オリジナル

■神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜■

−残酷な庭−3

作・三月さま


 

神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜

−残酷な庭−

 

 

 貴方は私だけのもの。その事実だけで十分でした。

 

 目の前で子供達が死んだ。体中が弾けて、幾つもの肉の破片になってしまった。

 ティナが子供達を見つけたのは、もう、夕刻も過ぎようかと言うころだった。元々、雨が降り出しそうな空だったため、陽が沈もうが、沈むまいが、明るさはそう変わらない。だが、大気は微妙に変化するものだ。夜が到来すると共に、それまで、遠慮がちに木の陰に潜んでいた闇が、じわじわと出てくる。それは、大地の魔神であるティナには、決して見えないものだった。光の魔神がそれとなく察し、闇の魔神がはっきりと目に見る変化だ。だが、そんな立場であっても、なお、辺りの微妙な変化を感じることは出来た。あぁ、夜が来たなと、思うくらいは出来たのだ。

 子供達も、敏感な年ごろだから、暗い夜が来たのを感じたらしい。一人、闇の魔神がいたから、その子が、陽が沈んだことを教えたのかもしれない。ティナが彼等を見つけたときには、もう、大泣きに泣いて、手がつけられないほどだった。夜が来たのが怖いのかなと思ったのだが、どうやら、それも違うようだった。それ以上に、何時までも出られない森の迷宮を、恐がっていたようだった。見当違いなことに怯えている子もいて、母親に怒られると、泣きながら焦っていたりもした。

 彼等は、大きな木の根元に座り込みながら、まるで子栗鼠のように寄り添い合い、陽が暮れて迫ってきた寒さをしのいでいた。ティナの姿を見て、誰もがわっと歓声を上げた。安心して泣き出してしまう子もいた。ほっとするあまり、へたんと座り込んでしまう子もいた。だが、どの子も、ようやく帰ることができると言う喜びで、顔をほころばせていた。良かったと思った。本当に、見つけられて良かったと思った。

 駆け寄ってきた女の子を抱きしめ、微笑みながら、一緒に来てくれた水の長老へと、ティナは振り返ったのだ。そこで始めて、彼の様子がおかしいことに気がついた。

 元々、どこか神経質そうな青年だなと思っていたのだが、それ以上に、顔が引攣って見えた。何かあったのかと、ティナが思わず構えてしまうほどの、青白い顔をしていた。どうしたのと、ティナはびくびくしながら、聞いたのだ。もしかして、村を狙ってきた魔族でも、近くにいるのかと怯えながら、水の長老を見た。

 水の長老は、さぁっと、嘯くように答えながら、子供達へと視線を向けた。一人、二人と数える。足りない子がいないか、確認しているのだろうと思いながら、ティナは、自分にすがりついて泣く子の頭を撫でてやった。もう大丈夫よと、回りにも聞こえるように、大きな声で言う。その、なだめるような言葉を遮るように、悲鳴が上がった。いったい何事かと、ティナが慌てて顔を上げると、子供達が泣いていた。皆、真っ赤だった。ほんの少し前まで、ティナの側にいたはずの男の子がいなくなっていた。いったい何なのかと、震えた瞬間、手元にいた女の子が、弾けた。文字どおり、ぱちんと弾けたのだ。

 視界が真っ赤に染まった。何があったのか、理解するよりも先に、頭の奥にある何かが、逃げろと叫んでいた。あの小さな魔神達を逃がせと、頭の中に警鐘が鳴り響いた。

 子供達に、逃げなさいと言いつけながら、ティナは、体当りするように、水の長老へと突進した。何かを考えた訳ではない。何を思ったわけでもない。ただ、彼をどうにかしなければと、頭の奥にある何かが、訴えかけたのだ。彼を止めなければ、子供達が死ぬと思った。

 不意の体当りを受けて、水の長老が倒れた。彼は、転倒しながら、捕まえろと叫んでいた。いったい、誰にそんなことを言うのかと、ティナが顔を上げると、子供達が駆け出した先から、また、悲鳴が上がった。男が二人、そこに立っていた。一目で魔族と判った。容姿的には、魔神とそう変わらぬ形を持つ種族だった。だが、雰囲気が違う。その身に纏う空気と、匂いが違った。彼等は、違う種族なのだと、見た瞬間に判るのだ。

 子供達が、きゃぁと悲鳴を上げながら、逃げ惑った。その子等を、魔族達は楽しむように殺した。一人、二人。

 ティナが悲鳴を上げ、彼等の方へと走り出そうとするのを、水の長老が押し止めた。ティナの腕を掴み、強く引き寄せようとする。それに抗いながら、ティナは泣いて暴れた。魔族に追い立てられた子供達から目を反らせられぬままに、大地へと請い願っていた。あの子達を助けてくれと、懇願していた。そして、それを、大地は受けた。

 頭の奥でまた、何かがいけないと言った。あまり強くしては、森の結界が破れると、叫んでいた。もし結界が破れれば、外から魔族がやってくる。この森にある、ユリアスの作り出した迷宮は、魔神の村を守るための砦なのだ。それが壊れてしまえば、後から後から、再現なく魔族達が押し寄せてくるだろう。今、目の前にいる青年達の仲間が来るかもしれない。関係ない魔族が、襲ってくるかもしれない。どちらにしろ、結界を壊すことは出来なかった。だから、大地に、子供達を逃がしてと、願った。大地はそれを受け、素直に、子供達を飲み込んだ。魔族達の目を遮り、ぐわりと子供達を飲み込んで、地中深くに逃がした。そのまま、彼等を、森の外へと押し出す。それだけで十分だった。それだけで、生き残った子も、魔族に切りつけられた子も、無事、逃げられたはずだった。

 あぁ、でも。

 子供が四人、死んでしまった。殺された。よりにもよって、水の長老に殺された。同族のはずの男に殺された。

 どうしてと、思う。この男は、ユリアスの腹心の筈なのだ。そう侍女が言っていた。ティナが見た限りでも、あの残酷な長は、この長老を信用しているようだった。好んでいた。それなのに、どうして、この男は一族を裏切り、魔族につくような真似をしたのだろうか。

 あの残酷で、冷徹な光の魔神の腹心だからこそか。ユリアスの好んだ男だから、こうやって、子供達をあっさりと殺すのか。あの美しい長も、こうやって、子供を殺すのだろうか。

 もし、ティナに子供ができても、あの男は、笑いながら、その子をくびり殺すのだろうか。

 

 子供の死を目のあたりにしたティナが、正気に戻るまで、実に長い月日がいった。数えるのも億劫になるほどの年月だ。月が何度、満ち、欠けていったかも覚えていない。何度季節が過ぎていったかも、曖昧だった。少なくとも、一族が、水の長老の裏切りから立ち直るよりも、なお、長い年月が必要だったことは確かだ。新しい水の長老が立ち、若々しかった指導者達が、熟練と狡猾さを併せ持つようになるまで、彼女の心は壊れたままだった。

 最初の五年ほど、ティナはまるで、人形のようだった。ぼうっとしたまま、身動き一つしようとしない。指一本、動かそうとしないのだ。幸いなのだ、食べ物を与えれば、租借することだったか。口に物を入れると、食べる。水を含ませると、飲む。だが、手に湯飲みを持たせて見ても、それを口元に運ぶことはしなかった。箸を握らせようとしても、逆に、床に落としてしまう。

 ぺたんと床に座っていることは出来たが、自分から立とうとはしなかった。落ち着いているときに手を引くと立ち上がりはする。歩きもする。だが、雨の日は、ただ、部屋の隅でぼうっとしているだけだった。泣いている時もあった。大声を上げて暴れることはしない。ただ、ぽろぽろと涙をこぼしながら、ごめんなさいと繰り返すことがしばしばあった。

 五年経ったある日、友人達の死を目にし、魔族に追い立てられた生き残りの子供の一人が、ティナに会いに来た。あの日の礼を言いにきたと言う。それまでは、ティナもおかしく、また、子供達も落ち着いていなかったために、許可できないことだったが、その日始めて、ユリアスは、その子に面会を許した。

 無邪気に話しかける子供の声が、きっかけになったのか。その日を境にして、ようやく、ティナが心を取り戻し始めた。けっして完全ではない。だが、ただ呆然とするだけの彼女を見慣れてしまったユリアスにしてみれば、それは大きな変化だった。

 子供と会った日から、ティナは徐々に回りを見るようになった。以前よりもなお強く、ユリアスに対する嫌悪を表わすようになったが、それも、彼にしてみれば、幸いだった。少なくとも、そうやって、好き嫌いを見せる程度には、心が戻ってきた証拠なのだから。彼女がぷいっと顔を背けるのも、嬉しかった。

 ティナの回復は酷く緩やかで、一度壊れてしまったものが、元に戻るまでの難しさを、ユリアスに教えた。判っていたつもりだったが、これほど面倒で、そして、辛いことだとは、彼も本当の意味では理解していなかった。だから、彼女が、ゆっくりと心を取り戻していく過程は、彼には酷く緩慢に思えた。見ているだけでも辛いのにと、鬱屈とした気分にさせた。だが、それ以上に、彼女が元に戻っていくのは嬉しかった。あぁ良かったと、素直に思えたものだ。

 回復の兆しが見えてから、さらに十年が経った。だが、まだ、心は完全には戻らなかった。それからさらに五年。ようやく、自分から外に出るようになった。だが、森には決していこうとはしない。大地の魔神である彼女にとって、森と言うものは、何よりも身近で、親しいもののはずだった。その深い緑の集まる場所を、彼女は長い間避けていた。ユリアスの結界の張っていない森に近づくことさえも、彼女は嫌がった。御館を囲む森も嫌っていて、庭に目を向けるのにも、長い月日が必要になったほどだった。

 彼女が、最終的に、元に戻ったかなと思えるようになったのは、ユリアスでさえも、月日を忘れるほど時間が過ぎたころだった。彼女が、普通に笑えるようになったのは、ユリアスが成人して暫く経った後のことだった。

 

 庭で誰かが笑っていた。酷く楽しげに声を上げている。その華やかな笑い声に誘われるように、ティナはそっと、部屋の戸を開けた。自分の部屋に面している庭を眺め、そこに誰もいないことを確かめると、少し迷った後、手に持っていた櫛を置いて立ち上がった。鏡台に布を被せ、回りを簡単に片付けた上で、そっと部屋から抜け出す。

