オリジナル
■神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜■
−残酷な庭−4
作・三月さま
神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜
−残酷な庭−
解ける心。
ユリアスと長老達の乱闘騒ぎが起こってから、四日が経った。
争いの結果、炎の長老は、癒しの術を使っても、いまだ起き上がれないほどの傷を負い、もう二人の長老にしても、心に強い恐怖を抱く結果となった。赤い髪を持つ長老は、頭部に直接、異質な魔力を叩き込まれたせいで、床から起きることもままならないらしい。ユリアスの話しによれば、新月の夜が過ぎれば、光の魔力も抜けて、元どおりになるだろうと言うことだが、いまだ、満月も過ぎていない今から考えれば、ずいぶんと長い不自由となる。どちらにしても、一族上げての不満が持ち上がったため、彼はその日の内に、長老の任から退くことになった。
表面的な傷だけで済んだ光の長老にしても、ユリアスに対する恐怖が、心に強く残ったらしい。長に対し、直接的に手を出していないため、謹慎処分で済ませると言う処断が下ったが、自分から、役目を退いた。公認には、ユリアスたっての望みから、彼の弟が付くことになったとか。
早々にのびてしまったと言う風の長老も、二人に準ずる形で、隠居となった。彼自身は、しつこく、長老の地位にすがりつこうとしたのだが、回りが、それを許さなかったらしい。炎の長老にしろ、彼にしろ、一族を上げての敵意に負けた形で、地位を捨てることとなった。
結局、この長の暴挙とも言うべき乱闘で、上位魔神達が思い知ったのは、いかに、ユリアスが中位や、下位の魔神達に愛されているかと言うことだった。時に冷たく、告白な長だったが、彼は戦における最高の英雄だった。軍門に下った大陸側の魔神にしてみれば、自分達の立場を保護してくれた恩人でもある。その上、彼は自分にすがりついてくる者に対しては、甘く優しい長だったらし。ティナの近くに集まるようになった、元大陸側の魔神や、島側の中位魔神達はいつも、ユリアスを称える。あれほど、自分達のことを考えてくれる上位の魔神はいないと、彼等は、ユリアスを慕っていた。
「……彼は、愛されているのね」
鏡台の前で髪を漉きながらそうつぶやくと、背後に控えていた侍女が、もちろんと言うように、満面の笑みを浮かべた。ティナがこれから着る、外出用の上着を手に取りながら、いかに長が愛されているかを、得意げに語った。
「ユリアス様は、他の魔神と違って、公平ですから。皆、そういうところが好きなんですよ」
「……中位の魔神と侮ってみても、数は多いから。長老方にしてみれば、驚異でしょうね」
髪を緩く編みながら、ティナは薄く笑う。
侍女から上着を受け取り、それを羽織った。黄色に染めた紐を腰に巻き、きゅっと絞る。
春らしい草色に染めた上着は、鮮やかな、美しいものだった。上品な色彩が、目に優しい。しっとりとした作りで、ティナの女らしさを引き立て、着ていても気持ちがいい。
御館に深く篭ることが多いので、こういった、華やかさのある衣装を着るのも少なかったために、ティナは思わず自分の姿に見入ってしまった。楽しげに笑いながら、鏡の前でくるりと回ると、近くで一緒に見ていた侍女が、お似合いですよと、褒めてくれる。
「とてもお美しいです。皆に見せたいくらい」
「お世辞は言わないで」
薄く笑いながら、ティナは目を細める。ほんのりと頬が赤くなったのが、自分でも判った。そこを、手で抑えながら、そっとうつむくと、侍女は本気ですよと、小さく頬を膨らませる。
「皆、ティナ様にもう一度、お会いしたいんですから。言ってますよ。ちゃんと、お礼がしたいって」
「私だって、話しが出来て嬉しかったのよ。それだけで十分だわ」
「だったら、もう一度、側に呼んであげてください。きっと、もっとおもしろ話しをしてくれます。戦の話しばっかりだなんて。皆、あんな話しするんじゃなかったって、後悔してるんですから」
自分の言葉に迫力を込めようと言うのか、侍女はふんっと胸を張って、声を大きくする。
彼女の、どこか子供っぽい仕草が可笑しくて、ティナは小さく笑ってしまった。口元に手をあて、軽い笑い声を立て、さも楽しげに顔を綻ばせる。
この風の魔神とまた、こんな風に話せるようになって良かったと思った。本当に幸せだった。目の前で、ちょんと正座をしながら、待ってくれている女性がいるのが、こんなに楽しいことだとは思わなかった。そのことを、ティナが口にすると、緑の髪の娘は、顔をぽっと赤らめて恐縮してしまった。すいません、すいませんと、先日までの不在を謝りながら、ぺこぺこと頭を下げる。
この侍女が、今までのように、奥方付きとして御館に戻ってきたのは、あの、ユリアスの暴挙があった夜だった。村の方にも、あの騒ぎが知れてしまったのだろう。頭を殴られたせいで倒れたユリアスの側で呆然としていたティナの元に、彼女は大慌てで戻ってきてくれた。こうやって、また世話をしてくれるようになったのも、あの日の夜からだ。
彼女が、ティナの側から消えてから、色々なことがあった。だが、何よりも辛かったのは、彼女が消えたという事実だった。代わりの娘はいたが、彼女ほど、親切でもなければ、親身にもなってくれた。やはり、この娘は誰よりも心優しかったのだと、思い知らされただけだった。
そんな状況の中で、ティナがしたのは、償いだ。ティナが居たため残ってしまった火傷は、優しい娘でさえ、思わず逃げてしまうほどの苦しみだったのだ。同じような悩みを持つ魔神も多いだろうと思ったのだ。ティナが出来ることは、ただ、それを消すことだけだ。泣いたティナを慰めるように、弟が勧めてくれた。他に思うところもあり、ティナもそれを受けた。ウォウサが調べ上げてくれた名前を元に、あの戦いに参加していた島側の魔神を一人一人呼びだし、その傷跡を癒していった。
不幸中の幸い、女性は少なかったが、確実に存在していた。そのいずれもが、肩口や背に大きな火傷を負っていて、それが原因で、嫁入ることができない状態だった。彼女達の反応はいずれも冷たく、辛辣なものだった。当り前だろう。ティナが居たせいで、ユリアスは、私達を癒せなかったのだと、皆責めた。口裏をあわせた形跡もないのに、彼女達の言うことは一つだった。
「……やっぱり、ユリアスが、私を助けてくれたのかしらね」
鏡に向き合いながら、ぽつりとつぶやくと、何を言んだとばかりに、侍女がぷくりと頬を膨らませた。
「やだ。ティナ様。治療した皆に、そのこと、確認なされたんでしょう。私、嘘なんかついてませんよ?」
「えぇ、そうね。貴方のことを疑っているわけじゃないの。ただ、受け入れ難いのよ、それは」
鏡の中の自分の姿に触れながら、ティナは小さく首を振る。
「皆、言ったわ。誰もがそう言った。貴方も、他の女の人達も。あの闇の魔神も、精霊にまで誓って……」
そこまで言って、ティナはふと口をつぐんだ。ふっと、深い吐息を付きながら、鏡台の縁に手をかけ、そこに、額を乗せる。
ふと、あの夜のことを思い出してしまったのだ。一番最後でいいと言ってくれていた闇の魔神の治療にあたった日だった。彼は、上位の魔神であり、また、光に最も遠い闇を守護として持って居るだけに、熱線の影響も少なかったらしい。戦場で、盲になるほど目を痛めたそうだが、それも、自身で癒したのだと言う。彼にとっては、むしろ、自分の傷にかまけて、他の魔神を助けられなかったことこそが、罪悪感として残っていたのだろう。ティナと始めて面会したとき、あの青年は、他の魔神が救いを得たことを、我がことのように喜び、感謝していた。
彼の傷は、胸に残った、小さな火傷だけだった。癒すのも簡単な、本当に薄い傷跡だった。その治療を始める前に、彼は精霊にかけて、あの戦の時に自分が見たと言う光景を語ってくれた。それは、他の魔神達、全てが教えてくれたことと、ほぼ同じだった。多少、違う部分もあったが、それも、視点が違うからと、言い訳できる程度のものだった。大筋も同じならば、重なる部分も多かった。そして、その語り終わった事実を、彼は自分の精霊と魔力にかけて、真実だと誓ったのだ。
光を放ったのは魔族だと、皆が口を揃えていった。結界を張って彼等を守ったのがユリアスであり、最初の熱線の後、上位と思われる魔族が襲来したのも同じだった。その魔族を打ち倒したのが、あの若い長だと言うことも、変わりなかった。細部が食い違う場面もあったが、いずれも、戦闘中の、見極めるのも難しい箇所ばかりでだった。どう聞いてみても、質問してみても、嘘だと確信できるような答えは得られなかった。
ユリアスが飛び込んできたのは、闇の魔神の治療が終わった直後だったか。ティナも驚いたが、あの闇の魔神の方が、慌てふためいていた。だが、そんな純粋で瞬間的な感情よりも、強く心に残ったのは、恐怖だった。
あの一瞬のユリアスの顔。どう考えればいいのか。愕然としていた。さっと血の気が引いていくのが判るほどに、顔が青くなっていた。だらりと垂らした腕が震えていて、そのくせ、拳はぎゅっと握り締められていた。唇が、わなないていたのが、不思議だった。あぁ、怒っているのだなと、はっきりと判るほどに、ユリアスの整った顔が、その時だけは醜く歪んでいた。
