9 心に残る影。
東の宮を覆うように張られた結界。それは、煌々とした光を放つ、白く輝く壁だった。東の宮の領内から出る者を拒まず、それでいて、一切の者を中に入れようとはしない。宮を囲み、そして天上を覆うそれは、外からやって来ようとする者にとっては、絶対なる不可侵な領域だった。
強い光の性質をもつ結界。
それに気がついた者はごく少数のみだ。
大武聖の命により、東の宮を探査していた武官達。
その報告を受けた大武聖、大神官の両名。
そして、エルフィナ。
正宮の庭から、直接、東の宮の庭園に乗り込んできた彼女は、そこへと踏み込んだ途端に、何かに弾かれ、後方へと飛ばされていた。
嵐の中、風の勢いもあったのかもしれない、身軽な少年の体格しか持ち合わせていない彼女は、自分が走ってきた速度そのままに、安易に吹き飛ばされる。
反射的に、エルフィナは頭を庇っていた。
ここは庭園だ。至るところに、大木がある。そんな幹にでも叩き付けられれば、脳震盪ぐらいは起こすかもしれない。
日頃、ルドラとの修練の際には、決まって、壁まで弾き飛ばされている彼女は、そう考えるより先に、身を庇っているような所がった。
投げ飛ばされたなら、反射的に身を庇う。それが、すでに身についてしまっている。
「う・・・!」
嵐の風の音と、雷の轟音の中、エルフィナの、細いが、しっかりとした体が、大木の幹に叩き付けられる。
予想通り、わずかに降下したところで、背中から、ぶつかっていった。
エルフィナは、そのまま、ズルズルと下に落ちると、泥で濡れた地面の上で、丸まった。背中を打った拍子に、ため込んでいた息を全て吐き出してしまったせいか、酷く息苦しい。
雨が顔に降りつける中、必死に、呻き声を堪える。
痛む背中の具合を見ながら、彼女はヨロヨロと起き上がった。
そして、自分を弾き飛ばした、存在を見る。
目の前にそびえ立つ光の壁。
それに気がついたエルフィナは、思わず呆然となっていた。
「なんだよ、これ・・・」
彼女は、フラつく足取りのまま、その結界のすぐ傍まで、ゆっくりと歩み寄った。
そこへと、恐る恐る、右手を差し伸べてみる。
『バチン!!』
瞬間、雷が輝いたような、激しい光が辺りを覆った。
火花が散り、衝撃がエルフィナの体に走る。
「いつ・・・」
エルフィナは、恨めしげに結界の壁を見上げながら、自分の手を抑えていた。
無理に結界に触れたそれは、指先から、ズタズタに避けていた。赤い血が、左手の指の合間から、ポタポタと、濡れた地面へと落ちていった。
「いったい、なんだ、これは・・・」
彼女は、酷く不機嫌そうにつぶやくと、指先が裂けてしまった右手を、口元にやった。挑戦的な瞳で、壁を睨み上げながら、溢れてくる血を舌で嘗める。
鮮血が、エルフィナの舌に触れた。
これが、一般の女性ならば、朱色の血は、絶好の紅となり、その女性の妖艶さを増したことだろう。
だが、エルフィナの口元にあって、その血は、あくまで『血』だった。それは、彼女の唇を染める化粧とはならず、ただ、冷たさを増す液体となる。
口の端から、血が漏れた。それを、エルフィナは手の甲でわずらわしそうに吹き取る。
「姉上・・・って訳じゃ、ないよなぁ・・・」
エルフィナは、既に、ズタズタにされた右手のことなど、気にならないとばかりに、楽しそうに結界を見据える。そこには、挑戦的な色合いと、憎悪に似た感情が混在している。
雷が鳴った。その直前に、金色の光。
それは、エルフィナの灰色の瞳を、いつかの瞳の色へと、一瞬だが戻していた。
茶色の髪も、この暗闇の中では、黒く染まって見える。
「・・・アルディスか」
ささやくように、エルフィナの血に濡れた唇から漏れた言葉。
それを聞いた者がいたとしたら、強い悪寒を感じたことだろう。
そこには、冷徹さと、そして、奇妙な満足感があったのだから。
「・・・姉上がおられる東の宮で、何やろうって言うのか知らないけどさ」
まるで、そこにアルディス本人がいるような口調で、エルフィナはつぶやいた。
「押し通させて貰う。これが、アンタの結界である以上、遠慮する必要もないしな」
