風のあと
partB
*
私の中には“蜂”がいる。
誰も知らないけれど“蜂”がいる。
普段はおとなしくじっと動かないのだけれど、何かあれば巣から飛び出してくる。
ぶんぶんと羽音を鳴らし、ちくちくと針で刺す。
私よりもロマンチックな人なら、もっと詩的に美しく“心の中の天使”と呼ぶのかもしれないし、
私よりも現実的な人なら、もっと端的に分かりやすく“良心”と呼ぶのかもしれない。
だけど、私にとってそれは“蜂”だった。
ずいぶん前から、もっと幼い頃から、ずっとそうだった。
*
その日、私は友達と久しぶりにカラオケボックスに行く約束をしていた。
いつものメンバーの一人が、会員になって一年経ったとかで、割り引きチケットを手に入れたのだ。
カラオケはみんな大好きだったし、私もなんだかはしゃいでいた。
放課後の教室。
チケットの有効時間帯になるのを4人ぐらいで待っていた。
その時、どうしてそんな話になったのか誰もわからないままに、自分たちの親の話で盛り上がっていた。
内容は他愛も無い。
口うるさい。うっとうしい。服装の趣味が悪い。
こんなことをする。 あんなことをした。
中学生の女の子にふさわしく、勝手気ままなおしゃべりだった。
ただ、その時、それを許さない少女が居た。
「アンタたち、ちょっとうるさいわよ」
惣流さんが、居た。
そこに彼女がいたことはもちろん気が付いていた。
私は意識して彼女のほうをできるだけ見ないようにしていたのだから。
たぶんその日はたまたま何かの用事があった碇君と綾波さんを待っていたのだろう。
いつもなら、授業が終わるとさっさと帰ることを私は知っていた。
「なによ。いきなり・・・・・・!」
ちょっと離れた席から突然割り込んできた声に、一瞬あっけにとられた私たちだったが、すぐに誰かが切り返す。
「そうよ。いきなり割り込んでこないでよね!」
「なんなのよっ・・・!」
そんな言葉が力を持つはずもない。
「アンタたちがうるさいから、うるさいって言ったのよ」
「なっ・・・!」
蒼く燃える理不尽な瞳。
気持ち良く盛り上がっていたところをいきなり邪魔された私たちは、本気で腹を立て始めていて、その鋭さに気が付かなかった。
「さっきから、聞きたくなくても聴こえてくんのよ。
アンタたちが囀ってんのが。バカみたいに。
はっ! まったくよく言うわよ。
どうせ今日だってアンタたちの言う、うっとうしい女とやらにご飯作ってもらうんでしょうが?
今、履いてる靴下だって自分で洗ってるヤツがいるっての?
みっともないってのよ、アンタたちは」
ふざけるんじゃないっ・・・!!
*
惣流さんは正論を言う。
しかし、彼女はわかっていなかった。
私たちにとって親の悪口は、前日のテレビドラマの話題と同じくらい、もっともポピュラーな話題の一つだ。
そして、もちろんルールがある。
誰も口に出したりはしないけれど、間違いなくある。
例えば 誰かが父親の服装の趣味を嘆いたとする。
それに、
「ホントよねえ。あなたのお父さんこの前見かけたけど、あのネクタイはひどかったわ」
などと言えば、(もちろん、その時は笑ってくれるだろうけど)次の日から、自分で父親を「サイアク」と言ったその子と楽しく会話を弾ませることはかなり難しくなるだろう。
そういった時は、
「えーあなたのとこなんかまだいいわよ。私のとこなんか・・・・・・」
と言うのが、セオリーであり、正解なのだ。
惣流さんはそういう“ルール”をなにもわかっていなかった。
なにもわかってないのに、彼女は正論を言った。
*
後になって思い返してみれば、その時にはもう“蜂”たちは触覚を揺らし始めていたのかもしれない。
薄っぺらなダンボールで作られたような、あの茶色い六角形の巣の中で。
静かに、油断なく、容赦なく。
*
「勝手なことをっ・・・!
