風のあと
partE
*
息を切らしてペダルを踏む。
「バカにしてっ…!」
風を切っていく音を聞きながら、吐き捨てる。
電話の子機を返した時の母親の顔がちらつく。
「こんなっ こんなバカな事っ……!」
*
碇君の電話の後、私はやっとの思いで立ち上がると、すぐに自転車にまたがった。
出かけてくる、そう言った私に母はありふれた質問をした。
「今からなの? どこに行くのよ?」
「べつに。ちょっとそこまで行くだけ」
「あのねえ。もう遅いのよ。 明日にしたら?」
その様子からは確かに私を気遣ってくれていて、心配してくれているのが伝わった。
オトコのコからの電話の後、娘がいきなり出かけると言うのだから、無理もない。
私の母親は基本的に良い人だとは知っていた。
けれど、そこに私は見た。
ひどく下卑た好奇心がわずかに、でも確かに、あるのを見た。
それを許す事ができないでいた。
母を一瞥しただけで、玄関のドアを閉めた。
*
わかってる。
わかってた。
確かに母親の態度はどうしようもなく苛立たしい。
でも、そんなに怒りを感じるような事でもない。
私が怒っているのは、私にまとわりつく“今”だ。
クラスメートと『ケンカ』した。
『友達』とカラオケボックスで遊んだ。
『家』に帰った。
そして、着替えもせずに、『自転車』に乗っている。
なにやってんのよ、わたしはっ
ああ、でも
本当はわかっている。
本当はわかっていた。
私にはその怒りが必要なのだと。
そうやって怒っていないと、ペダルを踏む事ができないのだと。
温かい夜の空気を切裂いて行く事ができないのだと。
今すぐ、左端にカナリアの刺繍が入ったあの薄いブルーの使い慣れた枕に
深く深く顔を埋めたいという柔らかな誘惑に負けてしまうのだと。
*
赤信号に捕まった。
ブレーキがキュッと相応しくないほど小気味良い音を立てる。
はっ、と胸に溜め込んだ息を吐く。
「わかってるからっ」
同じように信号待ちをしていた若い女性が、制服のまま自転車のまたがって突然小声で毒づく少女(私の事だ、もちろん)に、ぎょっとして振り向く。
一瞬眼が合うと、慌てて前に向き直った。
20
代半ばといったところだろうか。買い物帰りらしく、スーパーの白いビニール袋を下げていた。
色気のない黒のヘアバンドで、
Tシャツの背中に、茶色に軽く染められた結構長めの髪を垂らしていた。もしかするとそのシャツは、元は鮮やかなレモンイエローだったのかもしれないけれど、くすんだ黄色にしか見えなくて、背中の中心だけ汗で色濃くなっているのが、車のヘッドライトで浮かび上がっていた。
凝視していたつもりはなかったのだけれど、その人は『くすん』とも『けほん』ともつかない曖昧な咳払いをして、スナック菓子とかキャベツの入った袋を右手から左手に持ち替えると、気まずそうに赤い信号を見上げた。
“蜂”たちの痛みにさらされている私にとって、全てはどうでもいい事だというのに。
「わかってるんだから、大人しくしててよっ…!」
信号が青になって、ぐっとペダルを踏み込む瞬間、また勝手に声が出た。
*
「ねえ、ちょっと」
私は奥歯を軽く噛み締めながら、目の前を掠める小さな黒い点に声をかけた。
痛みは相変わらずひどくて、耐え切れそうになかったのだ。
無数にあたりを飛び交う黒点の内の
1つが目の前で止まった。
「なに?」
返事は期待していなかったので、たった一匹とはいえ、“蜂”から声を返されたときは正直言って驚いた。
けれど、とにかく言いたい事は言ってしまおうと思った。
「あのさ、そうやって飛び回ったり、刺したりするのって、やめてくれない?」
上手い言い回しをする、知恵も余裕も経験もなかったから、望む事をストレートに言ってやった。
*
目的地の公園は家から自転車で
10分といったところにあった。それは住宅に囲まれた小さな公園だった。
いわゆる児童公園というやつだ。
空き地に赤土を敷き詰めて、いつだって水溜りが残っているブランコと小さな砂場、そして錆の浮いた滑り台を並べただけの小さな公園。
付け加えるなら、ぐるぐる回転する丸いジャングルジムがあったのだけれど、ずいぶん前になくなっていた。
あとは、端のほうに何本かの木と街灯が立っていて、ベンチが2つか3つ。
それだけだ。 それだけの、どこにでもある、ちっぽけな公園。
その公園のすぐそばまで近づくとスピードを緩めて、無理矢理に呼吸を整えた。
たぶん
6、7分で着いたと思う。普段あまり体を動かしていなかったから、私の肺は意思の無茶な命令に逆らってゲホッと
1つだけ咳を吐き出した。額に薄く浮かんだ汗を制服の半袖で拭って、できるだけ自然に、『ごく普通に自転車に乗ってきました』という風を装うとした。
自分でもわからない理由から出た、虚勢などと言うのもバカバカしいほどの薄っぺらい、けれど精一杯の、見栄だった。
そして、彼女“たち”はいた。
街灯に照らされて、3つの人影がベンチの周りにあった。
ちょっとまってよ…!