 御館の部屋は、それが、内側のものでない限り、だいたいが、縁側を持って入る。雨戸を潜って、庭に添って歩けるようになっているのだ。御館の内側の廊下を通らずとも、この縁側を通るだけで、屋敷を一周することも出来た。ティナの部屋からならば、少し歩いただけで、長の部屋にもいくことができた。もっとも、その通路を、ティナはほとんど使っていない。必要にかられた時以外は、長の部屋に近づこうとしなかったからだ。

 笑い声に誘われながら、廊下を進んでいくと、次第に、御館の奥へと踏み込んでいくことになった。長の部屋よりもなお向こうで、誰かが笑っている。どこかで聞いたことのある声だったが、誰のものか判らない。若い男の声だ。御館に詰めている魔神だろうか。あるいは、長老の声だろうか。聞き慣れた声でも、笑っているときのものと、厳粛にしているときのものは、ずいぶん違って聞こえるときがある。耳にした覚えがあるのに、誰か判らないのは、そのせいだろうと思った。

 角を曲がって、すぐに、鳥が見えた。一羽、二羽ではない。それこそ、数えられないほどの、沢山の鳥だ。小さな小鳥がいた。大きな、見たことのないようなものもいた。沢山の羽が、辺りに散らばっていた。ぎゃあぎゃあと叫びながら、大烏が鳴いていた。それに対抗するように、小さな小鳥の群れが、ちいちいと鳴いている。

 春の気持ちよい日差しの中、たくさんの鳥が、庭を飛び跳ね、あるいは、空で舞っていた。

 たくさんの鳥が、無造作に飛び回っているせいだろう。辺りには、視界を遮るほどの羽毛と、羽が舞い散っていた。灰色のものや、白や、たくさんの色が、満ちている。そんな中、一人の青年が、鳥に囲まれるように立っていた。楽しそうに笑いながら、頭に止まっている大きな鳥を落ちないように抑え、小鳥達へと話しかけている。

 黄金の髪が、太陽の光を受けて輝いていた。逞しい腕が、鳥達の止り木の代わりをしている。羽を休めた小鳥達を邪魔しないように、彼は一度上げた腕を、下ろそうとはしなかった。案外、楽な格好をしたいのかもしれないが、苦笑をしながら我慢しているようだった。鳥が身を寄せる度に笑い、それに答えるように、鳥がぱっと飛び跳ねる。

 沢山の鳥に囲まれ、羽に埋もれているのは、見間違いようもない、魔神の長だった。日頃、あれだけ冷徹な表情を見せるあの青年が、さも嬉しそうに笑っていた。顔を綻ばせて、鳥達との戯れを楽しんでいる。

 何か良いことでもあったのかと思わせるほどに、彼は上機嫌だった。惜しみない優しさを見せながら、鳥達のなすがままになっている。その姿は、とても綺麗だった。彼が、男として壮麗だからというのではない。小鳥が安堵したように寄り添い、沢山の羽が祝福するかのように舞い散るその光景が、なによりも美しく見えたのだ。

 ティナが立ち尽くしているのも知らずに、ユリアスは笑い続けていた。そんな彼の、明るく朗らかな表情を避けるように、ティナはぱっと顔を背けた。自分でも意識しないうちに身を翻し、歩いてきた縁側を、全速力で駆けた。

 彼女の背に追いすがるように、ユリアスの声がまた聞こえた。話し声だ。鳥に対するものではない。誰か来たのだろう。先ほどまでの明るさは感じられなかった。代わりに、冷徹な長らしい、落ち着いた、低い声が聞こえた。他人を突き放すような、厳しい口調だ。きっと、顔つきも、相手を畏怖させるに足る、美しいが、厳しいものへと変わっているのだろう。そんな顔を、ティナは『妻』として何度も目にした。長の奥方として、側にいなければならないとき、いつも見ていた。

 ティナが駆けていくのを、行き会った侍女が、不思議そうに見ていた。奥様と、呼ぶ声がする。それを、耳を塞いでやり過ごしながら、ティナは自分の部屋へと駆けこんだ。雨戸を乱暴に閉める。灯りのない、薄ぐらい室内を、足早に歩き、部屋の中央でぺたりと座り込んだ。

 何もない床の上でつっぷしながら、ティナは小さく呻いた。水を求めるように喘ぎながら、額を木の床の上に押し付け、くっと喉を鳴らした。

 

 光が押し寄せてくることに、最初に気がついたのはユリアスだった。他の誰も、それを気取ってはいなかった。炎のマリスでさえも、そうと知らせるまで、判らなかったようだ。ユリアスが絶叫を上げ、逃げろと叫んだ瞬間、彼は呆気に取られたような顔をしていたのだから。その瞬間まで、気付いていなかったのだろう。

 だが、理解した後の彼の動きは早かった。反射的に結界を張ったユリアスを支えるように、己もまた、炎の壁を作り出していた。ユリアスよりも、その壁の構築は遅かったが、迫り来る光を避けるには十分な早さだった。

 ユリアスが光の天蓋を作り出し、その前面に、第一の壁だとでもいうように、マリスの炎が迫り出す。二つの守りが、島側の魔神を被った。だが、対する大陸側の魔神は、何も気付いていないようだった。前方に出ていた炎の魔神が、あっと口を開いた。ユリアス達の奇異な動きを見て、何かを察したらしい。そして動こうとする。

 彼に、ユリアスは逃げろと叫んだ。彼等の手では、光を避けるだけの結界が作り出せないのは判っていた。出来ても、もう、間に合わないろう。だから、逃げろと言った。どんな手段でもいい、少しでもここから離れろと叫んだ。そのせいで、少し、結界が弱くなってしまったが、構わなかった。マリスも、やめろとは言わない。彼も同じ思いだったのだ。炎の魔神もまた、大陸の魔神達に、逃げろと叫びたかったのだ。

 光が、落ちた。どこから来たのかは判らなかった。ユリアスが、庇うように従えていた魔神達が、ぎゃっと悲鳴を上げた。あまりの輝きに、目をやられたのか。眩しいっと、誰かが叫ぶ。だが、それだけで澄んだのは幸いだった。光の壁ごしに、熱を感じた。結界を支える掌が、じりじりと焼けるほどの高熱だ。おそらく、壁の向こうの世界は、灼熱の地獄となっていることだろう。ユリアスの目だけは、光に焼かれなかった。その属性を持つ魔神なのだ。例え、あの高熱の中に出されても、無事だろう。だが、背後に庇っている魔神達は違う。マリスも違う。彼等は、光に愛されてはいない。彼等を庇わなければならなかった。守ってやらなければならなかった。

 目も眩むばかりの光が、暴れ狂っていた。精霊達が、踊り回っていた。己の春を謳歌するように、歌い、舞っていた。彼等に、ユリアスは、なんとか収まるようにと訴えかけた。それに、精霊達は、渋々と言うように慕う。皆、光の魔神に逆らう気はないようだった。中には酔狂なものもいて、ユリアスを王と呼ぶ者さえあった。そんな精霊達を叱りつけながら、ユリアスは手早く、彼等を静めていった。その最中、光の向こうに、見たことのある人影を見つけた。

 一瞬で、それが誰だか判った。昔見たことのある少女だった。あの女の子が、成長した姿だなと思った。

 大地の魔神だった。彼女自身が持つ魔力が、光から、その体を守っているようだったが、その力ももう、尽きようとしているようだった。髪が燃え始めている。肌が焼けただれていた。光の精霊達が、暴れ狂いながら、彼女を傷つけようとしていた。いや、汚そうとしていた。笑い狂いながら、あの少女を、焼き殺そうとしていた。

 駄目だと思った。傷つけさせてはいけないと思った。

 光の壁をそのままに、ユリアスは、暴れ狂う精霊達の真っただ中へと駆けていった。頭をかっかとさせながら、精霊達に怒鳴りつけた。もうやめろと、声も限りに叫んだ。光の精霊達は、それに怯えたようにすくみ、逃げ惑った。氾濫していた光が、見る間に消えていった。だが、光が引いていく、その僅かな時間さえも惜しいとばかりに、ユリアスは、辺りに今だ漂う光を食った。自分の内側に引きずり込んだのだ。そうやって、精霊達から力を奪いながら、少女の元へと駆けていった。

 倒れ、瀕死の状態の少女の側にたどり着いたときにはもう、辺りに光らしい、光はなかった。熱く、岩が焼け焦げていた。草と言う草が焼け、灰さえも残っていなかった。そんな地面の上に、彼女は倒れていた。白かっただろう肌が焼けただれ、真っ赤になっていた。顔も判別できないほどに張れ上がっている。髪が短く焼け落ちていた。魔神の髪は、とりわけ魔力が集いやすい場所なので、一番、他の属性の影響を受けにくい場所なのに、彼女の黒髪は焼け焦げ、ちぢれていた。あの高熱が、彼女を苛んだのだ。

 マリスが、遅れてやってきた。どういうこったと叫びながら、倒れ伏している大陸側の魔神達の生死を探っている。他の魔神にしても同じだった。どうしてこんなことになるんだと嘆きながら、同族の安否を探っていた。今のいままで、敵対し、殺しあおうとしていた相手だったのに。相手がただ、理不尽に死んだと言うだけで、仲間面をしている。

 ふと、視線を感じて視線を死にかけている少女へと向けると、彼女が、声にもならに声で、誰かの名前を呼んでいるのが見えた。それが、誰かも判らないままに、ユリアスは顔を歪めて泣いた。どうして悲しいのかは、よく判らなかった。自分の気持ちも理解できないままに、声を殺して泣いた。

 

 半ば悲鳴を上げながら飛び起きると、全身に汗をかいていた。夜着が、じっとりと濡れている。起き上がって、白い布の張ってある床に手を置くと、そこも濡れていた。ぐっしょりとした感触が返ってくる。ずいぶんと、寝汗をかいたのだろう。上にかけていた布団も、どこか、湿気ていた。

「……夢か」

 両手で顔を被いながら、深い息を吐き出し、ユリアスは小さく呻いた。何てことだと、一人ごち、小さく体を震わせる。

 手に、焼けただれた肉を掴んだような感触が残っている。ずいぶん昔のことなのに、今だに忘れられない感覚だ。べたりとした、気持ち悪さが忘れられない。だが、嫌ではなかった。悪夢になるほどの思い出なのに、感触を厭うことはできなかった。降り払うことさえ、できない。

 自分の掌を覗き込みながら、ユリアスはかすれた笑みを浮かべた。汗で濡れた金の髪をかき上げながら床を抜け出し、素足で部屋を横切る。

 雨戸を開けると、どっと、夜の風が部屋に流れ込んできた。春だというのに、ずいぶんと冷たい風だ。だが、今はそれが気持ち良い。空は晴れ渡り、煌々と輝く月が、森の向こうに見えた。星が幾つもまたたいている。その赤や青い輝きをじっと見つめ、魔神の長は小さな笑みを浮かべた。