エルフィナはそう言い切ると、未だ血が滴っている右手を、天上へと掲げた。
嵐の中、そんなものにも注意を奪われず、彼女は朗々と呪文を唱え出した。この結界を、強引に破壊するつもりなのだ。
エルフィナの、少女にしては低く、男性にしては高い声が、嵐の中、切れ切れにだが、辺りに響いていった。
アルディスのような優しさはなく、また、アディアナのような暖かみもない。そんな、詠唱の声。
エルフィナの呪文は、むしろ、冷たく、そして、高貴だった。
聖王の姫と言うよりは、孤高の皇子。そんな印象を、拭えない。
朗長けた声で、炎に属する言葉を紡いでいく『少年』。その瞳には、姉から切り離されたと言う苛立ちと、自分から姉を引き離している相手に対する憎しみだけが篭っていた。
嵐は、先刻よりも、ずっと酷くなってきている。
雷鳴が鳴り響き、雨は滝のように降り注いでいる。
東の宮の庭園には、いつの間にか、豪雨によって発生した小川が、いく筋も流れ始めていた。それらは、時に絡みあい、そして、別れ、濁流の様な泥水を、低い場所へ、低い場所へと押し流していった。
今、アディアナが立ち尽くしているすぐ足元にも、そんな小川の一つが流れていた。
それは、アルディスと彼女の間を裂くように、丁度、彼等の間を走っている。
「お父様・・・」
降りつける雨に、全身を濡らしながら、アディアナは、カタカタと小刻みに身を震わせていた。
これは、寒さのために震えているのではない。アルディスが今先ほど、ささやいた言葉ゆえだ。
アディアナの震えを見て、アルディスはおかしそうに笑っている。彼は、掴んでいた、彼女の細腕を放すと、一歩後ろに下がってみせた。
「どうした?」
「・・・どういうことですか?」
「何が?」
アディアナの恐れそのものを楽しんでいるように、アルディスは明るく笑って、首をかしげる。
「兄を傷つけたという事か、それとも、父上を見殺しにした事。それとも、我が姉上の事か?」
「全てです」
アディアナはそう言って、憂いがちに首を振る。
「どうして、お父様が、そんなことを・・・」
「必然的とも言うし、俺が望んだからとも言う」
「お望みになった?」
「あぁ。特にね、兄上については」
アルディスは、ヒラヒラと手を振って見せる。何度も、飽きることなくきらめく天上を見上げ、目をつむったかと思うと、再び、アディアナを冷たい表情で見据えた。
「俺が怖いか?」
「・・・えぇ。今の貴方は、とても怖い」
「『今』?」
アルディスは、アディアナの言葉が判りかねるのか、不機嫌そうな表情を見せる。
「俺は俺だよ。今も昔もない。俺と言う存在は、過去も今もあり続け、そして、死なない限り、未来にも続いていくものだ。それを、『今』と区切るのは、無理だ」
「いいえ。なぜならば、『今』、わたくしに告白なさった貴方は、とても怖い顔をなさっていましたもの・・・」
フワリと、濡れているアディアナの服の裾が揺れた。水を吹くんでいる以上、いくら強風があっても、こんな風に持ち上がることはないだろう。
それに、アディアナもいぶかしげな表情になる。
だが、すぐに、それが周りに張られた魔法陣のせいだと気がついた。
いつの間に張っていたのだろうか。アディアナとアルディスを囲む形で、一個の小ぶりな魔法陣が、地面に描かれていた。
魔力を元に、光のみで描かれた法陣。それは、二人を包みこみ、淡い光を発している。
その中で、アルディスはまた笑っていた。
アディアナでさえも、思わずゾッとなる笑みを浮かべて。
「どうして・・・」
どうして、そんな笑みを浮かべていなければならないのか。
そのことに、アディアナは胸を詰まらせた。
素直に苦しんでもいられない、泣いてもいられない。ただ、こうやって、無理にも見える、冷たい笑みを浮かべる。
そんなアルディスの態度が、アディアナには辛かった。
自分の前では、泣いてはくれないのかと。自分では、彼の悲しみを受け止めてやれないのだろうかと。
ふと、辺りの風が止んだ。一切の音が無くなり、落雷の音さえもかき消えてしまう。
