オリジナル

■神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜■

−残酷な庭−

作・三月さま


 

神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜

−残酷な庭−

 

 

 時間は優しくなく、運命は過酷だった。

 

 数百年は戦っていたように思う。私が生まれる前から続いてた戦なのだから。少なくとも、三百年余りは過ぎているのだろう。長い戦いだった。陰惨な殺し合いだった。

 一族が二つに別れ、憎み合うことほど辛いこともないだろう。つい昨日までは、親しく付き合ってきた家が対立し、血で血を洗うような闘い繰り広げるのだから。中には、遠縁とは言え、血の繋がっていた者同士の争いもあっただろう。幼い頃には、仲良く遊んだような、友人同士も、ぶつかりあったのかもしれない。

 だが、それも今日で終わりだ。

 魔神を率いていた指導者二人は死んだ。そして、長を欠いた私達は、それ以上まとまることも出来ずに、新たな長を生み出した彼等に負けてしまった。

 深い森の緑が鮮やか過ぎて、目に痛い。飛び込んでくる光が眩しすぎて、たくさんの涙がこぼれてくる。

 あぁ、この土地はどうしてこうも、豊かななのだろうか。ほんの少し、軽い呼吸を繰り返すだけで、森の匂いが胸いっぱいに広がっていく。もう夕暮れ近いのに、どうしてこんなにも明るいのだろう。どうして、ここはこんなにも、優しい空気に包まれているのだろう。

 高台に立てられた屋敷の周辺いっぱいに、緑が広がっている。深い森だ。大地の魔神達が慈しみを込めて育てたのだがよく判る。森の木々は皆、優しかった。大切に、大切にされてきたのだろう。樹齢が百年を越えるかと思うような木々が、枝をいっぱいに広げて生い茂っている。そして、そんな森に溶け込むように、この屋敷があった。御館と言う名前を与えられている、『長』の住居だ。広々としていて、清々しい場所だった。じとじととした湿気に見回れることもなく、乾いた風が気持ちよく吹いている。

 御館に仕える女達は明るく、そして、朗らかだ。二年ほど前まで生きていた、前長の影響を受けているのだろう。私の敬愛するマゼリナ様と共に死んでしまった、憎い敵将は、それは美しい人だったらしいから。優しくて、暖かくて、それこそ、女神のような方だったと、母から聞いた。あの人が幸せそうな顔をして褒めた女性なのだから。きっと、とても素晴しい方だったのだろう。敵将でなければ、私も、慕ったのかもしれない。

 そんな敵将が住んでいたと言う屋敷は、本当に居心地のよい場所だった。敗戦が決し、私が囚われの身となってから、何十回ほど月が沈み、満ち欠けていったが、不都合を感じたことは一度もない。御館に仕える下級魔神の態度や、あからさまな嘲笑には腹が立ったが、部屋に篭る分には、不満のない空間ではあった。

 すぐ近くに、鬱蒼とした森があるから、安心できるのかもしれない。慕っていた私達の長を思い出させるような、水の匂いが乏しいから、泣かなくてすむのかもしれない。ここは、馴染んだ土地とは違っていた。ここには、目も眩むばかりの光と、乾いた風と、そして、暖かい炎があった。

 敗戦が決まる直後まで住んでいた城には、こんなものはなかった。あそこは確かに、水と闇の加護のある場所だった。水の王とも言われたマゼリナ様と、その弟君であるジャジャ様がいらっしゃたのだから。その分だけ、精霊達が慈しみと、守護を与えてくれるのは、当然のことだったのだろう。大地の恵みも豊かだった。母もまた、優れた大地の魔神だったから。あの土地は闇が勢いを増しただけ、光の乏しい場所だったが、それでも、食べるのには困らなかった。常に、あちこちに、大地の精霊達がいて、寂しいけれど奇麗な歌を紡いでいた。草木も穏やかに繁っていた。

 ここは異郷だ。私が故郷としていた場所とは、まるで違う。

 敵の居場所なのだ、所詮は。そして、私はそんな場所に囚われた、惨めな女だった。

 

 かつて、この地で魔神達を二つに分ける戦が起こった。

 女神と見間違うばかりの美しさを持ち、深い慈愛を秘めた光の魔神ルシアが導いた、島に残った者達。

 そして、冷徹な心を持ち、強大なる力を持った水の魔神マゼリナが率いた、新天地へと飛び立った者達。

 きっかけは、本当に些細なことだったのだ。島を離れ、大陸へと向かった者達のうち、一人が、ふと里心を起こして戻ってきた。そのころは、まだ、二つに別れた一族も、そう、疎遠になっていた訳ではなかった。むしろ、片方は故郷を守る者達として団結し、旅立っていった者達の無事を祈っていた。そして、祈られる側もまた、懐かしい島に残り、もしもの場合に備えてくれている親類達に、深い信頼と、懐かしさを寄せていたのだ。その優しい気持ちが壊れたのは、ほんの些細な出来事がきっかけだった。

 新天地での開拓状況を伝えるために、故郷に戻った若い魔神の一人が、問題を起こした。彼等を歓迎するために開かれた宴で、羽目をはずしたのだ。血気盛んな上位魔神の青年が、娘に手を出した。

 彼にとって運が悪かったのは、その娘が、中位程度の力の持ち主ながらも、父親に上位の、それも、かなりの地位を占めている魔神を持っていたことだろう。

 その頃からすでに、魔神は、力の差による階級制度の不備を持ち始めていた。戦のきっかけとなった小さな不和も、それにともなう弊害だったのだろう。

 上位であるがゆえに奢った青年が、中位の若い、美しい娘に手を出し、傷物にしてしまった。浮かれていたからと言って、許される行為ではなかっただろう。彼女の父親が激高し、彼に手をかけたのもまた、仕方のないことだったのかもしれない。

 青年が死に、残った新天地からの魔神達が激高した。小さな騒ぎが起こり、また、負傷者が出た。

 島に残っていた者達を纏めていた、光の魔神ルシアがそれと気が付いた時にはもう、取り替えしの付かないほどの騒ぎになっていたと言う。新天地からの使者は、村の者達に囲まれ、私刑を受けていた。最初に、青年を殺した父親は、英雄のように祭られ、傷物にされた娘は、まるで、悲劇の主人公のように扱われていた。

 この村での事件は即座に大陸側に伝えられ、そこで、村を起こし、発展させていた魔神達の耳にも届いた。

 それが、あの長い、陰惨な争いの、始まりだった。

 

 ようするに、皆、愚かだったんだろうね。

 ユリアスがそうつぶやくと、彼の目の前に座っていた黒髪の青年が、困ったように顔をしかめた。

「……あの、兄上、なにもそう、おっしゃらなくても、いいのではないですか?」

「だって、愚か者は、愚か者だろう?」

 小さく微笑みながら、ユリアスは軽く肩をすくめてみせる。

 魔神の若い長は、穏やかな動作で立ち上がると、そのまま、戸の開け放してある縁側へと、静かに歩いていった。長が、部屋から出ていこうとするのを見て、黒髪の青年が慌てて、その後を追う。

 夕刻も終わりに近い時間帯のためだろう。縁側付近はもう、明りでもなければ、石の一つも見分けられないほどに、暗い影に覆われてしまっている。御館を囲む鬱蒼とした森が、その薄暗さに一層の拍車をかけていた。夏の終わりを告げる虫の声が、あちこちから響き渡り、耳を覆いたくなるほどの騒音となっていた。

 そんな、次第に濃くなっていく闇の中、ただ一箇所、ユリアスがたたずんでいる付近だけが、ぼんやりと光り輝いていた。母親譲りの魔力が、彼の体そのものを発光させているのか。星のものよりもなお鮮やかな輝きが、彼の体をふんわりと包み込んでいた。

 ユリアスは、藍色から、黒へと変わりつつある空を見上げながら、その色素の薄い金の髪を軽くかき上げた。父親譲りと言われている、青い瞳を天へと向け、軽く吐息をつく。その様は、男性然としているにもかかわらず、美しかった。弱々しい、軟弱な可憐さではない。あくまで、男としての力強さと、逞しさに満ちている。それでもなお、彼を美しいと思わせるのは、その顔立ちと、立ち居振るまいから感じられる気品から来ているのだろう。

 先の長である光の魔神ルシアのただ一人の子だけあって、彼の面立ちは大層整って見えた。穏やかさと可憐さで知られていた母親の、特筆すべき美しさを全て受け継いで生まれてきたのだろう。彼の見せる蔑みの表情に衝撃を受け、上位魔神が一人、自害騒ぎを起こしたこともある。

 そんな、女よりもなお美しく見える顔を持つ長だったが、体格そのものは、がっしりとした男のものだった。長身で、骨格がしっかりしている。その上に、必要な筋肉を付けた体つきは、彼の傍らに立つ黒髪の青年ほどではないが、実践にたるだけの逞しさがあった。

「……ウォウサ」

 ユリアスは、視線をゆっくりと動かしながら、自分のすぐ横に控えるように立つ青年を見た。

 それに、黒髪の大地の魔神は、何かと言うように軽く首を傾げて見せる。

「どうしました、兄上?」

「お前の……。姉君はどうしてる?」

 再び星を見上げながら、ユリアスは小さく笑う。

「彼女はまた、部屋にお篭りなのかな?」

「……三日ほど、私も姿を見ていませんが」

 長身をちぢこませながら、ウォウサは申し訳なさそうな顔をした。体格に似合わない小心者は、手持ちぶさたに軽い咳払いをし、ゆっくりと首を横に振る。

「私は、幼い頃に……」

「人質」

「そう、人質になっていたこともあり、兄上によくされていたから。敗戦も、そう、気にならないのかもしれません」

 もう一度、軽い咳をし、ウォウサは口を閉じる。

 大地の魔神は、緑の瞳を伏せ、がっくりと肩を落とした。どうにもなりませんと、呻きながら、両手で顔を覆う。

「私は、『裏切り者』なのでしょうか?」

「どうしてだ?」

 馬鹿なことを言うなと、ユリアスは笑った。冷たい笑みを浮かべながら、うつむいているウォウサの肩を軽く叩き、黒髪をぐしゃぐしゃとかき回す。

「誰か、何か言ったか?」

「皆、言います」

 顔を伏せたまま、両手をだらりと落とし、大地の魔神は乾いた笑い声を立てる。

「大地のラルバの息子だと言うのに、貴方にへつらっていると。一族を裏切り、仇のある者達に追従していると。そう言います」

「……なるほどね。負け犬の遠吠えだな」

 ユリアスがにっこりと笑った。楽しくてならないと言うように肩を揺らしながら、長は口元を歪め、目を細めた。

「お前の姉君も、そう思ってらっしゃるのかな?」

 青い瞳で空を見上げながら、ユリアスは困った方だとつぶやいた。星を掴もうとするように、右手を差し上げ、ぎゅっと手を握り締める。その、握った拳をゆっくりと開き、緩やかに彷徨わせる。そうやって、何かを求めるように、手を動かしながら、長はもう一度笑った。