 ふと視線を下ろすと、いまだ灯りのついているティナの部屋が見えた。まだ起きているのか。それとも、灯を灯したまま眠ってしまっているのか。ほんの少し開いた雨戸から、一筋灯りが見える。その微かな輝きを見つめながら、ユリアスはふと目を細めた。どこか切なげに、ちらちらと漏れる光を見つめ、小さく首を振る。

 手に、焼けただれた肉を掴んだ感触がある。乱暴に扱うと、肉がずれるのだ。触れるのさえ怖かった。このまま、あの少女が、ずたずたに壊れてしまうのではないかと、酷く怯えていた。

 目に焼きつき、消えない光景だ。昔、島の戦場にこっそり出かけていった時、見たのは実の父と、見知らぬ少女だった。父の側にいる少女は、愛らしく綺麗な子だった。一目見ただけだったが、忘れられない容姿をしていた。彼女が、誰なのかは、ずっと判らなかった。マリスにでも聞けば、すぐに判明したことなのかもしれない。だが、父親がいた場所に、自分がのこのこと出かけていったことを、知られたくはなかった。何かそれは、マリスに対する裏切りのように思えたのだ。

 あの炎の魔神は、長く、ユリアスに父親代わりとして接してくれた。実の父が側にいないユリアスを、本当の息子のように構ってくれたのだ。愛してくれた。慈しんでくれた。そんな彼に、自分が、父に会いたかったのだと知られるわけにはいかなかった。それは、あの優しく大きかった、炎の魔神に対する裏切りそのものだったからだ。『父』と思える存在は、一人だけでよかった。

 父の側に立っていた少女を、もう一度見たのは、やはり戦場でだった。ユリアスがやって来た当初から、そこにいたのかもしれない。だが、その存在を認めたのは、全てが手遅れになった直後だった。光が押し寄せ、全てを焼き払おうとする刹那、彼女を見つけた。

 ユリアス同様に、彼女も成長していたから、始めは誰なのかさっぱり判らなかった。ただ、見覚えのある子だなと思っただけだった。年上の女性に、既視感を覚えるなど、可笑しなことだと思ったのも、一瞬のことだった。次ぎの瞬間にはもう、彼女が誰なのかが判った。あの時、目にした少女だと思った。

 その少女が、無残に焼き殺されようとしていた。ユリアスが見ている、その目の前で、彼女の白い肌が焼けようとしていた。全てが焼けただれ、赤くなっていく。それを見ていて、頭の奥がぱっと熱くなったのだ。その後、闇雲に叫び、がむしゃらに駆けた。地面に倒れていた少女を抱き上げ、彼女の惨状に息を飲んだものだ。

 あの娘が、あの光の灯る場所にいる。ユリアスの見つめる、視線の先にいるのだ。

 少し歩いていけばいいだけだった。誰も、その行く手をとがめることはしないだろう。彼はこの御館の主人であり、魔神の長なのだから。その絶対的な支配者が、どう動こうが、誰も文句は言いはしまい。まして、ティナは彼の妻なのだから。例え、夜中であろうとも、尋ねていくのに不都合はない。あるとすれば、それは、ただ、二人の間だけにのみ存在するものだ。

 嫌っている男が、突然部屋に押し入ってきたら、あの気高い大地の魔神はどうするだろうか。悲鳴を上げ、人を呼ぶだろうか。ユリアスを、罵倒するかもしれない。案外、冷たい瞳で見据えてくるだけで済むかもしれない。それとは逆に、ほんの少し前のように、おかしくなってしまうかもしれなかった。

 つい最近まで、ティナは正気を失っていた。今も、時々、精神状態がおかしくなる。まだ、彼女の心は落ち着いていないのだ。そんな彼女を、無理矢理抑えつければ、それこそ、発狂してしまうかもしれない。

 くつくつと低く笑いながら、ユリアスは、開け放った戸に手をかけた。そこに、身を預けるようにして、体を傾がせながら、さも可笑しそうに笑い続ける。

 笑いながら、ユリアスはずるずると、体を下へとずらしていった。縁側に座り込み、だらしなく足を投げだしながら、喉をのけ反らせて笑った。もう、我慢できないとばかりに、大声を上げて笑いながら、彼は己の金の髪を無造作にかきあげた。その手を、ぺったりと床につけ、その上へと倒れ込みながら、光の魔神はそれでも飽きずに、笑い続けていた。

 長の狂ったような笑い声に、それと気付いた者もいるだろうが、誰も、やって来なかった。誰も、ユリアスの要すを伺いにこなかった。御館に詰めているはずの魔神が、全て息を潜めている。そうやって、じっと己を闇に隠しながら、彼等は聞き耳を立てているのだ。何時、狂人じみた笑い声がやむかと、怯えている。いつ、逃げだせばいいのかと、伺い続けているのだ。

 そんな状況さえおかしく、光の魔神は腹を抱えて笑い続けた。

 

 床に入らぬままに眠ってしまったせいか、朝起きると、腕が痺れていた。鏡台の前で、つっぷすようにうたた寝していたのだが、そのうち、本当に眠ってしまったのだろう。背中も引攣ったように痛い。

 腕を揉みほぐし、軽く体をひねりながら起き上がると、部屋の入り口の方はから、はたはたと、戸を優しく叩く音が聞こえた。ティナが目を覚ました時にも聞こえた音だ。誰と声をかけると、奥方付きの侍女の声が聞こえた。あの、どこか緑がかった黒髪を持った娘だ。入るようにいうと、失礼しますという声と共に、戸がさっと開いた。

「お早うございます。昨夜はよく眠れましたか?」

 侍女は、どこか幼く見える顔をにっこりと綻ばせながら、軽く首を傾げる。

 その仕草が何とはなしに微笑ましく、ティナも思わず優しく答えてしまう。

「えぇ。疲れてたのかしらね。今までずっと眠っていたわ」

 小さく笑いながら、視線を庭の方へと向ける。

 丁度、侍女が部屋の空気を変えるためにか、雨戸を苦労しながら開けている所だった。御館も、魔神が長年棲んでいるものだけに、かなり古くなってきている。もう何十年持つかはしらないが、そろそろ、次ぎの移転場所を決めねばならぬ頃だった。あのユリアスが長となる以前から使われていた古い屋敷だ。前の長であるルシアを慕って、場所変えを拒む魔神もいるというが、そんな彼等の思いをあざ笑うように、御館のあちこちにがたが来ている。

 侍女の開け放した雨戸を潜って、縁側に出ると、ひんやりとした空気が肌に触れた。ぼんやりと明るいが、いまだ、天の端には闇が残っている。東側が次第に青白くなっていくのにしたがって、その反対側にある空の黒っぽさと星の輝きが、徐々に消えていく。

 その変化を目に止めながら、ティナは背中で揺れる黒髪を軽くかき上げた。この御館にやってきた当初から長かったものだが、あれから、揃える程度にしか切っていないためだろう。もうそろそろ、膝を越すかという辺りで、毛先が風に嬲られ揺れている。

 白い夜着の襟元を寄せながら、ティナが部屋に戻ると、侍女が待ち構えていたように、手に櫛を持って鏡台の前に座っていた。その彼女の前に膝を付き、ティナがふっと力を抜くと、髪がぐいっと引っぱられた。毛先から、見ている方がじれったくなるばかりの丁寧さで髪を櫛削られる。それを、ティナは何の感慨もなくじっと見つめた。

 櫛が、髪を根元辺りから漉くようになると、ティナもまた、のろのろと動き始めた。どうしようかなというように、視線を鏡台の前で彷徨わせ、それから、仕方ないと言うように、薄い色の紅を取る。

 ティナが使う、唯一の化粧だ。御館に仕える女性は、皆、白粉などを使い、身ぎれいに着飾っていたが、あれはどうも、真似できないことだった。媚びを売っているように思えて仕方がないのだ。

 美しく装っている侍女達が皆、期待するような目で、ユリアスを見るせいかもしれない。彼女達は、あの長に、媚びているのだ。着飾って、賢く振る舞いながら、長の目に止まらないか、彼に求められはしないかと、何時も気にしている。その、浅はかぶりが、ティナには何とも腹立たしかった。あんな男に、どうして尻尾を振るような真似をするのかと、苛立つばかりだ。

 ティナが紅を付けている合間に、侍女が髪をゆるく編んでくれた。今日は、春にしては暑いですから、纏めて起きましょうねと、手早く黒髪を三つに分け、てきぱきと編んでいく。侍女はその途中、鏡台から小さな花の形をした飾りを取っては、それを、編み込んでいった。毛先を残して、紐で結い上げた時には、髪にたくさんの、白い飾りが舞い散らされていた。

「可愛らしい飾りね……」

 鏡に映った花の飾りを見つめながら言うと、侍女がそうでしょうと、可愛らしく笑った。

「これ、ウォウサ様が持ってきて下さったんですよ。だから、取ったりしないでくださいね。弟君が悲しまれますから」

 長くティナの側に仕えてきたせいなのか、侍女は、女主人の性格をある程度、把握しているようだった。せっかく綺麗にしたのを台無しにされたくないのか、ぴしゃりと言ってくる。

 そんな侍女の言動さえもおかしく、ティナは小さく笑った。大丈夫よと、侍女に囁きながら、髪に編み込まれた花にそっと振れる。

「ウォウサがくれたものですもの。大事にしなければ」

 花は、作り物ながらも、遠目には本物とそう変わらなかった。白い花弁が、本物のような鮮やかな色彩を誇っている。触れる度に返ってくる冷たい感触が嘘のようだ。本物のようで、実は偽物でしかない飾りに、ティナは感嘆からくるため息をついた。

 ティナが鏡をじっと覗き込み、花を見つめている間に、侍女が着替えを持って着てくれた。その薄い浅黄色に染められた上着に手を通しながら、ティナはふと、何かに気が付いたと言うように動きを止めた。それに、侍女が何かと言うように、小さく首を傾げる。

 鏡台の前に立ち、袖を通しているティナの目の前で、侍女は片膝をつき、服の裾を掴んでいる。片腕には帯がかけられ、庭から差し込んでくる光が、そこできらきらと反射していた。その、光沢のある帯のすぐ下に見える侍女の肌が、鈍い朱色に染まっている。

「それ、どうしたの?」

 動きやすくするためだろう。侍女は、袖を少しだけだが捲り上げていた。朱色に染まっているのは、その、捲った上着ぎりぎりに見える辺りの肌だ。赤茶色で、少し引きつって見える。一目で、火傷の痕だと判る。肉が引きつっているのは、火か何かで焼かれたためだろう。女の身には応える傷跡だ。

