春。
心地よき時を象徴するかの様に、種々の小鳥たちが囀り、挨拶を交わす季節。
空は何処までも青く澄みわたり、太陽は穏やかな陽射しを地に投げかけていた。
その優しさを受け止めるように、良く手入れされた庭の木々の葉が緑色に輝き、光を乗せて揺れる。
そんな優しげな木々の中、白いテーブルが目を惹く。
そう、まるで、その清浄さで周りを浄化するかの如くに。
再び梢を優しく鳴らす風。
テーブルのうえのティーカップからは、心を落ち着かせるような優しい香り。
目をつぶり、そっとその調べと香りに心を安らわせる。
背を椅子に預け、長く使い込んで心地よく軋む音を楽しみながら、ため息と共に静かに瞼を閉じた。
光が遮断されると同時に、ますます心に周囲の呼吸が満ちていく。
穏やかな気候に、心がまどろみはじめる。
幸せな午後のティータイム。
「おばあたん」
突然、かけられた声に、まどろみを破られ、やや憮然とした表情で、声の主を探す。
だが、視界には誰もいない。
いぶかる私の袖が急に引かれた。
視線を転じたそこにいたのは、甘えたような表情を浮かべた幼子。
可愛い笑顔に覆わず、私の口元からも笑みが零れる。
「どうしたの、けんちゃん」
膝に抱き上げながら、頭を撫ぜてやる。
心地よさそうにはにかんだ表情を浮かべる幼子に私は微笑んだ。
「こえ」
舌足らずな返事をしながら、幼子は一つの写真立てを手渡してくれた。
中に挟まれた写真は、時を経て、セピア色にその色彩を変えている。
日に焼けて、映像もぼやけていたが、私が”それ”を見間違うはずはなかった。
そう、”それ”を。
”あの人”を。
静かに閉じた瞼の裏で、遥かな過去のリールが、再び回転を始めた。
−−−30年前。
「美佐子さん、行ってきます」
「お母さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい。車に、気をつけるんですよ」
「「はーい」」
毎朝、繰り返される何時ものやり取り。
子供達を送り出すと、さっそく、店の開店準備を始めた。
朝のモーニングを食べにやってくるサラリーマン達。
今日の朝の献立は、トーストサンドに、サラダ。
そして、亡き主人直伝のコーヒー、又はオレンジジュース。
パンをスライスし、野菜を洗って、ハムを刻む。
手早い仕込み。
何時もの手順にのっとって、手早く進めて行く。
やがて、午前の客が帰り、遅い昼食をとりながら、テレビを点けた。
ぼんやりとしたTV画面をぼんやりと聞き流しながら、カウンターの店に飾られた、写真を手に取った。
写真立ての硝子の向こうでは、この間のお花見の時に、3人で撮った写真が収められていた。
何気なく裏を返すと、写真立ての硝子ごしに裏にはられた付箋に書かれた文字が見える。
『春、お母さんとお兄ちゃんと一緒に』
綺麗ではあるが、どこか丸まった印象を与える文字に、ふと書きこんでいる時の唯の顔を思い出した。
現像に出した写真を机の上に広げながら、こまめに、書きこんでいくあの娘。
まるで忘れる事を怖れるように真剣な表情で写真や付箋に書きこむ姿は、かけがえの無い思い出を失う事を怖れるかの様に切なさがこもっていた。
いや、あの娘にとっては、それは、本当にかけがえの無いものだったのだろう。
母である私と・・・”兄”との思い出が。
考えて見れば、ここに住み始めてから、もう何年もたっている。
そもそも竜之介君のお父様は、海外調査の為、家を空ける事がおおかった。
そこで、当時、主人を亡くして、困っていた私の生活を援助する代わりに、竜之介君を預かる事になったのが始まり。
以来十余年。
同い年の私の娘の唯と変わらぬよう、慈しんで、育ててきた。
小さな頃、彼は臆病で、夜、トイレに行くにも、母のスカートの裾を掴んで離さなかったと、聞いていた。
だが、唯や私と暮らすようになってから、男の子としての自覚が出てきたのだろうか、夜のトイレにも一人で行く様になったし、唯が、夜の闇が恐くて、トイレに行けなくて、泣いていると、優しくてを引いてトイレに連れていってやる、優しさも発揮する様になった。
優しい竜之介。
そんな彼に唯も懐き、いつも彼の後を追い掛け回していた。
何処にいくにも、離れない二人。
隣の友美ちゃんと三人で、何時も仲良く、おままごとをしていた。
喧嘩をしないように、おままごとの彼の奥さん役を、代わりばんこでやっていた、二人の少女の真剣な顔が今でも忘れられない。
周囲には微笑ましく映った其の姿も、二人の少女達には、現実そのものだったのだろう。
そんな三人も時が過ぎ、いつしか、大きく成長した。
