11 少年の殻を割って空へと飛び立とう。今だ翼が未熟であっても。
シルバリア公の突然の退位。そして、嫡男であるバディスがその公位を着いた。
突然であり、また、強引な公王の退位に、シルバリア公家内は荒れた。事実上の跡目争いである。
もともと野心があったのだろう。まず、バディスの叔父にあたる候爵が反乱を起こした。
そして、間を置かずに、王の復位を求め、第三軍の将軍も反旗を翻す。
そのいずれの乱も、三週間と持たずに、武力でもって、鎮圧されてしまった。
バディスの後ろ盾となった、ハイウェイドの軍力によってである。
新しくシルバリア公となったバディスは、それまで、自国と凌ぎを削っていた、大国ハイウェイドと和平を結んだ。同時に、彼の国の武力を後ろ楯とし、自分の公位を確かなものとしたのである。
シルバリアの重臣の中には、バディスがこの国を売り渡し、公王の位を得たのだと、口がさなく罵るものもいた。反乱を起こした将軍などは、そんな反バディス派の筆頭であり、ハイウェイドの脅威を最も憂いている人物でもあった。彼が反乱を起こしたのは、ひとえに、自国が大国に飲み込まれると危機を感じたゆえ。また、退位した公王ならば、ハイウェイドの密かなる侵略も、退けてくれると信じてゆえのことだった。
だが、その忠臣と、宮廷内で名高かった将軍も、逆臣の汚名を着せられ、罰せられることとなった。
多数の宮臣が、将軍の助命を願った。
だが、反乱鎮圧にハイウェイドの軍を借りた手前、また、自らの権力を括弧たるものにするため、バディスはそれを受けることが出来なかった。
見せしめとして、彼は将軍を罰したのである。
国に仇をなした、罪人として、将軍の首は城下に晒される。
シルバリアの国民も、また、延臣も、皆、バディスの正気を疑った。
かつて、これほどに穏やかで、そして、聡明な公子もいないと、称えられていたバディス。それが、父であるシルバリア公を強制退位させてから、まるで別人のように、強行で、また、残虐とも言える手段を取り始めたのである。
自らに反するものは、父であろうと容赦なく罰した。宮臣の中でも、この騒乱の中で、失脚し、または、追放された者が多数ある。そして、死を拝した者もだ。
反乱を収めると同時に、バディスは他国への侵略も始めた。ハイウェイドの脅威がなくなり、背後を懸念することなく、今まで友国となっていた、多数の小国へと、侵略したのである。
そして、今まで、孤高でありながらも粘り強く、大国であるハイウェイドと対峙していたシルバリア公国は、彼の国の事実上の属国となった。他国への侵略の他に、バディスは、ハイウェイドの尖兵となって、シルバリアの兵を率いたのである。
だが、バディスがハイウェイドの手によって、死地に追い込まれることはなかった。
何故ならば、バディスこそが、現ハイウェイドの国王の、義兄となっていたからである。
そう、彼は公位を纂奪するとともに、残っていた最後の姫、他国へもその優美さが鳴り響いていた、妹姫リディアを、後ろ楯の引き替えに、差し出したのだった。
サラサラと、耳元で、風に煽られた自分の紙が鳴っている。
アルディスは、その音を、呆然とした様子で聞き入っていた。
「……信じられない」
彼はそう言って、池の縁にしゃがみこんだまま、膝を抱え、顔を伏せた。
この池は、かつて、バディスとリディアと共に、よく遊んだ場所だった。
バディスは正妃の子供、アルディスとリディアは側妃の子供と、立場の違いはあったが、たった三人きりの兄弟として、彼等は微笑ましいほどに仲がよかった。
だが、その仲睦まじさも、バディスが公位を奪うまでだった。
そう、一ヵ月前までのこと。
シルバリア公となってから、あの兄は、アルディス達と以前のように接しなくなった。政務や軍務に忙しいだけとも、割り切ることは出来る。
だが、それ以外の何かが、バディスに取りついてしまったことを、アルディスは敏感に感じていた。
以前のように、バディスは笑わなくなった。彼が浮かべる、最上の笑みが、冷たい冷笑だ。
バディスはまた、特に用もない限りは、アルディスにも、また、リディアにも話しかけなくなった。それどころか、アルディスが彼と接するためには、まず、官を通して、許可を得なければならなくなったぐらいだ。
これもまた、兄が公王となったからと、言い訳できる。
公王と、公弟。その関係のせいだと、思いたかった。
だが、それ以外の何かが、二人の間に存在していた。
それは、兄バディスの激しい拒絶。
アルディスはそう感じていた。
以前のままの兄だったのなら、例え、公王となったとしても、今だ少年の弟に、公家の義務を、私的なことにまで、強制はしなかっただろう。
だが、今のバディスは、その私的なこと、兄弟のちょっとした談話や、ふれあいに関してまで、公王とその弟としての厳しい関係を求めてきた。
そうやって、バディスは、アルディスを身近から引き離している。
「……兄上」
兄の突然の豹変。
そのきっかけは、父の裏切りだった。敵軍ハイウェイドの真っただ中に、わざとバディスを置き去りにしたことで、父である先のシルバリア公は、彼を絶望させた。
だが、それだけで、ここまで兄はおかしくなるだろうか?
