オリジナル
■神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜■
−残酷な庭−5
作・三月さま
神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜
−残酷な庭−
貴方を裏切りはしないから。
開け放してあった戸の向こうから、月明りが差し込んでいた。部屋の明りは、とうに油が切れて、消えてしまっている。それでも、月の光だけで十分、明るかった。床に抑え付けているティナの全てを、見ることが出来た。
沈んだ青白い光に照らし出される彼女は、綺麗だった。肌が抜けるように白い。病的だ。ずっと御館の外に出ず、部屋に篭っているから、こういうことになるのだ。だが、今日も午前中から、ずっと外に出ていたはずだが、赤く腫れぼったくなっているようなことはなかった。元々白いのかと思いながら、そっと剥きだしの肩に触れた。少しなで肩で、さらりとしている。触れていて、気持ちが良かった。優しい感触だった。
ティナは、ぎゅっと目をつむりながら、顔を心持ち背けていた。ユリアスを見ようとはしない。何かを耐えるように、唇を固く閉じ、震え、消えてしまいそうな呼吸をしている。聞かなくとも、嫌々だと言うことが分かってしまう態度だ。だが、そのことが余計に苛立たしくて、その思いを押し隠したくて、わざと笑った。冷ややかに、馬鹿にするように目を細める。口はしを少しだけ持ち上げると、相手を居すくませる冷笑になるのは分かっていた。その表情のまま、身を屈め、ティナの耳元に口を寄せる。
「嫌なんだろう?」
からかうように囁くと、彼女はびくりと体を震わせた。
ティナは、そろそろと目を開くと、まるで、化け物でも見るような表情で、ユリアスを見据えた。緑の瞳が、じっとりと濡れながら、こちらを見ている。その奥は真っ黒で、底の知れない闇のようだった。それがゆらゆらと揺れている。その先に何があるのかが、つかみ取れない。彼女が何を考えているのか、さっぱり分からなかった。
「……愛している」
試すように、一つ一つの音を噛みしめながら、そう独り言のようにつぶやいて見た。
ティナの瞳が、また揺れる。ちらりと、ユリアスの目を覗き込んできた。まるで真実を見定めようとするようにだ。そういうところは、やはり、女だなと思う。結局、この生き物は、そういう言葉に弱いのだ。例えそれが名ばかりの夫でも、そういう意味あいを求めて、愚かな真似をする。
そういうことを言ってやると、ティナは顔を真っ赤にしながら、また、そっぽを向いてしまった。体が、小刻みに震えている。ふと目を落とすと、床の白い布地の上にぽつんとおかれた拳が、きつく握り締められていた。全身に、怒りを纏いながら、彼女は苦しげに顔を歪めた。青白い光の中でも、それと分かるほどに顔色を悪くしながら、小さく喘いだ。
のけ反らせたその喉に、唇を寄せる。しっとりとした肌の上に、赤い痕をつけ、それに見入った。
これは、所有印なのだと、自分に言い聞かせる。色白なせいで、ティナの喉元にある赤い即席の痣は、嫌になるほど目だった。この位置では、服を着てもごまかせまい。薄くらいこの部屋でもそれと分かるのだ。日の下に出れば、それこそ、見せびらかしているようにも感じられるだろう。
夜着は、脱がせるのには簡単で、剥ぎ取るのも容易だった。腰にある細い布の帯を解いてしまえば、もう、留めるものが無くなってしまう作りだ。淡い草色に染まったそれを剥ぎ取り、抜き取った後はもう、心もとなく胸元で重なっている襟を退けるだけだった。
ティナの羽織っている夜着は、ほんのりと薄く染めてあるだけの、白いに近い布地で作ってあった。ユリアスのものはやや濃い色のものが多いので、その色彩は、新鮮に見えたほどだ。だが、その下に見える肌は、さらに白い。布地を押し退けると、ふっくらとした、やや小ぶりの胸が見えた。ティナの手が、すぐにそれを隠してしまう。必死に、肌を手で覆いながら、彼女は喉を鳴らした。また、泣きながら、彼女は身をずらし、うつぶせになってしまう。
床に額を押し付けながら、ティナは肩を震わせて泣いた。嗚咽一つ漏らさずに、完全な沈黙を保ちながら、涙ばかりこぼしていた。その仕草があまりにも痛々しいので、ユリアスは思わず身を起こし、少し距離を取って、その姿に見入った。だが、その涙さえも、結局は他の男のものかと思うと、不意に湧いた情けも、すぐに萎んで消えてしまった。
背を覆っていた夜着を剥ぎ取り、晒しものになった背に、口づけ、痕を付けていった。その度に、ティナの体が震える。全身で、彼女はそれを嫌がっていた。後ろから抱きすくめると、身をよじって、それから逃げようとした。だが、どこに行けるわけでもなく、すっぽりと、ユリアスの手の内に収まってしまう。
ティナは顔を伏せながら、小さく呻いた。恋人のものだろうと思われる名前をつぶやきながら、ふっと顔を上げる。
「一つ、約束して」
「なにを?」
横あいから、今だ名ばかりの妻の顔を覗き込みながら、ユリアスは小さく眉を潜める。
ティナは、ひっそりとした吐息を漏らしながら、体を震わせた。小さな獣のように、身を丸くしながら、額をぐっと、床に押し付ける。
「もう二度と、愛しているなんて言わないで。吐き気がするわ」
「……いいだろう」
それが望みだと言うなら、いくらでもかなえてやるさと、ユリアスは誓ってやった。
ユリアスに触れられてから、三日が過ぎた。
あの夜は、悪夢のようなものだった。ユリアスの動きは酷く乱暴で、痛みが募るばかりだった。大陸に居たころ、同じような年ごろの娘達と、こそこそと、その手合いの話しをしたことがあったが、その時に聞いたような、甘さなど、これっぽちもないものだった。愛の言葉など、期待するだけ無駄だとは思っていた。元々が、人質同然の身の上の、名ばかりの妻なのだから、慈しまれるとも考えていなかった。だが、あの夜のことは、想像していたものとは、あまりにもかけ離れた、嵐のようなものだった。身を引き裂かれるかと思われるばかりの痛みと、ただ耐えることしか出来ない感触に、翻弄されるばかりだったのだ。
薄い麻で織った敷物の上に横座りしながら、ティナはぼんやりと、庭と見つめた。あの夜からずっと、体がだるい。あの日の境にして、季節がぐっと、夏に変わっていったせいもあるが、それ以上に、身体的な疲れが抜けなかった。精神的にも、打ちのめされているのかもしれない。朝、起きるのも辛く、昼になっても何もする気になれない。今のように、外から風が吹き込んでくる気持ちの良い場所を見つけてしまうと、もう動きたくなくなってしまう。ぼんやりと、床につっぷしながら、半日過ごしたこともあった。
麻の織物の上に、ゆっくりと身を横たえながら、ティナはふっと目を閉じた。
手で、右肩にそっと触れる。赤い鬱血がある場所だ。ユリアスが付けた印だった。
あの男は、始めての夜、まるで蹂躙するかのように、ティナを組み敷いた。優しさのかけらも感じられない強引さで、腕を抑え付け、体重をかけながら、いたるところに触れてきた。ユリアスの唇は、存外熱かった。それが、肌のあちこちに触れ、痕を残していったのだ。彼はそれを、所有印なのだと言った。冷たく笑いながら、まるで物でも扱うようにティナを見下ろしていた。
余裕を持って接してくる彼の表情には、年下らしい可愛らしさも、幼さもなかった。そういう経験のないティナにさえ、彼はこれが始めてではないのだと思わせるだけの、自信がかいま見えた。女に触れることに、慣れているのかもしれない。手際が妙に良かった。戸惑うこともなかった。嫌になるほどのしつこさで、ティナに触れながら、彼はいつも、余裕の表情で薄笑いを浮かべていた。そのくせ、瞳はぎらぎらとしていて、彼の男としての性を強調していた。欲情されているのだと判ると同時に、強い屈辱を感じた。こんな男のなぐさみものになるのかと思うと、胸が苦しくて、泣いてばかりいた。
そうやって、ティナを常に見下していたユリアスだったが、一度だけ、馬鹿のように呆気にとられた瞬間があった。ユリアスの中心が、ティナをえぐろうかと言うとき、あまりの痛みに悲鳴を上げると、彼はふっと動きを止め、呆気に取られた表情になった。何故、そんな顔をしたのかは判らない。ただ、彼は目を瞬かせながら、しばしティナに見入ったかと思うと、ふっと、顔を和ませた。それまで見せていた、どこか冷たい態度が、少しだけ緩んだように思えた。気まずそうに、あらぬ方向へと視線を背けながら、彼は言ったものだ。処女だったのかと。馬鹿にしている。
ティナは、麻の織物の上に顔をつっぷすと、そこに軽く爪を立てた。むくれた顔で、荒い布地に見入りながら、小さく鼻を鳴らし、ぱっと起き上がる。
薄い桜色の上着の襟を直しながら、立ち上がり、部屋の奥へと戻ろうとした。もうすぐ、昼時だ。あと少しもしないうちに、侍女が呼びに来るだろう。そして、ユリアスの私室となっている、長の棟がある部屋に行って、あの男と食事をする訳だ。
あの夜から、ユリアスの態度が少し緩和した。表だって、何が変わったと言うわけではない。特別優しくしてくれるわけでもなければ、気をかけてくれるわけでもなかった。ただ、少しだけ、彼の冷たい態度が、和らいだ気がするのだ。その変化は、どうやら、ティナ一人に向けられたものでもないらしい。侍女達が皆、そういう話しをしている。全体的に、ユリアスの雰囲気が、それと気付かぬほどだが、柔らかくなったらしいのだ。
鏡台の前に座り、寝転んだせいで乱れてしまった髪を整え直しながら、ティナはふっとため息をついた。
あれは、私のせいじゃないと、自分に言い聞かせる。ユリアスが、少しでも優しく見えるようになったのは、私が居たからじゃないと、何度も、何度もつぶやいた。
ユリアスの雰囲気が和らいで見えるようになったのは、あるいは、あの夜のせいかもしれない。だが、結局はティナが何をしたと言うわけではないのだ。彼はただ、長としての責務を果たせると思ったから、安堵したに過ぎないのだ。
