オリジナル

■神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜■

−残酷な庭−2

作・三月さま


 

神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜

−残酷な庭−

 

 

 思いは空回りするばかりで、辛い気持ちばかりがつのった。

 

 賛否両論の婚儀が終わり、お祭り騒ぎが済んでみると、後に残ったのはしんとした静けさだった。

 戦が終わって以来の始めての慶事と言うことで、村人達も皆、それぞれ複雑な心境ながらも、久々の祭を楽しんだようだ。若い者ほど、その傾向が強い。戦を経験しても、実際の闘いの場に出ていないものなど、回りの渋い表情にも気付かず、はしゃいでいた。特に子供などは無邪気なもので、親がぴりぴりと苛立っているのを感じながらも、大判振る舞いとも言うべきご馳走に、大喜びしていた。

 その祭騒ぎも、三日で終わった。ユリアスは、そんな騒ぎは一日でもいいかなと思ったのだが、長老連中に反対されたのだ。陰惨な記憶を払うには、それを上回る慶事が必要だと言うのが、彼等の言い分だった。それには、ユリアスも反対はしない。ただ、三日も騒げるだけの蓄えがあるかどうかが、気掛かりだったのだ。それも、綿密な計算の結果、どうになると言うことで、許すことにした。願わくは、来年の春が早く来ることを祈る。最も、今度の停戦で、上位魔神の数も倍近くになったので、何かあっても切り抜けられるだろうが。

 そんなことを考えながら庭に出ると、それを待っていたかのように、ふわりと、一羽、鷹に似た大型の鳥が、ユリアスの肩へと舞い降りてきた。御館周辺の森のうち、その東部分を縄張りとしている大鳥だ。人に慣れることはないくせに、彼だけは大丈夫なのだと言わんばかりに、悠然と、ユリアスに近寄ってくる。それこそ、行き会えばさえ、止り木を見つけたように、舞い降りてくる愛想の良さだ。それに呆れて笑うと、何かとばかりに、丸い目をきょときょとさせながら、大きく羽を広げる。

 冬が来たと、鳥が愚痴をこぼす。言葉で語りかけてきた訳ではない。何となく、そう言われたような気がするのだ。昔から、こんな感じだった。この鷹だけではない。小さな鳥の声も聞くことができた。森に隠れ住む動物達の声も聞こえる。

 子供のころ、山に踏み込んだ時、熊と行き会ってぎょっとしたことがあるが、その時も小僧呼ばわりされ、無視されてしまった。秋近くで、食料が豊富なせいで助かったのだろう。だが、それでも、あの野性の大型動物は、妙に馴れ馴れしかったのだ。そのことに驚き、こけつまずきながら御館に戻り、そのことを母や、父親代わりだったマリスに話すと、彼等は一様に目を丸くし、それから、彼等は悲しげに笑った。

 どうやら、こうやって、声もない者達が投げかけてくる意思を聞き取るのは、血によるものらしい。父親が、こうだったそうだ。昔から、嫌に冷淡な奴だったが、動物ばっかりに優しかったんだと、マリスがこぼしたのを聞いたことがある。ようするに、そういう人だったのだろう。そんな奇特な男を、母は選んだ訳だ。常に彼女を見守っていたマリスではなく、不器用で、言葉のない存在にばかり気をかけていた男を、母は愛したのだ。

 鷹がはばたき、空へと消えた。それに、やれやれと思いながら、強ばった肩に手を延ばすと、今度は、森からざわざわと、小鳥が飛びかかってきた。それこそ、どこにそんなに隠れていたんだとばかりの、集団でだ。羽音と、こぼれ落ちる羽毛にまみれ、ユリアスがぎょっとしている間に、鳥達はまるで争うに、彼の体のどこかに止まろうと暴れた。端から見れば、魔神の長が、気の狂った鳥に襲われているようにも見えるだろう。実際、好かれて近寄ってこられる側は、そんな心境だ。一面鳥だらけで、息もできない状態で、呆然とするしかない。

 髪に柔らかい羽毛がたくさん絡み付き、服がぐしゃぐしゃにされる。鳥の足も、これでずいぶんと鋭いもので、下手に素肌に止まられると、ざっくりとはいかないものの、薄皮一枚が切り裂かれる程度の痛みを感じる。向かってくる大群の内でも、特に大きな鳥が、頭に座り込んだせいで、ずしりと首が重くなった。げんなりしながら、縁側へと戻るが、鳥は逃げようともしない。

 よれよれとした、頼りない足取りで縁側に越しを下ろすと、その縁に、びっしりと鳥が席を占める。足元にも、仲間に追い払われた力のない鳥が、ぱたぱたと小さくはばたきながら、足をつけた。頭に座り込んだ大鳥は、相変わらずだ。そのふてぶてしさが憎らしく、手を延ばして抱えると、鳥は抗いもせずに、おとなしく従った。膝の上に乗せると、黒い大きな瞳で、じっとユリアスを見上げてくる。

 鳥に囲まれながらぼうっとしていると、不意に、縁側に続く廊下の向こうから、人の気配がした。誰かなと見てみると、ウォウサが苦笑しながら立っている。

 その闖入者を見て、鳥がぱっと飛び立った。ユリアスの側にいた鳥は、動こうとはしないが、さすがに、縁側の縁に止まっていたものや、庭を徘徊していた鳥は、ウォウサを警戒して、ぱっと距離をとる。そのすばしこい動きにくっくと肩を揺らしながら、大地の魔神は冷やかすように、目を細めた。

「人気者ですね、『兄上』」

 いつもと違う声音で、『兄』と呼ぶ。その、大地の魔神の無邪気さに、ユリアスもまた、小さく笑った。

「なんだ、それは」

「別に。ただ、これで大手を振って、兄上と呼べるかと思うと、嬉しくて」

 いかにも嘘をついていますと言う顔で、彼はいけしゃあしゃあと言ってのける。元々、気兼ねもしていなかったくせにと笑うと、彼は当然だとばかりに頷いた。

 そんな態度が小憎らしく、鳥に襲わせるぞと脅すと、ウォウサはあからさまにぎょっとした。あるいは、先ほどのユリアスの無様な姿を見て、陰で笑っていたのかもしれない。警戒するように、鳥の群れを見据えながら、冗談でしょうと聞いてくる。

「まさか、兄上、そんな、動物をけしかける真似なんか、しませんよね?」

「どうだろうな。やったことはないから。だが、やってくれそうではあるな」

 なんともひ弱で可愛らしい援軍だと、魔神の長は笑う。

 すっと手を差し出すと、その指先に小鳥が止まった。冬前で、忙しいだろうに、寄ってくる彼等が愛しくて、ついつい、顔がほころんでしまう。

 魔神の長が、行け、と示唆すると、鳥達はざっと音を立てて、森へと戻っていった。その様を、圧巻だとつぶやきながら、大地の魔神は困ったように笑う。

 その義弟の頭を乱暴にこづきながら、ユリアスも顔をほころばせた。行くぞと、ウォウサを促し、廊下へと上がり、御館の東翼に向かって歩く。その後を、重い足音を立てて、大地の魔神が続いた。

 

 魔神の家では、男女平等な権利があり、夫婦はそれぞれの役目こそ違えど、傑出した立場の違いがある訳ではない。上位と呼ばれる、一部の魔力の高い者と、中位程度の魔神が結ばれると、さすがに、力の違いからか、立場も微妙に差別化されたものとなる。だが、これも逆に、近接した力の者同士の婚姻となると、同等の立場が主張されるのが普通だった。妻の方が魔力が高いゆえに、彼女の方が外での責務を果たし、夫が家を守ると言うことも、そう珍しいことではない。

 そういう長年の風習に感化されたためか、長の住む御館でも、男女の立場はそう、格別されたものではなかった。その延長戦上として、ティナは、魔神の若い支配者と、食膳を並べている。

 ユリアスに対する給仕を理由として、彼と共に箸をとることを拒めると思っていたのだが、そうもいかなかった。長の給仕はもっぱら、侍女達の仕事であり、彼女達はその責務を、ティナに譲ろうとはしなかった。やんわりと断わりながらも、婉曲に、余計なことはするなと凄んでくる。

 長であるユリアスが、初夜の日、新妻に触れることなく床を別にしたことは、すでに御館内に広まっているらしい。耳聡く、経験深い侍女達も多くいる場所だ。例え、彼が荒々しく出ていった場面を目撃していなくとも、床の様子や、若夫婦のそっけない態度を見れば、何があったかは察せられるのかもしれない。そんな年を経た侍女の中には、一人、二人と口の軽い者もいただろう。今では、ティナがただの、形だけの妻と言うのは、御館内では既に公然の秘密だ。

 幸いなのは、それが、村にまで広まっていないことだろう。今日、ユリアスから許しを貰って村に出たところ、古くからの知人だった魔神に会い、さり気なく、冷やかされてしまった。ティナとしては、苦笑いするしかなかった、嫌な一時だった。

 ふと顔を上げて、目の前に座っているユリアスを見ると、彼は我関せずと言うように、黙々と箸を動かしている。側に控えている侍女に話しかけるわけでもなく、食べては飲み込み、食べては飲み込みを繰り返している。よくも食べられるものだと見てみれば、器のほとんどが空に近かった。ティナの方は、食べるのが遅いので、まだ半分も、片付けられていない。

 そのうち、ユリアスが箸を置いた。食べ終わったのだろう。これで、彼が出ていけば、一人で気楽に昼食を片付けられると、せいせいした。だが、彼は少しも動く気配がない。侍女が膳を片付けようとすると、それをやんわりととどめる。お茶を出そうかと、彼女が申し出るが、それも断わっていた。

 何のつもりかと思い、彼を見るが、視線が合わない。まるで、お前の顔など見たくないとばかりに、そっぽを向いている。それに腹が立って、こちらもそっぽを向いて食事を続けていると、不意に、彼がぼそりとつぶやいた。何を言ったのかと耳をそばだてると、鈍い女と、罵る声が聞こえた。