心臓が跳ね上がる。
反則だ。
ルール違反だ。
自分の迂闊さを呪う。
ここに呼び出したのは“彼”の電話だったのに。
それなのに、気づかないなんて……!
不思議といえば不思議な事なのだけれど、私はそこに惣流さん以外の誰かがいるなんて思いつきさえしなかった。
*
私の言葉に、その“蜂”はなんの感情も感じさせない眼でじっと見詰め返してきた。
勇気を振り絞って、踏み止まる。
「ねえ。わかってる? そうやって刺したりなんかしないでって言ってるのよ」
“蜂”は私のほうを向いたまま小首を傾げた。
「ふうん。 どうして?」
薄暗い“私の中”でも“彼女”の複眼はきらきらと虹色に輝いて見えた。
*
公園の入り口には3つの柵がきっちりと等間隔で互い違いに並んでいた。
その間隔は人がやっと
1人通れるぐらいしかなくて、自転車なんかは入れないようになっていたから、そこで自転車を降りた。スタンドを立てるとガシャッと期待以上の音が響いて、間違いなく私がここにいる事を彼女たちに伝えたはずだ。
けれど、私はことさらにゆっくりと丁寧に鍵をかけた。
柵のすぐ横にはご丁寧にも手書きの立て札があって、くすんだ色のパンダが『自転車・バイクは入れません』と誇らしげに宣言していた。
スカートのポケットに鍵をつっこんで、いつも以上に乱暴な自分の右手の勢いを使って顔を上げる。
なぜだか、そのパンダの虚ろな瞳と視線が合った。
『無駄な事を』
唐突にそんな言葉が浮かぶ。
柵まで作っておいてさ。
こんなトコ、自転車を担いで入ろうとするヤツがどこにいるのよ?
そんなバカはあんたの言いつけなんか聞くわけないじゃない。
もちろん、責任感ある優秀なパンダは私の余計な言葉などあっさりと無視して、眉一つ動かさなかった。
それも、一瞬の事。
ポケットに突っ込んだ右手をぎゅっと握った。
『逃げるんじゃないっ』
“私”を叱りつける。
パンダに説教をする余裕などあるはずもない。
“前”に向き直ると、私をじっと静かに静かに待つ3人がいるのだから。
*
ざっ、ざっ、と土が鳴く。
ゆっくりと彼女たちに歩み寄る。
3人とも奥のほうのベンチにいたのだけれど、たいした距離があるわけでもない。
じっとこっちを見ているのが、その様子でわかった。
碇君と綾波さんはベンチに座っていて、惣流さんだけが立っていた。
すらりとしたそのシルエットだけでも、私を怯えさせるには十分だった。
なんで3人もいるのよ
勘弁してよっ
私は惣流さんを卑怯だと思った。
“決闘”は1対1でやるのがルールじゃない?
萎える心に怒りをくべてなんとか前に進む。
こっちは1人で来たってのに……!
私には“味方”は一人もいないと思った。
助っ人どころか武器さえも持ってはいない。
紺色のスカートにガンベルトは似合わない。
夏服の袖は短すぎてデリンジャーは仕込めない。
通学用のスニーカーじゃ投げナイフは隠せない。
ドク・ホリディ! 隠れてないで助けてよ!
金色に輝くあの素敵な星バッジも私は持っていなかったのだけれど。
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どうも、Kitaです。
覚えてくださっている人は誰もいらっしゃらないでしょうから、とりあえずこの話の位置付けを説明しておきます。
これは『透明な時間』というS.S.の続編『風のあと』のPartE、つまり第5話です。(ちなみにpartDが掲載されたのは約5ヶ月前…)しかも、まだ続きます。
ここまで読んでくださって、「なんだこれ?」と思った方、どうか以前の話も見てやってください。
それでは、失礼します。
(
01.9.17)