唯も、友美ちゃんも可愛らしく成長し、竜之介君も肩幅の広い、立派な青年になった。
カランカラン
私の物思いを中断させるように鳴る扉の鐘。
「いらっしゃいませ」
それまでの物思いを打ち消すように、軽く頭を振って、入り口に向き直る。
そこにいたのはグリーンの背広にくたびれた、エンジ色のネクタイをした、中年の男性だった。
竜之介君曰く、”カエルおやぢ”。
何時も、この時間にやってきては、ニタニタと薄笑いを浮かべて、私をじっと見詰めているのだ。
はっきり言って、嫌なお客である。
彼のせいで、以前は午後に良く来ていた学生客や、近所の奥様方の足が遠くなったのだから当然だった。
だが、客に来るなともいえず、今日にいたっている。
そんな私の気持ちを逆なでするように、彼はカウンターに座ると、コーヒーを注文した。
コーヒーミルで、豆をひくと、芳ばしい香りが辺りに満ちる。
早速、コーヒー粉を取り出して、コーヒーを抽出する作業にかかるが、どうも、嫌な感じがした。
彼の方を見ると、その無遠慮な視線が、じろじろと私の身体を嘗め回すように、這い回っていた。
そう、胸にも、お尻にも。
−−−嫌な客!−−−
明らかな視姦をする彼の視線が厭わしく、嫌で、嫌で、たまらなかった。
その場から早く離れたくて、うずうずしてるのに、私の心とは裏腹に、コーヒーの雫はなかなか容器にたまらない。
必要もないのに、グラスやカウンターを拭いて、気を紛らわせようとする、私。
だが、突然、彼の脂ぎった手が、私の手の上に置かれる。
ぞっとして、手をひこうとする私の手を彼は握り締めると、下卑た薄笑いを浮かべながら、
「あんた、未亡人だそうだな?」
まるで人以外のものが無理やりに人の言葉をしゃべった様しゃがれた声。
弄るような下心を隠しきれずに無理やりに作ったしゃがれた猫なで声が私の肌に粟粒を生じさせる。
「それが何か?」
内心の怖気を悟られぬように、すげなく言い返すと、やや鼻白んだ様子で、本性をあらわすように、
「男日照りも長いんだろうが? 俺の女にならねぇか?」
「お客様、御冗談はお止め下さい」
握られた手を振りほどこうとする私の手を、さらに彼は強く握り締めると、抱き寄せようと引き寄せる。
必死で、こらえる私のお尻を彼の手がなで上げた。
「いい尻、してるじゃねぇか」
余りのおぞましさに、背筋を氷の様に冷たい悪寒が走りぬけて行く。
思わず、悲鳴を上げようとした時、
カランカラン
店の扉が開いて、竜之介君が帰ってきた。
私の手を掴んで、お尻を触っていた”カエルおやぢ”を見るとサッと、顔色を変え、
「こら、カエルおやぢ! 美佐子さんになにしやがる!!」
怒鳴りつけるが早いか、あっという間に”カエルおやぢ”の腕を捻じりあげる。
「いててて」
竜之介君も剣幕に、”カエルおやぢ”の顔に浮かぶ狼狽の色。
先ほどまで赤かった顔が見る間に青くなっていく。
彼の手が緩んだ隙に、握られていた手を抜きだし、あとじさる私。
私をかばうように、”カエルおやぢ”の手を捻じりながら、彼と私の間に身体を滑り込ませる竜之介君。
”カエルおやぢ”の顔面は、その痛みから蒼白になり、冷や汗が浮かんでいた。
まるで、鯉の様に口をぱくぱくさせる”カエルおやぢ”を店の外まで、引きずって行くと、其の尻にひと蹴りくれて、彼は恫喝した。
「いいか、てめぇ、二度とこの店にくるなよな! 今度来たら、病院送りにしてやる!」
あたふたと、見苦しいほどに慌てふためきながら、遁走する”カエルおやぢ”の姿に、笑う二人。
笑いながら、ふと、気付いた。
「竜之介君。学校じゃなかったの?」
「ああ、今日は3年は午後から自由授業だから帰ってきたんだ」
「そう、よかった。」
心の中で、幸運に感謝しながら、彼の方を見やる。
何時の間にか其の姿は、記憶にあるよりは、遥かに男性的であった事に気付いた。
やや、ドギマギする気持ちを押えようと視線を転じると、怪我をしてるのか右手に紅いものが見える。
「そ、それは?」
「え?」
声をかけると同時に良く見ると、”カエルおやぢ”ともみ合った時に切ったのだろうか、鮮血が僅かに滲んでいた。
思わず、その手を引き寄せる。思ったより、大きな手。
子供だ、子供だとばかり、思っていた彼の手は、立派な男の手だった。
私よりも肉厚で、指も長い。
ふと、彼に”男”を感じてしまい、顔を赤らめてしまう。
彼にみえないように慌てて俯くと、傷口に見入った。
思ったより、深くはなさそうだが、傷口にガラスの破片でも入っていたら大変だった。
しかも、心なしか傷口に光るものもみえる。