それでも、法陣の外は、風が吹き荒れ、そして、雷が輝いている。
「魔法陣のせい・・・?」
突然、辺りから隔離されてしまったことに、アディアナは戸惑った。
そのアディアナの困惑を見て、アルディスはほくそ笑む。
「東の宮に張った結界も、誰かさんが力任せに破ろうとしているから。邪魔をされたくなくてな」
「誰か・・・ルドラ様ですか?」
「いいや、お前の可愛い妹だよ」
何を言うんだとばかりに、アルディスは突き放すような口を聞く。
おそらく、結界を破ろうとしているのがルドラだったのならば、アルディスは自ら結界を解くのだろう。
アディアナはそう思った。
「そうですね・・・」
その事に、顔を悲しげに伏せる少女。
だがそれは、狂ったアルディスの感情を逆なでしたらしい。
彼は、不意にアディアナの首に手を伸ばすと、片手で、彼女の喉を軽く締めた。
首元に走った悪寒と違和感に、アディアナはビクリと体を震わせる。彼女は、自分の首を掴んでいるアルディスの手に、怖々と手を伸ばすと、ソッと、手首に指先を添えた。
「お父様・・・何を・・・?」
「安心しろ。別に、首を締めて殺そうと言うわけじゃない。殺したら、さぞかし、楽しいだろうがな」
アルディスは冷笑を浮かべ、アディアナの緑の瞳の奥を覗き込む。
「首吊りでもいいがな。こうやって、首を絞めて殺すと、死体はかなり無残な様になる。舌は口からはみ出て、顔色は悪くなり、そして、糞尿を垂れながらす。一度見てみるといい。しばらく、眠れなくなるだろうから」
「そんな・・・」
「・・・もし、お前をくびり殺して、エルフィナの前に放ってやったら、あれも愉快なほどに騒いでくれるだろうな」
そう言うアルディスの言葉は、本気を含んでいるようにさえ聞こえる。そのことに、アディアナはゾッとなった。
「お父様、エルフィナは関係ありません。あの子を苦しめるようなことは、止めてください!」
「・・・偽善者のくせに」
アディアナの細首を掴む手に、力が篭る。
迫ってくる息苦しさに、アディアナは眉を潜める。
喉の辺りが痛い。頭の中が熱くなってくる。
危機感に心臓は鼓動を早め、体中が熱くなっていった。それなのに、背筋には悪寒が走る。
アルディスの手に添えていた指が、彼の腕を強く掴んだ。
地面を踏みしめていたはずの足が、不意に軽くなる。爪先だけが、申し訳程度に、泥の上についている。
「さぁ・・・お前の望んでいた通り、全部、教えてやるさ。せいぜい、後悔するんだな」
見下ろそう先に、アルディスの冷たい表情があった。
これ以上、笑みも浮かべようとせず、ただ、酷薄な表情で、『娘』見上げている。
闇が覆っているよう。
彼の面を見下ろしながら、アディアナはふと、そう感じた。
そう言えば、アルディスのうちには、『魔王』が封印されていたはずだ。バルスに聞いた覚えがある。
二十年周期で、アルディスの表に現われようとする、闇の王。
それが、今なのだろうか。
(それでも・・・)
それでも、今のアルディスの表情は、何と悲しげに見えることだろうか。
無表情で酷薄だ。それでも、その奥にある、瞳の奥底にある悲しさを、アディアナは見落とさなかった。
その絶望的な悲しさに、胸がいっぱいになる。
「おと・・・アル・・・」
喉を強く掴まれているせいで、声が出ない。
息苦しさで、頭の中がぼうっとしてきた。そこに、一瞬ずつだが、何かの光景が浮かんでくる。
「あ・・・な・・・?」
それが何の光景なのか、アディアナは必死に見定めようとした。
そして、理解する。
いったい、何を自分が見ているのか判った途端、涙が溢れた。エメラルドの瞳からこぼれた涙は、アルディスの手の甲へと落ちていき、彼の腕を伝っていく。
何とかして、彼に伝えたかった。
それでも慕っているからと。
愛しているからと。
10 それは心の深い淵。
春の陽光が、優しく辺りに満ちている。この戦乱の中にあっても、自然は人の争いに構うことなく、自分たちの回帰を繰り返していく。春、夏、秋、冬と、順々に季節を巡らせ、戦で荒廃していく人の心を癒していった。春の暖かさ、夏の緑。それらが、凍てついた心を溶かしていく。秋の実が、人々の飢えを癒した。そして、冬。その厳しい極寒も、時にその過酷さゆえに、戦を耐えさせていた。