数年前から、御館の、それも長老達の間では、ユリアスの世継ぎの問題が立ち上がっていた。本来ならば、魔神の長として、彼は正室の他にも数人の妻を持って、早々に、嫡子となれる子を設けなければならない立場だったのだ。戦が終わったとは言え、魔神と言う種は以前、魔族などの外敵を持って居る。それらの戦いの中で、いくら強大な力を持とうとも、ユリアスが傷つかないとも限らないのだ。子供は、早くに作っておくに限った。
そにれ加え、ユリアスの血筋ならば、まず、上位の、それも、他に類を見ない強力な魔神が生まれる可能性が高かった。それらの子は、成長すれば必ず、一族の助けとなるだろう。それだけの力を持つと期待される子供は、数が多ければ、多いほど良かった。血縁をまったく持たないユリアスにとっても、その子供は助けとなるだろう。どのような形にしろ、子供達はいずれ誰かと婚姻を結ぶ。その絆から、より強固な中枢を作り出せるだけの、新たな血縁を作り出せるかもしれないのだ。
さまざまな思惑から、ユリアスは子を望まれていた。側室として彼の妻に収まり、子を生みたいと思う、強い女もいる。だが、過去も現在も、ユリアスはそれらの申し出を蹴っている。妻はあくまでティナのみとしていたのだ。そして、彼はあの三日前まで、その唯一の妻とも、関係を持とうとしなかった。それで、子供ができるはずがないのだ。長老達も、それを知っているからこそ、しつこく、ユリアスに子を作れと、側室を持てと進めていたらしい。昨日、もう話してもいいだろうとばかりに、少しだけ親しくしてくれていた闇の長老が、そんなことを言った。
ティナを抱く形で、ユリアスは、責務の一つを果たしたわけなのだ。とりあえず、一歩進んだと言うことで、長老達からの厳しい指摘も、ひとまずは収まったらしい。ユリアスの雰囲気が和らいだと言うのならば、きっと、このせいだろう。長としての責任を果たし、長老達からの責めもなくなったのだ。ほっとしないわけがない。まだ若い魔神にとっては、一時とは言え、回りの空気が和らぐのは、さぞかし、安堵することだったのだろう。
「私のせいじゃないわ」
髪を結い上げ、薄紅の紐で止め、ティナはそっと、鏡の中を覗き込んだ。
あの夜から、だらけてばかりいるから、顔がむくれているかなと思ったが、そうでもなかった。むしろ、血色が良いくらいで、肌も綺麗だった。それにほっとしながら、ほつれ毛をなおし、そろそろ侍女も来るだろうと、立ち上がる。
そこで、ティナはふと、足を止めた。背後に、人の気配を感じたような気がしたのだ。庭に面した、縁側で、小さなもの音を聞いた気がした。それに驚きながら、ぱっと振り返ると、丁度、誰かがぱっと、視界の端を駆け抜けるところだった。淡い、橙色の服を着た女だった。目立たない、茶色の短い髪が、さっと風に揺れる。
「待ちなさい!」
こんな所で、関係もない侍女が何をしているのかと、ティナは声を荒げながら、縁側に飛び出していた。
橙色の服は、ユリアス付きの侍女達が良く着る服だ。だが、その侍女達は、元々側室になるために御館に上がってきた女だけに、不意に横から現われ、正室に収まってしまったティナを憎んでいるような所がある。そのせいか、彼女達はめったに、この正室が居を構えている棟には、近寄ってこようとしなかった。用があっても、知らせを持ってくるのは、彼女達の下働きをしている娘ばかりで、ティナを顔を合わせようともしないのだ。
その、長付きの侍女が、こんなところに迷い込んでくるはずもない。何をしにきたのかと思いながら、庭に下り、そこで、ティナはふっと気が遠くなった。
「なんてこと……」
両手で口元を覆いながら、震える声でそうつぶやく。
侍女が、今になって部屋に戻ってきた。お昼の用意が出来たそうですよと、小憎らしいほどに可愛らしい声で、呼びかけてくれる。
彼女に答える余裕もないままに、ティナは地面へと、ぺたりと座り込んだ。膝に、花壇の仕切りに使っている、白い石が当たった。ユリアスと、形ばかりの婚姻を結んだ時に、彼が命じて運ばせたものだった。この庭いっぱいに花を咲かせたいからと、ウォウサに漏らしたのを、聞きつけて、手に入れてくれたものだ。それを使って、ティナは、弟と一緒になって、花壇をいくつか作った。球根の花ばかりを選んで植えて、春や夏になれば美しく咲くようにと、手入れしてきたのだ。
今年も、花は綺麗に咲いてくれた。冬の合間に凍ってしまわぬようにと、秋ごとに土から取りだし、干しておいたものだった。そうやって、大切に慈しんで、長い年を一緒に過ごしてきた花だ。そのうちの、春の終わりに花を咲かせる種類のものが、すっかり姿を消していた。つい昨日までは、黄色い花が、そこの花壇いっぱいに咲いていたはずなのに、今は見るかげもなく、ずたずたにされている。
引っこ抜かれただけではない。花がむしり取られ、葉や茎も踏みにじられていた。
部屋に戻ってきた侍女が、どうしたのかと言うように、ひょいっと縁側に飛び出してきた。女主がいないことを不審に思って探しに来てくれたらしい。その侍女も、ティナの視線を追って、花壇に目を落としたところで、わっと声を上げた。
「酷い、いったい誰が!」
「わからないわ……」
小さく首を振りながら、ティナは困ったように笑った。地面に手を付きながら、なんとか起き上がり、どうしようと、泣きそうな声でつぶやく。
「何故、気付かなかったのかしらね。私、ずっと部屋にいたのに……」
「ティナ様……!」
「どうして……。気付いてあげられなかったのかしら」
そこまで言って、体がよろけた。また、ふっと目の前が暗くなる。
侍女の遠い声が、耳に届いた。きぃんと、耳なりがする。頼りない小さな手が、ティナの腕を掴んで、体を支えてくれた。ふっと目を開けると、すぐそこに、顔を真っ赤にして怒っている、侍女がいた。身の細い風の魔神は、ぷんぷんと怒りながら、花壇へと視線を向けると、信じられないと、大きく叫んだ。
「絶対、ユリアス様付きの侍女の仕業です!」
「どうして……。そう思うの?」
振り返った時に見た、橙色の服を思い出しながら、ティナはかすれる声でそう問いかけた。
侍女は、ティナを支えながら、くっと顔を歪めると、今にも泣き出しそうな顔で、地面を睨み付けた。
「……ティナ様が、本当に奥様におなりになったの、あの人達も知ったんですよ」
「そんなことのためで。どうして?」
「だって、ユリアス様は!」
そう叫びながら、侍女は苛立たしくてならないとばかりに、だんだんと地面を踏みしめた。どうやら、ティナは侍女の考えていることを、彼女が期待しているよりも、理解できていないらしい。それが、侍女にはどうにも、もどかしいのだろう。
侍女からそっと離れ、自分の足で立ちながら、ティナはぼんやりと辺りを見回した。
荒された花壇に目を止め、疲れたようにため息をつく。
誰とも知れぬ相手に荒されたのは、花も盛りだったこの場所だけだったらしい。草ばかりになっている、他の花壇は荒されていない。そのことにほっとしながら、ティナは、ちょんと、地面にしゃがみ込んだ。乱暴に彫り返された土の上に転がっている球根を拾い上げ、そのうち、傷のついていないものを、一つ、一つ、つまみ上げていく。
「とりあえず、ここを片付けましょう。ユリアスには、今日、食事は一緒にできないと、言ってきてくれない?」
「ティナ様……」
「まだ、植え直してあげれば、大丈夫な子もいるでしょうし。そうでない子にしても、きちんとしてあげないと」
「……判りました」
侍女も、ティナにつきあって、花壇の世話をしてきただけに、この花に対する愛着は並大抵のものではない。この黄色い花が咲いたと、今年一番最初に気付いたのが、この侍女だった。彼女もまた、荒された花壇をそのまま、放っておく気はなかったのだろう。すぐに戻ってきますからと叫びながら、ばたばたと、ユリアスが待っているであろう部屋へと走っていった。
二つに割れてしまった球根を手の中に包み込み、淡い緑の光で照らす。本来、これは、魔神や動物と言った、肉を持つものに対して使う、癒しの術だった。これを、植物相手に使ったことはない。だが、もしできるならばと祈りながら、ティナはそっと、魔力の淡い輝きを、傷ついた草花に与えていった。
期待したよりも、光は割れてしまった球根を、癒してはくれなかった。だが、じりじりとだが、二つに割れた塊が、くっついていく。まだ、球根も死んだわけではないらしい。そういうところは、植物ならではの強さと言える。そのしぶとさの反面、傷が直るのは遅いが、確実に癒していると言う事実が、嬉しかった。そのことにほっとしながら、ゆっくりと、光を当てていく。
球根は、約半分が傷つけられいた。真っ二つに割れるほどの酷いものは少なかったが、端が削れてしまったもの。ぐっと深い溝を付けられたものなど、そのまま放っておけば、病気や枯れる原因になってしまいそうな傷が、たくさんある。
茎を折られてしまったものは、もう、諦めるしかないかなと、思った。花が咲いたばかりで、球根も痩せ細っているのにと、やりきれない。これからもうしばらく土の中に置いて、栄養を蓄えて貰わなければならなかったのに、茎も葉もないのでは、それもできないではないか。土に戻せば、まだ、回復できるのかとも思ったが、あまり期待しない方がいいかもしれない。
球根を一つ、綺麗に癒し終わったところで、背後に人の気配を感じた。侍女が、助け手と一緒に戻ってきたのかと、ほっとしながら振り返ったところで、ティナは、びくりと体を震わせる。
振り返ったそこに、ユリアスが立っていた。すぐ後ろにだ。いつの間に、そこにいたのか。まじまじとティナを見下ろしながら、ふむと一つ唸る。
「私も、手伝おうか。癒すくらいなら、貴方よりも下手だが、出来ると思うが?」
なんなら、こいつも使ってくれと、魔神の長は、横に立っていた、ウォウサの肩を叩く。
ティナが目を丸くしながら見上げると、弟は気まずそうな顔つきをしながら、小さく頭を掻いた。顔に、ごめんと書いてある。きっと、ユリアスはずいぶんと長い間、ティナの後ろに立って、見下ろしていたのだろう。そのことを、知らせられなかったことを、謝っているのだ。ぎくしゃくと、居合わせた侍女や、ティナ、ユリアスを見比べながら、酷く居心地悪そうにしている。
