風のあと partC

 

 

 

 

 

 

 

 

いろんな場所で、いろんな人が、いろんな言葉を使って、言う。

世界で最も美しいものは涙だ、と。

私はそれを嘘だと思う。嘘だと思いたい。

 

確かに画面のこちら側から見る涙は綺麗だ。

    『グエンの林檎』でミシェル・プレスフィールドが流した涙を醜いと思う人がいるだろうか?

 

でも、“リアル”は違う。

    売れない歌手に声をかける繊細な青年が現実にはそうたくさんはいないのと同じように。

 

泣いている人間を目の当たりにしたとき、いくらかの同情と共に感じるのは何かをしなければならないというあせりと戸惑い。

鬱陶しさと嫌悪だ。

それは酷いことなのかもしれないけれど、どうか責めないでほしい。

美しいと感じるのは、誰かに見せるために流してみせた涙だけだから。

 

本当の涙はそれを見る者たちのためにあるわけじゃない。

涙は“目的”じゃないから。 “手段”じゃないから。

それはただ、どうする事もできない、選択する事のできない、“結果”にすぎないから。

そう、思っていたいから。そう、信じていたいから。

 

 

 

惣流 アスカ ラングレーという少女が見せた涙は、あらゆる意味合いにおいて美しくなど無かった。

言葉にさえならない声を途絶え途絶えにあげ、グズグズと鼻を鳴らし、顔を碇君のお腹にこすりつけていた。

彼の真っ白なシャツは涙と鼻水でぐしょぐしょに汚れていただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

止まることなんて無いんじゃないかと思えるような惣流さんの泣き声もちゃんと止まった。

月だっていつかはきちんと沈むようにひっそりと止まった。

 

惣流さんの顔は碇君のお腹に埋まったままだったけれど。

 

 

碇君はゆっくりと、あせりなんて1mgだって見せずに、初めて声をかけた。

 

「帰ろう?」

 

 

その声は、深い深い森の奥にある冷たくて澄み切った小さな泉に、そっと銀貨を一枚だけ落としたみたいに。

 

ただ、小さく落とされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

      誰か教えて。

      私に教えて。

 

 

      その銀貨にはどんな願いが?

      たった一枚の銀貨にはどれだけの祈りが?

 

 

 

 

 

 

 

 

ぴくん、と惣流さんの体が揺れる。

 

碇君の体をつかんでいた腕がすべる。

栗色の長い前髪で蒼い瞳を覆ったまま、こくんとうなずく。

 

惣流さんが立ち上がった時には、綾波さんはもうそこにいなかった。

またしても魔法のように誰にも気付かれないうちに、彼女たち3人の鞄を両手に抱えてドアの近くに立っていた。

自分に何ができるのか、何をするべきなのか、きちんとわかっているみたいだった。

 

碇君と惣流さんは体を寄せ合ったままゆっくりと歩き出す。

碇君は綾波さんの前で小さく笑顔を見せると、手を差し出して鞄を一つだけ受け取った。

 

右手に惣流さん、左手に鞄を持った彼に代わって綾波さんがドアを開ける。

そのまま教室を出て行こうとする。

 

「あ……」

 

無視されそうになった私たちの誰かが声を出した。

 それは言葉ではなく、理由のない心細さが軋む音。

 

その音が彼を振り向かせた。

私たちに向かって、なんの含みも持たせずに、言ってくれた。

 

 

   「それじゃあ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

綾波さんが律儀にドアを閉めた後、たっぷり3回は息をしてから、リカが搾り出すように呟いた。

 

 

  「なん、なのよ……

   あの人たち…は……」

 

 

 

 

 

 

 

 

それから私たちはもちろん、カラオケにいった。

もちろん、それは(なんとか場を盛り上げようとしたみんなの必死の努力にもかかわらず)ひどいものだった。

 

薄暗い部屋で、休みなく点滅するライトとアップテンポなポピュラーソング。

藁(に似せたプラスチック)の籠に盛られたポテトチップと鮮やかなグレープフルーツジュース。

絶えることのない歌声と話し声。

 

いつもの風景があるはずなのに、強い日差しの中で2時間ぐらいほっとかれたコーラと同じくらいひどかった。

 

『等身大の少女の心を歌い、同世代の女性を中心とするファンに絶大な支持を受けている』女性シンガーのヒット曲を歌う友達に手拍子を送りながら、私は苛立ちを感じていた。

 

「ホラ、歌ってよ」

 

「え? ……ああ、うん」

 

マイクを差し出してくれている友達が気を使ってくれているのはわかっていたけれど、上手く応えてあげることができない。

義務感だけで、お気に入りだったはずの曲をなんとか歌ってみせた。

派手なドラムは私の耳には届かない。

馴れだけでモニターに写る歌詞を追いながら、私は“蜂”の羽音だけに包まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は薄暗い洞窟の中を一人で歩いていた。

   

   いや、違う。

 

      ここは洞窟じゃない。

 

         私の“中”だ。

 

 

 数え切ない“蜂”たちが飛び交っていた。

 

 その姿を上手く眼で捕らえる事はできないけれど、この羽音は間違えるはずもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのさ、気にする事ないと思うよ?」

 

全員に2曲ぐらいずつの“ノルマ”が果たされた後で、ためらいがちな声がかかった。

どうやら私は本当にひどい顔をしていたらしい。

 

「…ああ……うん」

 

それまで慎重に避けられていた話題だったけれど、誰かが一つ穴を開けただけで簡単に決壊する。

 

「なんの話?」

「あのね、さっき…」

 

後から合流した友人にも、きちんと説明が与えられる。

どんなグループにもご親切な人が一人はいるものなのだ。

私は曖昧な返事だけしておいて、脳裏に焼きついたその情景をなぞった。

 

