オリジナル

■神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜■

34「残影・第ニ話」

作・三月さま

ジャンル:一般


 

 

 

 3 貴方にはならない。絶対に。

 

 

 

 エルフィナが額を乗せる肩が酷く重く、また、熱く感じた。アディアナの細い肩に、エルフィナが隠すようにこぼしていく涙が染み込んでいく。始めは小さな染みのようだったそれも、次第に広がり、段々と、肩を濡らしていった。

 

「リース・・・様が・・・お母様が?」

 

 アディアナはそうつぶやき、キュッと目をつむった。彼女は、何かを懸命に耐えるように、その奇麗なエメラルド・グリーンの瞳を閉じてしまう。彼女は、自分の視界を暗闇にとどめたまま、ゆっくりと、指先を妹の手に回した。

 

「エルフィナ・・・」

 

 アディアナは、妹の背に手を回すと、妹の日向のような匂のする髪へと、頬を寄せた。

 

「エルフィナ・・・リース様、笑ってらした?」

 

「笑ってた。最後まで、微笑んでた!」

 

「そう・・・ちゃんと、最後まで見ていたのね、エルフィナ・・・」

 

 言葉をつぶやいていく、姉の優しい声の調子に、エルフィナは驚いたように顔を上げた。

 

 エルフィナは涙を幾筋も頬に張りつかせ、そして、姉の包みこむような、穏やかな表情を見て、また涙を溢れさせた。

 

「姉上、姉上・・・僕・・・僕!!」

 

「エルフィナ・・・」

 

 妹の頭を優しく抱きながら、エルフィナは回りに控えていた侍女達へと、軽く合図してみせた。

 

 侍女達は、もともと、この場には居ずらかったのだろう。アディアナの意思を受け、足早に去っていく。エルフィナの態度に、この場から下がるチャンスを失っていた貴族達も、侍女達に先立ち、去っていった。

 

 移転の間には、アディアナとエルフィナの姉妹だけが残される。移転の間は、もともと明りが乏しい。光源らしきものと言えば、開け放った戸口から漏れてくる、廊下の明りだけだ。その光の筋が真直ぐに伸び、二人を照らし出していた。

 

 自分よりも、すっかり背の高くなってしまった妹を包容する。アディアナは、妹を労りながら、その壮麗な表情を崩そうとはしなかった。ただ、全てを抑えこんで、妹の悲しみを受け止めようとしている。

 

「姉上・・・姉上・・・」

 

 エルフィナは、繰り返しそうつぶやきながら、アディアナにすがっていた。姉の細い肩を、自分の涙で濡らしながら、それでも、悲しみを和らげることが出来ないでいる。

 

「僕・・・駄目なんだ。全然。アルディスを止めることしか、出来なかった」

 

「その場に、お父様も、いらっしゃたのね・・・?」

 

「うん・・・ウェヴもいた。僕達、ちゃんといたのに・・・母さんを止められなかった。助けられなかった・・・」

 

 リースの死の場面そのものを思い出したのか、エルフィナはビクリと体を震わせた。彼女は、アディアナの包容から逃れ、顔をうつむかせた。姉に、無様な姿をさらしたくないのか、顔を両手で覆ってしまう。

 

「リース・・・母さん・・・笑ってた。でも、どうして笑えるんだよ。僕、判らないよ・・・」

 

「エルフィナ・・・」

 

「母さん、僕なら判るだろうっていった。どうして、自分が大地の贄になるのか、僕なら判ってくれるって・・・」

 

「大地の贄・・・?」

 

「ウルヴィスの大地、腐ってたんだ。ボロボロだった。しかも、変になってた。それを鎮めるために・・・リース母さんは、人柱になったも、同じだ・・・」

 

 もう立ってもいられなくなったのか、エルフィナはペタリと床にしゃがみこんだ。それでも、面を覆う手は外さず、肩を震わせ続けている。

 

 そんな妹の目の前に、アディアナは両膝を付いた。手を伸ばし、そっとエルフィナの手を退かさせる。そこには、ボロボロと、子供のように涙を流している妹の面があった。十三の『少年』のような情けない泣き顔を見せているエルフィナ。

 

 アディアナは、エルフィナに拒絶されないのを見て、また彼女を抱いてやった。妹は抵抗することなく、姉の腕の中に収まってしまう。

 

