オリジナル

■神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜■

35「残影−3−」

作・三月さま


 

 

 

 5 ならば愛しましょう。

 

 

 朝方から、ゴールドバーンの王都周辺の天候は、究めて不快なものだった。風は強く吹き、なおかつ、重く垂れ込めた雲が空を覆っている。空気は湿気、肌に張り付くかのようだ。息をするにも、この重い空気では、辛くも感じてしまう。昨日までは、究めて涼やかだった気候が、一気に梅雨のような天候になってしまった。それに、皆は重いため息をつくしかなかった。

 そんな、気も重くなるような空の具合も、午後になり、さらに酷いものとなっていた。

 今までもっていたのが不思議だった雲は、遂に地上へと大きな水滴を降り撒き初め、さらに、風も強さを増す。雨雲は雷雲と化し、宮廷内の侍女達が逃げ惑うような、轟音を鳴らせる。

 そんな嵐の中、エルフィナが、雨の吹き付ける王宮の回廊を急いでいた。

 彼女の着ている男性用の礼服も、短く切った茶色の髪も、横殴りに叩き付けてくる雨のせいで、グッショリと濡れてそぼっていた。だが、そんな中でも、エルフィナは灰色の瞳をまっすぐ前へと向け、雨脚の向こうに、霞んで見える後宮の建物を見据えていた。

 バシャバシャと、回廊に溜まった水溜まりが音を立てる。床も水に覆われ、ともすれば、エルフィナの足を取って転ばせようとする。何回も滑りそうになり、つまずきそうになった。それでも、エルフィナは走る速度を落とすわけでもなく、全力で、回廊を走り抜けていく。

 手を目前に掲げ、目を痛いくらいに吹き付けてくる雨から守ろうとする。

 そんなエルフィナの面には、焦りと苛立ちがあった。

 一瞬でも早く、後宮へと向かいたかった。こんな嵐だ、後宮内も、その機能を停止していることだろう。そう思うと同時に、姉のことが無性に心配になっていた。

 リースのことをアディアナに伝えたのは、二日前。それから、あの美しい姉は、後宮に篭りがちになったと言う。

 エルフィナは当然のごとく、そんな姉を、今度は自分が慰めてやろうと思ったものだ。だが、それもアディアナ付の女官と、エルフィナ付の女官クレアレットによって押し止められてしまった。

 アディアナの養育官である女性は、今はそっとしておいてやってくれと、エルフィナに言う。いくらエルフィナが、姉のそばに行きたいのだ、慰めてやりたいのだと行っても、彼の女官は頑として聞かなかった。

 その女官の態度に不貞腐れて、自分の部屋に戻ってみれば、今度はクレアレットに小言を言われる始末だった。クレアレットは、いつもの突き放したような態度で、エルフィナに彼女の無作法を責めた。姫らしくないといつもの言葉をつぶやき、同時に、エルフィナがギョッとするようなことも言ってみせた。

 つまり、今のアディアナにとっては、エルフィナがそばにいることは苦痛なのではないかと。

 エルフィナとしては、それは認めたくなかった。だが、クレアレットがそのあと、彼女の表情を見ながら語ってくれた言葉には真実味があった。

『アディアナ様は、本当に悲しくなるくらいにお優しい方でございます。それは、お認めになられますね?』

 決まってるだろ。

 脳裏に蘇ってきたクレアレットの言葉に、エルフィナはあの時同様に、一も二もなく頷いて見せる。

『では、そのアディアナ様が、貴方様に心配をかけるような姿を見せたいとお考えになられるでしょうか?』

 そんなわけ、ないじゃん。姉上は、いつも、僕に心配かけないようにしてる。むしろ、僕の心配ばっかりだ。

『そうですね。ならば、今、貴方様が、アディアナ王女の元へ行くのは、彼の方にとって、苦痛ともなるはずです。貴方の前では、姫君は、悲しむことがお出来にならないでしょうから』

