The First Step

 
EVANGELION ; If stories ; Ryoji Kaji and Misato Katsuragi "drei" 





スパーク。
その後、胸が疼く。
軽く後ろから鈍器で殴られた錯覚に陥る。
小脇に抱えたノートパソコンが滑り落ち、床に叩きつけられる。
ケーブルコードがダラリと床の上で横たわる。
その大きな音に振り向く、その頭。





幻だと思った。





あの時から、寝ても覚めても、気が付けば彼のことしか考えてなかった。
日を増すごとに彼への思いは強くなり、それに歯止めが効かない時もあった。
手を伸ばしても彼の癖毛は私の指に絡むことはなく、温かな頬やチクチクする髭に当たることもなく、何度も私の至るところを愛撫してくれた指に触れることはなく…。
月明かりしか入らない部屋の中で、彼への思いを募らせながら、暗がりの中に腕を伸ばし、虚空しか掴めないことを悟る度に、止めど無く涙が溢れ零れた。
その度に私は彼の名前を呼び、同時に込み上がる哀しみと怒りと虚しさの混じった嗚咽を喉の奥で潰してきた。
辛かった。
ただ、辛かった。
これほどまでに辛い思いをしたことが、今までにあっただろうか。
それほど私は彼を失ったことへ悔恨の思いを虚空に馳せた。





目の前に立っているそれは、虚構なの?
自分に問いかけてみるけれども、私は「分からない」と答える他ない。
ベンダーコーナーの一角に設けられた喫煙場で、ごく普通にタバコを蒸かしている。
遠目で見ても、吸っている煙草の銘柄は分かる。
咥えているタバコのフィルターの色を見るだけで、それが彼が昔から好きだったタバコなのが、私には分かる。
毎朝出勤前に遺影の前に線香代わりに焚いた、彼の好んだ銘柄のタバコ。
彼の代わりに私がそれを吸い、遺影に手を合わせる。
彼は「死んだ」と頭で理解し遺影を作り毎朝タバコを吸うけれど、私には未だに彼が「死んだ」ことを心で理解しようとしなかった。
突然消えて、また突然ヒョコっと後ろから抱き締めてくれそうな気がした。
私の心と身体は、現実に彼を失った時から、別々の道を歩んでいるように思えた。
身体は彼の遺志を継ぎ目前の敵を殲滅するための道を選び、心は永遠に彼を求める道を選んだ……日増しに二つに分かれた道は全く違う方角に向かって歩みだし、それらが再び邂逅することが出来ない、そんな状態。





まるで、起きているのに眠っているような感覚だった。
目の前のものを目で捉えているのに、それを認識していない頭。
それを拒絶しているのが分かる。
認めたくない自分とそうでない自分が存在している。





どうしてそこにいるの?

あなたは亡霊なの?





それの視線と私の視線が交錯する。
タバコの煙を燻らせながら、それの視線は私を捉えて離さない。
同時に私の視線もそれを捉え、まじまじと見据える。
やや茶のかかった色の癖毛は後ろで一つに束ねられ、顎には不精髭が生えている。
長身の身体には、どこもかしこも皺だらけなスーツが着けられている。
まぎれもなく、姿を消す前の彼の姿、そのもの。
私は目を閉じ深く呼吸をする。
何度も何度も、私は自分を落ち付かせるために、空気を吸い吐き出した。
それを嘘だと信じたい自分と、そうであってほしいと望む自分が、同時に存在する。





「今更、何?」
「アナタ、加持君の遺品を持ってるでしょう?」
「……加持君の、遺品?」
「ええ、何か持ってるかしら?」
「……」
「別に物じゃなくてもいいの。毛根でも、タバコの吸殻でも、掴んだまま洗ってないコップでも、何でもいいわ」
「どうする気なの?」
「サルベージするのよ」
「……!?」
「失われた加持君の肉体をこの世に戻すの。シンジ君の方法とはまた違う、サルベージ実験よ」
「リツコ…あなた、死者を愚弄する気?」
「……ミサト、お言葉を返すようで悪いんだけど。あなた、加持君は『死んだ』と本当に思っているの?」
「……!」
「……ミサト、誤解しないで」
「……」
「私は加持君が『どうなった』かなんて、全く知らない」
「……本当に?」
「ええ、本当よ」
「私も副指令の拉致事件以降、加持君の姿を見てない。それは神に誓って、本当よ」
「……信じるわ」
「ありがとう」
「それで?」
「……私も、あれ以降加持君が私たちの前に姿を現してないことや、諜報部の動きがやや収まったことを考えて、加持君の身に恐ろしい現実が襲ったことは否めない……つまり、彼は『消された』ってことを…想像した」
「……………」
「……ただ、」
「……ただ、何?」
「ただね」
「ただ、何なの?」
「もし、彼が既にこの世から消えていたとして、彼が消える前に持っていた何か…彼が身に着けていた物や触った物から彼のDNAが採取出来たら、それを使って彼を蘇らせることが可能かも知れないのよ…」
「……でも、それは研究段階なんでしょう?」
「今のところはね、理論上の域を越えてないわ」
「………加持君の残してくれた物を、アンタの研究のために貸せないわ」
「………86.25%の可能性があるとしても?」
「………」
「……どう?」
「その数字の根拠は?」
「MAGIよ」
「………」
「お願いミサト、私に償わせて」
「……何を?」
「今までの『嘘』と『沈黙』への償いを、」
「………」