そんな弟の仕草がおかしてく、ティナは思わず小さな笑みを浮かべてしまった。ユリアスを見上げ、ありがとうと、小さくつぶやきながら、差し出された彼の手に、そっと自分の手を重ねる。
それに、魔神の長は少しだけ、驚いたような顔をした。まじまじとティナを見ながら、ふっと顔を赤らめる。
「……球根を渡して貰おうと思ったんだが」
「あら……」
嫌だわと、ティナもまた、顔を赤くした。慌てて、傷ついた球根を一つ拾い上げ、それを、ユリアスの手に押し付ける。
彼は、手の中で、ほとんど二つに割れかけている球根を転がしながら、ふっと顔を曇らせた。酷いなと、つぶやきながら、その傷口をそっと指で撫で、小さく舌打ちする。
「誰の仕業だ?」
「わからないの」
侍女が何か言う前に、ティナがはっきりとした口調で、そう言った。
それでも、ユリアスはやはり、侍女のもどかしげな表情に気が付いたようだ。ちらりと、横目で風の魔神の娘を見ながら、なるほどねと、思わせぶりに言った。だが、それ以上は追及しない。犯人探しは後にして、先にこちらを片付けようと言いながら、ティナがしゃがみこんでいる横へと、膝を落とした。服が汚れるのにも構わず、地面に胡座をかいて、球根にふっと、白い光を当てる。
ティナの場合、癒しの力は緑の輝きとなるが、ユリアスのそれは、白い光そのものらしい。魔力の性質の違いだろう。持って居る力の属性が違うために、それが一つの結果として現われる形も違うのだ。ティナが決して、熱線を武器として扱えないように、ユリアスもまた、大地の恩恵に預かることはできない。その違いは、目に見える世界を微妙に変えるのかもしれない。光の魔神にとって、世界とは、美しく輝く場所かもしれないが、大地の魔神にとっては、そこは、暖かな優しい場所なのだ。そんな差異があるのに、こうして一緒の場所にいて、同じようなことをしている。そのことがおかしくて、ティナは思わず目を細め、苦笑してしまった。
二人が球根に対する手当をしている合間に、ウォウサが御館の奥にある井戸まで走っていって、水を汲んできてくれた。その後はもう、侍女を手伝って、ぐしゃぐしゃにされた花壇から、球根や奇蹟的に無傷だった花を、拾いあげる作業に没頭していった。ティナも、弟から手渡された球根に、一心に、癒しの力を込めていった。
また、二つに割れた球根を手渡された。ざっくりと切れている。どうすれば、こんなにぐしゃぐしゃに出来るのかと思えるくらいに、断面が酷く潰されていた。そのことが悲しくて、思わず泣き出してしまう。
もし、花壇を荒した犯人が、長付きの侍女の一人なのだとしたら、彼女の憎む相手は、ティナだろう。横から、正室の座を奪っていった女が憎いのだろう。慈しんできた花壇を、ここまで荒されれば、嫌でも悪意を感じる。それと同時に、犯人の苛立ちもまた、そこに残っていた。必要以上に踏みつけられた花が、哀れでならなかった。こんなことでしか、憎しみを発散できない犯人のことを思うと、何とももどかしかった。
ティナが泣き出したのを見て、皆、ぴたりと手を止めた。涙を見せたことで、弟達を戸惑わせてしまったことが申し訳なくて、慌てて泣き止もうとするが、なかなか、しゃくりが止まらない。目に溢れてくる涙も、際限なくこぼれ落ちてくる。自分は、こんなに泣き虫だったのかと、呆れるほどに、ぼろぼろ泣いていた。
「ティナ……」
ユリアスが、そっと声をかけてくれる。存外優しいその響きに、そっと顔を上げると、横に座っていた彼が、哀れむような表情で、見つめてくるのと目があってしまった。ユリアスは、泥のついた手を服にこすりつけると、そっと、ティナの髪を一度だけ撫でた。可哀そうにとつぶやきながら、疲れたようなため息をつく。
「何にしても、これは大人気ないな。犯人は、私が見つけよう。相応の罰は与えるさ」
「そんなもの、いらない」
下唇を噛みしめ、懸命に嗚咽を堪えながら、ティナは慌てて首を振った。
「そんなもの、私はいらないわ」
「私が迷惑なんだ」
御館の中で、こういうことが起こった場合、しっかり罰して置かないと、似たようなことが起きるからと、彼は非情に言う。
ユリアスは青い瞳を花壇へと向けながら、すっと目を細めた。そういう仕草は、やはり冷たいままだ。侍女達は、彼が優しくなったと騒いでいるらしいが、ティナに言わせれば、彼の本質はちっとも変わっていなかった。相変わらず、彼は非情だ。酷薄で、暖かみのない、氷のような男だった。
光の魔神は左手で転がしていた球根へと力を込めながら、軽く肩をすくめた。
「一度許せば、後が断たなくなる。貴方も、こんなことが二度、三度続けば、やってられないだろう?」
「……それは、そうだけど」
もう一つ、新しい球根を弟から受け取りながら、ティナはしゅんと身をちぢこませた。
「そうよね。正直言うと、私、こんなこと、もうごめんだわ」
「だったら、私のすることには文句を言うな。犯人は見つける。処罰もする。くだらないことで、罰するなと言われるかもしれないがな……」
そんな下らないことが続くのもごめんだと、長はぼやいた。
ユリアスは、癒しが苦手だと言いながらも、それなりに手際良く、球根を癒していた。妙な哀愁を持って、気持ちを揺らがせているティナよりも、よほど早く、球根の形を元に戻している。作業的な手つきだったが、効率は良かった。感情を乱れさせず、てきぱきと動く様は、むしろ颯爽として、気持ち良いほどだ。冷徹さが勘にさわることもあったが、ティナののろのろとした作業に比べれば、それも気にならなかった。むしろ、自分の鈍重さに呆れ果てていた身にしてみれば、彼の手際の良さは、ありがたいほどだった。
「……ありがとう」
茎の折れた花へと、力を込めながら、ちいさくつぶやく。
何時の間にか、効率の悪いティナには、数の少ない茎の折れた花が回されるようになっていた。花はいくつも散らばっているが、そのどれが、どの球根と繋がっていたか判らないために、元に戻してやれる数がすくない。それにひきかえ、傷つけられた球根はそれこそ、全体の七割り近くに上り、ユリアスの手際の良さこそが、必要だと見られた。
端のかけた球根を手の中に包み込みながら、光の魔神はふと、横目でティナを見た。睨み付けた訳ではない。青い瞳は優しい。彼は、その姿勢のまま、ふっと笑うと、どういたしましてと、囁き返した。年齢相応の、青年らしさが、ふっと垣間見える表情だった。それが、妙に物悲しくて、ティナはまた涙ぐんでしまった。
「貴方、意地悪だわ、ユリアス」
「ま、そういうものだろう」
何が楽しいのか、光の魔神は笑いながらそう言う。
彼は、最後の球根をウォウサへと放ると、服についた砂を軽く払いながら、立ち上がった。ティナの方も、最後の花を癒し終わったところだ。これから、花壇に植え直しだなと考えたところで、それを見透かしたように、ユリアスが一休みしようと言った。
「とりあえず、一息入れよう。顔色が悪い」
ユリアスは、私も疲れたとぼやきながら、また、ティナへと手を差し出してきた。球根が欲しいわけじゃないよと言いながら、破顔する。その笑みに誘われるように、彼の手に触れた。ひんやりと冷たい。土に触れ、外気に晒されたユリアスの手は、体温よりもずっと、冷たくなっているようだった。
ティナを引き起こしながら、彼はお茶にしようと提案した。侍女が待ってましたとばかりに立ち上がり、部屋へと駆けこんでいく。ティナの返事を聞く前に、お茶にしてしまえと言う意図が見え見えだ。ウォウサも、それに笑っていた。
「姉上、少し休まれた方がいい。慣れない植物相手だから、力加減が判らなかったのでしょう。顔色が悪いですよ?」
「そうかしら……」
ユリアスに掴まれていない方の手で、そっと自分の頬に触れる。ティナ自身は、そんなに疲労は感じていないのだが。外から見ると、顔色が悪くなっているのかもしれない。確かに、先ほどからずっと、魔力を使ってばかりだなと思い、ひとまず、ユリアス達の提案を受け入れることにした。
縁側に戻ろうと、一歩踏み出したところで、よろけてしまった。感じている以上に、体が疲れているらしい。半ば、ユリアスに引きずられるように、部屋に戻り、座ったところで、体からどっと力が抜けた。そのことに、唖然となっていると、ユリアスにさも可笑しそうな顔をされてしまった。
翌日、花壇のことで礼を言おうと、ティナは長の私室に行ってみることにした。侍女にも内緒だ。彼女には、ちょっと御館の中を歩いてみると、苦しい言い訳をした。だが、侍女も手慣れたもので、そんなティナの子供じみた言い訳を受けて、はいはいと、機嫌よく頷いてくれた。たぶん、見透かされているのだろう。彼女の面には、思わせぶりな笑みが浮かんでいたのだから。
暗い廊下を伝って、部屋までいくと、丁度、長付きの侍女が出てくる所だった。赤い髪、美しい娘だ。何時もユリアスの側にいて、細々と彼の世話を焼いている。信頼もされているらしい。ユリアスが彼女に、長老達に対する言付けをしているのを、何度も目にした。血縁と言うことで、彼女も長老達に頼りにされているらしく、御館内での権勢を誇っている女性でもあった。
赤い髪の魔神の娘は、ティナに気が付くと、小さく会釈して、横を通りすぎていった。彼女と擦れ違う刹那、ティナは思わず、道を開けてしまう。本来ならば、長の正妻であるティナの方が、堂々としていればよいはずなのだが、無意識のうちに、身を引いてしまった。そんなティナをあざ笑ってか、侍女は小さな笑みを浮かべながら、颯爽と通りすぎていった。
屈辱と言うよりも、情けなさを感じて、ティナは微かなため息をついた。ねっとりとした湿気で、重くなっていた髪を払いながら、鈍い足取りで、今侍女が出てきた戸の前に立ち、小さく叩く。
「ユリアス、入ってもいい?」
遠慮がちに、入室の許可を求め、耳を澄まして返事を待つ。
昼前と言うことで、この棟からやや離れた場所にある台所からの喧騒が、かすかに聞こえた。下働きの者や、侍女達が食事の用意をしているのだろう。小さな物音までは流石に聞こえないが、かけあう声や、活気が、ここまで届いてくる。