 悲しむことが出来ない。

 それが、一番の衝撃だった。

 つまりは、自分は姉のことを受け止めてやれないと言うことではないか。

 ウルヴィスから、聖王宮へと戻ってきたとき、アディアナは自分を優しく労ってくれた。自分も、リースが消えてしまったと言う事実に、衝撃を受けていただろうに、それをおくびにも出さず、ただエルフィナだけを労ってくれた。

 なのに、自分はそれに対する恩返しも何も出来ないと言うのだ。

 むしろ、エルフィナはいないほうがマシだとばかりに、アディアナ付きの女官もクレアレットも言う。エルフィナさえいなければ、アディアナは一人で、静かに悲しんでいられるから。

「きっと、女官達も下がらせて、一人で泣いてるんだろうなぁ・・・」

 そんな姉の姿を想像し、エルフィナは胸を抑えた。

 愛しい人が、一人で悲しんでいるかと思うと、胸が酷く辛かった。

 傍にいてあげた。彼の人の傍らにあって、慰めてあげたい。

 だが、それをエルフィナは拒絶されてしまったのだ。そうなれば、他に何もしれやれなくなる。

 それが酷く悲しかった。同時に、アディアナがまた愛しくなる。

『姉上は、強い』

 ふと、そんな考えが浮かんだ。

 自分などは、情けなくも、人目がありながら、アディアナにすがって泣いていた。だが、アディアナは周りの人間を極力心配させないために、誰もいないところで、一人で泣いているのだ。周りに誰かがいる時には、彼等を励まし、そして、一人になった時にだけ、大事な人間を失った悲しみに震えている。

 ふと、体が傾いだ。また、水溜まりに足を取られたらしい。

「ちっくしょぉ、こんな水溜まりが出来るような建物、作んなよなぁ!」

 派手に廊下に倒れ込みながら、エルフィナは忘れずに悪態をつく。

 廊下一面に張っている水の上に倒れても、冷たい気はしなかった。それ以前に、すでに全身が雨のせいでビショビショだ。

 こんなことならば、正宮近くにある修練場などにいかなければよかった。

 朝から気分がむしゃくしゃしていたので、気晴しにと、剣を振るいに行ったのがまずかった。相手をしてくれていた騎士達が、雨が降ってきただのと騒いでいるのを無視している間に、こんな嵐になっていたのだ。

 騎士の中には、エルフィナに、雨が収まるまで、修練場で待っていたらどうかと、言ってくれた者もいる。だが、こんな嵐であっても、エルフィナは後宮へ戻ることに躊躇はなかった。

 ただ、姉が心配だった。

 そして、この嵐の最中ならば、姉も会ってくれるのではないかと思ったのだ。いくら部屋に閉じ篭っていても、この天候ならば、何かしらの指示を、侍女達へと与えねばならないだろう。その時ならば、二日ぶりにでも、姉に会えるかもしれない。

 

 だが、後宮へと駆けこんだエルフィナを待っていたのは、侍女達のみだった。

 肝心のアディアナの姿がない。部屋にいるのは、落雷に怯えている侍女ばかり。彼女達を叱咤している女官の姿はあったが、姉の姿はどこにも見られなかった。

「・・・姉上は?」

 ビショビショの濡れ鼠の姿で、アディアナの部屋へ駆けこんできたエルフィナは、主がいない部屋を見て、呆然となった。

 もしかして、寝室の方にいるのかとも思ったが、それを、アディアナ付きの女官が否定する。

 彼女は、震えている侍女達に、エルフィナの着替えとタオルを持ってくるように申し付けた。そして、彼女達がオズオズと仕事に取りかかったのを見届け、再びエルフィナと向き合う。

「姫君は今、後宮にはおられませんよ、エルフィナ様」

「どこいっちゃったんだよ!!」

 情けない声で、エルフィナは喚く。

 せっかく姉に会えると思ってきたのに、部屋はからっぽ。そのことに、腹も立てているらしい。ずいぶんと険のある表情になる。

 女官は、さすがに高い位をアルディスから貰っているだけあって、気位も教養もあった。エルフィナの厳しい視線に怯むようなこともない。落ち着いた表情で、受け答えをしていく。

