風のあと
partF
*
私はその時の3人の服装を思い出せない。
普通の私服だったと思う。
制服ではなかったことだけは確かだ。
(制服を着ていた私がそのことで感じた僅かな屈辱は、しっかりと残っているのだから)
その時のことなら良く憶えている。
3人の真上ではガス灯を真似た街灯が光を落としていた。
どこからか、安っぽいカレーの匂いがしていた。
近くの家のテレビからけたたましい笑い声が響いていた。
彼女たちの服装をどうしても思い出せないけれど、その時のことならちゃんと憶えている。
惣流さんの左手に鮮やかな赤いコーラの缶が提げらていた。
綾波さんの足の上で行儀良く細い手が重ねられていた。
碇君の右手は私に向けて軽く挙げられていた。
彼女達の視線と微かな夜風が、私に優しく絡みつき、静かに縛り付けていた。
*
言葉を必死で探した。
彼女たちとの距離はあっけなく縮まっていく。
時間は、無い。
“なにか”言わなきゃ
“なにか”を言わないと
焦りだけが、空回りしてしまう。
逃げ出したい、と本気で思ったけれど、そんなことは出来るはずなかった。
彼女たちまであと十歩。
自分でもなにを言えばいいのか判らないままに、“なにか”を言おうと、口をあいまいに開きかけた。
「こんばんは」
そのタイミングで、碇君が言った。
私の“事情”などなにも気づいていない。
いや、もしかしたら全部わかっていたのかもしれない。
どうしようもなく平凡なその言葉は、どうしようもないほどの礼儀正しい柔らかさで響いた。
めまいに、襲われた。
*
「どうしてって…」
あまりと言えばあまりの言い様に、少し絶句する。
けれど、私をじっと見つめるその小さな“蜂”は本当にわからないみたいだった。
「“痛い”からに決まってるじゃない」
微かに苛立つ。
*
「どうも…」
少し上擦っていたかもしれないけれど、ひどく中途半端で意味なんてなにもなかったけれど、とにかく返事はした。
碇君はちょっぴり微笑んでいるような顔で、私を見た。
綾波さんがベンチに浅く腰掛けたまま、ぺこりと首だけを曲げてお辞儀した。
そこまで見届けるだけの時間を私にくれてから、そこでの“主役”が無造作に言った。
「悪いわね? いきなり呼び出したりして」
「あ、うん。いや……」
惣流さんはいつもの惣流さんだった。
つい何時間か前のことなど、なにも感じさせなかった。
だから、私の言葉は目印を失ってしまっていた。
「えっと、なにか……?」
「ああ、ちょっとね。
話しときたいことがあるのよ、アンタに」
彼女はひょいと肩をすくめた。
芝居がかったその仕草がすごく絵になっていた。
「なに、かな?」
「ま、たいしたことじゃないのよ。
2、3分ですむわ」
そう言って、首をくいっと曲げるだけて、私を公園の反対側に誘ってみせた。
そのまま、長い髪を閃かせると、すたすたと歩き出す
碇君と綾波さんはベンチに座ったままで、それが当然の事のように動かなかった。
私はちょっと出遅れて、慌てて後を追った。
彼女は振り返りもしない。
広い歩幅で堂々と風を切る。
その斜め後ろで、彼女の左手のコーラが振れるのを見ていた。
*
「痛い?」
「そうよ。“あなたたち”が飛んだり、刺したりすると痛いのよ」
「そうなの?」
「そうなの。それも、ものすごく」
*
惣流さんが、歩きながらコーラの最後の一口をくいっとあおった。
「おっと…」
ちょうどその時、なにかに足をとられてつまずきかけた。
「あ…」
届きもしない手を伸ばしかけたけれど、彼女は気づきもしなかった。
「なによこれ?」
立ち止まった彼女の暗い足元は少し盛り上がっていた。
ぼやくような言葉はあくまでも独り言で、私に向けられたものではなかった。
それはわかっていたけれど、私はそれに“返事”をねじ込んだ。
「あ、それジャングルジムよ」
「はん?」
惣流さんは思いがけない声を聞いた、というようにこっちを見た。
「ジャングルジム?」
2人して改めて地面を見た。
「うん。その跡、だけど」
そこには1メートルぐらいの円形のコンクリートの基礎しか残されていなかった。
「これが?」
「ジャングルジムっていうのはちょっと違うかもしれない。
本当の名前は……知らないけど。
なんて言ったらいいのかな?
