下級生

■堕天■

 

作・天巡暦さん

 


 

 

闇。

白い闇。

総てのものを内包するかの様に、ミルクのように濃密な霧が出ていた。

深く、そして静かに。

総てを封じ込めるように。

そう、窓の向こうに。

窓から覗く卯月町は真っ白な霧に覆われていた。

近くに海や湖があるわけでもなく、高い山があるわけでもない。

平凡な小さな町。

だけど、その平凡な町は、今、白いベールにくるまれて、総てが眠っていた。

そう、僅かな明るさから、夜が明けた筈なのに。

霧が出た。

只、それだけで人の営みは阻害され、交通事故を避ける為に人の外出は最小限に押さえられる。

無論自発的にではなく、公的機関からの勧告ゆえだけれど。

だけど、私には、関係なかった。

交通機関が麻痺しようと、学校が休校になろうと。

そう、私には、関係ない。

総てが終わったから。

もう、私には、何も無いから。

 

 

きっかけは些細なことだった。

教え子の一人が過労で、入院。

担任教師としての責任から、その子を見舞っていた時、何時も、その子の傍らで、励ましてる子がいた。

名は健太郎。

校内でも指折りの軟派で喧嘩っぱやい問題児として知られ、職員会議でも、何度も名前の上がった子だった。

教頭先生曰く、「退学予備軍最右翼」

確かに、そう言われるだけのことはあった。

他校との揉め事には、必ず名前が出てくるし、スケベ男として、女生徒の人気も最悪。

でも、意外と衆望はあった。

嫌っている筈の女生徒達でさえ、むしろ憧れの目を向けている姿を多く見かけたし、他校との揉め事も、たいていは我校の生徒を助けようとしての事が多かった。

憎まれて、愛される存在、そんな不思議な生徒。

そんな彼と、件の入院した生徒が仲がいい事を見て取った私は不思議だった。

入院した生徒はいわゆる優等生タイプで、どう考えても彼との共通点はない筈。

なのに、そんな二人が実に楽しそうに会話してるのが実に不思議だった。

だから、ある日尋ねてみた。

答えが知りたくて。

 

「彼、凄く優しいから」

開口一番、生徒の口から出てきた言葉はこうだった。

乱暴者といわれている彼が優しい?

確かに、彼が悪い評判だけの男の子じゃなく、実際にはなかなか侠気のある子だって言うのは判る。

でも彼の印象を先ず優しいって、表現するって事が、どうにも私には解せなかった。

不思議がる私に、件の生徒は珍しく悪戯っぽい顔をして更に言う。

「彼と一緒にいれば、わかることなんですけどね」

「え?どういう事?」

首を傾げて悩む私に、彼は何処か誇らしげな表情を浮かべ、健太郎君の事を教えてくれた。

彼についての色んな噂を一つ一つ。

そして教師には知られていない、その噂の裏を。

驚くべき真実を。

それが始まりだった。

彼に興味を持った事の。

そして、昨日から深く悔いている事についての。

 

 

週末、何時ものように保健室に遊びに来た彼は何時ものように私をデートにさそった。

もはや恒例の行事と化した”それ”。

無論、それまでにも何度も誘われていたけれど、年下の生徒としてしか見てなかったから、私はあっさりと無視していた。

増してや、私には以前より恋人候補として付き合っていた男もいたから。

けれども其の時に、あの生徒の言葉が頭を過ぎった。

−−−彼と一緒にいれば、わかることなんですけどね−−−

その言葉に背中を押されるように、私はデートをOKしていた。

彼もOKされると思っていなかったのか、鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をしていたっけ。

