オリジナル

■神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜■

−残酷な庭−6

作・三月さま


 

神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜

−残酷な庭−

 

 

 もし、こんな運命でなければ、もう少し幸せだったと思うんだ。

 

 明るい日の光に誘われるように庭へと足を踏み出すと、沢山の鳥がはばたく音が聞こえた。長の住居となっている棟の方からだ。その、騒々しい音に耳を澄ませながら、ティナは、小さく、ため息をついた。あぁ、ユリアスが居るのだなと思いながら、鳥の声のする方へと、庭伝いに歩き出す。

 ティナが、庭を区切る林へ踏み込もうとすると、後ろから、柔らかい声がかかった。ふっと振り返ると、縁側に、茶色い髪を持った女が立っていた。三日前から、奥方付きとして、この棟に控えるようになった侍女だった。あの、緑がかった黒髪の侍女の代わりの娘だ。

 あの犬が引き裂かれ、死んだ翌日、ティナ付きとして長く仕えてくれていた侍女が、御館を下がることになった。ユリアスの命令だったと言う。侍女達の噂話によれば、何が理由かは判らないが、彼の不況を買ったと言うことだった。それまで、あの侍女はとても良く接してくれていた。そんな娘を、急に訳の判らない理由で御館から遠ざけるのはどういうことかと、ユリアスに直接聞きもした。だが、その答えは酷くそっけないものだった。貴方には関係ない、と。いつもの酷薄な表情と、冷たい態度で、彼はそう言ったのだ。それきり、あの風の魔神の侍女に対する話は打ち切られている。

 彼女の代わりに、ティナ付きとして連れて来られた侍女は、中位の、気立てのいい娘だった。おっとりとしていて、失敗することも多いが、万事ゆっくりとした、優しい女性だ。元々、大陸の出身で、ティナも昔、何度か会ったことのある魔神でもあった。それほど強い力は持ってはいない光の魔神で、年齢もとても低い。今年で、ようやく、二百五十を過ぎるころだと言う。こんな、まだ少女としか言えないような、後ろ楯もしっかりしていない娘を御館に上がってきたと言うことがまた、不思議だ。この屋敷に仕える娘のほとんどが、上位魔神を親に持つ者ばかりなのだ。中位程度の力しか持たない女であっても、縁故に上位の、有力者がいる。この新しい侍女のように、大陸出身で、しかも、目立った血縁のない中級の魔神は、本当に珍しかった。御館でも、一人、二人と数えるほどしかいないはずだ。

 そんな頼りない立場の娘だから、ティナも気を配らなければならない。それ自体は、悪いことではなかった。最近、塞ぐことが多いので、そうやって、気を紛らわせるのは、逆に、精神的には楽なことだったのだ。侍女が、島の出身ではなく、大陸の生まれだと言うことも、嬉しかった。昔ながらの、友人に会えたように、心が軽くなった。昔を懐かしんで、ふと漏らす言葉に、侍女が同意してくれることも多く、そのたびに、ほっとした気分を感じるのだ。

 その侍女は、ティナがふらふらと庭に出たのを見て、慌てて外に出てきたようだった。手に、縫いかけの上着を持ち、もう片方の手にも針を握り締めている。そんな姿で、縁側に飛び出しながら、侍女は大きな声で、ティナ様と、名前を呼んできた。それに返事をしてやると、少女はあからさまにほっとしたように、大きくため息をついた。

「どちらに行かれるんですか?」

「……ユリアスのところよ」

 あまり、彼の名前は口にしたくなかったが、言わなければ言わないで、また、侍女が不安がるのが判っていたので、正直に答える。彼女が御館に上がった初日、ごまかすように、適当なことを言った後、それが嘘だとばれて、酷く泣かれたのだ。それ以来、ティナは彼女に、言い回しさえ出来ないようになってしまった。何事も、率直に受け止める少女なので、比喩なども使えない。まっすぐに、真実だけを言わなければ、理解してもらえないのだ。

 ティナの言葉に、侍女は、あらまぁと、顔を赤くしながら、とても嬉しそうに笑った。何がそんなに、喜ばしいのかと、答えたこっちが戸惑うほどの、ぱっとした笑みを浮かべている。

 茶色の髪の少女は、いってらっしゃいませと、ほがらかな声で言うと、また、そそくさと部屋に戻っていった。縫い物仕事が残っているのだろう。最後まで見送らず、さっと消えてしまうあたりが、子供っぽいと思うべきなのか。そそっかしいが、思わず微笑ましくなってしまう。

 長の住む棟と、こちらの庭を隔てる小さな林を抜け、明るい日差しの照っている場所へと出る。鬱蒼とした森に三方を囲まれた庭だ。ティナの棟が面している一角とは違い、手をかけた花壇や、木々が少ない所でもあった。全てが自然で、雑だ。そのくせ、ゆったりとした余裕が感じられる。ただ一箇所だけ、ユリアスの部屋に面した場所だけが、少しだけ開けていた。外に出て、軽く歩き回れる程度の広さだ。その小さな広場の中央に、ユリアスが立っているのが見えた。

 たくさんの白い鳥に囲まれ、羽に包まれている。白い雪のような綿毛が、いっぱい舞っていた。きらきらと、陽を受けて輝く様は、とても美しい。その夢のような光景の中、ユリアスがじっとこちらを見ている。冷たい目だ。青い氷のように、寒々としている。大きな白い鳥が地面から舞い上がり、ユリアスの背に止まった。雄々しいばかりの翼が広がり、彼の背を覆う。鳥が、首を擦り寄せて、ユリアスに甘えていた。その様は、まるで、白い肩当てをまとった翼を持つ青年が、静かにたたずんでいるようだ。鳥の大翼が、まるで、ユリアスの背にくっついているようにも見える。

 魔神であって、魔神でないように見えるその姿に、ティナは小さく喘いだ。空気を求めるように首を逸らせ、両手で顔を覆う。足からかくりと力が抜けて、地面に倒れ込みそうになった。その刹那、駆け寄ったユリアスが、腕を捕まえてくれた。ぐいっと、引っ張り上げられる。目を開けると、すぐそこに、彼の無表情な顔があった。青い瞳が、揺らぐこともなく、まっすぐにこちらを見ている。湖の底のような目の奥に、自分の姿が映っているのを見て、ティナは小さく目を見開いた。

「ユリアス……」

「どうした、目眩でもしたのか?」

 ティナを強引に立たせながら、彼はしごく冷たい声でそう言った。そのくせに、腕を掴む手は離そうとしない。少しでもよろけると、ユリアスがすぐに支えてくれた。そのことに安堵しながら、よろける足でなんとか立ち、落ち着いた頃にそっと、彼から身を離す。それを追うような真似を、ユリアスはしようとしなかった。ただ、勝手にいけばいいとばかりに手を離し、軽く、あざ笑ってくるだけだ。

 ユリアスの肩に止まっていた白い鳥が、ぱっと空に舞った。それに続くように、他の鳥も、近くの梢へと逃げてしまう。たくさんの翼が打ち合う音が響き渡り、それ以上の白い羽毛が舞い散った。あたりが真っ白になるほどに、鳥が一斉にはばたき、逃げていく。その様子を、ぼんやりと眺め、ティナは一つ、ため息を付いた。

「……私が来たから、逃げてしまったのね」

 ごめんなさいと、誰に言うでもなくつぶやくと、ユリアスが小さく笑い声を立てた。何かと、驚いて顔を上げると、名ばかりの夫である青年は口元に薄い弧を描きながら、右手を高く上げた。その腕に、今、飛び立ったばかりの白い大鳥が、ふんわりと着地した。ユリアスの手に、鈎爪をひっかけながら、翼をばたつかせ、うまく均衡を取る。鳥は、そのまま、彼の肩へと飛び跳ねると、そこでようやく、動きを止めた。低い、可愛らしい声を上げながら、ユリアスに甘え、首を彼の顎へとすり付ける。

「これは、貴方が気に入っているようだがな」

 彼がそう言いながら、ティナへと手を差し向けると、それを主の意向と取ったかのように、大鳥がふわりと羽を持ち上げた。ユリアスの腕を伝い、ひょこひょこと歩いてきたかと思うと、ぴょんと跳ね上がり、肩へと飛び移ってくる。

 ティナが、小さな悲鳴を上げ、身をいすくませたのにも構わず、大鳥は、そこが自分の居場所だとばかりに、肩にどっしりと体重をかけて止まった。時折、羽を持ち上げては、威嚇するような声を上げる。いったい、誰にすごんでいるのかと、顔を上げると、ユリアスの頭に一羽、同じ種類の、もう少し大きな鳥が止まっているのが見えた。こちらに移った隙に、お気に入りの場所を取られてしまったようだ。そのせいで、かっかとしているのだろう。ティアの肩に止まったまま、低い声で鳴きながら、鳥はしきりに羽をばたつかせる。その音はまるで、そこは自分場所だから、どけと、怒鳴っているようにも聞こえた。

 鳥の、あまりにおとなげない態度と暴れように、ティナが呆気に捕えていると、ユリアスが大きく笑った。楽しげに、顔を綻ばせ、少年のように笑っている。

 彼の見せた朗らかな雰囲気に誘われるように、また、たくさんの鳥が集まってきた。いや、鳥だけではない。向こうで遠慮しているが、森の小さな動物達も、そこの影から、こちらを伺っている。森の木々も、歌を紡いでいた。大地の魔神だけが聞ける、大地の歌だ。本来ならば、大地に属する魔神が歌い、耳を澄ませて始めて聞こえる音のはずだ。なのに、森は、ユリアスのために、無条件にその歌を献じていた。少しでも、自分達に関心を向けてくれないかと、必死な様子で、歌っている。だが、鳥と違い、彼等は光の魔神であるユリアスに対して、はっきりとした好意を提示できないでいた。それでいながらも、健気に歌い続ける森と大地が哀れで、ティナは思わず、森が求めている青年の袖を引いていた。

 ユリアスは、一瞬ぎょっとしたように目を向くと、何かというようにティナを睨み付けてきた。袖を引いた拍子に、鳥が逃げたのを怒っているのか、それとも、ティナが注意を呼びかけたこと自体が気に入らないのかは、判らない。ただ、不機嫌そうに顔をしかめたのが、妙に怖かった。

「あの……。森が……」

「森?」

「森が、貴方を呼んでるの。木も、草も、皆、この子達と同じように、貴方を求めてるわ」

 貴方は大地の魔神でもないのにと、ユリアスから視線を逸らしながら、小さくつぶやく。彼のことが恐ろしいながらも、かろうじて漏らした不服だった。それを、光の魔神は何を馬鹿なことをと、笑いとばす。