 ユリアスは、押し黙り肩を小さく震わせているウォウサへと目を止めると、どうしたものかと言うように、思案顔になった。兄と慕ってくれる大地の魔神の背を軽く叩き、部屋に入るように促し、ぐいぐいと、彼を押し遣る。その途中、長はふと思い出したように、手を止めた。それに気が付いたウォウサが、どうしたのかと不安顔で振り返った。

「兄上?」

「一つ言うのを忘れていた」

 今日、それを言うために、呼んだはずなのに、忘れていたよと、長は笑う。

「停戦をしたのはいいのだがな、どうも、お前達の一派が、迫害されているようなんだよ」

 先に立って、縁側へと上がりながら、ユリアスは困ったものだと嘆いた。

「マゼリナを慕っている連中も、どうも、私が気に入らないらしくてな。何せ、彼を殺した女の子供だからな。私は彼等を嫌うつもりはないのだが」

 難しいことだよと、長はつぶやく。

 ユリアスは、縁側から部屋へと戻ると、すっかり暗くなってしまった空間に、一つ、二つと明りを灯した。彼の魔力の属性からくる光を、ぽいぽいと、部屋に投げ込んでいるのだ。生み出された白い、純粋な光は、ぽろぽろと床にこぼれ落ちると同時に、まるで意思を持つかのように、四方へと散らばり始めた。天井に張り付くもの、転がりながら、部屋の隅へとたどりつくもの。様々にだ。そうやって、十何個もの、掌大の光の球が部屋へと投げ込まれて、ようやく、昼間程度の明りが生まれた。その明るく照らされた空間を、大股に横切り、長は彼の席である上座へと腰を下ろす。

「私も、どうにか、彼等を纏めたいのだよ。それでな、一つ、いい案が出た。昨日の話し合いでな、伯父上が面白いことを言い出したのだ」

 ウォウサに座るように示しながら、長は低い笑い声をもらした。その表情が、あまりにも楽しそうだったためだろう。大地の魔神もまた、強ばっていた顔を僅かにゆるませ、ぎこちなく笑う。

「どういう案を、カーティス様は出されたのですか?」

「お前の姉上の婚儀だ。私とのな」

 胡座をかいたまま、片膝を立て、その上へと、利き腕の肘を乗せる。そうやって、くつろいだ態勢で、長はどうだろうと言うように、問いかけるような視線を大地の魔神へと向けた。

「彼女の弟として、お前はどう思う?」

「兄上……」

「ウォウサ、お前は、どう考える?」

 にっこりと笑いながら、ユリアスはその青い瞳を細める。

 その優しげだが、どこか冷たさを感じさせる表情に、大地の魔神はさっと顔色を変えた。面を蒼白にさせながら、信じられない者を見るかのように、長を見つめ、目を何度も瞬かせる。その果てに、ウォウサは呻くように、低い唸り声を立てた。鎖に繋がれた手負いの獣のように、敵意に満ちた表情を見せながら、兄とも慕っているはずの光の魔神を厳しい視線で見据える。

「兄上、貴方は……。我が姉を、笑い者になさる気か!?」

「……どういう意味だ?」

 悠然と構えながら、ユリアスは大地の魔神の激高ぶりをせせら笑った。

「お前、何を考えている?」

「姉を……。あの人を、側室の一人にでもしようというのか。そうやって、下女同然に扱うつもりか!?」

 大地の魔神は、声も限りに叫ぶと同時に、床にどしりと足を踏みしめながら、立ち上がった。大岩のような巨体で、動じた素振りも見せない長を見下ろし、ぐっと拳を握り締める。

「数ある妻の最下位に置いて、姉上を辱める気か!?」

「……妻は一人だ」

 膝の上に乗せていた手を持ち上げ、長い金の前髪をかき上げながら、うんざりした口調で、ユリアスは言う。

「妻は一人。側室は持たない。正妻だけだ。俺は、彼女だけを妻にしようと思う」

「兄上……?」

「マゼリナについた者の中から妻を取るのが一番だと言われた。そうするのが、一族を纏め直すのに、最短の道だと、伯父上は言ったのだ」

 ウォウサに座るように示しながら、長は疲れきった表情で薄く笑った。

「マゼリナには、子供はいない。そういうことになっている。ジャジャにも子はいるが、いまだ、あの子は幼い。俺と釣り合うのは、ティナしかいない。もっとも……」

 そこで、ユリアスはふと、悪戯を思い付いたと言うように、楽しげに笑った。意地の悪い表情で、立ち尽くしているウォウサをそっと見上げ、くつくつと低い笑い声を立てる。

「一番、年が釣り合うのは、お前なのだがな。どうだ、姉の代わりに嫁ぐか?」

「兄上!」

 何を馬鹿なことをそ、大地の魔神が真っ赤になりながら、地団太を踏む。そんな、『弟』の仕草に、長は可笑しくてならないと言うように、からからと笑った。

「冗談さ。私だとて、お前のような図体のでかい男など、ごめんだよ」

「ご冗談が過ぎる!」

「あぁ、過ぎた冗談さ」

 乾いた笑みを見せながら、ユリアスは軽く手を振った。

 座れと、長が命じたのを渋々と聞きながら、大地の魔神がどさりと腰を下ろす。そうやって、座ってみてもなお、彼はまだ、ユリアスよりも一回りも、二回りも大きかった。大岩を持ち上げ、大木を引き抜き振り回したと言うのは、伊達ではないのだろう。熊のようだと、長がぼそりともらしたのに、大地の魔神はそれがどうしたとばかりに、ふんと胸を張る。

「そんな大男の姉を妻にしようとしているのですよ、貴方は」

「お前と違って、ティナは大地の魔神にしてはずいぶん華奢だからね。まったく、誰に似たのかね。母親と違って、胸も小さい」

 私はふっくらした女が好きなんだと、長がぼやいた。

「まぁ、いずれにしても。これは、一族の意向で、勝者の要求だ。ティナには飲んで貰わなくちゃならない」

「……はい」

「どうしても嫌そうだったら、今夜のうちに逃げるように言っておくといい。同胞全てを見捨てる勇気があるのならば、だけどね」

 くつくつと、低い笑い声をもらしながら、長はゆったりと目を細めた。

 

 昔は、もう少し優しい人だと思ったんだが。

 長の私室から辞しながら、ウォウサ・ティルヴェスは小さなため息をついた。ゆっくりと、暗い廊下を進みながら、顔をしかめる。御館で囚われの身となっている姉の部屋と向かいながら、彼は何度も、何度も、低い呻き声を上げた。

 途中、この屋敷に仕えている中位の魔神達と数人、擦れ違った。いずれも、見目麗しい若い女ばかりだ。親や親族が、こぞってここへ送り込んできたのだろう。一人だけだが、上位魔神とも行き会った。やはり、侍女達のまとうような、柑橘色の上下をまとっていた。彼女もまた、魔神を統一し、その上に君臨するようになった『王』の側にはべるために、ここに来たのだろうか。

 ウォウサは、手ごろな飽き部屋を見つけると、そこにそっと滑り込んだ。明りも灯らない、その暗い空間に身を沈め、どかりと、座り込む。

 正直言って、少し、疲れていた。

 停戦がなったのは、空にかかっている月が、丁度、今と同じくらいの大きさの頃だっただろうか。二十日は軽く越えている。ごく最近のことだ。そのときになってようやく、姉は降伏してくれた。

 大陸側の魔神が不利になり始めたのは、二年ほど前からだっただろうか。数百年も続いた戦だと言うのに、いったん状況が壊れると、勝敗はあっと言う間に決してしまった。

 敗北の兆しは、魔王とも言われ恐れられていた水のマゼリナが死したころからあったのだ。確かに、彼は島側の指揮者であったルシアと相打ちした。だが、こちらの損傷の方が多かった。

 あの強大な水の魔神の死とほぼ時を同じくして、ウォウサの母たる大地の魔神が死んだ。彼女もまた、大陸側にとっては、重要な戦力であり、支配者だった。こちら側が、そうやって、二人の主要人物を同時に失ったのに引き替え、島側の損失はただ一人、光のルシアだけ。しかも、島側はある程度、彼女の死を予測していたらしい。指導者を欠いたと言うのに、彼等はほとんど動じなかった。それこそ、非情と思えるほどの冷静な判断を下しながら、大陸側を責めたててきた。

 俺達が敗北したのは、結局指導者の質によるものなのだろうがな。

 闇の中でどっしりと胡座をかきながら、ウォウサは小さく笑った。膝に手を大き、挑むように暗い部屋の宙を見据え、にやりと口元を歪める。

 あの、新しい長の冷淡なことよ。

 兄とも慕っている魔神だったが、どうにも、ウォウサの目には、彼の非情さが目立って仕方がなかった。

 昔は、もっと優しい人だったのだ。子供のころ、闘争の傍ら、ウォウサは一時、人質になっていたことがある。双方で、度々起こったことだ。何しろ、魔神の子供は成人するまで、とことん弱い。さらうのも簡単なら、殺すのも容易かった。そんな状況の中で、子供達が人質になりながらも、決して傷つけられなかったのは、魔神と言う種の弱さゆえだろう。また、それぞれの長が、甘かったせいなのかもしれない。