むしろ、この兄の狂気は、抑制を解かれた獣のような印象を受ける。
もともと、彼のうちにあった狂気が、父に裏切られたと言うきっかけを得て、自由になってしまった。
そう、アルディスは感じていた。
それほど、今のバディスの凶行には不自然さがなかった。強がることもなく、また、無理をすることもなく、バディスは宮臣に恐れられる王として振る舞っている。それこそが、彼の本性だと言うようにだ。
バシャン。
池の中で、魚が跳ねた。
アルディスが暇さえあれば、餌をやっていたせいか、魚達は、彼の気配を察して、先ほどから、忙しそうに、池の縁に集まっていた。パクパクと、水の中から顔を出し、必死にない餌を探している。丸い口を開け閉めさせるその様は、空気がなく苦しんでいるようにさえ見える。
そんな魚が立てる水音が煩わしく、アルディスは乱暴に立ち上がった。
服の足や尻の部分に、たくさんの草を付けたまま、のろのろとした足取りで、城の中へと入っていく。
そして、ふと何かに気がついたように、顔を上げた。そして、今まで塞ぎがちだった顔を明るくさせる。
「母上……」
そこには、先のシルバリア公の側妃であった、アルディスの母が、立っている姿があった。侍女を一人つけただけの、身軽な格好をしている。
姉のリディアは、母親似なのだろう。側妃もまた、気高く美しい女性だった。娘と同じ金の美しい髪に、深い藍色の瞳を持っている。すでに、三十代後半のはずなのだが、今だ彼女は若々しく見えるほどだ。白い肌にも艶があり、微笑みを浮かべる面には聡明さが伺えた。
アルディスは、今までの憂鬱さが嘘のように、元気に母の元へと駆けていった。すでに十一になっているはずなのだが、今だ母離れがうまく出来ていないらしい。それどころか、反後期そのものも、ほとんど見られなかった。
活発な小犬のような少年。
そんな、愛すべき息子に、側妃は穏やかに微笑んだ。
「何をしていたのですか、アルディス?」
「ちょっと、魚を見てただけ」
アルディスはそう言って、母の目の前に立つ。
彼は、母親を見上げ、目を細めた。自分の母親ながら、この人はどこまでも美しい。どうして、父親が、リディアを溺愛しながらも、この何時までも若く美しい側妃を遠ざけていたのか、アルディスには判らなかった。
子供に対しては、どこまでも優しい母親。だが、後宮内では、その子供達を利用し、自らの権力を絶対なものとしている側妃。その二面性を知りながら、それでも、アルディスは父親がそんな女性を疎んでいたことを理解できなかった。
しょせん、己の母親なのだ。どうして、父親たる男性が、その女性を遠ざけるのかは、判るまい。
そして、アルディスも必要以上には、そのことについて知りたがらなかった。
そんなことより、今、彼が母に関して悩んでいたのは、別のことだったからだ。
「……あの、母上、ちょっといい?」
そのことについて聞くのも、丁度いいとばかりに、アルディスは侍女を気にしながらも、口を開いた。
側妃は、息子の懸念をすばやく察し、侍女を下がらせる。
主のちょっとした仕草でその意を解した侍女は、何も言わず、頭を下げただけで、おとなしく去って行った。
そして、その場には、母子だけが残ることとなる。
「こうやって、アルと接するのも、久しぶりな気がします」
側妃は、遠くに見える空を見上げながら、懐かしそうにそうつぶやいた。
その言葉に、アルディスは確かにそのとおりだと、苦笑いする。
近ごろ、後宮での策謀を活発化させている母は、慈しんでいる子供達とも、余りあえなくなってきている。
だが、その理由は、何も側妃が後宮に閉じ篭っているからではない。むしろ、アルディスが公城の西から後宮へと入ることを許されず、また、側妃が後宮から出ることもバディスの命により禁じられていたからだ。
