紅牡丹



 廣井真砂





 *


空の無い世界。
常に洗濯物は生乾きで、結局は壊れ掛けの乾燥機に厄介になるしかない。
雨が降ることも無ければ、お日様が照ることも無い。
代わりに、上階から誰のか知らない小便が降り注ぎ、自分勝手な色を発光するネオンサインが至る所で四六時中照り続ける。
ろくに洗濯物もベランダに干せない、世界。
そんな世界で私は生きている。
そして、私は黄ばんだシーツを部屋の端と端に吊るしたロープに引っ掛ける。
今日の客のために使う、数時間後には欲望の垢に塗れてしまう、そんなシーツを。

別に金が欲しくて、ここに来た訳じゃない。
金が欲しいなら、こんな場所じゃなくて、もっと違う場所で働いている、はず。
もっとも、この「世界」に足を踏み入れているわけが無い。
分かっている。
私はもう、ここでしか生きることが出来ない体になってしまったことを。

今日も私は店を開ける前にバスタブをせっせと磨く。
どんな客が来ても構わないように、ステンレスのバスタブに洗剤を付けて、洗う。
念入りに、しっかりと、一寸の曇りも無く、綺麗に。
昨日の客の残していった垢を全て拭い去るように。
バスタブが終われば、浴室の壁を、備品を、バスタオルを、念入りに洗う。
今日の客はどのくらい私に金を落として行ってくれるんだろう。
そんなことを思いながら、私はせっせと手桶を洗う。

部屋の中は、紅と黒と白と灰しかない。
全ての家具と入口は紅、部屋のカーテンは全て黒、仕事場を兼ねた寝具は白、三方の壁は灰。
ベッドサイドに置いた走馬灯型のランプを灯せば牡丹の花が咲き、黒のカーテンにそれが照らされ、不思議な色合いを映し出す。
そんな中で私は仕事に精を出す。
でも、殆どの客は牡丹の花に興味など示すことなく、ひたすら私の牡丹を貪る。
それでいい、それで構わない。
ランプの中の牡丹を気にかけるぐらいなら、さっさと金を置いてここから出て行け。


…誰か私を満たして、空に私を解き放って。
本当はお金なんて要らない。
閉塞的で怠惰なこの部屋から、この空間から、私を連れ出して。


 *


一体、「あれから」俺はどのくらい寝ていない?
今更になって睡魔が襲ってくるってのは、どういうことだ?
泥のように重い体が、重力に負けて床と仲良くなりたいと悲鳴を上げている。




この数ヶ月、ロクに眠れた日はなかった。
処方されたどんな睡眠薬も効かず、かつて九龍城砦の中で開業していたモグリの医者の調合した、奇々怪々な睡眠薬を試した日に、俺はクライアントから呼び付けられた。
電話を切るや、買ったばかりの最新機種の携帯を踏み潰して壊し、ベッドの下に隠し持っていた拳銃を懐に忍ばせた。
世間はこのところ中国返還に翻弄され、昼夜問わず路上で爆竹を鳴らす族がいれば、一方で社会主義に染まる香港を忌んで海外に移住する族も存在する。
関係無い、俺には全く関係無い。
今の俺に関心があるのは、睡眠だけだ。
心地良い眠りが今の俺には必要だ。
金儲けを企もうが、何かを落とし入れようが、俺には関係無い。
俺は、ただ誰にも邪魔されず、眠りたい。
それだけだ。

深夜二時過ぎ、突然鳴る携帯電話のベル。
取れば、お抱えのクライアントの怒鳴り声が耳を劈く。


 お前が俺に勧めて買っていた、上昇気配のあった米国の株が、今しがた暴落した!
 どう言うことだ!? これは明らかに貴様の見立ての誤りだっ!
 謝罪しろ、下司野郎…!。
 今すぐ、わしに詫びを入れろ、この、腐れ外道!
 誰のおかげでお前が風水師なんてチンケな商売をやっていられるか、解かっているのか?
 お前の上役の治療代も、俺が払ってやってること、知ってるのか?
 暴落の責任を取れ! 今すぐ来い! 今すぐ!!



そんな言葉を延々繰り返し怒号と共に吐き出す、クライアントの声。
ヒヒのような顔をした、似合いもしないドルチェ&ガッパーナのスーツを召した、不細工な男。
そんな反吐まみれなヤツに呼び付けられ、ヤツの事務所に着いたのは午前二時半。
電話で話した内容を、俺の目前で唾を撒き散らして喋り倒すヤツ。
眠れない脳に怒号は禁物だ。
アスピリンの代わりにすらならないこの雑音を俺は止めたかった。
だから、護身用に持ち歩いていた短銃を腰から引き抜き、ヤツの眉間に鉛玉を一発食らわせた。
血と脳漿と脳そのものがヤツの背後にあった白壁に飛び散り、俺もその糟を浴びた。

数時間後、俺は警察ではなく、俺の「ボス」に身柄を拘束された。
俺の撃ち殺したクライアントは、「ボス」や組織にとっては最高級の客だった。
組織の運営資金の数割を出していたパトロンの一人は、そいつだった。
上玉のクライアントを殺した俺に対する、組織からの「制裁」。
制裁の内容……クズどもが蔓延する世界への侵入、そして、不穏分子の撤廃。
「クズを蹴散らすには、クズでなくちゃならないのう」と俺の前で熱弁を奮う「ボス」…爺さん達。
真中に座る、最年配で組織の最権力者の爺さんは、俺を指差し、冷たく言い放つ。

 「どうしようもないクズには……手塩にかけた、最高のクズを当てるのが、最良で適切な方法だ。」

手塩にかけた、クズ……か。
俺に最も相応しい名称だな、そりゃ。
…なぁ、待てよ。
爺さん達、つい数時間前までは、あんたら、俺のことをこう言ってたんじゃないのか?