 ティナが視線を落とすと、侍女は目に見えてはっきりと、体を強ばらせた。どこか、怯えたように、ティナを見返してくる。黄色っぽい瞳が、僅かに濡れていた。その奥に、何かを後悔しているような色合いが見えた。

 火傷の痕の見える袖口に手を延ばすが、彼女は何も言わない。抗おうともしない。ティナの指先が、赤茶色の肌に触れても、手を払おうとさえしなかった。

 袖口をさらに捲り上げ、二の腕あたりまで引き上げる。そこにも、火傷の痕があった。広い。腕全体の肌が、醜く引きつっていた。元々色白の子なのだが、そこだけが、まるで異質のものに被われているようだ。触れて返ってくる感触も、どこかおかしかった。手を握ったときのような、滑らかさがない。

「どうしたの、これ?」

 そう尋ねながら、瞳を覗き込むと、侍女はぱっと顔を背けた。彼女の手から、帯がずるりと床に落ちる。その、黄色い帯を拾い上げながら、ティナは膝をつき、彼女の目をもう一度覗き込んだ。

「これは、火傷の痕ね。大丈夫よ。私が治してあげます」

「奥方様……!」

 はっと息を飲んだように、侍女が目を見開く。

 彼女の驚きと、期待に満ちた表情に、ティナはやんわりと笑みを浮かべた。大丈夫よと、繰り返しながら、年上の侍女の髪をそっと撫でてやる。

「私は、本当に何もできない魔神だけども。治癒魔法は得意なのよ。火傷の痕くらいなら、綺麗に消せるわ」

「でも……。無理です。そんな、何年も……。いえ、何十年も昔の傷なんですよ!?」

 一度癒されて残った傷は治らないんですと、侍女は泣きそうな声で言う。

 ティナは、それに曖昧に笑った。火傷の痕の残る腕を優しく掴みながら、視線を庭の方へとずらす。

「そうね。普通は、消えないわね。でも、私はできるわ。火傷の痕は全部、消して上げるわ……」

 そう言いながら、火傷の痕に触れる。すっと指を動かすと、それとともに、布地がはだけた。そうやって、見にくい引攣りが、露にされていくのを、侍女はどこか、遠い光景でも見ているような目で、眺めていた。

 ティナがそっと、上着をはだけさせるのを、侍女はぼうっと見ているだけだった。抵抗はしない。ただ、ぼんやりとした視線で、ティナを見上げ、酷く不思議そうな表情を見せる。

「治すなんて……。本当に消せるんですか。でも、なんで、そんな、無理です……」

 冗談を言うくらいならやめてほしいと、侍女は憤りと、怒りの入り交じった表情でティナを見上げてきた。真っ赤になって怒る風の魔神の侍女は、まるで、手負いの猫のようだった。毛を逆立てて、目をぎらぎらとさせている、攻撃的な愛玩動物に似ている。

 侍女の緑がかった黒髪を撫でながら、ティナは曖昧に笑った。掌で、風の魔神の肩を撫で、その肌に触れる。さらさらしていて、綺麗とつぶやきながら、小さく喉を鳴らした。

「別に無理じゃないわ。綺麗にしてあげられる。ただ、一つだけ約束して」

「約束?」

 ぴくりと体を震わせながら、風の魔神は小さく首を傾げる。だが、その瞳には以前、強い憤りがあった。警戒するように見返し、全身を固くしている。

 そんな娘に、ティナはやんわりと微笑んだ。

「このことは、誰にも言わないで。ユリアスにもよ」

「どうして……」

「だって、貴方、ユリアスに私のこと、いつも報告していたでしょう?」

 笑いながら目を細める。ティナがじっと見つめている前で、侍女は最初に見せた憤りと、怒りをふっと途切らせた。

 風の魔神特有の、細面が、さっと青ざめた。黄色い瞳いっぱいに、困惑が広がる。その侍女の頬を両手でそっと包み込みながら、ティナは薄く笑った。目にいっぱいの光を称えながら、侍女の瞳を見下ろし、彼女の鼻をつんと摘んでやる。

「怒っているのではないのよ。貴方は、当然のことをしたと思っているくらいだわ。私は、元々『敵』だった娘だし。いつ、ユリアスの寝首をかくか、判らない女だったものね。側にいて、行動を知らせるくらい、普通よね」

「ティナ様……。それは、違う……!」

 侍女が、抗うように身動きした。その彼女の細い体を、抱きしめるように拘束し、ティナは低く笑う。

「どう違うというの?」

「私は、ユリアス様に請われたのです。貴方を……。貴方を守ってほしいと。だから、私のような上位の魔神が……!」

 叫びながら、侍女は、ティナの腕の中で抗った。ぐっと、体を押し返しながら、まるで子供のように激しく首を振る。

「私は、監視のために、貴方の側にいたわけじゃありません。貴方に仕えるために、側にいるのです!」

「そうね」

「私が、ユリアス様にご報告申し上げたのは、最初だけです。それも、貴方が困ってらっしゃらないかとか、そんなことだけです。それ以外、あの方は聞かれようとしなかった。本当です」

 ティナの束縛から逃れた侍女は、まるで懇願するかのように、ぐっと、体を近づけてきた。ティナの両手を握り締め、まるで祈るように見上げながら、信じてくださいと訴えかけてくる。

 それに、ティナは曖昧に笑った。そうねと、返事を濁しながら目を細め、ふっと視線を反らす。

「別に、どうでもいいのよ。どうでも……」

「奥方様……」

「それよりも、今は、その傷痕を消してしまいましょう。綺麗にした方がいいわ。女なのだもの。ね」

 そっと緑の髪を撫でてやると、侍女はまるで泣きそうな顔になった。顔をうつむかせながら、まるで譫言のように、信じてください、信じて下さいと繰り返す。

 ぱたぱたと、侍女のこぼした涙が、床の上に幾つもこぼれた。その雫を指で掬い取りながら、ティナは視線を宙に彷徨わせ、ふっと目を閉じた。

 

 侍女が負った火傷は、左の二の腕から肩にかけてのものだった。胸も、少し赤くなっている。服を着ている分には、まったく目立たない位置にあるのだが、いったんそれを脱がせると、無残な引攣りが、あちこちに広がっていた。

「始めるわね」

 火傷の治癒のために、小さな魔法の灯りを掌に灯しながら、侍女の肌に当てる。触れるか、触れないかといった位置に手をかざしながら、身の内に宿っている魔力をゆっくりと放出していった。大地に属する力が、掌に集中し、そこで、癒しのための光へと変わる。大地の力を基盤としているためか、光は、淡い緑色に染まった、宝石のような輝きを発していた。

 侍女がはっきりとその変化を目にすることのできる、二の腕から癒していく。娘は、その過程を、まるで食い入るように見つめていた。

 ティナの掌に宿る光が触れ、そこから、火傷の痕が徐々に消えていくのを見て、侍女ははっと息を飲んだ。まるで、空気をなくしたかのように、口をぱくぱくとさせながら、顔を真っ赤にさせる。そうかと思うと、今にも泣き出しそうなほど瞳を潤め、小さく喉を鳴らしてうつむいてしまった。

 右手を火傷の痕へとかざしながら、左手で彼女の髪を撫でてやった。そうすると、侍女はぴょこんと顔を上げて、ティナを見つめた。その仕草はどこか幼く、年上だと言うのが嘘のようにも思える、可愛らしいものだった。

「……どうして、こんな火傷を負ったの。やっぱり、魔族?」

「あ、はい。まだ、戦があったころですけど。大陸側の魔神と睨みあっているときに、横から魔法を打ち込まれちゃって」

 困ったように笑いながら、侍女は軽く肩をすくめる。

「でも、私達なんかより、大陸側の魔神の方がたいへんだったみたいですよ」

「私達?」

 魔神同士の戦いの最中に、魔族が攻めてきて、大事になったことなどあったか。ティナがそう首を捻るのに、侍女もまた、不思議そうな顔になる。

「あれ、奥方様……。ご存じないんですか?」

「覚えていないわ。何時ごろ?」

「……ルシア様達が亡くなって、暫くした頃です」

 これだけは忘れることが出来ないとばかりに、侍女はきっぱりとした口調で言い切る。

 ルシアは、この島側の魔神の長だった女性だ。ティナも見たことはないが、風評だけは聞いている。たいへん美しく、また、賢い女性だったと言う。死してから、だいぶ経つが、島側ではいまだに、彼女のことを慕う魔神が多いという。ユリアスが、ともすれば暴挙とも思えるような大胆なことをしてのけても、一族の支持を失わないのは、一重に、愛され続けた前長の功績があるからこそだろう。

 そのルシアが亡くなったころならば、丁度、ユリアスが台頭し始めたころだろうか。ティナもまた、大陸側で、一族を纏めるのに四苦八苦していた時かもしれない。大陸側もまた、偉大な指導者を失った時だったからだ。小娘と侮られながらも、残った魔神達を纏めなければならなかった。そうやって、島側の魔神達に対抗しなければならなかったのだ。

 そんな時期だからこそ、ティナは、全ての情報を得ようと躍起になっていた。戦況と残存勢力を知るために、走り回っていた。その時期に、魔族に襲来され、打撃を受けたような事実を、聞きのがすとは思えない。

 ティナが不思議の思いながら、記憶を探っていると、それを手助けすると言うように、侍女がまた、ぽつぽつと、そのころの状況を話し始めた。

「あの時は、私もほとんど初戦同然だったんですけどね。そうそう、ユリアス様も、魔神同士の戦では、始めてだったはずですよ」

「……ユリアスの、初戦?」

「えぇ。まぁ、ユリアス様の初陣は、村を守るためのものだったんですけど。外に出ての戦いは、あれが始めてだったはずです」

 その時に見た光景でも思い出しているのか、侍女の声はどこか誇らしい。

 魔神の若長の初陣ならば、きっと、村も湧いたことだろう。同行した魔神達も、これからの戦いの勝利を、疑わなかったはずだ。力ある若い魔神の初陣とはそういうものだ。ティナの弟であるウォウサが始めて戦に出たときも、回りの魔神は大騒ぎだった。上位の魔神が、勝利を運んでくれると、皆、信じて疑わなかったものだ。

 まして、ユリアスは、長が亡くなったばかりで意気消沈する一族の、新たな指導者として、戦場に送り出されたのだから。彼を戦場にやると決めた長老達の期待も、並々ならぬものだっただろう。その下にいる、中位や下位の魔神達にとっては、彼は希望そのものだったのかもしれない。若い、美しい長が、雄々しく戦場へと向かう様は、彼等にとっては、さぞかし頼もしく見えたことだろう。