 

「それって惣流のヒステリーよね」

 

 

  突然の惣流さんの声。

    ナイフで切りつけられたような理不尽で本物の彼女の怒り。

 

 

「そうなのよ。だいたい、いきなりインネンつけてきたのってあっちのほうじゃない」

 

 

  私自身の怒鳴り声。

    あそこまで自分が抑えられないなんて。

 

 

「そうそう。いきなり『うるさい!』だもんね」

 

 

  強く燃える蒼い瞳。

    私だけを見ていた。私だけを貫いていた。

 

 

「一人で勝手に盛り上がっちゃってさ。勝手に泣き出しちゃうし」

 

 

  碇君を呼ぶ惣流さん。

    彼女は彼しか見てなかった。私たちなんて、私なんて、あっという間に忘れ去られた。

 

 

「急に態度変えちゃってさ。『シンジイ〜』って」

 

 

  彼女の元に歩み寄る少年。

    彼もまた私のほうなんて見向きもしなかった。

 

 

「オトコのコが現れた途端にアレだもん。よくやるわよ」

 

 

  泣きじゃくる彼女。

    無防備な泣き方だった。心が剥き出しになっていた。

    信じられないくらい、傲慢な泣き方だった。

 

 

「碇君もさ、ああいうのに騙されてんじゃないの? あの人、人良さそうだからさ」

 

 

  彼女のなすがままに立つ彼。

    慰めようともしなかった。理由を聞こうともしなかった。

    ただ泣き止むまでじっと立ってるだけだった。

    でも、逃げなかった。ためらわなかった。迷わなかった。

 

 

「アハッ 言えてる。ったく、コワイオンナ。碇もそうだけど、付き合わせられる綾波も大変よねえ」

 

 

  綾波さんの静かな顔。

    細い手でゆっくりとゆっくりと惣流さんの背中を撫でていた。

    彼女も全然、慌てたり、あせったりしてなかった。

 

 

「綾波さんはいいのよ、あのコ変わってるから。惣流さんとちょうどいいんじゃない?」

 

 

  両腕に鞄を2つ下げた綾波さん。

    あの時、碇君に渡した3つ目の鞄は赤いキーホールダーのついた惣流さんのものだった。

    あれはたまたまなんかじゃない。彼女はちゃんと選んでた。ちゃんとわかってた。

 

 

「そうかもね、サンカク関係ゴッコでもやってるつもりなのかもよ」

 

 

  揺るがない3人。

    私たちはただの通りすがり。触れる事もできなかった。

 

 

「うえ〜 完全に自分たちの世界に入っちゃって。なんか気持ち悪いわ、あそこまでいくと」

 

 

  最後にかけられた未練がましい誰かの声。

    それまで私たちは一言も言えなかった。ただ圧倒されて立ち尽くしていた。

    置き去りにされそうになって、初めて声が出た。

    不安で、怖くて、心細くて、精一杯の抵抗だった。

 

 

「ホント、なに考えてんだか。わけわかんないよね」

 

 

  去っていく3人。

    何一つ残さなかった。

    後には欠片さえなかった。影もなかった。残り香もなかった。

    あの時、何かがあふれたはずなのに。

 

    こぼれたものはきれいに拾って、全部持っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  “蜂”たちはあたりかまわず刺していた。

 

  その羽音だけでも十分すぎるほどの苦痛なのに、それだけでは足りないと言う事らしい。

 

  そのまま崩れてしまいそうになって、慌てて膝に力をこめた。

 

  今しゃがんでしまえば、うずくまったまま立ち上がれなくなるとわかっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「それに、アイツら……」

             「そうそう……」

     「まさか……」                 「ほんとに!?」

                    「でもさ……」

「やっぱり……」

 

蠢き続ける友人たちの唇と指先はポテトチップスの油でぬめりを帯びていた。

誰かがリモコンで入れたモダンテクノがブルーとオレンジのライトを纏って、部屋の隅から垂れ流されている。

 

ひっきりなしに続く友人たちの声を“蜂”の羽音の向こうから聴いていると、苛立ちと疑問で全身がべとつく。

 

 

   『どうしてだろう?

    どうしてこの人たちは感じていないのだろう?

    どうしてこの人たちにはわからないんだろう?』

 

 

「やめなよ」

 

騒々しい声を止めた硬い声は、私の唇から出たものではなかった。

それまで(私と同じように)うつむき加減で黙り込んでいたリカだった。

 

ぎよっとしてみんなの視線が彼女に集まる。

 

ゆっくりと顔を上げながら、彼女は繰り返した。

 

「やめなよ…。みっともない……」

 

 

 

『!』

 

 

 

 

 

 

 

 

リカと私の付き合いは長い。

そこにいた誰よりも長いつきあいだったし、誰よりも仲が良かった。

たぶん、親友と呼んでもいいだろう。

 

彼女が一言でみんなを止めた時、その親友に“敗北感”を感じた。

それは、私が言うべき言葉で、私がするべき事だった。

他の誰でもなく。

 

 

 

 

 

 

 

 

リカはその短い髪をガシガシと掻くようなそぶりを見せた。

 

「ごめん。ヤな言い方しちゃったね……」

 

そうも言ってくれたけれど、みんなは何もできなかった。

引き攣った沈黙。

 

その時、部屋のインターホンが鳴った。

隅っこのほうに座っていた私が慌てて飛びついた。

規定時間終了10分前を知らせる受付からのメッセージだった。

 

「もう、終わりだって。……どうする? 延長する?」

 

 

“仲間たち”に向けた私の言葉は、純粋に儀礼的なものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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どうも、Kitaです。

こりもせずにpartCです。まだ、続きます。もう少し付き合ってください。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

それでは、失礼します。

01.3.11