普通の四角いのじゃなくって、丸くって、その、ぐるぐる回るやつ」
「ふうん?」
私のつたない説明じゃ、上手くイメージできないようだった。
「ほら、知らない?
『ポール・ギルモアの土曜日』で、オープニングで、
白い服の女の子たちが、ロンドン橋落ちた、って歌いながら遊んでたの」
「テレビ? 映画?」
「え?」
「その『ポールなんとか』って?」
「ああ、映画、よ。
ちょっと前にテレビでやってたの。
ずいぶん昔の、白黒のだけど。…イギリス、だったかな?」
「悪いけど、知らないわね。
映画とか、あんまり見ないから」
「そう、なんだ。
で、ね。そこにあったのって、ほらこういうの」
私は指の先と先を合わせてボールを作った。
10本の指で作ったそれを左右に回転させるように動かせて見せた。
彼女はそれをちらりと見て、ちょっと考えてから納得してくれたみたいだった。
「ああ、なるほど、ね。
鉄パイプで作った球形の骨組みが、垂直に立てられた軸で回転するやつね。
地球儀みたいに」
「うん、それ…」
簡潔な彼女の説明に私は赤面さえしたかもしれない。
映画のタイトルまで持ち出した自分が恥ずかしかった。
うつむくようにして、“ジャングルジム”の跡を見た。
そこまで届く光はほんの少しだったけれど、赤土に半分以上埋もれたコンクリートの塊が、そこだけ真っ黒に沈み込むように見えていた。
「それが今は無くなった、ってわけ?」
惣流さんは相変わらず私を見ずに、つま先でその上に被さった土を掘り起こすように蹴り始めた。
「う、うん。小学校の1、2年かな? その頃まではあったんだけど。
取り壊されちゃって」
ざく、ざく、と土を掘り起こす音は途切れなかったけれど、ふむ、と鼻を鳴らすようにして、彼女は続きを促してくれた。
「ここはね、小学校の通学路だったの。
帰り道にクレーン車がここでなんかやってるのを見つけてね。
バカみたいに、なにができるんだろうって、楽しみにしてたんだけど、ね
次の日の朝にはもうなくなっちゃってたわ」
「ここでよく遊んでたんだ?」
「ううん。ここで遊んだことはなかったわ。
まあ、もっとちっちゃい頃なら親に連れて来られたこともあったかもしれないけど。
憶えてる限りじゃ、1回もないわ」
「それなのに楽しみにしてた?」
「うん。まあ、なんとなく、ね。
そこの、ジャングルジム?…じゃなくて、その、なんて名前なのかな、とにかく『それ』、もね…」
「ジャングルジム、でいいわよ。
私もなんて名前かしらないから」
彼女は苦笑するように言った。
「うん、そうね。
そのジャングルジムも
1回も遊んだことはないわ。……ホントのこと言うとね、いつかは登ってみたいとは思ってたわ。
結局、できなかったけど」
「やりたいならやればよかったじゃない?」
呆れたように言われた。
「まあ、それはそうなんだけど。
やっぱり女の子だし。そういうことやりたがってるように見える友達は誰もいなかったしね。
1人ででも、どうしてでも、やりたいってほどでもなかったし。
いつかは、そのうちに、って思ってるうちに、ね…」
「そんなもんかもね」
彼女は中身を確かめるようにコーラの缶を軽く振った。
「…で? どうして?」
軽く私に問い掛け続けるその横顔が薄闇に隠れていることは、とても惜しいように思えた。
「ああ、ここっていつも人がいっぱい、ってわけじゃないけど、
毎日、小学校の行きと帰りでここを通っていたから、それで遊んでる子たちを見ることもあって。
年上の、って言ってももちろん小学生なんだけど、
男の子がみんなでそれに掴まって、すごいスピードでぐるぐる回っててね。
学校の帰り道なんかでそういうのを見かけけると、私もやってみたいなって思ってたの。
