、とりあえず明朝までの平和を約束してくれているように思えた。

栞や節子さんを起こさないように、裏手に回り、窓から入るか?
いやいや、泥棒や夜這いじゃないんだ。コソコソすることないじゃないか。

つまり、堂々と玄関を開けてもいいわけだ。
ただ、まあ、時間も時間なので………

………かちゃり………

可能な限りそぉぉぉぉぉ〜〜〜〜と鍵を差し入れ、極力音が出ないようにゆっくりとシリンダーを回す。
慎重にノブを回し、通れるだけ最小限度にドアを開け、体を滑り込ませる。
この方がよっぽど泥棒みたいだ………

よし、ここから、部屋までが難関だ。
真っ暗な玄関で靴を脱ぎ捨て、抜き足差し足………

いつも段飛ばし技を炸裂させている階段が、恨めしいほど長く感じる。

栞の部屋の前は、特に物音に注意しなくては………よし、クリアー。
しかし、なんだって俺はこんな行動をしているのだろう………やはり、心のどこかで後ろめたさがあるんだろうか。

ついに辿り着いた最後の難関、俺の部屋の前。
ゴールに喜んでドアを開けるときにヘマをしては、ここまでの無意味な行動が、本当に無意味な物になる。
玄関を開けるときの要領でそぉぉぉっと………よぉぉぉぉっし!

スルリと体を滑り込ませると、パチリと明かりがついた。

「し、栞………」

そう、そこには今まで見たこともないような表情で仁王立ちをぶちかましている栞がいた。
なんつーか、表情そのものが仁王像だったりする。

ぎろりと鋭い眼光が俺の目を射抜くと、つかつかと歩み寄り、ぐわしと胸ぐらを掴み………
 

くんくんくんくん
 

頭のてっぺんから胸元まで匂いを嗅ぎまくり、一言。

「…………沙夜先生と、なにしてきたの?」

その後、朝まで尋問されたのは言うまでもない…………。

 

終わり