ティナがうつむき、ため息をつくと、侍女がどうしたんですかと言うように、軽く背を撫でてくれた。
「大丈夫ですか。まだ、落ち着きませんか?」
先日の乱闘の後、ユリアスばかりか、ティナまで共倒れのように失神してしまったことを言っているのだろう。四日も経って倒れるわけがないのにと、薄く笑いながら、首を振った。
「私は大丈夫。ユリアスだって、もう、床から起きているのでしょう?」
「えぇ。頭を殴られたそうですから、もう少し、おとなしくなさるべきなんですけど。まぁ、戦中も、そうやってた方ですし。治療の方も済んでますしね」
長は、自分で自分を癒して、さっさと床から出ちゃったんですよと、侍女は困ったように言う。
それに対しては、曖昧な表情しか出来ない。本来、それは、形ばかりとは言え、妻であるティナの仕事であるはずだ。自分の力を過信しているわけではない。だが、あの時、御館に集まっていた魔神の中で、最も治癒能力に優れているのは、ティナだったはずだ。だが、それも、失神してしまったために、彼を癒してやることが出来なかった。
したくなかったわけではない。困惑したかもしれないが、拒絶する理由はなかった。
あの熱線を放った相手が、ユリアスではなかったと、信じたわけではない。心の中では、いまだに、愛しい人の仇は、あの青年なのだと言う思いがある。それでも、どこか、心が緩んでしまっている部分があった。どこかで、ユリアスを許してしまっているのだ。鳥に慕われ、沢山の羽が舞い散る中、笑っていた彼の顔がちらついて、離れない。
「……行ってくるわね」
白昼夢のように、視界をよぎる影を払うかのように、ティナは軽く頭を振った。侍女が差し出した、脛まで覆う形の履物を受け取り、いってきますと、口の中で転がす。
侍女は、心配そうな顔をしながら、縁側にまで付いてきた。一緒に行きたいのだとばかりに、体をそわそわさせながら、すがるようにティナを見上げてくる。
「本当に、お一人で行かれるんですか?」
「えぇ、最後まで確かめたいの」
履物に足を通しながら、ティナは小さく頷いた。
「ごめんなさいね。貴方達を信じてない訳じゃないの。ただ、長年の思いを砕くためにはね、最後の一人まで、話しを聞かないと駄目みたい」
「ティナ様……」
「どうしても、炎のマリスに会って、話しをしたいのよ。ユリアスのことについてね」
前を見据えながら言うと、侍女はぐっと言葉に詰まってしまった。三日前から、この繰り返しだ。ユリアスが床に伏せている間は、まだ、彼の体の具合についてを、口やかましいほど報告していた。だが、それも彼が床上げを早々に済ませてしまってからは、マリスの所に行こうとするティナを止めようとする言葉に、取って変わられてしまったようだ。行くのか、行くのかと、飽きもせずに聞き直してくる。
ティナが庭に降りると、ようやく諦めたのか、侍女は渋々と言うように、いってらっしゃいませと、頭を下げた。
「遅くならないで下さいね。日が落ちるまでにお戻りになられなかったら、お約束通り、ユリアス様にお知らせしますからね?」
「判っているわ。昼までには戻るようにしますから。マリスが見つからなくても、夕刻までには戻ります」
確約するように、ティナはきっぱりと言い切る。
マリスに会いに行こうと決めたのは、ユリアスが倒れた次ぎの日だった。朝起きて、ぼうっとしている時に、ふっと思いついたことだった。
例え、心の奥底で思ってしまっているように、話しを聞いた魔神全てが、ユリアスに遠慮するなり、脅されるなりして、話しを会わせていても、マリスならば、嘘を付かないように思えたのだ。あの炎の魔神は、誰よりも実直だったと言う。しかも、最近は、一族そのものとの関係を断っているのだ。ユリアスに唯一対抗できる人物であり、彼の師でもある男性なのだ。彼からならば、真実を聞き出せるような気がした。母と同じ世代の、魔神を代表する男からならば、他の魔神から聞けなかったような話しも、聞けると思ったのだ。望んでいる、ユリアスにとっては汚点になるような話しも、耳にすることが出来るかもしれない。
マリスに会うために、山に上る間、不在の方は、侍女にごまかしてもらうことにしている。本来ならば、目付けの魔神を付けなければならないところだが、誰にも同行してほしくがないために、黙って出ていくことにした。そうすれば、誰もついてこない。長く、御館に篭るような生活をしてきたためだろう。ティナに対する直接的な見張りは、あの侍女だけで十分だと思われているのだ。
確かに、ユリアスが当初懸念していたような、島側の放棄を阻止するためならば、彼女だけで十分だっただろう。ティナに対して忠誠を誓いながらも、彼女の本当の主は、ユリアスのままなのだから。こうやって、多少の都合はつけてくれても、結局、ユリアスに彼女はつく。ティナが日が沈むまでに帰ると言う約束を破れば、ためらうことなく、そのことを知らせに走るだろう。期限は、あの朝日が消えるまでだ。
それまでに、山に潜んでいると言われている炎のマリスを見つけ、彼から話しを聞かなければならなかった。相手も上位だが、とりわけ、警戒はしていない。母の友人だったと言う男性なのだから。悪い噂も聞いていない。むしろ、注意しなければならないのは、山道の方だ。大地の魔神である以上、森にも山にも縁が深いが、御館に長く引き篭っていたため、体が弱っている。山に踏み込んで、そのまま、戻れなくなる危険性もあった。
「それでも、知りたいのよ」
御館を囲む森に踏み込みながら、回りにある木々に話しかけるように、ティナは独り言を口にした。
「それでも、知りたいのよ。ユリアスが、本当に、あの人の仇なのか、どうか。だって、もしそうでないのなら……」
右腕に着けた腕輪を、もう片方の手で握りながら、ティナは顔を伏せた。軽く唇を噛みながら、細々とした、ため息をつく。
「もし、あの人が仇でないのならば……。私は楽になれるもの。もう、泣かなくてもいいのだもの」
片手で顔を覆いながら、ティナは細々とした笑みを浮かべた。
そう、自分はユリアスを守り、庇わなければならないのだ。妻だからではない。同士としてだ。
ユリアスはこれ以上はないほどに、大陸から戻ってきた魔神達を保護してくれている。立場の悪い上位魔神にしても、彼がいるからこそ、大きな顔をしてられるのだ。ユリアスと言う、絶対的な保護者がいなくなれば、彼等は、島側の魔神達によって、私刑に目に遭わせられるられるだろう。中級、下級の魔神にいたっては、いいなぐさみものだ。そんな仲間達を守るためには、ユリアスの絶対的な力と、権力が必要だった。それに、ティナはすがらなくてはいけない。
恋人の仇だと言うわだかまりさえなければ、素直に、彼に請い願うこともできるのだ。そうすることを、屈辱に思う感情はなかった。それよりも、早く、わだかまりを捨てて、泣き付きたいほどだ。後ろ指を指されて辛いのだと言う、大陸出身の母親達の声を聞いても、慰めるしかない状況なもう、うんざりだった。影で屈辱を受けた娘がいるのに、相手を罰せられないのも、もう嫌だった。ユリアスを責めて、敵視して、御館の中で孤立していくのに、疲れたのだ。
魔神のうちでも、絶対的な力を持つ炎のマリスの話しを聞けば、全てを信じられるような気がした。彼ならば、もっと確証的な事実を教えてくれるかもしれない。それに、ティナはすがるつもりだった。ただ、魔神達の話しを聞くだけで、今まで信じてきたことを覆えす勇気はなかった。そして、彼等の話しをつっぱねるだけの気力も、もう残っていなかった。
御館が背負うようにある山は、それほど高くはないのだが、森が深く、鬱蒼としている場所だった。木の葉が多いのだろう。その中を歩くともう、本当に今は朝方なのかと、疑いたくなってくるほどに、辺りが暗く見える。獣道を辿っているので、そう、歩き辛いと言うことはないのだが、いつ、物騒な動物に会うかと思うと、気が気でない。
しかも、長く御館に篭って暮らす生活を続けてきたためか、山を上ること自体が辛い。始めこそ、軽い気持ちで森に入り、ゆったりとした坂道を歩き始めたのだが、それも、あまり進まないうちに、足を上げることさえ億劫になってきた。何とか、御館を望める小さな高台に出たころには、もう、息切れする有様で、いったん岩場に座り込んでしまうと、まったく動きたくなくなってしまう。
「どうして、こんなに……」
迫り出した岩の上にへたり込み、胸を抑えながら、なんとか息を整えようとする。溢れるようにこぼれ落ちてくる汗は、拭っても拭っても消えてくれない。
空を見上げると、太陽がもう、中天にかかろうとしていた。春の日差しだと言うのに、その輝きはぎらぎらとしていて熱い。陽気にさらされる顔が、熱っぽいほどだ。ほんのりと吹き付けてくる風が、心地よかった。なんとか、体を冷やそうと、襟を緩めながら、ふぅっと、小さなため息をつく。
「体力ないわ、私」
大陸にいたころはまだ、根城にしていた砦やその回りを走り回っていたから、体力だけはあった気がする。徹夜をしても平気だったのだ。三日、四日眠らないで、負傷した魔神の治療にあたることも、珍しくなかった。
だが、今ではもう、夜になれば眠くなり、起き続けることもできない有様だった。島の魔神から、あの魔族の襲来があったと言う戦の状況を聞いて、あれこれ考えていても、気が付くと、うとうととしてしまう。はっとなって起きてみたら、朝だったと言うことも度々あった。