その音を聞きながら、ティナはもう一度、戸を叩いた。だが、返事はない。侍女が黙って去っていったから、てっきり、中にいるものだとばかり思っていたのだが、違ったのだろうか。普通、誰かがこの部屋に向かっていて、そこにユリアスがいないのなら、そのことを言うだろう。それが、侍女の仕事の一つではないだろうか。
嫌われているから、わざと教えて貰えなかったのか。そう、卑屈な考えに陥りながら、ティナはそっと、戸を引いた。そろそろと、伺うように、中を覗き込み、そこで、ほっとため息をもらす。
少しだけ庭への戸を開いた部屋の中で、ユリアスが横になっているのが見えた。庭から、木々の葉がこすれる、さわさわとした音が伝わってくる。風は、ほとんどない。外に満ちている湿気が、室内にまで入り込んでいて、ティナが手を置いている木の戸にしても、じっとりと膨らんでいるように思えるくらいだ。侍女も、この夏を思わせるような暑さの中、締め切った部屋の中に長を置いていくのを嫌ったのだろうが、この湿気では、戸を開けても開けていなくとも、不快感は変わるまい。ティナがそろそろと部屋の中に入り、そっとユリアスの顔を覗き込むと、予想通り、その寝顔は汗でじっとりと濡れていた。
ティナは、庭の面している側まで歩き、ほんの少しだけ開いていた戸を、一気に押し開けた。室内がぱっと明るくなるが、その分、風通しももっと良くなる。湿気た風は、触れていても気持ちのよいものとは思えなかったが、部屋の中に篭った暑さと、汗の匂いよりはずっといい。そうやって、空気の入れ替えをした上で、また、ユリアスの側へと戻る。
彼が寝転んでいる側には、つい先ほどまで使われていただろう、団扇が一つ、転がっていた。侍女が使っていたのか、それとも、ユリアスが自分で煽いでいたのか。それを手に取り、ティナは彼の寝顔を覗き込みながら、そっと、風を送ってやった。
荒めに織った麻布の上に寝転びながら、ユリアスが一つ、寝返りをうつ。小さく寝言をつぶやきながら、彼はごろりと、ティナの方へ近寄ると、ぱたりと腕を、彼女の膝の上に落とした。そこも、汗でじっとりと濡れている。よほど、暑いのだろう。それでも起きないあたり、よほど疲れているとしか思えない。そう言えば、昨日は、長老達との夜を徹しての怒鳴りあいで、ほとんど寝ていなかったらしいなと、ふと思い出した。今日の朝方、その徹夜の話し合いにやはり参加していたウォウサガ、ぼやいていたのだ。弟も、目の回りを真っ黒にしながら、しきりに欠伸をしていた。
膝の上に置かれたユリアスの手を、退かそうか、それとも、そのまま放っておこうかと、ティナは一瞬、迷ったような顔になった。だが、下手に触って起こしてしまっても可哀そうだと思い、そのままにしておくことにした。ゆっくりと、団扇を動かしながら、ユリアスの汗で濡れた髪をかきあげてやる。頬に張り付いた髪は、濡れているせいか、いつもよりその色合いが濃く見えた。まるで、蜂蜜色だ。その下にある肌は、白いながらも、少し赤かった。麻の折り目がくっきりと写っている。それがおかしくて、ティナは思わず笑ってしまった。
ユリアスがまた、小さく唸った。寝言ともいえない声を発しながら、ぐずぐずと動き、また、ティナの方へと転がろうとする。だが、それも、彼女の膝に阻まれ、思うように転がれなかったようだ。うんうんと唸りながら、ぱたりと腕を落とし、そのまま、ぴたりと止まってしまった。
動いたことで位置が変わった首筋へと、風を送ってやりながら、ティナはさも微笑ましそうに顔を綻ばせた。
ユリアスの寝顔は、これが本当に魔神の長かと思えるほど、可愛らしい、無邪気なものだった。元々綺麗な顔立ちをしているので、無防備な寝顔は、とても愛らしいのだ。こうやって見ていると、やはり、年下なのだなと思う。考えてみれば、彼はティナよりも五十ばかりも年下なのだ。優位にある者ならではの、偉ぶった態度を取るので、忘れがちになっていたが、ティナの方が、彼よりもずっと人生経験も上のはずなのだ。魔神としての実力ばかりで、遅れをとっていいわけがない。
風を送りながら、そっと頭を撫でてやると、また、ユリアスが身動きした。起こしてしまったかなと、ぱっと手を引くと、ユリアスがむくりと、身を起こした。彼は、どぎまぎしているティナの目の前で、一度、二度と目をこすると、小さく頭を振りながら、また、つっぷしてしまった。寝ぼけているのだ。ティナが目の前にいるのも、判っていなかもしれない。そんな、のろのろとした動きで、身を伏せながら、彼はぎゅっと、ティナの膝にしがみついた。太股の上に顔をうずめながら、まるで擦りよるように頬を押し当て、また、くぅっと寝息を立てる。
ユリアスのまさかの行動に、ティナは体を硬直させたまま、ぽかんと口を開けるしかなかった。
「ユリアス……?」
わざとじゃないでしょうねと、寝顔を覗き込むが、からかっているようにも、意地悪をしているようにも見えなかった。本当に、寝ぼけたのだ。ティナの膝の上に頭を起きながら、腰に手をからませ、さも気持ちよさそうに眠っている。
あまりのことに、目眩を覚えながら、ティナは持って居た団扇で、自分の顔にぱたぱたと風を送った。困ったように顔をしかめ、しばし、ユリアスの寝顔に見入る。
「どうしよう……」
部屋が暑いせいか、それとも、ティナの膝に頭を乗せて余計な熱に触れているせいなのか。ユリアスの鼻頭に、うっすらと汗が浮かんでいた。安心したように眠りながらも、どこか、暑苦しそうにしている。それが可哀そうで、ティナは慌てて、団扇をユリアスへと向けた。ゆっくりと、扇ぎながら風を送る。そうすると、目に見えて、ユリアスの寝顔が安らかになった。それがどうしてか嬉しくて、ティナは腕が痛くなってきてもずっと、風を彼に送り続けてやった。
わざとでしょう。そう、ウォウサが指摘してきたのに、ユリアスはくつくつと低い笑い声を漏らしながら、何のことだと、嘯いた。
長の私室で、義弟である大地の魔神と真向かいながら、ユリアスはゆったりと上座の上に胡座をかいた。とうに、床に座り込んでいたウォウサは、それを、憮然をした顔で見ている。どこか、睨み付けるような表情になっているのは、気のせいではあるまい。事実、機嫌が悪いのだ。
ウォウサも、かなり姉に執着する気質だったらしく、彼女がユリアスに膝枕などしていたのが、気に入らないらしいのだ。結婚当初は、からかうようなことを言い、人一倍喜んでいたと言うのに、これだ。ユリアスとしては、笑うしかない。
大地の魔神は、胡座をかいた膝の上に、握った拳をどんと置きながら、これ以上はないほどの不機嫌な表情で、ユリアスを睨み付けてきた。むっとむくれた顔は、いまだ子供っぽく見える。もうすぐ成人だと言うのにこれだ。いい加減、姉離れしたほうがいいぞとからかうと、彼はさらに怒ったような顔になった。むっと口を曲げながら、兄上はずるいと、怒鳴ってくる。
「兄上、貴方、狸寝入りしていたでしょう?」
「だから、何のことだ、それは?」
冷ややかに笑いながら、問い返すと、ウォウサはごまかさないで下さいと、握った拳を床に付けた。みしっと、嫌な音が響かせながら、張ってあった木の板がきしむ。
「姉上が来て、気付かないはずがないんです。あの人は、気配を消すなんてこと、知らないんですから。貴方が、誰かが近寄ってきて、起きないなんてことはないはずだ」
「まぁ、殺気を撒き散らされていたら、起きるかもな」
庭の方へと目を向けながら、ユリアスは可笑しそうに笑う。
昼前までは、なんとか持って居た天気だが、ここにきて、雲も堪え切れなくなったらしい。ぽつぽつと、細い雨が降り始めている。ユリアスの見ている前で、雨足はどんどん強くなり、やがて、ざばざばと騒々しい音を立てるまでになる。乾いた庭の土が、あっと言う間に泥に変わり、あたりを包んでいた暑い空気が、ひんやりとした涼しいものへとなっていく。
ウォウサも、ようやく振り出してきた雨にほっとしたらしい。これで涼しくなりますねとぼやきながら、そっと、額の汗を拭っていた。
「兄上、これ、冗談じゃないんですが。姉上が来たこと、判ってらしたんでしょう?」
「まぁね」
これ以上、雨が強くならなければいいなと思いながら、曖昧な返事をかえす。
ウォウサも、その言い加減な口調には気が付いているようだ。ふと、横目で盗み見すると、こめかみの辺りが小さく震えていた。それでも、怒って暴れ出さない辺りは、さすが、温厚な大地の魔神と言えた。ティナにも言えることだが、この姉弟は、何かを嫌だと思っても、それを、ぐっと我慢する性格と根性を持ち合わせているようだった。損な性格だと言えばそれまでだが、回りにしてみれば、おおらかでつきあいやすい手合いでもあった。
これ以上怒らせても可哀そうだと思いながら、ウォウサへと向き直る。義弟は、それにほっとしたように苦笑を浮かべ、軽く頭をかいた。
「なんで、狸寝入りなさったんですか?」
「いや、ティナがどうするかと思って」
膝の上に肘を乗せ、その手の肱に顎を置きながら、ユリアスは小さく欠伸をした。
「起きるのが面倒だったのもあるけど。それよりも、私が無防備に寝ていたら、どうするのかなと思ったんだ」
「兄上……」
「何をされてもよかったと、言うわけじゃないんだ」
ただねと、ユリアスは冷ややかに笑いながら、付け加える。
「ただ、ティナが今、私をどう思っているか、知りたかっただけさ。彼女がまだ、私を殺したいと思っているならば、それなりに警戒しなければならないからな。一方的に憎まれた挙句に、殺されるなんて、割にあわないだろう」
私が損をすると、魔神の長は肩をすくめた。
その言葉を、どう取っていいものか、ウォウサは計りかねているようだ。困惑した表情のまま、目をぱちくりと見開いている。そういう顔つきは、どことなく、ティナと似ている。あまり目鼻立ちで似ているところのない姉弟だったが、小さな癖などが、同じなのだ。ティナも時々、こうやって、目を丸くすることがあった。驚いたりすると、こういった顔をする。
ウォウサでは、ただむさ苦しくも思える顔つきだったが、これがティナとなると、非常に可愛らしく見えるのだ。年上だ、なんだと、さりげなく威張っている女性だったが、ちょっとしたところが、愛らしい人だった。それがまた、何ともユリアスには憎たらしくてならないのだが。
