7 そのことを思い知るがいい。
体に降りかかってくる、いや、打ちつけてくる雨が痛い。東の宮の建物にぶつかっていく水滴は、日頃の雨脚からは予想もできないほどの、すさまじい音を鳴り響かせている。まるで、小石のつぶてが、宮の白い壁に打ちかかっているようだった。風も突風のごとく、辺りを暴れ狂っている。木々は予想以上に、その風に翻弄され、身にまとっていた数々の葉を、無残に散らせていた。枝はしなり、今にも折れそうになる。小枝などは、とうにもぎ取られ、地面に敷き詰められ、あるいは、空中を木の葉と共に舞っていた。
そんな中、風に押し倒されぬよう、ゆっくりと慎重に、アディアナは歩いていった。
白いドレスはとうに雨でずぶ濡れになり、裾の方は足元の泥で黒く汚れていた。金の髪も風に乱されグシャグシャになっている。アディアナの豊かな髪は、一筋、二筋と、風に舞い、空中にあった葉を絡めては、下へと降りていく。
東の宮の庭園へと踏み込んですぐに、アディアナはずいぶんと無残な格好となっていた。雨の冷たさのせいで顔色は青ざめ、唇も段々と紫になっていく。
そんな酷い有様であっても、なお、彼女は荘厳だった。
濡れた服は彼女の体に張り付き、その細いながらも女性らしい体つきを露にさせる。青ざめた顔も、また、いつもとは違った、険しい表情を露にしている。
だが、アディアナ自身は、そんな自分の様子に少しも構っていないようだった。
彼女はただ、まっすぐに前を見据え、この嵐の中でも、懸命に進んで行こうとする。
木の影に入り、風から身を守り、また、歩いていく。
その途中で、アディアナは足元にあった泥の水溜まりに足をとられた。身が傾ぎ、呆気なく倒れてしまう。
白かったドレスも、あっと言う間に、泥で汚れてしまった。アディアナは、ヨロヨロと起き上がりながら、その様を見て、ため息をついた。
それでも、諦めようとはしない。
アディアナは、煩わしそうにドレスの裾を持ち上げると、それを軽くしぼった。そして、裾を下げることなく、白くすらりと伸びた足を膝まで露にして、歩き出す。
ただ、前に進んで行きたかった。
この先にいるはずなのだ。アルディスが。
そう、アディアナは、彼の姿を見つけたのだ。先ほど、ふと覗いた窓から、雨の中に立ち尽くしている、アルディスの姿が見えた。
顔を両手で覆い、濡れそぼっているアルディス。
彼の姿を見つけた途端、アディアナは、彼の傍に行かなければならないと思った。
その思いは、直感のようなもの。
理性でもなく、むしろ、感情が訴えかけた気持ちだった。
こんな雨の中、アルディスがどうして、この東の宮に一人でいるのか、アディアナは判っていた。
アルディスは泣いていたのだ。
自分がそうしたように。
本当なら、放っておいて上げたかった。自分が今の彼を宥めるよりは、親友であるルドラが慰めてやった方が、アルディスのためになることは、知っていたから。
だが、そう思うよりも先に、アディアナは一人で部屋を出ていた。
何故だろう。
今こうやって、泥だらけになりながらも、アディアナは不思議に思う。
どうして、自分が行かねばならないのだろうか。今のアルディスが自分を拒絶することは判り切ったことなのに。せいぜいが、無視されるのが落ちだと言うのに。
ふと足を止め、アディアナは表情を強ばらせた。
衝動的に部屋を出た時には考えていなかった。だが、確かに、アルディスが自分を、強く拒絶することはありえるのだ。
無下に扱われ、邪険に追い払われるかもしれない。
その予感に、アディアナは身を震わせた。
彼に声をかけて貰えなかっただけで、自分は胸が潰れる思いを味わったのだ。
もし、はっきりと拒絶されてしまったら、どうなるか判らない。心が砕け散るほどの思いを味あうかもしれない。いや、もしかしたら、それ以上の心の苦痛を感じるのではないだろうか。
そう思うと、今までゆっくりととだが、確実に前へと進んでいた足が、ピクリとも動かなくなった。
カタカタと体が震える。寒さによる震えではなく、恐怖によってだ。
急に、自分が酷くみじめな存在のように感じた。