ノートパソコンの内部が入れ物から飛び出、足元に散らばっていた。
それらを丹念に、スーツ姿のそれは私の足元で屈んだ姿で、既に入れ物だけの存在になったパソコンの本体の上に拾い上げていた。
咥えタバコをしたまま、それは黙々と小さくなってしまったパーツを摘んでいた。
私はその姿を無言で見下ろすように眺めていた。
屈んだその体格も、消える前のそれと同じで、私は動揺していた。
姿は彼そのものでも、思考は全く彼でなければ、自分の足元で蠢いている巨躯のそれは、ただの生き写しでしかない。
それに声を掛けるのが、私は恐ろしかった。
予想している反応と違う反応をされたら、私はきっと苦しみに押し潰されて泣き出してしまうだろう。
本当はそうであってほしいから…その願いを砕かれたくなくて、声が出なかった。
散らばったほとんどのパーツを拾い終えたそれは、ゆっくりと顔を私の方に向ける。
私の頬はたちまち強張り、喉の筋肉が張り、全身が固まる。
それの瞳が私を捉える。
優しさに満ちたその眼差しは、二人きりになった時にしか見せなかったそれと同じだった。
そして、両方の口元が吊り上がる。





「俺の託したこと、お前、しっかりとやってくれたんだな」





懐かしい声、鼓膜に触れる優しい声、ずっと聞きたかった肉声。
途端に全身の筋肉が解れ、床の上に膝から崩れてしまう。





「加持君…!」





その私の身体を彼は両腕で支え、自分の腕の中に収めてしまう。
僅かな間の抱擁、私の額と頬への彼の口付け。
紛れもなく、それは彼そのものだった。
虚空に手を伸ばし求めた彼の姿が、今、私の前に再び現れた。
もう二度と触れることの出来ない彼の頬が私の頬に触れる。





「逢いたかった、ずっと」





嬉しかった。
でも、涙は出なかった。
彼のために流し続けた涙はいつしか枯渇し、泣くことを忘れてしまっていた。
でも、嬉しくて、本当に嬉しくて、私は彼の大きな胴に私の腕を回し、彼の感触を確かめていた。





「私も、逢いたかった……ずっと、この身体に触れたかった」





リツコに托したのは、彼の直筆の手紙だった。
私の涙が染み込んだ一枚だけは外し、それ以外をリツコに渡した。
きっとそれになら、彼の欠片が僅かでも染み込んでいると思ったから。
そして、本当にリツコは彼を黄泉という世界からサルベージし、彼は戻って来た。
私の心と身体が別々に歩んだ道は互いに大きな弧を描き、再び一本の道に戻った。
彼は肉体を取り戻し、私は私自身を取り戻した。





「リッちゃんに感謝しなきゃな、俺達」





私は加持君の胸元に顔を埋めた。
ずっと、こうしたいことを願い続けた。
それが出来る喜びは何物にも変えられない。
私たちはただ互いの身体をひしと合わせていた。
布ごしの抱擁でも、互いの体温を感じあっていた。
そして、それを再び感じあえる現実に私は感謝をした。
絶望を胸に抱きながら、亡霊のように生きていた私。
彼の存在がどれほど自分に必要なものだったかを思い知らされた。
そして、彼への愛しさが更に増していった。
もっと愛していたら、もっと自分に素直であれば。
情愛と後悔が同時に募り、哀しみの帳が私を包んだ。
だが、もう帳は煌煌と輝く朝日と共に消え、朝日は望人を従えた。





「…ホントに。後でお礼を言わなきゃ…」





しばしの抱擁の後、加持君は私から片手以外を離し、私が来た道を指し示す。
そして、厳しい眼差しをその方に向けたまま、彼は呟く。





「俺はお前と逢いたかった。それに、俺は愚行を止めたいと願った。俺やお前の味わった苦しみをこれ以上、シンジ君やアスカ、それから多くの人々に味わって欲しくない……」





ゆっくりと彼の目が私の方に向く。
その視線は、私が今までに見た中で、最も真摯な眼差しだった。





「俺は神となるべきものをこの手で殺しに行く……俺に付いて来てくれるか?」





私は結ばれた手に力を込める。
彼の言葉は私が求めていた全てだった。
今更、神を庇護するものに執着する気はない。
されど、人が無益な殺生をすることにも肝要ではない。
血に濡れた世界で長い間、聞かれることもなかった言葉が私の脳裏で何度も反復する。
それを口にすることもおこがましく、ただ私は彼の言葉に頷く。





「……この手を離さないで」





私の言葉に彼は握っていた手に力を込める。
その先にどんな結末が待っているのか、私には分からない。
でも、私は恐ろしくなかった。
彼と共に居れるのなら、どんな地獄も天国だ。
私は一度彼を失った時、私は全てを彼に捧げた。
それは今も変わらない。
私は彼と共に行く、この血に濡れた世界に一輪の花を咲かせるために。
これ以上、人類が不幸にならないために。



緩慢にヒトが漠然と一つならないことを、防ぐために。
身体が一つになるのでなく、心が一つになることを望んで。



私は、彼とその一歩を踏んだ。




≪了≫