庭に降り付ける雨の具合を見ながら、ユリアスはゆっくりと身を起こした。それを見て、ウォウサがどちらにと、間髪を入れずに、尋ねてくる。
「ご用ですか、兄上?」
些細なことなら、自分が変わりに行くがと、姉の分まで甲斐がいしく動く義弟が言い出す。
それに小さく首を振りながら、ユリアスは上座から下りた。
「いや、ティナのところに行くつもりなんだが。一緒に来たいのなら、おいで」
「……姉上のところですか?」
昼も終わって行こうとなさるなんて、珍しいですねと、ウォウサがまた、目を丸くして驚いた。
確かに、珍しいことだろうなと、ユリアスは心の中で笑った。実質的に夫婦になった今でも、ティナは一定の距離を保とうとしている。必要以上に近寄らなければ、近寄らせてもくれないのだ。始めての夜から、もう、四日ばかりも立っているが、あれ以来、彼女に触れてはいない。ティナが、無意識だろうとは思うが、嫌がる素振りを見せるからだ。ユリアスがちょっと近寄っても、びくりと震え、逃げ出そうとする。それが、ユリアスには憎らしい。
ウォウサを従えて部屋を出たところで、侍女とはち合わせした。赤い髪の、長付きの女だ。おでかけですかと律儀に尋ねてくるのに、奥方の所へ行くんだと、皮肉を込めた返事をかえす。
侍女は、それにぴくりと眉を動かしながら、承知しましたと頷いた。内心、煮えくり返っていることだろう。彼女を含めた、大半の侍女は、主である長が、ティナに近寄るのを快く思っていないのだから。態度を見ていれば判る。彼女達は、ティナを敗者として、侮り、見下しているのだ。そんな女が、自分達の上に立つ、長の正室と言うことが、侍女達には気に入らないのだ。ティナを殺したいほど憎んでいる女も、一人、二人と居るかもしれない。
廊下を進みながら、ユリアスは後ろを歩いていたウォウサの手を掴んで、強引に前に引き寄せた。よろよろと、よろめきながら、義弟は何かと言うように、心得たように耳を寄せてくる。
「兄上?」
「今日は、御館に泊まっていってくれ。ティナのいる棟に居るといい。様子がおかしいから、見ていて欲しいんだ」
「……姉上の?」
どうしてと、姉を誰よりも愛しているだろう大地の魔神は、顔を強ばらせた。
彼の腕を軽く叩きながら、ユリアスは冷たい表情で、その緑の瞳を見据えた。
「昨日の花壇の件を、ティナは酷く気にしている。それに、この雨だ。続けて何かあったら、また、ティナは気が触れるかもしれない」
「兄上……」
「雨は駄目だな」
先の水の長老が反逆した日も、雨だったなと、ユリアスはつぶやいた。
「ティナは、あの日のことをまだ覚えている。気にしているし、心にも残っているだろう。雨の日は、今でもおかしいからな」
「……よく見てらっしゃるんですね」
ユリアスが、自分でも気付かぬ姉の不調を知っていたことに、ウォウサは純粋に驚いているらしい。尊敬さえ感じられる瞳で、じっとこちらを見つめてくる。
そんな義弟に薄く笑いながら、ユリアスは軽く手を振ってみせた。
「見てるも何も、目につくのさ。彼女は、目立つからな」
だから、仕方ないと、ぼやく。
それに、ウォウサはふっと笑った。にやにやと、口元に嫌らしい笑みを浮かべながら、ずいっと身を乗り出し、ユリアスの顔を覗き込んでくる。思わせぶりに目を輝かせながら、ふふんと鼻を鳴らし、なるほどぉと、唸る。
「俺が聞いた限りは、姉上は慎ましやかですが、ちょっと地味過ぎるってことでしたけどね。目立つかな?」
ウォウサが、何かを期待するようににやりと口はしを持ち上げたのを見て、ユリアスはふっと顔を背けた。うるさいなと、小さくすごみながら、足を早め、ウォウサをあっと言う間に引き離していく。
「私の目から見れば、十分目立つんだよ」
「どういう意味ですか、それ?」
逃がしませんよと、義弟はなおもしつこく食い下がってくる。
その、女のような浅はかさが苛立たしくて、ユリアスは煩いと怒鳴り付けながら、廊下を半ば走るように歩いていった。ウォウサは、それに笑いながら、だかだかと足音を立ててついてくる。兄上と、呼びかけてくる声さえもが笑っているように聞こえ、ユリアスは思わず耳を塞いでしまった。
ティナが戻った部屋は、明りがついていないせいか、酷く暗かった。夕刻近くだが、どんよりとした雲が、空に重くかかっているせいだろう。何時もならば、灯りもいらない時間帯だったが、今日は暗く、足元もおぼつかない。普通ならば、侍女が気を利かせて、火を付けてくれるのだが、どうしか、彼女の姿が見えなかった。ティナが長く戻らないので、探しにいったことはないだろう。あれで、なかなか聡い女性だから、ティナがユリアスの部屋に行ったことは察しているはずだ。その時間をつぶすために、同僚である他の侍女と他愛ない話をしようと、台所にでも、顔を出しているのかもしれない。
探るような足取りで部屋に入り、灯りのための高台が置いていあるはずの部屋の隅まで、のろのろと歩いていく。途中、赤く雷が光った。ざばざばと、威勢のいい音を立てて雨が降っていた。妙によく音が聞こえるなと思い、顔を上げると、少し開いた隣の部屋の入り口が、小さく開いていた。その向こうの、庭に面した戸も、開け放っているらしい。そこから、桶をひっくり返したような水音が、大きく聞こえてきた。
「……閉め忘れたのかしら?」
手際のいい侍女が、そんな粗相をするなんて珍しいと、ティナは困ったようにため息をついた。雨戸を閉めておかないと、雨が室内に入ってきてしまうなと、慌てて、隣の部屋への扉を潜った。
雷が、また鳴る。赤い、輝きだった。一瞬の光は、例えようもないほどに美しく、そして、儚かった。ぱっと、視界が白く輝いたかと思うと、次ぎの瞬間には、真っ暗になるのだ。目に焼き付けられた光景だけが、視界を支配し、離れなくなる。その、瞬間的に見えた白い空間を見て、ティナはぴくりと、肩を震わせた。そろそろと、口元を手で覆い、ひゅっと息を飲み込む。
声にもならない悲鳴を上げながら、ティナは床に突っ伏した。倒れた拍子に、手が、床に触れる。そこに、たくさん飛び散っていた、液体が、指先に触れた。それを振り払うかのよう、ティナは慌てて手を引っ込め、服へとなすり付けた。ずるずると、座り込んだまま後退りし、ひゅうひゅうと喉を鳴らす。
ざしゅりと、何かが切れるような音がした。ティナのすぐ目の前で、何かが裂ける音が聞こえた。
ぱぱっと、何かが顔にかかる。暖かい、液体だった。額に辺り、頬を伝うそれを、ティナは震える手で拭った。怯えるような仕草で、右手を覗き込む。暗い中、手が何かで濡れて、てらてらとしているのが見えた。また、ぱっと雷が光る。轟音が響きまた、空と部屋が光った。
ひっと、息を飲み込みながら、ティナは床につっぷした。這うように、後ろの部屋へ、部屋へと逃げながら、何度も首を振る。
目にいっぱい溜まった涙が、床にぽたぽたと落ちた。それを、手で拭うことはしない。ただ、床を這いつくばり、逃げ惑うことだけに、手を使いながら、ティナは低い嗚咽を漏らした。必死に、廊下へ出るための扉へと這いながら、ティナは喘ぐように口を上げ、泣いた。
廊下の向こうから、猛々しい足音が響くのが聞こえた。部屋の奥からも、がたんと、何かが倒れる音がする。誰かが、そこにいるのだと判った。だが、それを確かめるために、振り返る勇気は、今のティナにはなかった。彼女はただ、手足を滅茶苦茶に動かしながら、必死に、逃げることしか頭になかった。早く、少しでも早く外へと願いながら、震えるせいで言うことを聞いてくれない手と足をばたつかせる。
そんなティナの耳に、男性にしてはやや高めの、綺麗な声が聞こえた。何か、怒るように怒鳴っている。そんなにきつい声ではないが、口調が冷たく、恐ろしい響きを持っていた。突き放すような、孤独さを感じさせる。その声を聞いて、ティナはまた、目にいっぱいの涙を溜めた。低く呻きながら、手をつっぱね、必死に身を起こしながら、悲鳴のような声を上げて、ユリアスを呼んだ。
「ユリアス、ユリアス!!」
ティナが、泣き声混じりに叫ぶと同時に、目の前の戸が、ばんと大きく開いた。弾かれるように、横へと押しやられた戸の向こうに、ユリアスが表情を強ばらせたながら、立っていた。彼は、ティナが自分のすぐ足元にいると判ると同時に、飛びつくように、床に膝まずいた。
ユリアスの顔を見て、ほっとため息をつくと、彼の逞しい腕がぎゅっと、体を抱きしめてくれた。がくりと、腕の力が抜け、倒れそうになっても、力強く支えてくれた。ユリアスの腕は、広く、そして暖かかった。その体温が酷く嬉しくて泣くと、ユリアスが低いため息をつきながら、名前を呼んでくれた。
「ティナ……」
可哀そうにと、さも哀れむように、彼がいう。
ユリアスの背後には、ウォウサが立ち尽くしていた。呆然とした表情で、ティナを見下ろしている。その弟の顔があまりにも引きつっているので、ティナは思わず目を見開いてしまった。彼の視線の先にある自分の顔に触れ、あぁっと、納得したように頷く。
廊下に灯されている灯りが、ティナの手をくっきりと照らしていた。細い指いっぱいに、赤い血がまとわりついている。顔にもいっぱい、被っているのだろう。今まで必死にしがみついていたユリアスの腕や、胸にも、真っ赤な血が、べっとりと張り付いていた。ティナの顔に付いていた血が、移ってしまったのだ。
あぁ、綺麗な赤だなと思いながら、白い服についた血に触れる。その、震える手を、ユリアスがぎゅっと握った。指が痛くなるほどの強さで、ぎゅっと握り締めてくる。そのことに驚いて顔を上げると、苦しげな表情をしているユリアスと、目があってしまった。何をそんなに、顔をしかめているのかと思えるほどに、彼は口元を引攣らせながら、眉を潜めていた。顔が、真っ白だ。まるで、自分こそが血を被ったとでも言いたげに、ユリアスは喘いでいるように見えた。
「どうしたの、ユリアス、顔、真っ青よ?」
血が乾き始めているもう片方の手で、そっと触れる。その手もまた、ユリアスに掴まれた。両手をそうやって束縛しながら、彼はまた、ティナを抱きしめてきた。どうしてと、泣きそうな声を上げながら、ティナを強く、強く引き寄せる。