「貴方にそんなことを言われる覚えはないわ!」

 思わずかっとなって、膳に箸を叩き付けた。ティナの給仕をするために控えていた侍女が、お止め下さいと、制止する声が聞こえる。止めようと、手を差し出してくる彼女の腕を払いながら、噛みつくようにユリアスを睨みつけた。そんな彼女に、魔神の若い長は、さも馬鹿にするように、薄い笑みを浮かべる。

「鈍いものは、鈍いだろう。本当のことを言って、何が悪い?」

「私の、食事の取り方について、そう言ってらっしゃるの!?」

「……なるほど。他にも鈍いところがおありか?」

 くつくつと、肩を揺らして、光の魔神は笑う。

 その態度が苛立たしくて、ティナは膳を前へと押しやり、席から立ち上がった。また、侍女が彼女をとどめようとする。そんな若い娘の健気ささえもが腹立たしく、乱暴に彼女の手を払った。そうやって、怒りも露に部屋を出ようとするティナの背に、長の呆れた声がかかってきた。

「大陸の魔神は、裕福だったんだね?」

「何を……!」

「だって、残してるし。後で腹が減っても、誰も何もくれないよ。それが、ここでは普通だから。今のところはね」

 ティナの押し出した膳を、彼女の席の方へと戻しながら、長は冷たい目で見据えてくる。

 そこに、咎めるような色合いが宿っているのを見つけ、ティナは思わず、体をびくりと震わせてしまった。胸元でぎゅっと手を握り締めながら、悠然と座っているユリアスを睨む。彼は、そんな凄みなど気にならないとばかりに薄く冷笑しながら、ティナを嘲った。

「言っておくが、ここでは食っていくのがぎりぎりだ。宴は一つだけ、行えたけどね。たぶん、あれが最後になる。余剰はない。次ぎの秋までもつので精一杯だろう。何しろ、大地と水の魔神が少なかったからな。土地も痩せて、収穫が少ないんだよ」

 とりあえず、席に戻って食事を続けろと、ユリアスはまるで命令するような口調で言いつけてきた。それに、かっかとなりながら、顔を赤くして下唇を噛むと、彼はもう一度、先ほどよりは幾らか和らいだ声で、戻った方がいいとつぶやいた。

「これだけの量じゃ、夜までもたないだろう。食べた方がいい。機嫌を害したのなら、謝るから」

 長はそれだけ言うと、そっとため息をついた。自分の膳を、侍女に渡しながら、席を立つ。

「私がいて、食べる気がしないと言うのなら、出ていこう。ともかく、食べるんだ」

 ユリアスは、侍女に、部屋の方に茶を持ってくるように言いつけ、席を離れた。戸口の側で立ち尽くしているティナの側をあっさりとすり抜け、何もなかったような顔で、廊下に出ようとする。

 そこで、ふと彼は足を止めた。思い出したとでも言いたげに、ティナを振り返り、また、小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。

「今日から、貴方にも働いてもらうから。連続で麦を収穫した後で、畑の土が弱っているから。貴方の魔力を注いでもらう」

「……異存はありませんが」

 この島にある村で暮らすと決めた以上、一族に貢献するためならば、何でもすると、言外に伝える。自分の持つ属性と同じものへ、魔力を注ぐのは、魔神としての特筆すべき能力だった。ティナの持つ力を使えば、疲弊した大地も、豊かなものへと回復させることができるだろう。その能力を、存分に使い、役に立てと言うことか。まさか、ユリアスが憎いからと、一族に仇なすように、大地を癒すことを拒否することはできない。それでも、どこか釈然としないままに、そっけなく頷く。

 ユリアスはそれに、満足気に頷いた。鷹揚で、信用するに足ると言われた、支配者らしい表情で笑いながら、ふっと顔をそらす。そのまま、彼は後腐れも悪びれも見せずに、ティナの元から去っていった。彼の後を、長付きの侍女が、ぱたぱたと追っていく。確か、ティナさえいなければ、彼の妻になれたかもしれない女だったか。上位で、親も権威ある魔神だったと思う。

 振り返ると、長の奥方付きとされている侍女が、不安気に見つめてくるのと目があった。

「ごめんなさいね。食事、すぐに終わらせてしまいますから」

「いえ……。あの、奥様?」

 今だティナが聞き慣れない呼称で呼びかけながら、侍女は、さも申し訳なさそうな顔になった。

「あの、あまり、ユリアス様のおっしゃること、気になさらない方がよろしいですよ?」

「そう?」

 侍女の言葉よりは、彼女の態度を不思議に思いながら、ティナは小さく首を傾げた。

 敵方の御館に置かれることになったのだから、回りはそれこそ、敵意を持つ者ばかりかと思っていたのだが、この、いまだ若い、ティナよりも少しだけ年下に見える娘は、違うらしい。少々経験が浅く、失敗することもあったが、気立ての優しさでは、御館一だった。何よりも、敗者と言うことで、ティナを軽んじない。むしろ、長の正室に対する尊敬をまっすぐに向けながら、見上げてくれている。

「ユリアス様は、少し、お食べになるのが早すぎるんですよ。あの方、いつも、かきこんでらっしゃるから。今日はまだ、遅い方でしたけど」

「いつも、かきこんでるの?」

 下品ねとは言わない。さすがに、そこまで長を罵倒すれば、この娘でも不快になるだろうと思ったからだ。

 そんなティナの思いに気付かないのか、侍女は膳を整え直しながら、困ったように笑った。ティナが席に座ると、その横にちょこんと控え、小さく身をちぢこませる。

「ユリアス様は、その、停戦するまで、ずっと、前線に出てらっしゃったでしょう。でも、なるべく、御館にいるようにもなさっていたから。あまり、食事に時間を割いたりとか、できなかったんですよ」

「そう……」

 別にそんなことは自分には関係ないと、ティナは聞き流す。

 侍女の方は、やはりそれに気付かずに、とうとうと、独り言のような言葉をつぶやき続けた。

「ここ数年、村も魔族に狙われることが多くて。ユリアス様は、それもどうにかしなくちゃいけなかったみたいで。いっつも、お忙しそうでしたよ。奥方様の方も……」

「私?」

 ふと、名前を呼ばれて侍女を見ると、少女はさも不安気な表情をした。顔がやや青ざめて見える。どうしたのかと、不思議に思いながら小首を傾げると、侍女はそれに勢いを得たように、ぐっと身を乗り出してきた。

「奥方様のいらっしゃった大陸の方の村でも、魔族とか、いっぱい来ました?」

「……それほどではなかったけれど。どうして?」

「そうですか……。こっちは、たくさん来ていて。下位の方とか、いっぱい殺されたこともあったんです。上位が出払っていた時で。ユリアス様しか残ってなくって。確か、あれがユリアス様の初陣ですよ。村を守った戦いです」

 私もその時に怪我をしたんですと、少女が袖をまくる。真っ白な肌が、ぼんやりと光って見えた。傷跡のようなものはない。どうして、普通の腕を見せるのかなと、ティナが首を傾げたところで、侍女である娘は小さくはにかんだ。

「ここを切られたんですけどね。ユリアス様に癒して頂いたんです。傷って、ほっとくと残りますからね。一度残っちゃうと、もう、消えませんから」

 傷が残ると、やはり、後で色々と困ることがあるからと、娘は苦笑いする。

 彼女の負った傷は、二の腕から肩にかけての、かなり深いものだったらしい。赤く血が吹き出るその形は、まるで蛇のようだったと、娘は小さく眉を潜めながら言う。

 その様が痛々しくて、ティナが思わず眉を潜めると、少女はそれを不快と取ったのか、慌てて、まくり上げた袖を直した。申し訳ありません、ごめんなさいと必死に謝りながら、ぺこぺこと頭を下げる。

 その拍子に、彼女が風の魔神であると言う印である、薄く緑がかった黒髪が、小さく揺れた。肩口で切りそろえられたそれは、細く、真直ぐに伸びていて、見ているだけでも、さらさらと言う音が聞こえてくる気がする。その髪に触れるように、頭を撫でると、侍女はびっくりしたように顔を上げた。そんな彼女に笑いかけながら、ティナはごめんなさいねと、小さくつぶやく。

「貴方も大変だったのね。ごめんなさい、困らせてしまって」

「あ、いえ、いいんです。ティナ様も、大変だったでしょうし。私は大丈夫ですよ。これでも上位ですから。けっこう打たれ強いんですよ」

 えへんと威張りながら、少女は可愛らしく自慢してみせる。

 そんな彼女が愛しく感じられ、思わず微笑んでしまったティナだったが、その後の話の流れで、この侍女が、実は自分よりも五十も年上だと聞いた時は、かなりびっくりした。

 

 ティナの侍女である風の魔神が言った通り、この島は魔族の襲来がかなり頻繁らしい。

 長の妻と言う立場になるまで、御館に篭っていたせいか、それとは知らなかったのだが、二、三か月に一度は、魔族が村にちょっかいを出してくるらしい。それを警戒してか、ユリアスは、自らの力で、村の周辺に大きな結界を張っている。御館を中心に広がっている森をを使った、自然とあいまった、魔法の壁だ。ぐるりと村を囲んだそれは、森にある幾つもの大木を基盤として建てられている。そこに、魔族が不用意に踏み込むと、弾くから、あるいは、取り込んで動けなくすると言う仕組らしかった。

 もっとも、これにも弊害があって、大型で込み入った魔法陣を使っている分、対象判別が粗雑になっている。魔族だけではなく、同族である魔神まで、排除対象となっているのだ。しかも、始末の悪いことに、その結界は、目に見えず、魔力としても関知しにくいものとなっている。上位魔神ならばまだしも、辺りの気配や森の具合から、それとなく察せられるものだったが、これが、下位の魔神や子供となると、まるで、気付くことができないらしい。