それらの季節の中で、もっとも親しまれている春。
人々の命が耐えんばかりに厳しい冬の終わりを告げる、歓喜の時だ。
草は新しい芽を吹き、凍てついていた小川も流れ始める。
動物達も、新しい奇蹟の恩恵に預かるため、森の表や野原へと顔を出し始める。
戦を免れた農夫達も、畑へと出、また、子供達も、暇さえあれば、草原へと遊びに出る。
この戦乱の渦中の人である、諸公の子も、農夫達の子供達同様、この恵まれた季節を愛していた。
大陸の小国の主、シルバリア公の子供達も、また、城の中とは言え、平安な時の中、戯れていた。
「あ、魚!」
一人の少年が、池の淵に取りつきながら、そう叫んだ。
茶色のサラサラとした髪を揺らし、幼い少年は楽しそうに笑っている。
先程から、魚が跳ねたと言っては笑い、近くに来たと言っては驚いていた。
彼は、緑色の瞳を丸くして、自分の近くで、悠然と泳いでいる魚に見入っている。
そこへ、彼へ被さるように、大きな影が見えた。
「兄上・・・?」
少年は、自分の遥か後ろで、呆れていたはずの兄が、自分の呼び声に応えてくれたのかと、笑いながら振り返る。
刹那、少年は頭を思いきりこづかれ、池へとひっくり返っていた。
「きゃぁ、アディ!」
庭と城をつなぐ階段近くで、悲鳴が上がった。
声の主である、小柄な姫は、顔色を真っ青にさせ、慌てた様子で、池へ落ちたばかりの少年へと駆け寄ってくる。
池の中では、兄の手によってひっくり返された少年が、キョトンとしながら、座り込んでいた。全身、池の水でずぶ濡れになりながら、腰まで水の中につかっている。彼は、いったいどう言った反応を返していいものか判らないまま、エメラルドの瞳をキョトキョトさせて、兄を見上げていた。
「・・・兄上ぇ」
「油断大敵って、知ってるか?」
「・・・ふぇ」
得意そうに池の淵に立っている兄を見て、少年は顔をしかめた。
少年よりも、十才は年上に見える兄。彼は、十五、六の少年にふさわしい体格を持ち、それでいて、どこか幼さの抜け切れない、いたずらっぽい性分のようだった。黒髪の合間から見える、ぬば玉色の瞳を宿した目が、楽しそうに細められている。
兄・バディスは、後方から妹のリディアが小走りにやってくるのを見て、苦笑した。そして、池の中まで、平然と踏み込んで、座り込んだままのアルディスを抱き上げてやる。
「こら、男の子が、そんな風に簡単に泣くな」
「だってぇ・・・」
アルディスは、子供じみた仕草で、懸命に目元を拭っている。それでも、涙はいくつもこぼれ落ち、彼の頬を伝って落ちて行った。
泣き虫で、頼りない弟に、バディスは苦笑いしてみせる。
「お前、そんなんじゃ、リディアに笑われるぞ?」
「姉上は、俺のこと、笑わないもん」
「そうか?」
バディスは首をかしげながら、城の方へと振り返った。
すばしっこいアルディスと、同じ母を持っているはずなのに、彼の姉であるリディアはどこまでも、足が遅いようだった。だいぶ前から、こちらに走ってきているはずなのに、今ものろのろと、疲れた様子で駆け続けている。
ドレスの裾を、上手く裁いてはいるものの、これでは、いつ転んでも、不思議はない。
そんな、アルディスとバディスの視線に気が付いたのだろう。リディアは、彼等の見守る中、途中で、足を止めてしまった。そして、走っているのと変わらない速度で、歩き始める。
幾分、息を切らしたものの、彼女の歩む様は、堂に入っている。背筋を延ばし、誇り高く。なまじ、側室の姫として生まれてしまったばかりに、彼女は養育係りである女官達から、余計に厳しく躾られたようだった。だが、そんな躾がなくとも、彼女は高貴で美しい姫となっただろう。母親譲りの金の長く美しい髪、そして、深い紫の瞳。肌は雪より白く、また、顔だちは美麗で、また、聡明だ。皆が彼女をたたえ、そして、慕っている。
アルディス達の父である、シルバリア公も、また、この姫を最も溺愛しているようだった。いくら戦で苦しくとも、この姫だけは、戦の取り引きに使おうとはしない。