「わたくし、お母様・・・リース様の最後を見ていないから、何も言えないけれど・・・でもね、エルフィナ」

 

「姉上?」

 

「リース様だったら、きっと、後悔するようなことは、なさらないと思うの」

 

 そっと、妹の頭を撫でてやる。

 

 小さいころのように、エルフィナは不思議そうに姉の事を見上げていた。

 

 そうだ、エルフィナはこういう子だったのだ。

 

 灰色の瞳を覗きこみながら、アディアナはふとそう思った。

 

 始めて出会ったときも、この妹は泣いていた。それを、自分は嫌がられながらも、放っておけなかったのだ。小さなエルフィナの許す範囲にとどまり、彼女が泣いているのを見守っていた。それが、最初。

 

「大事な人がいなくなるのは悲しいこと。残される者には、耐え難いことだと思います。だから、悲しむことは、許されることだわ」

 

「うん・・・」

 

「だから、今はお母様のために、いっぱい悲しんで泣いてしまいましょう。でも、絶望には、囚われないで」

 

 エルフィナの額にかかった前髪を掻き上げ、アディアナは薄く微笑んだ。悲しみを湛えた、悲壮な微笑みに見える。ただ、エルフィナを宥めるためだけに、浮かべた笑みだ。

 

「貴方は、ずっと悩んでしまうから、わたくし、心配だわ。きっと、お母様もそう。だから、お母様は、最後に笑ってくださったのね」

 

「・・・リ・・・ス・・・かあさ・・・」

 

 また、エルフィナが涙を溢れさせる。

 

 新たな涙が落ちていった頬に、アディアナはそこに軽く口付ける。

 

「今は泣いて。お母様のために。でも、いつかは笑ってちょうだい。逆にお母様が悲しまれることがないように・・・」

 

「姉上・・・お母さん・・・!」

 

 エルフィナが始めて声を上げて泣いた。今までそれでも強がっていた彼女は、堪え切れなくなったかのように大声を上げていた。

 

 心に溜まっていた悲しみを吐き出すように、姉にすがり泣き続けていた。今だけは、姉が自分を支えてくれると知って、全てをさらけ出している。

 

 本当は、エルフィナは姉姫であるアディアナを受け止めてやるつもりだった。自分はもう、十分悲しんだと思い、これから事実を知る姉を宥めてやるつもりだった。

 

 だが、結局は自分が支えて貰う方だった。アディアナは、エルフィナが今だ心の奥に鬱々としたものを抱えていることを知っていたのだ。

 

「ごめん・・・姉上、僕、何も出来なかった!!」

 

「でも何もしなかった訳ではないわ。わたくしは、知っています。貴方はそういう子ですから」

 

「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・!」

 

 何に対して謝っているのだろうか。

 

 エルフィナ自身判らないまま、彼女は無意識のうちに、そうつぶやいていた。

 

「強くなる・・・僕、強くなる。大地もねじ伏せられるほどに。闇をも支配できるほどに!」

 

 何か強い意思を持って宣言された言葉。それに、アディアナはふと、不安を感じた。

 

 この胸によぎった暗い予感はなんだろうか。

 

 アディアナは、そっと、妹の顔を覗き込む。

 

 エルフィナは涙を張り付かせたまま、意思の強い瞳で、アディアナの背の向こうにある闇を睨み付けていた。灰色の瞳に、燃える思いを宿らせ、敵を見据えるように、何もない空間を見ている。

 

「絶対に・・・」

 

 それは、彼女の心の奥から出て来た言葉。

 

 

 

 闇が恐いくらいに濃く思える。

 

「リース・・・」

 

 寝室の隅にうずくまりながら、アルディスは部屋の向かいにある窓ガラスを見据えていた。夜の闇のせいだろう、今そこには、まるで鏡がそうするように、アルディスの姿がはっきりと映し出されている。彼は、その自分の姿を、憎しみをもって睨み付けていた。

 

「兄上・・・」

 

 青い瞳の奥に憎悪を湛え、その名前をつぶやく。彼は、口の中でその名前を何度も、何度も繰り返し呼び続けた。そして、耐えられなくなったかのように、膝を抱える。

 

「兄上・・・俺は・・・貴方にはならない。絶対に・・・」

 