正宮へ出ることのかなわぬ側妃は、他の妃達同様に、配下の女官や侍女達を使い、暇にかまけて、後宮内の権力闘争を繰り返す。
その側妃が、こうやって西側に来ていると言うことは、後宮から出る許しが出たのだろうか。罰せられることに関して、神経質な母が、規則を破って出てきたとも、考えにくい。
そんな、息子の疑問を察したのだろう。側妃は薄く笑ってみせた。
「リディアに頼んで、バディス殿に申し入れていただいたのです。このままでは、貴方と会えなくなりかねませんから」
「そうなんだぁ……兄上、やっぱり姉上に甘い?」
「いえ……そうでもないでしょう」
側妃はそう言って、言葉を濁す。
アルディスは、その母親のわずかな表情の変化を、若輩ゆえに、察することが出来なかった。
それゆえに、重大な事実を、この日の夕刻になるまで、知ることが出来なかったのである。
今のアルディスは、母の心を占めている不安など、知ることもなく、ただ、自分の中にひしめいている悪寒に、心を奪われていた。
「……あのさ、母上」
アルディスは、母を見上げ、そして、言いにくそうに何回も言葉を詰まらせながら、なんとか、ここ一ヵ月自分の心を占めていた疑問を口にした。
「父上に、兄上を戦場に置き去りにしたりすること、吹き込む人って、誰?」
「まぁ……どうして?」
「あの……父上が退位なさった夜、兄上が、そんなこと言っていて……」
「そう……」
うなずいて、側妃は顔を背ける。
「おそらくは、ナターシャでしょう。あの方、バディス殿が公位につかれると同時に、後宮から出されましたから」
「……あの人……出されちゃったの?」
「えぇ。ですが、おそらくは……生きてはいますまい」
「そんな……」
母の言葉に、アルディスは愕然となる。
「……兄上が命じたの?」
「そうでなければ、どうして、王の最も寵愛厚い側妃を害せましょう。バディス殿以外には、おられませんよ」
側妃はそう言って、冷笑する。
殺されたと、アルディスの母が明言する側妃には、彼女も何度となく、煮え湯を飲まされてきたのだ。王の寵愛を利用し、ナターシャ側妃は、後宮内の権力を、彼女から奪おうとしていた。それを、アルディスの母である側妃も苦々しく思っていたのだろう。
息子の前でいながら、側妃は晴れ晴れとした表情を隠そうとしない。
アルディスは、時折見てきた母の表情に、ため息をついた。
軽蔑すべき表情なのだろう。だが、どうも、この母はこう言った勝ち誇った表情をするときが、一番美しく見えるのだ。だから、アルディスは、その微笑みに対して、文句が言えなくなってしまう。
呆れながらも、この母を彼は敬愛していた。
それゆえに、懺悔しなければならなかったのだ。
自分の思ったことを。
「……あのね、正直に言うけど、始めに兄上に、側妃の誰かが父上に、兄上を害すること、吹き込んだって聞いたとき、俺、母上のこと、思い浮かべちゃったんだ」
アルディスはそう言って、下を向く。
母がどんな表情をするか、見るのが怖かったのだ。叱責されるのも、覚悟の上だった。怒鳴られ、罵倒され、不実な息子だと罵られることも、覚悟していた。
だが、そのアルディスの頭の上に降ってきたのは、おかしそうな側妃の笑い声だった。
「おほほほほ。誰がバディス殿を陥れようとするですって?」
「だ……だから、俺がそう思ったって……」
母の笑い声に面喰らい、アルディスは唖然とする。
てっきり、怒られると思っていたのに、気持ちのいいくらいに、母は笑っている。そのことが、逆に不気味にも思えた。
「ねぇ、母上、なんで笑ってるんだよ」
「だって、貴方があまりにも、お馬鹿さんだからよ」
いくぶん、嫌味を込めながら、側妃はそう囁く。いたずらっぽく笑い、可愛い息子の頬を軽くつつく。
「わたくしは、バディス殿がどれだけ恐ろしいか判っているのよ。それをどうして、彼をむざむざ敵に回すような真似をいたしますか」