「それが、どうかしたか?」

「ユリアス……」

「私は、彼等に応えることは出来ない。この鳥に対しても、何もしてやれない。第一、こいつらは、私に何も求めていない。側に寄ってくるだけだ。見目麗しいものに、女が集まるようなものだ」

 だから、構う必要はないのだと、ユリアスは言い切った。迷いも哀れみもない断固とした口調で、小鳥や森が向けてくる愛情を、切り捨てている。

 ユリアスは、ティナの手を取って歩き出すと、そのまま、自室に面している縁側まで、足早に進んでいった。鳥達が、その後を健気に追う。森の木々も、動いていくユリアスに、それでもと、歌を送り続けていた。妙なる、綺麗な声で歌っている。ティナが求めても、これほどの森の合唱を聞けるのはまれだ。なのに、この光の魔神はそれを、無条件に受けているのだ。それが、妙に悔しく、そして、物悲しく思える。

 名ばかりの夫である人は、ティナを縁側に座らせると、自分もその横に腰を下ろした。小鳥を両肩に止まらせた、平和な姿でぼうっと森へと目を向け、小さく首を振る。

「私は、何も出来ない。森が歌っているのは、知っていたよ」

「……そうなの?」

「あぁ。この御館にだとて、大地の魔神はいる。森の声を聞く連中はいるのさ。第一、ウォウサが黙っていると思うか。あいつは、いつも私の側にいるからな。やかましいことこの上ない」

 膝を組み、その上に手を起きながら、光の魔神は軽く喉をのけ反らせた。鳥たぱっと、縁側や庭へと逃げていく。また、たくさんの羽毛が宙に舞った。空にある太陽から投げかけられる光が、それに僅かだが反射して、きらきらと輝いた。それを眩しそうに見つめながら、ユリアスは軽く金の髪を掻き上げた。

「私は、彼等に何もしてやれない。せいぜいが、構ってやるくらいだ。それ以上に、何を求めているのかは知らないが、結局、その願いをかなえてやることは出来ない。貴方が、彼等のように私に近寄ってきても、その願いをかなえてやることは出来ない」

 ユリアスは、手を上へと差し上げながら、指を大きく延ばし、視界から太陽を隠した。その影は、ティナの目からも、熱く優しい光を遮ってしまう。その影を退かそうと、ティナが手を差し伸べると、ユリアスは自分かすっと腕を引いた。そして、そのまま、青い冷たい瞳で、強く睨み付けてくる。

「どうして、ここに来た?」

 私の側には、滅多に寄ろうとしなかったのに。そう、ティナをあざ笑いながら、魔神の長である青年は、すっと目を細める。

 彼の、酷薄な横顔を見据えながら、ティナは小さく唇を噛んだ。

「私は、ここに来てはいけなかったんですか?」

「歓迎はするさ」

 表情一つ変えずに、ユリアスは白々しく言う。

「貴方は、美しいからな。側に置いておいて、悪い女じゃない」

「……私の利用価値は、子供を生ませるための女、と言うところではないの?」

 挑むように、言葉を突きつける。そうすると、ユリアスがすっと、横目で睨んでくる。冷たい迫力のある視線だった。この目で、今まで、どれだけの数の魔神と魔族をいすくませてきたのだろうか。気の弱いものなら、この目一つで失神してしまうことだろう。彼の態度と、薄い笑みには、実力に伴う深い自身と、残酷さが宿っている。それが、見る者を怯えさせるのだ。逆らえば、殺される。そう思わせるだけの、冷たさが、そこにあるのだ。

 縁側の床に置かれたユリアスの指先へと、そっと手を延ばす。固い、強ばった指に触れた。それは、酷く冷たかった。辺りの気温は暑く、日差しも差すような鋭さを持っているというのに、彼の手には暖かさというものがなかった。まるで、今まで冷たい水に漬けていたかのように、温度が感じられない。

 ティナの手を、ユリアスが握り返してきた。痛くない程度の強さで、指先を握り締めながら、すっと腕を上げる。彼は、持ち上げたティナの手の甲に口づけすると、水のように青い瞳を閉じた。鳥がまた、はばたく。羽の打ち合う音が、耳を叩く。

「貴方の価値は、その存在自体にある。親から受け継いだ血も、貴方自身が持つ力も、その顔も。全てが私には、魅力的だよ」

 血と言いながら、ティナの二の腕に触れ、力とつぶやきながら、手首を軽く握り締めてくる。

 ユリアスが、綺麗だと言う。顔に指を這わせながら、貴方は本当に美しいからなと、冗談めかしてつぶやいた。だが、ティナを見据えてくる目は冷たかった。褒めているからと言って、のぼせ上がるなと、戒めてくる。

 口では、綺麗だの、美しいだのと言いながらも、それは、彼の本心ではないのだろう。いくら、熱っぽい声でそう語っても、その瞳は水のように冷たく、澄んだままだ。

 昔、恋人だった炎の魔神が、愛していると囁いてくれた時のような、優しさと欲望は感じられなかった。ただ淡々と、接してくるだけだ。貴方が欲しいと渇望するような、狂おしい思いで求めてきている訳ではないのだ。結局、自分は親から受け継いだ存在価値だけで、彼に求められているのだと、思い知らされる。

 触れてくるユリアスの手から逃れようと、ふっと顔を背けた。そのあからさまに嫌がる態度が、彼を怒らせてしまったようだ。綺麗に整った顔が、目に見えて、むっと不機嫌になる。

 ティナの頬に手を押し当てながら、強引に自分の方を向くように力を込めてくる。それも嫌だと、身を逸らせると、両腕を掴まれた。ユリアスの、長い指が、肌に触れてくる。冷たさがどっと、そこから伝わってきた。それに驚いて顔を上げると、さらに暖かさの欠けた鋭い瞳が、すぐそこにあった。

 その目が怖くて、居すくむと、ユリアスがさも可笑しそうに笑った。視線を合わせただけで、怯えるティナを、あざ笑っているのだ。低く、喉を鳴らしながら、彼は満足げに目を細めた。ティナの黒髪に指を絡ませ、不意にその手を引く。その痛みに耐え兼ねて、小さく悲鳴を上げると、また、笑い声が聞こえてきた。哄笑ではない。彼はそこまで、残酷ではないし、意地悪でもない。ただ、耐え兼ねたように、細い笑みを浮かべている。それは、どこか、自嘲しているようにも見える表情だった。あるいは、自分自身を蔑んでいるのではないかと、思わず考えてしまうほどに、冷たく、悲しい顔だ。

 ユリアスの、細く固い指が、頬に触れてきた。節々が強張っているように見える手は、ざらざらとしていて、まるで、石の表面のようだ。頬から返ってくる感触は、微かな甘い痛みさえ伴っている。だが、気持ち悪いわけではなかった。彼が怖いと思うあまり、感覚が麻痺しているのかもしれない。嫌だとも思わなかった。もう少し優しくしてくれればいいのにと、そればかり祈っている。

 涙が一筋、頬を伝って落ちていった。喉が震え、嗚咽が漏れる。

 ティナの髪を掴みながら、ユリアスが噛みつくように口づけしてくる。反射的に逃げようとするが、その前に、背に腕を回された。手をつっぱねて、それを拒絶しても、逃げられない。手で頭を抑え付けられて、顔を背けることもできない。身動きすることさえ、許されなかった。羽をもがれた鳥のように、その場で、じたばたとするしかない。

 手はあれほど冷たかったくせに、ユリアスの唇は熱く濡れていた。ぐっと引き寄せてくる腕の力も、冷酷な質に合わず、荒々しかった。

 唇が一旦離れ、ユリアスが溜めていた息を吐き出す。まるで、走った後のように、激しい呼吸を繰り返しながら、また、耳元に、首筋にと、食いつくように口を押し当ててきた。強く吸いながら、赤い跡を残していく。ティナの動きを束縛していた手がゆっくりと下がり、宥めるように背を撫でていった。いっそ、乱暴に扱ってくれれば諦めもつくのにと、泣きながら、彼の肩に額を押し当てる。ユリアスの背中に手を回し、ぎゅっと抱きついた。彼の広い手が、頭を撫でる。存在価値の分だけ、優しくされているのだと思うと、また、泣けてきた。

 

 膝を立てて座っているすぐ横に、ティナが眠っている。彼女の是非も問わずに抱いたせいで、半ば服を着たままだ。向きだしの肩に、赤い印が一つついている。

 白い床の上にうつぶせの状態で、うとうとと寝入りかけている彼女の顔を見下ろしながら、ユリアスは疲れを感じさせる、重いため息をついた。

 側仕えの侍女を引き離してから三日、予想通り、ティナの心は不安定になっていた。水の長老が反逆した当初の、狂いかけの、危うい状態ではないが、正常な時から見れば、やはり、どこかおかしい。新しく付けた侍女の話によれば、人気のない部屋の隅で、鬱々と泣いている時もあるという。夜になっても明りを取るための火を付けることも許さない。光が嫌なのかと言えば、そうでもなく、赤い火さえ使わなければ、どんな明りでも、構わないらしかった。今も、この部屋には、ユリアスの灯した青い光がいくつも宙に浮かんでいるが、これに対し、彼女は何の不満も口にしなかった。

 やはり、あの風の魔神の娘を、引き離すべきではなかったかなと思う。だが、ティナを追い詰めたと言う事実がある以上、御館から追放するしかなかったのだ。長付きの侍女をけしかけ、花壇を荒させたのも彼女だ。ティナが、部屋に篭るころあいを計って、侍女を庭に引き込んだのが彼女だと言う証言も得ている。

 部屋が血だらけになるほどに、残酷に犬を引き裂いたのも彼女だった。死体と血の様子から、風の魔神の仕業だと言うことは判っていた。ティナは、血が巻き散らされた状態から、また、水の魔神がするように、体が破裂したとでも思っていたようだったが、それとはまた、状態が違っていた。切り裂かれるような傷跡は、上位の風の魔神が得意としている空気の刃でしかならない。血が飛び散ったのは、ただ単に、傷から噴き出してきただけだ。ティナが思ったように、破裂した訳ではない。

 精神的に幼く、残酷な娘だとは思っていた。女だてらに戦場に出て、同族を切り殺してきた女だ。どんなことでもやる。理念に叶えば、手を血で汚すことに、罪悪感を感じない気質なのだろう。そして、彼女にとって、ティナは仇同然の存在だったのだ。彼女の父親が、大陸の魔神に殺されている。その上、ティナは、あるいはと思われていた、正室の座まで奪ったのだ、憎くない訳がない。それを察せずに、彼女を奥方付きとしたのは、ユリアスの手落ちだった。ティナを守らせるための、最後の砦が欲しいからと、何も考えず、女の中から腕の立つ者を一人選んだのが悪かったのだろう。深くは考えなかった。ただ、ティナを身近で守れる娘がいればいいと、思っただけだったのだ。早く、守り手を探さなければと、焦らず、もう少し熟考すれば良かったのだ。