 齢四百を越える聖王とでもなく、また、外見年齢そのままの十九才の青年でもなかった。今、部屋の隅にうずくまり、膝を抱えているのは、それよりも弱々しい、頼りなげな青年だった。

 

 普段は、ルドラがいる場所でしかさらけ出さない、アルディスの裏の部分。影とも言える部分だ。だが、今それを、彼は一人きりで表わしていた。いつもは、ルドラがいる場所で、慰められるのを承知した上で、自分の弱みを面に出して見る。だが今は、虚栄さえも認めてくれる相手を拒絶したままに、一人で閉じ篭っていた。

 

 普段はないこと。だが、例外ではないのだ。

 

 アルディスは、定期的にこうやって、ルドラを拒絶してしまうことがある。いや、ルドラだけではない、自分の回り全てを、そして、自分自身も認めないことがある。

 

 それは、二十年に一度起きる、闇の衝動。

 

「・・・レイナード」

 

 アルディスは、かつて魔王としてあった青年の名前を呼んだ。アルディスの愛した女が選んだ男。ただ一人、真っ向からアルディスと対立し、そして、彼が勝てなかった相手。

 

 文武に優れ、容姿も壮麗だった。それだけならば、アルディスは劣っていない。勝っている部分さえある。それでも、リースは彼を選んだ。

 

 彼が、自分の弱さを認め受け入れ、彼女に助けを求めていたために。

 

「リース・・・」

 

 それは、既に手に入らないと確定してしまった女の名だ。『魔神』としての彼女ならば手に入れた。彼女に、自分の願いを叶えさせることで。そういう形で、彼女はアルディスを主として敬愛した。彼に付き従い、彼の側にあり続けた。

 

 だが、女としてのリースを、ついにアルディスは手に入れることが出来なかった。それをなしえたのは、レイナードと言う闇に属する魔神。彼女はついに、アルディスのものにはならなかった。そればかりか、彼女は彼の目の前で消えてしまった。大地に還ってしまったのだ。彼女は結局、レイナードの側にいることを選んだのだ。間違った形でも。

 

「リース・・・リース」

 

 リースを失った絶望と、魔王の衝動が心の中でせめぎあっていた。抑え難い闇の衝動に、アルディスはますます、身を円くする。膝を抱え、その上に額を押し当てる。そうやって、彼は呻いた。

 

 抑えようとしても、闇が抑えられない。絶望が、『魔王の魂』を抑えていた精神を緩めてしまう。

 

 今にも、枷が解かれてしまいそうだった。恐いほどの破壊衝動に狩られそうになる。

 

「・・・リース・・・あぁ、リース」

 

 彼女の名前をつぶやけばつぶやくほど、絶望は濃くなっていく。それと同時に、闇が強まっていくのも感じられた。

 

 いっそ、このまま『魔王の魂』が求めるまま、破壊の衝動に流されてしまおうか。

 

 そんな思いさえ浮かび上がってくる。

 

 それを抑え付けているのは、向こうに見えるドアを隔てて、アルディスを見てくれている存在だった。

 

「ルー・・・」

 

 すぐそこに、彼の気配を感じる。バルスの気配もだ。

 

 彼等は、アルディスに拒絶されながらも、隣の部屋に居続けている。まるで、遠くから見守るように、彼が部屋から這い出てくるのを待ってくれている。

 

 その存在が、アルディスにとっての、魔王を抑え込む上での最後の封印だった。それは、細い糸のように、危うい弱いものだった。その糸が、魔王を封じる最後の枷となっている。

 

 だが、それは確実に存在しているものでもあった。ルドラ達が確実にそこにいると言う思いが、アルディスの倒壊しそうな精神をギリギリの所で支えてくれている。

 

「・・・いっそ、壊れてしまえばいいのに」

 

 もどかしそうにアルディスはつぶやく。

 

 いっそ狂えてしまえれば、どれほど楽だろう。どうして自分は、不老などとなってしまったのだろうか。何故自分が世界を支える王とならなければならない。魔王を封じていなければならない。

 

 自分で望んだはずの価値が、全て否定的に見える。

 

 絶望がそう語る。魔王の存在が、それを後押しする。

 

「もう、嫌だ・・・」

 

 頭を抱え込み、アルディスは呻いた。

 