そんな、宮廷中から慕われている姫だったが、兄であるバディスだけは、彼女に対して口がさなかった。
「『どん亀』だな、お前の姉上は」
バディスは、アルディスにだけ聞こえるように、彼の耳元でそうささやいた。それに、アルディスは思わず笑ってしまう。
「兄上、姉上に言っちゃうよ?」
「別にいいさ」
「でも、そしたら、姉上怒るよ。兄上のこと、嫌いって言っちゃうかもよ?」
アルディスは、小さい手で、兄の頭を抑えながら、ちゃかして見る。
だが、それに対するバディスの答えは、アルディスの期待したものとは、まったく違っていた。
バディスは、こちらに歩いてくるリディアを目を細めて見守りながら、どこか、苛立ちの篭った表情を見せていた。
「・・・嫌ってくれたらな、どれほどいいことか」
アルディスでさえ、やっと聞こえるような小声。そんなつぶやきを漏らし、バディスは嘆息した。
時が巡り、時が流れ。
戦が起こり、南方の小国であるシルバリアは、当時北方で勢力を延ばしていた大国ハイウェイドの侵攻を受けた。だが、当時より戦上手で知られていたシルバリアの公王は、それを彼の大国の覇気を削ぐ絶好の機会と見た。
シルバリアの軍力は総勢五万。当時、この国が動員できた兵の、ほぼ全数と言ってもいい。
対するハイウェイドの軍勢は八万。後陣として、三万。さらに、数日の間を置いて、後衛に十万。ただし、この後衛の軍は、シルバリアを中心として固まりつつある、小国の連合に対するものである。
シルバリアとしては、何としても、緒戦を勝った上で、連合の主権を握り、なおかつ、その携帯を強めたいところ。そして、ハイウェイドとしては、この大陸一の家柄とされているシルバリアを落とした上で、要のかけた小国を、徐々に落としていく考え。
双方にとって、この戦は重要なものとなった。
そして、シルバリア公王の策が通った形での開戦。彼の国の北部の山地で行われた先頭は、地の利を得、そして、軍略に長けた公王の一人勝ちとなった。ただ一つの点を除いて。
公式の記録には、彼の戦闘で、シルバリアの太子、バディスの軍が突出。大軍に囲まれた公子を助けることも叶わず、本陣は作戦を続行したとされる。
戦死したと思われていた兄が、帰還した。
その報を聞いたアルディスは、女官が止めるのも聞かずに、慌てて部屋を飛び出ていった。
こうなると、叱られながらも、夜更かししていたのが良かったと思う。女官の言う通り、早く床についていたのなら、兄が生きて帰ったことを、明日の朝まで知ることはなかったろう。そして、遅くまで塞いでいたからこそ、式服のまま、着替える手間もなく、兄の元へと駆けつけられる。
「兄上、どこ!?」
今年、十才になったばかりの少年は、辺りにひしめきあっていた騎士達を見つけるなり、そう叫んでいた。
もう、駄目かと思っていた。なのに、兄上はちゃんと生きていた。
先のハイウェイドとの戦で、バディスのいる部隊は、突出し過ぎたために、退却することができなかったそうだ。そう、父から直に聞いた。強敵である、ハイウェイドに囲まれ、味方の援護もなく、城へと戻ることは、不可能と言えた。だからこそ、兄の側近である将軍達でさえも、彼の生還を諦めたほどだった。
騎士達の示すまま、アルディスは、父の私室へと向かっていった。
彼等の言うには、兄は帰還するなり、父であるシルバリア公に話があると言って、一人で王の私室へ向かって行ったという。
誰も、呼ばれるまでは来るなということだったらしいが、相手が弟ならばいいだろうと、騎士達も、安易にアルディスを通してくれた。
「兄上・・・兄上・・・」
わくわくと、興奮しながら、アルディスは城の暗い廊下を走っていった。
兄が無事だと聞いて、きっと、兄の母である公妃も、そして、リディアも喜ぶことだろう。この二人が、バディスが戦場に取り残された事を知って、一番悲しんだのだから。
リディアなどは、もう、目も当てられぬありさまで、日頃のおとなしそうな様子からは察っせられぬほどに、暴れそして、泣いていた。まるで、恋人が帰らぬ人となってしまったかのように、絶望していたのだ。