 結界は、頻繁な魔族の襲来の大半を未然に防ぐ重要な壁ではあったが、同時に、弱者を脅かす、迷宮となっているようだった。

 ユリアスも馬鹿ではないから、下位の者達に、結界のある森には踏み込まないようにと呼びかけているらしい。彼等も、外に出れば、魔族の脅威があると判っているから、早々、森へと入り込んだりはしない。別段、そこで食料を得なくとも、結界の内側にある森だけでも、十分、必要なものを取ることはできる。問題はむしろ、聞き分けのない子供達だった。何が楽しいのか、幼い子等は、いまだ魔神としての力も開花していないと言うのに、危険なことに首をつっこみたがる。

 その日、森に入り込んで帰らなくなったのも、そんなやんちゃな子供達だった。

 

 魔神の長の妻と言っても、ただ、悠然と微笑んでいればいいだけのものではない。ユリアスが長として、休む暇もなく立ち回っているのと同様に、なすべき責務が山積みしている。いまだ統率が取れないものの、御館の内の侍女を纏めなくてはならに。本来、彼女等を支配するのは、婦人の役目なのだ。軽んじられている手前、あまり、強く出られないティナだったが、それでも、形ばかりでもやらねばならないことがある。

 その他にも、村からの訴状を、長の代わりに聞く役目もある。村が、平穏であるかを定期的に見るのも、また、婦人のなすべきことだった。実務的なことは、ユリアスがほとんどこなしているとは言え、彼の手からこぼれた事項は多く、その全てが、ティナに降りかかってくるのだ。

 中位の魔神の母親数人が、嘆願して来た時も、ユリアスは丁度、御館に不在だった。何をしているかは知らない。婚姻した当初は、どこへいく、何をすると言ってきた彼も、ティナが頷きもせず、そっぽを向き続けたのに呆れたのだろう。今ではもう、報告することもなく、ふらりと消えてしまうことが多い。婦人であるティナよりも、側近でもない魔神の方が、長の行動に詳しいと言う有様だ。母親達がやってきた今日だけ、ユリアスの行く先を把握していることなど、ありえない。

 長の代理として、母親達に会うため、御館の広間の一つへと行くと、廊下を進む内から、女達と、長老の誰かが言い争っているのが聞こえた。おそらく、ユリアスが不在だと言うことを聞いて、女達が荒れているのだろう。あの方がいなければと、嘆いている声が聞こえる。

 軽く戸を叩き、向こうからの反応が返ってくるよりも早く、室内に入った。ぎょっとした顔つきの母親達と、あからさまに助かったと安堵する水の長老と目が合う。

「子供達が、森に入ったまま帰ってこないと聞きましたが。何時ごろ、その子達は森に入ったのですか?」

 水の長老の待つ上座へと移動しながら、母親達へと問いかけると、代表と見える女が、恐れながらと、ずいっと膝を進めてきた。何やら、見たことがある顔だなと思って首を傾げた所で、誰なのかが判って、目を丸くしてしまった。

 大陸に居たころ、ティナの側に使えてくれていた若い上位の魔神だった。目だって美しい娘というわけではないが、気立てが優しく、おっとりとしたところが、誰にも負けない美点だった。ティナが彼女をそれと知ったころには、もう、二人、子供がいたはずだ。上が男の子で、下が女の子だったか。子供の話をする時には、さも、幸せそうに笑うので、印象深かった娘だ。

 ティナが目を止めると、彼女はほっとしたように表情を緩めながら、お嬢様と、思わずとしか言いようのない口調で、そう呼びかけてきた。大陸に居たころの呼び名だ。今では、もう、奥方様と言う名前で呼ばれるだけだっただけに、その言葉はふっと、心に染み入ってきた。懐かしさがどっと、胸にせり上がってきて、思わず涙ぐんでしまう。その目の潤みを隠すように、そと顔を伏せながら、ティナは一言、懐かしいこととつぶやいた。

「貴方のことは覚えていますよ。上と下の子の、どちらが森に行ったのですか?」

「両方です。上の子が、下の子まで連れていってしまったみたいで。うちの子を入れて、八人です」

「……それは、また、大勢で行ったのね」

 冒険気分で、暗い森へと踏み込んでいったのだろうと、思わずため息をついてしまう。

 ティナの侍女をしていた女は、上位の、それも、大地の魔神だ。子供も、確か、上の子が同じ属性を持って居たはずだ。その魔力ゆえに、森とは相性がいいはずだ。大地の魔神は、木々に好かれやすい。いくら、光の結界が張ってある場所だとは言え、そうそう、森がその子を拒むとも思えなかった。ある程度の無事は確保されていると見ていいだろう。母親である女の方も、似たようなことを考えているのか。不安だと口にする割りには、表情はあまり青ざめていない。

「判りました。私が向かえに行きます」

 上座に正座しながら、ティナがそう宣言すると、水の長老が異議ありというように、顔をしかめた。期待と不安に満ちた表情でこちらを見つめてくる女達を気にしながら、待って下さいと、押し止めようとする。

「ユリアス様は、日がくれるまで、お戻りになりません。あまり、軽々しく動かれない方がよいのではないでしょうか。長が戻るまで、自重すべきです」

「でも、日暮れまで待っていては、子供達が哀れです」

 今はもう昼で、お腹も透かしているはずだと、ティナはさも気の毒そうにつぶやいた。

「第一、暗くなれば、子供達が不安がります。早く向かえにいってあげなければ、可哀そうでしょう」

「それは、それ。これは、これです」

 ティナのすぐ横に席を占めていた水の長老は、同意することはできないとばかりに、軽く首を振った。彼はもう一歩分、膝を進めると、女達に聞こえないようにと気を払っているのか、酷く小さな声で囁きかけてきた。ティナでさえ、思わず聞きのがしそうになる、そよ風のような小声だ。そんな、低い声で、水の魔神はもう一度、止めた方がよいと繰り返した。

「あの森は、ユリアス様の領域です。不用意に踏み込まれない方がいい。魔力で負ける者は、たちまち惑わされてしまう。危険です」

「……私の魔力ならば、大丈夫でしょう」

 あの森の迷宮作用のある結界も、魔力の強い者ならば効かないはずだと、ティナはぴしゃりという。

 それに、水の長老はあからさまに嫌そうな顔になった。こういうところが、若いと思う。彼も、ティナよりさらに、二百ばかり年長の魔神だったが、長老という役目を果たす上では、まだまだ、経験不足に見えた。この水の長老よりは、むしろ、人を見下げるような瞳を持つユリアスの方が、何百年分も、年上に見える。

 ティナは、水の長老から視線をそらすと、もう話こともないだろうと、席から立ち上がった。じっと、緊張した面持ちで自分を見つめてくる、子供の母親達に、大丈夫だからと笑いかけながら、部屋を後にしようとする。その彼女の背に、もう一言だけとばかりに、水の長老の引きつった声がかかってきた。

「森の結界は、確かに、魔力の高い者にはききません。ですが、それは、外部からの者にも言えるのですよ?」

「……お黙りなさい」

 何故、ここでそんなことを叫び、母親達を余計に不安にさせるのか。その、行動自体が信じられず、ティナは侮蔑するような視線を、水の長老へと向けた。そして、ついっと顔を背ける。

 いくらか遠回しに言ったとはいえ、その『外部からの者』と言うのが、魔族を指すことに、気付かぬ者がいるのだろうか。母親達の顔を見てみれば、皆が、その考えに行き当たったと判る。子供のことが心配で、ただでさえ蒼白で痛々しい表情をしていたのだが、今はもう、顔全体が引きつった、酷い顔になっていた。泣き出さないだけまだ我慢強いと言うべきか。中には、卒倒しそうな者までいる。

 彼女達へと、任せておいてくれと笑いかけながら、ティナはさっと廊下へと出た。そこで、いったん足を止め、暗い木目の天井を見上げ、自分を励ますように、ふっと深呼吸する。

 実際、ユリアスが森を基盤として張った結界がどういったものなのかは、見たことがなかった。知識としては知っている。だが、その中で、どう子供を見つければいいかまでは、見当が付かなかった。頼るのは、ただ、自分の持つ魔力と、後は、大地に根差す木々だけだった。彼等の言葉に耳を傾け、小さな吐息を聞き逃さなければ、きっと、子供達を見つけられるはずだ。

 室内用の礼装から、外に出られるだけの服装に改めるため、自室へと戻る。その途中で、ユリアスが以前、あの森には行かないようにと言っていたのを思い出したが、その注意を無理矢理、頭から追い出した。子供達が待っているのだからと、自分に言い聞かせる。いくら、あの憎い男が何を言おうとも、関係なかった。ただ、待っているだろう子等を早く、村に戻してやらなければと、焦っていた。

 

 夕刻になって、ようやくユリアスが御館に戻ると、屋敷は、何時にも増して騒々しい、人気の多い有様だった。この時間帯は、夕食を準備している真っ最中と言うこともあってか、侍女達も多く立ち回り、火の置いてある台所付近も活気立つ。今日はそれに加え、男達が多く、屋敷を出入りしていた。

 夜半になって、雨が降るのか、空気がじっとりと湿っている。炎の魔神ならば、その水っぽい風に辟易して、外には決して出ようとしない天気だ。それにもかかわらず、何やらかっかといきり立っている炎の魔神が、多く見られた。夕刻や夜間にはあまり出歩かない光の魔神も多い。