「兄上が……恐ろしい?」
「そう。あの方ほど、わたくしが、敵に回したくないと思う人はいません。穏やかそうに見えます。優しげにもね。ですが、それはあの方の狂気を隠すための仮面。わたくしは、そんなものに騙されるような、人の良い人間ではないのですよ」
常日頃から、自分は悪人だと息子の前でも、はばからない側妃は、また高い笑い声を上げる。
「もし、バディス殿を罠にかけたとしても、あの方は、わたくし以上に聡明だから、きっと、罠から簡単に逃れてしまうでしょう。怖いのは、その後ですよ、アディ。あの方は、きっと、仕掛けた罠以上に、残酷な手段で、仕返しをするでしょうから」
「母上……そんな……」
「これで……どうして、わたくしが、公子を持ちながら、その子を次のシルバリア公として擁立しなかったか、お判りになったでしょう。わたくしの可愛いアルディス?」
側妃は、宮廷での権力闘争の陰鬱さを隠すかのように、陽気に笑い、片目をつむって見せた。怯えた表情を見せる息子を、労っての仕草だろう。
アルディスは、母に向かってぎこちなく笑って見せながら、それでも、納得がいかないといった顔を見せた。
母の言った言葉を、自分自身も、近ごろの兄の行動から、痛感していながらだ。
「それでも……俺、兄上は優しいと思う」
「それは、貴方が優しかったころのバディス殿を忘れられないから。ですが、今回のことで、貴方も彼の方を見限るでしょう。可哀相なバディス殿。これで、あの方は、最後の味方、二人を失ってしまうのだから」
「……え?」
アルディスは、何のことかと言うように、顔を上げた。
目の前には、母の労るような表情があった。
寂しげで、そして、どこか悲しそうに微笑んでいる母。
それに、アルディスは背筋をゾクリと震えさせた。
「……姉上……姉上に何かあったんだね。姉上がどうかしたの?」
「アディ、よくお聞きなさい。リディアは、一週間後に、ハイウェイドへと参ることとなったのです」
「そんな……!!」
姉がハイウェイドへといく。
そのことに、アルディスは愕然となった。
この時期にハイウェイドへいくなど、人質も同然ではないか。
どうして、よりにもよって、自分の姉が、ハイウェイドへいかねばならないのだ。
リディアでなくても、従姉妹筋で、姫は沢山いる。それなのに、どうして。
「……あ……姉上が、公王の……兄上の一人きりの妹だから?」
「そうですわね。人質としては、あの子が最も適切でしょう。なまじ、従姉妹などでは、他国にとっては、不十分に見えるでしょうから」
側妃はそう言って、フッと表情に陰りを見せる。
「違うのよ……アディ。あの子はね、望まれていってしまうの」
「望まれて……?」
「バディス様が、この城へと生還できたのはね、ハイウェイドの国王が、あの方を助けて下さったからなのだそうです」
「……もしかして、姉上と引き替えに?」
姉リディアの美しさと聡明さは、他国にも鳴り響いている。それは知っていた。
そして、仇敵のハイウェイドが、彼女と引き替えにする形で、シルバリアに和平を求めていたこともだ。そして、それを父が強行に拒絶していたことも。
クラクラとめまいがした。立っているのもやっとのほどに、立ちくらみがする。
「……兄上!」
どうして、母が『最後の味方、二人を失ってしまった』と言ったのか、ようやく判った。
リディアを人質として差し出すことで、バディスは彼女を失う。
そして、アルディスから姉を強引に奪う形で、彼は弟と言う味方も失ったのだ。
12 神よりも罪重き子供達。
その日の午後に、主だった宮臣が集められ、バディス自身から、リディアのハイウェイド行きが伝えられた。