 あの風の魔神の娘を追い詰めたのも、ティナを再び恐慌に陥らせたのも、私のせいだ。

 両手で顔を覆いながら、低く笑う。

 すっと視線を落とすと、眠そうに目を瞬かせていたティナが、小さな寝息を立て始めていた。長い黒い睫が、細かく震えている。先ほどまで、熱に浮かされ赤くなっていた頬も、今はいつも通りの白く、さらりとした状態に戻っていた。目元が少し張れているのは、しきりに泣いていたせいだろう。ユリアスが求め、責めたてている間、彼女は涙をこぼしてばかりいた。大泣きすることはなかったが、思い出したように、ぽろぽろと泣く。濡れた瞳は、いつも通り遠くに向いていて、決して、目の前の現実を見ようとしなかった。ただの一度も、ユリアスを見ようとはしなかったのだ。

 頭をそっと撫でると、ティナは小さく身じろぎした。眠っている時ばかりは、そっと触れている限り、嫌がることはない。こうして、髪を撫で、愛しんでも、突き放すような目で見られることはなかった。泣かれることもない。それが、気楽でもあった。

 赤い、形のよい唇が少しだけ開いている。そのすぐ横に手が添えられるように置かれていた。長い睫を伏せて眠る姿は、清楚で可愛らしかった。触れる度に、小さく喘ぎ、悶えていた女とも思えない。もっとも、彼女にしても、自分のその恥態は不本意なものだろう。好き合った相手なばらまだしも、名ばかりの夫は、憎むべき仇のようなものなのだから。こうやって、寄りそうように眠ることさえ、厭わしいに違いない。本当ならば、囚人扱いでもいいから、村に小さな家でも貰って、一人暮らしたいところなのかもしれない。

 元大陸側の魔神達が、自分をどう見ているかを、ユリアスは熟知していた。戦が終わってから、随分と経つが、彼等は今だに、この島側の魔神の長を憎んでいるのだ。戦を早く、簡潔に終わらせるために、沢山の男達を殺してきた。目こぼしした者もいる。だが、大陸側の勢力をそぐためには、どうしても、沢山の死が必要だった。それこそ彼等がもう駄目だと思うまで、痛めつけなければならなかったのだ。それほどまでに、二つに割れた魔神達の間には、深い憎しみがあった。少しばかりの呼びかけでは、どうにもならないほどの確執が刻まれていたのだ。それを乗り越えて、再度、一族を纏め上げるには、どちらかが完全に屈服しなければならなかった。その上で、勝者が寛容になる必要があった。

 これが、理想論だということを、ユリアスは承知している。それでも、この理想を完遂するつもりだった。憎みたければ、憎めばいいさと思っている。そういう役柄でいいのだ。双方の魔神から、嫌われても、彼等を纏められればいいのだ。必要なのは結果だった。過程はいらない。不満を力でねじ伏せ、逆らう者を見殺しにしても、この魔神という一族だけは、守り通さねばならなかった。この血の誇りを、消すわけにはいかないのだ。

 憎まれることも、嫌われることも覚悟していた。一族を纏めるために、大陸側の、傑出した血が必要で、避けられることを覚悟で、ティナを娶ったのだ。彼女の子供ならば、きっと、魔神としての力も優れていることだろう。どちらの血を濃く引いても、不満分子をねじ伏せられるだけの力を持って生まれるに決まっている。自分の代で、全てが終わればいいが、長年培ってきた憎しみが、早々、消えるとも思わない。確執は、何代にも続くだろう。子供達にも、重荷を背負わせることになる。そのためにも、責任を全うし、苦しみに耐えられるだけの力が必要だった。次代の長になれるだけの力を持つ子を得る上でも、ティナは打ってつけだった。彼女ほど、その血に可能性を秘めた女はいない。

 それだけのはずだったのだ。こんなに思うつもりはなかった。突き放し、道具として見るつもりだったのだ。一挙一動に注目し、その行動に怯える目にあうなど、さらさら考えていなかった。

 見目麗しいだけの女ならば、いくらでもいる。少しでも綺麗ならば、即座に、親族が側室にと御館に上げてくるのだ。婚期ぎりぎりの、四百才か、遅くとも五百才まで、彼女達はこの屋敷に居続ける。その年代の娘達は皆、輝くばかりに美しかった。元々不老の一族だが、やはり、態度や行動に年齢が出るものだ。女としての機能を身に付けたばかりの娘は、皆、若々しい輝きと、良い匂いに包まれていた。生き物として、男を引き付けるように出来ているのだ。ユリアスも、ふと、誘い込まれるように、見つめてしまうことがある。

 それでも、ティナが側にいるときは、その女達も霞んで見えた。一際、美しいせいもあるだろうが、それ以上に、彼女は独特の雰囲気を持って居た。ふんわりとした、優しさとでもいうべきなのだろうか。触れれば、それだけで幸せになれるだろうなと思わせる、暖かさを持っているのだ。だが、それは決して、ユリアスが接することの出来ない、空気だった。

 ウォウサを始め、身近な者には、惜しげもなくその微笑みを向けるくせに、いざ、ユリアスが近づくと、彼女は表情を途端に強張らせる。最近は、その傾向が特に顕著になっている。冷たい態度を取るばかりか、まるで化け物でも近づいたように、びくびくと怯えるのだ。それに苛立って、つい荒々しい態度を取ってしまう。そうすると、彼女は泣くのだ。べそべそと。見ていてい苛々とするくらいだ。だが、怒る気にはなれない。突き放すことさえ、できなかった。ただ、彼女が泣いているのを見て、手を込まねいているだけだ。

 せめて、ウォウサのように、優しい言葉でもかけられればいいのだが、そうすれば、また、嫌な顔をされるのが落ちなのだ。

 望めば触れることも出来る。抱くこともできる。貴方との子供が必要なのだと告げたせいか、彼女は表面上は従順だった。嫌がるが、以前のように酷くはない。今日に限って言えば、あるいはと期待をしたくなるほど、おとなしかった。無気力だったわけではない。きちんとした反応を返してくれる。目をつむっていれば、愛し合っているという錯覚に陥ることさえできた。彼女の、うつろな瞳さえ見なければ、苦しまなくてもすみそうだった。

 それでも、責めたてると、彼女は喘ぎながら、知らない名を口にする。恋人だったとか言う、炎の魔神の名なのだろう。ユリアスにすがりつきながら、彼女はその名前を呼ぶのだ。必死に。嫌がるあまり、助けを求めるわけではない。まるで、自分を抱いてくれているのが、その男だとばかりに、愛しげに、名を叫ぶ。そして、ふっと気を散らすのだ。ぐったりとなりながら、視線を彷徨わせ、誰かを探す。その果てに、自分を抱いているのがユリアスだと気付き、また、ぼろぼろ泣くのだ。

 ふっと期待した挙句に、これだ。怒りどころか、絶望を感じて、いっそ殺してやろうかと思った。そんなに、その男が愛しいのなら、そいつがいる所に送ってやろうと、今日など、首に手をかけさえした。事の直後で、ぐったりとしているティナの首を軽く絞め、そして、やめた。

 馬鹿々々しいと思ったのだ。どうして、利用価値のある女を殺さなければならないのかと、自分に言い聞かせた。そして、そんな、言い訳がましい理由以上に、彼女を手放すのが嫌だった。何故、そんな男のいる所に、彼女を送り届けてやらなければならないのだ。生きて居る限り、彼女は自分のものなのだ。例え憎まれようとどうしようと、この手の内にあり続ける。それ以上が望めないからと言って、それ以下を求めるわけがない。これ以上、彼女の側から離れたくないのだ。

 始めて抱いた時にも、こんな最悪な気分だった。あの時も、彼女はユリアスの知らない男の名を呼んだ。

 こんなことなら、暗い部屋にでも閉じ篭って、盛りの付いた犬のように、自慰に耽っていた方がましだ。空しい気持ちには変わりないが、これほどまでに、怒り狂うこともないだろう。それでも、ティナが側にいると、触れずにはいられないのだ。嫌がられると、余計に側に引き寄せたくなる。お前は私のものなのだと、叫びたいほどだった。いっそ、この綺麗な肌に、短刀か何かで、名前を刻んでやろうかと、残酷な思いにさえかられる。

 眠っているティナを見ている内に、胸をつかれるような思いにかられて、彼女を上から抱きしめた。寝ているのを起こしてしまうのは判っていたが、それでも、我慢できなかった。うつぶせになっている細い体を起こし、強く抱きしめ、束縛する。そうすれば、自分のものになるとばかりに、強く抱きながら、熱に浮かされたような声で、何度も名前を呼んだ。

 その声で起きたのか。ティナがふっと目を開けた。ゆっくりと視線を巡らせ、ほうっと、甘いため息をつく。

「……ユリアス?」

 ティナは、寝ぼけているのか、ふわりと微笑むと、幸せそうに顔を綻ばせながら、ユリアスに抱きついてきた。細い腕が、首にからまってくる。柔らかく体を擦り寄せさえする。

「ティナ……」

 やはり、寝ぼけているのだなと思った。目が、とろんとしている。眠ったばかりで起こされたので、まだ、現実に戻れていないのだ。半分寝ている頭が目覚めれば、途端に、離れていくことだろう。蛆虫に触れたとでも言うように、忌々しげな顔をして、逃げていくに決まっている。

 ティナが、濡れた目でこちらを見上げてきた。渇望していた微笑みを浮かべている。

 また、殺してやろうかと、嫌な思いが心によぎった。今、ここで彼女を殺してしまえば、この微笑みを失うこともないだろうなと、考えたのだ。

「馬鹿だな……」

 自嘲するようにつぶやくと、ティナがひくんと、体を震わせた。ようやく、頭が覚醒してきたのか。とろんとしていた目が大きく見開かれ、その面に、言いようのない苦しげな表情が浮かぶ。

 彼女の体を解放して、床に戻してやりながら、くっと口元を歪ませる。どうせなら、無表情になりたいところだったが、そこまで、冷静にはなれなかった。引きつった表情で、ティナを見下ろしながら、彼女の頬をそっと撫でる。首筋に、手を延ばしかけて、それに気付き、慌てて腕を引いた。