 ユリアスが、義弟であるウォウサとひょっこり玄関に顔を出すと、その衛兵代わりの中位魔神達に、どっと囲まれた。

「ど、どうしたんだ?」

 広い玄関の石畳の上で、自分よりもよほど年上の男達に囲まれ、思わず身を引くと、魔神達の中でもとりわけ年を経ている男が、ティナ様がと、口にした。

「ティナ様……。奥方様のお姿が見えないのです」

「おや、それはまた……」

 面倒なことを。口の中で転がすようにユリアスがつぶやく傍ら、隣に立っていたウォウサが、ぱっと血相を変えて、男の襟首を掴んだ。大地の魔神は、締め上げるように男を自分の方へと引き寄せると、唯でさえ可愛げのない顔をさらに強ばらせ、まるで脅すように彼を睨み付ける。その形相を見かねて、ユリアスが止めようとするよりも早く、ウォウサは轟音としか言いようのない声で、どっと叫んだ。

「姉上が居られぬとは、どういうことだ!?」

「御館のどこにも、お姿が見えないのです!」

 男も、中位魔神とは言え、年齢を経た、経験ある魔神だ。小僧に嘗められてたまるものかとばかりに、ウォウサに噛み突き返す。

 中位魔神は、ウォウサの手を乱暴に払うと、もうこれ以上彼に話すことはないとばかりに、長であるユリアスの方へと向き直った。かっかとしている大地の魔神をしり目に、彼は一つ頭を下げ、あらかじめ用意していたらしい事訳を口にした。

「半時ほど前、ティナ様のお部屋に面している庭の陰で、護衛としていた魔神二人が倒れているのが見つかりました」

「……嫌な報告だ」

 苦笑いを噛みつぶしながら、ユリアスはつぶやく。

 彼は、辺りに固まっている魔神達を見回すと、ほんの一瞬考えこみ、困ったように笑った。

「で、今ここにいる者達と、他には誰が動ける?」

「御館におりました男手は、水の長老のティシュル様の命により、既に散らばせております。ここにおりますのは、残りを命じられた者と、村から新たに集められた者です」

「……なるほど。で、どこに散らばせたか、判るか?」

 ユリアスの簡潔な問いかけに、男はしばし躊躇した後、あまりはっきりとしない口調で、否定の言葉を口にした。曰く、水の長老が手勢を分けた際、彼はそこにいなかったらしいのだ。第一陣として、外に追いやられ、しばらくした後、御館に戻されたのだと言う。

 そんな頼りない報告に業を煮やしたのか、それとも、親切心からだったのか。男の横にいた、比較的若い魔神が、おずおずと言うように、発言した。それにユリアスが目を止めると、青年は相変わらず、気弱な仕草で顔をうつむかせ、水の長老が命じたと言う、人員の配分を、手早く告げていった。

 御館からやや離れた場所にある湖に五人、山の方へ七人。その麓にある台地へと三人。さらに、北の森へと六人を向けたらしい。

 それを聞いて、ユリアスは軽く鼻を鳴らした。なるほどねぇと、面白そうに頷き、冷たい笑みを浮かべる。

「良く、判った。ありがとう。じゃ、こうしよう」

 ユリアスは軽く手を打つと、まず、横で不貞腐れ、目に見えて苛立っていたウォウサへと向き直った。

「ウォウサは、すぐにティナの居場所を探ってくれ。なに、彼女も大地の魔神で、君の姉上だ。大地に問いかければ、すぐに見つかるさ」

 静かな場所が欲しいのなら、御館のどこの部屋でも使えばいい。どのように人払いしてもいいと、告げる。そうすると、ウォウサは途端にぱっと顔を輝かせ、承知と叫びながら、集まっていた魔神達の間を縫って、どっと走り出した。巨躯で無理矢理突進してくる大地の魔神を避けるために、男達がわっと声を上げる。そんな彼等を、半ば押し退けるようにして、ウォウサは足音も煩く、御館の奥へと駆けていった。

 義弟の背中を苦笑しながら見送り、ユリアスは困ったねぇと、誰に言うでもなくつぶやいた。彼は、母親譲りの黄金の髪を軽くかき上げると、悠然と回りにいた魔神達を見回した。そして、一人、二人と、勢いのありそうな、若い魔神を見つくろい、それぞれに、手勢が向かった先へと伝令に向かうように告げる。

「すぐに、戻ってくるように言うんだ。いいね。村を全滅させたくなければ、すぐに戻るように言うんだ」

 君達が遅くても、村は全滅するかもしれないと、軽く脅す。

 その言葉に、玄関に集まっていた魔神達が、騒然となった。長を向かえるために出てきたのだろう。この時刻、水の長老に代わって、御館に詰めることになっていた闇の長老が、これはなんだとばかりに、わっと声を上げた。

「ユリアス様、それはどういうことですか。そんな、全滅など。魔族が来るわけでもあるまいし!」

 人垣の向こうから、闇の長老が、低い背でぴょんぴょんと跳ねている。彼は、飛び跳ねたせいで乱れた、長い黒髪を整えながら、おたおたと頼りない足取りで、魔神達の間をかき分けてくる。男達も、目上の者に不敬があってはならないと、即座に道を開けようとするが、如何せん、人が集まりすぎている。なかなか、長老が通れるだけの場所を開けられずに、四苦八苦することとなった。

 男達に揉まれながらも、なんとか、ユリアスの前に出てきた闇の長老は、ぐしゃぐしゃになった服を整えながら、背の高い長を見上げた。ユリアスも、青い瞳の奥で苦笑しながら、短躯で華奢な闇の長老を見下ろす。

「どうもこうもないさ、お前の言う通りだよ」

「言う通りとは!?」

「魔族が来る。私の結界も破られるだろう。時間はない。すぐに動こう」

 今だ立ち尽くしているだけだった若い魔神達に、早く、手勢を呼び戻すように告げる。そのまま、彼等の次ぎに足の早そうな風の魔神を見つくろい、各長老を集めるように指示した。

 闇の長老も、始めこそ、ぎょっとしたように目を向いていたが、そこは認められ、敬われる魔神だけあったらしい。ぱっと我に返ると共に、回りの男達を叱咤し、すぐに散るように怒鳴り散らした。男達へと、手早く指示を与えていくユリアスに代わって、出ていく者に、闇の守護を与えていく。魔族との戦があった際に、必ず付与するものだ。その事実が、男達により強い緊迫感を与えたようだ。ユリアスの言葉を受けても、なお、釈然としなかった者もいたのだが、その青年も守護を受けた途端に、さっと顔色を変え、飛び出していった。

 手勢を集めにゆく風の魔神や、村人の避難のために飛び出していく大地の魔神がいる。そうしている間に、ひょっこりと、炎の長老が玄関に顔を出した。もうそろそろ夕食かと言うところで、呼びつけられたらしい。いたって不機嫌そうな顔をしている。それも、年長の闇の長老に手早く説明を受けると、すぐに、表情を引き締めた。なんで、こんな時にとありったけの悪態で魔族を罵りながら、どかどかと、御館の奥へと走っていく。

 男達がめまぐるしく出入りを始め、御館の庭を目指して、村人の一部が避難し始めた。村中にユリアスの森を利用した結界がある以上、家の中にいても安全と言うことになっているが、いざと言う時にはやはり、戦力が集中している御館の方が安全なのだ。なおかつ、今回は、ユリアスが結界が破られると明言している。そのせいか、御館に集まる人数は、いつもの数倍となっていた。おそらく、村全部が移動してくることになるだろう。

 ユリアスが、汗をかいた上着を脱ぎながら御館の奥へと向かうと、闇の長老が後を折ってきた。雑務の方は、戻ってきた他の長老に任せたらしい。小走りに付いてきながら、長よと、呼びかけてくる。

「何故、ティナ様が行方不明になられただけで、魔族が来ると言うことになるのですか!?」

 一応、ユリアスの意見に同意はしたものの、いまだ、その根本的な理由などを見破ったわけではないらしい。必死に、長へと追いすがりながら、頼むから、それだけは教えてくれとすがってくる。

 半ば息切れしながら追ってくる闇の長老を見て、ユリアスは歩調を緩めた。短躯の彼がついてきても、支障がない程度に遅く歩きながら、苦りきった笑みを浮かべる。

「こっちにおいで」

 ユリアスは、闇の長老の手を掴むと、近くにあった部屋へと入り込んだ。いまだ騒ぎを知らない侍女が二人、手仕事をしていたので、彼女達を追い払う。

 その上で、部屋の中央まで闇の長老を引きずり込み、そこに、彼を座らせた。片膝をつき、彼の漆黒の瞳を見下ろしながら、あのねと、前置きをする。

「これは、まだ、あまり他言をしてほしくはないんだ。私たちが不利になるからね」

「……どういうことですか?」

「ティルシュ……。水の長老のね、ティルシュだけど、彼は、半神半魔なんだよ」

 これは、あくまで君は信用における人物だと思ったから話しているんだよと、ユリアスは笑う。だが、目だけは真剣そのものだった。青い瞳は、その水を思わせる冷たさが、そのまま酷薄さの現われのように、寒々として見えた。そんな目を輝かせながら、長であるはずの魔神は、無邪気に笑って見せる。

「これは、私だけの胸に留めていた事実だけどね。本当だよ。彼は父親が魔族だ。彼自身も、そのことは知っている」

「そんな……」

 何故、そんな魔神が、長老などになれたのか。何故、そんな男が、今まで生きていることが出来たのか。何故、母親はそんな子を生んだのか。そんな思いが渦巻いているのだろう。闇の長老は、元々聡明な男だったが、今はただ、混乱しているだけのようだ。目をきょときょと彷徨わせながら、時に、ユリアスの視線から逃れようとするように、顔を背ける。

 その果てに、闇の長老は青ざめた表情で、ユリアスを真直ぐに見返してきた。そして、それは何かのご冗談でしょうと聞いてくる。それに、ユリアスははっきりと首を横に振ってやった。