 ───── 陽界における最高で最強の、『超級』風水師、だと。

まぁ、お払い箱になった今となっては、その名称も空虚となるけどな。


爺さん達が引っ込むと、今度は爺さん達の召使である、美麗な顔とそれに釣り合った痩躯の持ち主…若干俺より階級と経験が上の同業者・愛萍(アイピン)が現れる。
いつもより更にそっけなく、彼女は俺の前に銀盆を差し出す。
それは、俺が日常と隔てた世界に向かうための準備。
風水師に「現代」は要らない。
未来と過去を操り、それを束ねるために遣わされた使いに必要なのは、気脈を見るための力、のみ。
財布を、時計を、そして拳銃を、銀盆の上に置く。
いつもはそれで終いのはずなのに、愛萍は俺に、亡者があの世で使う「金」と「スコープ」なるものを手渡し、丁寧に「クズ」たちの住む街の情況を説明する。
だが、俺は殆ど話も聞かず、チークとシャドウが濃い女の体を薄汚れた壁にくっ付けて身動きを取らさないように全身で押え込む。
彼女の、それまで説明をしていた言葉が途端に俺を罵る言葉に変わる。
どんな言葉を吐かれても俺は怯まない。
むしろ、俺はムキになって罵る女の言葉が面白くて堪らない。
綺麗な顔をした女の口から、とめどなく零れる下品な単語の、羅列。
……もっと言えよ、息継ぎしないで言えよ、吐けよ。
俺が「ボス」から任務を与えられる度に、愛萍は俺の「お目付け役」になる。
もし、俺が誤った見立てを行った場合、彼女は俺を闇に葬る権限を躊躇いも無く行使するだろう。
俺のことをずっと、青二才の若造だと思っている、己の実力を鼻にかけた女。
俺はこの女が嫌いだった、いや、今でも嫌いだ。
死ぬほど、狂おしいほど。
それでもまだ活発に俺を罵るために、女の口は動いていた。
「もういいよ、もう…」
俺は小さく呟き、その真っ赤な唇を塞いだ。
半開きの歯の奥に潜む女の舌を封じ込めるように、自分の舌を捻じ込み、蹂躪する。
女の拳は何度も俺の胸板を殴るが、そんなものなど効きはしない。
殴れば殴るほど、より深く、俺の舌は女の中を掻き回す。
溢れ出る唾液など放っておいた。
風水師はいつ自らの見立てで命を落とすか分からない。
目の前で強力な邪気によって四肢が吹き飛んだ同業者の姿を何度も見た。
見立てに向かう風水師の姿は、戦場へ赴く兵士と同じだ。
戦地に向かう兵士に別れのキスをくれる美女がいるように、俺にもそんな女がいたって構わないだろう。
未だに愛萍は拳で抵抗し、俺は舌で応戦する。
嫌がる彼女の口の端から零れる、甘い喘ぎ声は、明らかに、腕の動きと正反対のものだった…。




眠れない理由はそれとなく分かっている。
前に付き合っていた女と別れた、から。
それも、致命的な「一言」を吐かれて。
俺は、女なら誰かれなく、無節操に抱いた。
血の中に流れる呪われた『能力』を自分の欲望を満たすために俺はずっと使い続けた。
女は至極「占い」を信じ、愛でる、奇特な体質だ。
真実にほんの少し、過剰な嘘を盛り込んで、熱っぽく耳元で囁き、濡れた瞳で見つめる。
それだけで、ほとんどの女は無防備になる。
だが、その女だけは違った。
むしろ俺を呪い、俺を自分の鳥篭の中に閉じ込めようとする。
『私しか見ないで、私以外の女と親しげにしないで、貴方は私だけの物なのよ!』
苦しかった、切なかった。
俺は自分の心はお前だけにしか開いてなかったのに。
それ以外は自由でいたかったのに。
そんな俺をお前は罵る。

「アンタは風水師としては最高、でも、男としては最低、鬼畜よ」

……愛萍、お前も最悪の女だよ。
かつての男がクズ同然になったのを、嘲笑って、俺の背後で見据えている。
偽善の仮面を被って俺に尽くす姿は、欺瞞に満ちて、醜悪で、滑稽だ。
お前に復讐したいくらいだよ、ぐうの音が出ない程の、強烈な復讐を。




睡魔と小黒の安否が頭の中で交錯する。
夏(シャ)先生のところにいた小黒は偽者で、夏先生は燃えてしまった。
生きた人間の肉が燃える匂いが空いた胃と腹を刺激する。
吐きそうなのを堪えて外に出る。
ザワザワする。
胃酸過多気味の胃が、それが原因でやたら上下に動いてる。
一視点を見ているだけで意識が飛んでしまいそうだ。
ミスター・チェンが見せしめに殺した海亀の首から滴る血でも飲んどけば良かったと、思ってしまう。
思考がおかしい。
寝てないからか?
時計も財布も何もかも、陽界での持ち物は全て爺さん達の前に置いてきた。
時間が分からない、俺は何をしているのか分からない、どうして「ここ」に座っているのか分からない。
眠い…。


いや、今は、寝るわけには行かない。
一大事が俺の背中を押している。
小黒(シャオヘイ)が消えちまった。
どこに行ったんだ、小黒?
俺は、ただお前の安否が……気がかりだ。


キッズに何度も頬を打たれ、ようやく俺は我を取り戻す。
九龍フロントの、遊戯中心の前で意識を失っていたことに気付く。
キッズの持っていた肉饅頭を奪うように頬張るが、すぐに吐き出す。
言葉に言い表せない異常な味を、俺の味覚が受け付けない。
キッズはそんな俺の頭を叩き、細い筒を投げ付け、どこかに消えてしまう。
筒の中身は水で、かろうじて飲める味だった。
それで胃を騙し騙し満たし、俺はふらつく二本の脚で立ち上がる。
そうだ、俺は龍城飯店でウェイから届いたメールを読んだ。
それで、メールに書かれている「九龍飯店」とかいうホテルに向かおうとしていた。
しっかりとしない頭、自分の物で無いような気だるい体。
それでも俺は二本の脚を交互に動かし、双子中心の前を抜け、少し前まで路人が屯っていた、暗がりと腐敗臭と気味悪さが混濁したトンネルの中心まで向かう。