「何をやっているんでしょう・・・わたくしは・・・」
そう言って、アディアナは顔を覆った。
細く白い指の合間から、嗚咽が漏れる。だがそれも、嵐の吹き荒れる中、安易にかき消されていく。
アディアナの小さく震える肩だけが、彼女が泣いている証拠だった。
彼女は、顔を覆っていた手を離すと、その手の甲で頬を拭った。もう、そこにある水滴が、涙なのか、それとも、雨粒なのかさえ、よく判らない。
悲しんでこぼした涙も、この嵐では、すぐに洗い流されてしまう。
そのことに、アディアナは、わずかにだが救われる思いがした。
これならば、今こぼした涙も、アルディスに見つかることはないだろう。
アディアナは、前にかかってきた髪を払い、再び歩き出した。
決めたのだ。
相手が父である以上、この思いが許されないことは判っていたはずだった。それを、今さら邪険にされたからと言って、何だと言うのだ。
自分を拒絶して、その分アルディスの心が晴れるのならば、本望だ。もし傍に寄る事ができて、そして、慰めることができたら。それ以上の喜びはない。
そう、一言でいい。たった一言でいいから、アルディスを慰めてやりたかった。
それが、自分にできるたった一つのことだと思ったから。
嵐の突風の音ばかりが、煩いくらいに聞こえてくる。
両手で面を覆い隠しながら、アルディスは泣きもせず、また笑いもしなかった。
ただ無表情に、雨の中に立ち尽くしている。白い夜着のまま、全身を雨で濡らし、微動だにもしない。
「リース・・・」
一人でいると、彼女が大地へと落ちていく場面ばかりが思い出される。
大地の腕の中に還り、そして、押し潰された、愛しい女。
生え出てきた、大地の手に捕まれ、握り潰されながらも、彼女はアルディス達に向かって、笑いかけてきた。
その最後の微笑みが、脳裏に焼き付いて消えてくれない。
「リース・・・!」
耐えられなくなったかのように、アルディスは地面にしゃがみこんだ。顔を覆っていた手をほどき、地面へと打ちつける。膝をつき、体を泥の中につっぷさせた。
「リース・・・どうして・・・」
銀髪を、汚れた泥の中に浸しながら、アルディスは呻いた。
手が震えながら、雷の鳴り響く空へと差し出される。
刹那、その呼びかけに応えるように、空が輝いた。そして、大気を轟かせる轟音が鳴り響く。
その光にも、音にも、アルディスは怯えた様子は見せなかった。むしろ、その恐ろしげな天空の怒りを見て、微笑んでさえいる。
どこか狂気をはらんだ笑み。
今のアルディスの微笑みを見た者がいれば、そう思ったことだろう。
正気と狂気の、危うい境界線の上を、アルディスは漂っているようにも見えた。あと少し、後押しさえしてやれば、彼はすぐにでも、狂ってしまうだろう。そして、抑えられていた魔の王が目覚める。
それを阻んでいるのは、彼を狂気に落としかけているリースの微笑みだった。
あの最後の笑みが、彼を狂わせ、同時に、こちらの世界に引き留めてもいる。
パシャン。
力なく差し出されていたアルディスの手が、泥水の中に落ちた。水が跳ね、アルディスの濡れそぼった肩や、頬にかかる。まるで汚れた涙のように、泥は頬を伝って落ちて行った。だが、アルディスはそれを払おうともしない。まるで、その不快な水滴自体に気がついていないようだった。
そのまま、アルディスはピクリとも動かなくなる。
気力のないように、目もつむってしまう。
泥の中に屈み込んだその姿は、死体のようにも見えた。
光を放っているようにも見えた銀髪は、泥をかぶり焦げた茶色になっている。時折、億劫そうに開かれる瞳には、生気もない。
白い夜着も、泥を被り、黒いまだら模様になっている。水を含んだそれは、アルディスの背中に、不快な程に、ベッタリと張り付いている。
そんな格好で、アルディスは地面の上で丸まっていた。ピクリとも動かず、何かを待つように、ぼうっとしている。
「・・・リース」
ぽつり、ぽつりと口から漏れる言葉は、『リース』だけ。他の、自分に近い人物達の名前さえ呼ばず、彼がつぶやくのは、今はもう亡い愛する女性の名前だけだった。