「姫君はただいま、東の宮におられます」

「なんで東にいるんだよ。なんだよ、庭園にでも行ったとか!?」

 そうだといたら大変だとばかりに、エルフィナは慌てる。

 姉が、東の宮の庭園を好んでいるのを、エルフィナももちろん知っていた。そして、たった今走り抜けてきた外の嵐の様子を思いだし、顔色を変える。こんな中にアディアナがいたら、風に吹き飛ばされてもおかしくない。

 女官は、そんなエルフィナの愚かしいとも言える発想に小さく笑った。どこか皮肉の篭った笑い方に、笑われた本人は、表情を険しくさせる。

「無礼だぞ」

「申し訳ございません」

「ふん・・・」

 慇懃無礼な女官の態度に、エルフィナは今までの子供じみた態度を改めた。

 この女官。アディアナ付きの女官であり、また、アルディスによって彼女の養育も任されている。同じ様な立場のクレアレットとは、至極仲が悪いらしく、また、自分の姫をわずらわせる相手として、エルフィナにいい顔もしていなかった。

 つまりは、数年前までエルフィナに対して、侍女達があからさまに見せていた嫌悪感を、今も抱いていると言うわけだ。

 冷静に、かつ冷淡になりながら、エルフィナは女官を見下げた。ずいぶん前に姉の身長も超した彼女は、対外の侍女よりは長身になっている。まるで少年のように、ここ一年ほどで身長が急激に伸びてきているのだ。

「で、どうして姉上は東の宮におられるんだ?」

 重ねて尋ねられたエルフィナの質問に、女官は恭しく答える。

「今朝方、バルス様より東の宮に移るようにと申し付けられましたので。我々も、間もなく東の宮に移るところでございました」

「ふぅん・・・とりあえず、バルスに嫌味言われないように、姉上だけ移したってわけか。で、自分達は、雷が怖くって、姉上ほうって、こんなところでグズグズしてるわけ?」

 敵意を込めて、エルフィナはそう言い切る。それに女官は屈辱に顔を赤らめ、言葉に詰まった。

 彼女が、エルフィナにこんな口をきかれたは初めてのことだろう。アディアナがいる限り、あくまで明るい少年として振る舞っているエルフィナだ。そして、女官がエルフィナと接するのは、あくまでアディアナを介して。言葉を交すにしても、女官として何かするにしても、いつもアディアナが傍らにいた。彼女が、アディアナと言う束縛のない、エルフィナを見る機会もなかったはずだ。

 ポタポタと、エルフィナの薄茶色の髪を伝って、水の滴が落ちていく。

 先程までのエルフィナは、まるで濡れそぼった、やんちゃな小犬か子猫のような印象を、女官や侍女たちに与えていた。

 だが、今のエルフィナは、雨の中でも静かに獲物を狙っている豹のようにも見える。灰色の瞳も、どこか輝きを増したように、女官を見据えていた。

 その瞳が、どこか金色に見えることに、女官はギョッとなった。その直後、雷が轟音を成り立て、大気を揺がした。女官がその直後に、エルフィナの瞳を見直した時には、それは、いつもの灰色のものとなっていた。

 雷の光で、見間違えたのだろうか。そうも思ったが、あの『金』の瞳は、見間違いにしては鮮やかで、また、冷たかった。

 そう、あの金の瞳に見据えられるよりも、この灰色の瞳に睨まれた方が、どれだけもいい事だろうか。

 どこか怯えた表情を見せる女官に、エルフィナは苦笑した。

 一瞬、後でこれを聞いた姉が、どう思うかが気になったが、その不安も理性で押しつぶす。女官がいくら喚き立てたところで、アディアナは自分に対する態度を変えたりはしないだろう。自分はただちょっとだけ、姉がいないことで、女官と小さないさかいを起こしただけなのだから。

「じゃぁ、僕は東の宮に行くから」

 エルフィナは、バルスもかくやと言う、冷たい笑みを浮かべ、部屋を出た。ただ、消える間際に、ギョッとなっている侍女達へと、照れ臭そうに苦笑していったが。

 