「本当だよ。そして、もう一つ。最近、ティルシュは魔族と接している。私の婚礼の後と、先の新月の夜だ」

「誰が見たというのですか、そのようなこと!!」

 思わずと言うように、闇の長老が声を荒げる。

 それを薄く笑いながら、ユリアスは、人さし指で自分の胸を抑えた。

「私だ。私が見た。結界内に誰かが入り込んだ気配がしたから見にいったんだよ。そこに、ティルシュと魔族がいた」

 相手が魔族だった場合、一人で始末を付ける気だったとは、口に出しては言わない。だが、闇の長老には、それだけでも十分伝わったようだ。誇り高い闇の魔神は、青ざめさせていた顔を、さらに真っ白にさせながら、がたがたと、男にしてはずいぶんと華奢な体を震わせていた。信じられないと言ったように、ユリアスを見上げ、そして、ひゅぅっと、細々とした息を吐き出す。

「ならば、今回のことは、ティルシュの手引きですか?」

「そうだね。ティナを使う気なんだろう。頭の良い奴だ」

 困ったことだとつぶやきながら、ユリアスは小さくため息をついた。

「ティナは、あれで、魔力が大きいから。しかも、意のままに扱う術を覚えている。結界内で魔族と遭遇すれば、戦おうとするだろう。だが、始末が悪いことに……」

「奥方様は、戦えないと言うことですか」

「まぁね」

 苦笑いしながら、ユリアスは頷く。

「彼女は、戦えない。女だからと言うわけではないけど。不向きなんだ。優しいんだよ。他人を傷つけることに慣れていない。憎い仇と付け狙っている私の寝首さえ、かけないのだから。臆病で、優しい、繊細な女性だ」

 小さく肩を揺らしながら、長は笑う。

「それでも、彼女は自分を守るために、力を使うだろう。彼女はたぶん、森の中にいる。あそこの結界が、彼女の力では一番破りやすい。誘い込むのにしても、魔神の一人でも迷わせておけば、彼女の気性なら、きっと一人ででも助けにいこうとするだろうからね。その迷った魔神のために、彼女は力を使うだろう」

 困った人だと、独り言のようにつぶやく。

 そんなユリアスを、闇の長老はどこか、複雑そうな表情で見上げていた。その曖昧な視線に、ふっと気が付いて見返すと、年長の闇の魔神は、青ざめていた顔に、ふっと血の気を灯らせながら、薄く笑った。黒々とした濡れた瞳いっぱいに、安らかな夜を思わせる優しさを称え、ふっと目を細める。

「ユリアス様、私はずっと、貴方は策略のために、ティナ様を娶られたと思っていました」

「……どうした、急に?」

 膝をついて座っていた態勢から、ゆっくりと身を起こしながら、ユリアスはふっと笑みを浮かべる。

「お前の思っていた通りだ。私は、この魔神と言う種を楽に纏めるために、ティナを娶ったのだが?」

「……そういうことにしておきましょうか」

 年上然とした態度で微笑しながら、闇の魔神も立ち上がった。

 彼の先に立って部屋から歩み出ながら、ユリアスはくっと、口元を歪めた。そういう見方もあるのだなと、一人ごち、そして、魔神達のさざめいている御館の奥へと、真直ぐに歩いていった。

 

 始めてティナを見たのは、まだ母が生きて居る頃だった。

 

 それまで、自分に父がいるなど思ってもみなかった。父親と言う存在があることは理解していたが、どこか、漠然とだが、自分には父などいないと思っていたのだ。むしろ、そういう意味合いを持つ男性としては、身近に、炎のマリスがいた。母親の親友で、同時に、彼女にとっての右腕だった。

 マリスは、誰よりも勇猛で、強かった。そのくせ、酷く優しく、時には、実母であるルシアよりもなお、暖かく接してくれたことがあった。ユリアスに、戦う術を与えてくれたのは彼だった。魔力の扱い方や、精霊達への語りかけ方は、同じ属性を持つ母に、よく習った。だが、より実践的なことを仕込んでくれたのは、マリスだった。いかにして、より強い力を表わすか。残り少ない魔力で、どうやって、敵を欺くか。時勢が、それらを学ことを強要した。どん底でも、生き残るために足掻かなければならなかったのだ。例え、母が島側の魔神の長で、彼女の血を濃く引いていても、もしもの時に備えていなければならなかった。そんな、非情な知恵を、マリスは与えてくれた。

 彼はユリアスにとって、父親だった。だが、母にとっては、彼はあくまで親友だったのだ。彼女はどこまでも、ユリアスの父にあたる魔神に貞節を貫いていた。彼だけを愛していたのだ。

 そんな母の側に、父であるべき魔神がいないことを、不思議に思ったことはなかった。ただ、漠然と、死んだのかなと思っていたのだ。戦死は珍しくなく、父や母を失った子が、遊び相手にいた。だから、自分の父も、そうやって、戦いの最中に死んだのだと思った。そうでないと知ったのは、母がまだ生きて居た頃で、戦も、その悲惨さを強めた時だったか。

 父親が、敵方の将である水のマゼリナだと知ったのは偶然ではなかった。母が教えてくれたのだ。貴方の父は、マゼリナなのだと告げた。大きくなったから、教えてあげようと思ったのと、幸せそうに笑いながら言っていた。彼女にとって、たった一人の息子に、父親のことを知らせるのは、幸福を感じられることだったのだ。優しい人だったから、父がいながらも、その名を知らせられないことに、負い目でも感じていたのだろう。母が、マゼリナの名を告げた一瞬、ほっと安堵したような表情を見せたことを、ユリアスは忘れられない。

 それから数日は、『マゼリナ』と言う名前に敏感になっていた。マゼリナの名前をつぶやいて、さも幸せそうな顔をする母に、その魔神に対する詳しい話しを聞けなかったせいだろう。怖かったのだ。どうして、自分は、敵将である男の子なのか。年月を鑑みれば、ユリアスが母の腹に宿ったのは、戦の真っ最中だ。そこまで考えて、それ以上は突き詰めないことにした。何か、酷く嫌な事実に行き当たりそうになったからだ。

 母の幸せそうな表情を見るに、彼女が、マゼリナを愛しているらしいことは察せられた。母に事実を告げられ、呆然としていたユリアスに、マリスもそんなことを言ってくれた。

 だが、何故と思った。

 どうして、母は敵将である男を愛したのだろうか。魔神同士の戦が始まった当初から、ルシアとマゼリナは敵対していたはずだ。とてもではないが、思いを通わせられたとは思わない。まして、二人は絶対的に対立しているではないか。とてもではないが、心を添わせ、愛しあえたとは思えなかった。

 漠然とした不安と、堂々巡りの想像に根を上げかけたとき、機会がやってきた。父である魔神を見るための、絶好の機会だった。

 魔神達が根を張る島の北側に、人のあまり住めない、岩場ばかりの小さな島がもう一つあった。そこは、戦うのにあまり気兼ねしなくていい場所だったためか、よく、戦場になった。もっとも、戦うと言っても、魔神同士の争いだ。たいていが、小人数のぶつかりあいながら、魔力を消耗させ、打つ手もないままにお互いに引いていくと言うことが多かった。

 その島で、また、戦いがあった。そこに、マゼリナが遅れてだが来たらしいと、御館が騒然となった。待機していたマリスが飛び出し、母が泣いていた。その騒ぎの隙をついて、ユリアスも、隠れて島へと向かった。

 そこへいくこと自体は簡単だった。マリスが先に向かっていたから、彼目がけて、光の術法で飛べば、それで済んだ。彼の炎は、ユリアスにとっては身近で、親しみやすいものだった。遠く離れていても、それと感じられた。そこへ、真直ぐに飛べばよかっただけだ。実際には、少し、座標をずらして飛んだのは、戦の真っただ中に放り込まれるのを恐れたのと、マリスに見つかって、怒られるかと首をすくめていたからだ。

 光を歪め、飛んで、戦場に出た。うまく岩かげに出ることが出来た。そして、向こうの岩場の全貌を眺めることが出来た。

 他の魔神達は、すでに引いたのか、それとも、痕跡さえ残さずに消されたのか。岩場に立っているのあは、マリスと、そして、知らない魔神だった。

 銀の神は、夜の海を思わせ、存外華奢な体つきは優雅で、だが、尊大だった。近寄って見れば、おそらく、青い瞳を見ることが出来たのだろう。雰囲気から、相手が水の魔神だと言うことが判った。マリスの、どこか親しげな態度から、あれが、水のマゼリナなのかなと、漠然と考えた。

 その、父親かもしれない男の横に、怯えがちに立っていたのが、ティナだった。

 その時はまだ、名前も知らなかった。ただ、幼い魔神の子がいるなと思っただけだ。実際、ティナはそのとき、ユリアスよりも五十ばかり年上だったが、その時の彼女はずいぶんと背が小さく、やせっぽっちだった。マゼリナに怯えがちに寄り添い、辺りを伺う仕草も、彼女を子供っぽく見せていた。

 それが、父とティナを見た最初だった。

 

 魔神の村を囲む森は、深く、豊かだった。全ての魔神が慈しみを注いでいるためだろう。過不足ない状態で守られてきた森は、樹齢数十年と言う大木があちこちにあり、数百年を経た老木も珍しくはなかった。だが、その全てが、ユリアスにとっては、若い木々だった。三百年近くも生きてくると、森の木々も、そう、年長には思えなくなってくるものだ。偉大だと思う畏敬の念は変わらない。森は何時でも広く、優しい。木々の発する匂いが、彼は何よりも好きだった。

 この森を、最初に整えたのは、確か、ティナの母親のはずだ。偉大な大地の魔神で、誰よりも意思が強かったと言う。彼女も、島にいたころは、光のルシアと仲が良かったと言う。同性同士、じゃれるように、慕いあっていたらしい。それこそ、親友の地位は、彼女のものだったのだ。彼女が敵対しなければ、マリスも、あそこまで母と親しくなれたかどうか。敵同士となった後も、ルシアは、ティナの実母を慕っていたようだ。ユリアスも時々、その名前を母から聞いたことがある。