前に通った時に黄色の工事現場のフェンスで覆われていたその場所は、まるで俺を迎えるかのように口を開き、紅色の入口と「九龍飯店」のネオンサインが灯っていた。
連れ込み宿のような匂いを漂わせる門構えをよろめきながら潜り、横を見ると、胡散臭そうな視線で俺の全身を上から下へと舐めるように見るフロントの男と目が合う。
男は俺に携帯電話を投げ付ける。
「お客さん…あなたに電話です」
携帯電話の向こう側から聞えたのは、幼い少年の声…恐らく紅頭(ホントウ)の誰かの声だろう。
力を貸してほしい。とにかく、上で待ってるから、すぐに来て……そんな内容だった。
俺はフロントの男に携帯を投げ返し、男の説明を遠くで聞きながら、傍の螺旋階段を昇り出す。


あの紅頭は二階と言ったか、それとも三階と言ったか? いや四階か?
ついさっき聞いたばかりの言葉が記憶に無い。
俺は階段の手摺に全身を預けるように凭れかかる。
あのガキの短な言葉を思い出す。
……すぐに来てくれ、僕達は×××号室にいる。君の力が必要なんだ……。
俺の力とあんた達がどう関係がある?
俺はただ、爺さんに言われて…いやクライアントを殺した罪滅ぼしとして、この小汚い街の風水を正しに来た、ただ、それだけだ。
そんな俺とお前達がどう関係があるんだ?


待てよ、俺は何の為に奔走している?
小黒の失踪と俺がどう関係がある?
蛇老講(オールド・スネーク)と双子政策が俺の見立てに何の係わり合いがある?
清の時代に戻ったとて、人間を見立てたとて……。
全てがおかしい、何もかもがおかしい。
ここに来てから俺の思考はおかしなことになっている。
きっと寝てないからだ。


醜悪な仮面が俺の背中を睨みつけている。
耐えられない、苦しいよ。
少しだけ休ませてくれ。

眠りたい、眠りたい、寝かせてくれ。

ほんの少しだけ、俺に時間をくれ。


 *


三面鏡台の前で顔を作り終え、そろそろ店を開けようと、椅子から立ち上がった。
全裸の上に真っ赤な浴衣を纏い、簡単に帯びを結った。
その時、部屋の入口で大きな音がした。
部屋の入口に鈍い物がぶつかり落ちる音。
それに驚き、私は怯えながら扉の傍まで近付き、そして、扉を引き開ける。
扉の動きに合わせて、見慣れない、蒼白い顔をした長身の男の背中から室内に入って来た。
あちこちに染みを作った緋色の絨毯の上に、男は仰向けに寝転がっていた。
一瞬、射るような視線を感じ、私は弾かれてその方を見る。
しかし、目に映っているのは、薄暗い廊下だけ。
人影なんてどこにもない。
何だったのか良く分からず、でも余り気にせず、再び私は男に目を落とす。
縒れて、皺だらけで、泥と埃と血と汚物が付着した、グレーのジョルジオ・アルマーニのジャケットに同色のパンツ、白のワイシャツ、そして、磨り減ったシルヴァノ・ラッタンツィの黒靴を履いた容姿。
この街ではまず見かけない恰好をした男。
その傍らには昔流行った「マディソン・スクエア・ガーデン」のロゴが入った紺色のバッグが転がっていた。
体と持ち物のアンバランスさに、私は密かに驚く。
私は男の体を部屋の中に引き摺り込み、それからバッグを部屋の中に投げ込んだ。
短髪の黒髪の中に五指を入れて撫でるように頭を揺さ振るが、起きようとしない。
東洋系の顔をしているけれど、明らかにこの界隈にはいない、顔。
いや、香港人独特の顔立ちでもなく、かといって大陸人の顔でもない。
どちらかと言えば、より極東の…例えば韓国や日本の…顔立ちに似ている。
とりわけ何か特徴があるわけでもない、けれど、顔のパーツそれぞれに均整が取れた、いわゆる「美形」の顔立ち。
そんなブランドスーツを小汚く着こなしている男が、寝息を立てて眠っている。
この街じゃ、せいぜい趣味の悪いヴェルサーチかヴァレンチノしか見かけない。
ぐったりした男の体。
ジャケットの上からでも、引き締まった三角筋が覗える。
着ている物を全て脱がせてみたい、そんな気分にさせる。
私としては不思議な状景を見ているようだった。

私はこの時、自分の心に気付いてしまう。
一目で、私はこの男に、惹かれてしまったことを。

私は時計を見る。
開店まであと五分、意識のない男を放置するには気が引ける。
諦めて、私は玄関に掲げている「準備中」のプレートを「閉店」に返す。
今日の稼ぎは明日挽回すれば良い。
私は男の体をやっとの思いでベッドの上に運び、靴を脱がせる。
靴の下は素足で、両方の小指と踵の皮が剥がれ落ち、肉が剥き出ていた。
私はそれを見ているだけで自分の足が痒くなる。
なのに、男は浅い寝息を立て、心地良さそうに眠っている。
目が覚めたら、どうしてやろう……そう思いながら、私は全身から噴出した汗を流す為に、念入りに磨いた浴室に向かう。