流水で、下手に傷口が開くと問題だし、破片があれば中に潜り込む事も考えられた。
−−−仕方ないわね。−−−
軽く肯くと、私は傷口を、そっと、なめていく。
「うっ」
途端、うめく彼に視線を転じると、彼が真赤な顔をしながらそっぽを向いていた。
私も気恥ずかしくなって、慌ててポケットをまさぐると、見つけ出したバンドエイドを彼の手に乱暴に貼り付けた。
「いたっ!」
「ご、ごめん、大丈夫?」
思わず、上目遣いに彼の顔を見上げる私。
そんな私の顔を見て、ますます彼の顔が真赤になってしまう。
「い、いいよ。別に気にしなくてもさ」
そう言うと、彼は熟れたトマトの様に真赤な顔をしたまま、部屋への階段を駆け上がっていった。
思ったより、広い背中が印象的だった。
二階に上がった、彼を見送りながらも、私の胸は、少女のように高鳴っていた。
今まで、子供として、見てきた彼が、彼の父親以上の存在感を持って、胸に迫ってくる。
思えば彼のお父様は立派な方で、心から尊敬出来た。
身寄りのない私達親子を引き取って、自分の家に住まわせてくれた。
そんなあの方に、仄かな恋心を持っていたはずだった。
そう、そのはずなのだ。
なのに、いま、親子ほども年の離れた青年に胸を高鳴らせてる。
それも、我子として育ててきた青年に。
我ながら、余りの不道徳さに、めまいがしてくる。
何たる、自堕落。
自分の中で、もう一人の私が私を糾弾している。
だが、別の私は、私に甘い言葉を囁く。
−−−貴女、最低ね。彼は、貴女の子供同様なんでしょ! 全く、獣でも、そんな事しないわよ!−−−
−−−好きなんでしょ? なら、寝ちゃえば? その方が、貴女も嬉しいでしょ。ねぇ?−−−
頭の中で、二つの心が、声が、木霊する。
厭わしさと、恋しさに思わず、かぶりを振る私。
カランカラン
「ただいまぁ」
店の扉を開けて、唯が帰って来た。
心なしか、其の表情にも疲れの色が濃い。
「おかえりなさい」
淀んだ思考を頭から追い出して、変わりない笑顔で迎えてあげる。
唯は可愛らしくシニョンにした頭を振りながら、
「今日、抜打ちテストがあって、大変だったんだよ。お兄ちゃんは、さっさと消えちゃうし。」
−−−消えた? もしかして、竜之介君たら−−−
急に帰って来た真の理由が明らかにされて、笑いが込み上げて来た。
突然微笑んだ私の顔を不思議そうに見る唯。
あわてて誤魔化す様に、”カエルおやぢ”に出すはずだったコーヒーをカップに移しながら、
「そう、大変だったわね。コーヒーでも飲む?」
「ううん、先に着替えてくるね」
摂ってつけたような私の態度に、やや首をかしげながら部屋に向かう唯。
「そう」
着替えに店の奥へ行く彼女を見送りながら、私は手持ちぶさたを誤魔化すように、カップに口をつける。
コーヒー特有の芳ばしい香りに、心が落ち着いて行くのを感じながら、子供達の事を考えた。
−−−竜之介君、唯・・・・・・。−−−
こうして、落ち着いて考えてみると、私は彼に恋心を抱いているらしい。
いや、正しくは恋じゃなくって、単に寂しいだけなのかも知れないけれど。
でも心の奥で、自分が彼を求めているのがわかる。
そう、精神的にも、肉体的にも。
我ながら、あさましいとは思うのだけれど、真実は変えられない。
彼の事を考えるだけで、火照る頬が、真実のありかを示している。
今まで気づかなかったけれど、こうして気づいてみると、私の心は、実に素直に胸を高鳴らせ、頬を染めさせる。
実の所、一時期には、彼のお父様の事が気になっていた。
誠実で、立派な彼のお父様を。
だけど、なくなった奥様に対する愛情を見ているうちに、その想いは失せ、子供達の世話に追われる内に、「恋」を忘れ、「女」を忘れてしまっていた。
今にして思えば、知らぬうちに彼が「男」になっていた事にも気付いていた。
彼の事を今まで、意識してこなかったのは、実は、意識しているが故に理性がそれを押え込んでいたのだろう。
でも、でも今は・・・。
再び、頼るよすがを見つけてしまった心が、理性という枷を振りほどきはじめているのが、自分でもわかる。
知らないうちに以前から、恋していたというのは・・・。
不意にかぶりを振る私。
心の中のよこしまな想いを捨て去るように、何度も、何度も、激しく首を振る。
−−−私は、あの子達の”母”。もう”女”じゃないのだから・・・。−−−
必死で、自分に言い聞かせ、よこしまな想いを流し尽くすように、コーヒーを煽る。
何時も、味わい深いはずのコーヒーが、今だけは、たまらなく苦かった。
そう、まるで”罪”と言う名の黒い血を啜るかのように。
(update 2000/02/13)