リディアも、母の側妃同様、だいぶ前から、このことについては知らされていたのだろう。バディスの言葉を聞いても、重臣達のように、驚くようなことはなかった。ただ、改めて打ちのめされたような表情を見せただけで。
アルディスもまた、公弟として、バディスの言葉を聞くこととなった。
幼い少年の見守る中、重臣達は滑稽なほどの反応を見せてくれていた。
元々バディスの派閥にいた将軍や文官達は、さして表情を変えていなかった。リディアのことについて、すでにバディスから相談でも受けていたのかもしれない。ともすれば、反対の意見をつぶやく他の重臣達をなだめ、そして、叱責していた。
面白い反応を見せてくれたのは、先の公王派の人間達だった。
彼等は、よもやリディアがハイウェイドに行くことになろうとは、露とも思っていなかったらしい。
あたり前だろう。この姫は、長く、バディスの最愛の妹として、大事にされてきたのだから。今の状態のバディスであっても、それだけは変わりなかった。だからこそ、彼がその妹を、『敵国』に差し出すような真似をするとは、思っていなかったのだ。
先の公王派は、通例通りの反対意見を口にし、さらに、肉親の情にまで訴えてきた。
だが、理屈詰めの説得ならまだしも、今のバディスに、そんな情に訴えた言葉が届くはずもない。
いくら妹姫の悲哀を問いかけたところで、バディスは表情一つ動かそうとしなかった。むしろ、重臣達の言葉は、リディア本人を深く傷つけていく。
そのことに気が付いたのだろう。先の公王派の意見は次第にか細くなり、そして、潰えていった。
次に発言したのは、中立派だった重臣数名。
彼等は、リディアを差し出すことによっての、利益・不利益について、バディスに疑問を投げかけて行った。そして、新しい公王に、しっかりとした考えがあると見てとったのか、理詰めな彼等は、納得した様子で、賛成の意を示した。
これにより、宮廷内の大部分の人間が、バディスに賛同したこととなる。
中には、強行な反対派もいたのだが、それらの人物も、大勢には叶わないと見たのか、それ以上は何も言わない。
これにより、リディアのハイウェイド行きは了承されてしまった。
バディスの意思から、シルバリアの意思へと、変わったのである。
「……姉上」
公弟である少年は、向かいに見える姉の寂しげな横顔をジッと見つめた。
いつも傍にいてくれた、大事な姉だった。
それが、他国にいってしまう。
バディスによって提示され、宮臣達によって認証されてしまった事実だが、それでも、信じたくなかった。
姉の美しい横顔。それを、まるで見納めのように見つめ続ける。
姉もまた、後宮に閉じ込められている人物の一人だった。姫であるため、母である側妃などよりは、いくぶん自由はあったようだが、それでも、後宮の外に出るため、不自由があったことは否めない。
だから、こうやって、アルディスが姉を見つめるのも、久しぶりだったのだ。
一週間ぶりくらいだっただろうか。
どこかやつれて見える姉は、それゆえに大人びて、壮麗だった。可憐とも言える。
その姉が、一心に兄であるバディスを見つめていることに、アルディスはふと気が付いた。
「……姉上?」
悲哀の表情も、すべて、兄へと向けられている。
そのことに気が付いて、アルディスは驚いた。
彼でさえ、兄の決定に対して、怒りを抱いていると言うのに、当人であるリディアは、そんな猛る気持ちを抱くことなく、ただ、哀れむように兄を見ているのだ。
そのことが、ひどく不思議だった。
リディアの優しさだけでは、片付けられない。それ以上に、彼女は悲しそうに兄を見つめている。
姉の気持ちを、少しでも理解しようと、アルディスは食い入るように、彼女の横顔を眺めつづけた。
そして、見つける。
姉のアメジスト色の瞳が、熱を持っていることに。熱い視線で、兄を見守っていたことに。
「……何?」
見たこともない、姉の視線に、少年である彼は酷くとまどった。