 *


水の撥ねる音が、遠くに聞える。
何かにぶつかって、床へと落ちる、水飛沫。
軟らかな敷布の上に全身を横たえているのに気付くまで、しばし時間がかかった。
見慣れない灰色の壁にぼんやりと映る、電球の明かり。
それは天井からのものではなく、絶えず動いている…走馬灯の明かり。
そこで俺は初めて「眠っていた」ことに気が付く。
モグリの医者が調合した睡眠薬には効果があった。
もし、陽界に戻れたら、まずはあの医者のところへ行こう……そう思いながら、俺は擡げた頭をのったりと起こし、力の入らない両腕で上半身を立ち上がらせる。
ベッドサイドのテーブルの上でクルクルと回る、紅色に着色された筒状のプラスティックに牡丹が一つ、大きく型抜かれた走馬灯。
部屋を照らし出す、唯一のランプ。
それだけでこの部屋には淫靡な世界が漂っていることに気付く。
更に、女特有の甘い匂いが方々に漂い、寝起きの俺に「雄」への誘惑を促しているような気がする。
水飛沫の音は未だ遠くで聞えている。
この部屋に、俺は全く見覚えが無い。
何故、俺がここにいるのかも、記憶が無い。
俺はここで寝ていたのか?
覚えが無い。
全てが一度リセットしてしまった、そんな気分になっていた。
その時、水飛沫の音がコックを閉める音と共に、止まった。
しばしの無音、いや、走馬灯を動かすモーターの小さな音が、部屋を包んでいる。
ノブを回し扉が開く音、続けて浴室から出てくる誰かの足音、そして、扉が閉まる音。
俺の座っている場所からは死角になっている所から現れたのは、長い茶色の髪を頭の上で丸め束ね、体を血のように赤いバスタオル一枚でしか覆っていない、女だった。
化粧っ気のない顔、風呂から出たばかりなのにそれでも白く透き通った肌。
胸を鷲掴みにされる思いだった。
「………」
俺は、その瞬間、この女に惚れたことを、悟った。


 *


真紅のバスタオルで胸から脚の付根下までを包むように隠し、私は浴室から出た。
ついさっきまで死んだように蒼白い顔で寝転がっていた男は、ベッドの上で胡座をかき、ぼんやりと走馬灯を眺めていた視線をこちらに向けた。
一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに落ちつきを払う男。
私は微笑んで見せる。
眼差しを私に向けたまま話し掛ける。
「ここは、君の部屋?」
私よりも、発音がしっかりとしていて滑らかな、広東語。
紛れも無く、男は香港の人間だと解かる。
負け惜しみに私も、私なりに精一杯の綺麗な広東語で答え返す。
「…そうよ、ここは私の部屋」
「どうして、ここに?」
「倒れてたのよ、部屋の入口で」
「俺が?」
「そうよ、真っ青な顔をして、ぐったりと」
「もしかして、君がここまで俺を?」
「ええ、良い運動になったわ」
そう言うと、男は納得したように頷いた。
「ところで、ここは、何階?」
「三階よ」
「三〇五号室は?」
「真反対。ここ、三〇一号室」
「……そう」
そう言いながら、男は私がベッドの傍に置いていたマディソン・スクエア・ガーデンの鞄に手をかけ、手元に引き上げると、バッグのファスナーを開いた。
「…あの、変わった風体をした人達と知り合いなの?」
私はベッドの端に腰掛け、足を組みながら男に尋ねる。
「……?」
男は鋭い視線をこっちを見る。
「ごめんなさい、気を悪くしたかしら?」
「……いや」
「今日、何度も私、あの人達を廊下で見かけるから、ただ、不思議だと思っただけ」
「…あんた、ここの住人か?」
「そうよ、ここで仕事してるの」
そう言って、私はバスタオルの胸元を少しずらして見せるが、男は余り関心を示さない。
「…ここはホテルじゃないのか?」
男はぶっきらぼうに言いながら、鞄の中に入れてある物をベッドの上に並べ出した。
見たことのない物ばかりが次々と出てくる。
「ホテル兼マンション、二階はれっきとした木賃宿」
「三階は?」
「一年契約している客専用の部屋」
「ふーん…」
男は事務的に頷きながら、鞄の中から物を取り出している。
私はふと、二十寸ほどの大きさの刀に眼を奪われた。
真紅の柄に龍が描かれた鍔の装飾が合わさり、刃が三叉に分かれた、明らかに武器と思わせる物。
「それ、何?」
私はそれに手を伸ばそうとした時、男の手が私の手を掴んだ。
男の大きな掌は厚く固い皮で覆われ、温もりがあった。
力強く握るその手に、私は胸が疼く。
「触るな、素人が簡単に触れるシロモノじゃない」
そう言い、男は私の膝に手を戻そうとする。
ゆっくり、そして、優しく。
鞄の底板を取り外し、その下から男は百紙紮(シザ)を取り出し、それを私の前に差し出す。
「何?」
半分に折り畳んだ紙紮を更に半分に折り曲げ、私のバスタオルの胸元に差し込んだ。
「悪かったな、仕事の邪魔をした」
「え?」
「あんた、自分の体で商売してんだろ?」
率直で飾り気のない言葉に私は苦笑しつつ、答える。
「……そうよ、分かる?」
男は軽く口元に笑みを湛え、頷く。
「分かるよ、俺、そういうところの常連客だし」
あっさりと答える男の言葉、恐らく嘘じゃないだろう。
商売女との慣れた…目と全身を交互に隈なく舐めるように見ながら喋る…会話。
女だから馬鹿にしていない眼差し、だからと言って物怖じしていない眼差し。
けれど、目の前にいる女は商売女だと割り切っている眼差し。
こんな客、そうそういない。
数年振りの、それも日の当たる場所で仕事していた時に出くわした客、以来。
楽しい。
「……そうなの」
私は素っ気無く答える。
男はそれに対してただ苦笑して見せるばかり。
「……客、待たせてんだろ?」
「まぁ…ね」
「悪かったな、営業妨害して」
男はそう言うと、手早くベッドの上に置いている物を次々と鞄の中に仕舞い込む。
「そうだ。俺、どのくらいの間、寝てた?」
突然の質問に私は首を傾げる。
「二十分程…じゃない? 私がシャワーを浴びる前までは小さな鼾をかいて寝てたし」
「……そうか……道草、食ったな」
男はそう言い、全てのものを鞄に詰め終えると、おもむろに両足をベッドの下に降ろす。
素足を紅色のカーペットに合わせ、傍に揃えて置いていた革靴を足元に運ぶとそれを無造作に履く。
「ねぇ、素足に革靴って、歩いてて痛くない?」
つい、私は声をかけてしまう。
私の言葉に男は顔を上げ、小さく頷いて見せる。
「待ってて、絆創膏貼ってあげるから」
おせっかい焼きだと心の中で呟きながら、私は三面鏡台の小さな引き出しに仕舞っていた絆創膏を数枚取り出し、胸元に差し込まれた紙紮を台の上に置いた。
男に履きかけた靴を脱ぐように言い、男は私の言葉に素直に応じ、カーペットの上に素足を置く。
私は男の前に片膝を付いてしゃがみ、男の右足を、立てた脚の大腿の上に置いた。
そしてわざと、私は、タオルを腰の方へ引き上げ、気持ちばかし、開脚した。