そのまま、どれほどの時が経っただろうか。
一時間のようにも、また、たったの数十秒のようにも感じる。
不意に、何かの気配を感じ、アルディスはノロノロと顔を上げた。
向こうの木々の合間に、白い影が揺れているのが見えた。
亡霊でも出たのかと、アルディスは首を傾げる。
だが、段々とこちらに近寄ってくるその姿が、自分の見知っているものだと知り、興味を無くしたように、そっぽを向いてしまった。
「お父様!」
聞いたことのない、切羽詰まった声。
それに、アルディスはまた、伏せていた顔を上げた。
「・・・アディ?」
「お父様・・・あぁ、こんな所にいらっしゃっては、お風邪を召します」
アディアナは、養父の姿を認めると共に、慌てた様子で駆け寄って来た。痛ましそうに、言葉をつぶやき、彼のすぐ傍に膝をつこうとする。
それを、アルディスは冷ややかな瞳で見つめている。
「何をしに来た・・・?」
「何を・・・お父様のお姿をお見かけしたので、心配になって・・・」
「本当に?」
アルディスはそう言って、ゆったりとした動作で起き上がった。
その瞳には、次第に光が戻り、動作にも生気が篭ったものになる。
だが、その面に浮かんでいる笑みは、どこまでも酷薄なものだった。冷徹で、見るものをひるませる、狂気を含んだ笑み。
アルディスの笑い顔を見て、アディアナは身を強ばらせた。
「お父様・・・」
「あぁ、可愛いお姫様」
アルディスはクスクスと笑い出す。
地面に膝を立てた状態で座りながら、地面についた左手で、だらけた身を支えている。そうして、端正な面がより引き立つような、冷たい笑みを浮かべる。
「何とも浅ましいものだな、アディ」
彼はそう言って、空いている右手をアディアナへと差し向ける。左手を支えに傾げていた身を起こし、目の前に膝をついている『娘』の顔を覗き込む。
「こんな嵐の中、俺を心配して来れば、少しは情けをかけて貰えるとでも、思ったか?」
「お・・・お父様・・・?」
「俺は知っているよ。お前が『娘』と言う立場でありながら、俺を思っていることなどね。見え見えだからな。それとも、わざと気がついて貰えるように、振る舞っていたのか?」
アルディスの言葉に、アディアナの顔色がサッと変わった。
彼女は、何か怖い物でも見るかのように、アルディスから逃れようとした。だが、彼は素早くアディアナの腕を掴み、そうさせない。
「本当に嫌な娘だよ、お前は。養父とは言え、俺は父親なんだ。そんな相手を思うなんて、醜いと恥じることはないのか?」
「お父様・・・やめて・・・」
「親娘だと・・・卑しい娘だよ。これを、お前に叱責された俺の重臣達が知ったら、どう思うかな。汚らわしい姫だ、まるで獣ようだと、罵ってくれるだろうな」
「やめてください!」
アルディスの腕から逃れられぬまま、アディアナは首を振った。
白く青ざめた頬に、いく筋も涙がこぼれていった。それを、アルディスは満足そうに眺めている。
「そうやって泣けば、いくらでも許されると思っているんだろう。だから、俺は止めない。俺だけは、止めてやらない」
「お父様・・・」
「本当は、リースがいなくなって、ホッとしてるだろ?」
アルディスの青い瞳が、射抜くように、アディアナを見据える。
アディアナはただ、信じられないと言ったように、涙を張りつかせ、彼を見つめていた。
この人は、何を言っているのだろう。
「お父様・・・・何を・・・」
「俺が大事に、大事に思ってきたリースがいなくなって、嬉しいだろうって言ったんだ。これで、悲しんでいる俺でも慰めれば、少しは愛しんで貰えると思ったか?」
そう言って、アルディスは狂気じみた笑い声を上げる。
彼の高い、引きつった笑い声が、嵐の合間に響わたった。
その笑い声を、アディアナは呆然と聞いていた。
「お父様・・・」
目の前にいる青年は、誰だろうか。まるで見たことのない、知らない人物に見える。
「あぁ、お父様・・・」
アディアナは、狂乱するアルディスを見守りながら、新しい涙をこぼしていった。
