風のあと partH

 

 

 

 

 

 

 

 

 “蜂”は“女王”に従う。

 

 そう、私は知っている。 誰だって知っている。

 

 いつだって、“蜂”は“女王蜂”に従うものだ。

 

 “蜂”たちの羽音は高まり続け、私の呟きは掻き消されてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

惣流さんはやっと振り向いてくれた。

黄色みがかった街灯の真下で、今度は彼女の顔が見えた。

そこには『ここでやることはもう終わったのに、まだなにかあるの?』とはっきり物語っていた。

それでも、私が立ち止まるまで、ちゃんと待ってから言ってくれた.

 

「なによ?」

 

そっけない言葉に、喉が張り付く。

言いたいことがたくさんあった。

訊きたいことが幾らでもあった。

 

「あなたは…、あなたたちは……」

 

  どうして? どうして? どうして? どうして?

 

けれど、私の口から飛び出てきたのは、そのたくさんの疑問のなかで一番無様なものだった。

 

「こんな…、こんなことを、みんなに、あの時いた全員に、やるつもりなの?」

 

私はそこに立つ3人を見渡しながら言った。

碇君はちょっと困ったような様子で、綾波さんは顔を動かさず眼だけで、惣流さんを見た。

 

「はあ?」

 

惣流さんの細く優雅な眉が顰められた。

 

「なんでよ?

 なんでわざわざそんなことをしなきゃならないのよ?」

 

呆れ返った彼女の声に、追い詰められる。

 

「でも…、それじゃあ、どうして。

 どうして、私に。

 どうして、こんなことを?」

 

私の精一杯の問いに、彼女は出来の悪い子供に言い聞かせるように言った。

 

「他のヤツラには、関係ないことだから。

 …それだけよ」

 

断定。

100%の、迷いの無い、断定。

傲慢なまでに気高く、無慈悲なまでに誇り高い、その姿。

 

 

 

 

 

 

 

 

 痛み。 もう、それが羽音のせいなのか、針のせいなのかさえわからなかった。

 

 それでも、まだ訊ねるべきことがあった。

 

 「どこ?」

 

 「なに?」

 

 「“女王”よ。“あなたたち”の“女王”はどこ? どこにいるの?」

 

 “彼女”は、3対ある足のうち前の2対を器用に使って、肩をすくめた。

 

 「本当に、知らないの? 本当に、わからないの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんなの……」

 

彼女が本気でそう言っているのは、わかっていた。

 

けれど、あの教室にいたのは、私の“友人たち”で、全部が好きなわけではないけれど、ちゃんと大切な人たちだった。

あそこにいた彼女たちが、惣流さんに向けた感情だって、彼女たちなりに本物のはずだった。

惣流さんたちにとっても、クラスメートで、毎日顔を会わせている人たちのはずだった。

それなのに、彼女は、関係ないと言う。

 

そのことが悔しくて、哀しくて、途方にくれる。

 

助けを求めて、碇君と綾波さんを見る。

2人は私を見返すだけで、なにも言ってくれそうになかった。

真っ白な羽根を一片、天秤の片側に乗せて、ただ立っているだけだった。

その様子は、決して冷たいとかそういう感じではなかった。

けれど、もう片方の受け皿に乗せるだけの価値があるものを、私が見つけられるとは思えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 揺れるはずもない虹色の複眼で私を見つめ、冷たく言う。

 

 「“女王”は“あなた”よ、もちろん」

 

 

 

 

 

 

 

 

沈黙は、ただ降り積もる。

惣流さんは、碇君と綾波さんに視線を交わすと、また肩をすくめた。

相変わらず厭味の無い、素敵なすくめ方だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄暗い洞窟のような“私の中”で、たった一人。

 

 声にさえならない絶叫を。

 

 

 

 

 

 そして、“私”は、目蓋を開く。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ…そうね、そうなんでしょうね」

 

だから、その日、教室で彼女に向かって言ったことを、もう一度繰り返した。

自分でも驚くくらい、冷静な声だった。

 

「あなたには関係ないよのね。

 あなたたちには、なんにも関係ないんでしょうね」

 

ゆっくりと、静かな確信を込めて。

 

「あの時、あなたが泣いたのだって、そうでしょう?」

 

私は惣流さんを見た。

彼女は目を細めた。

 

「あれは、結局のところ、私なんかじゃないのよ。

 あれは、碇君なのよ」

 

本人がいるところで言うべきことじゃないとわかっていた。

 

「あの時、碇君がいたから。

 だから、あんな風に泣いたんでしょう?」

 