 

 

 

 6 愛すると言うことは絶望に耐えると言うことだよ。

 

 

 雨が強く窓ガラスを叩く音。

 窓枠そのものを揺する音。

 風が木々を殴りつける悲鳴。

 そして、闇の息吹。

「・・・こんな嵐・・・何時以来だったかしら・・・覚えていないわ」

 アディアナは、東の宮に移された自室で、ふとそう洩した。

 轟音がまた鳴り響く。

 何度も、何度も、切りもなく落ちていく雷。極限にまで荒れた天候は、どんな影響を市街に及ぼしているだろうか。そう思うと心が詰まった。王宮の外に、何の影響もなければいいと願う。

 暗い部屋の中で憂いるアディアナの表情は、どこまでも白く、そして美しかった。ただ悲しむような表情を浮かべている、彼女の面。伏せ目がちな目元に、蒼白な頬。リースのことを気に病んでいたせいか、彼女はどこか、頼りなく見えた。だが、その美しさがかげることはない。それよりも、いつもとは違った、消えそうな感覚が、彼女の異質な美しさを前面に押し出している。

 身にまとった白い、裾の長いドレスのせいもあるのか、今のアディアナは、この世界の人間でないようにも見えた。まるで精霊か妖精、いや、悲哀を持った女神のようにさえ見える。

 窓の外に見える、雨が吹き荒れる庭。そこが、金色にきらめく。光は、アディアナの豊かな金の髪に反射し、その艶やかさを、一瞬だけだが露にした。

 そして、また轟音。

 いつまでも続き、止む気配もない雷の光と騒音に、アディアナは座っていた椅子から、腰を浮かせた。

 雷が怖いわけではない。むしろ、闇の中に一瞬でも、黄金のきらめく光を放つそれは、アディアナにとっては、心安いものだった。轟音は確かに、心を震わせる。それでも、その一瞬前に届く光は、アディアナの気分をいくぶん、和ませてくれた。

 彼女の今いる部屋の隣では、数人の侍女達が怯えているはずだった。そんな彼女達を慰めようと、アディアナは部屋を出た。

 悲しんでばかりもいられない。

 悲しむのは、もっと平安な時でいい。こんな、天候が崩れた時くらいは、普通に振る舞っていよう。そして、自分のことを思い、気に病んでくれる侍女達の不安を、少しでも和らげてやりたかった。

 部屋を出ると、予想通り、侍女達は部屋の隅に塊、怯えがちな表情を見せていた。

 せめて、自分付きの女官であるセシリアがいれば良かったと思う。彼女は気丈な質だから、こんな嵐の中でも、毅然とし、侍女達を叱咤してくれたことだろう。

 そのセシリアも、他の侍女達とともに、後宮の部屋に入り用な道具を取りに行ったまま、戻ってこない。彼女達が、部屋についたかと思うころに、天候が急に崩れたせいだ。

 今、この東の宮の一室にいるのは、セシリアによって残され、部屋の片付けを任された若い侍女達ばかりだった。

 彼女達は、アディアナが部屋から出てきたのを見て、表情をいくぶん和らげる。姫が優しく微笑んでいるのを見て、皆、雷のことを忘れたかのようにホッとした表情を見せた。

「雷が凄い音を立てていること・・・酷い嵐ですわね」

 アディアナは、そんな彼女達の心情を押し計りながら、やんわりとそう言った。

 姫のどこまでも、柔らかい口調に、侍女達は強ばらせていた体の力を抜いた。今まで、部屋の隅に固まっていたことを恥じるように、各自、中断していた片付けを再開させ始めた。