そんな彼の横をすり抜けて、ウォウサが荒々しい足取りで、隣の部屋へと走っていった。あぁ、開けっぱなしの雨戸を閉めにいったのかなと思いながら、見ていると、その部屋から、弟が怒鳴り散らす声が響いた。畜生と、普段なら口にしないような、酷い悪態をつく。そうやって、目一杯に叫びながら、ウォウサはどかどかと、こちらの部屋に戻ってきた。
「兄上、灯りを下さい。たぶん、犬です」
「……持っていけ」
ティナを束縛する手を緩めながら、ユリアスがそっと小さな灯りを作り出す。光の魔神だけに許された、特別な業だ。彼等は、その魔力を光にかえることで、灯篭代わりの輝きを、力の続く限り、いくらでも作ることが出来た。その中でも、長であるユリアスが作り出す光は、特別に見えた。彼の生み出す輝きは、真っ白で気高く、そして、美しいのだ。触れても、熱くない。ただ、優しさだけが感じられる。ティナがそっと手を延ばして触れてみても、指を弾くようなことはなかった。ほっとするような暖かさだけが、じんわりと伝わってくる。
ティナが、光に戯れ出したのを見て、ユリアスがふっと、困ったように笑った。名ばかりの夫である魔神は、それは君に上げるよと言いながらもう一つ、光を生み出した。そして、それを、隣の部屋の戸口近くで待っているウォウサへと渡す。
弟は、光を片手に乗せて隣の部屋に入り、また、何かごそごそと動き始めた。何をしているのかなと思いながら、部屋の様子を覗こうと、身を動かすが、それを、ユリアスに邪魔された。彼は、ティナの腕を引きながら、体の位置を動かすと、まるで、隣室を見るのを邪魔するかのように、ティナの視界の前へと座り込んだ。そして、また、ぎゅっと体を抱きしめてくる。何をするのかと腕をつっぱねると、彼はややむっとした顔になりながら、見なくていいと、そっけなくつぶやいた。
「見る必要はない。見ない方がいい」
「どうして?」
私の部屋なのにと、不服を口にすると、ユリアスは少しだけ、表情を和らげた。血で濡れた、ティナの頬を、親指で軽くこすりながら、目を細めて笑う。どこか、悲しげな苦笑だった。
「向こうで、何があったか、覚えているか?」
「……何かが死んだのよ」
答えながら、ティナはぎゅっと、ユリアスの服にしがみついた。また、体が震えてくるのを感じた。かたかたと、歯がかち合う。寒くもないのに、腕がぶるぶると震えた。膝が、おかしくなってしまう。立ちたいのに、足が言うことを聞いてくれなくなった。全身から、どっと力が抜け、後ろに倒れ込みそうになる。それを、ユリアスがまた支えてくれた。ティナの腰に手を回し、ぐっと引き寄せながら、光の魔神は疲れたように、小さなため息をついた。
「すまない。思い出さなくてもいい」
「……何かが、目の前で裂けたわ。子供達と同じように、ばらばらになって。血がいっぱい、出たの。私の目の前で、何かが弾けたんだわ」
「ティナ」
もういいと、ユリアスが腕を引く。それにも構わず、ティナは自分が何を見たかを、さらに言いつのろうとした。もうやめろと、名ばかりの夫が叫ぶ。だが、そんな言葉を聞く気にはなれなかった。それよりは、何があったのか、何がどう裂けて血を噴き出したのかを言わないとと、焦りばかりを感じた。
「子供が、死んだの。私の目の前で、死んでしまったのよ。私、助けられなかったんだわ」
「ティナ!」
「雨が降っていて……。転んだ子がいたの。その子が、死んだのよ。起きようとして、そこで、殺されたの。ぱんって、弾けたのよ。頭が、破裂したの。いっぱい血が出たわ。辺りが真っ赤になったの。それなのに、私は何も出来なくて……。私は、私は……!」
「それは、もう終わったことだ。ティナ!」
ユリアスが目の前で叫ぶ。もうやめてくれと、泣くような声で懇願してきた。
この冷たい、非情な魔神が、そんな声を出すなんて珍しいなと、ティナはふっと目を上げた。ユリアスの、必死な顔が、そこにあった。じっと、ティナを見つめてくる。青い瞳が、揺れていた。赤く光った雷が、彼の金の髪を、ぱっと光らせる。
やっぱり犬でしたと、隣の部屋にいっていたウォウサが、疲れたように言うのが聞こえた。
その弟の声を聞きながら、ティナはぎゅっと、ユリアスにしがみついた。怖いのよと、つぶやきながら、彼の首にかじりつく。
ティナを子供のように抱き上げながら、ユリアスが立ち上がった。両腕でティナを抱き上げながら、部屋を出る。私の部屋に行くと、高だかと宣言する。有無を言わせぬ、強い口調だった。それに、ウォウサが大きく頷いた。その方がいいと、寂しげにつぶやきながら、ティナの背にそっと触れてくる。
「今日はもう、兄上の部屋でお休みなさい、姉上。部屋は、今晩のうちに、片付けておいて貰いましょう」
「……そうね」
部屋は、真っ赤になってしまったんだわと思いながら、弟の言葉に頷く。
顔が、ざらざらする。嫌な手触りだった。ぽろぽろと、塗装が剥がれるように、目の前に赤いかけらが落ちていく。血が固まったものだと、なんとなく判った。手も、擦り合わせると、赤い粉がぱらぱらと出てきた。それが、ユリアスの腕に落ちていく。綺麗な形の、良く似合う上着だったのに、それが、真っ赤に汚れてしまう。申し訳なくて、赤い汚れを払うが、どうも、染みになってしまったようで、なかなか、落ちてくれなかった。それが悲しくて、ユリアスにしがみつくと、抱きしめてくる腕の力が、ぐっと強まった。
長の私室に戻ると同時に、ユリアスが大声で侍女を呼んだ。慌てて飛んできた、赤い髪の娘は、ティナを見るときゃっと悲鳴を上げて、目を丸くした。そうかと思うと、飛びつくようにティナの前へと駆けより、なんてこと、と痛ましげな表情になった。手拭を、近くにあった水差しで濡らし、ティナの顔をごしごしと拭いてくる。
「すぐに、お湯の用意をいたしますから。ティナ様、わたくしの声が聞こえますか?」
「えぇ、聞こえているわ……」
「良かった。大丈夫です。すぐに綺麗にいたしましょうね。着替えも、すぐに用意いたしますから」
真っ赤になってしまった手拭を丸めて持ちながら、侍女はまた、ばたばたと廊下の外へと飛び出していった。そんな侍女を見て、ウォウサが驚いたように、おぉっと歓声を上げる。
「驚いたな。彼女、ずいぶんと親身になってくれますね」
「……まぁね。そういう女性なんだよ。同情的なんだ」
さもなきゃ、側で使ったりしないと、ユリアスがぼやく。
どういう意味かと思いながら、ティナが顔を上げると、彼は薄く笑いながら、目の前に膝をついた。そっと、広い手がティナの頬に触れてくる。指先が、そっと肌を撫でていった。悪い感触ではない。そのふれあいを、もう少し感じていようと、目を閉じると、ユリアスの唇が触れてきた。まだ、血の匂いが残っているだろうに、鼻に噛みつくように、くっと口づけてしてくる。それに驚いて目を開けると、今度は唇そのものに触れてきた。後ろで、ウォウサが目も当てられないと、慌てて背を向ける。ユリアスは、それさえも笑いながら、ティナを抱きしめてきた。
「今晩は、私の部屋に泊まるといい。望まないのなら、触れないから。一人には、しない」
「……どうして?」
私、大丈夫よと、ティナは小さく首を振った。一人でも、平気なのと呻きながら、床に手を付いて立ち上がろうとする。だが、膝はまだ震えていて、思うように動くことが出来なかった。足を立てただけで、また、がっくりと体が崩れてしまう。ユリアスの腕へと、すとんと倒れ込みながら、ティナは嫌だわと、ため息をついた。立てないのねと、ぼんやりした声でつぶやきながら、ユリアスの胸にしがみつく。
「……子供が死んだのよ」
「知っている」
「どうしよう」
「どうしようもない。もう終わったことだ。貴方は悪くない。私は知っているよ」
言い聞かせるように、ゆっくりとした口調で、そう囁き駆けてくる。
そのどんよりとした声を聞きながら、ティナはそっと目をつむった。
どこか遠い場所から、雨が木々の葉に打ち付ける音が聞こえた。
暗い天井を見上げながら外を眺めていると、隣の部屋に続く戸が、小さく鳴った。そこでは、床を引いてティナが眠っているはずだ。いったいどうしたのかと思いながら、ユリアスが体を起こすと、すぐそこの闇に溶け込むように、ティナが立ち尽くしていた。
「どうしたんだ?」
転ばないようにと、淡い光を魔力で作り出し、宙に浮かべる。その、うすぼんやりとした灯りの中、ティナはふらふらとした足取りで、ユリアスの床のすぐ側まで歩みより、そこで、ぺったりと座り込んだ。両手を床に付けた状態で顔を上げながら、ユリアスと、名前を呼んで来る。
薄暗い中でもはっきりと判るほどに、ティナの顔は真っ青だった。血の気が、まったく感じられない。唇は白く、震えてさえいた。黒髪がふんわりとかかった肩もまた、小刻みに揺れていた。体そのものが、震えている。
ユリアスが、そっと手を延ばすと、それを待っていたかのように、ティナがばっとしがみついてきた。体ごとぶつかるように、しがみついてきながら、音もなく泣き出す。嗚咽一つ漏らさず、ただ涙だけをこぼして泣いていた。落ち着かせようと背を撫でると、彼女は一層強い力ですがりついてくる。
床の中に、彼女の細い体を引きずり込む。腰と肩に手を回して抱きしめながら、泣き顔に唇を当てた。もう大丈夫だからと、あやすように囁く。
少しだけ、ティナの涙が細くなった。濡れた緑の瞳が、じっと、ユリアスを見つめてくる。その視線は遠く、あまり定まっていない。こちらを見ているようで、その実、実際にはそこにない、何かを眺めているのだ。その目を、ユリアスは前にも一度、目にしたことがある。あれは、事実上の初夜となったときだった。あの夜も、ティナはどことも知れぬ、遠い場所を見つめていた気がする。ユリアスではない誰かを見ながら、泣いていた。
「ティナ……」
熱に浮かされたように、名前をつぶやき、彼女の肩に額を押し当てる。
細いくせに、ずいぶんと滑らかな体つきをしていた。こうして抱きしめていても、腕が余ってしまうほどなのに、触れると柔らかい。