 夢のような光景ねと、ティナは口の中で小さくつぶやく。治癒のための光を、二の腕から、肩口へと移動させながら、ティナは小さく笑った。

 薄緑の輝きが通りすぎた後の肌は、まるで、白布を張ったように、なめらかな美しいものへと変化していた。まるで、生まれたての赤ん坊のもののようだ。それを目にした侍女は、まるで、宝物を目にしたように、きらきらと目を輝かせた。頬を真っ赤になるほど興奮しながら、期待に満ちた瞳でティナを見つめ、あぁっと小さな吐息を漏らす。

 嬉しそうに微笑みながら、侍女は可愛らしく顔を綻ばせた。にこにこと笑いながら、じっとティナを見上げてくる。

「あ、でもですね、奥方様、ユリアス様の初陣って言っても、あれ、本当は違ったんですよ」

「どういうこと?」

 変なことを言う子だなと思いながら、侍女を見返す。そうすると、嬉しさで心が高ぶっているせいなのか、侍女はますます顔を綻ばせて、可笑しそうに笑った。

「あの初陣なんですけどね、ユリアス様、実はこっそりついてきちゃっただけなんですよ」

「こっそり……?」

 ふと、心にひっかかるものがあって、ティナは口を閉じた。動揺したように、視線を彷徨わせる女主をどう見たのか。侍女はさらに楽しげに笑いながら、困った方ですよねぇと、同意を求めるように軽く首を傾げた。

「なんか、戦具合を見にきただけだったんですけど。マリス様に見つかっちゃって」

「マリス……。炎のマリスね?」

「えぇ。で、怒られて、追い返されるところだったんですけど、そこに、魔族がきちゃって……」

 ふと、侍女の声が小さくなった。ティナも、それに釣られるように、彼女の方へと視線を戻す。

 風の魔神は、相変わらず、興奮した面持ちをしていたが、どこか、気が沈んだように、目を伏せていた。きゅっと引き結んだ唇が、小さく震えている。どうしたのかなと思いながら、その顔を覗き込むと、怯えたように揺れている、黄色い瞳とぶつかった。

「あの時、ユリアス様がいなかった、私達、きっと、全滅してました」

「……でも、マリス様もいらっしゃったのでしょう?」

 あの炎の魔神は、当時、最強と呼ばれていたじゃない。そう、ティナが言うが、侍女はただ首を横に振るばかりだ。

「あの時、魔族の向けた術に、気がついたのはユリアス様だけでした。それを防ぐための結界にしても、ユリアス様がいたから、十分なものを作れたんです。マリス様の炎の壁だけじゃ、あの『光』は防げなかったと思います」

「光……?」

「えぇ、光です」

 こくりと、無邪気に頷きながら、侍女は小さく眉を寄せる。

「光の属性を持つ魔族なんて、珍しいですよね。でも、あの時の魔族は、それこそ、上位魔神よりも強くて。最初の魔法を耐えたユリアス様が、仕留められたんですけど」

「……光の魔族?」

 自分でも、ずいぶんとうつろだなと思う声で、もう一度そう聞く。

 侍女は、その微妙な口調に気がつかなかったのだろう。そうですと、律儀に頷きながら、自分の火傷の痕へと目を向ける。

 赤く残ったひきつれは、痕はもう、首の回りを少し残すだけで、残りは全て、白い柔肌へと変化していた。そのみずみずしい、美しい肌に触れながら、風の魔神はため息ともつかぬものを、ほうっと吐き出す。

「この火傷も、あの魔族に負わされたものなんです。こっち側に光が来るように足っていたんですけどね。それで、ばぁって。本当は、顔も火傷しちゃったんですけど。そっちは、不憫だろうって、ユリアス様に癒してもらいました」

「ユリアスに……」

 あぁ、あの光の魔神は、残酷な熱線魔法の他に、癒しの魔法も使えたのかと、心のどこかで吐息が漏れた。

 首の回りに残る火傷の痕を癒しながら、ティナはその緑の瞳をためらいがちに彷徨わせた。真っ白な肌を見つめ、風の魔神の、存外豊かな胸元へと目を落とす。そして、意を決したように顔を上げ、侍女の黄色い目を、じっと覗き込んだ。

「でも、ユリアスもおかしな人ね。そうやって、癒してくれるのならば、なにも、顔だけでなく、首も腕も綺麗にしてくれればよいのに」

 少し責めるような意味合いを込めて言うと、侍女がとんでもありませんとばかりに、慌てて首を振って、その言葉を否定してきた。

「顔を癒していただいただけでも、ありがたいことなんですよ?」

「……でも、彼ほどの力の持ち主ならば、どれだけ怪我人がいても、癒し切れるものではないの?」

 少なくとも、私は出来ると思いながら、つぶやく。

 だが、それさえも、侍女は否定してきた。ティナの力が低いとあざ笑ったわけではない。ただ、ユリアスにはそういう余裕がなかったのだと、彼を庇ったのだ。

「ユリアス様、私達の治療をなさる前に、魔族と戦われましたから。それで、ずいぶん、疲労なさってたんですよ。何しろ、相手はマリス様でもどうかと言う相手でしたし。マリス様はマリス様で、魔族との戦いに、私達が巻き込まれないように守るので、精一杯でらしたし」

「ずいぶん力の強い魔族だったのね、それは」

 皮肉ではなく、純粋にそう思いながら、ティナは目をつむった。

 本当に、そんな魔族が、一族同士の戦いに乱入してきたとして、そのことが、自分の耳に入らないことがあるだろうかと、いぶかしんだのだ。ユリアスとマリスと言う魔神がいて、まだ、こんな怪我人が出るような相手なのだ。大陸側も、無傷だったとは思えない。他愛ない魔族が相手であれば、報告するまでもないと、省かれる可能性もある。だが、怪我人が出るような相手がいて、それを、まったく上に知らせない場合があるだろうか。

「……そんなに強い魔族だったのなら、ユリアスも、無事ではなかったでしょうね?」

「えぇ。ユリアス様も、背中に、大きな火傷がありますよ。すごく大きいんです。でも、ユリアス様、自分は後回しだって言って、重傷の方から治療を始められて。力が尽きるまで、治療魔法を使われたんです」

「そう……」

「でも、最初にユリアス様が助けたのは、大陸側の魔神なんですよ」

 まるで自らの手柄を告げるように、侍女は誉高くそう言う。

 折りよく、治療が済んだティナは、話しの内容が内容と言うこともあり、思わず手を止めた。そっと、侍女の肩に手を起きながら、まじまじと彼女を見つめ、驚いたと言うように目を丸くする。

「敵だったのに……。ユリアスは、大陸側の魔神を助けたの?」

「えぇ。あちら側は、結界が間に合わなかったみたいで。生き残っていたのは、一人だったんですけどね。その方を、最初に助けられました。本当に、全身火傷で、瀕死だったから。誰も文句言いませんでした」

 あまり誇っても、大陸側の魔神であったティナの誇りを傷つけると思っているのか、侍女の言葉は控えめだ。それでいて、彼女の声の端々に、女主人に対する好意が感じられた。嫌味で言っているわけではないのだ。恩を着せようと、語っているのでもない。噂が好きな小娘のように、純粋に喋りたいたいのだとばかりに、目をくるっとさせている。

 侍女の肩から手を離し、はだけていた上着を寄せてやりながら、ティナはふらふらと視線を彷徨わせた。

「……その助けられた魔神、どんな人だったか、覚えている?」

「えぇと……。女性でした。大地の魔神だったと思います。黒髪と緑色の目の……」

 そこまで言いかけて、侍女がぴたりと口をつぐんだ。どうしたのかと思いながら、ティナは彼女の顔をじっと覗き込んだ。

「黒髪と緑色の……?」

「黒髪と緑色の目の……。顔は見えなかったんで。人垣で。皆、見てましたから。ただ、私の位置から、銀の腕輪が見えて……」

 そこで、侍女がふと、目を伏せた。何かを見ている。その視線を手繰りながら、ティナが自分の手元に目を落とすと、そこに、銀をねじった、腕輪がはまっていた。恋人から、求婚の品として送られたものだった。あの『光』の中、熱で歪んでしまった、思い出の品だった。

 侍女の視線が、妙に寂しげなのを感じ、ティナはびくりと体を震わせた。床に座ったまま、ずるずると、後ろへ下がる。そんな女主に、侍女は儚い笑みを浮かべた。蜻蛉のような消え入りそうな笑みを浮かべながら、困りましたねとつぶやく。

「あれ、ティナ様だったんですか……?」

「違うわ……。私は知らない……」

「貴方が癒されたから、私も、皆も、ユリアス様も、火傷が残ったままで……」

 そこで、侍女ははっとしたように、自分の口を抑え込んだ。その表情には、しまったと思っている気持ちが、ありありと浮き出ていた。言うつもりじゃなかったのにと、しきりに後悔している。その、青ざめた顔でティナを見上げながら、侍女はごめんなさいと、かすれた声でつぶやいた。

「こんなつもりじゃなかったんです……」

「私は……」

「ティナ様を責めるつもりじゃなかったんです。あれは、仕方ないことだから。ああしないと、ティナ様も、死んじゃったから……。でも!」

 侍女は、ぱっと弾けるように立ち上がると、そのまま、戸口まで真直ぐに走っていた。そこで、くるりと振り返り、吠えるように泣き叫んだ。

「貴方がいなかったら、私も、皆も、火傷を全部癒して貰えたんです。貴方があんな中途半端に生きて居るから、ユリアス様は、治癒魔法をいっぱい使って……。その分、私達が癒して貰えなかった!」

「……待って」

「私だって、こんな御館で仕えてなくとも、嫁入ることもできたのに。この火傷がなかったら!」

 もう、傷跡も残っていない胸元を抑えながら、娘は、泣き叫ぶように、激しい言葉をティナに叩き付けた。

 娘は、それこそ、一陣の風となったかのように、素早く身を翻し、戸口から走り出て入った。ぱたぱたと、軽い足音が、廊下に響き、部屋にまで伝わってきた。

 その空しい音を耳にしながら、ティナはぺたりと床に座り込んでいた。両手を尽きながら、体をぐらりと揺らがせ、かっくりと首を垂れる。

「嘘よ……」

 目の前に見える影を見つめながら、ティナは生気のない声で、そうつぶやいた。

 