ポロポロと、止まることなく、涙がいくつもアディアナの頬をこぼれ落ちていく。
アルディスは狂ったように笑い続けながら、その涙をおかしそうに見ていた。
その彼の腕を、アディアナの手がソッと抑えた。
「可愛そうな、お父様・・・」
「なに・・・?」
少女の言葉に、アルディスがふっと、笑みを絶やす。
「・・・なんて言った?」
「可愛そうだと言ったのです」
何の迷いもなく、アディアナはきっぱりと、自分がつぶやいた言葉を復唱した。
その途端、彼女の身が傾いだ。
アルディスが、彼女の頬を打ったのだ。
「誰が可愛そうだと!?」
彼は、膝を地面につけながら、顔を真っ赤にさせ、倒れたアディアナを見下ろしていた。
泥の中に突っ伏しながら、『娘』たる少女は、そんな『父』を見上げる。意思の篭った強く、それでいて、優しい瞳で、彼を見据える。
「わたくしは、貴方がお可愛そうだと言いました!」
「俺のどこが、可愛そうだと。お前などに、哀れまれる言われはない!」
そんな事、ご免だとばかりに、アルディスが焦った声で叫ぶ。
嵐が、段々と強くなっている気がした。
アディアナはゆっくりと身を起こし、顔色を変えた彼を静かに見据えていた。彼の動揺と怒りを受け止めるように、ジッと、視線を反らしもせず、見つめ続けている。
「・・・そんな・・・お前なんかに・・・」
彼女の静かな瞳を睨みつけ、アルディスは身を小刻みに震わせていた。
怒りから。
あるいは、恐れから。
8 どうぞ思い知らせて下さい。
強まっていく嵐の悲鳴だけが、辺りに響いている。風は吹き荒れ、雨は以前より強く、地面へと叩き付けている。
その中、アルディスは地面に倒れている少女を憎しみも篭った瞳で見据えていた。
娘の名前はアディアナ。
十四年前に、彼がこの聖王宮へと連れてきた娘だった。
あの時、アディアナはわずかに三才という幼さだった。小さく、壊れそうな、人形のようにも見える、美しく、可愛らしい少女だった。
見る者を引き付けるような魅力に満ち満ちている。幼い彼女と接した侍女や女官達は、途端に、彼女の愛らしさに引き込まれていった。中には、彼女の世話をしたがり、自分から、アルディスにその役を貰えるよう、直談判をしにくる侍女もいたほどだ。
アディアナの、無邪気な様子に引き込まれたのは、何も侍女達ばかりではなかった。後宮に入ることを許されない、男性の文官・武官達も、朝廷の折に、『姫』となった彼女を拝し、そして、傾倒していった。
ルドラはもちろんのこと、冷徹で偏屈だと、陰口ばかりを叩かれていたバルスでさえも、アディアナにはどこか甘かった。兄のように接するルドラと、そして、彼女の教育に熱中していたバルス。二人とも、この『姫』を愛し、そして、慈しんでいた。
それは、アルディスも変わらないはずだった。
だが、彼は今、今まで愛していたはずの『娘』を、これ以上はない憎悪の篭った瞳で、見下ろしていた。
初めは激していた彼も、次第にその熱狂を冷めさせていく。そして、段々と、酷薄な表情で、自分に向かってきた娘を見るようになった。
「・・・俺が、可愛そうだと?」
思わずゾッとなるような、冷淡な声で、アルディスがそうつぶやく。
何とか、身を起こそうとしていたアディアナは、その声に、思わず動きを止めた。
あまりにも冷たい彼の声に、金縛りにあったかのように、身動きするできなくなる。
「お父様・・・」
「・・・・・・くせに」
ボソリつぶやかれた、低い声。
嵐の音にかき消されたその声に、アディアナは顔を強ばらせた。
冷たく、酷薄なアルディスが怖い。
そう思った。
自分が告げた言葉が、アルディスに対して、ここまで影響を及ぼすとは思わなかった。自分はただ、『可愛そう』と言っただけなのに。
彼のプライドを傷つけてしまったのだろうか。
いや、そうではあるまい。
アルディスの怒りは、それ以上のものだ。
むしろ、アディアナの言葉は、アルディスにとって、振れてはならない部分を、かすめていったのかもしれない。
例えば、彼が押し隠してきた記憶を暴くような。
「お父様・・・お父様!」
顔を伏せ、怒りに身を震わせている彼を、アディアナは何度も呼んだ。