 島側では、その長たるルシアが、子供達を徹底して庇護していた。大陸側では、ウォウサの母である大地のラルバだ。彼女らは、まるで申し合わせたように幼子を守り、そっと、人質交換していった。敵陣にまで乗り込み、要人の子供をさらってきた魔神こそ、いい面の皮だ。だからと言って、子供を殺すことも出来なかった。何しろ、ルシア達のように、子供を慈しむ魔神はたくさんいたのだから。そして、その筆頭がまた、質が悪かった。炎のマリスに闇のジャジャ。双方の陣で、『長』を支える魔神が、かっかと怒り狂って、非道な民を罰していた。

 陰惨だったのは、結局、戦場だけだったのかもしれない。子供だけは、平和だった。同族争いだからか、魔神だからなのか。

「……ここも、思い出深い場所なのだがな」

 人質として囚われながらも、回りは優しかった。光のルシアはうわさ通りに美しく、そして、優しかった。彼女のたった一人の息子であるユリアスもまた、兄のような人だったのだ。頼りがいのある、強い魔神。その魔力は例えようもなく強大で、そして、腕前も立っていた。そのくせ、気質は心地よく、誰にでも明るく笑いかける。今のように、時に冷たい笑みを見せることなどなかった。決してなかった。

 これまで対立してきた二派を纏める上で、あの冷酷さは必要なものなのかもしれない。人を引き付けるだけの魅力は、すでにあるのだから。彼に必要なものは、もう、非情な決断を下すための、マヒした感覚だけなのだろう。

 それでも、どこか、昔の『兄』としての彼が懐かしい。

 今のような、暗い瞳を持つ長など、マゼリナだけで十分だった。

「……マゼリナ、か」

 光のルシアが死んだ後、あの兄が、長として祭り上げられたと聞いていた。そして、そんな傀儡であるはずの彼が、炎のマリスなどの助けを得て、島側の一族を掌握したことも伝え聞いた。

 恐ろしいほどの早さで、魔神を纏め上げ、彼はその穏やかな気質が嘘のように、大陸を責めたのだ。マゼリナを失い、混乱したままだった大陸側は、あっけなく破れた。砦がぱたぱたと落ちる。上位の魔神達が、後から、後から囚われていった。

 ウォウサもまた、早い時期に戦場に出て、そして、破れた魔神の一人だった。彼を負かしたのは、『兄』だった。ユリアス自ら先頭に立ち、戦っていた。そこで始めて、ウォウサはあの光の魔神の本当の強さと、冷酷さを感じたのだ。

 刃向かうものを容赦なくくびり殺し、遠縁かもしれない魔神の首をあっさりと落とす。最も強い魔神の血を引く青年は、強かった。それこそ、水のマゼリナを凌駕するのではないかと思えるほどの力を示しながら、彼は向かってくる上位魔神達を、纏めて血祭りに上げた。光の魔法で一瞬で消滅させるなどと言う手はとらなかった。彼は、向かってくる敵の腕をとり、それを、もぎ取るような手段を選んだのだ。首をねじきり、胴を断ち切る。見せつけるように相手の魔法をかき消し、恐怖に打ち震えている魔神の四肢を破裂させる。そういう残虐さだった。

「俺は、どうして、生き残ったのだったかな?」

 顎をのけ反るように暗い天井を見上げ、そっと目を閉じる。

 兄が、同胞達をあっさりと殺していく中、どうやって生き延びたか覚えていない。気が付いた時は、床に横になっていた。傷一つない体で、束縛もない状態で寝かせられていた。この御館の、どこだかもう忘れた部屋に、寝かされていたのだ。

 起きた時、最初に見たのは、困ったように笑っているユリアスだった。彼は、良かったと言いながら、微笑み、そして、去っていった。それだけだった。

 

 大地の魔神ティナに、婚礼の話を向けると、彼女は嫌にあっさりと、それを受ける旨を伝えてきた。直接には言ってこない。こちらが、ティナの弟を伝言に向けると、彼女もまた、その自分の弟を、返答の使者に使ってきた。決して、直接顔を合わせようとはしない。それは、彼女がこの御館に囚われの身になってから、延々と続いてきた習慣でもあった。

 何が気に入らないのか。あの大地の魔神は決して、ユリアスの前には現われようとはしない。彼を補佐している、それぞれの属性の長老達にも、挨拶一つしようとはしなかった。彼女が人前に姿を表わしたのは、囚われた日だけだ。

 引きずられるように御館に連れて来られた魔神は、敗者代表として、勝者であるユリアスと面した。

 勧告を経ての敗北だったためだろう。大地の魔神は、正装に身を包んだ、大層美しい姿で、ユリアス達の前へと現われた。長い黒髪を高く結い上げ、小さな輪を作る形で纏めていた。その艶やかな髪に、幾つもの白い花を飾っていた。水辺に咲く、浮き草の花だ。水の籠も豊かだった、大陸側の魔神の身を包むにふさわしい一品だろう。衣装が、覚悟を決めたと言う旨を示したいのか、純白の、それは簡素なもので、金や銀の飾り一つついていなかった。それでも、彼女の生来の美しさは隠しようがない。母親譲りの端正な顔だちも、凛としたたたずまいも、全てが可憐だった。それこそ、長老達の全てが目を奪われるほどにだ。

 その美麗な乙女の姿を、ユリアスはかれこれ、一月あまりも見ていない。何しろ、彼女はまるでそうすることが正しいのだとでも言いたげに、じっと、御館の奥に篭って出てこないのだ。別段、そうしろとこちらが強要した訳ではない。彼女には、監視役の魔神が伴についているのならば、どこに行ってもいいと伝えてある。もちろん、あくまで御館周辺での自由だ。だが、ある程度の気分転換くらいにはなるだろう。だが彼女はその自由さえ、放棄していた。じっと、与えられた一室に篭りながら、出てこようとしない。来客も、弟だけを受け入れ、他の者は例え、ユリアスだろうとも、決して通そうとはしなかった。

「嫌われているな」

 くつくつと笑いながら、小さく肩を揺らす。そうすると、茶をいれてくれていた侍女が、どうしましたと小さく首を傾げた。それに、なんでもないというように軽く手を振る。

「頑固な姫君もいたものだなと、思っただけだよ」

「頑固な姫……。あぁ、あの大地のラルバのご息女ですか」

 納得がいったというように、侍女が頷く。

 確か、この女は、ある上位魔神の娘だったはずだ。母親の力が影響したのか、中位程度の魔力しか持っていないが、父親の庇護のお影か、この御館ではそれなりの立場を保っているらしい。常々、ユリアスの側に控え、あれこれと世話を焼いてくれている。こうやって、お茶をいれるのはもっぱら、彼女の仕事だ。長い、赤い髪を緩く編み、侍女としての柑橘色の衣装を纏いながら、炎の魔神とは思えぬ繊細な立ち居振る舞いを見せる。それこそ、彼女は実は、風か、水の属性を持っているのではないかと疑いたくなるほどの、華奢な女だ。痩せぎすで、腕などまるで、枯れ枝のようだ。

 侍女は、お茶の注がれた湯飲みをユリアスの目の前に置くと、ふんわりとした笑みを浮かべた。誘うようなまなざしで彼を見つめ、可愛そうな方とつぶやく。

「ティナ様でしたっけ、あの姫君は?」

「そうだよ。ティナ・ティルヴェス。元々、母君の姓である『ガイアス』を名乗っていたらしいけど。だいぶ前から、それも返上していたらしいね」

「あら、どうしてですか?」

 不思議だというように、侍女が目を丸くする。

 魔神にとって、姓はある意味重要だ。自分がどういった血筋の者なのかを示す、最も手っ取り早い手段が、姓名なのだから。ユリアスならば、『ディアス』。最も貴い光の血筋という意味での名前だ。ティナが過去名乗っていた『ガイアス』というのも、大地の上位魔神としては、最重要視されている名なのだ。その貴い尊名を捨ててしまったことが、侍女にはどうにも理解出来ないらしい。

 ユリアスは熱い湯飲みを手に取りながら、仕方のないことなのだよと、小さくつぶやいた。

「何しろ、彼女はマゼリナ亡き後、必死に一族を纏めようとしていたからね。それが為らなくなったと判った時に、責任でも感じたのだろう。名前を捨てるくらいしか、彼女には出来なかったのさ」

「自害もできず?」

「あの状態で、彼女まで死んでいたら、それこそ、大陸側の魔神はおしまいさ。最後にはもう、魔族連中にまでちょっかいを出されていたからな。彼女がいればこそ、あいつらも保っていたようなものさ。私が、勝負を早くつけたかったのも、それが理由なんだが」

 例え敵対していたとしても、同じ血を持つ者が、魔族のなぐさみものになるなど、我慢できないからね。嘯くようにつぶやき、ユリアスは薄く微笑んだ。

 大陸側の魔神が、追い詰められていくのを、見ているのは楽しかった。そう言うと、侍女は驚いたような顔になった。そして、ころころと、可愛らしい笑い声を立てる。

「酷い方」

 女は艶然と笑いながら、そっと、身を寄り添わせてきた。その、やせっぽっちな体を、乱暴に押しやりながら、ユリアスは冷たく彼女を見据える。

「近寄るな」

 侮蔑するように倒れ込んだ女を睨み付けると、彼女はまるで、罵倒されたかのように、顔を真っ赤にさせて憤った。覚えていらっしゃいと、捨て台詞を叫び、這うようにして部屋から出ていく。その手足が震えているのを、ユリアスは目敏く見つけていた。女の腰が抜けているのも判る。そんなに怖かったのかと、長は両手で顔を覆いながら、くつくつと笑った。

 

 丘の上から見下ろすと、御館はずいぶんと小さかった。掌に乗るのではないかと思えるほどの、ちんまりとした建物でしかない。回りを囲んでいる森こそ、偉大だと思えてくる。

 巨木を幾つも切り倒して立てられた屋敷だ。何回も、立て直している。元々は、もう少し東の、山裾に建てられていた。そこが古くなったので、今の場所にもう一度、新しい御館を建てたのだ。その前にも、何度か、場所を移している。その度に、古い御館は、思い出と共に、炎の魔神によって焼き払われた。