 ティナの部屋の、男が出入りしていると聞いたのは、月の明るい夜だった。

 いまだ満月ではないが、雫がこぼれ落ちそうなほどにふっくらと丸くなった月が、中天にかかっていた。その回りには、沢山の明るい星がまたたき、空を彩っていた。月は黄金の染まり、当たりを明るく照らしている。その、美しい輝きを受け止めようとでもするように、ユリアスは縁側に出て、酒の盃を重ねていた。

 傍らには侍女が二人、酌をするために控えている。だが、ユリアスは彼女らに、必要以上に近寄ることを許さなかった。ただ、月見の伴だとばかりに、側に置いておくだけだ。

 ユリアスがそうやって、酒を煽っていると、傍らに控えていた侍女の一人が、知っておりますかと、切り出してきたのだ。

 彼女は元々、ユリアスの側室にでもと、送り出されてきた娘だった。戦が、島側の勝利に終わった直後に、御館にやってきた。あのころはまだ、誰も、ユリアスがたった一人の、それも、大陸側から得た妻だけで満足するとは思っておらず、沢山の魔神が、娘を押し付けてきたものだった。上位の魔神も、中位の魔神も、伝手を使って、娘をどんどん、この屋敷の方へと送り込んできたのだ。その手腕はさまざまだった。あからさまに、側室にと勧めてくる者は少なく、むしろ、侍女として側に置く方法を選んだ者の方が多かった。宴の最中に引き合わせ、そのまま、なし崩しにしようと言う下衆な考えを持った魔神もいたが、そういう者は大抵、ユリアスの側にいた長老達に排除されていた。

 今、側に控えている侍女二人も、そういう経緯で御館に仕え始めた娘だった。よりユリアスに近い側にいる娘は、親も自身も上位と言うこで、侍女達の中でも特に強い権勢を誇っていた。美しく、気品もある娘だったが、少し華やか過ぎるところもあった。自分が目立たなければ我慢できないのだろう。いつでも喧しく、そんなところが、ユリアスの目には短所に映った。

 炎の魔神らしく、侍女の髪は赤く、燃えるようだ。暗い闇の中にあっても、月明りを浮けて、赤金色に輝いている。その、長く豊かな髪を綺麗に纏めた格好で、娘は薄く微笑んでいた。空になった酒壺を自分の方へと引き寄せながら、代わりの壺を前へと押し出し、にっこりと笑う。

「ユリアス様、ご存じですか。近ごろ、ご正室のお部屋に、人が多く出入りしているとか」

 御館で多く使われている『奥方』と言う名称ではなく、『正室』と強調して、娘はそっと口元を抑えた。上品に笑いながら、横目でユリアスを見つめ、その赤い瞳をふっと逸らせる。

 こちらの気を引こうと、精一杯計算されたその動きに、ユリアスは口元に小さな笑みを浮かべた。そうやって、冷たく笑いながら、片膝を立て、そこに盃を掴んだ手を乗せる。

「どういう話しだ、それは。奥に友人でもできたのなら、それでいいではないか。彼女が暗すぎると文句を言っていたのは、お前達だろう?」

「そうですが……」

 存外冷たいユリアスの言葉に押されたのか、娘の声は覇気がなかった。目も、大きく瞬いている。ユリアスの、そっけない反応は予想外だったのだろう。不貞腐れたように、つんと、そっぽを向いてしまう。

「わたくし、知りませんわよ。ご正室がどうなっても」

「ほう……?」

「わたくし、ご正室のお部屋に、男の方が入るのを見ましたの」

 そこで、娘はまた、にっこりと笑う。朗らかな表情だった。勝ち誇ったように目が輝いている。

 炎の魔神と言うのは、情熱的なためか、何か集中することを持っていると、何時もよりも表情が輝いて見えるものだ。何かに没頭し、目標を達することに熱中するためだろう。その情熱が、回りにいる魔神を魅了してしまうことも、少なくない。

 娘も、暗い情熱に燃えているのだろう。瞳が輝いている割りには、表情に妖しさが漂っていた。唇がねっとりと濡れて見える。その姿が滑稽で、ユリアスはまた苦笑した。

「ティナの部屋に男が入った。で?」

「……一時ほど、誰も出てきませんでしたが?」

 娘の背後に座っていたもう一人の侍女が、小さく笑い声を立てる。

 二人の侍女から視線を逸らせながら、ユリアスはゆっくりと空を見上げた。

 ティナの部屋に、男が出入りしているとか言うのは、初耳だった。噂話しにも聞いたことがない。

 侍女の作り話しだと思うことも出来るが、それにしては、稚拙な思い付き。もしこれがただの妄想だとしたら、そのことを考えついた魔神は、たいそう愚かな娘と言うことになる。

 生憎と、ここに控えている二人の侍女は、そこまで馬鹿な女ではなかった。彼女らの心の奥底にある願望と、策略を知りながらも、ユリアスが敢えて使っているのだ。ただの愚かな娘なのならば、とうの昔に、側から追い払っている。しつこいほどの甘い視線と、誘うような態度に耐えつつ彼女らを使っているのは、あくまで、この娘達が優秀だったからだ。そんな頭の回る女が、根拠もない作り話しをして、勝負をかけてくるとも思えない。

 少なくとも、過大誇張する程度の事実はあるはずなのだ。そう思ったところで、また、笑いが込み上げてきた。

 ユリアスが喉を鳴らして笑うのを見て、侍女達が不思議そうな顔をした。そんな娘達に、冷たい青い瞳を向けながら、ユリアスは空になった盃を、不意に投げつけた。身近にいる侍女の頬を掠め、その後ろに控えている娘の肩をすれすれで通り過ぎる軌道で、赤い盃が飛んでいく。

 娘達の背後で、がしゃんと、何かが砕けたような音がした。赤い盃が、柱にぶつかったのか、二つに分れた状態で、縁側の隅に転がっていた。娘の一人が、ひっと声を上げる。その声に、顔を綻ばせて笑いながら、ユリアスは軽く手を振った。押し殺した低い声でどこかへ行けと言いつけ、そのまま、関心がなくなったとでもいいたげに、ぷいっとそっぽを向く。

 炎の魔神の娘が、すっと立ち上がり、もう一人の侍女を連れて、縁側から部屋の中へと入っていった。二人の気配が、背後にある部屋からも消えたのを見計らって、ユリアスは側にあった酒壺を手に取った。蓋を無造作に地面に投げつけ、ぐいっと煽る。口端から、酒がこぼれたが、それにも構わず喉を鳴らした。

 男が出入りするのが何時ごろなのか、聞くのを忘れた。酒を煽りながらそう考え、ユリアスは壺を下ろした。まだ、半分ほど残っているそれを、縁側の床に起き、立ち上がる。

 向こうに見えるティナの部屋から、明りが漏れていた。いつもよりも明るい。油を多く使っているせいだろうか。月に巻けないばかりの輝きが、目について離れなかった。

 気が付くと、ティナの部屋へと続く道を歩いていた。縁側に敷き詰めた板床を踏みしめながら、彼女の部屋めざして、真直ぐに進んでいく。

 日頃の癖が出たのか、足音はほとんどしなかった。気配を殺して行動するのは、戦場にいたころからの、習慣だった。そうやって動くことを、長く強要された。生き残るためには、些細な注意も必要だと、マリスに叩き込まれたのだ。そうやって、あの尊敬すべき炎の魔神に教え込まれ、体に焼き付けられた知識は数え切れない。

 ティナの部屋近くまで来ると、幾つかの気配を感じた。そのうちの一つはティナだ。彼女の声も聞こえた。低い、しっとりとした綺麗な声だった。ユリアスには決して聞かせない、優しささえ篭っている。その口調から、部屋にいるのは、ウォウサかなとも思った。あの美しい大地の魔神は、弟には特に甘く、彼にはいつも、優しく接していたからだ。

 入り口に立ち、断わりもないままに戸を開け放つが。うわっと、男が悲鳴を上げた。見慣れた顔だった。まだ、戦が続いていたころに、よく、共に戦った青年だった。上位の闇の魔神だ。沈着冷静で、嫌味なところもあるが、おおむね、ユリアスとは意見があった。先頭能力も高く、一族内でも尊敬されていた。娘達の評判も悪くない。そうやって、若い少女達が騒ぐのを、本人もまた、楽しんでいるような所があった。そんな、軽薄な面も持ち合わせている男だった。

 闇の魔神は上着を抜いた半裸の状態で、ティナの目の前に座っていた。大きく目をむきながら、ユリアスを見ている。その彼の前で、ティナが無表情に座り込んでいた。男の胸に手を当てながら、冷たく目を細める。

「何をしに来たのですか?」

「……夫が、妻の部屋を訪れるのは、何かまずいことだったかな?」

「何を馬鹿なことを……」

 名ばかりの夫婦なのに、そんなことを言われるとは思っていなかった。闇の魔神から身を離しながら、ティナはあからさまなため息をつく。

 ユリアスの『妻』であるはずの女は、闇の魔神に、彼のものらしい上着を渡すと、そっと、出ていくようにと囁いた。彼女に軽く黙礼しながら、青年は慌てて部屋を飛び出していく。ユリアスを避けるように、廊下側の戸口を潜り、男はあっさりといなくなった。

 後に残されたティナは、懍とした表情でユリアスを見据え、部屋の中央に座り直した。背をぴんと延ばし、正座をしながら、まるで責めるようにこちらを睨み付けてくる。

「何のご用ですか?」

「別に……」

 ティナの許しもないままに部屋に踏み込み、後ろ手に戸を閉めた。そこで、彼女も異変に気が付いたのだろう。いぶかしむようにユリアスを見つめ、眺め回す。その挙句に、吐き捨てるように、酔っているのですねとつぶやく。そして、さも忌々しそうに顔を背けた。

「酔った挙句に、踏み込んでくるとは。お部屋にお戻りなさい」

「ここも、私の部屋だよ」

 閉めたばかりの戸によりかかりながら、ユリアスはくつくつと、喉を鳴らして笑った。

「ここは元々、私のための部屋だ。貴方が、私を向かえるための、部屋だったのだがな」

「……お部屋にお戻りなさい」

 言い諭すように、ティナは繰り返す。

 ユリアスはそれをあざ笑うと、大股に、彼女の側まで近寄っていった。危険を感じたティナが、ぱっと身を翻そうとする。その女の細腕を掴み、叩き伏せるように押し倒し、ユリアスはさも楽しそうに笑った。

 すぐ目の前に、ティナの憤った顔があった。羞恥と恐怖からか、真っ赤になっている。唇が小さく震えているのは、恐ろしいからだろうか。それとも、言葉にならない怒りを堪えているからなのか。艶やかな黒髪が床に広がり、まるで、光沢のある布地のようだった。その上に、ユリアスがきつく握っている、白い腕がある。押し倒した拍子に捲れ上がった袖から見える二の腕は、ふっくらとしていて、手首以上に色が白かった。下にある青い血管が、透けて見える。その色彩を見つめながら、ユリアスは目を細めた。