年なのかなと思うが、人間ではない不老の魔神なのだ。加齢と共に体力が落ち、力が落ちるようなことはないはずだ。あるとすれば、無精のせいだろう。御館に篭り続け、延々と愚痴っていたから、体が弱くなったのだ。ユリアスを殺そうと考えていたことさえが、可笑しく感じるほどだ。こんなふうに、何もしないでいれば、ただ弱くなっていくだけなのは目に見えて明らかだったのに、体一つ鍛えようとはしなかった。体力で叶わないのであれば、魔力で勝負しても良かったはずなのに、そのための修行もしなかった。ただ、御館の奥で泣いていただけだった。ユリアスが死ねばいいのにと、嘆いていただけだ。
自分が情けなくて、ティナはひっそりと泣いた。岩の上に腰掛けながら、両手で顔を多い、小さな嗚咽を繰り返す。
もう、御館にも帰りたくないと思った。このまま、どこかに消えて、一人だけで暮らしたかった。不自由でいいから、大陸に戻りたかった。懐かしい場所に戻り、こじんまりとでいいから、幸せになりたかった。権力も富もいらないのだ。ただ、親しい友人と、恋人と、それだけの相手がいて、笑っていられれば、それで、幸福になれるはずだった。
ぐすぐすと泣いていると、汗を吸ってべっとりとなった髪が、ずるりと、肩から胸元へと落ちてきた。そのことさえ苛立たしく、黒髪を大きく払いながら、じめじめとした動作で顔を上げる。目元を拭いながら、足元にあった小石を軽く蹴った。白と灰色の縞模様の石は、岩場を点々と転がりながら、思っていたよりも遠くへ飛んでいってしまった。そこで、かつりと、誰かの足に止まる。
あっと思って視線を上げると、そこに、赤い髪を持った、背の高い男が立っていた。精悍で逞しい、青年だった。瞳も真っ赤だ。気配と見た目の感触から、魔神だと言うことが判った。炎の守護を強く受けているのだろう。ただ立っているだけなのに、その背後に炎が揺らめいているようにも見える。風が彼を避けるように、揺らめいていた。茶色く日焼けした肌が、日の光を照り返し、眩しいくらいだ。
「……マリス?」
疑う思いもなく、その名前を口にすると、炎の魔神は口元に、にやりと笑みを浮かべた。人好きのする、明るい表情で手を振りながら、大当りと目を細める。
「お前、ラルバんとこの娘だろ。そっくりじゃねぇか」
マリスは、まるで、久方ぶりの友に会ったかのように笑いながら、気楽に、ティナの方へと近寄ってきた。警戒心の感じられない動作で、大股に歩みより、あともう少しで向かい合うと言うところで、ぴたりと立ち止まる。
「なぁ、俺、臭くねぇか?」
「は?」
質問の趣旨が判らず、ティナが目を瞬くと、炎の魔神は照れ臭そうに、髪をかいた。ちらりと見る限り、放ったまま延ばしている髪は、肩を過ぎ、背中の中ほどまでの長さがあるようだった。それを、草か何か判らないようなもので、縛っている。
言われてみれば、少し、匂うかなと思う体臭が鼻についた。だが、そう気にするほど酷いものではない。むしろ気になるとすれば、それは、マリスの着ているぼろぼろの服の方だった。特別汚いと言うわけではないが、洗いざらしで、今にも破れそうな酷い有様なのだ。縫い目がほつれている場所もあり、よっぽど、仕立て直してあげようかと、申し出たいくらいだ。
ティナは、しらばくの間まじまじとマリスを見つめた後、服が気になりますと、正直に言った。
「服、すごいぼろぼろなんですね」
「……まぁな」
自分でも着にしていたのか、上着の裾を引っぱりながら、マリスは気難しげに頷く。
炎の魔神は、しばらく、照れ臭そうにそっぽを向いていたが、やがて、諦めたと言うように、にっと笑った。手近にあった岩に、ひょいっと座ると、機嫌よく笑いながら、本当に似てるなぁと、しみじみとつぶやく。
「お前、本当にラルバに似てるよな。まぁ、あいつよか、おしとやかで美人だけどな」
「……母を知ってらっしゃるんですね?」
「あったりまえだろ。戦始まるまでは、ご友人だぜ?」
膝を一つ、軽く叩きながら、炎の魔神は言う。
「ラルバにそう、聞かなかったか?」
「えぇ、聞いていますが。まさか、本当とは思っていなかったので」
「……なるほど。二世代目は、そんなものか」
くっと喉を鳴らし、マリスは目を細めた。その赤い瞳は、まるで、物を見定めるように、ティナをじろじろと眺めていた。厭らしさはない。彼の態度はいたってあっさりしたもので、側にいても、男と言うものを感じさせないものだった。彼自身は、いたって男臭い魔神だった。体格も、言葉遣いも、仕草も。全てが、際立った力を持つ男のものだった。あるいは、ティナに対して、女と言うものを意識していないのかもしれない。品定めするように見るマリスの目は、まるで、子供の泣き顔を観察している大人のもののようだ。
その態度が妙にくすぐったく、それでいて、小さな恐ろしさを感じさせるマリスの視線に、ティナは思わず首をすくめた。居心地悪さに、そわそわとしながら、岩に手を付き、ふっと顔を伏せる。
「あの……。マリス?」
「なんだ?」
岩の上に膝を立てながら、マリスはその上に顎を乗せていた。警戒など、微塵にも見せない。お前など、驚異にも思っていないんだよと、態度で示している。ティナの実力を嘗め切っているのだろう。女として、ティナを馬鹿にしていると言うよりは、純粋に、魔神としての実力を見下してのことなのだろう。別に戦いに来たわけでもないのにと思いながら、ティナはその態度に少しだけ憤った。
「どうして、ここにいらっしゃたんですか?」
「……お前、俺を探してたんじゃねぇのか?」
意外と言うように、マリスが目を丸くする。
「お前が探してるように思えたから、こっちから出てやったってのに」
「……探していました」
「だろう。だから、俺から会いに来てやったんだよ。感謝しな、お嬢ちゃん」
小馬鹿にしたように、マリスは笑った。
日はいまだ高く、夏の到来を知らせるような、痛いほどの輝きを発していた。地面に見えるかすかな影は黒く、その回りにある白い反射は目に突き刺さるようだ。空気にさらされた肌が熱を持ち、ひりひりとする。
ティナが顔を上げ、睨みつけると、マリスはそれを面白がるように笑った。そういう所は、ラルバとそっくりだと、茶化しながら、楽しげに目をくるくるとさせる。その様は、これが本当に熟年の魔神なのかと思わせるほどだ。態度一つ一つは、まるで若い青年のように明るく、落ち着きがなかった。そのくせ、どっしりと構えている。どこまでも若々しい魔神だったが、その本性は、大きく、うち破れない壁のような男だった。
ティナは、揃えた膝の上に手を重ねると、一つ大きく息を吸い込んだ。自分に、頑張りなさいと、言い聞かせながら、きっと、目の前にある赤い瞳を見据える。
「今日は、貴方にお聞きしたいことがあって来ました」
「何かな?」
ティナの真剣な声を受けて、マリスもすっと表情を引き締めた。それまで、抱くように引き上げていた膝を下ろし、軽く胸を逸らす。その態度は立派で、清々しかった。こちらが真面目に出れば、相手もそれに答えてくれるのだと言うことが判り、ティナはそっと安堵のため息をつく。
「ユリアスの、魔神同士の戦における初陣のことを聞きたいのです」
「なんでまた」
どうしてそんなことを聞くのかと、マリスは目を白黒させる。
「そんなこと、本人に直接聞けばいいだろうに。お前、ユリアスの妻だろうが」
昼でも夜でも、好きなときに尋ねればいいだろうと、炎の魔神は不審げな顔つきになる。
彼の不満を受けながら、ティナは弱々しく首を振った。
「それは、出来ないんです」
「どうしてだ?」
「……どうしてもです」
私達は形ばかりの夫婦なのですとも言えず、ティナは口ごもりながらも、なんとか、そう答えた。
何か悔しくて、唇を噛みながら顔を逸らすと、そこに、マリスが無遠慮な視線を向けてきた。炎の魔神は、まるで探るようにティナを見ながら、ふぅんと、軽く鼻を鳴らした。
「お前、処女だろ?」
「な……!」
何を言うんだとばかりに、ティナは座っていた岩から慌てて立ち上がる。
拳を握り締め、顔を真っ赤にさせながらマリスを睨みつけると、炎の魔神は、口元をくっと持ち上げながら、目を細めて笑っていた。楽しくてならないと言うように、肩を揺らしながら、哄笑さえ上げる。
くっくと喉を鳴らして笑う炎の魔神に、ティナは今にも泣きたい思いで、両頬を抑えた。そこに血が上ったのが、自分でも判る。熱が篭ってしまったように、掌に触れる肌が熱い。
「貴方は、なんてことを言うんですか!!」
「お前が、馬鹿正直な反応を返すからだろうが」
悪いのはお前と、マリスは指を突きつけてくる。
それにティナが絶句すると、炎の魔神は笑いながら、また、片膝を持ち上げた。そこに肘を乗せながら、悠然と構え、まるで子供でも見るかのような目で、ティナへと笑いかけた。
「そう怒るな。ま、良い年した女の子に聞くようなことじゃなかったな」
「貴方は……。貴方は……!」
もう嫌だと、ティナは頭を抱えてその場にうずくまった。どうして、こんな場所で、こんな辱めを受けねばならないのだと、泣きながら、膝の上に顔を伏せる。