だが、アルディスは決して答えようとはしなかった。
ただ、激怒し、アディアナを憎悪していた。
「お前などに、何がわかる・・・」
「え・・・?」
「何も知らないくせに!」
突然、アディアナの体が弾かれた。
彼女の小さい悲鳴が、辺りに響き渡る。
アルディスが小声でつぶやいていた呪文が、効力を発し、アディアナを弾き飛ばしたのだ。直前で、魔法の存在に気がついたアディアナも、結界を張ったらしい。だが、アルディスの呪文を防ぐほどではなかった。
アディアナの体は、その身の軽さのせいもあったのか、用意に空中に投げ飛ばされた。そして、そのまま、何の支えもなく、泥だらけの地面に叩き付けられる。
「う・・・」
呻きながら、アディアナは何とか身を起こそうとする。
こうやって、呪文をまともに叩き込まれたのは、初めてではない。あのバルスに、修練の際に、徹底的にやられたこともある。そして、かつてエルフィナが魔族と対峙した時にも、壁に叩き付けられた。
どの時よりも、この呪文はアディアナの体には影響を及ぼさなかった。多少、打ちつけた背中が痛むが、それほどではない。
むしろ痛むのは、心の方だった。
攻撃系の魔法を、よりにもよって、アルディスに叩き付けられたのだ。
「お父様・・・」
髪を乱し、面を歪めながら、アディアナは父親を見上げた。
以前、アルディスは怒りに面を醜く引きつらせている。そして、怯えたような瞳で、アディアナを見据えていた。
「お前に・・・何がわかる。何も知らないくせに」
「わたくし・・・えぇ、そうですわね。何も知りませんわ」
アディアナは、彼の言葉を肯定しながら、何とか起き上がった。
不意に、ズキンと腕に激痛が走った。何かと見てみれば、そこから、赤い血が流れているのが見えた。濡れそぼり、泥に汚れたドレスににじんでいく紅の血。叩き付けられた地面の上に、折れた木が刺さっているのが見えた。たぶん、それに突き刺さったのだろう。
腕を抑えながら、アディアナはヨロヨロと立ち上がった。そして、向こうから、こちらを睨んでくる父親を、静かに見返す。
「わたくしは、お父様の言う通り、何も知りません。ですが、目を背けているわけではないと思います。ただ、何を知らないのか、それを、判りえないだけです」
「それを、人は無知と言うんだよ」
「そうですね。では、わたくしは無知なのでしょう。ですが、これから知っていくことは出来ます」
「決して知ることの出来ないものもある」
「では、そんな知ることの出来ぬことを、心に留めていないことは、悪いことでしょうか。知りえないことを、知らないと言うのは、わたくしの非ですか?」
「知ることが出来なくとも、そんな立場にあること自体が罪なんだよ」
アルディスは冷たくそう言い切る。
その言葉に、アディアナは目を細めた。スッと、涙が頬をこぼれていく。
「では・・・お父様の言う、『何も知らない』と言うことは、知ることの出来ないものですか?」
「知ってどうする?」
アルディスの面に、わずかにだが動揺が走る。
目をつむっているアディアナには、その感情の動きを見て取ることは出来なかった。ただ、彼女は静かに、思っていることを口にしていく。
「もし、わたくしが『知る』ことで、お父様が楽になるのでしたら、そうします。もし、お父様が不快になられるのでしたら、知ろうとは思いません。どうでしょうか?」
「なぜ、そう言う?」
「貴方に、嫌われたくないから・・・」
アディアナはそう言って、苦笑して見せた。
腕を抑える手や指の間から、赤い血がこぼれ始めた。灰色になっていたドレスの腕の部分も、段々とその血で染まっていく。
「わたくしが、何かすることで、貴方が楽になれるのでしたら、その何かをしてあげたい。それでは、いけませんか?」
「偽善だな」
「偽善だとて、かまいません。貴方の悲しみが、少しでも和らぐのなら」
「そんな言葉・・・聞きたくない!!」
アルディスは、そう叫んだかと思うと、頭を抱えた。
苦しそうに呻き、そして、嗚咽をもらす。