「私が、憎いだろう?」

「……だから、何だと言うの?」

「貴方から、全てを奪ったのは私だ。憎いだろう?」

 そんな憎い男に組み敷かれて、悔しいだろうと、耳元で囁く。

 ティナが、離してと、悲鳴を上げた。それまでは、まだ、おとなしく期を伺っていたのだが、今はもう、馬鹿な娘のように、身をよじらせながら、足を無様にばたつかせていた。長い脛で、ユリアスを蹴り、押し退けようとするが、それを安易に抑え込む。

 大地の魔神にしては、ティナは非力で、そして、無知だった。上位魔神のくせに、何の力もない。ただ、ばたばたと暴れるだけだ。それが可笑しくて笑うと、彼女はますます顔を赤くさせた。悔し涙を浮かべながら、ユリアスを睨み付け、大きく首を振る。

「貴方なんか……。貴方なんか……!」

 髪を振り乱して暴れながら、ティナが泣いた。目元から、ぽろっと涙をこぼしながら、悔しげに唇をかみしめ、声もなく泣いた。

「貴方が殺したのよ……。貴方よ。貴方のせいよ」

「……何が?」

 誰を殺したのか、どうやって殺したのなんか覚えていないと、ユリアスは冷たく笑う。

 それに、ティナがまた泣いた。大粒の涙をぽろぽろこぼし、顔をくしゃりと歪ませる。

「貴方が、あの人を焼き殺したんだわ。その光で、私からあの人を奪ったのよ……」

「あの人?」

「私の……。私の……。返してよ。ずっと一緒にいるはずだったのに。貴方さえいなければ、あの人は……!」

「……なるほど、恋人か」

 くつくつと喉を鳴らしながら、ユリアスは笑う。

 青い瞳をいたずらっぽく輝かせながら、酒のせいで熱い唇を、ティナの喉元に押し当てた。女の、悲痛な叫び声が上がるが、それさえも、笑った。

 ティナの肌は冷たく、滑らかだった。体からも、髪からも、甘い匂いがする。骨格は、特別華奢と言うわけではないが細く、頼りなげだった。いっそ、殺してやろうかと思うほどに、美しく、手弱かだった。

 掴んでいた腕を離し、自由にしてやると、ティナはそのまま、床で丸くなって泣き出した。ユリアスに背を向けながら、ぐすぐすと泣きじゃくる。年上とは思えない、情けない姿だった。丸い背中が小さく、頼りなく見える。肩が震えていた。

 黒髪が乱れ、ぐしゃぐしゃになっている。そこで始めて、ユリアスは、この妻であるはずの女が、髪を切っていたことに気が付いた。つい先日前までは、膝に達するほどまでの長さだったのに、今は、背の中ほどまでしかない。切りそろえたにしては、短すぎる。何かを思ってのことならば、ずいぶんな決意だった。

「髪を切ったのか……」

 思わずそうつぶやくと、ティナの背中が、びくりと震えた。泣きながら、ティナが放っておいてと叫ぶ。貴方なんか嫌いなのと繰り返し、彼女はまた、わっと泣きじゃくった。そんな、名ばかりの妻を見下ろしながら、ユリアスは呆然とし、逃げるように部屋から飛び出していた。

 

 逃げるように部屋に飛び込み、乱暴に戸を閉めた。部屋の隅に置いてあった、小さな文机を頭の高さまで持ち上げ、そのまま、床に叩き付ける。机の上に乗っていた本が散乱し、散らばった。それをさらに拾い上げ、ばらばらに引き裂く。ぼろぼろになったそれを、宙へと巻き散らし、まだ何か、壊すものはないかと、辺りを血走った目で見回す。

 自分でも滑稽だと判る、酷い有様だった。きっと、引きつった顔をしているのだろう。無様に、泣きそうな目をしているに決まっている。割れた文机を掴む手が、震えていた。木が真っ二つになったところを掴んだせいで、槍のように尖った先が、ぐさりと手に突き刺さった。そこから、血がこぼれ、床に落ちた。それを踏みにじりながら、二つに割れた机を、壁に投げつける。

 近くに、火の灯った背の高い明りがあったので、それも、床に叩き付けた。油がこぼれ落ち、そこから火が広がっていく。

 暗い影を割くようにぱっと輝く炎を見て、ユリアスは笑った。声を上げて笑いながら、床の上に座り込み、拳を火の上に叩き付けた。

 物音を聞いて集まってきたらしい侍女が、悲鳴を上げた。顔を上げると、ユリアスが入ってきたばかりの戸口に、娘が一人立ち尽くしている。赤い髪の炎の魔神だ。侍女は、ぱっと火にすがりつくと、それを素手で握りつぶした。肉の焼ける匂いはしない。火は、赤い髪の魔神を傷つけはしないのだ。光がユリアスを愛しむように、炎もまた、この娘を愛している。

「誰か!」

 娘が叫んだのをきっかけにして、二、三人の侍女達が、ぱっと部屋に飛び込んできた。彼女らは、いずれも、割れた文机や、荒された部屋を見て、息飲んだが、先に飛び込んできた炎の魔神に叱咤されながら、怯えがちに動き出した。その合間に、赤い髪の娘がユリアスに寄り添い、その肩を軽く揺する。

「ユリアス様、しっかりなさって下さい」

 赤い髪の侍女は、帯に差してあった手拭を抜くと、それを、手早くユリアスの傷口に巻き付けていった。真っ白だった布の上に、じんわりと、赤い血がにじむ。自分の血も、こんなに鮮やかな赤い色をしていたのかと思いながら見つめていると、また、侍女に肩を許された。

「ユリアス様、長老方がお呼びなのです」

「……なんだと?」

 ぼんやりと侍女を見上げると、その赤い瞳と真正面からぶつかった。回りで、他の女達が、世話しなく動き回っている。文机を片付ける者もいれば、引き千切られた本を纏め直している女もいた。倒れた油を拭いている娘もいる。

 淡い緑色の衣服に身を包んだ娘達を見回しながら、ユリアスはゆっくりと立ち上がった。引きつるような痛みを感じたので頬をこすると、手の甲に、薄紅色の線がついていた。文机を投げつけて割ったときに、かけらが当たったのだろう。興奮していた時には気が付かなかった痛みが、じわじわと沸き上がってくる。

 乱れが上着を整えながら、赤い髪の娘へと目を向けると、彼女はやや心配そうな顔を見せながら、そっと身を寄せてきた。そして、耳打ちするように、かすかな声で囁いてくる。

「長老方がお待ちになってます。ただし、全員ではありませんが」

「人数は?」

「三人」

「半分、欠けているな」

 手の甲についた血を嘗めながら、薄く笑う。

 長老として、ユリアスは六人の魔神を選んである。六つある属性から、一人ずつだ。うち、大地の長老の座を占めているのが、ウォウサだ。彼の姉が発狂する以前に欠けた水の長老の座も、あの事件の後、すぐに埋めた。

 集まっている長老は誰かと問うと、炎、風、光の長老が集まり、待っていると言う答えが返ってきた。

「なるほど」

 頷きながら、部屋の出口へと向かう。開け放たれた戸に手をかけながら振り返り、追ってくる炎の魔神の娘を押し止めた。付いてくる必要はないと、厳しく言いつけ、大股に廊下を抜けていく。

 三人の長老達が待っているのは、おそらく、御館の中央にある広間だろう。話し合いなどによく使う一室だった。酒を酌み交わす場でもあった。秋の収穫の配分をどうするか、今年の冬をどう過ごすかなどを決めた。そういう、取り決めの場として、何時の間にか、神聖視し始められた場所だ。

 広間に向かう途中、何人かの侍女にあった。その弱腰の女達を押し退けるように進み、締め切ってあった広間の戸を、勢い良く開く。

 明りの乏しい広間の中央に、三人、男達が円を描くように座っていた。ぼそぼそと、低い声で言葉を交しながら、ユリアスを見上げ、軽く頭を下げる。

「このような夜更けにお呼び立てしてしまい、申し訳ありません」

「まぁ、夜になったばかりだからいいが。何の用だ?」

 広間を横切るように、上座へと進み、そこへ腰を下ろす。長老達は、そこで、体の向きをかえ、ユリアスの方に真向かうように座り直した。三人が一線に並ぶように、ユリアスと向かい合う。その態勢で、中央に座っていた光の長老が、ぐいっと体を押し出してきた。一人、突出するようにユリアスに詰めより、お願いがございますと、軽く頭を下げる。

「ご正室の件、お考え直し頂けませんか?」

「何を馬鹿な……」

 また、その話しかと、ユリアスはあからさまなため息をついて見せる。

 長老達が、今置いている正室を不満に思っているのは、何も、今に始まったことではなかった。ティナを妻に向かえた当初から、反対を唱える者が多かったくらいだ。いくら上位の魔神であろうとも、敵対していた大陸の魔神を、妻に向かえる必要はないのではないかと言うのが、一番大きな意見だったように思える。側室ならばと、同意する者もいた。だが、正室と言うことに関しては、反対が大半を閉めていた。今も、ティナが御館に居続けることに、苦虫を潰したような顔をする魔神がいる。

 ユリアスは苛立たしげに髪をかき回すと、これ以上、話したくないとばかりに、腰を浮かせようとした。その手を、光の長老が押し止める。長老の内でも、もっとも権力の強い男は、その金色の瞳で、ひたとこちらを見据えながら、お待ちなさいと、妙に厳しい声でユリアスを引き留める。

「ティナ様は、ご側室どまりにすべきです」

「何を……」

「あの方は、元々敵でした。大陸の魔神です。そのような女を、正室に据え、敬えと言うのは、あまりにも酷い。御館にいる娘達にとっても、屈辱です」

 ユリアスの手をぐっと強く掴みながら、長老が言う。

 そんな光の魔神に同意するように、炎の、赤い髪をもつ魔神も、重々しく頷いていた。しっかりなさって下さいと、悲しげに囁いた侍女と、どこか似た顔立ちをしている。確か、あの娘は、この男の姪だったはずだ。彼女をこの御館に送り出したのは、親の意向ということだったが、実際に、ユリアスに目あわせる際に側にいたのは、この赤い髪の魔神だった。

 ユリアスが浮かせた腰を下ろすと、光の長老はさも満足そうに頷いた。まるで、手のかかる甥だとばかりに、馴れ馴れしくユリアスに触れ、なだめるように、手の甲を軽く叩いてい来る。