 炎が、森へ移らないようにと監視するのは、風と水の魔神の役目だった。跡地に木々を上、慈しむのは大地の魔神の役目だ。そうやって、島の魔神達は象徴とも言える御館を、常に武骨な、尊厳のあるものとして保ってきたのだ。

 丘に迫り出している岩に座りながら、ユリアスが眼下に見える森を見下ろしていると、ふわりと、気配が近寄ってきた。誰かなと、振り返ることはしない。こんな場所まで来て、身近に迫ってから始めて、その存在を明らかにするような魔神を、彼は一人しか知らなかったからだ。だいたい、長にまでなった彼相手に、気配を消せる者自体が限られている。

「……マリスさん?」

 背中を向けたままそう尋ねると、背後まで迫った男は、けらけらと明るい笑い声を立てた。そこで始めて振り向くと、まず、赤い髪が見えた。燃える炎さながらの、鮮やか色合いだ。その下に、血のような色の瞳がある。そんな、陰惨な紅なのに、その目はとても優しい。

「よう、どうした、ユリアス?」

 炎の魔神は、にやりと豪快な笑みを浮かべると、手をぽんと、ユリアスの頭に置いた。てんで、子供扱いだ。昔から、この大柄で逞しい魔神は、ユリアスを幼子としてしか見ていない。生まれた時からずっと、同じ態度を取り続けているのだ。それが、長となった光の魔神には面白くない。

「……やめて下さいよ」

「まぁ、そういうな。久々なんだから」

 マリスはにやにやと笑いながら、頭をかき回してきた。先日、短めに切ったばかりの金の髪が、ぐしゃぐしゃにされてしまう。それに、慌てて抗いながら、ユリアスは止めてくれと、悲鳴を上げた。マリスの武骨な手を掴み、それを乱暴に押し退けながら、座っていた岩から飛び退くように立ち上がる。

「まったく。マリスさんは!」

「はっ。そういうところは、母親にも、父親にも似てねぇな。誰似だ?」

 可笑しそうに笑いながら、炎の魔神はからかうように目を細める。

 そんな彼の、悠然とした態度が苛立たしく、髪を整えながら、ユリアスはぶすっと膨れた。年齢相応の顔を見せながら、爪先で軽く地面を蹴り、ぷいっとそっぽを向く。

「マリスさんに似たんじゃないですか。実質、私は貴方に育てられたようなものだし」

「……その台詞、ルシアが聞いたら泣くぜ?」

「母は、母としてです。貴方は、まぁ、父親代わりのようなものだから」

「そりゃ、光栄だな」

 本当に嬉しそうな顔をして、マリスは笑う。

 さっぱりとした気質の炎の魔神らしく、彼はよく笑い、よく怒った。ちょっとのことで、むかっと不機嫌になるくせに、すぐに、そうなったことを忘れてしまうのだ。気風もよく、慕われていた。

 本来なら、ルシア亡き後、一族を纏めるのは、彼だったはずなのだ。実力的にも名声的にも、彼が最も的していた。だが、マリスはそうしなかった。『長』亡き後、彼女の遺児たるユリアスを守り、立てながら、一族を率いた。あくまで、補佐として立ち回りながら、ユリアスに全権を渡し、そして、彼がどうにか独り立ちし始めた頃合を見計らって、山奥へと引っ込んでしまった。

 元々、彼が山を根城としてうろつくような質であることを、ユリアスも知っていたから、そう心配はしていない。何しろ、子供のころから、マリスに構ってもらっていたのだ。彼がどういう気質の魔神なのかも、何を好んでいるのかも、判っているつもりだ。そうやって理解しているのに、彼がなそうとしていることを止めるつもりにはなれなかった。

 どうせ、どこかで見ているのだから。こっそり様子をうかがいながら、良くやっているなと褒めてくれるのは判っている。こうして、どうしようもなくなった時、丘に来れば、会えることは判っていた。止める必要などなかったのだ。戦で、最も敵を葬ったこの炎の魔神が、纏め直した一族の中、いずれ孤立するのは自明の理だったのだから。彼のしたいように、自由にしてやることこそが、親切ではないのだろうか。

 炎の魔神は、先ほどまでユリアスが座っていた場所に陣取ると、やれやれと言うように軽く肩を回した。疲れているのかと問うと、馬鹿にしたような顔で笑われた。そんなじじぃな年じゃねぇよと言い返しながら、マリスはにやりと口元を歪ませる。

「ちょぉっとな。魔族とやり合って。肩がな」

「……治癒しましょうか?」

 手元に光の魔力を宿しながら聞くと、マリスはそうしてくれとばかりに、軽く肩を叩いた。意地っぱりな彼がそういうからには、かなりの傷なのだろう。見た目には、そう重い傷が、そこにあるとは思わない。服の下と言うこともあるが、それ以上に、マリスの動きが自然過ぎるのだ。本当に、負傷などしているのかと疑いたくなるほど、彼の立ち居振る舞いは流れるようだった。戦の間、最強の名を保っていた魔神にふさわしい、獣のような動きだった。

 マリスの右肩に治療魔法を施しながら、彼の顔を覗き込むと、頬が少しこけていた。食べていないのかと思い、そのことを尋ねようと思ったが、やめた。どうせ、傷が原因で、狩りもなにもできなかったのだと言う答えが返ってくるに決まっている。

 本当に、今日、自分がここにこなかったら、彼はどうするつもりだったのだろうか。こっそり村に戻り、誰か、知人に癒してもらうつもりだったのか。それとも、それが天命だと諦め、飢え死にするつもりだったのかもしれない。

 この人は、母上が死んでからずっと、後を追いたがっているから。

「……マリスさん?」

「ん?」

 肩の傷が癒されたことで、楽になってきたのか、マリスの表情がぐっと柔らかくなる。元々優しい人だが、こうして見てみると、先ほどまでは、こめかみ辺りが引きつっていたのが判る。それに気付かなかった自分が、口惜しくてならない。

「今度、妻を向かえることにしました」

「誰が?」

「私が」

 そう言うと、マリスはぎょっとしたように目を見開いた。どうして、この小僧がと、驚いているのが手に取るように判る。

 彼にとっては、ユリアスは以前、よちよち歩きしていたころの子供とそう変わらないのだろう。一族をゆだねてもなお、彼は、長となった光の魔神は子供でしかないと信じているのだ。

「大地のラルバの長女である、ティナ・ガイアスを妻にします」

「おいおい、あの女の娘かよ」

 何か、大地のラルバに含むところがあるのか、炎の魔神の言葉は、どこか歯切れが悪い。

「誰に言われて決めた。カーティスにか?」

 同胞の名を上げ、マリスは真剣な表情でこちらを見上げてくる。

 それに、ユリアスは小さく頷いた。

「伯父上にそう示唆されて。そちらの方が、一族を早く纏められるのではないだろうかと」

「で、それを示唆なさったとか言う、馬鹿野郎はどこにいった?」

「さぁ。消えてしまいましたからね。今日の朝には、もう、いらっしゃらなくて。そのことを話すために、来たんですが。どこに行かれたと思います?」

 あの人もまた、死にたがっていたからとは言わない。そんなことは、もう、マリスも十分承知しているはずなのだ。

 炎の魔神は、やや考えこむように腕を組み、顔を伏せた。畜生と、誰とも知れぬ相手を罵り、地面を足で蹴り付ける。

 魔神が、力任せに踵で蹴った場所は、岩場にもかかわらず、深くえぐれていた。ごっそりと、足の大きさだけ、岩が砕けてなくなってしまっている。

「あの、卑怯もんが。人に全部押し付けていく気か!?」

 どうせ、ルシアのところにいったに決まっていると、炎の魔神は、かつての同胞を罵った。

 彼の言う、母のいる場所というのが、何を指すのか判らず、ユリアスは少し、当惑していた。マリスのいう場所は、果たして、母の死んだ場所をいうのか。それとも、墓地を示すのか。あるいは、彼女が消えて去っていった、遠い場所を示すのか。彼の口調は曖昧で、断定するのが難しい。

 マリスは、小さく呻きながら、頭を抱えた。

「参った。ちっくしょう……。やられたなぁ」

「……そうですか?」

「あったりまえだろうが。これでもう、島の外には遊びに行けねぇ!!」

 そればかりが残念だと、炎の魔神は吠える。

 その彼の言葉に、ユリアスは呆気に取られたような表情になった。

 もっと、大きなことを言われると思っていたのだ。こんなお荷物な役目は御免だとか、これ以上、こんな役立たずの面倒なんか見られるかとか。そんなことを愚痴られると思っていた。

 それが、ただ、外に遊びに行けないと嘆かれるだけとは。そのことに、拍子抜けしたようにぽかんと口を開けながら、光の魔神はぱちぱちと瞬きした。そして、不意に顔をくしゃりと歪めたかと思うと、大声を上げて笑い始めた。

「やだな、マリスさんったら。別に、そんな、外に行かなくとも、楽しいことなんて、いっぱいあるのに」

「お前、それ、ルシアと同じ台詞だぞ。親子で一緒のこと、言うんじゃねぇ!」

 もっと不良に躾てやればよかったと、炎の魔神ががなりたてる。

 その声さえもが可笑しくて、ユリアスは腹を抱えて笑い転げた。あまり大きく笑い過ぎたせいだろう。つい、マリスの小さな台詞を聞き逃してしまった。彼が、ぽろりともらした、寿命ならしょうがないだろうとぼやいた言葉を、聞くことが出来なかったのだ。

 風のカーティスと呼ばれていた伯父が、魔神としての寿命を向かえたと知ったのは、もう少し後のことだった。彼が、死地を求めて去ったということを知ったのは、それからさらに、一つ月が巡った後になった。

 

 その日は、夏の終わりだと言うのに、酷く冷たい雨が朝から降り続けていた。昨日までは、じっとりと暑く、汗ばむほどだったと言うのに、今日は厚手の服を着ていもまだ寒い。侍女の中には、秋物を通り越して、冬用の毛の散らしてある上着を羽織るものまでいて、館の中の様相が、たった一日で変わってしまった。