「もう・・・」

 

 細々とした吐息が、アルディスの口から漏れる。

 

 彼の銀の髪が、蝋燭の明りを受けて、輝いて見えた。頼りなく、狂気を感じさせながらも、その様はどこか美しい。妖艶とした、闇に近い美麗さだった。

 

 

 

 

 

 

 

 4 身を滅ぼすほどに愛してくれるのならば信じてやろう。

 

 

 

 不意に何の前触れもなく開いたドアに、ルドラは反射的に壁から離れていた。

 

 彼の見守る先、ゆっくりと開け放たれていくドアの向こうに、アルディスが立っているのが見えた。覇気の感カられない、頼りない姿。その様子を見守りながら、ルドラは小さく舌打ちする。

 

「どうしたんだ、ルー?」

 

 アルディスは、にこやかに微笑みながら、不機嫌そうな親友を笑って見せた。

 

 いつもよりも、輪をかけたように柔和な笑み。そして、穏やかな物腰。それは、リースが消えたばかりにしては、不自然なほど、もの静かな様子だった。

 

 先にアルディスの異変を感じ取ったルドラに続いて、バルスも異様な笑みを浮かべているアルディスに表情を引き締める。

 

 だが、アルディスは、そんな二人の表情に構うことなく、勝手に振る舞っていた。慣れた様子で、バルスのすぐ脇を通り抜け、自分の職務用の椅子に、深々とすわり込む。

 

 手を組み、何気なく机の上に投げ出した。そして、また、クスクスと笑う。

 

「二人とも、なんだ、ものすごい表情だな」

 

「そりゃぁな、すっかり忘れていたもんで」

 

 ルドラがそう答え、『バン!』と手を机の上に叩きつけた。

 

「まさか、こんな時に『目覚め』てくれるとは、思わなかったもんでな」

 

「何を言っているんだ。ちゃんと、封印されているさ」

 

 アルディスはそう言って、自分の胸を抑えて見せる。

 

「俺の中にな。ただ、ちょっと、封印が緩んでいるだけで」

 

 そう言うアルディスの面には、常に微笑が浮かんでいる。人を小馬鹿にしたような、見ているだけで癪に触る嫌な笑みだ。

 

 それを、目前で浮かべられていると言うのに、ルドラはむしろ、平然としていた。アルディスのあからさまな挑発に乗るよりは、むしろ、彼のことを心配してやっている。

 

「そんな風に、強がるから、いっつも酷い目にあってんじゃねぇか。馬鹿」

 

 ルドラは手を伸ばし、アルディスの額に触れた。髪を掻き上げ、露になった額とその下にある青い瞳を覗き込む。

 

 アルディスは、そんなルドラの視線をまっすぐに受け止めていた。彼の、薄茶色の瞳を覗き返し、そして、ふっと、今までの微笑とは違う笑みを浮かべる。

 

「そういうところ、すごく助かる」

 

「ばぁか。何年つきあってると思ってるんだ」

 

「そうだな」

 

 長く聖王として存在し続けている青年は、親友の言葉におかしそうに笑った。だが、その笑みも、すぐに凍り付いたように止んでしまう。

 

 不気味な沈黙に、ルドラは顔をしかめる。

 

 何か違うと思った。いつもの、魔王の魂が起因の『暴走』とは、何かが違う。

 

 いつもは、少し気が狂ったようになり、狂暴化するのが責の山だった。そして、その際に誰かを傷つけ、それを長く気に病む。それの繰り返しだった。

 

 だが、今回のこのアルディスの状態はどうだろうか。

 

 いつもは、ただ冷やかすように、馬鹿にするような笑みを浮かべるだけだったと言うのに、今回に限っては、自嘲するような笑みさえ浮かべている。

 

 今ルドラがしたように、手でも差し伸べれば、それを嫌そうに払ったはずだった。だが、今のアルディスはそれを甘受している。

 

 そのことに、ルドラは強い違和感を感じていた。だが、それを今のアルディスの前で、露にするような真似はしない。

 

 彼はただ、アルディスが求めているように、労るように彼に接してやっていた。その他の疑問や不満などは、少しも面に浮かべようとはしない。

 

「メシ、食うか?」

 

 ふと、アルディスが今だ、何も食べていなかったことを思い出し、そう聞いて見た。

 