 狂ったように、両手で髪を掻き乱しながら、彼女に背を向け、低く呻く。

 もう、近づくまい。これ以上、苦しめば、こっちがおかしくなってくる。

 今、離れれば、あの微笑みだけを心に刻んでおけると、ユリアスは自分を嘲るように笑った。ティナとは、もう接すまいと誓い、震える手で、顔を覆った。

 

 ユリアスと会わなくなって、何日目かなと、指を折って数える。一、二、三。中指まで曲げて、ティナはそっとため息をついた。すぐ側で、忙しそうに針を動かしている侍女を気づかいながら、両手で顔を覆った。

 今日で、三日目なのだ。ユリアスと、まったく会えなくなってから、もう、三日も経ってしまった。

 最後に会ったのは、無理矢理抱かれた夜だったか。始めてと思えるほど、激しく求められ、強く抱かれた。もっとも、ティナも、あれが二度目の夜だから、あれが、たまたまそういうものだったのか、それとも、ユリアスの本性だったのかまでは判らない。もし、彼がそういう質の青年なのだとしたら、それはそれで考えものだ。翌日、節々まで痛むような抱き方はやめてほしい。体がもたない。

 ふと、そこまで考えて、ティナは目に見えて顔をぼっと赤くさせた。両手で、頬を抑えながら、わななき、ぱっと顔を伏せる。

 自分でも、顔に血が上っているのが良く判った。嫌だわと、自分を責めるように独り言を口にすると、すぐ横に座っていた侍女が、何ですかとばかりに、驚いたような顔になった。針仕事を、咎められたのかと思ったらしい。彼女に、慌てて曖昧な弁解をしながら、ティナは誤魔化すような笑みを浮かべ、慌てて立ち上がった。熱い顔に、ぱたぱたと手で風を送りながら、慌てて縁側の方に走っていく。

 昨日の朝方から、ずっと、激しい雨が降り続いているせいか、外は初夏だと言うのに気温がぐっと低く、すごしやすいものだった。幸運なことに、今はその雨も小休止とばかりにぽつりとも降らず、しっとりとした湿気と森の匂いが、辺りを覆って居るだけだ。縁側も、じっとりと濡れているが、立っている分には不都合はない。部屋との境は、雨戸を閉めていたせいで濡れていないので、そこに座ってしまえば、十分、外の空気を吸うことが出来た。

 あまり行儀のいい事ではないなと思いながら、部屋側に腰を下ろし、濡れている縁側に素足をつける。急造りの小さな水たまりが指先に触れ、ひんやりとした感触が返ってきた。熱っぽい体には、とても気持ちが良い。雨のお陰で冷えた空気が頬に当たるのも、とても心地よかった。火照った赤い頬が、ふっと元に戻ったような気がする。だが、いまだ顔は赤いままだろう。とてもではないが、後ろで心配している侍女に振り返れるものではない。

「何を考えてるのかしらね、私……」

 馬鹿だわと、自分を笑いながら、そっと頬を抑える。

 屋根から落ちてきた水の滴が、ぽたんと、庭にある水たまりへと落ちた。空を厚い雲が覆って居るため、陽の光を受けてきらきらと輝くこともない。寂しいものだった。ティナも、雨上がりの風景は好きだが、いまだ、曇ったままの空を見上げるのは嫌いだった。どうしても、昔あった惨劇を思い出してしまう。昨日、今日の雨はまだ、我慢できたのだが、これでまた振り出されると、鬱々としてしまいそうだった。あまり塞ぐと、侍女や回りの魔神達が心配するので、どうにか我慢しているのだ。どうか、これ以上降らないでくれと、空に祈るしかない。

 これでまだ、ユリアスが側にいてくれれば、堪えられるのかもしれないと思う。そして、その考えをあざ笑う。

 何時の間にか、名ばかりの夫である彼を頼るような気持ちができ上がってしまったらしい。ふと不安になればさえ、彼のことを考えている。雨が降っては、自分の様子を見に来てくれるのではないかと期待し、食事時になればさえ、もうすぐ会えるのだなと嬉しがっている。これはもう、頼る、頼らないどころではない。彼の側に居たがっているようなものだ。会えばさえ、その冷たい瞳を見て怖がるだけなのに、側に居られないとそわそわしているのだ。浅はかな小娘のようで嫌になってくる。

 婚姻してからずっと、名ばかりとは言え、妻としてそれなりの扱いを受けてきたと言うのに、ここ三日ほど、まるで無視されているのが、応えているのかもしれない。あの夜からずっと、ユリアスに避けられているようだ。どんな忙しい時でも、食事は共にすることが出来たのだが、ここ数日、それもなくなってしまった。

 急な用事があるから、抜けられないからの一言で、彼はティナと食事を共にすることを拒絶する。ならば、待っていようかと、食べずにいても、彼は来ないのだ。いつもの時間から、一刻すぎても、御館に戻らない。

 昨日など、そのまま、夕飯時になってしまったほどだ。それだけ待って、来なかったのならば、どこで何を食べたのかと侍女に問うが、その答えも曖昧だった。だが、それで大体、察することは出来た。たぶん、御館のどこかで、一人で済ませたのだろう。侍女はそれを知っている。だが、ティナが彼を待っていたのを知っているから、言わないのだ。彼女達も非情ではないから、ユリアスが貴方を避けていると、あざ笑うことはない。それなりに、優しい女達なのだ。この御館の主人などよりも、彼等はずっと情が細かい。

 とうとう嫌になられたかと、ティナは困ったように笑った。

 元々、名ばかりの妻だったのだから、愛情を与えてもらえるとは思っていなかった。そんなものは、いらないとさえ考えていたのだから。今さら、そのことを悲しむ権利はないはずだ。

 だが、名目であると同時に、必要然として妻となった身の上なのだから、少しは権利があると思ってもいいはずだ。ユリアスの言う通りならば、彼はティナの血と立場を求めているのだから。大陸出身の魔神達が健在であり、彼等が反乱分子になりえる以上、ティナは彼等の歯止めとして必要なはずなのだ。そして、次世代にまで問題を持ち込まないためにも、彼は大陸側の血を求めている。双方の魔神を支配する子供の母を、彼は欲しているのだから。

 その必要性が消えない以上、ティナがぞんざいに扱われることはないのだ。最低の権利は、守られるはずだ。少なくとも、子を生むまでは彼に守られ、求められるはずだった。こんなふうに、そっけなくされる理由はない。

 膝を抱え、爪先を小さな水たまりに浸しながら、ティナはつまらさなそうな顔になった。顎を膝の上に乗せて、庭を睨みつけながら、ぱしゃんと、水を蹴り上げる。

 手首にひっかかっていた腕輪が、しゃりんと音を立てた。まるで、慰めてくれるかのように、鈍く輝いている。いや、責めていると言うべきなのか。どちらとも取れる、その姿に、ティナは儚い笑みを浮かべた。解けかけて、形のおかしくなってしまった腕輪を、指先でそっと撫でながら、大丈夫よと小さくつぶやく。

「貴方を裏切りはしないわ。絶対に」

 自分に言い聞かせるように囁き、きゅっと顔をしかめる。

 詭弁だと思ったのだ。昔の恋人に対して向けるこの言葉が、嘘っぱちであることを、ティナは深く理解していた。

 裏切らないなどと、よく言えるなと、心の中で自分を蔑んだ。とうに、裏切っているのだ。ユリアスを求め、彼の姿を探している時点で、十分、あの愛した人に対する反逆になるのだから。

 彼を殺したのは、魔族だ。その憎い仇を討ち取ってくれたのは、ユリアスだった。それでも、彼が大陸の魔神を敗北に追いやったことには変わりない。ティナを慕ってくれていた者達や、恋人だった炎の魔神の家族を追い詰めたのは、彼だ。あの光の魔神が、敵であったことには変わりない。そんな青年にどんな理由があろうとも、ひかれていいはずがなかった。

 憎むべきなのだ。利害の一致があって、手を組むまでは許されただろう。だが、彼を思って、泣いていいはずがなかった。彼の姿が見えないからと言って、落ち込んではならなかったのだ。

 こうやって、ユリアスに突き放されるのも、結果的には良いことだったのかもしれないと思った。大陸側の魔神達のために、立場を確立する上では、不利な状況だったが、恋人に汚れた操を立てる上では、好都合だった。

 それでも、目はあの金の髪を探し、耳はどこかで彼の声が聞けないものかと、常に側だっている。

「本当に、馬鹿だわ」

 胸の前で、手をきゅっと握り締めながら、ティナは立ち上がった。水の溜まる縁側を歩くよりはと、部屋に戻って、廊下に続く戸の方へと歩きながら、その途中で、針仕事にいそしんでいる侍女の顔を覗き込む。

「ちょっと、いってきます」

「はい、どちらに?」

 縫い物の手を止めながら、侍女が可愛らしく聞いてくる。一応、女主人の居場所を把握しておかねばと、思っているのだろう。日中は、ウォウサなどが尋ねてくる時もあり、その場合、ティナがどこにいるかと、さっと答えられなければ、責められることもあるらしい。

 ティナは、侍女に無理に浮かべた笑みを向けながら、ユリアスの所と、弱々しく答えた。

「話があるから。行ってくるわね。たぶん、すぐに戻るわ」

「はい」

 いってらっしゃいませと、侍女は無邪気に言う。

 彼女に小さく手を振りながら、ティナは一つ深呼吸をし、廊下へと踏み出した。

 

 ユリアスの部屋に向かう途中、雨が振り出してきたのか、しとしとと、水滴が御館の屋根を打つ音が聞こえてきた。静かで、優しい音だ。だが、同時に、雨の匂いと音は、ティナに忌々しい記憶を思い出させる。

 廊下をゆっくりと歩きながら、ティナは両手を胸に押し当てた。どきどきと、心臓が高鳴っているのが判る。怖いのだ。あの、水の音がとても怖い。雨雲が空を覆っただけでも、身が震えてくることさえある。今日はまだ、落ち着いていられるようだったが、それでも、雨が振り始めたなと思うと、背筋がぞっとしてきた。

 あの日、森に遊びにいったまま帰らなくなった子供達を探しに行ったところで、水の長老の裏切りを目撃してしまった。あの男は、容赦なく子供達を殺したのだ。水の魔神としての能力を使って、いまだ戦う術も、身を守る手段も知らない子供を、次々に破裂させた。体の内側から、水を繰って爆発させたのだ。赤い血が飛び散り、肉片がぽちゃりと、水たまりに落ちていった。あの一瞬の光景が、忘れられない。