勝手なこと言わないでっ!」
激昂。
そう呼ぶのがふさわしい。
私は立ち上がって怒鳴っていた。
「あなたはなんにも知らないのにっ
なんにも関係ないんでしょうがっ!」
それはやつ当りとも言えるのかもしれない。
それまでの彼女の、そして彼女たちの、私に対する無関心ぶり。
何かが変わったはずなのに、それを掴む事のできない私のあまりにも普通すぎる日常。
そういった苛立ちが一気にあふれる。
「たくっ! なによ。
そんなにオトウサン、オカアサンをタイセツにしたいんなら、自分んトコだけでやればいいのよ。
思いっきり甘えて、思いっきりイイコでいて、ステキなオヤコやればいいでしょうっ・・・・・・」
感情のままに言葉をぶつけ続ける。息が切れるまで喚いた。
立ったまま荒い息を吐く私に、他の子はあっけにとられて押し黙る。
その無邪気な驚きと残酷な好奇心に満ちた視線を感じながらも私は惣流さんを睨んだ。
彼女は自分の席に座ったまま、体をこちらにねじっていた。
彼女もまた私を、私だけを睨む。
『なんて、眼・・・!』
私と彼女との間には距離があった。
それでもその眼は怖かった。
殴られる、そう思わせるような生易しいものじゃない。
強く、強く燃える蒼い眼は、喉笛を食い破ろうとする獣の目だ。
歯を食いしばって耐える。
その時は恐怖よりも怒りが勝っていた。
だから、耐えることができてしまっていた。
*
2人だけの睨み合いはどれくらい続いたのだろう。
カララッ
軽やかな扉の音が張り詰めた教室に響いた。
はっとしてそっちを見る。
そこに私が恐れ、どこか予想していた2人がいた。
「・・・・・・?」
きょとんとした碇君と影のように寄り添う綾波さん。
2人は(少なくとも碇君は)壊れそうなほど張り詰めた空気に戸惑っているように見えた。
*
“蜂”たちは一斉に飛び立つ。
*
「シッ、シンジッ シンジィッ・・・・・・!」
唐突に、悲鳴のような惣流さんの声が飛ぶ。
それまでの強さなど消し飛び、ひどく切羽詰った声。
彼女はもう私のほうなど見てなかった。
何かを捧げるように、称えるように、碇君に手を伸ばしていた。
その長い2本の腕を、細い10本の指を、ただ真っ直ぐに精一杯伸ばして彼を求めた。
彼はためらわなかった。
1秒だって留まらず、1ミリだって揺るがない。
すっと曖昧な表情が消え、少女の元に歩み寄る。
「シンジィ・・・・・・」
惣流さんは座ったまま、彼に抱きつき、泣いた。
逞しさとは程遠い少年の体に腕を回し、力いっぱい抱きしめて、お腹に顔を埋めて盛大に泣いた。
その唐突さとその無遠慮さ、そしてその無防備さに私たちは動けない。
碇君は慰めようとさえしなかった。
その手をそっと触れるように彼女の肩において、ただ静かに立っていた。
まるで魔法のように、いつのまにか綾波さんも惣流さんのそばに立っていた。
その横顔からはなにも読み取ることができなかった。
いつもの彼女との違いを、英語の授業で無意味な文章を読み上げた端正な横顔との違いを、私には見つけ出すことができない。
彼女も一言も口にせず、それで何かが伝わるとでも言うように、惣流さんの背中をゆっくりと撫でていた。
『完璧・・・!』
私は、呻いた。
*
小学6年生の遠足(正式名称は社会科見学だったけど)で美術館に行ったことがある。
隣町にあったそれは控えめに言ってもちゃちなものだった。
アルバムには小学生の私たちの写真といっしょに当時のパンフレットもはさんであるけれど、今見返してみても展示物は雑多で、いかにも地方自治体が『観光客目当てに取りあえず集めました』という感じで、そこには主義や主張と呼べるものがなかった。
“美術館”なんてご大層なものではなかった。
私たちがバスに揺られてそこに行った時、期間限定のイベントで世界の文化遺産とやらが展示されていた。
もちろんそこにあるのは全てレプリカだったけれど、レーザー測定を使ったとかで、実物と文字通りの意味で寸分違わない、というのが売り文句だった。
そこにギリシャだかローマだかの彫刻があった。
たしか親子だったと思うけれど、男性一人に子供二人が大蛇に絡みつかれて苦悶している石像だった。
展示物の前にはパネルとボタンがあって、それを押すと録音された解説が流れるようになっていた。
男の子たちは先を争うようにしてそのボタンを片っ端から押していた。
『・・・・・・は、この彫刻を評して、まさに完璧だ、と言いました。
ここには必要なものは全て在り、不必要なものはどこにも無い、と。・・・・・・』
もちろん誰もそんな説明など聞いていなかった。
その像の人物は(大理石の彫刻の多くがそうであるように)ほとんど裸で、誰かがそのことで卑猥な冗談を言い、みんながドッと笑った。
私も笑った。
それだけのこと。その像がなんて名前だったのかさえ覚えてない。
ただみんなでぞろぞろと次の彫像に歩き出した時、ちょっとだけ振り向いてみた。
私にはグロテスクとしか思えない彫刻がぽつんと残されていて、聴く人も無いままあたりに漂う退屈な解説が、冷たい大理石の上にほこりのようにゆっくりと積もり始めていた。
そして、なぜだか気が付いた。
“完璧”であるのに“不必要”が“無い”は、とても良い。
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どうも、Kitaです。
こりもせずに前回の続きを送らせていただきました。
まだ、この話は続きます。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
それでは、失礼します。