 それに、アルディスは頼りない仕草で、小さくうなずく。

 

「あぁ、食べよう・・・」

 

「どこで食う。食堂いくか、それとも、ここに運ばせるか?」

 

「人前には、まだ出られないから・・・とって来てくれないか?」

 

「・・・一人で大丈夫か?」

 

 思わず、不安になってそう聞くと、アルディスは小さく苦笑した。

 

「大丈夫、それくらいならな。お前が戻って来てくれるって、判っているんだから。暴れたりしないさ」

 

 アルディスは、目敏くルドラの心配を見抜いて、そう答える。

 

 どんな状態にあっても切れるアルディスの観察力に、ルドラは舌を巻いた。これだから、『魔王』が聖王の内で活発化すると厄介なのだ。二十年ごとにしろ、封印が弱まった時のアルディスは怖い。その時、彼は魔王の狂暴さと、アルディス自信の狡猾さを併せもっているからだ。

 

 魔王が露になれば、その分、アルディスの優しさが消えてしまう。彼が、自分の狂気の歯止めとしている『優しさ』がだ。だからこそ、封印が緩んだ際には、先代の魔王以上に、アルディスは時に横暴な行動をしてみせることがある。魔王以上に残虐なことをしようとさえする。

 

 それが、ルドラは怖かった。彼自身は、アルディスがどう狂暴化しようとも、ある程度は防げる自身がある。それだけ、腕に自信があった。

 

 怖いのは、封印が戻ったときのアルディスの反応だった。

 

 二十年ごとに訪れる封印の緩みと、そして、その後のアルディスの悲哀。

 

 どちらが、よりルドラにとって辛いことかと言えば、彼はためらいもなしに、後者を選ぶだろう。

 

 いつも強がっているこの親友が、馬鹿のように悲しんでいる。

 

 心が文字どおり『通じ合い』、気持ちが流れ込んでくるだけに、ルドラはその悲哀の度合を熟知している。

 

 だからこそ、封印が緩む間は、極力アルディスを抑えつけてやるつもりだった。彼がいくら暴れようとも、大武聖として、聖王を抑え込むつもりだった。

 

 そして、アルディスもそれを知っている。そのルドラの決意を、歓迎してもいた。

 

「大丈夫だよ」

 

 重ねて、アルディスはそう言った。

 

 そして、早く行けとばかりに、ルドラを追い出しにかかる。

 

「腹が減ってるんだから。さっさと行って、貰ってきてくれ。それから、バルス」

 

「はい」

 

 今まで、存在させも無視されたように、声さえかけてもらえなかった大神官は、不満一つ、表情に浮かべず答える。

 

 だが、それに対するアルディスの言葉は、冷たかった。

 

「お前も、ルーと一緒に行ってくれ。目障りだ」

 

 あっさりと、何の感慨もなしに言い放たれた言葉。

 

 それを聞いた途端、ルドラがまず頭を抑えた。バルスの衝撃の度合を思って、頭を抱える。

 

 だが、バルスはルドラが心配したほどには、表情を変えはしなかった。むしろ、アルディスのその言葉こそが当然だというように、恭しくうなずいて見せる。

 

「かしこまりました」

 

 まるで従順な下僕のように、いくら邪険にされても、バルスはそれに異を唱えようとはしない。

 

 どこまでも冷静にいられる大神官の態度に、ルドラは正直に感心していた。そして、これ以上アルディスがバルスに対して、冷たい言葉を投げつけないように、部屋を出て行こうとする。

 

「じゃ、行ってくるからな」

 

「急いでな」

 

 ヒラヒラと、手を振りながら見送るアルディス。彼は、そんな仕草を見せたかと思うと、すぐに机の上につっぷしてしまった。うんともすんとも言わなくなる。

 

 一瞬、声をかけようかどうか、ルドラは迷った。だが、アルディスが、まったく動かないのを見て、断念する。どうせ、ルドラがどう言ったところ、アルディスはもう、何も答える気はないだろうから。

 

「まったく。あれじゃぁ、女のヒステリーだよな」

 

 先にバルスを外に出し、ルドラはドアを後ろ手で占めた。

 

 そして、初めて気がついたのだ。バルスの表情が異様に青ざめていることを。

 