 その冷たい雨だが、夕刻近くなり風が強くなってきたこともあって、雲が追い払われたようだ。ぱしぱしと、雨戸を叩いていた雨音が聞こえなくなったなと思うとすぐに、さっと止んでしまった。しつこいくらいに長く降り続けていたと言うのに、終わりはやけに呆気ない。そのことに、驚きながら外を覗くと、赤い夕日が、森の向こうで燃えているのが見えた。

「おや、まぁ。風情のあるものだな」

 森の木々が冷たい滴を垂らしている向こうに、赤い日が落ちるのが見える。その何とも優美な光景に、ユリアスは目を細め見入った。

 光の精霊が、あちこちでさざめいているのが見えた。彼等と同じ属性を持つ魔神であるユリアスだけに見える、小さな乙女達だ。彼女達は、寒さなどまるで気にならないとでも言いたげに、薄い膜のような衣装に身を包みながら、空中でくるくると回っていた。彼女達がそうやって舞い踊るたびに、鱗粉のような光が、ぱらぱらと落ちていった。

 ユリアスのすぐ側でも、数人の精霊達が、楽しげに宙を舞っている。こうやって、空中を自在に動けるのは、この光の精霊か、あるいは、闇や風の属性を持つものだけだ。大地に縛られる乙女は、こうはいかない。ユリアスも、光の魔神と言う立場上、大地の精霊は目にしたことはないのだが、ウォウサから聞いたところ、彼女らは常に、どこかにちょんと座り、美しい歌を歌っていると言う。豊かな土地であればあるほど、その歌声は美しいのだそうだ。

 そして、この御館の回りほど、精霊達が楽しげに歌う場所を、彼は知らないと言った。敗者が勝者へと向ける、へつらいの言葉だろう。だが、あの気質真直ぐな青年の表情は朗らかで、嘘を言っているようには思えなかった。少なくとも、精霊達が美しく歌う程度には、ここも豊かなのだろう。あんな顔で嘘を言えるほど、ウォウサも賢しいわけではない。

 庭に面した廊下に出て、雨に濡れた床に気を付けながら歩く。何時もならば、一人、二人と侍女が、守人代わりの魔神とすれ違う所なのだが、雨が止んだばかりか、誰とも会わなかった。

 ちぃちぃと、鳥が鳴いている。森に住む野鳥の類か。そう思いながら顔を上げると、夕日の沈む丁度反対側に、小さな光が一つ、瞬いていた。秋を知らせる星だ。あの赤い輝きが、もう少し山の方へかかる頃になると、収穫を向かえることになる。

 今年は、戦の勝敗が決したせいか、何時もよりも収穫が多かった。昨年まで、戦場へと割り当てていた大地の魔神を、多く村に残すことができたためだろう。麦の手入れを彼等に任せることが出来た。そのおかげか、今年は穀物全般の成長が良かった。風も良く吹いた。雨の必要な時期に、雲を呼ぶことも出来た。何時にない豊作だった。この分ならば、敵囚として連れてきた、大陸側の魔神達を飢えさせることもないだろう。何にしても、畑の広さに比べ、島側の人数が少なすぎる。大陸側から戻ってきた魔神達を加え、ようやく、一村分と言う有様だ。

 島側の魔神達は、大陸側の者達を、どうにか見下したいらしい。勝者の特権として、彼等の上に立ちたいのだ。元は同じ血を持つ同士だが、長年の憎しみ合いがそう思わせるのだろう。中には、従兄弟姉妹もいるだろうに。彼等は、そんな親族を、虐げたくてならないのだ。

 だが、ユリアスは、長としてそれに同意することは出来ない。元々、停戦自体が、親族として、同列として扱うと言う約束の元になりたっているのだから。大陸側の指導者だった大地の魔神ティナも、その約定を得て始めて、降伏したのだ。もし、隷属させられると知れば、彼等もそう簡単には屈しなかっただろう。最悪、徹底抗戦ぐらいはしただろうか。その果てに残るのは、今よりもなお数を減らした魔神と言う種だけだ。かろうじて生き延びた者にしても、いずれは、魔族に食い物にされるに決まっている。いくら力があろうとも、結局、纏まらなければ生きていけない。

「難しいな……」

 魔神と言う種を残すために、どう立ち振る舞えばいいのか、判らない。

 最良なのは、大陸側の魔神を全て、この村の者として受け入れることだ。そうすれば、戦で失った分の人員が取り戻せる。大陸側も、最終的には数でこちらに劣ったが、その分、質がいいのだ。上位の魔神が多い。島も、ユリアスやマリスと言った突出した存在がなければ、逆に、大陸側に押されていたことだろう。ウォウサも、今はまだ経験が浅いため、それほど重要視されてはいないが、あと十年ほどもすれば、上位の中でも特に力の強い魔神となるだろう。一族を支えていく上で、必要不可欠な大地の魔神になれる。

 島にある村にも、多数の大地の魔神はいる。上位ももちろん、その中に含まれている。だが、いざとなった時に必要なだけの力はない。大陸側が、炎や光を欠いていたように、こちら側も、大地や闇を必要としていた。

 この停戦は、なるべくしてなったのだ。長い戦だったが、どちらの魔神も、もう限界だった。元々、数が少ない種族だったのだから。血筋の上でも、これがぎりぎりだっただろう。上位は上位で結び付きたがることが、より状況を悪化させている。ユリアスより年上の魔神など、従兄妹婚がざらなのだ。近づいてくる娘にしても、遠縁が多い。血縁ではない女を上位の中で探そうとすると、少なくとも、島の中では皆無だった。

 健康的な血を残す上でも、これ以上、血族婚は許したくない。外敵から一族を守るためには、より多くの人員と、力ある魔神が必要だった。

 迫害や蔑視など、許せる状況ではないのだ。それ以上に重要なことがある。だが、回りはそれを理解しないのだ。本来なら、ユリアスの補佐となるべき長老達も、それに気付かない。いや、知らぬふりをしようとしているのではないだろうか。彼等もまた、勝者として、奢りたいのだ。その心が、どうにも、見ていて腹が立った。

 御館の外側をぐるりと巡るように歩き、裏庭まで出た。そこから中に入ると、丁度、台所に出る。そこで、熱い茶を貰いがてら、居座っているだろうウォウサと話でもしようと思ったのだが、ふと聞こえてきた話し声に、気を取られた。女の声だ。それも、若い。聞き覚えのある、奇麗なささやき声だった。まさかと思いながら、そっと、角からその向こうにある庭を探ると、二人、若い女が笑いながら、濡れた庭を散策しているのが見えた。

 背の高い、長い黒髪の女は、ティナだ。そんな彼女にじゃれつくようにしている闇の魔神は、ラージャだろう。こちらに背を向けるように立っているので、顔が見えない。だが、体格だけでそれと判った。きゃぁっと叫んだ声を聞いて、やっぱりとため息をつく。彼女らを見張っているはずの魔神はどこかなと探すと、御館側の縁側に立っていた。二人を刺激しない距離を取りながら、常に、森の方に気を配っている。何かあるとすれば、そちら側からだろう。だが、上にも注意して欲しい。そう思いながら、暗くなりかけた星空に目を向け、また、ラージャへと視線を戻した。

 従妹でもあるあの少女は、年齢よりもなお華奢で、案山子のような体つき子供だった。背も小さい。そのくせ、やけに元気なのだ。しかも、かつて大陸側の重要人物だった上位魔神の娘だけあって、ずばぬけた魔力を持っている。彼女にとって不幸なのは、その力をなかなか、表わせないことだろう。潜在能力は高いのに、それを引き出せないでいるのだ。そのことが、彼女の立場を微妙なものにしている。本来ならば、ティナをも凌ぐ血筋として、大陸側の印ともなれる身だというのに、その力が少し足りないばかりに、侮られているのだ。もちろん、その分の自由も得ている。どうでもいい娘として、かって気ままに振る舞うことを許されているのだ。

 ユリアスが畏怖するに足る力を秘めた少女は、まるで闇の塊のようだった。引き出しきれない力が、闇そのものとなって、たゆたっている。その傍らに立つティナも、大陸側の魔神を纏めていただけあって、決して弱いわけではないのに、ラージャの側にいると、まるで目立たない存在になってしまう。

 だが、それも、あくまで魔力を比べた時のことだ。美しさや儚さで言えば、むしろ霞むのは、ラージャの方だった。

 長い黒髪は、まるで濡れたように艶やかで、そして、豊かだった。その髪に縁取りされる面は白く、柔らかい。整った目鼻立ちは、母親譲りなのだろう。戦場で何回か会ったことのある、大地のラルバに良く似ている。だが、母親ほど、きつい目つきはしていなかった。むしろ、大地のおおらかさを表わすように、おっとりとしている。大切に育てられたのだろう。気品のある、整った顔立ちをしていた。

 少し痩せぎすで、手足がひょろりとしている。胸元は寂しいが、それでも、女としての柔らかさは持っていた。一挙一動が、なめらかだ。ラージャにやんわりと微笑みかける表情が、美しい。黒く長い睫が奇麗に目元を浮かび上がらせているせいだろう。くっきりと描かれた瞳が、彼女の強い魅力となっていた。ほんのりと染まった頬が、女らしい優しさを強調している。

 きゃっきゃと笑い転げているラージャを、大地の魔神はまるで姉のような表情で見守っていた。ここ最近、部屋に篭りがちだったと言うのに、こうやって外に出てくるなど珍しいのではないか。そう思い、皮肉そうな笑みを浮かべたユリアスだったが、ふと思い出したことがあって、顔を憮然と曇らせた。

 先日だったか。ラージャが部屋に遊びに来たので、構ってやったことがあったが、その時、ティナを外に連れ出して見ろと、けしかけたのだ。ああやって、部屋に篭って泣いているだろう大地の魔神が不憫だと言うこともあったが、それ以上に、そうやってあてつけのように、囚人の真似事をする彼女が苛立たしかったのだ。

 こちらは、不自由を強いている訳ではないのだ。ラージャにしろ、ウォウサにしろ。敵だったとは言え、血縁ということもあり、情けをかけてやっている。御館の周辺に限り、自由にしていいと言ってあるのだ。今だ大陸側の敗北を認め切れない連中に、担ぎ出されと事なので、監視がてらの護衛を付けることはしている。だが、それも、気に触らない程度のものにはとどめてある。ティナがするように、これ見よがしに囚人の真似をされると、こちらも気分が良くない。