 鬱蒼とした木々が天を覆ってはいるが、秋も終わり近いせいだろうか。葉と言う葉は落ち、空が丸見えだ。灰色の雲があたりを覆い、夕日のかけらさえも見ることが出来ない。この時刻なら、山の向こうから見える最後の、赤い輝きが、目に痛いほどなのに、今は、その断片さえ目にすることができなかった。それが、酷く寂しい。

 そんな森の中を、ユリアスはゆっくりとした歩調で進んでいった。そんな彼の様子を伺うように、小鳥が一羽、彼が手をついた木の枝に止まっていた。この森に住む鳥だ。もう、夕暮れで、巣穴にかえるべき時刻だろうに、まるで、心配だとでも言いたげに、付いてくる。その鳥を気づかいながら、ユリアスは辺りを見回した。

 ウォウサが森に問いかけ、探ってみたところ、ティナはどうやら、この辺りにいるらしいと言うことが判った。姉よりもやや、持っている魔力で劣る青年だったが、希有な存在であることには変わりない。ユリアスが特別、この森に張ってある結界を緩めたわけでもないのに、姉の居場所をあっさりと突き止めてしまった。彼も必死だったのだろう。姉を思う気持ちが、何時もよりもずっと、彼を集中させたと言うこともあるかもしれない。それでも、この森の結界をものともせず、目的の相手の居場所を突き止める能力は、驚異だった。

 ユリアスには、それほどまでの能力はない。彼が持って居るのは、ただひたすらに、戦う術だけなのだ。上位の光の魔神として、結界を張ることは出来る。癒しの術も使える。だが、それはあくまで、上位魔神止りのものだった。それ以上にはならない。攻撃の手段として使っている、白く輝く熱線より、際立ってはいなかった。あれほどの威力を示すものは、他にない。

 一芸に秀でていれば、それでいいではないかと、父親代わりだった炎のマリスは言った。ユリアスも、理性ではそれに納得している。だが、心の中ではどこか、漠然とだが、不満が残っているのだ。こんな、破壊しか出来ない力よりも、よっぽど、仲間を守れる結界などに優れていればよかったのにと、ふと思ってしまう。どんな敵が迫ってきても、村全体を覆えるような、強力な結界が作れるようになりたかった。それが駄目だと言うのならば、癒しの術でもいい。死にかけた、それこそ、存在さえ消えそうな魔神を、この世に繋ぎ止められるだけの力が欲しかった。母のように、奇蹟を示せるだけの魔神になりたかった。

 足を踏み出すと、かさりと音を立てて、木の葉が崩れた。ぱきぱきと、小枝が砕ける。いつもより、その音があまり快活でないのは、辺りの空気が湿気ているためだろう。空気が冷たい。それ以上に、じっとりとした寒さが、辺りを覆っていた。そのあまりの状態に辟易して、ユリアスは思わず、着ていた上着をかき寄せた。生まれが光の魔神と言うためか、寒さにはあまり強くないのだ。鳥も、こんな寒さの中、うろうろしていては事だろうと思い、帰るように訴えかけたが、やはり、聞こうとしない。それどころか、ユリアスの肩に降りてきたかと思うと、暖かさを求めるように、すっと身を寄せてきた。これには、苦笑するしかなかった。

 森に張った結界は今だ崩していない。魔族の襲来の危険性がある以上、ティナが迷い込んだからと言って、そうあっさりと、守りの要を解くわけにはいかなかった。そんなことをするくらいならば、彼女を見殺した方がましだ。一族と、あの女を秤にかけ、どちらが思いかと言えば、やはり、たくさんの命がある方を選んでしまう。母や、父と慕った人が、血反吐を出すほどの思いで守ったものを、自分本意に握りつぶす気になはれない。

 結界自体は、ユリアスが作り出したものであり、また、光の属性を持つものだ。その中に入ったからと言って、創造主であるユリアス本人が迷い込むものではない。迷路であることには変わりはないが、その抜け道は判っているようなものだ。問題は、その中にある袋小路のどこかに、ティナや子供達がいると言うことだった。

 突き進んで、彼女達を見つけるかなと思った所で、近くの木に止まっていた小鳥が、微かな声で鳴いた。その、悲しげな響きを耳にするよりも早く、ユリアスは苛立った表情で、足元に積もっていた落ち葉を、ざっと蹴り付ける。

「もう来たか……」

 森の結界の端から、何かが入り込んだ。それを、感じた。

 結界は、ユリアスの領域だ。異端者が触れれば、それと判る。魔族などが無理矢理入り込もうとすれば、なおさらだ。悪寒を感じるほどの嫌さと、うっとうしさを、叩き付けられる。その感触を追い払いながら、ユリアスはすっと空を見上げた。首を反らせながら、目を閉じ、軽いため息をつく。

 入り込んだ魔族は、二人だ。ずいぶん少ない。水の長老であるティルシュの手引きがあるため、安堵したのか。それとも、彼が引き寄せられる魔族の数は、そんなものだったのか。だが、侮れない手勢ではある。上位の魔族だろう。万が一にでも、結界の内側に入れていい相手ではない。なるべくならば、森の中で仕留めたい相手だった。

 ティナのことを諦め、魔族達を先に仕留めるために、彼等がいるだろう方向へと足を向けようとする。その刹那、ユリアスはあっと、驚いたような声を上げて立ち止まった。顔を真っ青にさせながら、口元を右手で覆い、後悔とも、絶望とも付かない震える息を吐き出す。

「ティナがいる……」

 あぁ、どうして気が付かなかったのだろうかと、自分を罵倒したい思いだった。

 魔族がいるらしい森の一角のごく近くに、ティナの気配を感じた。同族であるがゆえに、はっきりとは感じ取れなかった気配だ。優しく、暖かい。ユリアスには、突っぱね続けている彼女だったが、その本質は、どこまでも柔らかだった。おそらく、すでに子供達は見つけているのだろう。あの優しさは、きっと、迷子になって泣いていた子供達が、側にいるからこそのものだ。ユリアスには絶対に向けない、女としての柔らかさだった。とても優しい。泣きたくなるほどに、彼女から感じるものは綺麗で、そして、美しかった。

 その彼女のすぐ側に、もう一つ、冷たい気配を感じた。孤独な魂だ。ユリアスとも良く似ている。いや、瓜二つとも言うべきものだった。

 ティルシュだろう。考えてみれば、彼とユリアスは、ごく似通った身の上なのかもしれない。母親は優しく、美しかった。父親はいない。ユリアスの場合は敵将で、一生に、片手で数えられるしか、目にしたことのない人だった。ティルシュの方はどうだろうか。会ったことは、あるのか、ないのか。おそらく、ないだろう。ティルシュの生まれたころは、魔族との仲は今以上に険悪だった。思いあった末の子だったとは思えない。そういう意味では、ユリアス以上に不幸な生まれだったわけだ。

 いや、彼の方がずっと不幸かもしれない。

 ユリアスはそう思って、冷たく笑った。

 私には、マリスがいた。だが、彼には誰もいなかった。私には一族があった。だが、彼には何もなかった。ただ、同族がいただけだ。

 ティルシュを水の長老へと据えたのは、ユリアスだ。長の特権として、それを望んだ。そのころ、ティルシュは長老に推せるほど十分力が強く、戦功も多かった。責任ある地位に据える上で、文句のない功労があった。一つだけ懸念すべきことは、彼の父親が不明だったことだろう。彼の母は未婚だった。だが、それもそう、珍しいことではなかったのだ、あの時は。さらに言えば、魔神はそういうことには、寛容だった。あぁ、どうせ誰か、親族の子だろうと、笑っていられる余裕があった。母系家族だったのだろう。長であったルシアが、父親の判らない子を生んで、平然としていたせいかもしれない。皆、彼女を愛していて、彼女の行為を正当化させるためなら、何でもしたのだ。そういう、狂った面のある一族だった。

 ユリアスが、水の長老を贔屓したのは、彼に、自分と同じ匂いを感じたからだ。父であるマゼリナと同じ、水の魔神だったから、懐かしく思ったのかもしれない。だが、それ以上に、彼の暗い気配に引かれた。血の半分が、魔族だからか、ほのかに暗い陰を漂わせていた。あの淀んだ気配が、たまらなく愛しかった。

 遠くに感じるティルシュの息づかいは、何時にもまして、暗かった。しかも、熱っぽい。そこまでまた、ユリアスは、ため息ともつかないものを吐き出した。

 魔族の気配が、ティルシュに近寄っていく。彼は、それまで一緒にいた母方の一族よりも、残酷な父方の魔族と言う血を取ろうとしている。全てを裏切って、地位も何もかも捨てて、暗い闇の一族へと走ろうとしている。彼を、そんな風に追い詰めたのは何だったのだろうか。半分しかない血か。それとも、目にしてしまった、美しい大地の魔神だろうか。

 ユリアスは、森の中を走りだしながら、馬鹿だと、呻いた。

 ティルシュは馬鹿だ。何も判っていない。私がこんなに贔屓してやったのに。こんなにも、お前のことが好きだったのに。そう悪態をつきながら、森の中を急ぐ。

 あのティルシュをおかしくさせたのは、ティナだ。彼女が、あの男をおかしくした。

 彼女は、それくらい美しかった。悲壮さを漂わせる横顔は、若年の魔神とは思えないほどの艶があった。大地の魔神ゆえだろうか。女としての匂いが強すぎるのだ。内面は、いたって弱く、脆いと言うのに、外見はそんな性格を裏切って、華やかだった。無意識の内に他人を頼っている瞳は何時も濡れている。そんな目で、彼女は誰彼かまわず、見つめるのだ。助けてくれと。私は弱いから、助けてと訴えかけている。それが、どれだけ、相手の劣情を誘うか知らずに、あの女は無防備に泣いている。それが、ユリアスには腹立たしい。