「・・・あ、やなこと思い出しちゃった」
アルディスは、廊下を駆け抜けながら、ふと、苦笑いした。
バディスの生存が絶望的と聞いた時の、自分の母と、そして、その周りの側近達の反応を思い出したのだ。
側室でありながら、アルディスの母は、二人の子を生んだと言う自信からか、宮廷内でもずいぶんと、大きな顔をしていたものだった。現在、シルバリア公の御子は、アルディスを含め、三人しかいない。つまり、彼の他に、シルバリアの公位を継げる者は三人しかいないのだ。
本来なら、嫡子を生んでいる、公妃の方が、側室よりは立場が上のはずだった。だが、公妃は何故か、人を怪しみ、そして、いつも何かに怯えているような人だった。そのせいか、精神的にも強い、アルディスの母には、いつも圧されているようなところがあった。
その、側室の高慢な態度が、バディスの死を聞き、一層ひどくなった。彼女は、バディスの死とともに、自分の子である、アルディスが次の公位が継ぐのだと言って、後宮内の最後の権力を握ろうとしたのだ。
もっとも、その画策も、こうやってバディスが生還した以上、無駄となってしまった。
自分の母のことながら、アルディスは、そのことに、やや胸がすく思いがした。
兄の死を喜び、そして、悲しみもせずに立ち回っていた母。日頃は、優しい母だと慕い、尊敬していた相手だったが、今回ばかりは、さすがに軽蔑していたのだ。
だから、母の思惑を旨くつぶしてくれた兄の存在が、いつもよりも、身近に感じていた。
「兄上!」
アルディスは、父親の私室を目のあたりにすると共にノックもせずに、扉を開いていた。そして、そのまま、部屋の中へと駆けこんでいく。
「兄上、父上!」
きっと、父も兄の生還を喜んでいるだろう。
そう思って、部屋へと走りこんできたアルディスの目の前にいたのは、怯え、そして、震えている父、シルバリア公だった。
「父上・・・?」
自分の立っている位置から、ちょうど正面に父がいる。彼は、背を壁につけ、引きつった表情で、アルディスを見ていた。
いや、正確には、アルディスのすぐ前に立っている、バディスを見ていた。
「兄上・・・父上、どうしたの?」
アルディスは、父の形相に怯えながら、兄を見上げた。
そして、父が恐怖している理由を知った。
「兄上!!」
自分の目の前に立つ兄が、愛用し、そして戦場へも携えていた長剣を抜き払っていたのだ。兄の、たくましい手の中に、その使い込まれた剣の柄が握り締められている。
アルディスが見上げるバディスの面は、父以上に歪んで見えた。ただし、バディスの面を覆っているのは恐怖ではない。怒りだ。
彼は、憤怒の表情で、父を睨み付けていた。そして、父親であるシルバリア公から視線を逸らさぬまま、アルディスに応えて見せる。
「あぁ、アルか・・・」
「兄上・・・何してるんだよ!!」
兄の殺気立った様子に怯えながら、それでも必死に、アルディスは喉から声を絞り出していた。
「なんで、父上に向かって、剣なんか向けてるんだよ。謀反になっちゃうよ!」
「謀反・・・?」
かつて、誰よりも優しく、そして、穏やかだった兄は、ゾッとなるような笑みを浮かべた。
「あぁ、そうさ。謀反だ。これより、俺は父だった愚鈍なる公を討ち、このシルバリアの家を奪うんだからな」
「なんでだよ!!」
兄の言っている言葉の意味が判らず、アルディスは首を振った。
フワフワのヒヨコ見たいだと、バディスがからかった茶色の髪が、大きく揺れる。
だが、今の兄は、その冗談を言ったときとは、まるで違っていた。いや、ほとんど別人のようだった。
かつて、あれほど聡明で優しかった兄。
それが、今は冷酷で残忍な人間にさえ見えてしまう。
「わかんないよ、俺!!」
必死に叫ぶ弟を、バディスは嘲笑した。
「・・・なぁ、私が何故、戦場に取り残されたか、知っているか?」
「・・・え?」
突然の兄の質問に、アルディスは思わず体をこわばらせる。
「そ・・・それは、兄上が突出しちゃって・・・それで、父上は兵を引かなくちゃいけなかったから、助けられなくって・・・」