ブランコや滑り台なんかは学校にもあったけど、そういうハードなのってなかったから。
なんだか、ものすごく楽しそうだな、気持ちよさそうだなって」
「なるほど…。
でもそうじゃなくて、撤去された理由よ」
余裕のある苦笑を含んだ彼女の声。
「どうして、そのジャングルジムがなくなったの?」
「あ、そっか。ごめん。理由はね。
それで遊んでた男の子、おんなじ学校で確か4年生の子だったと思うけど、その子がケガしちゃって。
それで」
「ふふん。つまんないことするのね?」
そのあからさまな侮蔑は、彼女が声にすると、なぜだか恐ろしく説得力があった。
「そうよね。
けど、結構、大騒ぎだったのよ。学校でも特別ホームルームとかあってね。
先生がそんな風に遊んじゃいけません、とか言って。
ほら、ジャングルジムが回ってても、一番高いてっぺんの所は回ってないじゃない?」
「回転運動における軸の頂点」
からかうように言葉をはさまれて、“専門用語的”に修正されたけれど、悪意は感じなかった。
ちょっとしたおふざけ。そのリズムに乗ろうとした。
「うん。その『回転なんとか』から、一緒に遊んでた友達の頭に向かって飛び降りたのよ。
それで、下にいた子は脳震盪かなんかで気絶しちゃって。
飛び降りた子も地面に手をついたときに、腕の骨を折っちゃって、さ。
救急車で病院行き。すぐに入院するはめになったの」
「ふうん。それで危ないから無くしましょう、ってとこ?」
「たぶん、ね。
そんなとこ」
「ほんと、つまんないことやるのね。
バッカみたい。
そんなことするぐらいなら、最初っから作んなきゃいいのに」
「…ああ、そっちのことなんだ?」
「なにがよ?」
「ううん。
つまらないことって、それを壊しちゃった人たちのことなんだ」
「そうよ。そう思わない?」
「うん。そうね。
そう、思うよ?」
「ま。その飛び降りた子ってのも、かなりのバカだけどね」
「うん、それにも同感」
「なんでそんなことしたの?」
「さあ?
たぶん、なにかそうしたい理由があったのよ」
「なにかってなによ?」
「そこまでは知らないわ。
私だってその場にいたわけじゃないもの」
「そうなんだ?
なんか、詳しいみたいだけど?」
「それは、ここら辺じゃ結構大きなニュースだったから…
でも、その男の子のことだって、顔も名前も知らないわ。
後から、先生とか、噂とかから、聞いただけだし。
理由なんて、たぶん、本人にでも聞いてみるしかないんじゃない?」
「…ん。そうね。そうかもね」
「うん。
その理由は本人しか知らないだろうし。
きっと、その子にしかわからないと思うわ」
惣流さんは、それまで自分で掘り返していたコンクリートの角を、踵で軽く蹴った。
かっ、と靴が鳴った。
「まったく、さ…。
どうして、そんなバカなことしたのかしらね?」
彼女が呟くようにそう言ったと同時に、近くの道を車が通った。
たぶん、大通りからの道を通って来て、公園に突き当たって曲がったのだと思う。
ヘッドライトの眩しい光が伸びてきて、私たちと交差した。
2人の影が、右から左へと、赤茶色の地面をなぎ払っていった。
そのほんの一瞬だけ、それまでぼんやりとした細いシルエットだった彼女を、くっきりと浮かび上がらせていた。
ひゅ…
私の喉は、小さく鳴って。
私の心臓は、鼓動を1つだけ、とばした。
じっと足元を見下ろしていたはずの彼女は
目の前に立つその途方も無く綺麗な少女は
いつの間にか、
私を、正面から、見つめていた。
*
これは、なに? ここは、どこ? これが、そうなの?
私はなにを言ってるの? なにをおしゃべりしていたの? いったいなにをしているの?
このおしゃべりはどこに行く? この会話はなんのため? この言葉はどこに向かう?
あなたは、いったい?