 *


見せ付けているかのように、女の髪と同じ色をした、栗色の繁みが、俺の前に露になっていた。
女の両大腿の付根の間に繁る、やや薄めのそれは、その奥に見え隠れしているもう一つの口を覆うベールのようだった。
女は俺の肉が露になった小指と踵に、丁寧に絆創膏を貼ってくれる。
こんなに優しくしてもらったのは、小学生の時以来かもしれない。
体育の時間、リレーの練習中に躓いて膝と脛に擦り傷を作った時、保健委員の女の子が誰もいない保健室で不慣れな手付きで応急処置をしてくれたことを、思い出す。
足元で片膝を立てた恰好で手当てをしてくれる女の子の、ブルマーの下から伸びる白い足が異様に艶めかしくて、俺は自分の膨れ上がりそうな気配の股間がばれないだろうかと、それだけが心配で、アルコールの良く染みた脱脂綿で傷口を拭かれても痛みを感じなかった。
その感覚は、十数年経った今でも忘れられず、むしろ蘇りそうな感じだった。
女は絆創膏を貼り終えた右足を、自分の股間のすぐ傍に置く。
立てている脚を変え、今度は左足を大腿の上に乗せる。
俺は女の方を見る。
女は勝気な顔で、絆創膏を覆っている紙を破っている。
まぎれもなく、女は、確信的だった。
先程よりもより開脚し、より繁みの向こうが俺の前に現れる。
下の唇を剥けば、俺を誘う女の欲望の渦が綺麗に見える。
ほんの少し、足先を伸ばせば、俺の親指は女の渦の中に届く。
顎に感じる視線。
辿れば、女が口元に勝気な笑みを湛えながら、上目遣いでこっちを見ている。
手に持っている、まだ接着部を剥がしていない絆創膏の先で俺の足の裏を撫で上げる。
明らかに、それは女からの催促だった。
時間が無いことは分かっている。
今は一分一秒が惜しい、それに、小黒のことが心配だ。
もしかすると、紅頭たちは俺を探しに九龍フロント中を探し回っているんじゃないか…。
双子中心のセミナー、まだ始まっていないだろうか…?
いろんなことが頭を過る。
俺を蔑む愛萍の瞳……忘れたい。
目の前の繁みが俺を解き放ってくれるかもしれない。
「綺麗だな…」
ほんの一瞬だけ、自分に戻りたい。
『風水師』の自分ではなく、『愛萍を憎む』男でもなく……ただ、『ありのまま』の、自分に。


 *


明らかに男の視線は、私の股の間に釘付けだった。
股のすぐ傍でダラリと伸びた男の右足に力が宿ったのは、そのすぐ後だった。
項垂れた足先が天を向いて立つや、親指の先端が私のもう一つの口の上をなぞり出した。
「…あっ」
ジャリジャリと縮れた毛と指先が擦り合って小さな音を奏でる。
すでに男と会話をしている時から、私は濡れていた。
私に差し出した紙紮は、単に営業妨害を詫びるためのものだったのか、それとも…。
今となってはどっちだって構わない。
私は純粋に、この男に対して、久々にただの『女』として感じている、それだけ。
指の感触と無造作に周囲を弄る音に、視姦されて湿りかけているその場所がより湿り気を帯びる。
何度も周囲を往復し、ようやく入口を見つけた親指は、前後に体をくねらせ、じわじわと入って来る。
入口の辺りで溢れている水を掻き回す音が、そこから聞える。
「……ヤダ」
思わず『母国語』が出てしまう。
入ってきても、まだ男の親指はくねったまま、私の中で動いている。
手の指や舌で犯されるのには慣れたけど、足の指は、今までに一度も経験が無い。
変な感触に私は声を出してしまう。
「アッ…ダメ……ヤダ…」
親指はゆっくりと私の空洞の回りでモゴモゴしている。
それと共に、ヒチャヒチャと水の撥ねる音がする。
思った以上に大きくて、それで卑猥極まりない音に、私は持っていた絆創膏を握り潰しかける。
片膝が震え、乗せている男の左足が落ちそうになる。
このまま、男の足を床に棄てて、両脚を目一杯開きたい。
その時、男の低い声が私を呼ぶ。
「…おい。まだ、貼り終えてないぞ」
男は広東語で、話しかける。
私は俯きかけた顔を上げる。
こっちを見つめている男の顔が正面にあった。
「…貼ってくれるんだろ?」
「ええ、そうよ」
「じゃぁ、手、止めないでさっさと貼ってくれよ」
明らかにわざと意地悪な口調で催促をする男の声に、私は従順な振りをする。
小指に絆創膏を巻き付ける。
その間、ずっと男の親指は私の下の口の中で蠢いている。
心地良過ぎる感触を、私は我慢し、そして蔑む。
短過ぎて、慰み物にもならない。
私は最後の一枚に手をかけた時、男のパンツの股間の辺りが異様に盛り上がっているを見た。
膨らみの大きさからして、六寸半はあるのでは、と思わせる。
こういうことだけには、私は目敏い。
きっと、下着ごとパンツをずらせば、親指では満たされない欲望を満たしてくれる物が現れるだろう。
でも、まだ「お預け」にしなきゃ……私は絆創膏を包んでいる紙を破った。