「俺のことなんか、誰にも判るはずがない・・・ルドラとバルスとリースと・・・そして、カレンだけが知ってたんだ。そして、受け止めてくれてた」
「お父様・・・」
「俺のことを知って、それでも、愛してくれる奴なんて、他にいるはずがない。いるはずが、ないんだ!」
追い詰められた少年のように、アルディスは大声で叫ぶ。まるで、アディアナの存在など、忘れてしまったかのように、心の中の不安を吐露していく。
悲しんでいたかと思うと、冷ややかになる。そして、憎悪に囚われていたかと思うと、急に不安がる。
見ている間に、感情を漂わせていくアルディスに、アディアナは胸を抑えた。
錯乱している。
そう思った。
そして、その原因が、リースにあることも判っていた。
錯乱を押し進めたのは、アディアナの存在だろう。だが、その根本に、リースの死がある。
「お父様・・・では・・・」
ゆっくりと、金の髪を持った少女が、歩み寄っていく。彼女は、頭を抱え震えているアルディスの傍まで近寄ると、そっと、彼の体を抱いた。
「わたくしは、知ってはいけないのですか?」
「知りたければ、いくらでも教えてやるさ・・・」
低く、絶望したような声で、アルディスが答える。
「ただし・・・もし、お前が態度を翻しでもしら・・・その時は・・・」
「その時は?」
聞き返しながら、アルディスの面を覗き込んだ。
彼は、その視線から逃れるように、アディアナの腕を振り払った。いくぶん、毅然とした様子で、彼女を見据える。
「その時は、たぶん、俺はお前を殺すかもしれない」
「お父様・・・」
「俺は、今、おかしいからな。・・・たぶんそうするだろう」
「・・・そうですか」
「どうする、アディ?」
それでも聞くのかと、アルディスは最後に聞いてくる。
それが、彼の理性なのだろう。そうやって、アディアナに最後の逃げ道を与えてやっている。
狂気の影に、見え隠れする、彼らしい配慮。それに、アディアナは救われたように、笑みを浮かべた。
満足そうに、そして、後悔もなく、彼女はうなずいて見せる。
「いいですわ。だって、わたくしが態度を翻す時、きっと、お父様を深く傷つけるでしょうから。ですから、お好きにしてください」
「・・・言ったな」
アルディスは皮肉そうに、口元を歪めた。
彼は、アディアナの赤く染まった腕を見て、目を細めた。そこを掴み、唇を寄せる。
掴まれた拍子に、激痛が走った。その痛みに、アディアナは顔をしかめる。そして、彼の唇が、自分の血に汚れた傷口に寄せられていることに気がつき、身を震わせる。
「お父様!」
アディアナは、彼の仕草に慌てて避けようとした。だが、今さきほど誓った言葉を思いだし、何とか踏みとどまる。
「お父様・・・」
濡れた服越しに、アルディスの吐息が傷口に振れる。
彼は、そっと唇を寄せ、静かに目を閉じた。祈る様に、傷口のすぐ上に額を近づけ、静かに言葉をつぶやいていく。
それが回復用の呪文だと、アディアナはすぐに気がついた。自分もよく使う、光に属する癒しの呪文だ。聞き間違えるはずがない。
傷口の裏へと回されていた、アルディスの掌に、淡い光が灯る。癒しの光は、弱々しく、細腕の傷を照らし出し、徐々に癒していった。
泣きたいような思いで、アディアナは眼下に見えるアルディスの、汚れた銀髪を見下ろしていた。
そんな彼女の視線に気がついたように、彼は顔を上げた。
「・・・俺の故郷は、このゴールドバーンじゃない。海の向こう・・・ウルヴィスもある、シルバリアの大陸だ」
「お父様・・・?」
「そこには、俺の罪がある。兄を傷つけた罪、父を見殺した罪。そして、姉上の卑しい行いを止められなかった罪」
「お父様・・・」
「皆が俺を聖なる王だと言う。世界を維持していると言って称える。だが、それは、俺の本性を知らないから、言えるんだ。アディ、俺は人殺しだよ。心の卑しい人殺しだ。常に兄上から逃げている。そんな、弱い人間なんだ」
ふっと、アルディスの目が細められた。
アディアナの、恐れよりは、悲しみに満ちた表情を見て、満足しているようだった。
(つづく)
(update 99/04/30)