 あの惨劇があった日から、長く、伏せっていたらしいが、ティナはそのことを覚えていない。あのころの記憶は、どうも曖昧なのだ。晴れ渡った空を見た覚えはある。弟のウォウサが、心配そうな顔をして、床の横に座っていてくれたのも知っている。だが、ぼうっと正気のないままに、すごしていたのがどれほどの年月なのかは、定かではなかった。ただ、ふと気が付くと、ユリアスは成人していて、自分も、体のかしこから、子供っぽさが抜けていた。大陸に居たころの自分が、ごっそり、この身から抜け出てしまったのではないかと、一瞬思った程の変貌だった。

 子供っぽさの残る独裁者から、思慮のある支配者へと変わったユリアスは、思わず見入ってしまうほどに、懍とした美しさを持つようになっていた。以前はまだ、幼さが感じられるゆえの生意気さと、不安定さが感じられた。それが、成人後には、まったく見られなくなったのだ。ティナが、正気でない間にゆっくりと、成長したからだろう。だが、その間の記憶がない側にしてみれば、彼の変貌は突然だった。あまりにも急に、彼は成長し、大きくなってしまった。肉体的にも、以前にもまして逞しくなり、精神的にも、ティナが圧倒されるほどの威厳を持つようになっていた。

 年下だ、子供だと思っていたユリアスが、目を閉じ、開けた瞬間に、大人になってしまった。そんな感じさえする。今ではもう、どちらが年下なのかさえ、判らないほどだ。ともすれば、おたおたとしがちなティナの方が、頼りなく見られがちだ。そして、そんな彼女を、ユリアスは笑わない。冷ややかに見下ろすことはある。小馬鹿にした嘲笑を浮かべることもあった。だが、不思議と、他人に言われて気になる点については、彼は見下さなかった。それどころか、庇うような素振りさえ、見せたほどだ。そういう優しさが、ティナにとっては恨めしい。

 そんな風に、不意に見せる、気紛れのような優しささえなければ、ユリアスを今のように思うこともなかったはずだ。側にいて欲しいと願うことも、ないはずだったのだ。恋人であった炎の魔神への義理立てに苦しむこともなく、凛としてられたはずだった。

 ティナは、ふと足を止めると、支えを求めるように壁に手をついた。そのまま、よろりと肩を支柱となっている木に押し当て、低いため息をつく。

「気持ち悪い……」

 胸が、むかむかとした。吐き気と言うほどではないが、何か、熱くもやもやするものが、腹の辺りに溜まっているような感じだ。

 両手で胸を抑えながら、ティナは顔を伏せ、眉を潜めた。そのまま、床に座り込みそうになるのを必死の耐えながら、壁に頭を擦りつけ、小さく呻く。

 水の長老の裏切りがあった直後も、こんな、気持ち悪さを何度も感じた。雨が降ってくると、どうにも、気持ちが落ち着かなくなるのだ。子供が死ぬ場面も、何度も夢に見た。そして、ふと耳を澄ませると、雨の音が聞こえてきたりするのだ。そうすると、胸がぐっと辛くなる。何か、暗く熱いものが溜まり込んでいるように、むかむかしてくる。それが酷くなると、夕食に食べたものなどを、吐いてしまった。胃の中に何もなくなると、次ぎにすえた匂いのする黄色い液を吐き出す。そうやって、苦しんでいると、ばたばたと酷く慌てた様子で、ユリアスが飛んできてくれるのだ。そう、彼はいつも、来てくれた。

 ティナは、壁に寄りかかりながら、頭を抑え、小さく首を傾げた。こんな記憶、覚えがないなと思いながら、ふっと目を閉じる。

 夜、どうにも苦しくて悶えていると、いつもユリアスが来てくれた。これは、正気でなかった頃の記憶だろうか。どうして、こんなことを、今になって思い出すのかと、ティナはぼうっとした頭で考えた。そして、その答えを得ると同時に、彼女は小さく笑った。口元に可愛らしい笑みを浮かべながら、喉を鳴らす。

 正気でないから、おかしかった頃の記憶を、ふっと思い出すのだ。そう考えると、頭が余計におかしくなってきた気がして、ころころと笑ってしまった。

 もやもやと熱く感じられる胸を抑えながら、ティナは頼りない足取りで、一歩前へと踏み出した。ユリアスの居室まで、あと少しだ。遠いように見えて、長と正室の住んでいる棟は近い。元々、長が夜通えるようにと、隣接されていたのだ。遠くていいはずがない。こんなに近いからこそ、ユリアスも、異変を聞きつけて、すぐに来てくれたのだ。今も、こんな短い距離だからこそ、苦しくても歩いていける。

 壁を伝いながら、進んでいくと、すぐに、ユリアスの部屋が見えた。今の時間帯ならば、ここにいる確立が高い。雨が降っているから、外に出ているということもないだろう。御館の違う広間で、長老達と話し込んでいる可能性もあったが、部屋で待っていればいずれ会えるだろうと思った。何刻でも待っていいから、彼ともう一度、話がしたかった。

 部屋の戸に手をかける。その前に、来訪を伝えるために、軽く叩いて音を立てた方がいいかなとも思ったが、そうすると、まぁ、いいかと思った。来たぞと知らせると、また、何だかんだと理由をつけられて、避けられるような気がしたのだ。そうやって、逃げられる前に、ユリアスを捕まえなければならなかった。彼がどこかに行ってしまう前に、その袖を捕まえ、避けないでと伝えなければいけない。雨が止むまででいいから、側にいてくれと、言わなければならない。

 そっと戸を開けると、ぼそぼそとした、湿った話し声が聞こえてきた。ユリアスともう一人、侍女の声だった。長付きとして仕えている、あの赤い髪の娘だろう。少し怒りっぽいが、その本質は優しく、気立てのいい娘だった。あまり仲の良い間柄とは言えなかったが、最近はそれなりに、話しを出来るようにもなってきた。ユリアスに避け続けられ、落ち込んでいるので、同情されたのだろう。そうやって、心を寄せてしまった相手に冷たくできるほど、彼女は非情ではないのだ。

 戸をもう少し開けると、部屋の中に一つ、小さな明りがついているのが見えた。灯篭の赤い火だ。あの色と、ゆらゆらと揺れる具合が、どうにも気に入らなかった。怖いのだ。炎が揺れるたびに、部屋のすみにある影もゆれる。それが、時々、子供に見えてしまうのだ。頭がぱしっと弾けた子の姿に、あの揺れる影は良く似ている。

 ひゅっと、小さく息を飲み込みながら、ティナは戸口に寄りかかった。がたりと、物音が鳴る。それを咎めて、部屋の暗い場所から、ユリアスの冷たい声がかかってきた。誰だと、厳しく叱責する。その声がした方へと、視線を向け、ティナは大きく目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。

 ユリアスが、床に手を付いてうつむいているのが見えた。肩がはだけている。頼りない灯篭の明りに照らされるその顔は、汗で濡れていて、どこか疲れているようにも見えた。顎の辺りに、こすりつけたような紅がある。反らされた喉元が、妙に色っぽく見えた。剥きだしの腕に、白い衣が絡まっていた。床にも、女の物と思われる服が、散乱している。ユリアスが屈むその下に、誰かがいた。赤い髪が、ふんわりと広がっている。女の、甘い息づかいが聞こえた。聞き慣れた侍女の声が、誰と、つぶやく。あの赤い炎の魔神の娘が、ほとんど全裸といった姿で、しどけなく、身を起こすのを、ティナは呆然と見ていた。

「……ユリアス?」

 喉が火傷したように引きつるのを堪えながら、ティナはしぼり出すような声で、そう呼びかけた。それに、ユリアスがびくりと体を震わせる。

 彼は、信じられないと言った表情でティナを見据えながら、あっと小さく口を開いた。手元にあった服を引き寄せながら慌てて飛び起き、ユリアスは呆然とこちらへと目をむけた。彼が、ティナなのかとつぶやきながら、さらに何か言おうとするのを、高い悲鳴が遮る。ティナが上げた絶叫だった。声も限りに、叫びながら、両手で頭を抑えた。嫌々をするように、首を振りながら、一歩、二歩と下がる。

 目から沢山の涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちていった。何とか、それを堪えようとするが、邪魔するように、嗚咽がぐっと喉をせり上がってくる。何度もしゃくりを上げながら、口を手で抑え、低く呻く。そうやって、懸命に泣くのを我慢していると、不意に、視界が暗くなった。何かと思って顔を上げると、着崩れた服装のまま、顔を真っ赤にさせたユリアスが、すぐそこに立っていた。まるで、怒ったような顔をしながらティナを見下ろし、どうして来たんだと、頭をかき乱しながら叫んだ。

「ティナ、何をしに来たんだ!」

「私……。私、ユリアスに会いに来たのよ」

 喉がおかしかった。普通に喋ろうとしているのだが、どうしても、声が震えてしまう。それどころか、ユリアスに向ける言葉は、どこまでもかすれていて、酷く聞き取りにくいものだった。喉の前と後ろが張り付いて、剥がれなくなっているのではなと、考えてしまうほどだ。もっと、何か言わなければと思い、口を開くが、そこから漏れてくるのは、空気を求めるような、喘ぎ声ばかりだった。それがもどかしくて、まぶたをぎゅっと閉じると、また、涙が沢山こぼれてきて止まらなかった。

 ティナは、短い呼吸を繰り返し、爪で胸を掻きながら、そっとユリアスを見上げた。彼は相変わらず、真っ赤な顔で、ティナを睨み付けてくる。悔しげに目元を引きつらせながら、細かく肩を震わせていた。そっと視線を落とすと、握り締めた拳が見えた。力を込め過ぎているのだろう。指の辺りが真っ赤になり、手の甲がいつもより、筋張って見える。

「私……。大丈夫よ」

 自分に言い聞かせているのか、それとも、ユリアスに訴えかけているのかも判らぬままに、ティナは小さく笑った。涙をぼろぼろこぼしたまま、にっこりと微笑み、もう一度、大丈夫よと、つぶやく。

「大丈夫、私は平気よ。元々、こうなるかなとは思っていたから。大丈夫、気にしないわ」

 服の襟をぎゅっとつかみ、胸をかきむしりながら、ティナは何度も、同じ言葉を繰り返した。顔を上げ、ユリアスの青い目を見返しながら、一歩、後ろに下がる。

「でもね、駄目よ。やっぱり駄目」

「ティナ……?」

 ユリアスが、一歩、前へと踏み出してくる。歩幅が広いため、二人の間がぐっと詰まった。その距離を埋めるように、ティナはさらに、三歩、四歩と、よろけるような足取りで下がっていく。