「本当に凄い雨・・・」

 アディアナは、窓辺まで、ゆっくりとした歩調で歩み寄ると、開かれたままのカーテンをその手で引いた。雷の騒音は元より、その光だけでも、侍女達が怯えるのを考慮してだ。

 侍女達は、姫の手をわずらわせてしまったことに、慌てたようだった。だが、そんな心配はいらないのだと、アディアナは彼女達に微笑みかける。

「いいのですよ。わたくしばかり、何もすることがないのですから。他にも、わたくしに出来ることは、ありませんか?」

 その言葉に、侍女達は滅相もないと首を降る。

 アディアナは困ったように苦笑するだけだった。

 いつもならば、こんな発言が侍女達を困らせるだけだと判っているはずだった。侍女達と混じって何かすることは、逆に彼女達を困惑させる。それは、長く彼女達と関わっている間に培った経験だった。

 いくら侍女達と近くあろうとしても、彼女達の方がアディアナに対して萎縮する。幼い少女のころには、気安く接してくれていた老齢の侍女達も、アディアナが成長するに従い、敬うような態度をとり始めていた。

 『聖王の姫君』として、自分が、アルディスと同じように見られていることを、アディアナは知っていた。

 だが、その噂を耳にする度に、アディアナは情けなくも思うのだ。そんな名で呼ばれる程、自分は優れてはいないと。

 自分は一介の女なのだ。女官や侍女達が考えている聖性など、あるはずがない。

「・・・本当に怖いくらい」

 ソッと、引いたばかりのカーテンをわずかに開いて、アディアナはそうつぶやいた。

 何に対して、『怖い』とつぶやいたのか、自分でも判らなかった。

 今、外で吹き荒れている嵐が怖いのだろうか。

 それとも、自分に向けられる憧憬のまなざしだろうか。

 いや、自分が怖いのは、『アルディス』だ。

 突然胸に浮かんで来た言葉に、アディアナはハッとなった。この動揺を、侍女達に見られてしまったかと、アディアナは慌てて、忙しく動き回っている侍女達を見回す。だが、誰もアディアナの変化には気が付かなかったようだった。むしろ、そんなことに気が回せないほどに、忙しく立ち回っている。まるで、怯えている間に滞っていた仕事を、嵐がやむまでに終わらせようとするように。

 そのことに、アディアナはホッと吐息を洩した。

「お父様・・・」

 誰よりも愛しいはずなのに、聖王宮に帰ってきたアルディスに気にもかけられなかった瞬間、彼を怖いと思ってしまった。

 そう、怖かったのだ。自分をこんなにまでおかしくさせるアルディスが。

 アルディスのことを思うと胸が詰まる。

 今まで部屋に閉じ篭っていたのは、もちろん、リースの死を悲しんでいたせいだ。だが、同時に、アディアナはアルディスのことを思って泣いてもいた。そんな自分を浅ましく思いながら。

 そんな滅入る気分を払うように、アディアナは首を振った。

 そして、窓辺に立っていると、まるで侍女達を監視しているようだと気付き、そこから離れようとする。

 だが、その瞬間、アディアナは雨と風の合間に、気になる影を見つけた。

「あら・・・?」

 何かと思い、目をこらしてみる。

 そして、それが誰か判った途端、彼女はビクリと体を震わせていた。

「姫様・・・?」

 折りよく、アディアナの傍を通りかかった侍女が声をかける。

 それに、彼女は弱々しく笑ってみせた。

「今、外に出ることは無理なのでしょうね・・・」

「この嵐では、無理ですわ、姫様。飛ばされてしまいます」

 侍女は、アディアナの突然の発言に、面喰らっているようだった。

 こんな嵐の中、外に出たがる者もいまい。何故アディアナがこんなことを言い出すのか、侍女にはまったく判らないようだった。

「そうね。ごめんなさい。言ってみただけです」

 アディアナは、外に未練を残しながら、そうつぶやいた。極力、その思いを侍女から隠しながらだが。

 そして身を翻す。

「姫様?」

「大丈夫。東の宮の広間にいくだけです。あそこなら、まだ、光が入ってきますから」

 そう言って、アディアナは静かに部屋の扉を開いた。

 アディアナが、特別光に愛着を持っていることを、彼女付きの侍女だけあって、その若い女性も心得ているようだった。アディアナの言葉に異は唱えない。むしろ、伴をしようかと言ってくれる。