そんな視線を、彼は今だ、見たことがなかったから。
後宮内の庭園。夜ともなれば、宮女であろうと、めったに入り込まない。訪れるものと言えば、後宮内の警備を担っている、女性の衛兵のみ。
そこに、アルディスは一人、忍び込んでいた。
リディアのハイウェイド行きが、来週まで迫ってしまった。その前に、何としても、彼女に会って、直接別れを告げたかったのだ。
いくら、兄に願い出てみても、彼は弟に許可を与えようとはしなかった。
ただ、後宮は忙しいからと、家臣となった文官の口から、アルディスに伝えるだけ。それ以上の説明も、なぜ、弟が姉に別れを告げられないかも、教えてくれようとはしなかった。
それに業を煮やしたアルディスは、かつて知ったる場所と、少年らしい身軽さで、後宮へと忍び込んだのだった。
「いっつも思うけど、長く住んでると、警備のずさんさって、目立つよなぁ」
人目のない林の中を走り抜けながら、アルディスは一人ごちる。
この常緑樹の林は、あまりの暗さと、そして、人気のなさに、小さいころは、近寄ることさえ禁じられた場所だった。うさん臭い噂話の中には、この林で、かつて公子の一人が亡くなったとか、神隠しにあったとか。
今では、それが、幼い子供をここに近づけさせぬための嘘の話だったと理解できる。だが、その話を聞いた当時は、本気で怯えたものだった。部屋をこの林からもっとも遠い場所に移して貰うくらいに。
そう言えば、この林にまつわる話をしてくれたのは、兄ではなかっただろうか。確かリディアも傍にいたはずだ。
決して敵に回したくないと言いながら、アルディスの母は、バディスがアルディス達をかわいがるのを歓迎していた節がある。今から思えば、きっと側妃は、自分が害せない相手ならば、取り込んでしまえばいいと思っていたのだろう。そして、時期公王が母親と同じように敬愛するからこそ、側妃も、有り余る権力を手にできたのだ。バディスが逆に、母を疎んでいたがゆえに。
「よっと……」
目の前に張り出していた枝を見つけて、アルディスは速度を緩めた。
ゆっくりと歩きながら、枝の下を潜る。
庭師は、この林もきちんと手入れしているらしかった。足元には、余計な落ち葉がほとんど見られない。
忍び込んでいる身としては、それもありがたかった。ここで、余計な音でもたてて、後宮の女官にでも捕まれば、運が悪いと、兄に知らされてしまう。母親筋の女官ならば、見逃してくれるだろう。だが、これが、反対勢力だったりすると、有無を言わさずに、衛兵のもとへと、突き出されてしまうのだ。この公子の粗相は、母親である側妃の落度だと、彼女を叱責するために。
極力、気配を殺しながら、アルディスは林の中を進んでいった。
こうやって、後宮に忍び込むことは、己のみならず、母へもリスクを負わせているのだ。極力、注意しなければならない。
「確か、姉上の部屋は、ここを出てちょっとしたところに……」
公子として、長年住んだ後宮の見取図を頭に思い浮かべながら、アルディスは目的を持って進んでいく。
その彼の足が、不意にビクリと震えて止まった。
彼は、息を極力殺しながら、自分の体を、大きな幹の陰へと、ゆっくりと移動させて行った。
今、人の話声のようなものが聞こえたのだ。
ここを手入れしている庭師だろうか。いや、今は夜だ。後宮に常時いる庭師が女性だとしても、こんな夜半に庭をうろついているはずがない。
では、衛兵だろうか。そうなると最悪だ。彼等も、公子などがいるこの後宮を守る者達。武術には優れている。いくらアルディスが気配を消そうとしたところで、衛兵長くらいになれば、そのわずかな吐息を、察してしまうかもしれない。
女官だったらいいのだが。アルディスはそう思って、眉を潜めた。