 婚礼の儀式の時、ティルシュが、ぼうっとしていたのは知っていた。ユリアスはそれを見て、あぁ、彼もやはり若かったのだと、年上の魔神を笑っていた。別に、大したことにはならないと思っていた。何せ、他の長老達も、皆、似たような顔つきでティナを見ていたのだ。ティルシュの場合は、ただ少しだけ、度が過ぎていただけだ。それも、若さのせいだと思えば納得できた。

 それが、己の幼さゆえの奢りだと言うことに気付き、ユリアスは思わず自分に激しい悪態を付いた。

 ティルシュと自分は、何時もどこか似ていた。停戦を引く前の、合議の時も、意見が合うことが多かった。彼の考えは、ユリアスのものと、良く似ていたのだ。残酷で、そのくせ、偽善くさい。偉業を掲げて、些細な殺戮にいそしむような真似をよくした。だから、今日も、魔族としての道を選ぼうとしている彼が、どう言った手段を取るか、予想した。

 一族内の戦い手を散らばせ、混乱させたところで、魔族を攻め込ませる気だと思っていた。結界を破る役は、ティナに背負わせるつもりだと考えていた。何しろ、使い方を心得ていないくせに、ティナの魔力は膨大だ。彼女が少し理性を失い、力を暴走させるだけで、ユリアスの結界は硝子のように砕けてしまうのだろう。そうやって、壁を壊した上で、攻め込んでくるのだとばかり思っていた。

 だが、たった二人の魔族で何が出来ると言うのか。いくら上位でも、その力は、ティルシュよりもなお小さい。戦う術を知らぬティナ相手ならば、十分通じるだろうが、これが、ユリアスを始めとする、戦いを生業にしている魔神に対する力になるかといえば、否でしかない。まったくの非力だ。何の力にもならない。

 ならば、何故、そんな手勢を、ティルシュは引き込んだのだろうか。いや、元々、彼は戦う気などなかったのかもしれない。

 もし、戦力が手元になく、それでも、一族に居続けることに我慢できない場合、どうするだろうか。せめてもと、欲しいものだけでも奪って、引き割いて、逃げていくかもしれない。それが、一族に打撃を与えうる存在ならば、なおさらのことだ。

 ティルシュは、たぶん、ティナに心奪われているのだろう。嫌な女だ。そうやって、せっかく固めた一族の一角を崩そうとする。あんな女のせいで、腹心の一人になるかもしれない男を失うのだ。ティナはもう、『長』の妻だった。誰が手を出せる存在でもない。長老であるティルシュが無理を通しても、奪える女ではなかった。そんな女に囚われて、彼は、気が狂ったのかもしれない。相手は、お高く、だが、誇りを失っていない美しい魔神だ。触れることもかなわない、絶対的な存在だった。

 ティルシュは確かに、暗く、危険な血筋を持つ男ではあった。だが、有能だった。誰よりも有能だった。ユリアスの持つ非情さを表わす上で、彼は必要不可欠な存在だった。それを欠くのは痛い。あの女のせいだ。

 魔族の気配が近くなった。こちらの気配を知られる前に、殺してしまおう。ティルシュもだ。手に入らないのら、消す。敵になど回さない。外に出れば、その半分の血ゆえに、彼が魔神を恨むことになるだろう。そうはさせない。だから、今ここで、消してやる。

 

 結界の歪みを割るように現われたユリアスを、魔族は最後まで気取らなかった。まず、一人の首を落とす。手刀で、呆気なくだ。魔族は、案外脆かった。安易に首が落ち、血が噴き出す。その、返り血を真っ向から浴びながら、もう一人の腕を取り、肘を逆に曲げ、へし折ってやった。その痛みに、相手が絶叫を上げるまえに、喉を掴み潰す。呼吸が跡絶えたせいで、魔族が激しく苦しんだ。その止めを刺さないままに、ユリアスは冷たく笑い、足掻く魔族を冷たく見下ろした。そうやって、せせら笑いながら、ティナの側に立っている水の長老へと、ゆっくりと視線を向けていく。

「どうやって、ティナをここまで連れてきた。子供を使ったにしては、時期があいすぎているな。母親に、子供が森にいくように仕向けさせたか?」

 ユリアスが薄笑いを浮かべながら問いかけると、冬も近いと言うのに、薄着しかしていない華奢な魔神は、目を細めながら微笑した。彼が腕を掴むティナは、目が濁っていた。正気ではないだろう。ぼうっっとしている。気が触れたかなと思いながら彼女の全身を観察して、少しだけ安堵した。まだ、触れられてはいないらしい。ただ、心はどうするべきか。そう言えば、子供の姿が見えないなと思い、足元へと視線を落として、ユリアスは顔を歪めた。

 たくさんの血が、枯れ葉の上に飛び散っていた。今殺した魔族だけのものではない。もっと沢山だ。肉片が、あちこちにある。その血肉が、ユリアスの見ている目の前で、ふっと、赤い光と、緑の光へと変わった。魔神としての死だ。この、一つの属性に強く囚われる一族は、死ぬと、その体は力そのものへと変わるのだ。炎の魔神ならば、赤い火の力を秘めた魔力へと。風の魔神ならば、薄緑の優しい風へと変わる。

 それにしても、この肉片はどうかと思う。

 水の魔法の中に、生き物を内側から吹き飛ばす呪文があったはずだが、それでも使ったのだろうか。だとしたら、考えていた以上に、このティルシュと言う半神半魔は、非情な男だったと言うわけだ。いくらユリアスでも、子供を手にかけることは出来ない。いや、子供は、たとえ魔族であっても、痛めつけることさえ出来ないだろう。あの小さい存在は、弱すぎるがゆえに苦手だった。

 ティルシュは、薄く微笑みながら、困ったものですと、切り出してきた。

「ティナ様のせいで、二人しか始末できなかった。彼女もなかなかですね。貴方が、戦う術を知らない人だと言うから、油断していたのですが。案外、使えます。戦う術は知っていますね。要は、その力を使うだけの度胸がないと言うことで」

「お前にはあるのか?」

 からかうように言うと、ティルシュはご冗談をとばかりに苦笑した。

「私のどこに、度胸がないと?」

「お前が持っているのは、気違いじみた被害妄想だけだな。その思い込みの激しさには、感嘆するよ」

 くつくつと低い笑い声を漏らしながら、ユリアスは目を細めた。その、獲物を見定めた獣のような瞳に、水の長老は、びくりと体を震わせた。だが、まだ手元に『人質』があると安堵しているためだろうか。繊細な水の魔神に似ず、その態度は大胆だった。正気の定まらないティナの腕を掴みながら、きっと、ユリアスを睨み付けてくる。

「貴方には、私の思いなど判るまい」

「判りたくもない」

 やれやれと、見せつけるように、肩をすくめてみせる。

「私は、お前を贔屓した。お前が好きだった。だが、お前は私を裏切った」

 青い瞳を彷徨わせながら、ユリアスは独白でもするかのように、たどたどしい口調でつぶやいた。その目は、不気味なほどに濡れていて、表情もどこか、うっとりとしていた。まるで、夢見るような顔つきだ。なまじ、人を引き込むほどの壮麗な顔立ちをしているゆえに、その瞳の妖しさには、艶さえ感じられた。

 辺りを囲む森のどこかからか、ちぃと、鳥が大きく鳴いた。ユリアスに付き添い、寄り添っていた小鳥だ。魔族を叩き伏せる際に、どこかに飛んでいってしまったが、やはり近くに居続けているらしい。ユリアスがおかしそうに笑うと、それに答えるように、また、ちぃちぃと鳴き出す。

 森が、暗くなり始めていた。雲の向こうの夕日が、もうすぐ沈もうとしているのだろう。ただでさえ暗かった空が、真っ暗になってしまった。ぼうっとした月灯りも見えない。完全な闇だ。

 だが、それよりも早く、森は暗くなるものだ。秋になり、葉と言う葉が落ちても、それは変わらない。冬間近ならではの静寂が、辺りを包み込んでいた。それが一層、森を暗くする。ずくずくと、まるで、こぼした墨のように広がっていく闇を嫌って、ユリアスは眉を潜めた。手の内に己の魔力で作り出した光を、一つ、二つを灯し、それを、空中へと放る。

 ユリアスの作りだした光は、やや水色がかった白だった。それが、煌々と、辺りを照らし出している。魔族の動かなくなった体がぼんやりと浮かび上がり、その周辺に散らばっている血が、てらてらと輝いている。青白い光は、囚われたまま身動き一つしようとしないティナの姿をも、くっきりと照らし出していた。

 光の加減のせいか、表情が酷く青ざめて見えた。今になってユリアスも気が付いたのだが、頬に泣いた後がある。一筋、二筋と流しただけの涙だ。その薄く白い線が、綺麗な肌の上に、まるで、傷痕のように残っていた。

「馬鹿な女だ」

 呻くように言い、ユリアスは小さく首を振った。この女が、何をしたか、しようとしたか、判ってしまったからだ。

 ティナは、力を使わなかったのだ。ティルシュの言ったように、力を使うだけの度胸がなかったわけではない。大陸側の魔神を、敗戦の色が濃くてもなお、毅然と引きいていた女なのだから。必要な時に、必要なだけの力を振るうことを、彼女は知っているはずだ。それでもなお、抗い、戦わなかったのは、己の魔力が、この森に敷かれた結界を砕くということを判っていたからだろう。

 馬鹿だったら良かったのに。誰に言でもなくつぶやき、ユリアスは困ったような顔になった。

 何も知らない愚かな女だったのなら、この水の長老と魔族に、全力で抗うことが出来ただろう。なまじ知恵があり、優しさがあったから、自分を守ることが出来なかったのだ。他人を引きかえにしてまで、自分を守るような女だったのならば、きっと、今のように、正気を失うこともなかっただろう。 