「ユリアス、駄目よ。貴方、駄目だわ。だって、そうでしょう。貴方、言ったじゃない。子供がいるからって。私の子供がいないと、駄目なんでしょう?」

「……そうだ」

 当り前だとばかりに、ユリアスがゆっくりとした動作で頷く。

「私には、貴方との子が必要だ。貴方が、必要なんだ」

「だったら、駄目よ。貴方、おかしいわ。私が子供を生んでも、その前に、貴方の子が他にいたら、貴方の言う通りにはならないわ。一人でも、島の娘の子がいたら、その子がきっと後押しされる。次ぎの長になるわ」

「その通りだ。貴方の見方は正しい」

 ユリアスが手を差し伸べてくる。雨の日に、よく見た表情だ。宥めるような顔をして、彼はこっちに来いと言う。ティナが、雨の音が怖くて部屋の隅で震えている度に、彼はこうやって、手を差し伸べてくれたものだった。こっちにおいでと、泣きそうな顔で、それでも懸命に笑みを浮かべて、腕を広げる。それに、おずおずとすがると、もう大丈夫だからと、抱きしめてくれるのだ。あの暖かさと優しさが、好きだった。

「島の娘が、側室になったら、その人が事実上の正妻になるわ。私が形ばかりの妻だなんて、皆、知っているもの。私も、私の子も、ないがしろにされるわ」

「ティナ……。そんなことにはならない。私は、側室は取らない。妻は貴方だけだ」

 言い聞かせるように、ゆっくりとした口調で、彼は囁きかけてくる。

 その言葉を、ティナは悲鳴のような叫び声でかき消した。嘘つきと叫びながら、両耳を手で覆い、闇雲に廊下を駆け出す。

 ティナが走り出すと同時に、ユリアスもだっと廊下を蹴っていた。彼の広い手が、ティナの腕を掴む。ぐいっと、引っぱりながら、彼は青ざめた顔で、ティナを覗き込んできた。頼むから、話を聞いてくれと言う。何も聞きたくないと首を振ると、彼は泣きそうな声で、名前を呼んできた。語尾が震えている。それさえも腹立たしくて、ティナは乱暴に手を振り回した。その指先が、ユリアスの頬を叩く。思ったよりも、高い音が鳴った。それに驚いたように、ユリアスがふっと腕から力を抜く。その合間に、ティナはぱっと身を翻し、彼の束縛から逃れた。壁に背を押し付け、肩で息をしながら、噛みつくように、名ばかりの夫を睨み付ける。

「嘘つき!」

「ティナ……!」

「私だけだと言うのならば、さっきのはいったい何なの。どうして、他の女に触れるのよ。どうして、どうして、どうして……!!」

 喚き散らしながら、ティナは廊下を走った。ユリアスが、慌てて後を追うのを感じたが、それを、罵倒して押しとどめようとした。嘘つきと泣き叫ぶと、僅かだが、彼の足が遅くなった。彼の手が、肩に触れたが、それを、汚い手で触らないでと罵倒して、弾いた。

 何が汚いのか、何が嘘なのかも判らないままに、ティナは泣いた。自室のある棟に戻り、部屋へ飛び込み、ユリアスの鼻先で、戸をぴしゃりと閉じた。どんどんと、戸が叩かれる。一つ木の板を隔てた向こうで、名ばかりの夫だと思わなければならない人が、叫んでいるのが聞こえた。ティナと、名前を呼ぶ。それだけで、また、涙がこぼれてきた。開けてくれと言う彼の言葉を無視して、戸口に棒を落とした。夜、一応の用心のためと用意されているものだ。よほど、戸を蹴破らない限り、もう部屋には入れまい。

 庭に面した部屋に飛び込むと、侍女がぽかんとした顔で、座っていた。足元に、水色の衣装が広がっている。今度、夏の始まりに小さな宴を一つ、開くはずだった。その時に着ようと思っていた服だ。まさか、虫が食っていないだろうなと思い、今朝、侍女にその不安をぽつりと漏らした。それを気にして、ティナがいないうちにと、確認していてくれたのだろう。もし、小さな穴でも開いていれば、密かに直しておいてくれる気だったのか。侍女の座っている脇には、小さな木の針箱まで置いてあった。

「ティナ様!?」

 どうしたんですかとばかりに、侍女はわっと驚いたように顔を強ばらせ、慌てて立ち上がった。女主人を宥めようと近寄ってくる彼女の腕を振りほどき、ティナはそのまま、床にへたり込んだ。両手で顔を覆ったまま、わっと泣き出す。

 閉じた雨戸の向こうから、雨が滴る音が聞こえた。ぱたぱたと、水が地面を叩いている。森の木々の葉に弾け、散っていく。

 ティナは、涙に濡れた顔のまま、きょろきょろと辺りを見回した。もう、駄目だと思ったのだ。何が、駄目なのかまでは、判らなかった。ただ、漠然と、心の中に、もうここには居られないのだと言う思いが、沸き上がってきた。

 力が抜けたように、腕をずるりと落とす。そうすると、右手に填めていた銀の腕輪が、床に当たって鈍い音を立てた。ごとりと、まるで、木が岩に擦れた音がする。

 銀の腕輪のある右手首を持ち上げながら、ティナは目を瞬いた。背後では、ユリアスが飽くこともなく、戸を叩き続けている。気のせいか、その音が、次第に大きくなってきているように聞こえた。焦れているのか、怒っているのか。戸を殴り倒さんばかりの力で、叩き続けているのだろう。ティナと名前を呼び続ける声も、次第に、絶叫に変わっていった。

「私が悪いんだわ……」

 腕輪を握り締めながら、小さく呻くと、ユリアスの怒鳴り声にはらはらとしていた侍女が、えっと首を傾げた。

「ティナ様?」

「私がいけないのよ。あの人を裏切ったから、こういう目にあったんだわ。あの人は、私のことを見ていたのよ。私が、ユリアスなんかを好きになるから、怒ったんだわ。だから、こうなったのよ。全部、私が悪いんだわ」

「ティナ様、何を言ってらっしゃるんですか!?」

「あぁ、ユリアス、ユリアス……!」

 侍女が、大丈夫ですかと言いながら、肩をゆさぶってくる。その優しい手を、煩いとばかりに弾きながら、ティナはよろめく足で立ち上がった。きっちりと閉められている雨戸に手をかけ、一気に横に開く。ばしゃばしゃと、激しく降りつけてくる雨の中、庭へと降り立ち、大きく頭を振った。

 縁側へ遅れて飛び出してきた侍女が、悲鳴のような声で、中に戻って下さいと言う。風邪をひきますから、早く中にお入り下さいと、優しく言ってくれた。彼女に振り返り、泣き笑いしながら、ティナは駄目なのとつぶやいた。私はもう駄目なのと、胸の前で手を組みながら、弱々しく微笑む。

「私、もう駄目なのよ。もう、耐えられない」

「ティナ様……?」

「ユリアスには、もう、私は必要ないの。きっと、もういらないんだわ。考えが変わったのよ。私の血など、もう利用価値もないんでしょう」

「ティナ様!」

 そんなこと、おっしゃらないで下さいと、侍女が叫ぶ。

 彼女の後ろにある、向こうの部屋の戸が、また、強く叩かれた。ユリアスが、頼むから開けてくれと、叫んでいる。そんなに入りたいのなら、戸を壊してでも、乗り込んでくればいいのにと、ティナは薄く笑った。ユリアスの力ならば、あんな薄い戸など、一蹴りだろう。なぜ、無理矢理にでも入ってこないのだろうと思いながら、ティナはふらふらと、森の方へと歩いていった。御館を囲むように広がる、鬱蒼とした森へと踏み出し、顔をごしごしと、手で擦った。

 ユリアスが、無理にでも部屋に入って来ないのは、それだけ、私に価値がないからなのだ。そう思うと、胸がまた、ぐっと狭まるように気持ち悪くなった。今にも吐きそうだ。それを堪えながら、森の中を歩くと、侍女が待って下さいと、駆けてきた。ティナを捕まえようと、手を延ばしてくる。それから逃れるように、走り出すと、彼女もまた、ばたばたと後を追ってきた。足は遅くない。だが、雨に濡れた衣装が思いせいだろう。身軽なティナよりも、動きが鈍かった。その隙にと、ぱっと走り出す。

 どこでもいいから、逃げたかった。ユリアスの来られない場所に、行きたかった。

 

 戸を殴り壊さんばかりの勢いで叩き続けながら、ユリアスは声も限りにティナの名前を呼び続けた。頼むから、開けてくれと請い続ける。だが、部屋の中から答えは返ってこない。ならばと、試しに戸を引いてみるが、何かにごとりと当たり、少しも動かすことが出来なかった。夜、不埒な者が入ってこないようにと、戸を閉ざすための棒を置いているのだろう。その遮りを無視して、目の前にある板戸を蹴破ることもできた。だが、戸を叩く以上に無法なことが出来ない。

 固く閉ざされた戸が、まるで、ティナの今の心情のように思えてならないのだ。嘘つきと叫びながら、泣いて走っていった彼女の後ろ姿がちらついてならない。捕まえようと思えば、いくらでも、あの細腕を掴むことが出来ただろう。彼女は、ユリアスのすぐ目の前を走って逃げたのだから。捕まえて、腕に抱きしめて、無理矢理にでも言うことを聞かせればよかったのだ。そうできなかったのは、彼女が泣いていたからだ。あんなに愕然とした表情をして、悲鳴のような声を上げたせいだ。あの泣き声のせいで、もう一歩、踏み出すことが出来なかった。

 戸を叩き続けることに疲れたと言うよりも、拒絶されることに打ち菱がれて、ユリアスは振り上げた腕を、だらりと垂らした。額を戸に押し付けながら、低く呻く。廊下の向こうから、人の声が聞こえてきた。声も限りに叫んだせいで、長老やら侍女やらが、様子を身にきたのだろう。すぐにでも、ここに来ないのは、昔あった、長老達との乱闘騒ぎの記憶が、今だ彼等の心の奥底に残っているからだ。不機嫌な長の側にのこのこと近寄って、叩きのめされてはかなわないと、皆、遠巻きに見ているのだ。それさえも、今は胸がむかむかとするほど、腹立たしい。

 歯ぎしりしながら、両手を戸に押し当て、ユリアスは低く唸り声を上げた。畜生と、誰に向けたともしれぬ罵りの言葉を口にし、ぐっと目をつむる。

 望んで手に入らぬものはないはずなのに、どうして、彼女だけは自分のものにならないのか。そのことばかりが、呪わしくてならない。前長の子として恵まれてきたせいかもしれない。あまり欲しいと思うものはなかったのだ。だが、何かを勝ち取りたいと願ったことはある。母親がなし得なかった魔神の統一がその一つだ。彼女が渇望していた平和を、彼もまた、少し違った理念でとは言え、夢として描いている。