「誰に聞いた?」
「ち・・・父上だよ?」
アルディスはそう言って、父を盗み見る。
威厳ある諸公だった父は、いまだ、息子達を前にして、『死』の予感に身を震わせていた。
情けなく、そして、哀れな存在。
父親の怯え震える様を見ながら、アルディスはそう思った。
これならば、別人のように恐ろしい表情をしている兄の方が、どれだけマシだろうか。
そんな弟の、自分よりの気持ちを察したかのように、バディスは幾分、表情を和らげ、笑みを浮かべた。
「私が突出しただと?」
剣先を持ち上げ、バディスは、それを改めて、父へと突きつける。
「ふざけるな。私がいつ、軍を勝手に進めたと言うのだ。私はあくまで父の言葉を尊重し、若輩の身だからと、あいつの言う通りに動いていたんだ」
「・・・え・・・それって・・・」
兄の言葉に、アルディスは愕然となった。
今、バディスが言った言葉。
それは、つまり、父が兄を敵のまっただ中に送った。そういう事なのだろうか。
「ち・・・父上の・・・父上の判断が間違ってたのか!?」
「違うな」
「じゃぁ・・・どうして、兄上が、敵の中に取り残されるんだよ」
「あいつが、取り残されるように、俺に指示を出し、自らも、軍を動かしたからだ。つまりは、俺のいた部隊は、見事に本軍に見捨てられたんだな」
「な・・・!」
アルディスは、慌てて父を見た。
何か、彼から否定の言葉がつぶやかれると思ったのだ。
だが、父は何も言おうとしない。ただ、頭を抱え、訳の判らない言葉をつぶやき、呻いているだけ。
「なんで父上が・・・だって、兄上は、頭よくて、武術もできて・・・皆、兄上が大好きだった。だから、皆、兄上がシルバリア公になれば、ぜったい、家は大きくなるって、言ってたのに!」
「それが、やつは気に入らなかったらしいな」
バディスはそう言って鼻で笑う。
「自分の寝首をかかれると思ったらしい。まぁ、側妃あたりから、吹き込まれでもしたんだろうがな」
「・・・は、母上?」
「いや、あの方ではあるまい」
バディスはそう言って首を振る。
「あの方は、確かにお前がシルバリア公になればいいと思っていた所がある。だが、自分の欲以上に、あの方は聡明な女性だよ。リディアと同じだ。俺が公位を継いだ方が、自分の立場が確実だと考えていらっしゃったらしい」
「・・・俺、バカだからね」
「バカと言うよりは、小さいからな。お前が、成人する前に、あの老いぼれはくたばるだろうからな」
父を容赦なく罵りながら、バディスはクスクスと笑う。
「安心しろ。アンタは殺さない。俺も、父親殺しの大罪は負いたくないからな。ただし、隠居してもらおう。そうだな・・・」
ふと、父親から視線を逸らし、バディスは考えるような仕草をする。
「北の塔にでも、収まっていてもらおうか」
「北の塔!?」
兄の言葉に、もっとも反応したのはアルディスだった。
『北の塔』と言えば、このシルバリア公城にある、貴族用の監獄だ。あそこは、『死刑場』とも呼ばれている、忌むべき場所。あそこに閉じ込められれば、一週間も経たずに、狂い死にするか、または、塔の毒に犯され病死するのが落ちだと、密やかにささやかれている場所だ。
そんな所に、父親を閉じ込めてみせると、兄は宣言した。高らかに。
「兄上!」
何とか、兄に気持ちを変えてもらおうと、アルディスは彼を説得しようとした。
だが、喉まで出かかった言葉も、兄に見据えられ、凍り付いた。
「あ・・・あに・・・う」
「口答えするなよ、アルディス」
父親から、弟へと、剣を向ける先を変え、バディスは苦笑した。
いつもの、兄の苦笑。
だが、それは狂気を含んだ笑みだ。
「お前も、私に逆らうなら、あの老いぼれと同じ運命だ。そう覚えておけ」
「兄上・・・」
剣を突きつけられたまま、アルディスは動くことも出来なかった。
その日、シルバリアの運命は変わった。
公位の交代と共に、シルバリア公家は大きく荒れたのである。
公家内の争い、そして、他国への侵略。
目を覆いたくなるばかりの惨事が続いた。
(つづく)
(update 99/05/14)