ふんわりと、花の匂いがした。血臭を消そうと、侍女が湯に浮かべた花びらから移った香りだろう。ふんわりと優しい、しつこくない匂いだった。だが、その奥にある血の、甘ったるい感触は、まだ消えない。ねっとりとした赤い血の臭いは、しつこく、彼女の体に染み着いていた。
「もう、寝た方がいい」
「眠れないのよ」
ユリアスの胸に顔をうずめながら、彼女は辛そうに呻いた。
「怖いの……」
「ならば、お前が寝るまで、私が起きて見ていてやろうか?」
そうすれば、眠れるだろうと髪を撫でると、ティナは本当かと言うように、ぱっと顔を上げた。驚いたと言うように、目を丸くしながら、まじまじと見つめてくる。その瞳には、しっかりと、ユリアスが映っていた。ティナの細腕がしっかりと、肩を掴んでくる。そうやって、すがってきながら、彼女は本当にそうしてくれるのと、まるで子供のように聞き返してきた。
「私が、眠るまで?」
「朝までずっと起きていてもいいが」
「どうして?」
何故、優しくしてくれるのかと、ティナは純粋に驚いているようだった。瞳が、しっとりと濡れていた。
そんな彼女に、冷ややかな笑みを返しながら、ユリアスは迷惑だからと、返してやった。
「貴方に起きてうろちょろされると、目障りだから」
「……邪魔なのね」
なら、追い出せばいいのにと、この後に及んでまだ誇り高くある妻は、寂しげに呟く。
彼女の、ひんやりとした頬に口づけしながら、ユリアスは小さく喉を鳴らした。
雨が降ったせいなのか、気温がぐっと下がっている。その分、ティナの体温が心地よく感じられた。暑苦しくはない。むしろ、抱きしめて、その暖かさを感じると、丁度良いくらいだった。
逃げ出さないように、どこかに行かないようにと、強くティナの体を抱きながら、もう一度、彼女の肩に額を押し当てる。
「早く眠ってしまうといい。悪夢を見るのならば、いくらでも起こしてやる。私が、見ていてやる。だから、寝るといい」
「……そうね」
それなら、怖くないわねと、ティナはゆっくりと目をつむった。
「ユリアス。貴方より、怖いものなんて、ないものね。きっと、大丈夫だわ」
「……そうか」
「そうよ。貴方が一番、怖い人だもの。だから、もう、大丈夫だわ」
お休みなさいと、たどたどしい声が聞こえた。
その言葉に、ほっとため息をつくよりも早く、ティナの柔らかな寝息が、耳にかかった。ユリアスの腕を枕代わりに、名ばかりの妻である女は、すぅっと寝入ってしまったらしい。怯えたような、暗い表情はいまだ、その美しい顔に張り付いたままだ。だが、その端に、どこか安堵したような安らぎが垣間見られた。赤い唇が小さく開き、その合間から、吐息が漏れる。目に溜まっていた涙が一つこぼれ、落ちていった。
頬にかかった黒髪を払ってやる。白磁のような肌が、そこにあった。柔らかで、滑らかだ。
血に濡れた髪も、綺麗に洗ったためか、微かな赤みもない、美しい緑に濡れたものへと戻っていた。さらさらと流れるような感触が気持ち良い。指に絡ませると、さらりと落ちていく。まるで、水の流れのようだ。
枕代わりにされている腕を投げ出したまま、ユリアスはそっと、体が仰向けになるように身動きした。疲れたような動作で、空いたほうの腕を目元に押し当て、ふっとため息をつく。
暗い闇がたゆたうのが、見えたような気がした。
朝、起きると、すぐ目の前にユリアスの寝顔があった。長い金の睫が、小さく震えている。白い頬は、血の気が少なく、不健康に見えた。それでいて、体つきは逞しい。ティナを抱く腕は太く、力強い。無意識のうちに手を押し当てていた胸も、厚く膨らんでいる。夜着のはだけた首筋に、傷跡があった。薄い火傷の跡だ。鍛えられた肉体に、深く刻まれた、一つの印だった。
ティナは、自分を捕まえてくるユリアスの腕からそっと逃れると、床から這いだし、そこでほっと息をついた。上かそっと、名ばかりの夫の顔を覗き込む。すやすやと、まるで子供のように眠る彼は、とても可愛らしく見えた。昨日見た、昼寝をしていたときの表情と同じだ。ふわふわとしていて、これが本当に魔神の長かと、怪しみたくなってくるほどだ。思わず頬をつついて、起こしたくなってくる。
無防備に投げ出されていた腕を、床の中へと戻してやる。ユリアスの背中に視線を向けながら、小さく目を細める。
「……ユリアス」
この下に、あの醜い火傷の跡があるのだなと思いながら、ユリアスの背を撫でた。
あの傷跡を見せられた時の驚きは、忘れられない。てっきり、他の魔神と同じような、赤黒い跡ばかりが目立つ火傷かと思っていたのだが、彼の背は、それよりも酷い、えぐれたような傷を持っていた。熱線で、切り裂かれたのだろうと思えるような、醜い引攣れだった。これでよく、生き延びられたなと、見ていて目眩を覚えるほどのものだった。
ティナも、治癒能力に優れているため、重い傷を負った魔神達を数多く見てきたが、ユリアスのものほど、酷い有様もなかったような気がする。古傷となった今でも、赤黒くえぐれたように引攣っているのだ。この傷を負った当初は、どれほどの血が流れ、痛みが襲ったのか、想像も出来ない。こんな傷を得てなお、彼は魔族を倒したのだ。信じられない精神力と、体力だ。
ユリアスの背に頬をこすりつけながら、ティナは目を閉じた。腕をそっと回し、夫である人を抱きしめながら、ありがとうと、小さく呟く。
眠ったまま、返事一つしない光の魔神からそっと離れながら、ティナはふわりと、一つ小さな笑みを浮かべた。手を延ばし、ユリアスの蜜色の髪を指先でさらりとかきあげ、未練がましく後ろに下がる。一歩、戸口に向かっては、振り返る。そんなことを繰り返しながら、酷くゆっくりとした足取りで、部屋を後にした。
まだ、日も上っていない早朝であるためだろう。御館は暗く、そして、静かだった。遠くで、気配が感じられるが、それも微かだ。早番の侍女達が、水汲みや、台所の支度を始めているのだろうが、それも、長の住居となっている棟や、ティナが戻ろうとしている正室のための棟からは、やや距離があった。
渡り廊下を進み、見慣れた小さな棟へと戻ると、ふんわりと、いい匂いがした。すぐに、それが、昨日の血臭を消すための、花の香りなのだと気が付いた。柔らかく、優しい感触のする香だ。少し煙臭いのは、それが、焚き物のせいだろう。大陸で使われているものだ。島では、花の匂いを直接使うので、保存の聞く、香の類はあまり使わなかったと聞く。
雨上がりの土の匂いもした。ふと目を上げると、等間隔に並んだ廊下の明り取りの小窓が、開け放ってあった。この棟に控える女達は数も少なく、また、ティナ付きの侍女の監督がなければ、あまり動かないような者ばかりだ。女主人が不在の時に、こまめに動くとも思えなかった。ならば、誰だろうと思いながら、部屋に戻ると、そこに、侍女である風の魔神の娘がいた。
ちょこんと、部屋の真ん中に正座をしながら、ぼうっと、その隅にある鏡台を眺めている。使わない時には、布をかけてあるものだったが、今はそれも捲り上げられていた。綺麗に磨かれた、鏡の表面を見つめながら、侍女は緑がかった黒髪を、指で解きほぐしていた。ティナが、戸口にいることにも、気付いていないのかもしれない。どこか、夢見がちな表情で、ふと笑ったかと思うと、ずりずりと、膝を付けたまま、鏡の前へと這っていく。
ティナが無意識の内に一歩前に出ると、侍女の体がびくりと震えた。気配で、誰かがいると、判ったらしい。ばっと素早く振り返りながら、床に手をつき、勢いよく立ち上がった。まるで、虫が跳ねるような、突然的な動きだ。それに、ティナが驚いて目を丸くすると、侍女の方でも、酷く戸惑った顔をした。どぎまぎと、体をちぢこませながら、申し訳なさそうな表情になる。侍女は、そのまま、擦り足で後ろに下がっていくと、ぱっと頭を下げた。
「お帰りなさいませ、奥様」
「……あ、はい」
侍女の突然の動きに戸惑いながら、ティナはこくんと頷いた。
床の冷たい部屋の中へと踏み込みながら、ふっと息を吐き出す。
「貴方、早いのね」
「はい。部屋の片付けの方が、ちゃんと終わったか、見に来たもので」
隣の部屋の方が、血だらけだったので、掃除の方が完璧だったか、調べたかったのだと言う。
侍女が、ふっと向けた視線に釣られるように、ティナも、戸の開け放してある隣の部屋へと目を向けた。白い香の煙が、ふわふわと漂っているのが見える。匂い消しのための、厚い煙だ。少しでもあの部屋に踏み込めば、たちまちせき込んでしまいそうなほどに、白い雲のような固まりが、ゆらゆらと揺れている。
隣の部屋を伺うように横目で見ながら、ティナはかけ布の上げてある鏡台の前へと座った。そこに並べてある櫛を手に取りながら、鏡の中を覗き込み、そこで、呆れたようなため息をついた。
昨日、寝慣れない場所で横になったせいなのか、それとも、ユリアスの腕などを枕代わりにしてしまったせいなのか、髪がぐしゃぐしゃになっていた。起きたときから、そうかなと思っていたのだが、後ろ髪が跳ね、あるいは、絡み合っている様は、予想以上だ。その、黒髪に櫛を通しながら、ティナは後ろに控えている侍女へと、声をかけた。
「貴方、もう、朝ご飯は食べたの?」
「あ、はい。頂きました」
「隣の部屋、誰が片付けてくれたのかしら?」
「御館に来ている、衛兵の方達です。男性をいれるのはどうかと思いましたが、やっぱり、女の人に、犬の死骸なんて、片付けさせられませんから」
「……犬が死んだの」
可愛そうにと、櫛を動かす手を止めながら、ティナはひっそりとつぶやいた。
後ろの方で、侍女が立ち上がり、煙の篭っていない方の、もう一つの部屋へと消えていった。衣装が収めてある一室だ。夜気のままのティナを見て、着替えを取りにいってくれたのだろう。すぐに、向こうの方から、今日は何色がよろしいですかと、声がかかってきた。それに、水色と答える。
一瞬、昨日の雨が思い出されたが、それもすぐに、頭の隅から消えてしまった。衣装部屋の方から、侍女がころころと笑う声が聞こえる。何かと思い、どうしたのかと問うと、彼女はさも楽しげに、これはユリアス様のお好きな色ですよねと、からかってきた。
「ユリアス様、水色と白が好きですから。帯の方は、真っ白にしましょう。白で透かしの模様の入っているものがありますから」