少し離れた場所から、マリスが困ったように、泣くなと言うのが聞こえたが、それにも、ぶんぶんと首を振るだけで、答えない。あんな、突拍子もないことを言う魔神に、何か言葉を返すような真似はしたくなかった。ただ、膝を抱え、ぐすぐすと泣きながら、時折、思い出したようにしゃくりを上げる。
炎のマリスは、島側の魔神の特に際立った戦闘能力を持つ戦士だと聞いていた。しかも、ユリアスの事実上の養父にあたる人物なのだ。もっと高尚で、立派な魔神を想像していたと言うのに、その実態は、こんな下賎な男だったとは。これ以上、辱められる前に、どこかに逃げ出したい気分だった。
しつこく泣いていると、また、先ほどより近い場所で、マリスが泣くなよと、言った。その声に慌てて顔を上げると、すぐ目の前で、赤い炎の魔神がティナと同じようにしゃがみながら、顔を覗き込んでいた。それにびっくりとして、思わず尻餅をつくと、マリスは困ったように笑った。ごめんなと、馴れ馴れしい態度で謝りながら、炎の魔神がすっと手を差し出してくる。
「ほれ、立て。お前を泣かしたら、俺がユリアスに殺される」
「なにを……」
「ま、いいからさ。起きろよ。お前の母親は、そんなことじゃ、泣かない女だったぜ?」
なっと、同意を求めるように、マリスは軽く首を傾げて見せた。
渋々手を差し出すと、広く大きな掌に触れた。それこそ、ティナの手を丸々、包み込んでしまうような大きさだ。少し冷たく固いが、優しい手だった。そのことに困惑しているうちに、ぐっと体を引き上げられる。
炎の魔神は、ティナを起こすと、そのまま、ぱっと開放してくれた。ま、座れよと、岩を顎でしゃくりながら、その横に当然とばかりに腰を下ろす。
ティナが示された場所にちょこんと座ると、炎の魔神は機嫌よく笑った。こういう時ばかりは、年上然とした態度を見せる。ティナを子供扱いしているのだろう。悠然とした態度には、大人としての余裕が垣間見られた。
「で、お嬢ちゃんは何が聞きたいんだったっけ?」
「ユリアスの初陣のことです」
ゆっくりとそう告げると、マリスは一つ、ふむと唸った。これで殴られれば、殺されるのではないかと思えるほど太い腕を組みながら、ぐっと空を見上げる。
「お嬢ちゃんは、ユリアスのこと、嫌いか?」
ぽつりと投げかけられた疑問に、ティナは答えなかった。ただ、沈黙し、うつむくだけで、マリスの質問を受け流そうとした。
炎の魔神は、ふっと視線をこちらに向けると、そのまま、暫くの間、ティナの横顔を見つめ続けた。そのうち、ふっとため息をついて、顔をまた、空の方へと向ける。
「……ユリアスの初陣か。ずいぶん昔だけどなぁ。その何が知りたいんだ?」
「……魔族が襲来した後のことを」
「それを聞いてどうする。なんで、そんなことを知りたい?」
また、マリスが片膝を立てた。またふざける気なのかと思い、横に座る炎の魔神を盗見したが、特に笑っているようなことはなかった。むしろ、真剣な表情で、ティナの反応を探っている。赤い瞳がまっすぐに、こちらを見ている。射抜くような鋭い視線が、ティナを縛っていた。
「……あの時、私はほとんど目が見えなくなっていて」
一番最後に治療した、闇の魔神のことを思い出しながら、そう、嘘をついた。
確かに、熱線を浴び、大火傷を負った時、ティナの目はほとんど見えないも同然だった。まぶたが張れ上がっていたために、目が開けなかったのだ。だが、それ以上に、意識が朦朧としていて、何がなんだか判らなかった。ただ、痛みと恐怖に耐えることしか出来なかったのだ。何かを感じ、見ようとする意思など、皆無だったと言ってもいい。
「だから、私の聞いて思ったことが、真実なのか、知りたいのです」
そう、ゆっくりと言葉を選びながら、告げた。
闇の魔神も、最初、熱線に目をやられ、何も見えなかったそうだ。自身で治療をし、視力を回復するまでは、ただ、音に頼るだけだったと言う。どうにか、目を開いた時にはもう、ユリアスは魔族との戦闘に入っていたとか。それまでの経緯は判らなかったが、彼は確かに、若長が、魔族と戦い、自分達を守ろうとした場面を見たそうだ。精霊と己の血にかけて、そう断言した。
その魔神の語った話を思い出しながら、ティナはたどたどしい言葉で、嘘をついていった。
「音だけ聞いたときは、何かが争っているようにしか聞こえなくて。よく判らなくて、怖かったのです。光が二つあったのは、判ったのですが、何が何やら判らなくて。それで……」
「ふぅん。でも、そんなこと、他の連中に聞けば、いいことだろう?」
魔神の村に対し無関心なのか、炎の魔神は、ティナが彼の言う『他の連中』を集めて、話しを聞いていることを知らないらしい。確かに、ティナも秘密裏に彼等を集め、話しを聞きはした。だが、御館にいる奥方の元に、男や女が集まり、一刻あまり出てこないことは、すでに、公然の秘密として、内外に広まっているのだ。それくらいの話ならば、村に多少関心があれば、すぐ気が付くことだろう。そして、その話を耳にしていれば、今、この話題を結び付けることも出来るのではないだろうか。
ティナが探るように見つめると、炎の魔神は何かを言うように、目をしばたたかせた。
「なんだ、そんな顔して?」
「いえ……。ただ、他の方々からは、もう、話しを聞いたのです」
「なんだ。だったら、俺の話しなんかいらねぇだろう。真実は一つなんだから。それとも何か、皆の話が食い違っているとかか?」
そうだったら大変だと、マリスはおどけて見せる。
ティナは力無く首を振りながら、そんなことはありませんと、小さくつぶやいた。
「皆、言うことは同じです。でも、私は、貴方の話も聞きたいのです」
「面倒なことするな?」
「……貴方なら、ユリアスに遠慮する必要もないから。貴方なら、真実だけを告げることも出来るでしょう?」
そのときばかりは、本心を語りながら、ティナは傍らにいる魔神にすがった。
「お願いです。真実だけを教えて下さい。あったこと、全てを教えて下さい。でもなければ、私、何も信じられないんです」
「……セレスティナ」
誰にも教えたはずもないのに、炎の魔神はするりと、ティナの本名をつぶやいた。
その懐かしい名前に涙ぐみながら、彼の腕を掴んだ。炎の魔神の逞しい腕に食らいつきながら、必死に懇願した。
「お願いです。他の魔神は、ユリアスに遠慮して、言わないことがあるかもしれない。でも、貴方なら、本当のことを言えるでしょう。母の友人だったと言うのなら、私にも情けをかけてください。母に似ていると言う、この顔に免じて、一つでいいから、真実を教えて下さい」
「おちつけ、セレスティナ」
「お願い!」
ユリアスに助けられた真実など、いらないとは言わない。そこまでは言えなかった。ただ、マリスを見上げ、彼の赤い瞳に映る、情けない自分の姿を見た。ぼろぼろと泣いて、まるで子供のようだ。懍と澄ましていた母とは、似ても似つかない。これでは、いくら母に似ているこの顔にかけてと言っても、呆れさせるだけだろう。友人とは、姿形くらいしか似通わない娘の、情けない態度に、マリスも嫌がっているかもしれない。
それでも、願うことをやめられずに、ティナはぼろぼろと泣いた。マリスの、小さなため息が髪にかかった。大きな広い手が、肩に触れる。どこかためらいがちな手つきで、炎の魔神が、髪を撫でてくれた。
「落ち着けって。お前が言うようなことは、確かに、あるかもしれない」
「マリス……」
「ユリアスも『長』だかんな。連中も、遠慮するってことがあるだろうしな。悪いことに、あの初陣にいた奴らは、ルシアの側近が多い。ユリアスに不利なことは言わんだろう。良い奴ばっかりなんだがなぁ」
小さな苦笑を漏らしながら、炎の魔神は言った。
顔を上げると、マリスの困ったような笑みとぶつかってしまった。まるで、聞き分けのない子供をなだめるような目つきで、炎の魔神はティナを見下ろしている。
「一つだけ、連中がお前に言ってないかもしれないことがある。まぁ、全員に聞いたってなら、一人くらいは言ってるかもしれないがな」
「……なんですか?」
「ユリアスは、あの戦で、魔族相手に馬鹿して、負傷してるんだ」
ティナの頭を軽くぽんと撫でながら、炎の魔神は苦笑いする。
「本当に間抜けな失態だからな。誰も思い出したくないだろう。どうしてそんなことしたんだって、後で怒り狂った奴もいるからな」
「何故……?」
「……ユリアスな、お前のこと、庇ったんだよ」
仕方のない奴だろうと、マリスは力なく、だが、優しく笑った。
炎の魔神の赤い瞳は、どこまでも深い輝きを秘めていた。今のように、目を細めると、その光が収束されて、なによりも美しく見える。嘘を言っている瞳ではない。困ったように笑いながらも、彼は嘘は言わなかった。
ティナは、震え出した体を抑えるように、両腕で、自分を抱きしめた。かたかたと、歯が打ち合って、無様な音を立てた。どうにかそれを堪えようと、ぐっと歯をかみしめるが、震えは止まらない。膝がかくかくと揺れた。酷く、気持ちが悪かった。全身から、どっと、冷や汗が噴き出してくる。
「嘘よ……」
呆然とつぶやいた言葉に、マリスが首を横に振った。とんとんと、自身の右肩を叩きながら、ここに証拠があると言う。
「ユリアスの背中の右の方に、でかい火傷の跡があるはずだ。お前を庇って負ったやつだ。普通なら、光の魔神は、熱線で火傷は負わんだろう。大概は、結界でしのげるしな」
「魔族が、二人で……。一人が炎の属性を持っていたのではないのですか?」