 *


女は左足の踵に絆創膏を貼り終えると、足をカーペットの上に置いた。
そして、彼女の秘部の先に潜り込んでいた、俺の右足の親指を引き抜く。
生温かい感触から、突然外気に曝され、俺の親指はショックで項垂れる。
頬に勝気な笑みを湛えたまま、女は片膝を付いて座った恰好から、腰を後ろに引き、胸をカーペットの上に軽く乗せ、両手で俺の右足を包み込んだ。
引き抜かれた右足の親指には、彼女の粘り気のある愛液が絡まっていた。
それを彼女は、おもむろに自分の上の唇の中に含ませた。
軟らかな唇は何度も俺の指を這い、その奥から伸びてきた舌は親指の腹を撫で上げる。
指の周りに絡み付いたり、啄ばんだり、まとわりついたりしながら、彼女は親指を弄んでいた。
その動きに合わせて、女の腰は前後に揺れていた。
バスタオルに覆われていた腰の向こうにある双丘は、動きに合わせて、姿を露にする。
白い双丘の、淫らに楕円を描くように動く様は、まるで別の生き物のようだった。
なおも女の口が止まることはない。
歯を立てず、微妙なタイミングで上下に口を動かしながら舌を使うのは、プロの技だ。
女の視線が俺の目に、そして膨れ上がった腰のあたりに向けられる。
どう? …と言わんばかりの視線に、俺は満足な笑みを浮かべて答えるしか、術は無かった。
そっと、女の右手が右足から離脱する。
俺はその手の行方を見据える。
ゆっくりと、ゆっくりと、女の右手は後ろへと向かい、やがて腰の辺りで消えた。
伸びきった右腕が小刻みに動く。
恐らく、俺の親指が弄っていた場所を、自分の指で慰めているんだろう。
その証拠に、白い双丘はより激しく楕円を空に描いている。
女の上の口の端からは、唾液が零れ、俺の足の甲に筋を描いていた。
仄かに頬を上気させ、濡れた色を見せる瞳が、そそる。
そろそろ、俺の理性は限界に達しそうだ。
理性だけじゃない、本性も。


 *


「…我慢くらべも、そろそろこの辺にしないか?」
男の滑らかな『母国語』のイントネーションに、私は一瞬、耳を疑った。
思わず指から口を離し、顔を上げた。
端正な男がやや濡れた目で私を見下ろしている。
薄い唇から再び、滑らかで馴染み深い言語を零す。
「……日本語、分かるだろ?」
「……」
私は、小さく頷く。
股の間で動かしていた指を止め、それを引き抜き、腰をカーペットの上に下ろす。
そして、恐る恐る尋ねる。
「あなた、日本語が…分かるの?」
男は私の問い掛けに頷いて答える。
「分かるってもんじゃない。俺は日本人だ」
「……そうなの?」
素直に驚いてしまう。
まさかこの街に、私以外に『日本語』を話すことが出来る人がいるだなんて。
信じられなかった。
「流暢な広東語を喋るから、てっきり、こっちの人とばっかり…」
「どっちも、一応、俺にとっちゃ、母国語だからな」
「……?」
私は首を傾げるが、男はそれに答えない。
代わりに別の言葉を投げて来た。
「もしかして、君、陽界の人間なのか?」
私は黙って頷く。
「そうか…俺も、そっちから来た」
「…そうなの?」
「ヤボ用があって、こっちに来た」
「ヤボ用…?」
その時、私は朝方、入口越しに聞えた誰かの会話を思い出す。

  「今日、陽界から超級風水師とやらが来るんだってよ」
  「陽界の? 何でまた?」
  「陰界の超級風水師が成し得なかった見立てを起こすんだとよ」
  「そうなんかい、それじゃ綺麗サッパリ胡同(フートン)の鬼律(グイリー)が消えてくれるねぇ」
  「ついでに一緒にわしらも消されたりしてな、ワハハ」
  「そんなことがあるもんかい、でも、消えてくれればまた仕事に精が出せるよ」