 その行為に苛立って、腕を乱暴に払うと、光の長老はさも驚いたように目を見開いた。不老という魔神の性で、何時までも若々しい顔を引きつらせ、強ばった笑みを浮かべる。

「今さらとお思いになられるかもしれませんが、ユリアス様のお考えが、判りません」

「それがどうした?」

 膝を立て、その上に腕を起きながら、見下げるように長老を睨み付ける。

 悪意を込めて、見据えたつもりだったが、光の長老は、いつものようには引かなかった。これが、普段ならば、びくついて、下がるところなのに、今日はまったく動じない。怯えたような目も見せない。

 そのことに、困惑しながら、ユリアスはぐっと拳を握り締めた。ひたと見据えてくる長老の視線から逃れるように、顔を背けながら、馬鹿馬鹿しいと悪態をつく。

「私は、ティナを妻に据えて、大陸側の魔神の反抗を抑えるつもりだった。それは成功している。今さら、ティナをどうにかするつもりはない」

「確かに、大陸側の魔神も、抵抗する意思を失っています。今ならば、何をしても、彼等は諾々と受けるでしょう」

「だから……?」

 この男は何を言いたいのだ。光の長老の言葉は遠回しで、真意をなかなか口にしようとしない。そのくせ、あからさまだ。まさか、そんな馬鹿なことを言いわしないだろうと思いながら、見据えると、その表情の端に、卑しさが際立って見えた。金色の瞳の奥に、抑え込んだ欲望が見えた気がして、ユリアスは思わず顔を背けた。

「何が言いたいんだ、お前達は!」

「ティナ様を、ご側室に落として下さい。その上で、中級以下の魔神達の住居を区別なさるように」

「何故!」

 今さら、どうしてそんなことをしなければならないのかと、ユリアスは床を拳で打った。苛立ちのままに、長老達を睨み付け、声を荒げて叫んだ。

「今さら、そんなことが出来るわけがないだろう。彼等はもう、今の生活に慣れた。いまさら、苦汁を嘗めろというのか!?」

「一族は一族です。ただ、山側の野原側に、住居を移すよう、命じて頂きたい」

「あそこはほとんど湿地じゃないか。あんな場所に、家を建てられるはずがない。建ってもあの湿気だ。すぐに病気が出るぞ!?」

 井戸も掘れないような場所に移せるかと、ユリアスはもう一度、床を拳で打つ。

「お前達が口にしたことは、暴挙だ。今さら、勝者の権限を振りかざすつもりか!?」

「我々は不満なのです!」

 炎の魔神が、ユリアスに対抗するように、拳を床に叩き付けた。派手な音が響き、床板が歪む。小さな振動が、ユリアスが座っている場所にまで、伝わってきた。それを、忌々しく思いながら、小さく首を振って、彼等の意見を否定した。

「何が不満だ。今になって、何が……」

 震える声でつぶやくと、それに答えるように、風の長老が繊細な性格に似合わぬ、荒々しい声を張り上げた。

「何故、勝った私達が、あやつらと同じ生活をしなければならないのですか」

「やめろ……」

「私達が勝ったのです。彼等を支配して、何が悪い。我々が、より良い生活をして、何が悪いのですか。彼等は、私達に償うべきだ!」

「やめろ!」

 もういいとばかりに、ユリアスは叫び、席を蹴った。立ち上がった長を見て、また、光の魔神が押し止めようとするように、すがってくる。その長老を、半ば強引に押しやり、突き飛ばしながら、ユリアスは大きく首を振った。頭を抱えながら、もうたくさんだと叫び、床をどんと踏みつける。

「勝ったのは私だ。お前達ではない!」

 ユリアスはそう叫ぶと、突き飛ばしたばかりの光の長老の襟首を掴み、そのまま、ぐっと持ち上げた。光の魔神は、その暴挙に驚いたように、目を瞬かせている。そんな彼に、薄く、残酷な笑みを浮かべながら、ユリアスはふっと目を細めた。青い瞳を近づけ、相手の、金色の目を覗き込み、なぁっと、囁きかける。

「お前達は、自分が勝者だと言ったな?」

「私達は……」

「だったら、今ここで、敗者にしてやる。みじめに、地面を這いつくばる気分を味あわせてやろう」

 小さく喉を鳴らしながら、笑った。それに、光の長老が、顔を青ざめさせる。

 彼の襟首を掴んだまま、ユリアスは一歩前に踏みだし、その青い瞳を炎の長老へと向けた。にっこりと笑いかけながら、空いた方の手を持ち上げ、何かを潰すように、ぐっと握り締める。

「来い。私に勝てば、お前達が勝者だ。好きにするがいい。私を殺して、勝者になってみろ」

 挑発するように、炎の魔神に向けて顎をしゃくり、哄笑を上げる。

 光の魔神を、風の長老へと向かって投げつけ、立ち上がった炎の魔神の腕を掴み、関節とは逆の方向に捻ってやった。乾いた枝が折れるような、綺麗な音が部屋の中へ響く。

 歴戦の勇士でもあった炎の長老は、それでも叫び声一つ上げなかった。ユリアスの束縛から、素早く逃れると、赤い炎を生み出し、それを叩き付けてくる。

 結界を作りだし、透明な壁で火をやり過ごし、ユリアスはまた高く笑った。爆発が起き、それに、風の長老が巻き込まれる。

 部屋の隅に吹き飛ばされた男を見て、光の長老がひっと悲鳴を上げる。その彼を、熱線で射抜いた。小指の先ほどの大きさの光を、十本、放った。それで、腕と足を撃つ。

 焼け焦げた肉の匂いが、辺りに漂った。それに酔っていると、横あいから、炎の長老が殴りつけてきた。こめかみに、拳ががつんとぶつかってきた。思わずたたらを踏み、よろけた所で、腹を下からえぐるように、殴られた。

 呻きながら、後ろに倒れそうになると、腕を引かれる。また、頭を殴られた。目の前に、炎の長老のひきつった顔がある。恐怖と恐慌で、面が真っ青になっていた。そんな魔神を見て、ユリアスは目を輝かせて喜んだ。目を狙って飛んできた指を交し、懐に踏み込みながら、彼の耳元にそっと、死ねと囁いた。

 炎の長老の体がびくりと震える。恐怖にかられて、赤い髪の魔神が、絶叫を上げる。

 口元を歪めて笑いながら、ユリアスは彼に抱きついた。後頭部に手を当て、男のがっしりとした体を抱き寄せ、肩にそっと頬をすり寄せる。手のうちに光を灯し、それを、彼の頭に送ってやった。じんわりと染み込むように、願いながら、光の魔力を注ぎ込む。

 炎の魔神の体が、びくりと震えた。ひきつけでも起こしたように、びくびくと痙攣を起こす。

 炎の長老から離れながら、ユリアスはまるで楽しいことでも見るように、がくがくと震える男の体を見ていた。長老が、鼻血を出しながら、白目を向き倒れていくのを、目を細めて見入る。

「もう少し、力を込めて殴った方がいい。私は弱くない。両手が使えていれば、よかったのにな」

 こめかみを抑えながら微笑み、部屋の隅で呆然となている光の長老へと目を向ける。

「殺してはいない。だが、死にたければこい。殺してやるから」

 まるで、酒に誘うように言うと、光の魔神はひっと悲鳴を上げながら、後ろにとびずさった。壁に背が辺り、どんと音が鳴るが、それでも、逃げるのをやめようとしない。その横では、ぐったりとした風の長老が、口から泡を拭いている。壁に叩き付けられた時の打ちどころが悪かったのだろう。放っておけば死ぬかなと、ユリアスは笑いながら言う。

 今ごろになって騒ぎを聞きつけたのか、ばたばたと駆けてくる音が聞こえた。あの騒々しい音は、ウォウサか。長老達が集まっているところで、騒ぎが起こったのでは、並の魔神では抑え切れないと考えてのことだろう。侍女達が連れてきたのか、衛兵代わりに館に置いている中級の魔神達が連れてきたのか。いい判断だ。

 長老達を打ち捨てて、戸を開けると、目の前に、肩で息をしているティナがいた。その後ろに、彼女を支えるように、弟であるウォウサが立っている。

 美しい大地の魔神は、その細面をくっと歪ませると、ぼろぼろと涙を流して泣いた。両手で顔を覆い、うつむきながら、その細い肩を震わせる。

「なんて人……」

 責めるでもなく、まるで、吐息のように、そう漏らす。

 ユリアスは半ば呆然とした表情で、泣き続けるティナを見下ろした。彼女に触れることも出来ないままに、手をふらつかせる。

 助けを求めるように辺りを見回すと、恐怖に引きつった魔神達がいた。誰も、目をあわせようとしない。ウォウサでさえも、怯えたように見返してくるだけだ。だれも、ユリアスをまともに見ようとしなかった。

「……手当をしてやれ。部屋に閉じ込めて、見張っておけ」

 髪をかき上げながら、疲れたような声で、命じると、ようやく、一人、二人と動く魔神がいた。ウォウサがまず、部屋に飛び込んでいく。背中ごしだが、義弟が改めて、愕然とするのが判った。長老を叩きのめし、うち一人は半死半生にしてやったのだ。驚かないと言うほうが無理だろう。怯えるなと言うこと自体が暴挙なのだ。

 人を掻き分け、のろのろと前に進むと、背中に、ユリアスと呼ぶ声があった。ティナだ。責めるように、厳しい声で呼びかけている。

 何かと言うように振り返ると、濡れた目で、ティナがこちらを見据えていた。頬に、涙の跡をはりつかせながら、きっと見据えてくる。

「どうして、こんなことを……」

「私の理想の邪魔だったから」

 今ごろになってずきずきと痛みだした頭を抑えながら、呻くように答える。

 吐き気がするのを堪えながら、一歩前に踏み出す。だが、足元がふらついて、平衡感覚を保つのさえ、難しかった。そうしているうちに、膝ががくりと崩れて、倒れそうになった。誰かに抱きとめられる。柔らかな感触だった。耳元にティナの声が聞こえた。形のよい唇が、貴方なんか、殺されてしまえばよかったのよと、呪いを吐き出す。

 それでも、抱きしめて貰えたのが嬉しくて、笑ってしまった。頭がぐるぐるとして、酷く気持ち悪かったが、そんなことも忘れて、腕の中にあるティナの体を抱きしめた。頭が痛いんだと呻きながら、彼女の細い体を腕の中に引き寄せた。ずるずると、床にへたりこみながら、彼女の胸に顔をうずめ、少しだけ泣いた。

 

 


(update 2000/06/29)