「それだったら、もっと負傷者が出てる」
あの時は、俺も、ユリアスと魔族の戦闘のとばっちりを抑えるのだけで、手一杯だったからなと、マリスは情けないとでも言いたげに、肩をすくめた。
魔族とユリアスの戦闘は、かなりのものだったらしい。実力が近接していたと言うよりは、二人の力が大きすぎたのだ。術の余波もでかければ、一つ一つのぶつかりあいが、巨大な力のせめぎ合いとなったのだろう。マリスは、炎の上位魔神として、その余計な力の発散を抑えたのだろう。他の、負傷した魔神達が巻き込まれないようにと、庇うので精一杯だったのだ。
呆然としながら顔を上げると、マリスはまた、遠くを見るかのように空を眺めていた。そこにある太陽の光を慈しむように見つめながら、思い出したように、くっと眉を潜めた。
「お前が、火傷して転がってたのは判ったけど、遠くてな。俺も、守ってやれなくてさ。後ろに、たくさん怪我した連中がいたんだよ。ユリアスの結界でも抑え切れない熱線なんて、ふざけてやがるよな」
「マリス……」
「ユリアスは、お前の治療を無理矢理、終わらせて、やって来た魔族を向かえ撃ったんだよ。もちろん、あっちも、お前の存在に気が付いてる。で、ユリアスが強いもんで、お前にちょっかいかける形で、揺さぶって、崩そうとしたんだろう」
それはそれで、上等な戦略だと、戦士として、マリスは付け加える。
「で、術がお前に来て。どうしようもなくなったユリアスが、体を張ったわけだ。背中の火傷は、そんときのな。まぁ、魔族の方も、そんなことするもんだから、ユリアス逆上させて、その直後にぶっ殺されたけどな」
ぽんと手を叩き、マリスはそのまま握り締めた両手を、組んだ膝の上に軽く置いた。目は相変わらず、青い空を見上げている。赤い瞳に、雲が映って、綺麗に見えた。
「まぁ、自慢にしてる長が、事情ありとは言え、魔族に大怪我を負わされましたじゃ、笑い話にもならねぇから。まぁ、大抵の奴が黙るだろうな。ユリアスにも弱点ありじゃ、お前らにも魔族にも、つけ込まれるし。戦中なんか特に、戒厳令敷いてたりしたな」
そう言って、マリスは、ティナが最後に治療した闇の魔神の名を上げた。彼が、一番口やかましく、秘密を守らせたのだと聞いて、ふっと、気が遠くなるような気分を味わった。
はっと気が付くと、頬の上に、幾筋も、涙がこぼれていた。マリスの武骨な指が、それをそっと払う。だが、それにもかかわらず、沢山の涙がこぼれた。慌てて、手の甲で拭うが、切りがない。我慢しようと息を止めるが、その度に、嗚咽が込み上げてきて、また、泣いてしまう。
「嘘よ……」
両手で顔を覆いながら、呻き声を上げた。そのうち、嗚咽だけでは堪え切れなくなって、声を殺して泣いた。それでも我慢できなくなって、大声を上げながら、泣き喚いた。こんなのは嘘だ、嘘に決まっていると、叫びながら、差し出されたマリスの手さえ払って、泣き続けた。
鳥に囲まれ、羽に包まれ笑っているユリアスの姿が思い出されてならなかった。
夕日が、山の向こうに沈んでいくのは見えたが、足はちっとも動いてくれなかった。体そのものから気力が無くなったかのように、指一つ持ち上げられない。ただ、ぼうっと、赤く燃える空を見つめることしかできなかった。そうやって、だんだんと、辺りが暗くなっていくのを見守る。
岩の上に座りながら、ティナはただぼんやりと、遠くの山を見ていた。黒い、鬱蒼とした緑に包まれた、小さな山だ。大陸で見たような、大きな山脈ではない。せいぜいが、木の実を集めるために踏み入るような、山のてっぺんまで木々に覆われた可愛らしいものだった。その谷間に、夕日が沈もうとしている。差し込んでくる輝きは赤く、優しい。最後の瞬間まで、暖かさを与えてくれるその光に、ティナは目をつむりながら、ほうっとため息をついた。
先ほどまで、マリスが座っていた場所に手を起き、その上に身を横たえた。ティナが帰ると言うと、あの魔神はあっさりと、先に立って森の中へと消えてしまった。泣きやむまでは、待ってくれていたが、それ以上はなにもしない。帰り道は判るかと聞いたが、それにティナが頷くと、ただ満足そうに笑うだけだった。
夕日が沈み、空が暗くなってきた。どんよりとした闇が、辺りを包み出す。それと共に、この岩場を囲む、森の空気も変わってきた。ひんやりと冷たい。それと同時に、獣達の吐息もまた、今までのものとは違うものになっていた。何かが、こちらを伺っている。夜の鳥のはばたきが、妙に大きく響いた。それにびくりと体を震わせながら、横たえていた体を起き上がらせると、近くの草むらが、がさりと揺れた。何かが、そこにいる。
獣かなと思った。だが、逃げる気はしなかった。もう、どうでもいいと言う思いもしたし、それ以上に、疲れていた。
狼か熊がいて、襲いかかってきたら、逃げられるかなと、考える。大地の精霊に願って、岩場に隠して貰えばいいだろう。それくらいならば、出来る。怪我をしても、癒せばいいのだ。ただ、どこから来るかもしれない獣に怯えるのか、怖かった。心臓が、抑えきれないほど、激しい鼓動を伝える。呼吸の苦しくなってきた胸を抑えながら、ティナは立ち上がった。そろそろと辺りを伺いながら、山を下りるための道へと踏みだし、そこで、小さな悲鳴を上げる。
森の中に足を踏み出そうとした所で、何かに鼻をぶつけた。悲鳴を上げながら、頭を抱え、しゃがみ込むと、上から、ほっとしたような声で、名前を呼ばれた。
「ティナ……」
そろそろと顔を上げると、無表情にこちらを睨み付けてくるユリアスの青い瞳があった。闇に溶けるように、金の髪が揺らめいている。逞しい腕がティナの腕を取り、無理矢理に引っぱった。それに慌てて、立ち上がると、ぐいっと抱き寄せられる。
「何を考えているんだ?」
目の前に、深い湖のような青い瞳があった。どこまでも澄んでいる。そのくせ、怖いくらいに冷たいのだ。見ているだけで、体が震えてくる。どうしようもなく、この目が恐ろしかった。
ティナが視線を逸らしながら、体をつっぱねると、ユリアスはあっさりと、束縛をはずした。苛々した仕草で、地面を踏みしめ、再度、睨み付けてくる。
「何をしていた?」
感情を抑えた声で、すごんでくる。
戦が終わった当初に、会話を交したことがあったが、その時よりずっと、声が低くなっていた。昔は、まだ、少年と言った顔立ちの、幼ささえ残るような子供だったのに、今はもうすっかり、男になっている。身長も、あの時からずっと伸びていた。ウォウサほどではないが、ずいぶんと高い。体つきもがっちりとしていて、こうして目の前に立たれると、まるで壁だ。威圧感さえある。
その感触が嫌で、ティナは逃げるように、岩場の方へと戻っていった。ユリアスが追う素振りを見せたので、慌てて走る。そこで、岩場の小さな窪みに足を取られ、身を崩してしまった。走ってきた勢いのままに、地面に倒れ込み、腕と膝をこすってしまう。
その痛みよりも、情けなさが辛くて、また泣いてしまった。よりにもよって、ユリアスの前でこんな姿をさらすなんてと、嫌になって、ぼろぼろと涙をこぼす。地面にしゃがみ込みながら、両手で顔を覆って泣いた。追ってきたユリアスが、すぐ目の前で足を止める。彼に背を向けると、また腕を掴まれた。また、無理矢理立たされる。
「離して!」
体を支えようとする彼の手を払い、一歩でも離れようと体を捻った。そこで、右足首が、ずきりと痛んだ。転んだ時に、捻りでもしたのか。立っていられないほどに、痛い。それに、体を傾がせると、また、ユリアスが支えてくれた。腕いっぽんで、軽々とティナの体を抑えながら、呆れきったようなため息をつく。
「何をして……」
「貴方こそ、何をしに来たのよ!」
涙を拭いながら、噛みつくように吠え立てた。精一杯に睨み付けながら、ユリアスの手にわざと爪を立てる。
「なんで、こんなところに来たのよ!」
「貴方が……」
そこまで言って、ユリアスは一瞬、言い淀んだ。ティナの見ている前で、彼は機嫌の悪い顔で眉を潜め、ぷんとそっぽを向く。
「自分の立場も考えずに、のこのこ出ていったまま帰ってこない女がいるから。連れ戻しに来たんだ」
「悪かったわね……」
「悪いよ」
疲れたように、魔神の長はため息をつく。
ユリアスは、立てるなと聞きながら、いったん、ティナの腕を離した。何をするつもりかと思っているところで、すっと背を向ける。置き去りにするつもりなのかと、呆然とした所で、目の前でしゃがみこまれた。何のつもりだと、構えたところで、背負ってやると言われた。
「早くしろ。帰る」
「なんで……」
「早く帰りたいんだ。さっさとしてくれ」
苛々した口調で怒鳴られた。
ティナは、渋々と言うようにユリアスの背に手を延ばし、彼の肩に手をかけた。そこでふと、動きを止める。
この背に、火傷の跡があるのだと、思い出したのだ。ここに、マリスの言うような、赤紫の傷跡があれば、彼の言ったことは真実になるのだろう。
ユリアスも、長く大陸と戦った人だったが、その天敵とも言う彼に負傷させた魔神はいない。少なくとも、ティナは聞いていない。もし、そんな功労を立てた者がいるならば、即座に耳に入ってくるはずだ。例え、その当人が何らかの理由で帰ってこれなくとも、回りの魔神が騒ぐはずだ。だが、そんなことは一度たりともなかった。ユリアスは不敗の、絶対的な力を持つ魔神として、大陸側に立ちはだかっていたのだから。例え数人がかりで食い止めようとしても、びくともしなかった。