 篭っているのならば、引きずり出してやるさと、ラージャを使ったのだ。あの無邪気で、人を疑うことを知らない少女ならば、けしかければさえ、喜び勇んで、『姉』と慕っている大地の魔神の元へいくと思っていた。半ば強引に、引きずるように、外へ連れ出すと思っていたのだ。

 あの幼さの残る闇の魔神は、思ったとおり、ティナを外へとひっぱっていったようだ。だが、どうにも、連れ出した方こそが楽しんでいないだろうか。そんなラージャを見て、あの美しい大地の魔神も笑っているから、さらに面白くない。

「……囚人ぶっているのではなかったのか?」

 これ以上、見ているのも癪だとばかりに、ユリアスは身を翻した。極力、足音を立てないようにして廊下を戻りながら、軽いため息をつく。

 ラージャが、楽しげな悲鳴を上げるのが聞こえた。冷たい、と明るく叫んでいる。水をかけられたのかと思い、足を止めると、今度は、ティナの声が響いた。ラージャを叱り付けている。柔らかく、優しい声でだ。

 その声を聞きながら、ユリアスは小さく笑った。自嘲するような笑い声を漏らしながら、小さく肩を震わせる。

 光の魔神は、引き戸を一つ開けると、そこから暗い部屋へと滑り込んだ。廊下の向こうから、活気が伝わってくる。すぐ向こうが台所なのだろう。夕飯の支度で、侍女達もてんやわんやと言うところか。働き手が足りないためだろう。普段はもう少しおしとやかなはずなのだが、怒鳴り声までもが聞こえてくる。その声に苦笑しながら、ユリアスは廊下へと踏みだし、後ろ手で、部屋の戸を閉めた。

 ティナとの婚礼まで、あと十日を切っていた。

 

 最初に、光の魔神ユリアスを見たのは、戦場でだった。

 島側が劣勢を強いられているときに、ふっと、姿を表わしたのだ。白い、真新しい麻の上着を着た、どこか幼さの残る少年だった。今と違い、あまり背は高くなかった。ここ数十年で、成長したのだろう。始めて見た時は、それこそ、子供かと思うほどに、小さな子だった。どうして、こんな子が、こんな場所にと、驚いたのを怯えている。何しろ、大陸にしろ島にしろ。どちらに居を構えている魔神も、戦場に子供を出すような真似だけはしなかった。それだけは、絶対の決まりだというように、幼い、成人せぬ子らに、血を見せようとはしなかった。

 だから、ユリアスが戦場にぽっと姿を表わした時、誰もが驚いた。島側の魔神も驚いていたことを見ると、どうやら、彼は一人で勝手に来てしまったらしかった。

 戦は、だいたいが、十人から二十人の、上位から中位にかけての魔神が双方から狩り出されてのものとなる。人数の違いは、そう大きな戦力差にはならない。問題となるのは、どれだけ強力な魔力を持つ上位の魔神が配されるかで決まるのだ。中位の魔神など、所詮は露払いといった方が正しい。最も、出された上位の魔神が双方、それほど力のない者同士だったり、近接し過ぎて相打ちになるような場合は、残った中位の魔神などが、勝負を決することになる。

 それにしても、所詮は力の削り合いなので、あまり効果はない。結局は、いかに敵の上位魔神をうまく消すかが、問題だったのだ。そういう意味では、魔神の戦いは、大陸を占めていた人間達の戦争よりも、いくぶん、効率的だったのだろう。少なくとも、下位の魔神はかやの外だったのだから。彼等の仕事は、常に、生産することだった。戦い赴く上位魔神のために何かをするのが、彼等の、戦において真っ当できる責任だったのかもしれない。

 それは、『長』である水のマゼリナが死んだ後も、固く守られていた。島側でも、人徳で知られていた光のルシアが亡くなった後も、子供を使うような真似はしなかった。双方、子供は宝であり、彼等を守るということは、暗黙の了解のうちに守られる、絶対の規則だったのだ。

 そんな戦いだったから、ユリアスが出てきた時も、居合わせたのは、双方合計して、十八人程度の魔神だけだった。ティナもまた、その中に入っていた。戦うことは許されていなかったが、同行した炎の魔神を助けるということで、追従していたのだ。その炎の魔神は、戦いの経験は多いが、どうにも、血の気の多い人物で、どうしても、彼を抑え、あるいは、癒す役目を持つ魔神が必要だったのだ。

 その血気盛んな炎の魔神も、ティナも、その金の髪を持つ少年を見た瞬間、呆気に取られた。

 彼は、あまりにも似すぎていたのだ。あの涼しげな目元も。子供らしく無邪気そうに見えて、その実、冷ややかな口元も。顎の輪郭も、瞳の色も。全てが、『長』として煽ぐマゼリナに瓜二つだった。

 それこそ、最初は、亡くなった水の魔神が、この戦場に蘇ってきたのかと思ったほどだ。だが、すぐにその考えを改めなければならなかった。島側の魔神の筆頭である、炎のマリスが、その少年に安易に近づき、ごつりと、頭を殴りつけたのだ。戦場にひょっと出てきた少年を、叱り付けたらしい。すぐに追い立てようともした。だが、少年はそれを聞かなかった。

 光が起こったのは、その直後だったか。焼け付くような痛みが、全身を覆った。それが、あの少年の起こした術なのだと理解するよりも早く、ティナは近くの岩場に叩き付けられていた。

 島側の方から、悲鳴が上がったのが聞こえた。誰かが怒鳴っている声もした。だが、何が起こったのかは見えなかった。目がなかなか開かなかったのだ。まぶたがひどく重かった。それでも、ようやくうっすらと細目を開くことができた。その小さな隙間から、青い空が、視界に飛び込んできた。

 ずきずきと体中が痛んだ。のろのろと腕を持ち上げると、肌が焼けただれていた。光の魔神が得意として使う、熱線のせいだと思った。だが、それ以上はどうしようもなかった。どうにか、傷を癒そうとしたが、声が出なかった。喉が乾いていて、掠れた、草笛のような音しが口から出てこなかったのだ。

 ひゅぅひゅぅと、空しい音ばかりが出てきて、少しも、精霊に呼びかけられなかった。魔力も、途切れていた。無意識のうちに、あの白い熱線を抑えるために、魔力を全て使い果たしたのだろう。あの時、生きていられたのは、一重に、その反射的な行動ゆえだったのだ。だが、そうやって、全力を使い果たした直後では、あれだけの火傷を癒すだけの魔法は使えなかったはずだ。

 だが、私は生きている。目の前にある鏡台を覗き込みながら、ティナはそっとため息をついた。

 全身に負ったはずの火傷の後もなく、まったくの無傷で、生きている。

 顔にも何の火傷の跡もない。あの時、顔にも微かな痛みを感じていた。あの熱線を浴びて、そこだけ無事だったとは思えない。だが、彼女はあの後、まったくの無傷で、根城としていた城に戻ることができた。

「貴方が守ってくれたのよね……?」

 ティナは、鏡台の上に置いてある、ねじ曲がった腕輪を手に取ると、それを、そっと填めた。

 銀色の、細かい装飾のある品だ。宝石の類は何一つついていないが、所どころに、金の糸が折り込んである。基盤となっている銀にしても、光の具合によって、色が微妙に変わる。ぱっと目には質素だが、よくよく見てみると、手間がかかっているのが良く判る。そんな腕輪だった。もっとも、今はそれも熱に歪み、醜く変わってしまっている。あの熱線を受けて、歪んでしまったのだ。

 大地の魔神は、腕にはまっている銀の腕輪に、そっと口づけを与えた。愛しげに、紅も引いていない唇を寄せ、そのまま、そっとため息をつく。

「貴方は、そこにいる?」

 薄く笑いながら、そうつぶやく。それに、答える者はなかったが、ティナは満足気に微笑んだ。

 この腕輪を送られたのも、ずいぶん昔のことだ。魔神としては、そう、遠く感じる必要はないのだろう。だが、生き残る必要上、人や魔族と接する必要があった身には、二十年は長い。この腕輪を、死んでしまった炎の魔神から受け取った日が、とても古い思い出のように感じられた。

 魔神においては、腕輪の交換は、婚礼の約束と同義だった。『長』であるマゼリナを失い、母親を失ったティナを支えてくれた炎の魔神が、彼にしては珍しく顔を真っ赤にして送ってくれたのが、この腕輪だった。ティナは、彼には何も上げられなかった。次ぎの戦いが終わって、一息ついたら、これに見合うだけのものを探して、送ろうと思ったのだ。

 そうやって、ティナが腕輪を送り返せば、婚約がなったことになる。それから、一年を置けば、婚礼も上げられただろう。だが、そうする前に彼は死んだ。あの日、ユリアスが戦場に始めて出てきた日に、彼は殺されたのだ。あの、白い熱線で。焼き尽くされた。炎の魔神が、だ。

 いくら光の魔神の魔力が大きくとも、炎を属性と持つ者が、焼き殺されるなど、ありえないはずだった。だが、彼は死んだ。真っ黒になって。もう一人、上位の魔神がいたが、彼もそこまでは酷くなかった。水の魔神だったが、愛した人よりは、魔力は低かったはずだ。その青年が、焼けただれた痕も醜いほどの酷い有様だったが、それでもまだ、誰かということを判別できた。だが、腕輪をくれた人は、黒焦げになっていた。ほとんど炭状態だった。

 どうしてかと、ずっと悩んだ。そして、その答えに思い当たったのは、最初の衝撃から、ようやく立ち直ったころだった。

 あるいは、ティナを守ろうとしなければ、彼は無事だったのではないだろうか。炎の魔神だったのだから。光の熱線でも、ある程度は耐えられたはずだ。無防備に身をさらさなければ、きっと、無事だったはずだ。生き残れたはずだ。なのに、彼は死んでしまった。どうしてか。

「……いっそ、火傷でただれていれば、おもしろいのに」

 いずれ婚礼の衣装に着替えるからと、羽織っている白い衣服の襟をそっとめくりながら、ティナはさも残念そうにつぶやいた。

 いっそのこと、この胸が醜く焼けただれていれば、おもしろかったのにと思う。そうすれば、あのユリアスも、自分が何をしたか思い知ることができただろう。妻が、火傷で醜く歪んだ女ならば、あの男も、少しは苦しむだろうに。