翌日、こっそり世界一公園であった彼は立派だった。

別に容姿がってわけじゃないし、雰囲気がってわけでもない。

5つ以上も年が離れれば、いくら背伸びしても、届かない。

でも、彼は、背伸びをしなかった。

高校生らしく純粋で、まっすぐで、そして子供のように無邪気でありながら、ちゃっかりとした天性の狡猾さをも併せ持っていた。

だが、何より素晴らしかったのは、彼が誇りを知っている事だった。

私にとっては総てが驚きの連続で、あっという間に時間が過ぎ去って行く。

背伸びした子供の化けの皮を剥す。

そんな意地の悪いことを考えていた自分が恥ずかしくなるぐらい、彼は誇り高く、そして正直だった。

そこに惹かれたからだろう、最初のデートの最後、彼と次のデートを約束したのは。

多面性のある複雑な人間性。

彼を表現するとすれば、そうなるのだろうか。

幼児のように無邪気な純粋さ、そして老成した男のように誇り高い男らしさ。

猛々しい暴力と羽毛のような優しさ。

総てが同じ人間にあるとは信じられなかった。

だが、実在した。

目の前に。

そう、私の目の前に。

 

 

彼とのデートを重ねるごとに、私は彼に溺れていった。

もう脳裏には、かつての恋人候補の男の事など、微塵も無かった。

そのくらい、彼との付き合いは私にとって衝撃的で甘美な物だった。

彼の一言、一言は私の心を打ち、彼の視線は私の鼓動を止めど無く高めさせる。

彼の態度に一喜一憂する自分自身の変化に途惑いながらも、私はそれに身を委ねていった。

無論、溺れていく自分に気付かなかったわけじゃなかった。

「いい年をした女が」と、心の中で揶揄する声に何度も悩まされた。

街を2人で歩いている時も、店のショーウインドウを見る度に、いい年をした女が高校生を連れ回している姿が映しだされ、彼との釣り合いが取れない自分の年齢に腹が立った。

悔しかった。

だから少しでも若く見せようといろいろ研究もしてみた。

でも、色々試した後には何時も空しさがやってくる。

気付くから。

結局いくら頑張っても、高校生のような若さを取り戻す事はできない。そして心も。

その事に気付くから。

それに気付く度に、何故、もっと早く出会わなかったのかとやるせない気持ちになった。

そして、それを糊塗するように、自分は彼を観察してるだけだと思い込もうとした。

だって自分は教師だから。

そして彼は生徒だから。

二人の立場が違うから、「自分はこれ以上、深入りしては駄目だ」と、何度も思った。

自分に言い聞かせた。

 

だけど。

だけど、止まらなかった。

いや、止めたくなかった。

ただ、想いのままに生きたかった。

そして、彼が好きだっていう自分の想いは、汲めども尽きぬ泉の如く、胸の底から溢れてきた。

そう、まるで大河のように。強く。激しく。勢い良く。

想いの奔流は、とどまることを知らぬように、私の心を、あたかも激流を下る笹船のように運び去っていく。

彼の胸に。

彼の腕の中に。

そこにこそ、私の場所はあるようだった。

そう、永劫の安らぎが。

 

私は”女”。

たとえ、年上でも、彼の学校の教師であっても、それは変わらない。

そして、彼は”男”。

年下でも、まだ高校生にすぎなくても。

愛し合う”男”と”女”が身体を重ねるのは自然の成り行きだった。

そう、それが如何に反社会的な行動であると、後ろ指を差されても。

少なくとも、私は一向に構わなかった。

だって、私は”女”だから。

愛を求め、与えることに貪欲な生き物だから。

彼の手が私を昂ぶらせ、私の口づけが彼を奮い立たせる。

彼が私を穿つごとに、私の腕は彼を抱きしめ、迎え、そして締め上げていく。

螺旋のように高まり行く情熱は理性を容易く溶かし、狂わせていく。

総てを。

そう、総てを私は求めた。

彼の総てを。

彼の心を僅かたりとも他の人間に占めてほしくはなかった。

彼の視線も。

声も。

その総てを私だけのものにしたかった。

その為には、私はなりふり構わなかった。

彼に近づく女性がいないか常に警戒し、校内でも、その手の情報の収集につとめた。

また、彼の求めには、二人の間の事であれば如何なる事にも応じたし、その一方で彼に飽きられないように様々な努力も重ねた。

以前の私が今の私を見れば、憐れんだかもしれない。

蔑んだかもしれない。

自立した人間であることを自分に求め、女であるよりも一人の人間として生きることを課していた以前の私から見れば、異性に心惹かれ、教師としての枠をも踏み越えた今の私は、悪夢の産物でしかないだろう。