 それを、アディアナはやんわりと断わった。一人で嵐の中のか弱い光を感じていたいのだと、侍女に告げる。

 扉を何時も通りの、ゆったりとした動作で閉めたアディアナは、その途端に、足早に歩き出していた。彼女の面には、今まで侍女に向けていた、柔らかい微笑みはない。切羽詰まったような、焦った色合いが、それに取って変わっていた。

「・・・なんてこと」

 東の宮の広間がある方向ではなく、手近な庭への出入り口へと、アディアナは向かっていた。ドレスの裾を持ち、足早に、走るように廊下を歩いていく。

 アディアナの念頭にはすでに、風の悲鳴も、雨の叩き付けるような音も聞こえてはいなかった。

 ただ、その中にたたずんでいた一人の人物の陰だけが、頭の中に焼き付いていた。

 

 朝からのぐずついた天気。それを見たときから、注意すべきことは判っていた。

 なのに、この様だ。

「ちっきしょぉ・・・」

 からっぽのベッドを見下げながら、ルドラは忌ま忌ましそうに呻いた。

 先程まで、ここにはアルディスが鬱々とした様子で眠っていたのだ。それが、ルドラがちょっと目を放した隙に、寝室からいなくなってしまった。

 しかも、自分の変わりにと見張りに立たせていた武官はものの見事に、気を失わされていた。いったいどうしたのかと、その武官を叩き起こして聞いてみれば、いきなり、アルディスに気絶させられたのだと、さも気分悪そうに、呻きながら答えてきた。

 つまり、アルディスはルドラがいなくなったのを見計らって、武官を気絶させ、見事に後宮から脱走せしめたと言うわけだ。

 この嵐の中を!

「まったく・・・。どうすんだよ」

 ルドラは頭に手をやり、髪をグシャグシャとかき回した。

 こんな嵐を起こすほどに荒れているアルディスが、ルドラの目もない場所で何をやらかすかは、考えるだけでも恐ろしい。ただでさえ、いつもの魔王化とは状態が違うのだ。アルディスを放っておいては、どんな事態になるか知れたものではない。

 そのことに、ルドラは酷い頭痛がする気がした。この嵐に対する、被害救助の手配があったとしても、どうして、武官などにアルディスを任せてしまったのかと、悔やんでも悔やみ切れない。

 そんな彼を気づかうように、コンコンと、寝室の開け放してあるドアが、軽く叩かれた。

「バルスか?」

 声を聞くまでもなく、気配でそう察し、ルドラは、ばつの悪そうな顔をしながら、振り返った。

 そこには、相変わらず無表情なバルスが、ズブ濡れの司祭服に身を包みながら立っていた。

「ルドラ・・・我が君がいなくなられたと、武官が報告しに来たが?」

「あぁ、見事にトンズラされたよ。ったく・・・」

「どちらに行かれたか、見当は?」

「さぁっぱり」

 そう行って、ルドラは肩をすくめた。

「王宮の外には出てないと思うけどな。あいつが魔王化した状態で、外に出たこと、ほとんどないし」

「そうだな・・・ある程度、ご自分の危険性を、あの方は承知しておられるのだろう」

「まぁな。・・・もっとも」

 ルドラは何か嫌な考えでも思いついてしまったのか、眉を潜める。彼の面には、アルディスを心配する友人としての表情と、『魔王』による被害を考慮する大武聖としての表情が入り交じっていた。

「今のアルは、いつもとちょっと違うからな・・・うちの武官連中に、アルの場所、探らせるか?」

「もう、やらせている」

「流石だな」

 手際の良い大神官に、ルドラは苦笑するしかない。勝手に武官達に命令を下されたことも、癪には触らなかった。武官達には、何時、大神官の命を大武聖に報告することなく実行すべきか、ちゃんと教え込んである。

 二人の、深刻な横顔を照らし出すように、雷が光った。そして、轟音。

 それにかき消されるように、遠くから、水を踏み散らす音が聞こえてきた。最初にそれに気が付いたのは、ルドラ。彼の表情の変化を見て、バルスもこの部屋に向かってくる文官の気配に気が付く。