良く分からない会話だったけれど、でも、今は何となく分かる。
男はヤボ用だと言ったけれど、きっと、この男は恐らく、その話に上がった風水師なんだろう。
私と違って、意志を持って陰界に足を踏み入れた陽界人。
それが目の前に今、だらしない恰好をして存在している。
思わず私はクスクスと声を立てて笑ってしまう。
そんな私を男は苦笑混じりに見つめる。
「……あのさ」
「何?」
「もう、終わりかな?」
言いながら、男は指で私が掴んでいた右足の先を指差す。
「もし、君さえ良ければ、こっちにも同じこと、してほしいんだけど…?」
男は自分の股間を指差す。
はっきりとそこだけが荒々しく隆起しているのが分かる。
それに、さっき見た時よりもよりその斜面は、険しくなっている。
すぐに私は男の、布で隠されたその場所を、剥き出しにしたい衝動に駆られた。
それを同時に、真っ先に私の左腕は男のベルトを掴んでいた。
いつもなら丁寧に、そして焦らすように、ベルトを外すのに、今は違った。
早く見たい、早く触りたい、早く咥えてみたい…逸る気持ちが顕著に指先に宿る。
荒々しく外し、男の体温で温まっている下着ごとパンツを掴み、力一杯足元に引き摺り下ろす。
勢い良く撥ね上がるそれはまるで、別の生き物のようだった。
長い間、いろんな男を咥えてきたけれど、こんなに猛々しいものを見たのは初めてだった。
赤紫の皮膚から青く浮き上がる血管が脈を打ち、しとどに表面は濡れている。
「もうそろそろ…なんだ。どうにかしてほしいんだ」
己の欲望の分身の状態を、まるで他人事のように男は言いのける。
そんな男の半ば投げやりな言葉に、私はわざと、それに触れかけた手を窄める。
男の左の大腿に手をかけ、それを台にして私は男の前に立ち上がる。
それと一緒に男の視線も下から上へと移る。
私を見上げる、ほんのりと上気した男の顔。
その頬に私はまだ濡れている右手で軽く振れ、そのまま、私のバスタオルの裾へと持って行く。
「…ねぇ、どっちがいい? 口? それとも…ここ?」
そう言い、私はバスタオルの裾を持ち上げる。
男の視線は私の繁みに移る。
きっと、私の体液で繁みは濡れそぼっているだろう。
バスタオルの裾を掴んでいた右手は自然と繁みの中に引き込まれて行く。
足を少し横に開き、自分の指を再びその場所に誘う。
示指と中指を一緒に、まだ潤っているその場所に沈める。
「……うっ」
思わず声が出てしまう。
男の視線は私の顔とその場所を交互に見ている。
黙って、ただ、じっと。
やっぱり私は欲している、目の前の男を、間近にいる男の分身を。
熱い液体が指に執拗に絡みつく。
私は左足をベッドの上に乗せ、左手を男の右肩に載せる。
がっしりした、肉厚のある肩。
少し二の腕に手をずらしてみると、触れるだけで鍛えられた三角筋がジャケットの下に隠されているのが分かる。
やっぱり私の目に狂いはない。
「どっちがいい?」
再度、私は問いかける。
「そうだな…」
一瞬逸れた男の眼差しに、私はそれを追いかける。
男の視界に入っているのは恐らく、黒色のカーテンに映る、走馬灯の牡丹。
灯りに揺らめく牡丹の花はまさしく、私が指を入れている場所、そのもの。
幾重の花弁の奥に隠れたそれを、色んな男たちが弄り、白い蜜を注ぎ込んだ。
それでも私は満たされず、紙紮と引換に私は気持ちを満たしていた。
これを生業にする前から、いや、この街に来る前から、私は色んな男と快楽に耽った。
技術に長けた男も、長さをひけらかす男も、体力が自慢の男も、全て「糟」だった。
どいつもこいつも自分勝手で、垂れ流すだけ流して、おしまい。
火照った体をいつも一人で処理する度に虚しさが込み上がって来て、浴室で泣く。
その度に、私の内腿から脹脛を伝って流れ落ちる男の吐き出した白い糟と涙が、排水溝へと流れ、渦を巻き、吸い込まれて行く。
一度でいいから、虚しくない思いをしたかった。
私の紅色の牡丹を最後まで愛してくれる、そんな男と、それは一時の客でもいいから、したかった。

お願い、して。
口でも、牡丹でも、どっちを選んでもいいから、お願い、私を満たして。


 *


熱い眼差しで迫ってくる女は、どっちにしたって俺を求めていることに変わりはない。
自分の中に自分の指を咥えた卑猥な恰好を俺に見せ付けていることが、何よりの証拠だ。
僅かに視線をずらせば、女のその場所を間近に拝むことが出来る。
クルクルと回る走馬灯が照らし出す、カーテンに映える、牡丹の花。
あれは彼女の化身、そのものだ。
弄ぶだけなら、すぐにその痩身を捕まえて、女の中に俺を深く突き立てるだろう。
痛いと泣きながら身を捩っても、俺は無理矢理に激しく腰を振って、欲望を吐き出すだろう。
今までなら、そうだろう。
かつての女にでさえ、そうやってきた。
泣こうが喚こうが、知ったことじゃない。
求めたのはそっちだ、腰を振って来たのはそっちだと、責任転嫁をしてきた。
今は、違う。
体を売っていることで身を立てている女が、自分から濡れて乱れている。
渡した紙紮は、単に寝床を貸してくれた礼のつもりだった。
どうしてなのか、俺には分からない。
彼女が何を思って俺を挑発しているのかが、分からない。
そうだ、女心ほど分からないものはない。
愛萍は俺を束縛する一方で、俺の行為そのものに難癖を付けては拒み続けた。
何でもやる、と大金を吹っかけてきた売春婦は、素股以上はさせなかった。
嫌がる女ほど、身を捩って、泣いて、喘いで、縋ってくる。
分からない、俺は女が分からない。
でも、俺は今すぐにでも、彼女が欲しくてたまらない。
濡れている牡丹は勿論、唇も、バスタオルに覆われた体も、全て。
その誘いがもし本物の誘いなら、俺は彼女に甘んじよう。
彼女を抱くことは、愛萍への背徳行為になる。
恐らく、壁一枚を挟んだ向こうで、決して味わうことの出来なかった行為が行われることを知り、それの声を耳にすることで、きっと愛萍はもがき苦しむだろう。
心臓を抉り取られるような苦しみに苛むだろう。
俺を不眠症に陥れた、最高で最悪の、復讐だ。


 *


「……抜いて」
突然、男は私の右腕を掴むと、中で動かしていた指を引き抜いた。
「あっ…」
そして、男は私の濡れた右手を取り、それを自分の口元に引き寄せると、濡れた箇所を丹念に舐めて拭き取った。
思わぬ男の行動に私は焦るが、男は落ちついた様子で拭っている。
一通り拭い終えると、男は口を開く。
「下、脱がしてくれないか?」
足元で絡まったままのパンツと下着を指差しながら、男は微笑む。
私も笑み返しながら、男の足元にしゃがみ込むと、残っている衣服を体から取り、傍に置いた。
ふと見上げると、男は着ていたジャケットと脱ぎ、シャツのボタンに手をかけていた。
一つ一つの釦を外す度に見えてくる、男の素肌。
見るからに普段から鍛えていることが分かる、肉付き。
全てが肌蹴た時、私は思わず感嘆の声を上げてしまった。
厚い胸板、割れた腹筋、がっしりとした三角筋…。
「あなた、本当に風水師なの? …あっ」
思わず零した言葉に我に返る。
でも、男は窘めない。
「…君も知ってたんだね、俺のこと」
「そうじゃないかなって…それだけよ、黙ってた訳じゃないの」
「この街では、俺は否応なく有名人なんだよ。きっとこのこともすぐに方々に伝わるさ」
「…ごめんなさい」
「怒ってないよ、全く。さあ、立って」
男に言われるがまま私は立ち上がると、男は私の両腕を肩に乗せ、無防備になった私のバスタオルを徐に外した。