でも、かつての私なら屈辱としか感じなかったことも、今の私には喜びだった。

考えてみれば当然のこと。

それは私が求めていたもの。

そう、想いを受け止めてくれる相手を得たのだから。

だから、私は幸せだった。

生きてるって実感を全身で感じていた。

あの時の私は光り輝いていた。

自分でも、そう思う。

輝かしい筈の未来を信じていた。

まるで、幼児のようにひたむきに。

そう、昇った太陽がいつかは沈むってことを忘れていたから。

 

 

実の所、以前から私は気付いていた。

彼の身体から、時折、甘い匂いのすることに。

無論、彼の匂いじゃない。

甘いラベンダーの様な香り。

そう、その香りに私は覚えがあった。その香りの持ち主には会ったことすら、あった。

その娘の名は結城瑞穂。

彼の幼なじみにして、最も彼に近しい娘。

テニス部の練習の時に怪我をした彼女を、血相を変えて運び込んだ彼だって見た記憶がある。

当時は彼のことを気にしてなかったので、何とも思わなかったけれど、彼女の足に包帯を巻いた時に幽かにラベンダーの薫りがしたのを私は憶えていた。

その香りが、彼の身体からする。

容易ならないことが起きているのは明らかだった。

でも、私は、気にならなかった。

いや、気にしたくなかった。

だって、それは考えたくないことだったから。

 

 

でも、現実とは厳しいものだった。

ある日、学校からの帰り道で、彼が彼女と話し込んでいるのを見た。

彼の他愛無い冗談に、ころころと鈴が転がるような可愛らしい声で笑う彼女。

それを見てさらにおどける彼。

只の友人同士というには余りにも不思議なほど、彼等の距離は近い。

その様子は非常に仲睦まじく、まさしく似合いのカップルだった。

−−−健太郎君・・・−−−

思わず彼に声をかけようとして伸びていく手。

と、その手が空気を握り締める。

目の前の二人の光景。

その微笑ましさが私を押しとどめる。私を拒絶する。

今更ながらに自分と彼との不釣り合いが思い起こされ、私は肩を落として家路を辿った。

それが、始まりだった。

そう、地獄の。

彼に対する疑心暗鬼が心を苛んでいった。

何度も、彼に真相を問いただそうとしては、思い直す毎日。

電話でならと思って、受話器を取り上げては戻す毎日。

心労の余り、いつしか体重は減り、髪や肌の艶も衰えていく。

彼に尋ねたい。

けれど、彼に会うのが怖い。

怖くてたまらない。

校内でも、彼に会うことを避けるようになった私。

電話がかかってきても出ない。

あるいは出ても、交わす言葉は歯切れが悪く、はっきりとはしない。

ただ、避けるような日々。

その日数が増えていく内に、いつしか、彼からの電話もならなくなった。

その事がより一層、私の心を焦らせる。苛立たせる。狂わせる。

けれど、どうしても、彼に会うのが怖い。

宣告を受けたくなかった。

「さようなら」という宣告を。

総てを無にする宣告を。

だけど。

だけど、私は既に署名していたのかもしれない。

そう、別れの宣告書に。

 

 

昨日、帰ってきた寮の私の部屋の扉に、手紙が1通挟み込まれていた。

差出人は、彼。

内容は1行だけ。

「明日の土曜日、午前8時に伺います。是非、在室してください」

来るべきものが来た。

私は、そう思うと、急に気の抜けたようになってしまった。

そして、気付いた。

自分が早期に聞かなかった為に、この事態を招いたことに。

深い後悔の念が湧き上がり、頬を熱い物が濡らして顎を伝う。

手紙の文字が滲む度に内圧が増して行き、もう私はのぼせた様に何にも考えられなかった。

考えられたのは唯一言、「自業自得」って言葉だけ。

他は何も考えられなかった。

 