この光の魔神に、例え理由があろうとも負傷を負わせた魔族は、どれほどの力を持っていたのだろうか。戦場にいた、大陸側の魔神達を、一瞬で焼き殺すような存在なのだ。そんな相手が敵としてあってなお、ユリアスは本当に、ティナを庇ったのだろうか。本当に、身を挺して庇ってくれたと言うのか。
背中をそっと撫でると、ユリアスがびくりと体を震わせた。まるで、化け物でも見たかのような顔で、振り返る。ティナがそれに顔を背けると、また、彼は苛々と、体をそわつかせ始めた。さっさとしろと、そっけない口調で言いつけてくる。
渋々、彼の背中にすがりつき、首に手を回した。このまま、絞めれば殺せるかなとも思ったが、自分の腕と彼の腕の太さを比べて、すぐに諦めた。首を絞めようとしても、すぐにやり返されるのがおちだ。先日の炎の魔神の長老のように、頭に魔力を叩き込まれ、何日も起き上がれず、苦しむ目にあうだけだろう。
ティナがおとなしくしていると、ユリアスが立ち合った。彼の体から、少しだけ、汗の匂いがした。背中が、少し湿っている。夕方になって気温が落ちたせいで、そんなに暑くなっていないはずなのに、彼の体はずいぶんと、熱を持っていた。
「走ってきたの……」
ため息混じりに言うと、光の魔神は馬鹿々々しいとばかりに、鼻を鳴らした。
「別に」
「汗、かいてる」
その言葉に、ユリアスは何も言わなかった。ただ、黙々と歩き出しただけだった。
背中で丸くなっているティナに、彼は何の言葉もかけようとしなかった。ただ、無言で山を下り、獣道をうまく下りながら、すぐに、見た覚えのある道に出ていった。上ってきた時には、ずいぶんと長い道のりを歩いたはずなのに、ユリアスに背負われて下りてみると、あっさりと人里に出てしまう。彼は少しだけ、獣道をそれただけだ。意外なところに、近道があったようだった。途中、小さな谷川のようなものを越えたり、深い森をくぐったりしたが、距離がずっと短い。
道にで、ようやく、村の影が見え始めたところで、ユリアスが歩調を緩めた。何かなと思いながら、背後から彼の顔を覗き込むが、暗くてよく見えなかった。ただ、存外色白な肌が、ぼんやりと浮き上がっているだけだ。顎の線が綺麗で、流石はルシアの一人息子なのだなと、変に関心してしまった。
「マリスさんに会いにいったらしいな」
「えぇ、そうよ。侍女に聞いたの?」
「いや。あれは何も言わなかった」
まったく役に立たない女だと、長である魔神は毒づく。
「日が暮れるまでの約束だからと言って、頑として口を割らない。おかげで、ウォウサを使って、場所を探るはめになった」
「ウォウサが……」
「いくら日暮れまでと言っても、森より向こうにいけば、何があるか判らないんだぞ、判ってるのか?」
夜になれば、魔物か、あるいは、魔族が出るかもしれないのにと、ユリアスは呆れたようにいう。
その言葉に、ティナはびくりと体を震わせた。本当に馬鹿な話なのだが、ユリアスにそう言われるまで、魔族に会うかもしれないと言うことについては、まるで考えていなかったのだ。ただ、マリスに会えるか、望む事実を聞けるかと言うことばかりが、頭についていた。思わぬ見落としに、唖然となる。不意に突きつけられた恐怖に、小さく喉を鳴らして、震える息を吐き出した。
「魔族なんて……。考えなかったわ」
「……マリスさんのいる辺りは、地形が理由で結界の効力が薄い。だから、あの人がいるんだ。あまり一人で近寄らないでくれ」
呆れたように、ユリアスはため息をついた。
彼の言葉を、どこか遠いもののように聞きながら、ティナは顔を伏せた。名ばかりの夫である青年の肩に、額を押し付けながら、小さく呻く。
「どうして……。マリスはどうして、そんなところに……」
「知らないな。教えてはくれないから。ただ、あの人なりの理由があるんだろう。結界が薄いから、守っているだけじゃないと思うんだが。何も言ってくれない」
ゆっくりと歩きながら、ユリアスは小さく身を揺すった。ティナを背負いなおしながら、疲れたようにうつむき、地面に転がっていた石を蹴る。
妙に明るいなと思って顔を上げると、中天よりややはずれた位置に、綺麗な月がかかっていた。満月よりはふくらみが足りないが、夜道を照らす明りとしては、十分過ぎるほどの輝きを発している。その黄金の光が綺麗で、ティナは思わず目を細めて見入ってしまった。ユリアスも、その視線に気が付いたかのように、顔を上げる。
「……マリスさんに会いにいったんだろう。何をしてたんだ?」
「貴方には関係ないことよ」
月を見上げながら、そっけない答える。
ユリアスはそれ以上、追及してはこなかった。ただ、喉の奥に何かひっかかっているような、もどかしい仕草で、口篭り、地面へと目を落とす。
月の明りが、彼の首筋を照らしていた。白い、綺麗な肌が見える。きめ細やかと言うわけではないが、色の白さならば、流石は光の魔神と思わせるだけのものがある。雪のように真っ白で、ほとんど日に焼けていない。普通の光の魔神ならば、外で駆け回っているうちに、肌が茶色くなってくるものなのに、ユリアスの肌は、真っ白だった。婚礼の時に着た衣装のように、綺麗だった。
そこには、火傷の跡も、それを思わせるような傷も見られなかった。もっと下の、ティナがよりかかっている部分に、それはあるのだろう。襟首を少しひっぱって見るが、そこから見えるのは黒い影ばかりで、そこにある肌の変色までは見定めることはできなかった。それが苛立たしく、もっと服をひっぱると、ユリアスがやめろと怒鳴り付けてきた。何をしてるんだとばかりに怒りながら、光の魔神は、これ以上はないほどに冷たい目で、ぎっとティナを睨み付ける。
「何をやってるんだ。私を絞め殺す気か!」
「……服をひっぱっただけよ」
「……何を馬鹿なことを」
「ここに、火傷があるのかどうか、確かめたかったのよ」
そう言いながら、ティナはもう一度、襟首をひっぱった。
ユリアスがぴたりと、立ち止まる。彼は半ば呆然とした表情で、ティナを振り返りながら、大きく喉を鳴らした。青い瞳が、揺れているのが判った。月明りを受けて、水そのもののような目が、定まらない視点を泳がせている。
「……マリスさんに、聞いたのか」
「私が聞いたのよ」
ユリアスの腕から力が抜けたのを見て、ティナは彼の背からそっと下りた。足首はいまだ痛むが、歩けないほどではなかった。怪我をしていない方の足だけで、地面の上に器用に下りながら、すぐ側にいる、光の魔神を見上げる。今までにないほど、近い場所から見る彼の顔は、やはり綺麗だった。母親であるルシアに似ていると言うよりは、実父と噂されている、水のマゼリナに良く似ている。ティナ達の長だった、あの非情な魔神にそっくりな顔立ちをしていた。
「火傷、あるの?」
「……関係ないだろう」
ティナの視線から逃れるように、彼はふいっと顔を背けた。顔が少し引きつっている。何時にないほど、動揺しているのがよく判った。何故かは判らないが、酷く焦っているようだった。
遠くから、誰かの声がした。そちらへと目を向けると、松明を持った数人の集団が、こちらに駆けてくるのが見えた。まだ距離があるので、誰が誰とも判らない。だが、声だけで、そのうちの一人が、弟だと言うことは判った。ウォウサが、大声を張り上げながら、手を振っている。
ユリアスもまた、彼等を見ていた。その横顔は、ほっとしたように、安堵の色を強く浮かべていた。これで、質問から逃れられると、あからさまに喜んでいる。そのことが苛立たしくて、ティナは強く、彼の腕を引いた。ユリアスの体が、その不意をついた勢いでよろけるのにも構わず、ぐいっと自分の方へと引き寄せる。
「答えて!」
「ティナ……」
「あの熱線は、貴方じゃなかったの。魔族のものだったの!?」
「……いいや、私がやったものだよ」
ささやくように言いながら、ユリアスは薄く笑う。
その、人を馬鹿にしたような、酷薄な言葉に、ティナは目にいっぱいの涙を浮かべた。ぼろぼろと、情けなく大泣きしながら、嘘をつかないでと叫ぶ。
「どうして、そんなことを言うの。あれは、魔族だったって、皆、言っているわ!」
「じゃぁ、そうだったんだろう」
ふっと、ティナの泣き顔から顔を逸らしながら、光の魔神は冷たく言う。彼は、ティナの手を払いながら、一歩分、側から離れていった。
「魔族は確かにいた。だけど、私は火傷なんか、負ってない。別に、そんな遅れを取る敵じゃなかった。厄介だったが、弱い相手だったよ」
「ユリアス……!」
「貴方は、何か勘違いしているんだろう。自分の都合のいいように、事実を曲げようとしているんだ。何時も、何時も。貴方のその目は……」
そこで、ユリアスの手が、顔に触れた。固い指先が、頬を撫で、涙を払っていく。横顔に掌が添えられ、親指が、目のすぐ前でぴたりと止まった。もう少し押し出せば、目を潰せるような位置でだ。その指の向こうに、ユリアスがかすんで見えた。冷たく笑っている顔があった。ひきつった笑みを浮かべて、暗く沈んだ目を、こちらに向けてくる。
「貴方の目は、なにも真実を見ない。とんだ玩具だ。あるだけ無駄だろう。いっそ、えぐってやろうか?」
くっと喉を鳴らして笑いながら、ユリアスは側から離れていった。目を押し潰そうと狙っていた指が、ふっと遠くなる。