刹那の沈黙が互いの間に降りる。
私の裸を男…いや、彼は、何度も上から下へ、下から上へと、見つめる。
それだけで私は淫靡な気分になってしまう。

露になった私の乳房を見つめ、そして両手で触れ、揉み扱き出す。
広く大きく開かれた彼の掌はゴツゴツしているのに、涙が出そうなほど、優しい。
上に、下に、楕円を描くように、時折掴むように、五指を巧みに使う、愛撫。
目前にある彼の眼差しは私の目を見ていた。
「…上に、乗ってくれるか?」
私はその言葉に「喜んで」と答えると、彼は体をより深くベッドに腰掛け直した。
体をより彼の体に近づけると、反り立つ彼の分身が下腹を撫でた。
しっかりと天に向かって立っている熱い棒の回りは、今か今かと私を待ち構えているように濡れていた。
両膝をベッドの上に置き、彼の腰を挟むような形で、立ち上がる。
若干、彼を見下ろす恰好になり、彼の顔が私の胸の谷間にすっぽりと埋まる。
彼の両腕は私の胸から腰と背へと滑り落ちると同時に、今度は彼の唇と舌が私の胸を掌に代わって愛撫をする。
「柔らかいな…。形も大きさも、俺好みだ…」
無性に嬉しかった。
軽く乳首を噛まれ、思わず、小さく声を上げる。
彼の双方の腕が位置を決め、その場所から離れない。
後は私が彼の中に入るだけ。
「おいで…」
耳元で囁く熱っぽい彼の声がゾクリと背筋を刺激する。
一度、体を沈め下腹で彼の分身を撫でてから立ち上がり、分身の先端の上で何度か自分の牡丹を添わせ、彼の表情を私は見る。
思わぬ刺激に彼の表情は桜色に歪み、喉は唾を飲み込む動作をする。
「……入れるわね」
私はそんな彼の表情を眺めながら、先端を牡丹の中心にあてがい、上半身を気持ちほど彼の体に委ね、ゆっくりと彼の分身を体の中へ誘った。
「……はぁ…っ…」
彼の恍惚に喘ぐ温かい息が、私の胸元に吐き出される。
やっと納まるべき場所に納まることの出来る、安堵の溜息。
それを受け入れる私の牡丹は、彼の大きくなっている分身を花弁の中に誘うのに、苦労していた。
思った以上に幹が太く、勢い良く入れてしまうと確実に激痛が走るだろう。
たとえ濡れていても、私は慎重に彼を受け入れる。
じっくりと、ゆっくりと、彼そのものを味わうように、私は含んでいく。



先端が、牡丹の奥深くまで入ったのを感じると、私は彼を見た。
満足げな表情を浮かべながら、私の方を彼は見ていた。
「お待ちどうさま…」
「…疲れただろう?」
「少し」
私がそう言うと、彼は背中に回していた掌を私の後頭に移動させる。
何度も頭を撫で上げられるうちに、束ねていた髪の毛が解けた。
ばさりと音を立てて落ちる、私の胸近くまである、長い髪。
掌は更に移動し、顔に掛かる髪の毛を払いながら、私の頬を包んだ。
大きくて頼もしい彼の掌。
それは頬から首筋へとまた更に移動する。
つられて私も、彼の肩に預けたままの両腕で、彼の顔や肩を撫でる。
互いに下は繋がったまま、上は遊んでいる。
触れて、撫でて、噛んで、じゃれ合う。
不意に目が合う。
ほんの少し動けば、互いの唇が触れ合ってしまう、そんな位置で。
何度も目を合わせているのに、これほどまでに熱を帯びた彼の目を見たことがない。
「………」
沈黙。
視線を外すことを拒む、無言の空間。
瞼を閉じれば地獄に落とされそうな感覚。
肉棒を満たすために口を売ることはあっても、決して、客の唇を満たすために口は売らない。
それが、この商売の鉄則。
唇に触れることは、客と一線を超えたことになってしまう。

…客?
この人は私の客?

私は目の前で私を見つめている彼の視線に問いかける。
貴方を客として、私は相手しているのだろうか。
その時、私の指に彼の指先が触れる。
諮詢する私の思いを力なく地面に向けて垂らした私の両手を、彼の両手が掬い取り、双方の指に彼の指が絡まる。
私の思考を彼の指が止める。
しっかりと絡まれた指から伝わる、彼の手の感触。
彼の顔に笑みが浮かんだかと思うと、私の顎先に彼は自分の唇を当てた。
思わず瞼を閉じてしまう。
柔らかな彼の唇は、私の唇を横に逸れ、頬、瞼、額、眉間、鼻筋、そして鼻頭をなぞり上げ、ところどころで軽く押し当てる。
「あ…」
私には信じ難く、決して自分がすることもない愛撫に、声を上げてしまう。
そして、鼻先に触れていた彼の唇がそっと離れる。
再び、目前に現れる彼の顔。
彼が私に何を求めているのか、痛いほど分かる。
それにきっと、私はそれを今、欲しているのだと思う。
下の牡丹が満たされた今、私は自分の全てを満たしたい衝動に突かれている。

偽りでもいい、一瞬だけ。

私は暫し彼を瞳を見つめ、そして、彼の軟らかな唇に自分のそれを当てた。





 《終》