衛兵でもなければ、夜の林に、女官が入り込んでくるはずもない。この林の逸話に怯えていたのは、何も子供だったアルディスだけではないのだから。あの話は、物を知らない、下級の侍女達も、しっかりと震えさせていた。
「……です」
先ほど聞こえた声のぬしは、段々とこちらに近づいてくるようだった。
そのことに、アルディスは体を強ばらせる。
体を微塵も動かさず、相手の同行を伺った。
どうやら、こちらに向かってくるのは二人のようだった。
話声からするに、女性と男性だろうか。小さく、かすれている声なので、知っているものなのか、それとも見知らぬ相手なのかさえ、まったく分からない。
(……でも、男だったら、兄上以外、ありえないような)
この後宮に現在、とがめられることなく出入りできるのは、新しく主となった、バディスのみ。それ以外の者が入れば、姦通罪だと罵られ、女官達にあっと言う間に取り押さえられるだろう。
それを考えれば、そこにいる人物は、兄のバディスだと見ていい。
実際、段々と大きく、はっきりと聞こえてくる声は、まさしく彼の声だった。兄らしい、低く、そして、どこか悲しげな声。それに、アルディスは目をつむる。
だが、バディスに答えるようにして聞こえてきた声に、彼は閉じたばかりの目を見開いた。
優しく、穏やかに響いてきた声は、まさしく、姉リディアのものだったからだ。
(姉上……!?)
兄もまた、自分と同じように、姉に別れを告げにきたのだろうか。
そっと謝罪でもするつもりだったのだろうか。最愛の妹を、よりにもよって、ハイウェイドへと送らねばならないことについて。
そんな、淡い期待を持ちつつ、アルディスは二人の会話に聞き耳を立てた。
姉が庇ってくれることを期待しつつ、二人の前に出ることも考え付いた。だが、どこか暗く感じられる二人の気配を見て、アルディスは思いとどまっていた。
何か、人を遠ざける気配が、二人の間にはあった。それが、アルディスを拒絶する。
その、退廃的な気配の前に、彼はただ、聞き耳を立てることしかできなかった。盗み聞きをすることについて、罪悪感を感じなかったわけではない。
だが、もし兄が姉に何か謝罪のようなものを口にするのならば、それを聞いておきたかったのだ。
それだけで、自分の兄への思いが、蘇る気がしたのだ。兄もまだ、姉を大事にしていると思い、彼をまた、大好きな兄と無条件に慕えるような気がしていた。
「……でも、兄上が応じてくださるとは、思っておりませんでした」
リディアの声。
先月見た、彼女の憂い顔からは想像が付かないほど、どこか明るく、そして、楽しげな声だった。
その声に誘われるように、アルディスは、そっと、声のしたほうを伺った。
そこは丁度、木々の切れ間であり、上に差し込んでいる月明りのおかげで、明りが灯っているようにも見えた。それに照らし出される形で、微笑んでいる姉と、複雑な表情を見せているバディスの姿があった。
この明るさならば、自分が覗いていても、暗闇でよくは見えないだろう。
アルディスは、そのことに気をよくして、いそいそと、二人の様子を眺める。
月に照らし出された姉は、いつにもまして美しく見えた。ハイウェイドの王が望むわけもよく判る。逆に、今まで仇敵と凌ぎを削りあってきた敵国に、嫁するわけでもなく、ただ妾のように、『人質』として行かねばならぬ姉が、不幸にも思えた。
彼女は、このシルバリア一の美姫なのだ。それが、他国の側妾に成り下がるとは。
兄もどうせならば、妃として、送り込んでくれればよかったのに。
ハイウェイド行きが、今だ納得できないものの、アルディスはそう思った。でなければ、この美しい姉が、みじめだ。
バディスはいったい、どう感じているのだろうか。
彼は、三つ年下の美しい妹を眺めながら、無造作に首を振る。
「来てくれなければ、ハイウェイドには行かず、出奔でも何でもする……そう言われてはない。行かねばなるまい」