 彼は、愉快なことに、ティナだけを唯一人の妻とする気らしい。大陸側の魔神を纏めるために、どうしても、重要人物であった女性をはべらせたいのだろう。勝者の妻に、ティナが選ばれれば、少なくとも、大陸から連れて来られた魔神達は安堵することができる。『長』のただ一人の妻なのだ。軽んじられるはずはない。多少の権利は生まれる。その威光の元、敗者は守られることとなるのだ。同時に、ユリアスは、抵抗する気力を完全に失った敗者達を、支配することができる。元々敵だった者達を、己の勢力とする上で、これほどまでに効率的な手段もないだろう。

 その彼の考えを、ティナは馬鹿々々しいと笑った。何が唯一人の妻なのか。あの男は、まだ、腕輪一つも送り付けてきていない。彼はただ、ティナの弟である大地の魔神を使いにして、婚姻を結ぶと伝えてきただけだ。それだけが、二人を婚約者とした約定だった。習慣もなにもかも無視した横暴さで、彼はティナを縛り付けようとしているのだ。

 勝手にするがいい。私は、私の同胞のために、下ったのだから。勝手にするがいい。

 ユリアスの妻になることで、自分と共に苦難を共にした魔神達が安らかになれるのならば、それでいいと思う。彼等の権威を保てるのならば、自分の身一つくらい、いくらでも投げ出す覚悟はできている。元々、降伏した時点で、純潔を守ることも、誇りを保つことも諦めているのだから。今さら、あの男に組み敷かれたところで、痛くも痒くもない。ただ、少しだけ悔しいだけだ。よりにもよって、愛する人を奪っていたあの子供の成れの果てに、いいようにされるのが、ほんの僅かに、心苦しいだけだ。

 くすくすと笑っていると、戸を音もなく開けて、侍女が数人、部屋へと入って来た。入室の是非を問う声もなかった。そんなことをする必要もないと思っているのだろう。勝者の娘達は身勝手だ。ティナを、敗残者と見て、侮っている。

 だが、ティナに言わせれば、彼女達もまた、敗者なのだ。この見目麗しい侍女達が、若い『長』であるユリアスのために集められた者であることは、知っている。そうやって、親の意向で御館に送り込まれながらも、彼女らが、長に触れられていないことも聞いていた。

 敵意むき出しで迫ってくる侍女達に、ティナは薄く笑いかけた。そんな彼女に、娘達の一人が、婚礼衣装ですと言って、白い、豪奢な重い布を差し出してくる。今晩のために、女達が縫った衣装だ。婚礼のためにまとう、汚れない、真っ白な服だ。それを、着ろと言う。

 もう一人の、やや幼い顔立ちの侍女が、化粧をいたしますのでと言って、にじりよってきた。手に、小さな籠を持っている。中には、白粉と紅と、その他、よく判らないものをたくさん入っていた。その内の一つは櫛らしい。婚礼衣装を着せられる合間に、ぐいぐいと髪を引っぱられ、毛がごっそりと抜けるかと思うほどのしつこさで、櫛削られた。白粉を塗られ、紅を引かれ、髪を結われる。たくさんの金の飾りを着けさせられた。

 鏡の中の自分がどんどん変わっていくのを見つめながら、ティナはまた笑った。

 綺麗だなと、素直に思えた。母親に似た面立だと思っていたが、案外、そうではないらしい。母は、もう少し華美で、目立つ人だった。つんと澄ました姿が凛として見え、子供心にずっと憧れていた。化粧をすれば、そんな母に瓜二つになるのかと思っていたが、まるで違う顔になってしまった。だが、嫌いではない。絶望もなにもしないで、楽しげに笑っている鏡の中の女は、優しげだった。ここにいる侍女の誰よりも綺麗だ。これならば、あの男にも侮られないだろう。十分、ユリアスを誑かせるのではないかと思う。

 これからが、私の戦場なのだから。どうにかして、同胞を守らなければならない。あの男を切り崩し、最後に絶望を与えてやろう。それだけの武器が、女としての自分にはあるのだから。

 侍女が、終わりましたと告げるのに、ティナは柔らかく微笑んだ。その拍子に、侍女達は皆、一瞬呆気にとられたような表情になる。そんな間抜け面をさらす女達を笑いながら、ティナは、婚礼の儀が待っているであろう広間へと向かうため、さっと立ち上がった。

 

 広間へと、静々と入って来たティナを見て、居合わせた魔神達がほうっとため息をついた。最も『長』の席に近い、上座に座っていた炎の魔神の長老が、ぎょっと目をむく。ユリアスの倍近くも生きている、妙齢の男だから、美しい女を目にして、落ち着かなくなったのだろう。目に見えて、そわそわとしだす。四百と言えば、魔神にとって、もっとも精力的な年齢だ。最高とも言える美しさと力を持つ女が側にいて、冷静でいられるはずがない。

 他の長老達にしても、炎の長老ほどではないが、動揺を露にしていた。水の長老など、視線がティナに釘付けになっている。婚礼の席に揃った魔神達にしても、大なり小なり、似たような反応を見せていた。この席になって、主役は完全にティナとなったわけだ。

 真白の婚礼衣装に身を包む大地の魔神は、本当に美しかった。意を決したようにぴんと張り詰めた表情が痛々しく、自虐的で、見ていて切なくなる。黒髪を結い上げてあるせいで、うなじが露になっていた。そこに、三百過ぎの若い女ながらの、匂い立つような艶やかさがあった。

 彼女は、ユリアスと一度たりとも視線を合わせぬままに、席についた。彼のすぐ横の、花嫁のための場所だ。そこで、背筋をぴんと延ばして座り、まっすぐに前を見据えている。そんな彼女を、そっと伺うように盗見みし、ユリアスはくっと口元を歪めた。

 綺麗な女だ。

 年上だから、彼女がより大人びているのは覚悟していた。何しろユリアスはまだ、二百五十をようやく過ぎたばかりなのだから。まだ、成人にもほど遠い。長老連中からみれば、まるで子供でしかない立場だ。そんな自分が、三百才の女と比べて、見劣りするのは仕方ないと諦めていた。成人したての、若々しい乙女にくらべて、子供でしかない男は、常に価値が低いものだ。女は、成人すればさえ、嫁に行き、子供を生めるが、男は身を立てるまでは、やっかいものだ。子供など、所詮は役立たずというのが、万人の思いだろう。いくら強大な魔力を示そうとも、圧倒的力で支配しようとも、結局、長老達はユリアスをいまだ子供としてしか見ていない。

 長老の誰かを見据えるわけでもなく、同胞に視線を向けるわけでもなく、ティナはまっすぐに、なにもない宙を見つめていた。その横顔は、青ざめてもいなければ、高揚もしていない。まったくの無感動だった。そんな彼女を伺いながら、ユリアスはくっと、小さく笑う。

 この女が、どういうことを思い定めてきたのか、判ったのだ。いや、元々知っていたという方が近いかもしれない。ただ、今のこの顔を見て、ようやく、安心できただけだ。そして、彼女をせせら笑った。

 ティナはどうやら、人身御供をする気らしい。我が身を投げ出し、同胞を守ろうとしているのだ。悲壮で、愚かな覚悟だった。誰も、確約していない未来にすがって、悲劇の主人公を演じようとしている。ユリアスから見えれば、酷く滑稽で、夢見がちな女だった。そんな形にもなっていない約束を、誰が守るというのか。

 第一、同胞を守ろうとする覚悟自体が、馬鹿げていた。そんな、『仲間』など、すでに存在しないと、彼女は何故判らないのか。

 大陸側の魔神が、すでにティナを見限っていることを、彼女は知らないらしい。元々穏健派だった者達は、すでに村に溶け込む、それなりの生活を送っている。今さら、彼女に守られなくとも、生きられる分の立場を得ているのだ。それだけのものを、ユリアスが与え、確約した。

 いまだ、マゼリナを慕っている者達はといえば、こちらも、彼女を用無しとみなしているようだ。敵の長の妻となった女など、いらないらしい。彼等の関心はすでに、マゼリナの姪である、ラージャの方に移っている。

 馬鹿で可哀そうな女だった。だが、それ以上に潔く、気高く、美しい。現実を見られないのは仕方ないだろう。彼女もまた、いまだ子供なのだから。三百で成人するなどというのは嘘だ。最低でも、もう百年はいる。精神的に成長の遅い魔神にとっては、大人になるにはそれだけの年月が必要だった。そして、その必要な月日を、ティナはいまだ、過ごしきっていないのだ。

 ティナは、魔神を余計な差別なく纏め、強固な集団とするためには、欠かせない女だった。その彼女が、同胞を守るために必死なことに、ユリアスは満足した。彼女さえその気があるのならば、元々島にいた魔神達からの敵意の盾にすることができる。その隙に、彼女の望むとおり、大陸から戻ってきた魔神達を守ればいいのだ。そうして、足掻いていれば、いずれ、時間が経つだろう。子供が生まれ、孫が生ずるころには、どうにか、憎しみも消せるかもしれない。二つの派閥の亀裂もいずれは、薄れるはずだ。

 凛として前を見据えている大地の魔神を横目で見つめながら、ユリアスは小さく笑った。

 

 初夜のためと用意された部屋は、灯りの芯が短く切ってあるのか、いやに暗い場所だった。部屋の中央にぽつんと、二つ分の床が敷いてある。その一つ一つが、普通のものより大きいことに、ティナは思わず息を詰めてしまった。どういう考えから、部屋がこんなにも暗く、また、白い布を張られた床が大きめなのか、判ってしまったからだ。

 前で合わせる形の衣装の襟を、ぐっと寄せながら、足早に部屋を横切り、用意された床の真横に正座をする。ぐっと手を握り締め、それを膝に置いた状態でうつむくと、濡れた黒髪が一房、前へと落ちてきた。