「バルス・・・?」

 

「ルドラ・・・まずいぞ、あれは・・・」

 

「なんだよ、お前、さっきのアルの言葉、真に受けてんのかよ?」

 

 ルドラが軽い調子でそう言ったのに、バルスはゆっくりと首を振る。

 

 彼は、ここで話し込むのも嫌だったのか、ルドラを促して歩き出した。

 

「我が君の状態だ。あれは、まずい」

 

「まずいって・・・」

 

 ふと、先ほどの違和感が、ルドラの脳裏に蘇ってきた。

 

 確かに、アルディスはどこかおかしかった。いつもの封印が緩んだ様子とは、どこか違っていた。そう感じたはずだった。

 

 ルドラの表情の変化を見て、バルスは重々しくうなずいて見せる。

 

「我が君、いつもとはご様子が違っておられただろう。いつもの状態ならば、もっと『魔王』の影響が強いはずなんだ。それが・・・」

 

「さっきのアルは、まだ、いつもみたいに笑ってたからな」

 

「そう・・・それに、時期的にも、今封印が溶けるのは、おかしいんだ」

 

「うん・・・」

 

 前回、魔王の封印が緩んだのは十八年前。その前が、三十六年前。

 

 封印が緩むにしても、きっちり二十年ごとというわけではない。二、三年の誤差がある。だが、それを大まかに見てみると、大体が二十年ごとなのだ。だから、ルドラもバルスも、二十年ごとにアルディスの状態に過敏になっている。逸早く、彼の異変に気がつけるようにと。

 

 だが、今回の『魔王』化は、ルドラ達にとっては、やや以外だった。前回と前々回に、いつもよりやや早く封印が緩んだため、今回は、逆に遅いと思っていたのだ。今までの例を鑑みればそうなるはずだった。

 

 二連続で『魔王』化が、二年ほどのズレをもって、早まったり遅まったりすることはあった。一年ほどなら、毎年でもある。だが、二年と言う大きなズレが、三回も連続したのは、これが初めてだった。

 

 初めての例として、安易に片付けてしまうこともできる。

 

 だが、バルスはそう出来なかったらしい。アルディスの異変を目のあたりにしているルドラもそう。

 

 何時の間にか、足早に歩きながら、ルドラは唸った。生憎、彼の知識ではこれをどう判断していいか、判らない。

 

 尋ねるように横を歩くバルスを見ると、彼はわずかに表情を暗くさせた。

 

「まさかとは思う・・・それに、すごく簡単なことなんだが、一つ原因らしいものがある」

 

「なんだ?」

 

「私でなくとも、思いつくことさ」

 

「まさか・・・」

 

 不意に立ち止まり、ルドラは苦悩した様子で、額に手をやった。髪を乱暴に掻き上げ、呻き声を上げる。

 

「まさか・・・リース・・・?」

 

「そう、たぶん、リース殿の死が、我が君の心を弱らせている」

 

「じゃぁ、何か?」

 

 辺りに人がいないのを見計らってから、ルドラは口を開いた。

 

「リースが・・・好きだった女が死んだから、封印が緩んだってのか?」

 

「いや、そうではないだろう」

 

 そう言って、バルスは片手で顔を覆った。

 

「たぶん、我が君自身が、望まれたのだろう」

 

「なんだって!?」

 

 思わず大声を上げ、ルドラが罰の悪そうに口を抑えた。

 

 それでも、バルスを睨みつけるのは止めようとしない。

 

「どういうことだよ、バルス!?」

 

「推測なのだがな、あくまで・・・」

 

「バルス!」

 

 前置きなど、どうでもいいとばかりに、ルドラは相手をせっつく。

 

 そんな彼をさらに焦らすように、バルスは裾の長い神官用の服をわざとらしく整えて見せた。

 

 彼自身も、これ以上は口にしたくないのだろう。相手がルドラなのならば、一人心の中に、真実を押し隠していたはずだ。

 

 だが、推測であろうと何であろうと、アルディスに関わることは、ルドラに伝えてやらなければならない。

 

 アルディスが頼り、なおかつ、彼の本当の支えとなれる人物は、ルドラだけだからだ。悔しくとも、バルスには取って代われない役回りだ。

 