ウォウサの呼び声が、すぐ近くで聞こえた。姉上と呼びながら、ティナに飛びつき、良かったと、安堵したように言う。
「姉上……。御館にいらっしゃらないから、心配したんですよ?」
「ウォウサ……」
頭一つ、二つ分は大きい弟を見上げると、優しい笑みがあった。にこにこと、機嫌よく笑いながら、弟である大地の魔神は、ぎゅっとティナを抱きしめた。
走ってきたらしい彼の体は、汗をかいていて、少し、蒸し暑かった。それでも、そうやって喜んでくれることが嬉しくて、抱擁を返す。それだけで、弟は喜んでくれた。昔から、こうして寄り添ってきたのだ。そんな弟に、心配をかけてしまったなと、不意に罪悪感が湧いてきた。
少し身をずらすと、ユリアスが、他の魔神達に囲まれているのが見えた。ティナのことなど忘れたように、冷徹な表情で、彼等に説明をしていた。どこでティナを見つけたか。彼女が何をしていたのか。てきぱきと語り、あっと言う間に、向かえの魔神達を納得させると、長はさっそうとした態度で、御館に戻る道を進み始めた。ティナの方には振り返ろうともしない。ただ一言、背を向けたまま、ウォウサに任せると告げただけだ。
離れていく、名ばかりの夫の背を見送りながら、ティナはよろりとよろけた。ウォウサに寄りかかるように立ちながら、涙をこぼし、うつむく。
涙を拭った手の甲が濡れて、月の明りに光って見えた。その、弱々しい輝きに目を落としながら、ティナは一つ、しゃくりを上げた。
空に月があった。まるで、深窓に隠れる女のように、雲の向こうにひっこみながらも、その切れ間から、美しい輝きを投げかける。それは、奥ゆかしさを持ちながらも、時折、誘うような仕草を見せる、性悪な娘に似ていた。自分がどれだけ魅力的か、判っていないくせに、それをうまく扱う熟女のように、艶然とした笑みを浮かべるのだ。あの灰色の雲は、その女を隠す敷居で、そこから漏れてくる黄色い光は、柔らかな微笑みだ。
求めるように手を延ばすが、届かない。空中で、ぎゅっと拳を握り締めながら、ユリアスは弱々しい笑みを浮かべた。縁側で、半ば崩れるように、背後にある戸に寄りかかり、くっと喉を鳴らす。腕に抱え込んだ酒壺をぐっと煽りながら、燃えるように熱い液体を飲み干していった。
足を軽く動かすと、近くにあった空の壺が、庭に落ちて、がしゃりと砕けた。その音が、妙に心地よく聞こえ、もう一つ、蹴り飛ばす。また、がしゃんと、焼き物が割れる音がした。
手に抱えていた酒を飲み、壺を空にして、それを放り投げる。存外遠くまで飛んだ酒壺は、庭の中央まで飛んでいって、砕け散った。月の明りの中、まっ二つに割れ、さらに粉々に砕けた陶器が、空しく白く輝いている。それを目に止めながら、笑い、ユリアスはゆらりと立ち上がった。
酔っているせいか、足元が良く定まらない。よろよろとしながら、何とか立ち上がり、軽く頭を振った。
どこに居たのかも気付かなかったが、侍女が一人、まだ残っていたらしい。お水をお持ちしましょうかと、殊勝な心づかいを見せてくれる。それさえわずらわしくて、突き飛ばすようにして、追い出した。これ以上、付きまとうならば、いっそ殺してやると思いながら、出て行けと怒鳴ると、娘はひっと小さく声を上げながら、走り出す。真っ青な顔をしながら、慌てふためいて、廊下へと飛び出していった。
その無様さが可笑しくて、また笑った。
笑いながら、何かを求めるように視線を彷徨わせ、ある一点でぴたりと止める。
庭一つ越えた向こうに、ティナの部屋がある。そこに、まだ、明りが灯っていた。戸が、少しだけ開いている。気持ちのよい夜だから、風をいれているのだろう。そこから、火の明りが揺らめいているのが見えた。まだ、起きているのかと、ぼんやりとした頭で思っているうちに、戸が開いた。少しだけ隙間が開いていた状態から、一気に押し開けられる。
部屋の煌々とした明りの中に、人影が浮かんだ。細い華奢な体つきの、髪の長い女だった。一目で、ティナと判った。彼女は、暫く、戸口近くに立ち尽くしたかと思うと、そろそろというように、縁側に踏み出し、そこに座り込んだ。何をしているかは、ここからでは良く判らない。月を見上げているのかもしれない。その姿が、あまりにも儚いので、ユリアスは思わず見入ってしまった。
冷たい床板を踏みしめながら、前へとよろける。どこに行くのかと、理性が不思議に思っているうちに、体はもう、前へ、前へと駆け出していた。縁側を伝っていくのももどかしく、庭に下り、そこを足早に歩いていった。背の低い樹木を掻き分け、ティナの部屋に面している庭に出て、そこで、ようやく立ち止まる。
「ユリアス……」
縁側に出ていたティナが、はっとしたように身を強ばらせた。なんだというように驚きながら、こちらを見ている。びっくりしたように、目を丸くして、呆然としている彼女は可愛らしくて、思わず微笑ましくなってしまった。
ユリアスが近寄っていっても、彼女はいつものように嫌な顔もしなければ、逃げようともしなかった。ただ、少しだけ、眉を潜めはした。何か、怒っているかのように顔をしかめながら、どうして庭から出てくるのかと、きつい声で言う。
「貴方が見えたから」
自分でも答えにならないなと判る言葉をつぶやき、ユリアスは笑った。目を細め、くしゃりと顔を綻ばせながら、そっと、ティナに手を差し出す。
夜着からすっと出ているティナの腕を掴み、引き寄せる。そこで、ティナははっとしたように、身を引いた。逃げるように、部屋の中へと駆けこもうとする。その彼女の後を追いながら、砂のついた足で、室内に踏み込む。部屋の中央で、ティナを捕まえることが出来た。手首を握ると、彼女はがくりと体をよろけさせ、その反動を利用するように、きっと、こちらを睨み付けてきた。
「何を……!」
ティナが皆まで言い切る前に、ぎゅっと腕の中に抱きしめた。こうしてみると、酷く細い体だった。作り物のように華奢だ。外見には、普通の女より、やや細いか、同じくらいだと言うのに、こんなに頼りない。女とは、こういう壊れ物のような存在なのかなと思いながら、それでも、我慢しきれなくて、力任せに抱いた。
「ユリアス!」
やめてと、腕の中でティナがもがく。どんどんと、胸を叩きながら、必死に逃れようとする。そんな彼女に、冷たく笑いかけながら、頬にそっと触れた。顔を上げさせ、その美しい造形に見入りながら、口づける。彼女が嫌そうな顔をする前にと、目をつむりながら、唇を奪った。
また、ティナがもがいた。じたばたと暴れる。だが、抑え切れないものではなかった。むしろ、簡単に御せてしまう。あっけないくらいに、弱い。腕一つとってみても、細くて、弱々しい。一握りで、ぐしゃぐしゃに潰してしまえそうだ。
頬を強く押し、口を無理矢理こじ開け、舌を差し込んだ。驚いたように引っ込んだティナのものをからめとり、蹂躙する。肱内は熱く、さらさらしていた。唾液を吸い取り、飲み干すと、また一段と強く暴れられた。
ぐっと、呻きながらティナが首を振ろうとする。頬を抑えていた手を離すと、彼女はばっと身を引いて、ユリアスから極力距離をとろうとした。抱きしめられたまま、背中を逸らせる。そうやって、逃げながら、目いっぱいに涙を浮かべ、愕然とした表情で、こちらを見ていた。
緑の綺麗な目が、濡れている様は、何とも官能的で美しい。目を閉じた瞬間に落ちていく涙が勿体なくて、舌ですくいとった。ティナが顔を真っ赤にさせる。ぽろぽろと涙をこぼしながら、彼女は小さく首を振った。
「どうして……」
何故、こんなことをと、彼女は絶え絶えの吐息を漏らした。腕の中で小さく震えながら、しゃくりを上げ、また、いやいやと首を振る。
ティナは、呼吸を整えるように、何回か大きく息を吸い込んだ後、意を決したように、ユリアスを見上げてきた。涙で濡れた瞳で、ぐっと睨み付けながら、どうしてと、問いかけてくる。
「どうして、こんなことを……」
「さぁ?」
可笑しくてならないというように、ユリアスは喉を鳴らして笑う。
ティナの、さらさらとした黒髪が、外から吹き込んだ風によって、ふわりと舞い上がった。緑がかった、綺麗な髪だ。腰まで伸びたそれは、手ですくい上げてもからむことなく、さらりと落ちていく。首筋に顔を寄せて匂いをかぐと、とても良い香りがした。ほんのりと、ティナの匂いもする。逃れられないように、頭を抑えながら引き寄せ、彼女の耳元に口を近づけた。耳たぶを口で嬲りながら、また、小さく笑う。
「このまま、抱いてしまおうか。どうせ、夫婦なのだから。誰もとやかくは言うまい」
それとも、貴方が文句を言うのかなと、からかうように言ってやった。
それに、ティナは予想通り、体を固くさせた。すぐに、罵倒じみた言葉が飛んでくるだろう。貴方なんかと言いながら、身をつっぱねてくるに決まっている。そうやって、あの夜のように、拒絶するのだ。そして、その抵抗に、ユリアスは抗えない。どんなに思ってみても、結局、嫌がる彼女を無理矢理に抱くことは出来ないのだ。そういうものなのだ。
これ以上苛めても、可愛そうだなと思いながら、腕の力を緩めた。
馬鹿みたいだと、自分をあざ笑いながら、ティナの髪を撫でる。束縛が緩んだことが判れば、彼女はすぐに逃げていくだろう。それこそ、警戒心の旺盛な、野性の獣のようにだ。孤高な狼のような女のくせに、彼女はけっきょく、野にいる獣ではないのだ。そこらにいる獣だったのなら、語らずとも、ユリアスに懐いてくる。ただ笑いかけただけで、近寄ってきてくれる、あの可愛らしく、可哀とうな生き物達とは、彼女は違っていた。