けれど、どうしようもなかった。

私には他にどうすることもできなかった。

 

「他人なんて、なにも関係ない。全部、取るに足らないこと。

 私たちをバカにしてるわけじゃなくて。

 私たちを嫌ってさえいないんだわ。

 “あなたたち”にとって、“私たち”なんてどうでもいいのよ。

 そうでしょう?」

 

「どうして、そう思うの?」

 

私はちょっと驚いた。

訊ねてきたのは綾波さんだった。

その長い長い一日で彼女が話したのはそれが初めてだった。

全てを見通すように、いつの間にかそこにいたにもかかわらず、彼女の声をその日初めて聞いた。

紅い瞳が私に向けられていた。

 

「見てたもの」

 

なぜだか笑いそうになった。

おかしくて、おかしくてたまらない。

 

「あなたたちを、見てたもの。

 だからわかるの。 知っているの。

 ねえ、私はあなたたちを見てたのよ?

 ずっと、見てたの、“あのとき”から」

 

 

 

 

 

 

 

 

 “あのとき”

 

 

碇君は知らない。

あの放課後、音楽室前の廊下で、私はなにを聞いたのか。

 

惣流さんと綾波さんも知らない。

あの帰り道、街灯の下で、私はどこに置き去りにされたのか。

 

誰も知らない。

あの昼下がり、ただ風だけが強く吹いた昼休みの教室で、私はなにを知ったのか。

 

もちろん、私も。

 

 

 

 

 

 

 

 

「気付きもしなかったでしょう?

 当たり前よね。私なんてどうでもいいんだから。

 それなのに、そんなあなたたちが、今度は私に話がある、って…。

 わからないわ、そんなの。

 そんなの、わからない、全然。

 どうしてなの?

 どうして私なの?」

 

一息ついた。

発作的に込み上げてくる笑いをなんとか堪える。

おかしすぎて、涙が出そう。

 

「ねえ。あなたたちは知らないでしょう?

 そういうのって傷つくのよ?

 あなたたちは、いつだって、平気な顔で。

 なんでもない顔で、私たちと一緒にいて。

 そういうのがどれだけ周りの人間を混乱させて、惑わせて、迷わせてるのか。

 あなたたちは考えたこともないんでしょう?」

 

3人はじっと私の言葉を聞いてくれていた。

泣き言のような、けれど私にとっては真剣な言葉を、黙って聞いていてくれた。

 

今度こそ、私にはもう言うべきことが残されていなかった。

また、車が1台だけ傍を通り過ぎていった。

 

惣流さんが右手を上げる。

こめかみから指を入れ、小首を傾げるようにして、その長い髪を梳いた。

無造作で自然な仕草だった。

掻き揚げられた髪がゆっくりと肩に落ち着いてから、彼女は口を開いた。

 

「残念だわ……」

 

私を見つめる静かな蒼い瞳。

 

「え?」

 

「ジャングルジムよ。

 あれが無くなったのは、本当に残念だわ。

 私も…私たちも、遊んでみたかった。

 アンタと一緒に、ね?」

 

 

綾波さんは話が見えなかったのだろう。

ちらりと私を見た。

碇君もためらいがちに言葉をはさんだ。

 

「ええっと、なんのこと?」

 

そんな2人に惣流さんは、くすりと笑って、いいのよ、と首を振った。

すっと彼女の右手が差し出された。

戸惑う私に不敵な微笑を浮かべて言った。

 

「握手よ、仲直りの。

 こういうときにはそうするものでしょう?」

 

「ああ、そう、ね…」

 

綾波さんと碇君の視線に晒されながら、差し出された手をおずおずと掴んだ。

惣流さんは私を見つめたまま、きゅっと1回だけ力を込めてから、2回上下に軽く振った。

イギリス王室のマナーブックに出てくるような完璧な握手だった。

 

 

  ああ、なんて細い指なんだろう。

 

 

そんなことをぼんやりと感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

その瞬間には、もう私にはわかっていたのだと思う。

これは呪詛なのだと。

いつか報いを受けるのだろうと。

 

私は“彼女たち”の“前”に立ったのだ。

それがどういうことなのか。

 

私がしたこと。

 いつの日かそれを忘れてしまった瞬間。

 

私がしなかったこと。

 いつの日かそれに相応しくなくなってしまった瞬間。

 

 

 