「……そう」
櫛を鏡台に起きながら、ティナはぼんやりとした口調で答える。
隣室で、箪笥をかき回しているだろう侍女の気配を感じながら、ティナは、ゆっくりとした動作で、両手を鏡台の上へと置いた。そこに、額を押し付けながら、小さく方を震わせ、たどたどしく笑う。
水色は、ユリアスの好きな色だったのだなと、喉の奥で笑った。そう言えば、彼はそんな色の小物を、よく持って居た気がする。瞳が青いせいか、あまり、その系統の衣装は着なかったが、その分、回りのものを、青や水色で固めていた。白も覆い。部屋の隅に置いてある、麻の敷物も、白に染めてあった。帯止めも、鮮やか水色の石を使っている。名ばかりの結婚をした当初に送って貰った帯も、水色だった。綺麗な、白地に青が染み出ている帯だ。全体的に見ると水色なのに、細かな箇所に、鮮やかな青が浮き出ていた。とても綺麗だったが、ユリアスの贈り物だと言うことだけで、嫌になって、箪笥の奥に詰め込んだものだ。あれは、まだ、ちゃんとあるのだろうかと思いながら、顔を上げると、侍女が折りよく、隣室から出てきた。
緑の髪の風の魔神は、きょとんとした顔をしながら、どうしたんですかと、首を傾げてきた。
「どこか、具合が悪いんですか、ティナ様?」
「いいえ。ちょっと、考え事をしていただけ」
小さく笑いながら、軽く首を振る。
侍女から着替えを受け取り、夜着を脱ぎ去る。白地の下着を付け、その上に、綺麗な水色の上着を羽織るだけだ。同色の紐で、襟が崩れないように留め、帯を付ける。大陸に居た頃は、人に手伝って貰うことも多くなったが、御館に来てからは、一人で着替えられるようになった。本当は、この後、ユリアスの部屋に戻って、彼の着替えの手伝いをするべきなのだろう。それが妻の仕事の一つだ。だが、それをしたことはない。彼の側に近寄ることさえ、頑なに拒絶してきたからだ。
今日の服は水色だから、それに合う髪止めでも付けようかと、鏡台の前に戻る。備え付けの引き出しをかき回し、青い糸が絡み付けてある、白い紐を見つけた。横髪の一部をすくい取り、その紐で縛った。鏡で、自分の姿を見直してみるが、そう悪くはない。そのことに満足しながら、もう一度、引き出しを覗き込んだ。奥に、そっと置いてあった、銀の崩れた腕輪を引っぱりだし、腕にはめる。
昔、恋人に貰った、腕輪だった。魔族の向けた熱線のせいで、焼け焦げ、溶けかけてしまったものだ。それを、愛おしむように填めたティナを、侍女がいぶかしむように見ていた。鏡ごしに、彼女の視線に気が付き、ティナは何かと言うように、小さく首を傾げた。
「どうしたの?」
「それ、ユリアス様からのものですか?」
ティナが脱いだ夜着を手早く畳みながら、侍女は不服だと言うように、口をとがらせた。
「それって、求婚のときに送る、腕輪ですよね。でも、なんか、形が変じゃないですか?」
そんなものを送るなんて、あんまりだと、侍女は眉を潜めた。ティナが振り返ってもまだ、むっつりとした顔をする。
彼女の言葉に、慌てて手を振りながら、ティナは違うのよと、訂正を入れた。
「これは、ユリアスからじゃないわ。あの人からじゃないの」
あの人は、私に腕輪を送ってくれていない。出かかった言葉を、慌てて飲み込みながら、ティナは小さく肩を落とした。
「これは、私が昔、大陸にいたころに……。恋人から貰ったのよ」
「恋人?」
ぱっと、伏せていた顔を上げながら、侍女がそう聞き返してくる。
「ティナ様、大陸にいたころ、恋人がいらっしゃったんですか?」
「……いたわ」
とても好きだったわと、小さくつぶやく。
右手首に填めた腕輪を、そっと押さえながら、ティナはふと顔を伏せた。膝の上で、溶けた腕輪をいじりながら、唇を噛む。
「その人は、死んでしまったけれどね。優しい、いい人だったわ」
「……ティナ様、その方のこと、お好きなんですか。まだ、好きなんですか?」
色恋沙汰の話を聞くのが好きなのだろうか。侍女は、ぐっと体を前へと傾けながら、まるで迫るように、ティナを見つめてきた。その黄色い瞳は、真剣そのものだ。好奇心と言うよりは、切羽詰まった思いを込めた目で、じっとこちらを睨み付けてくる。
侍女の思わぬ反応に戸惑いながら、ティナはふと言葉に詰まった。一瞬、頭が真っ白になった。侍女が向けてきた疑問に、どう答えるべきか窮したのだ。
「あ……。私は……」
今でも好きよと、すぐに答えようと思ったのだが、まるで喉が枯れたように、うまく、口が動かなかった。そればかりか、息をするのさえ、辛くなってくる。
喉を押さえながら、うつむいたティナを見て、侍女が小さく鼻を鳴らした。そうですよねと、まるで、判ったような口をきく。なぜ、そんなことを言うのかと思いながら、顔を上げると、侍女がふんわりと笑っているのが見えた。黄色の目を細めながら、侍女はまるでなだめるように、優しい笑みを浮かべていた。緑がかった黒髪が、ふわりと揺れる。風が、彼女の回りで小さく起こっていた。穏やかな顔をしながらも、彼女は興奮でもしているのだろうか。持って生まれた魔力が、ふわふわとこぼれ落ちていくのが見える。
「ティナ様、大丈夫ですよ」
ずりずりと、膝を寄せながら、侍女がそう言った。彼女は、ティナの肩を抱くと、まるで、そうすることが当然と言うように、体を無理矢理、引き起こした。耳元に口を寄せながら、くすくすと笑い、こそばゆい息を吹きかけてくる。
「ティナ様の、恋人でらした方、今もきっと、見守っていてくれてますよ」
「見守る?」
それは何と、ティナが問い返す。
侍女は、何を言っているんですかとばかりに笑いながら、ティナの肩をぐっと掴んできた。痛いほどの力で、押さえ付けてくる。その力に耐え兼ね、ティナが思わず身を崩すと、侍女はまた笑った。楽しくてならないと言うように、口元を歪めながら、大丈夫ですよと繰り返す。
「死んでも、本当に好きだったら、見守ってくれますよ。例え、風になろうとも、炎になろうとも。魔神ですからね、死んだ後は、もう、その属性に還っちゃいますけど。それでも、きっと、見守ってくれますよ」
ティナ様の恋人の属性は、なんだったんですかと、侍女が無邪気に聞いてくる。その、真直ぐな言葉に釣られて、ぽろりと、あの人は炎の魔神だったのと、答えていた。
魔神は死んだ後、その属性に還る。ティナならば、大地の覆う豊穰の力となり、ユリアスならば、空を覆うばかりの白い光へとなるだろう。恋人だった炎の魔神も、炭になるほどまで身を焼かれながらも、死んでしばらくした後、燃え上がるような炎になって消えてしまった。そういうものなのだ。あまりに強く魔力を持つがゆえに、魔神は、死体を残すことが出来ない。魔族や人のように、何かを残すことが出来ないのだ。愛する者がいても、死を悼ませることが出来ない。最後の別れを告げることは、許されないのだ。
ぼうっとした視線を彷徨わせるティナに、風の魔神は、恋人はそこにいらっしゃいますよと、囁いてきた。
「きっと、炎となっても、恋人であった方は、ティナ様の側にいてくれますよ。灯篭の火とかにいるかも。そこできっと、ティナ様を見守ってらっしゃいますよ」
「あの人が……?」
右手に付けた腕輪に触れながら、たどたどしい口調で聞き返す。
侍女は、それに当然とばかりに頷いた。当り前ですと、断言しながら、ころころと、高い笑い声を上げる。
「ティナ様も、その方のこと、今でもお好きなんでしょう。だったら、そんな、怖がることないですよ」
「……怖がる?」
「そう。例え、ユリアス様の妻になっちゃっても、それは、無理矢理なんですから。気にすることないですよ」
誰も気にしませんからと、侍女は意地悪く笑う。
「ティナ様が、その恋人だった方をお好きな限り、裏切りなんかには、なりません」
侍女は、背をのけ反らせて笑いながら、そのまま、床にふわりと倒れ込んだ。背中から、床に転がったのに、荒々しい音がしないのは、彼女の回りを、風が包み込んでいるからだろう。そう言えばと思い出しながら、ティナはぼうっと、笑い転げる侍女を見つめていた。彼女は確か、戦場にも出たことのある、力のある魔神だったはずだ。女の身で、戦場に出る以上、その能力は強大だったのだろう。ふと漏らした魔力で、風が巻き起こるほど、彼女は強い。
あの人もそうだったと、ティナは両手で顔を覆った。恋人だった炎の魔神も、ふとした拍子に、魔力をこぼすことがあった。大抵は、わざとだった。夕暮れ時などに、小さな赤い火を灯して、ティナを喜ばせてくれたのだ。夕闇の中、ゆらゆらと揺れる炎は、とても美しかった。温度によって、色を変える火は、大地の魔神であるティナから見れば、とても不思議なものだったのだ。
ユリアスの持って居る光も、美しく、そして、不可思議な存在だった。明り代わりに灯す輝きは、暖かく優しいのに、それは時に、他人数の魔神を焼き殺すほどに、狂暴なものへと変化する。ユリアスそのものだ。美しく、気高いのに、その本性は残酷で冷徹だった。腹心だったはずの長老も、邪魔をすると言うだけで、半死半生の目に合わせるような男だ。あれほど、酷薄な青年もいないだろう。彼ほど、冷徹に夢を勝ち取れる者もいまい。
そんなユリアスが、ふと見せる優しさは、溜まらなく甘いものだった。すがっていいのかと、一歩踏み出しても、弾かれない。冷たい人だから、少しでも頼れば、たちまち、叩かれるのかと思っていた。そう考えて、構えていてもなお、ユリアスは身を寄り添わせて、優しくしてくれた。つっぱねている間は、これ以上はないほどに酷い態度を取るのに、いったん助けを求めると、優しく受け止めてくれるのだ。
反則だと思った。そんな、底のない優しさを、求める時ばかり見せてくれるのは、卑怯だ。
溶けて形が歪んだ銀の腕輪を握り締めながら、ティナは泣いた。ぼろぼろと涙をこぼしながら、喘ぎ、両手で顔を覆う。
「貴方を。貴方を裏切りはしないから……」
悔いるように、言葉をかみしめながら、ティナはわっと泣き声を上げた。
侍女が、楽しげに笑っている。ティナのすぐ側で、その肩を抱きながら、彼女はうきうきとした調子で、笑い転げていた。
(update 2000/06/29)