「ふふ……わたくしが、そう言って、本当に後宮から逃げ出したのは、何時だったでしょうか?」
「アルディスが生まれて、ちょっとしたころだから……八才か」
「知っているのは、父上、母上、そして……兄上くらいですわね」
リディアはそう言って、薄く笑う。
「確か、わたくしの母上が、兄上と会うことを禁じたからだったと記憶しています。それが嫌で、正宮の使っていない部屋に篭っていたのですわ。それが、いつの間にか、行方不明となっていて……」
「おかげで、後宮は大騒ぎだったな。側妃も顔面蒼白で……あの人も、自分の子供には、甘いお人だから」
「そう……でも、わたくしの居場所を目敏く見つけてくださったのは、母上ではありませんでしたわ。もちろん、女官の誰でもない。兄上でした」
「……正宮のあの辺りも、一時期は遊び場だったからな」
「でも、わたくし、酷く嬉しかったのですよ。見つけてくださったのが、誰でもない兄上だったことが」
林の上の方で、木々が鳴った。
風が通り過ぎていったのだろう。だが、幾多の幹に囲まれた、アルディス達のもとまでは、風も届かない。
リディアは、一歩、バディスから退くような仕草を見せた。
「あのとき、『あぁ、兄上は本当に優しい方なのだ』と思ったものです。だって、隠れていた、わたくしを怒りもせず、むしろ、母上や女官達の叱責から、庇って下さったんですもの」
「そうかな……覚えていない」
「わたくしは、覚えていますよ。あのころ、貴方はわたくしにとって、優しい兄上だった。それが……」
ふと、リディアが胸を抑えた。
彼女の表情が曇るのを、アルディスはしっかりと見て取っていた。
シルバリアの公位を纂奪してから、兄の変容を、リディアも悲しんでいたのだろう。弟である少年はそう思う。
だが、姉の言葉は彼の期待を見事に裏切っていた。兄のそれに対する答えも。
「どうして……『兄』である人を愛してしまったんでしょうね、わたくしは」
「リディア……」
「ずっと、お慕いしておりましたわ、兄上。『兄』としてではなく、一人の『男性』として」
「……それ以上、言うな」
「いいえ。言わせていただきます。だって、知っていますもの。兄上が、わたくしをハイウェイドに追いやる理由。わたくしを、これ以上、傍においておきたくないからでしょう?」
「リディア……!」
妹の暴言に怒るわけでもなく、ただ、バディスは戸惑っているようだった。
迷惑がるわけでもなく、これ以上、リディアに言葉を紡がせまいとして、バディスはあらがっている。だが、彼は今のリディアには、まったく逆らえなかった。ただ、拒絶もできずに、彼女を押し止めようとすることしか出来ない。
アルディスもまた、愕然と姉を見ていた。
まさか、姉がそんなことを思っていたなど、露にも思っていなかった。
隠れ、そして、姉の告白を盗み聞きする少年は、ただ、呆然と彼等を見守しか出来ない。
「だから、わたくし、決めたのです」
リディアが艶然と微笑んで見せる。
「ハイウェイドに行く以上、もう、お目にかかることも、殆どありますまい。ならば、この思いを告げてしまおうと。罪なことは判っています。承知しております。なれど、このまま、思いを告げずに去ることも、出来ませんから」
「リディア……お前は……」
「仕返しですよ、兄上。わたくしを、ハイウェイドなどに追いやる、貴方に対してのね」
リディアはそう言うと、ゆっくりと、バディスの前へと歩み寄った。彼の手を取り自分の頬へと押し当てる。
「兄上……お慕いしております。誰よりも。例え、ハイウェイドに行くことになっても、わたくしが思うのは、貴方だけ……」
そう、消え入るような声でつぶやいた妹を、バディスは抱きしめていた。
思いの枷が解かれたように。
(つづく)
(update 99/05/16)