「何事だ!?」

 バルスは、素早く部屋の外まで駆けていく今にも風に吹き飛ばされそうな、か弱い女性が、こちらに走って来るのが見えた。バルスが、連絡のために残してきた文官だ。

 彼女は、薄緑の短い髪を、両頬にベッタリと張りつかせ、肩で荒い吐息を繰り返していた。

「どうだった?」

 バルスが、冷たい口調で促すと、彼女は何とか息を整え、口早にまくしたてた。

「聖王様、正宮はもちろん、西の宮にもおられないと言うことです」

「ちゃんと捜してんのかぁ、あいつら」

 部下が、そんな手抜きをしないことを判っていながら、ルドラはつい、そう文句を言ってしまう。

 そんなルドラの口を無視し、バルスは文官に先を促した。

「で、東の宮と後宮は?」

「後宮の方は今だ探索中ですが、姿は見られないと言うことです。東宮は・・・」

 そう言って、文官は言葉に詰まった。

 彼女の顔色がどこか悪いことに、ルドラが気が付く。これは、雨に当たって濡れそぼったせいではない。何か異変があったせいだ。

「どうした?」

 ルドラは大武聖としての表情をあらわにし、文官を睨み付ける。

 文官は、そんな彼の表情に怯えつつ、小さな声で先を続けた。

「東の宮、侵入不可能と連絡が。おそらく、結界かと・・・」

「ドンピシャだな」

 ルドラはそう言うなり、文官の横をすり抜け、嵐が吹き荒れている外へと駆け出していった。それを、バルスもすぐに追う。

「ルドラ!!」

「アイツは、東にいる。絶対だ。この聖王宮で、俺にもお前にも違和感なく結界張るのなんか、アル以外に誰ができる!?」

「アディは!?」

「ばぁか。お前だって、アルだって思ってるんだろうが。第一、どうして、こんな時にアディが結界を張るんだよ!」

 後方のバルスに怒鳴りながら、ルドラは全力で走っていた。バルスがいくら遅れようが、構っていない。それよりは、結界を張るほどに、他人を拒絶しているらしいアルディスの方が気になっていた。

 そう、アルディスは、ついに自分も拒絶したのだ。そんな状態の彼が何を思っているのか。もう、つながっていた心にさえ、伝わってこない。

 アルディスが拒絶した程度では、ありえないことだった。拒絶するほど、何かを思っているのなら、必ず、感じられるはずなのだ。だが、それがない。

 考えられる理由など少ない。一つは、アルディスが何も感じていないこと。そして、もう一つは、ルドラの側が感じていないこと。

 アルディスの悲哀があまりにも大きかったために、ルドラの心の方が、それを関知するのを拒絶した。

 それ以外、考えられなかった。

「アルディス・・・すまん」

 東の宮へと急ぎながら、ルドラは苦悩に面を歪めた。

 どうして、こんな大事な時に限って、自分はアルディスの心を拒絶してしまったのだろう。

 そうだ。先に拒絶したのはアルディスの方ではない。自分だったのだ。

 

 

 

 

 

 

今回のNG

 

 自分などは、情けなくも、人目がありながら、アディアナにすがって泣いていた。だが、アディアナは周りの人間を極力心配させないために、誰もいないところで、一人で泣いているのだ。周りに誰かがいる時には、彼等を励まし、そして、一人になった時にだけ、大事な人間を失った悲しみに震えている。

 ふと、体が傾いだ。また、水溜まりに足を取られたらしい。

 

 <FONT COLOR="red" SIZE=7>ガン!</FONT>

 

 ……こけて壁に突進したらしい。

「ちっくしょぉ、こんな水溜まりが出来るような建物、作んなよなぁ!」

 派手に廊下に倒れ込みながら、エルフィナは忘れずに悪態をつく。

 ……頭にでっかいたんこぶも出来ているが。

「うっさい。黙れ馬鹿ネコ!」

 誰もいない空間に怒鳴り散らすエルフィナ。

 

 ……NG決定(汗)

 

 

(つづく)

 

 


(update 99/04/30)