だから、今日、私はここにいる。

彼が来るから。

恐らく別れを告げる為に。

そう、それは自明のこと。

今の私にとって、彼の心を失ったのは明らかだった。

自業自得。

この言葉をこんなに悲しい気分で噛み締めるなんて思わなかった。

常に他者に向ける言葉だと思っていた。

でも、今の私自身を表すのに、これほど的確な言葉はない。

砂を噛むような気分で、ただ、漫然と彼を待つ時間。

私を刻一刻と追いつめていく様に、秒針の音が耳に染み付いて行く。

やがて、時計の針が9時を指した。

途端、響く、ノックの音。

その音を聞きながら、私は窓を開けた。

たちまち室内に入り込む霧。

ちょうど吹き付ける風の動きがあったのだろうか、意外なまでに迅速に部屋に満ちていく霧に僅かな安堵感を憶える。

私は、その深まり行く霧に包まれながら、祈った。

彼が入ってくるまでに、霧が私を隠してくれることを。

私の涙で赤く腫れた顔を隠してくれることを。

彼との凛とした別れをする為に。

せめて彼の思い出の中では、悪女と思われても美しい女でありたいから。

只、それだけが私の願い。

そう、その事だけが・・・。

 

 

そして、・・・沈んで行く。

目に入るもの総てが。

白に。

白い闇の中に。

徐々に部屋が霧に侵され、扉の輪郭がぼやけていく。

苛立つように繰り返されるノックの音に何かを振り切るように私は天井を振り仰いだ。

白い天井壁と霧の境が溶けていく。

「あいてるわ・・・」

掠れるような声を喉からしぼりだした。

日頃は気付かない扉の軋む音が妙に虚ろに耳朶に響く。

幽かに、霧の向こうに開いた扉の輪郭が見える

その前に蠢く彼の影。

御互いに霧によって、その表情は分からない。

ただ、彼の背後で、静かに閉まる扉の音が私達が二人きりだということを示す。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

しばし満ちる沈黙の時間。

御互いに言葉も交えず、只、目前の相手を凝視するだけ。

霧に隠され、相手の顔すらはっきりと見えないのに、視線だけが痛いほどに私に突き刺さる。

そして、その視線に絡めるように視線を送り返す私。

彼の元に駆け寄りたい。

そんな衝動が心の底から沸き上がり、思わず手を彼の方に伸ばしかけ、そして、慌てて引き戻した。

自分の中の彼を求める自分に必死に言い聞かせる。

自分は彼を失ったんだって。

彼には新しい彼女がいるのだって。

だから、別れぐらい、年上の女らしく、クールに奇麗に別れて見せるべきだって。

だけど、いくら頭では判っていても、心はそうは上手く行かない。

−−−もう、彼の心には、私には無いのに・・・なのに、なのに。−−−

頭の中で、彼を求めて啜り泣く自分を感じ、その浅ましさ、女々しさがいやになる。

−−−未練なんて、惨めね、私・・・。−−−

でも、自分にそう言いながらも心は落ち着かず、気がつけば、彼からもらった銀のイヤリングを触っていた。

「静香先生・・・、いや静香さん」

と、突然彼が沈黙を破り話し掛けてきた。

久しぶりに私に向けられた彼の言葉に緊張が走る。

「静香さん、好きな人が出来たなら、そう言って欲しい」

「・・・好きな人?」

幽かに不審がるような私の言葉には応えずに彼は続ける。

「俺、静香さんのことが好きだから、だから静香さんも俺のことが好きだと思っていた。でも、声をかけても最近は無視するし、電話をかけても出てくれない」

「・・・・・・」

答えらず、唇を噛んで俯く私。

彼に見えないと知りながらも、どうしても目を会わせられない。

「こんな聞き方はおかしいと思う。でも、もう我慢できないんだ。教えて欲しい、俺の何処が悪かったんだ?」

「・・・・・・」

尚も答えない私に苛ついたように、不意に彼が霧の中を闇雲にかけよってきた。

同時に、鈍い何かがぶつかる音が2度3度する。

−−−危ない!−−−

思わず顔を上げ、叫ぼうとした次の瞬間、彼が目の前にいた。

ついぞ、私の前では見せた事も無いような憔悴した顔をして、ただ、其の中で輝く彼の目が、真摯な光を以って私を見つめる。

「答えて、静香・・・」

彼の言葉に無意識に反応する様に、口が何かを言おうと薄く開く。

「あ・・・」

が、寸前、脳裏に女生徒と戯れる彼の顔が浮かんだ。

そう、楽しそうな彼の笑顔が。

突然、激しい嫌悪感が、そしてもどかしい衝動が私の心を走った。

 

「ぃやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 

叫びと共に、彼を突き飛ばす。

だが彼はよろめきながらも、それをこらえた。

「静香っ!」

私の二の腕をしっかりと掴み、私の心を見透かすように叫ぶ。

その目は真険だった。

だが、パニックに陥った私には、かえって其の真剣さが信じられず、彼の肩を突き飛ばして離れようと窓辺でもがいた。

次第に身体が摩り上がって行く。

次の瞬間、彼から離れようとひときわ激しくもがいた拍子に体が宙に浮いた。

「あっ・・・」

言葉にならない呟きが口から洩れると同時に、白いベールに包まれた天地が目の前でさかさまになって行く。

停止する思考。

ただ、彼の眼の中に私が映る。

驚いた私の顔が。

それを認識すると同時に目の前が真っ暗になった。

代りに頬に感じる彼の薄い髭。

そして頭に廻された掌の熱。

かつて、身近に感じていた筈のそれら。

ふと、懐かしさが心の空白に満ちる。

 

ダーン!

 

肩口から地面に叩き付けられるも、彼が身を挺してかばってくれたからか、意外に軽い痛みだけだった。

ふらつく頭をはっきりとさせようと、頭を振りながら、彼を見やる。

植え込みの中に少しめり込むように倒れた彼。

その片足は膝から下が奇妙に捻じれ、口元には僅かに血が滲んでいた。

「け、健太郎君っ!」

慌てて、彼の上から降りて、介抱する私。

私の呼びかけに彼はゆっくりと瞼を明け、微笑んだ。

安堵感が心を満たすと同時に、自分がとんでもない事をしようとしていたような気分に襲われる。

そんな私の心を見ぬいたように、何かを制止するように僅かに片手をあげながら彼が尋ねる。

「怪我は・・・ない?」

「え? ええ、ええ」

自らが傷つきながらも、私を気遣う彼の様子に何やら熱い物が込み上げてきて、何度も頷く私。

そんな私を優しげな笑顔で見つめながら、彼は身を起こす。

彼の顔には何処か誇らしげな表情が浮かんでいた。

「あ、つつ・・・」

あちこちがいたむのだろう、顔をしかめながらも、其の笑顔は絶やさない。

捻じ曲がった足をゆっくりとマッサージしながら服の埃を払い落とすと、彼は私を見つめた。

「静香さん」

彼がゆっくりと右手を広げる。

そこには、先程まで私がしていた筈のイヤリングが握られていた。

何時の間にか、飛んだ為だろう、埃にまみれて。

でも銀特有の鈍く重い輝きをたたえて。

途端、心が吸い寄せられた。

その輝きに。

そして彼の手の中にそれがあった事に。

−−−アソコガワタシノイルベキトコロ、ワタシノバショ・・・−−−

熱に浮かれた様に、私は彼の腕の中に飛び込んだ。

そのまま彼の首にすがり付き、その肩に顔を押し当て呟いた。

「健太郎君・・・」

涙が何時の間にか、ぽろぽろと出てくる。

けれど涙を流せば流すほど、あれほどささくれダっていた心が落ち着いて行くのを感じる。

素直になって行くのが判る。

哀しみの衝動が消え、落ち着いていく心に沿うように、頬を伝う涙も暖かに感じられていく。

そっと、彼の手が髪を撫でるのを感じながら、私は決心した。

もう、迷わない。

もう、飾らない。

年上だからという遠慮もポーズも捨てる。

教師という自分の立場も、もう関係無い。

ただ、彼の前では総てを。

そう、総てを有りの侭にさらけ出して、彼を慕う一人の女として自分を。

自分らしく、愚かしく、そして心のままに。

そう決心した途端、心の枷を取り払い解き放たれた気分になって、一度は収まりかけた涙が再び溢れ出した。

今迄の悔いを流すように。

澱んだ心の澱を流し尽くすように。

白い闇の中、彼は何時までも私の髪を優しく撫でてくれた。

霧が晴れるまで。

涙が涸れ果てる時まで。

 

 

 


(99/03/12)