 そんな中でただ一つ、自分の我がままとして手に入れたいと思ったのが、ティナだったのだ。一族を纏めるための道具というのは、詭弁だった。嘘なのだ。伯父が、彼女を使うとよいかもしれないと言ったのをいいことに、長老達を丸め込み、誰よりも尊敬しているあの炎の魔神にまで嘘をついた。そうやって、全てを騙して手に入れても、結局は、満足できなかった。自分はしょせん、回りが言うように、狂っているのだとしか思えない。形ばかりで自分の手の内に捕えても、納得できないのだ。心がまだ欲しいとばかりに、求めてしまう。彼女を殺してでも、自分だけのものにしたいと、飢えた心で望み続けているのだから。

 廊下の向こうで、一つ騒ぎがあった。ざわざわと、低い言葉が交されている。どの長老を、人身御供として送るかを、相談しているのだろう。だが、考えるまでもなく、誰がここに来るかは判っていた。たぶん、ウォウサだ。若くして大地の長老の座に付かされた彼は、大陸出身と言うことだけあって、日頃から肩身が狭い。元々、回りの反応をあまり気にしない青年だけあって、他の長老達の嫌味もさらりと受け流しているようだが、これが、神経の細かい魔神であったのなら、あっと言う間に御館から逃げ出していることだろう。屋敷の奥底で隠れ住んでいる姉とは違い、彼は矢面に立たされつつ、それでも、懸命に前を向いている。

 ウォウサが来れば、まだ、話も聞いてもらえるかもしれない。そう思いながら、ユリアスは閉ざされた戸に、広い掌を押し当てた。じんわりとした湿気と、冷たさを感じる。雨が降っているせいで、御館の中の空気まで、じとじととしている。

 あぁ、雨が降っていたのだなと思ったところで、ユリアスは不意に、ぞくりとした冷たさを背筋に感じた。

 どうして、そのことに気付かなかったのかと思いながら、彼はまた、狂ったように戸を叩いた。頼むから開けてくれと叫び、そっと、部屋の中の反応を探る。戸を一枚隔てた向こうからは、何の音も聞こえない。しんとしている。ただ、雨がばたばたと降る音が響いてくるばかりだ。人の気配一つしない。そのことに、ユリアスは全身を総毛立たせた。

 ティナは、この中にいない。息づかい一つ聞こえない、部屋の空気を感じ、ユリアスは愕然となった。閉ざされた戸の前に立ち尽くしながら、狂ったように髪をかき乱す。廊下に広がる闇を割るように、ウォウサが駆けてくるのが見えた。兄上と呼びかけながら、何があったのですかと食い付いてくる。

「どうしたのですか。姉上と、何かあったのですか?」

「……ティナを探さなければ」

「は?」

 何を言われたのか言葉で理解しても、その真意が判らないらしいウォウサは、ぽかんとした顔をしながら、まじまじとユリアスを見返した。目を大きく丸くしながら、手をふらつかせる。そのうち、言葉自体から、姉がこの身近にいないと知ったのだろう。わたわたと慌てながら、部屋の戸を見つめ、嘘でしょうと叫ぶ。

「姉上は、ここにいらっしゃるんじゃないんですか!?」

 騒ぎの様子から、彼は、最愛の姉がこの部屋に立て篭っていると思っていたらしい。この雨の中、ここの他にどこに行くんだと、顔を真っ青にし、慌てて戸を叩き出す。

「姉上……。姉上!!」

「そこにはいないと、言っているだろうが!」

 馬鹿のように、姉へと呼びかけるウォウサの襟を掴み、無理矢理、自分の方へと引き寄せた。義弟の顔を、すさまじい形相で睨み付けながら、ユリアスは引きつった笑みを面に浮かべた。まるで、すごむように相手の瞳を見据え、すっと目を細める。襟を掴む手に力を込めながら、このまま窒息死しろとばかりに、喉を閉め上げる。

 ウォウサが、ぐっと喉を詰まらせたのを見て、ユリアスは彼の体を解放した。ほとんど投げ捨てるように、義弟を後ろへと押しやり、代わって、きちりと閉じられている戸へと向き直る。憤怒をぶつけるように、木の戸を蹴破り、中へと飛び込んだ。部屋の中を、血走った目で見回し、そこに誰もいないと判ると、また、狂ったようにティナの名前を叫び出す。

「ティナ……。ティナ、どこにいるんだ!」

 侍女の姿さえ見えない部屋の中へと踏み込み、ユリアスは頭を抱えた。

 床に、水色に染め上げた上等の衣が広がっていた。昔、ティナが自分で仕立てた、宴用の衣装だ。だが、彼女がそれを着たことはない。この服が仕上がってすぐ、水色がユリアスの好むものだと知れたからだ。次ぎの宴くらいに着てくるかなと、楽しみにしてたところに、彼女がその衣装を箪笥の奥深くに仕舞い込んでしまったと聞いて、酷くつまらない思いをしたのを覚えている。別に、ティナが、自分の好きな色の服を着てくるからと、喜んでいたわけではない。ただ、真新しい衣装に身を包んだ彼女は、綺麗だろうなと、馬鹿のように興奮していたのだ。子供のように、はしゃいでいたのだろう。

 綺麗な水色に染められた衣装を拾い上げ、ユリアスが苦しげに顔を歪めた。汚れ一つない、整然とした衣に顔をうずめ、小さく呻く。彼はそのまま立ち上がると、何の未練もなしに、衣装を床に投げ捨てた。庭へと続く隣室へと入り、そこで、びくりと体を震わせる。

 この天気だから、戸も締め切ってあるだろうと思っていた部屋いっぱいに、雨が吹き付けていた。風に嬲られた水の滴がいっぱい、床を濡らしている。雨の音が妙に大きく聞こえたのは、このせいだったのだろう。戸が開いていれば、荒くれる風の嘲笑も、雨の叩き付けるような音も、必要以上に大きく響くに決まっている。

 庭が見渡せる位置まで歩いていくと、ばたばたと、痛いほどに大粒の雨が、顔や体に吹きつけてきた。風が強い。それ以上に、雨脚が強かった。昨日からの雨量を考えれば、山や谷にかなりの水が溜まっていることだろう。そう言えば、村近くの川が、氾濫寸前だったなと、ぼんやりと思い出した。水の長老やウォウサが、どうにかしなければと、今朝からずっと、走り回っていたのだ。

 濡れた縁側に踏み出すと、後ろから、手を掴まれた。ウォウサだ。青ざめた表情で、顔を強張らせている。手が小さく震えているのは、何も、雨に濡れたからではないだろう。

「姉上は、外、ですか?」

「たぶん……」

 いっそ、裏をかいて、庭伝いに御館のどこかに行っているのならばいいと、ユリアスは呻いた。

 御館を囲んでいる森も、際限なく広がっているわけではない。長の住居となっている当たりはまだ、深い緑が覆って入るが、それも、この棟の辺りは少し、薄くなっている。すぐ向こうに、村から山へと続く小さな道があるからだ。獣などを狩るためには、どうしても、山に踏み込まねばならず、そのために、道が自然と踏み固められたのだ。ユリアスも、たまに使っている。マリスに会うために、山を上る際に、その道を途中までたどるのだ。あの炎の魔神に会いにいったティナを向かえにいった時も、あの道を使った。帰りも、彼女を背負いながら、そこをわざとゆっくりと歩いたのだ。

 背後を振り返ると、そろそろと伺うように、水の長老と侍女が数人、最初の部屋をうろうろとしていた。彼等の内から、水の長老だけを呼びつけ、すぐに、村に人をやるように命じた。ティナがそちら側に行っていれば、すぐに保護するようにと、厳しく言いつける。動ける男をかき集め、周辺の森を探るようにも命じた。村を囲む、結界を敷いた森には、くれぐれも近づかないようにと注意する。ティナがそちらに逃げ込んだのならば、結界に自然を歪が出来るので、わざわざ探さなくともユリアス自身が察することができる。むしろ、人手が入り、気配が混迷した方が余計に、厄介だった。ティナがいたとしても、どれが彼女か判らなくなる。

 その上で、ウォウサの腕を引いて、彼を引き寄せた。

「ティナが村に行っているなら、それでいい。だが、山にいかれると面倒だ。私はそっちに行く。お前もこい」

「……山に向かったと思うのですか?」

 どうしてと、ウォウサが泣きそうな顔で笑う。彼も、漠然とだが、逃げ出した姉は村を避けと思っているのだろう。彼の肩を軽く叩きながら、ユリアスはぬかるんだ庭へと下りた。ほとんど走るような早さで、森の方へと進み、その入り口で、ふっと振り返る。

「勘だろう?」

 それ以外に何があるとばかりに、投げやな笑みを浮かべながら、ユリアスは森の中へと飛び込んでいった。

 

 森を抜け、道に出たところで、山へ続く坂の上から、侍女が泥だらけになって駆け下りてきた。全身ずぶ濡れの上に、さらに、頭から泥を被ったような格好をしている。どうして、そんな姿なのかと、ユリアスが嫌な予感にかられ、ぞっとした目の前で、侍女がこてんと転んだ。泥同然の水たまりに、頭からつっこんでいる。あの格好はそのせいなのかと思いながら、倒れ込んだ侍女へと駆けよった。彼女の腕を掴み、無理矢理引き起こしながら、黒く汚れたその顔を覗き込む。

「ティナは!?」

「あっち、山です。谷の、橋のところで……!」

 そう言って、侍女はわっと泣き出した。早く、早くとユリアスを急かすように、腕を押しやろうとする。

「ユリアス様を呼んでくるから、待っていて下さいって言ってきたんです。でも、いつまで待っていて下さるか、判らない!」

「どうなってるんだ!」

「ティナ様、もう、死んじゃうかもしれない!」

 わっと泣きながら、侍女は濡れた泥の道にぺたんと座り込んだ。声を上げて泣きじゃくる彼女を、ウォウサに押し付けて、ユリアスは走り出した。油断すれば、侍女のように転びそうになるのを堪えて、ゆるい坂を駆け上がる。人がたまに通るだけで踏み固められた道は、少しの雨ですぐに泥沼へと化してしまう。足を取られ、歩くのも一苦労のその道を、ユリアスは無理に足を振り上げて走った。送れて、ウォウサが泥を掻くように追いかけてくる。侍女は置いてきたらしい。ふと振り向いた道の向こうで、彼女が立ち尽くしているのが見えた。