*
その男の子はきっと元気のいい子だったと思う。
運動神経が良くて、体も大きめで、ケンカだって強い。
テストの点数は決してトップクラスというわけではないけれど、頭が悪いわけじゃなくて、機転だって利く。
運動会の最後にやるリレーなんかだと必ず選手に選ばれる。
昼休みにはいつも友人に囲まれて、
1人でいることなんかありえない。授業中に突然、教師に指名されても、わかりません、とせせら笑うように答えることができる。
友達と日曜日にどこかへ遊びに行くときには、真っ先に行く先を決めてしまう。
親切さとか、成績の良さとか、服装のセンスとか、礼儀正しさとかが彼らのなかのランキングにおいて重要視されるにはまだまだ年月がかかるから、男の子たちにとって、いつも無茶なことをする彼のようなタイプはちょっとしたヒーローだ。
女の子たちは彼のことを乱暴者なんて言ったりしているけれど、バレンタイン・デーではチョコレートを貰うことのできる数少ないメンバーの
1人でもある。勝手気ままに好きな事をやっているように見えて、当たり前のように周囲を魅了し、ごく自然にリーダー的な存在に収まる。
いつだって、どこだって、クラスに1人はいる、そんな男の子。
たぶん、きっと、そんな男の子。
その男の子は、取り巻きとも、友達ともつかない、仲間達と連れ立って公園にやってくる。最初はサッカーボールを蹴っていたりしていたのが、いつの間にかみんなでその丸いジャングルジムに群がっている。
もちろん彼はそれによじ登っていく。スリルを演出するためそれを回転させるのは他の子の役目だ。彼はいつだって主役で、舞台を選ぶ事はあっても舞台準備なんかは決してしない。
遠心力に振り回されながらも、上へ上へと突き進む。
何人かは同じように上へと登ろうとするけれど、いつも通り、彼が一番始めに頂上近くに辿り着く。
そこでは球形の鋼鉄のフレームはほとんど水平になっているから、猫のように四つん這いになってバランスを保たなければならない。
普通ならその辺りで止まるのだろうけれど、彼はそんな事では満足できない。
支柱の頂上には円盤型の鉄のカバーがある。直径は20cmぐらい。彼は勢い良くそこまでいくと、なんとかその上にしゃがみこむ事に成功する。
正直なところ彼自身にも自分がここまで出来るとは思っていなかったのだけれど、これならもう少し先に進めると判断する。
彼が乗っている円盤は回転しない。その下で少年達が飽きもせずに廻り続けている。
手のひらに跡が残るほど握り締められた指をゆっくりと解きながら、そろそろと立ち上がろうとしてみる。
下をちらりと見て周りの様子を確認すると、そのころにはみんな彼の冒険に気がついていて、彼を見上げている。
ジャングルジムを回していた少年達も、
1人か2人を除いて立ち止まってしまっていて、ジャングルジムの動きは勢いの無いものになっている。多大な期待の込められた仲間達の視線に彼はとても満足させられる。けれど同時に追い詰められてもいる。
ここまで来たらもう引き返せないと判っているから。そんなことは彼の矜持が許さない。
慎重に、確実に、慌てずに、ゆっくりと、身体を起こす。
そして、ついに膝が伸ばされ、両手が完全に離れる。
腕は翼のように広げられ、誰よりも誰よりも高く、誇らしげに立つ。独りでそこに立つ。
自分をテレビのネイチャー・スペシャルで見たファルコンのように感じている。
もちろん、事実は違う。
そこは地面からせいぜい2mぐらいの高さしかない。彼の腰は完全に引けていて、小さな肩には精一杯の力が入っている。膝も中途半端に伸ばさされているだけで、かすかに震えてさえいる。むしろ不恰好でちっぽけな痩せガラスといったほうが正しい。
けれど、そんな事はそこにいる誰にとっても些細な事に過ぎない。
今まで何度となくこの遊具で遊んできたけれど、彼らの中でそんな事が出来た者は誰もいないのだから。
本当の頂上まで辿り着いた者さえいないのに、彼はそこで何の支えも無く立っているのだ。
その技量と勇気は称えられてしかるべきだと誰もが思うし、事実、彼らはそうする。
彼らなりの賛辞と注がれる眼差し。そこに込められた心からの賞賛と、感嘆と、驚愕と、嫉妬と、尊敬と、憧憬と。
そして、それ以上。
まさしくそれは1つの伝説の誕生と言える。
たとえそれが彼らのグループの中だけの小さくささやかなものであっても、次の日曜日には忘れ去られるような短い間だけのものであっても、伝説には違いない。
彼はそれを、恐怖に強張り引き攣りながらのものであるとしても、とにかく笑顔で存分に味わう。
その栄誉を十分堪能したその後で、彼はその冒険を終わらせることにする。
けれど、彼はそこに立つ事だけを目指し、その後の事など何も考えていなかったので、次の行動に少し迷う。
普通にのそのそと来た道を辿るなど出来はしない。そんな凡庸で無様な事は考えられない。
ふと、下から彼を見上げる少年の1人と目が合う。
彼はそこに向かって飛び降りる事に決める。ただ、そう決める。
足を滑らせないように慎重に向きを変える。
両足の親指を靴の中で動かしてみる。
手のひらの汗をズボンで拭う。
ほんの少し身体を沈める。
全身に力を入れ直す。
ゆっくりと一度だけ小さな深呼吸をする。
そして、彼はありったけの力を使って、空中へと。
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どうも、Kitaです。
『風のあと』のPartFです。まだ、終わりません。
ここまで読んでくださった方、そしてこれを掲載してくださるみゃあ様に、感謝を。
それでは、失礼します。
(
01.11.17)