腕の中にあるティナの顔を覗き込むと、沢山の涙がそこにあった。ぼろぼろと、小娘のように泣いている。しゃくりを上げながら、必死に涙を拭っている様は、滑稽なのに、どこか綺麗だった。そうやって泣きながら、ティナは体をねじり、ユリアスから顔を背けた。
「貴方、酔ってるわ。挙句にこんなことをするなんて」
「あぁ、酔っているさ」
いくらなんでも、酒壺を三つも空にしたのだから。酔わないわけがないだろう。心の中でそう小馬鹿にしながら、また、ティナの髪を撫でる。この感触が、何よりも好きだった。
ユリアスがにこりと笑うと、ティナは泣きながらも、真直ぐにこちらを見てくれた。彼女の持つ緑の瞳の、奥底までを覗き込めそうなくらいに、じっと、ユリアスを見つめている。
「出ていって。もう、たくさんだわ」
目を逸らさずにユリアスを見据えながら、彼女ははっきりとした口調でそう言った。いつものように、視線を逸らしながら、怯えたように言うわけではない。誇り高い、大地の魔神にふさわしい、懍とした態度で、ユリアスを侮蔑していた。
見下したようなその視線は、冷たく、容赦なかった。そして、とても綺麗だった。本来、優位にあるべき女性が、その正当な立場にあって、命令してくるのだ。似合うのは当り前なのだ。思わず、従いそうになるその言葉に満足しながら、ユリアスはそれを、せせら笑ってやった。
「なにが、たくさんだって?」
「貴方の顔を見るのは、もう、たくさんよ。貴方なんか、いなければよかったんだわ。貴方がいるから……!」
「……恋しい男が死んだと?」
ティナの体を離し、軽く突き飛ばしてやった。そして、その体がそう遠くにいかにうちに、投げ出された手を取る。骨も砕けてしまえとばかりに、強く握り締めながら、綺麗な手の甲に口づけした。これだけは離してなるものかと、手元に引き寄せる。
「私が殺した訳じゃないだろう。そう、聞いたのだろう?」
「そうよ、貴方じゃないわ。でも、貴方がいなければよかったのよ」
そう言いながら、ティナはまた泣いた。目いっぱいに、涙がたまっている。泣き過ぎたせいで、まぶたが張れていた。放っておけば、酷い顔になるだろう。この綺麗な顔が、泣き過ぎで腫れぼったくなると、どうなるのかと、興味さえ湧いてくるほどだ。
ユリアスの握り締める手首の痛みを堪えているのか、彼女は時折、きゅっと顔をしかめた。唇をかみしめ、何かを耐えるように短い呼吸を繰り返しながら、また、ぽろりと涙をこぼす。
「貴方がいなければ、私も一緒に死ねたんだわ、きっと」
ぽつりと、心の奥底に秘めていた言葉をこぼしたように、彼女はつぶやいた。
それに、ユリアスはふっと、腕から力が抜けるのを感じた。強く、強くティナを捕えていたはずの手も、ずるりと下に落ちてしまう。
おそらく、よほど酷い顔をしているのだろう。ティナが涙をいっぱいためた目で、唖然としているのが見えた。緑の瞳はただ、ユリアスを見ているだけだ。そこに映った顔は、暗く、小さいがために、細部まではよく判らない。それでも、愕然としているのは判った。まるで、この世の絶望でも味わったと言いたげに、真っ青な顔で、ティナの瞳の中にいるユリアスは、その向こうを見ていた。
ユリアスは、のろのろと腕を上げると、片手で顔を覆った。まるで、触れば、この酷い顔がどうにかなるのだとばかりに、ゆっくりと撫で下ろしながら、低く埋めき声を上げる。
「だったら……。貴方が生き残った証を見せてあげようか?」
低く笑いながら、ユリアスは上着の裾をめくった。どこか鈍重な動きで、服を脱ぎ、それを部屋の隅へと放る。
薄い部屋の明りに上体をさらすと、ティナは怯えたように、一歩、後ろへと下がった。泣き晴らした顔で、やめてとつぶやき、小さく体を震わせる。
「なにを……」
「見ればいいさ。火傷があるか、どうか。自分の目で確かめればいい」
背を向ける隙に逃げればいいと思いながら、ゆっくりと立つ位置を変えていった。ティナに背中をさらしながら、顔が視界から隠れたのを幸いに、ぐっと眉を潜める。歯を食いしばりながら、胸の前で拳を握り締め、小さく呻いた。いっそ、このまま殺してやれればいいのにと思いながら、うつむいた。
背後で、ティナが小さく声を上げたのが聞こえた。あぁ、そんなものだったのかと思いながら、彼女の情けない声を耳にする。
背にあるはずの傷は、なまじ目では直接見えない場所にあるだけに、ユリアス自身も、どんな具合なのかを知らないのだ。ただ、焼かれ、切り裂かれたものだとしか知らない。鏡で見たこともない。見る気もなかった。どうでもいいと思っていたのだ。適当に放っておいたために、そこの傷は引きつれ、歪んでいるらしい。だが、そんなものはどうでもいいのだ。他にも、もっと酷い火傷を負った者もいた。あの時、ティナの治療などにかまけたために、仲間の多くに、醜い傷跡を残させるはめになった。少しくらい、その責めを負ってもいいではないか。
「ユリアス……。ユリアス!」
ティナが、呼んでいる。それに、ゆっくりと振り返ると、青ざめた顔で、彼女が呆然としていた。そのくせ、口調ばかりははっきりとしている。目はうつろなくせに、しっかりとした足で立っていた。真直ぐに見上げてくる。振り向いたユリアスの腕を掴みながら、彼女は噛みつくように、どうして私を助けたのと、叫んだ。
「どうして、私なんかを助けたのよ」
「別にそんなつもりはなかった。自信過剰だな」
「ユリアス!」
もう止めてと、ティナは悲鳴を上げる。だが、ユリアスにしてみれば、何を止めて欲しいと言っているかが判らない。口を聞くことを止めろと言うのか。馬鹿にするのもいい加減にしろと言っているのか。さっぱり判らないのだ。ティナの考えていることは、いつも判らない。この女の言うことも、思うことも、いつも愚かすぎるのだ。この女は、どういう存在なのかさえも、判らない。ただ一つ、美しい顔と姿を持つ、厄介な生き物なのだということしか判らないのだ。
もうどうでもいいのだと思いながら、ティナを抱き上げた。理由が欲しければ、くれてやると、自棄になりながら、怒鳴り付けてやる。
ティナは始め、何を言われたのか、判らなかったようだ。それでも、ユリアスが真直ぐに、すでに用意されていた床へと向かうと、いやっと声を上げながら、強く抗った。腕の中で、じたばたと暴れ、腕を振り回した。それに、ユリアスがまったく動じないと見ると、次ぎに、大声を上げた。誰かと、呼びながら、必死に助けを求める。その声を受けて、侍女が二人ほど、走ってくるのが聞こえた。ティナが彼女達に訴えかける。助けてくれと、必死に泣き付いていた。それを、ユリアスが遮る。侍女達に、威圧的に、下がれと命じた。
集まってきた娘達は、その二つの声に、一瞬戸惑ったようだった。このままでは、侍女達に逃げられると思ったのか、ティナがより大きな声で、助けてと叫ぶ。それをあざ笑いながら、ユリアスは行けと言った。重ねて突きつけられた長からの命令に、侍女達は後ろ髪を引かれるように、のろのろと、去っていった。
床の上に放り投げるように下ろすと、ティナは泣きながら、その場で身を丸くした。てっきり、そこからまた、這うように逃げるかと思ったのだが、その素振りさえ見せない。ならば、どうやって抵抗するつもりかと思い、顔を覗き込むと、ばしりと横顔を殴られた。平手で、叩かれたらしい。頬がひりひりとする。
「ティナ……」
「これが、理由なの。私を助けた、理由なの?」
「そうさ」
目を細め、冷たく笑いながら、ユリアスは答える。
「貴方は、大陸の魔神の中でも一番、利用価値がある。誰よりも美しく、そして、愚かだ。絶対的な力と、親から受け継いだ権威がある。それを利用しない手はないだろう?」
「ユリアス!」
「貴方は、私の子供を生むんだ」
さらりと、頬を撫でる。その触れた指を追うように、また一つ、涙がこぼれていった。
「私と、大陸の魔神の子ならば、きっと、一族を改めて、纏め直すことが出来るだろう。これ以上、争わせるわけにはいかない。私達の血は、もう、もたないだろう。このまま、二つに分かち争わせれば、共倒れになるだけだ」
「……だから、私なのね」
「そう。だからだ」
良い子だと囁きながら、ユリアスは横たわっている、名ばかりの妻の唇に口づけた。抵抗はなかった。だが、受け入れられたわけでもない。無味乾燥さだけが残るふれあいだった。絶望もなければ、暖かみもない。空しさばかりが残る、冷たい唇だ。
ティナはふと横を向きながら、また一筋、涙をこぼした。
「私を助けたときから、そういうことを考えていたの?」
「……まさか」
あのころはまだ、子供で、そこまで考える頭はなかったと、ユリアスは苦笑する。
「ただ、貴方を死なせる訳にはいかないと思ったよ。貴方は……」
「私は?」
「綺麗だったからな」
からかうように囁き、もう一度口づけした。
今度も、ティナは抗わなかった。むしろ、受け入れるように、ユリアスの首筋に腕を絡ませた。ふんわりとした暖かさを感じた。だが、やはり空しい。ティナの瞳は遠くを見ていて、決して、ユリアスを見ているわけではなかった。
(update 2000/06/29)