 冷たい雫が、頬に触れた。雨が降り始めたのだろう。ぱたぱたと、あちこちで、雨粒が木の枝や、落ち葉に当たる音がする。小気味よい音だった。聞いていて、胸がすっとする。

 雨が振り始めたのを見て、ティルシュが満足そうに笑った。水の魔神ゆえに、辺りが、自分と同じ存在で埋め尽くされるのが嬉しいのだろう。そして、それ以上に、状況がより有利になったことに、狂喜しているはずだ。

 時刻は夜で、空には雲があり、月の輝きもない。完全な闇だ。存在する光は、ユリアスが先ほど作り出した青白い光球だけだ。その他には、何一つ、輝けるものがない。光の魔神であるユリアスにとっては、いたって不利な状況だった。己の魔力によって、同じ属性のものを生み出せる魔神とは言え、近くに、そのものに宿る精霊がいないと言うのは、何とも心細いものだ。特に、ユリアスは、光に宿る精霊達を操って戦ってきた。彼等に、魔力と言う糧を与え、狂喜させ、光を狂わせ、熱線に変えるのが、彼にとっての戦う術だった。その精霊達に、まったく頼れないこの状況は、彼にあまり好ましいものではない。

 雨が降ったことで、辺りには水が満ち始めている。夕日が沈み切るまでの間、持ちこたえていた空は、その分の水を吐き出そうとするように、大粒の雨をこぼしていた。始めこそ、ぱたぱたと、楽しげな音を立てていたものだが、今ではもう、ばたばたと、あたり一面を叩いているような音ばかりがする。ユリアスの全身もぐっしょりと濡れていた。鈍い光を返す金の髪から、雫が、ひっきりなしに落ちていた。

 濡れた髪を払い、かきあげる。そうすると、ティルシュが感嘆したと言うように、小さく目を見開いた。

「驚いた」

 ティナの腕を強く握り締めながら、水の長老は薄い笑みを浮かべる。

「判ってはいましたが。貴方はやはり、水のマゼリナに似ている。あの鬼畜によく似ている」

 まるで侮るように、ティルシュは笑っていた。そんな水の長老に、ユリアスは柔らかく微笑み、そうだろうとつぶやいた。

「私も、良く似ていると思うよ。母上には、少しも似ていない。あの人から受け継いだのは、この髪と、光だけだったな」

 他には何も貰えなかったと、魔神の長は苦笑する。

 ユリアスは、水に濡れた手を払いながら、爪先で軽く地面を蹴った。敷き詰められた落ち葉が、ばさりと払われる。そうやって、無意味に枯れ葉を掘りながら、光の魔神は楽しげに笑い続けた。

「お前が、父のことを知っていたとは意外だったな。いや、長老全てが知っているか?」

 あのくらいの年齢と実力ならば、戦場でマゼリナと会っていても不思議ではないからなと、ユリアスは口の中で言葉を転がす。

「お前も、連中も、さぞかし楽しかったことだろうよ。ルシアのたった一人の息子である私が、年を経るごとに、マゼリナに似てくるのだから。悔しかっただろう。恐ろしかっただろう?」

 くっと喉を鳴らし、ユリアスは口元を歪めた。

 水の長老は、何も答えないままに、ティナを束縛し続けた。さも楽しそうに笑っているユリアスを見据えながら、一歩、後ろへと引く。

 その行動さえも笑いながら、ユリアスは右手を差し上げた。広い、武骨な掌の上に、青白い光が宿る。それは、先ほど作り出した光球よりは、よほど貧弱で、乏しい輝きしか発しないものだった。だが、その内側に秘められた魔力は強大だ。長老として、それを感じ取ったのだろう。ティルシュの顔が、目に見えて引きつる。

 水の長老の、真っ青になった顔を見据えながら、ユリアスはふんと鼻を鳴らした。激しく降り付けてくる雨で全身を濡らしながらも、余裕を感じさせる笑みを浮かべ、見下すようにティルシュへと目を向ける。

「マゼリナの子など、排除したかったろうに。私が、あいつの子だと判っても、抗わなかったのは何故だ。怖いからだろう。私が怖かったのだろう。いつ殺されるかと、びくびくしていただろう。いつも、お前達は怯えていた」

 それでも、お前は怯えることも少なかったと、ユリアスはつぶやく。

 その彼の背後で、小さな水溜まりが、ちゃぷんと音を立てた。その、消え入りそうな音に、ユリアスがふと気が付き目を向けると、彼の足元にあった枯れ葉が、小さく揺れた。長は、笑いながらそれを見ていた。彼の青い瞳が見つめる中、むくりと、何かが鎌首をもたげる。水溜まり、空中に迫り出してきたのだ。まるで蛇のように、すっと伸びる。地面の上から、ゆっくりと首をもたげながら、その水の固まりは、まるで威嚇するように、尖った穂先を、ユリアスへと向けた。

 水の蛇は、降り付けてくる雨を吸い込みながら、なおも成長していった。始めは、子供の腕ほどの大きさだったろうか。それが、見る間に、ユリアスの手首ほどの太さへと成長していく。

「やれ」

 右手に光を称えながら、ユリアスはまるで挑発でもするように、水の長老を見た。ティルシュが、望み通りにしてやると吠え、水の蛇がざっと、地面から飛び上がる。

 鋭い穂先を持つ槍のように、水は真直ぐに、ユリアスの胸を狙って突き進んできた。避けるように身を動かすと、それに合わせて揺れた。じゃぶりと、どこかで水が跳ねるような音がし、透明な蛇が、ユリアスの胸に突き刺さった。

 大きく笑いながら、ユリアスは手にしていた光を放り投げた。無造作に、まるでごみでも捨てるように、ぽいっと放った。その光を覆うように、地面から水が巻き上がる。それは、ユリアスの投げた青白い光を包み込むと、そのまま、握りつぶすように収束しようとした。その刹那、ぱちりと、光が弾けた。

 小気味良い音を立てて壊れた光の球から、幾つもの、輝ける矢が飛んでいった。その一つ一つが、空から降りつけてくる雨に反射し、方向を変えた。ティルシュが、ぎゃっと悲鳴を上げる。第一の矢が、彼の肩に突き刺さっていた。次の矢が、彼の腕を居抜く。支えを失ったティナが前のめりに倒れ、その彼女の鼻先をかするように、もう一つの矢が通りすぎていった。

 雨を反射して方向修正された矢が、次々に、ティルシュを貫いていった。青い目が、血に濡れる。喉元を射られ、悲鳴さえ発せられなくなった。

 ティルシュの喉が真っ赤に染まると同時に、ユリアスの胸を貫いていた水の槍が消えた。それと共に、体に開いた穴から、どばりと血がこぼれた。

 苦しげに呼吸をしながら、ユリアスは震える手で、その傷口を抑えた。ごほごほと、小さく咳込みながら、その穴を塞ぐために、小さく呪文を唱える。ほどなくして、血に染まった彼の手に、白い光が宿った。それが、彼の傷口を癒す。穴が塞がれ、血が止まった。だが、痛みは完全に消えない。

 ユリアスは、そのずきずきと繰り返す激痛を消す間も惜しいと、光を止めた。どこかおぼつかない足取りで、倒れたティナの側へと歩みよる。

 そのすぐ横で、ティルシュが倒れた。全身を真っ赤に染めて、ぴくりとも動かない。水溜まりに、真っ赤な血が流れ出ていた。だが、それもいずれは、透明になってしまうだろう。雨が、全てを押し流すからではない。ティルシュが完全に死ねば、彼の体全ては水に還るだろう。そうなれば、今流れ出ている血も、水になるだけだ。例え半神半魔であろうとも、彼の本質は魔神だった。死ねばきっと、水に還るだろう。

 ユリアスは、落ち葉の上にぺたりと膝をつくと、自分の血で濡れた手で、ティナを抱き起こした。始めて触れた妻は存外軽かった。そして、柔らかい。女とは、こういうものだったのかと、思わずぎょっとなったほどだった。少し冷えていたが、以前、その体は以前暖かかった。触れているだけで、ほっとするような温度だ。それをもっと強く、もっと長く感じていたくて、彼女の体を抱きしめた。

「可愛そうに……」

 抱きしめても、なんの反応も示さない女を見て、ユリアスは小さくそうつぶやいた。

 ティナの瞳は淀んでいた。どこを見ているのか、よく判らない。焦点のあっていない目だ。よほど怖いものでも見たのだろう。ユリアスにしてみれば、またかと思うようなことでも、彼女にとっては衝撃的なことだったのだろう。

 子供に対してより甘かったのは島側だった。大陸の魔神の方が、捕えた子供に対し、残酷だった。殺しはしなくても、待遇は悪かったと聞いている。彼等を取り戻すために、炎のマリスが渋々と、大陸側の子供を猫の子のように連れてきては、引き変え条件としてまた、大陸の方へと連れていったりしていた。無責任で、不格好で、酷いことばかりだった。

 ティナは、魔神が魔神に殺される場面など、あるいは目にしたことがないのかもしれない。大陸側の象徴に祭り上げられても、面だって戦場に出たことは、ほとんどないだろう。ユリアスが、彼女を戦場で見たのは、二回きりだ。最初に見たときは、まだ、マゼリナもルシアも生きていた。二回目にティナを戦いの場で見たとき、彼女は惨劇を目にするよりも早く、気を失っていたはずだ。

 あの焼けるような光の中で、彼女は瀕死だった。

「……あの時、見捨てておけばよかったんだ」

 ティナを抱きしめ、その胸に顔をうずめながら、ユリアスは小さく呻いた。泣きそうな顔で、苦笑を浮かべ、緩く首を振った。ティナを抱き上げ、軽々と立つ。腕の中でぐったりとしている大地の濡れた顔をじっと見つめ、彼はまた悲しげに笑った。

 

 


(update 2000/06/29)