 湯を使ったばかりの体はいまだ暖かく、汗ばむほどだ。だが、秋の気配も濃い夜の空気は冷たく、足先など、すでに冷たくなってきているほどだ。濡れて冷たくなった黒髪を乱暴に払い、また、うつむく。そうやって、処罰の時を待つかのように畏まりながら、一心に耳をそば立てた。

 今日は、侍女達もこの部屋から離されているのか。ここに入った時から感じる、戸口近くにある気配以外には、これと言った存在は感じない。廊下の向こうで、控えるように息を潜めているのは、ティナを湯殿から、ここまで送り届けてきた、年配の侍女だろう。面立ちこそ、魔神と言うゆえに若々しい女だったが、立ち居振る舞いまでは、若者ぶることはできない。落ち着いた表情や、さりげない気の使い方は、さすがに、島側の城たる、この御館に長年仕えてきたと言う女だ。ティナがいくら、気をとげとげしくして欠点を探そうとしても、これと言った落度を見つけることはできなかった。

 その、穏やかな気質の侍女が、不意に動いた。どうしたのかなと思っていると、廊下の方から二人ほどの、足音が聞こえてきた。一つは、良く知る音だ。体重が思いと言うのに、それを隠そうともせず、どすどすと歩くのは、弟の癖だった。この御館に来てからずっと、室内に閉じ篭りきりだったティナを気づかって、よく会いにきてくれた可愛い弟だ。あらかじめ来訪を知らせるように、わざと物音を立てて歩く癖がついてしまったのだろう。もう、必要もないだろうに、また、騒々しくやってきた。

 あるいは、今もまた、気を使って、わざと煩く歩いているのかもしれない。時が来たと、最後の決心を促しているのか。それてにしては、微かに聞こえてくるウォウサの声は、ずいぶんと楽しげだった。その横にいるのは、義兄となるユリアスだろうに。まるで、慣れ親しんでいるかのように、明るい口調で話していた。

 控えていた侍女が、何かを言う。そして、かたんと小さく音を立てて、戸が開いた。ウォウサが手にしていたらしい灯りが、さっと、部屋に入り込んでくる。そう強い輝きではないと言うのに、長い間、暗い部屋で待っていたティナには、それがずいぶんと眩しく見えた。

 目を細めていると、ふっと、戸口からの光が陰った。ユリアスが、入って来たのだ。弟が何かを言って、去っていく。侍女もまた、軽く頭を下げ、扉を引いて、いなくなってしまった。

 閉じられた戸のすぐ側に、ユリアスが立っていた。再び暗くなった部屋の中で、彼の姿だけは、目だって見えた。光の魔神ゆえなのだろうか。うすぼんやりとした輝きが、彼を包んでいるのだ。そのおかげで、ティナは薄い装束を身にまとった魔神の長を、はっきりと見て取ることができた。

 彼も、湯を使ったばかりなのだろう。髪が濡れている。そうやって、服装が髪形が少し違うためだろうか。婚礼の席で見た時とは、印象が違っていた。広間で悠然と構え、馬鹿にするように薄笑いを浮かべていた青年と、これが本当に同一人物なのかと思えるほどに、幼い顔立ちをしていた。

 それでも、鋭い目つきと、マゼリナを彷彿とさせる青い瞳だけは変わっていない。むしろ、こうやって見ていると、あの水の王の少年ころに邂逅したのかと、思わず考えてしまうほどだ。体つきは、ユリアスの方が彼より逞しいだろう。顔立ちもよく似ているが、よくよく見てみると、この少年の方がまだ、優しげにも見える。マゼリナはそれこそ、覇者と言うのがふさわしいほどに、冷酷な男だった。彼の柔らかな表情を見た者など、皆無だろう。

 若くして魔神の長となった『少年』は、どこか緊張した面持ちでティナを見返し、小さく冷笑を浮かべた。彼は、見下すようにティナへと視線を向け、一歩、前へと踏み出す。そして、すぐ側まで近寄ってくると、威圧するかのように、見下ろしてきた。そして、くっと笑う。

「……美しい人だな、貴方は」

「余計な褒め言葉などいりませんよ」

 ついっと、ユリアスから視線をそらし、そう答える。

 一瞬、これはこの若い長を殺す、絶好の機会なのではないかと思った。大陸側の魔神が、一挙に劣勢に立たせられたのは、一重に、この少年の域から抜け切れない魔神の存在があったからだ。彼は、強大な魔神としての力を古い、幾多の上位魔神を葬り、あるいは、捕えてきた。この少年さえいなければ大陸側も、もう何十年は持ったかもしれない。あるいは、逆に勝利したかもしれないのだ。

 だが、その考えも一瞬で消えてしまった。ティナの心を読んだかのように、冷淡な少年が、ふっと、すごんだからだ。少年は、ティナと目を合わせるように床に膝をつくと、そのまま、彼女の緑の瞳をじっと見据えてきた。そして、脅すように、冷たい笑みを浮かべる。

 ユリアスは、不意に首筋に手を延ばしてくると、呼吸を遮らない程度にぐっと、力を込めてきた。そうやって、ティナを喉元を締め付けながら、さも楽しげに笑う。

 水の王と同じ色の瞳が、残酷に細められる。その奥に、狂気に似た光があった。ネジ曲がった、冷たい輝きだ。ちょっと触れるだけで、爆発しそうな、そんな危険を秘めている。

「殺せるものならば、殺してみるがいい。だが、最低でも、殺気を消せる程度にした方がいいな。考えた拍子に、顔が強ばる程度では、誰も殺せまい」

 小馬鹿にするように、光の魔神はせせら笑ってくる。

 首を締め付けていた手が、ふっと緩んだ。そのことに、ほっと安堵する間もなく、ティナは体を強ばらせる。

 ユリアスの、存外広い手が、首筋をふっと軽く撫でていった。まるで品定めでもするような目つきでティナを

眺めながら、光の魔神はゆっくりと手を動かしていった。冷や汗がにじむ肩を、彼の子供にしては武骨な指先が触れていく。それとともに、羽織っていた白い装束が、はだけていく。

 光の魔神は、片手で軽くティナの肌に触れながら、指先で腕を伝っていった。肩から二の腕へ。そこから肘へと移動し、いったん、手を離す。そこで、ティナが止めていた息をふっと吐き出すと、それを見計らったように、露になった右胸に触れてきた。彼の左手が、もう片方の肩を掴み、そちら側の衣装をも脱がそうとする。

「いや!」

 ユリアスの冷たい手が気色悪く、悲鳴を上げながら、彼の手を振り払った。光の魔神がどんな顔をしているのか、どんな反応を見せたのかも確かめられないままに、這うように床の方へと移動し、そこにあった枕を掴むと、ユリアスを振り返らないままに、彼へと向かって乱暴に投げつける。

 ぴんと床に張られた白い布が足を取り、ばたりとつっぷしてしまった。それでも、水をかぐように手をばたつかせ、慌てて起き上がり、向こうに見える壁へと向かって、よろける足取りで走っていく。

 木の壁に手をつくと同時に、ティナはそのまま、ぺたりと床に座り込んで泣いた。暴れたせいで、さらに乱れた衣装の襟を、慌てて寄せ合わせながら、小さな嗚咽を漏らして、涙をこぼす。

 うつむくと、生乾きの黒髪が、ばさりと顔にかかってきた。その上にさらに、人影がかかる。泣きじゃくりながら、上を向くと、ユリアスが感情のない目つきで、冷たく見下ろしてくるのと、視線がかち合ってしまった。思わず悲鳴を上げ、体をちぢこませると、光の魔神はさも可笑しそうに笑った。

「馬鹿だな……」

 ユリアスは、冷淡にそう言い放つと、すっと、床に膝を付いた。片膝を立て、何時でも立ち上がれる態勢でティナに視線の高さを合わせ、くっと口元を歪ませる。

「別段、そう怯えなくても、嫌なら嫌で、貴方に触れる気はない」

 まるで、戦における策略を話かのような口調で、彼はそう言う。

 その言葉に、ティナが嗚咽を漏らしながら、どういうことかと顔を上げると、彼は目を細め、まるで、『物』を見るかのように、彼女を眺めた。

「嫌がる女をどうこうする趣味はないと、言っているだけだ。幸いにして、私には、身を投げ出してくれる女が沢山いるから。貴方一人を飾り物にしても、困ることもないんだよ」

 少年は、ずいぶんと大人びた口調でそう言いながら、そっとティナへと手を延ばしてきた。

 ティナはそれに、まるで刃物でも向けられたように、びくりと震え、体を丸めながら、壁へと身を押し付けた。そうやって、極力、ユリアスから逃げようと、無駄な足掻きを見せながら、また、ぼろぼろと涙をこぼす。

 それに、光の魔神が小さく吐息をした。

 ユリアスの手が、そっと、頬に触れてきた。涙で張り付いていたティナの黒髪を払い、それを耳にかける。子供にしては広い手が、そっと、頭を撫でてきた。それに驚いて顔を上げると、困ったように笑っているユリアスと、また、目があってしまった。

「そう、怯えないで欲しいな」

 貴方を殺すつもりはないんだから。そう囁きながら、ユリアスが立ち上がった。

 光の魔神は、再度、ティナへと視線を向けると、馬鹿々々しいとつぶやきながら、彼女から離れていった。部屋を横切るように、真直ぐに進み、乱れた床を踏みにじっていく。そして、なんの未練も示さぬままに部屋の出入り口までいくと、乱暴な手つきで戸を引き、廊下に出ると同時に、ばしんと激しい音を立てて閉めていった。

 後に残されたティナは、半ば呆然とする思いで、彼を見送った。

 ぼうっとした表情のまま、乱れた髪に手をやり、無意識の内に整える。裾の割れた衣装の足元を直し、壁際に座り直したところで、また、どっと涙がこぼれてきた。

 口元に手をやろうと、のろのろと腕を動かしたところで、悲鳴のような嗚咽が漏れた。それを、堪えようと口を閉じたが、それを押し割るように、苦しげな呻き声が漏れてしまった。必死に、涙を堪えるが、こぼれ落ちてくるそれを、止める術がない。そうやって、泣きながら、ティナは木の床につっぷし、そこへと爪を立てた。

 銀の腕輪がかたりと音を立てて、床に触れた。

 

 


(update 2000/06/29)