「リース殿のことがって、確かに我が君は、心弱くなられただろう。そこで、魔王の魂の封印が緩んだことは否めない」

 

「そうだろうよ」

 

「だがな、ルドラ。魔王の封印を封じるのに、我が君が心を強くもっていなければならないのは、ほんの短い間でよかったはずなんだ。つまり、我が君が施した封印が弱まる時。その時こそ、我が君は、自分の身と心をもって、魔王を抑えなければならない」

 

「つまり・・・あれだろ?」

 

 ルドラは、過去に何度か聞いたことのある、『封印』についての説明を思い出そうとした。

 

「アルは、ウィリスの力をもって、魔王を自分の中に封印したわけだ。でもって、魔王の方も強いから、それが、周期的に弱まる、と・・・」

 

「その弱まったときに、封印を補うために、『人』の精神でもって、魔王を抑えつけるんだ。それが、封印の全貌」

 

「・・・いつも思うんだけど、アルの『精神』じゃ役不足だよなぁ。あいつ、もろいし」

 

「そうでもないだろう」

 

 バルスはそう言って、静かに歩き出した。それを、ルドラが慌てて追う。

 

「そうでもないって、どういうことだよ、バルス!」

 

「あの方は強いよ。神の力を受け入れ、なおかつ、四百年以上も生き続けていられる。その精神力に、私は感服するな」

 

「ほ〜。だったら、俺も褒めてもらいたいもんだな。俺だって、少なくとも、四百年以上は生きてるぜ?」

 

「もちろん、貴方にだって、感服しているさ。我が君とともに生き、そして、支えている」

 

「じゃぁ、お前のことは、俺が褒めてやろう」

 

 わざと陽気に言ったルドラの言葉に、バルスは冷たく笑ってみせた。

 

 それが、バルスにとっての精一杯の冗談に対する応えだと言うことを、ルドラは知っている。むしろ、そんな冷ややかなものだろうと、バルスが笑みを浮かべたことに満足していた。

 

「しっかし、まぁ、なんだ。リースがいなくなったもんで、アルが精神的にまいっちまった。で、魔王が期でも計って、出てきたわけか?」

 

 ようやく合点がいったのか、ルドラは面倒臭そうにしながらも、スッキリした表情をしている。

 

 だが、バルスはそれに素直にうなずいてはくれなかった。

 

「いや、それとも違う」

 

「は?」

 

「我が君の精神が弱くなられ、その影響で、魔王も活発化するだろう。その結果封印は弱まる。だが、その程度じゃ、魔王が我が君に影響を及ぼせるはずがない」

 

「なんだよ・・・」

 

「ルドラ、私は言っただろう。我が君のお心は強いと。それは、果てしないよ。神の封印さえ、退けられるほどに」

 

「ちょっと待て!」

 

 困惑した様子で、ルドラはバルスの口を抑えた。

 

 不安に、心臓が高鳴っている。それを抑えるように、ルドラは先ほど以上の大声で怒鳴りちらしたい気分だった。だが、ことがことだけに、そうも出来ない。

 

 彼は、無表情なバルスの面を間近で睨みつつ、極力抑えた声を出した。

 

「お前、何を考えている?」

 

「おそらく、貴方が今、思っていることと同じだろう」

 

 ルドラの広い掌を払いながら、バルスは答える。

 

「リース殿は、我が君にとって、何者にも代え難い女性だった。そして、それが失われたとき、思われたのだろう。どうでもいいと。もう、どうとでもなれとでも・・・」

 

「つまり、今、魔王を表に出してるのは・・・」

 

「我が君自身」

 

 そう言い、バルスは顔を背けた。

 

「だから、私はリース殿を心の何処かで嫌っていた。ああやって、我が君の心を奪っておいて、我が君の物になろうともしない。それが、私は嫌だった」

 

「バルス・・・」

 

「そして、こうやって、大きな波紋を残して、いなくなってしまう。もう、憎みたいほどだよ、彼女を・・・」

 

 そうつぶやくバルスの横顔には、何処か苦汁が浮かんでいるように見えた。

 

 ルドラは、不満を露にする大神官に対して、何も言えなかった。確かに、リースのことが恨めしかったから。

 

 これ程に、アルディスを傷つけて去っていく女性に、恨みごとの一つでも言いたい気分だった。

 

 

 


(99/4/18update)