私はそれら全てに復讐されるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

惣流さんは碇君に私を家まで送るように言った。

ほとんど命令のような、一方的な言い方だったけれど、碇君は苦笑しながらあっさり承諾した。

慌てたのは私のほうだ。

男の子に送ってもらうなんてされたこともなかったし、して欲しいと思ったこともない。

 (もちろん、タカシとのデートでもだ)

まさか碇君にそこまでしてもらうわけにはいかない。

それに、彼女たちは歩きで、私は自転車だった。

むしろありがた迷惑と言ってもいい。

 

もっと正直に言えば、彼と2人きりになるのが怖かった。

『送り狼』とかを心配したわけでは、もちろんないのだけれど。

ただ、なんとなく怖かったのだ。

 

「こんな時間にオンナのコ1人で行かせるわけにはいかないでしょ」

 

なんとか断ろうとしたけれど、惣流さんにきっぱりと言い切られてしまった。

大して遅いというわけでもなかったし、『こんな時間』に呼び出したのは惣流さんなのにだ。

 

それでも、結局、勢いに負けて送ってもらうことになり、碇君と一緒に惣流さんと綾波さんを見送った。

 

綾波さんは黙って目礼し、惣流さんは「シンジ!ちゃんと送ってくのよ!」とだけ言い残した。

私は隣の少年に声をかけるタイミングを上手く掴めないでいた。

街灯りに照らされた公園の出口で、遠ざかる彼女たちの背中と中途半端に漂ったままの私の疑問を見ていた。

 

その時、1つ目の角を曲がろうとしていた惣流さんが、急に立ち止まった。

 

「ああ、そうだ」

 

くるっと振り返る。

 

「さっきのバカだけどね」

 

「はい?」

 

私はびっくりして、ひどく甲高い声で聞き返した。

 

「ほら、ジャングルジムで骨折したバカの話よ」

 

「あ…うん」

 

話が見えずに困惑する。

 

「そのバカを探し出て、理由を訊いたとしても無駄だと思うわ」

 

そんな私を無視して惣流さんは続けた。

 

「そいつには答えられないわよ、きっと」

 

かなり離れていたから見えなかったけれど、彼女のあの不敵な微笑がはっきりと伝わってきた。

それに乗せて彼女は、途方も無く決定的で致命的なことを言った。

 

 

「…飛び降りた“後”じゃね」

 

 

 

 

「…っ…………!」

  耐え切れず、眼を閉じた。

 

 

 

 

深呼吸して眼を開けた時、少女たちの姿はもう無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

アイスキュロス作『アガムメノン』。

10年に及んだトロイア戦争に勝利したギリシャの総大将アガムメノン王が、自らの王宮に凱旋直後、夫の留守の間に不倫を重ねていた王妃クリュタイメイストラーによって暗殺される事件を主題にしたギリシャ悲劇だ。

私にとってはそれ以上に、トロイアの王女で、古代ギリシャで最も有名な予言者の1人、カッサンドラの最期を描いたものでもある。

 

 

カッサンドラの予言通り、トロイアは完全に滅びた。

アガムメノンともう1人の王に率いられたギリシャ軍によって、カッサンドラの両親(トロイア王と王妃)を含むトロイアの民は奴隷になるか、殺された。

彼女自身は、奴隷として、アガムメノン王の情婦として(『王のベッドで水夫のように、押したり引いたり櫂を漕いだ』とかなり露骨な表現がされている)、アガムメノンの王宮に連行される。

王宮の門前で、そこに並ぶ人々に向かい、彼女は最後の予言をする。

アガムメノンの実娘殺しを始めとする、王一族の何代にもわたる血塗られた過去。

クリュタイメイストラーが、夫に向けた華麗な歓迎の言葉の裏で、暗殺を企んでいる現在。

アガムメノンの死後、クリュタイメイストラーは、実子オレステスに父親の仇として殺される未来。

 

全てを予言する。

 

そして、アガムメノンと同じく、自分もすぐにこの王宮で殺される、とも。

 

全てを予言しながらも、門を通ろうとする。

人々は、そんな彼女の強靭さと気高さ、そしてその誇りを称える。

 

カッサンドラは人々の称賛の言葉に答えて言う。

 

 

 

「もし、私が幸せな人間であったなら、そんな言葉をかけられずにすむものを」

 

 

 

 

 

 

 

あの時、眼を凝らして惣流さんと綾波さんが消えた夜道の向こうを見たけれど、言葉を見つけることはできなかった。

 

それは、たぶん、そういうことなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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どうも、Kitaです。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

このお話も次回で終わる予定です。もう少しだけ、お付き合いください。

それでは、失礼します。

02.01.27