 村のある平地から、山へと続く道の途中に、小さな谷川がある。そこを渡るためにと、小さなつり橋があるのだ。風の魔神と大地の魔神が、苦労して作ったものだった。風を操れる者ならば、一飛びの狭いくぼみのようなものだが、狩りを得意としている炎の魔神や、ウォウサのような大地の魔神には、少々広すぎる谷間でもあった。彼等を山へと容易に導くための道が、その橋なのだ。ユリアスは、ほとんど使ったことがない。少し川沿いに上ると、岩が迫り出しているおかげで、幅がもう少し狭くなって、軽く飛べる場所があるのだ。誰かを背負っていても、軽く渡れる小さな溝のようなものだった。ただ、そこまでたどり着くのに、森が少々険しいので、誰も使わない。橋のかかった道を、皆選ぶ。

 坂を駆け上がり、さらに、息が切れるまで走ったところで、ようやく、橋の影らしいものが見えた。霞んだ、小さなものだ。縄もそろそろ駆け直さねば、古くて腐り落ちそうな、そんなみすぼらしい作りだった。その橋の袂に、ティナが立っていた。雨に濡れるのにも構わず、すっと背筋を延ばして、前を見据えている。片手を、木の柱へと添えながら、こちらを眺めている。その目が、どうにもうつろに思えて、ユリアスはふと、足を緩めた。ほとんど、歩くようにして彼女に近づきながら、ティナと、弱々しく呼びかける。

「そこで、何をしてるんだ……?」

「……来ないで、ユリアス」

 これ以上近づいたら、私、もう一歩下がるからと脅しながら、彼女は薄く笑った。

 その、低い囁き声に釣られるように、ユリアスは視線を落とし、彼女の足元を見た。踵がぎりぎり、谷間の縁にかかっている。もう一歩下がれば、体を崩して、谷の下に流れる急流へと落ちていくことだろう。質の悪いことに、ここ数日の雨で、川の流れは早く、水も多くなっている。いつものような、ちょろちょろとした流れではない。落ちれば、まず、助からないだろう。背筋を寒くさせるような轟音が、ここまで聞こえてくる。

 ティナを捕まえるには、まだ遠い間合いで、ユリアスはぴたりと足を止めた。彼女をこの腕の中に引き込むには、もう一歩、二歩も前に出たいところだが、そうすれば、彼女はふらりと、体を後ろへと倒すような気がしたのだ。ティナも馬鹿ではない。どれくらいの距離にユリアスがあれば、自分が捕まってしまうかくらい、判っているだろう。

 遅れてやってきたウォウサが、姉上と吠えながら、さらに一歩下がった位置で足を止めた。彼も、姉の唯ならぬ気配を感じているのだ。どうしてと、呻きながら、頭を抱えた。

「姉上、どうして……。何をしてるんですか!」

「……ごめんね、ウォウサ」

 泣きそうな顔で、儚げな微笑みを浮かべ、ティナは身をそっと、木の柱へと預けた。橋を支えるのに使われている縄に指を這わせながら、うつろな瞳でユリアスを見つめ、貴方にどうしても言いたいことがあったのと、ためらいがちに言った。

「言わない方がいいのよね。それは、判っているの。でも、どうしても言いたかったの」

「ティナ……」

「私ね、本当はね、嬉しかったのよ」

 右手で縄を掴み、もう片方の手を胸に押し当てながら、ティナは薄く笑った。

「雨の日に子供達が死んで、私、おかしくなっちゃったでしょう。その間、貴方、ずっと側にいてくれたわよね。あんまりはっきりとした記憶じゃないのだけど。貴方が側にいたの、ちょっとだけ覚えているわ。その時ね、私、とても嬉しかったの」

「ティナ!」

 頼むから、こっちに来てくれと、ユリアスは腕を延ばした。もう一歩でいいから、こちら側に来てくれと願いながら、彼女の名前を呼ぶ。

 それに、ティナはただ、首を横に振っただけだった。そんなことは出来ないのと、申し訳なさそうな顔をする。ぽろぽろと涙をこぼしながら、指先でそっと目元を抑えた。泣くつもりはないのだけどと、弁解しながら、彼女は小さく嗚咽をこぼした。

「私ね、貴方が庭にいて、回りに鳥が沢山飛んでいるのを、見たのよ。貴方、あの時、私が見ているの気がついてなかったわ。だからね。とても綺麗に笑っていたわ。白い羽に囲まれた貴方が、とても綺麗に見えたの」

「……何を、言ってるんだ、ティナ」

「きっと、一目惚れって、あんな感じよね。駄目だって判っていたのに、貴方を綺麗だと思ってしまったの。ユリアスが、笑っているのを見て、うらやましいと思ったのよ。鳥に。あんな風に、笑ってもらえる鳥が、妬ましかったわ」

 ふんわりと、柔らかく微笑みながら、ティナは目を輝かせた。本当に、幸せそうな表情だった。雨の音も、遠く聞こえる雷鳴も、全てが遠い。体中を覆う水の冷たささえ、ユリアスは一瞬、忘れた。胸がかっと熱くなるような感触を味わいながら、彼は小さく首を振った。信じられないと言うように呻き、一歩、前へと踏み出す。

 それを、ティナが押しとどめた。これ以上、前には来ないでと、泣きながら言い、ゆっくりと、寄りかかっていた橋の支柱から身を起こす。

「最初はね、しょうがないと思っていたの。負けたのだもの。私は、責任を取らなきゃいけない立場だったから。だから、貴方の妻になるのも、しょうがないと思ったの。それで、皆が幸せになれるなら、いいと思っていたの。どうせ、私は幸せになれないと思ってたから。悲しかったのよ。あの人もいなくて、負けて。もう、どうでもいいなと、思っていたの」

 でもねと、ティナは続ける。

「鳥に囲まれて笑っている貴方を見て、苦しくなったわ。貴方の側にいるのが、嫌になったのよ。ユリアス、貴方は優しいけど、でも、それは義務的で。頭いいものね、貴方。どうすれば、私が貴方に懐くか、知っていたのでしょう。ずるい人よね。残酷だわ」

 支柱に添えていた手を離し、ティナはふっとため息をついた。両手で口元を抑えながら、小さく身じろぎする。崖の縁いっぱいに揃えられていた足元が、揺れているように見えた。今にも、谷川に落ちていきそうな気がして、ユリアスはひゅっと喉を鳴らす。

「ティナ……。こっちに来い。落ちるぞ」

「心配してくれてるの?」

 ふっと顔を綻ばせながら、ティナが微笑む。

「私がいなくなったら、やっぱり、悲しんでくれるのかしら。私は今でも、貴方にとって、価値はあるのかしら?」

「価値はある。貴方以上に、価値のある女はいない。だから……!」

 こっちに戻って来てくれと、ユリアスはかすれる声で求めた。気が狂いそうになるのを必死で堪えながら、ティナと、なるべく落ち着いた声で呼びかける。彼女を刺激しては駄目だと思った。雨が降っている。今のティナは、だから、おかしいのだと、暴れ出しそうになる自分に必死に呼びかけた。少しでも、乱暴なことを言えば、彼女はたちまち、谷川に飛び込むだろう。あの水量と勢いでは、いくら魔神でも助かるまい。水の属性を持つ者ならばまだしも、彼女は大地に愛されるだけの女だ。濁流に飲み込まれれば、それまでだ。絶対に、あの黒い水の中へと落としてはならないのだ。

 ティナは、とりあえずは、ユリアスの答えに満足したようだった。嬉しそうに笑っている。良かったとつぶやきながら、彼女は一歩、前へと踏み出してくれた。そこで、また、ぴたりと立ち止まる。彼女を向かえようと、近づこうとしたユリアスも同時に止まる。

 心臓が、高鳴っているのが判った。背筋がぴりぴりする。嫌な予感がした。ティナは微笑んでくれているのに、頭が痛むくらいの、絶望的な思いが募ってならない。

 もう一度呼びかけようと、腕を延ばした。それは、まだまだ届かない遠いものなのに、その手を避けるように、ティナがまた、後ろへと下がる。

「……ユリアス」

「ティナ、戻ってこい。戻ってきてくれ」

「愛してるわ」

 にっこりと笑いながら、彼女はそう言った。目元から、いっぱい涙がこぼれている。

 喉をからからにしながら、ユリアスはもう一歩、前へ出た。右腕を差し出し、彼女がその手を取ってくれるのを待ちながら、彼女の言葉に頷く。

「私も、愛している。貴方を、愛している。だから、ティナ……!」

「……嘘でも、嬉しい」

 本当に幸せそうに、彼女はそう言った。

 ティナの身が揺らいだのを見て、ユリアスはためらいもせずに走り出した。やめろと喚き散らしながら、ぬかるんだ地面を蹴る。

 頭から倒れ込むように、ティナの体が谷間へと落ちていく。それでもまだ、彼女の体に手が届かないわけではなかった。彼女の動きはどこか緩慢だった。少なくとも、ユリアスにはそう見えた。

 橋の支柱に手をかけ、半ば彼女の後を追うように、腕を突き出す。ティナの手を掴む。良かったと思った。このまま引き上げればいいのだと思いながら、手首を握り締めようとした。その手が、滑る。水の滴が、目の前を通りすぎていく。ティナの手が、泥で汚れていた。ここまで駆けてくるときに、転んだのだろう。雨の滴よりもよほどぬめっていた。そのせいで、ティナの指先まで、ずるりと滑っていった。掴み損なって、慌てて、手を延ばした。まだ、服がはためいている。濡れた服の裾が、通りすぎていった。それも捕えられない。もうどうでもいいからと思いながら、足を追う。それも掴み損ねた。

 訳の判らない絶叫を上げながら、支えにしていた柱から手を離した。そのまま地面を蹴って、後を追おうとする。ティナの体は、まだ落ちていく途中だった。まだ、黒い濁流の中に消えたわけではない。水に落ちる前に掴めば、取り戻せると思った。後はどうにでもなる。どうにかするつもりだった。

 柱から手を離し、勢いを付けようと地面を蹴り駆けたところで、腕を掴まれた。離せと喚く。怒り狂いながら、振り返ると、ウォウサが引きつった顔で、羽交い締めにしてきた。

「駄目です!」

「離せ、ウォウサ!」

「兄上まで、死ぬ気ですか!」

「まだ、ティナは死んでいない。離せ!!」

 しがみついてくるウォウサを、乱暴に引き離し、崖の縁へと張り付いた。ティナはどこだと、血眼になって探す。だが、ちょっと前まではそこに見えた彼女の、細い頼りない体は、どこにも見えなかった。ただ、ごうごうと、濁流が渦巻いているだけだ。なにも見えない。誰もいなかった。もう少しで取り戻せたはずのティナの姿は、どこにも見えなかった。ただ、激流が轟音を立てているだけだった。

 

 


(update 2000/06/29)