１３　この世には神も悪魔もいないのだ。

　神聖なる神殿。

　シルバリア公家が、高位の神官の家系だったせいだろう。公城のすぐ横には、大陸一とも言われている、荘厳な神殿があった。そこは、代々、シルバリア公が司祭を勤めている、神に祈るための場所。

　公城とは、城壁によって隔てられているものの、そのすぐ近くにある、堅固な城門が開かれれば、簡単に行き来できるようになっている。一ヵ月に一度、シルバリア公や、その子供達が神殿に向かう際にだけ、開け放たれる門。それは、年代を感じさせる、鉄壁な鉄の門だった。

　そんな、戦の匂を感じさせる門を抜け、神聖なる場所へと向かう。まさしく、この戦乱の世の皮肉さを語っているような場所だ。血と同じ匂を持つ鉄。それを開け放ち、神の座す場所へと向かう。シルバリアの重臣などは、それを、シルバリア公こそが、いずれ、この血に濡れた時代を終わらせるためだと言ってはばからない。

　また、他国のものは、シルバリア公は、神を崇めながらも、最も血に濡れているのだと言って罵る。『鉄』と言う、武具を作るにあたって、最も貴重な金属を使用している城門。それを潜り抜けるのは、公が、神に仕えながらも、血に濡れた戦場で、勇名を馳せているためだと、彼等は皮肉っているのだ。

　シルバリア公家が、元々、高い位を持った神官の家柄だということは、この大陸で知らぬ者はない。城が建つ以前から存在していた神殿。シルバリア公の、最初の勢力は、この神殿に仕えていた、神官戦士達が中核だったという。

　始めは、ただ、神殿を、戦乱から守るためだけに、存在していた戦闘集団だった。

　それが、いつからか、一つの勢力となり、一国を納めるまでになっていた。

　だが、神官から、諸公への転換の最大の理由を知る者は、ほとんどいない。いや、それどころか、数多の人々は、シルバリア公の対等は、この戦乱の世での、自然の成り行きだと思っている。

　しかし、真実は違う。

　そして、その真実を知る者は、常に一握りの人間だけだった。

　その一人はシルバリア公。そして、彼が唯一、その真実を伝えるのが、自分の世継ぎたる人物。つまりは、継ぎのシルバリア公だ。

　その、ほんの一握りの人間だけが、シルバリア公の転身の理由を知っている。

　何故、神に仕える身でありながら、敢えて、戦乱の中に身を投げたのか。

　それは、常に絶対なる秘事として、伏されている。

　シルバリア公家の中でも、後継者にしか伝えられない秘密。それは、ともすれば、世界を揺るがすかもしれない事実だからだ。

　そして、そんな秘密も知らぬまま、アルディスは一人、神聖なる場所に立っていた。

　虚ろな目つきで、見慣れた神殿の中を見回す。

　百人以上の人間が、非難できそうなほどに、広く作られている神殿内の聖堂。いざとなれば、城を捨て、この広間へと篭る事もできるだろう。過去、神殿自体を守るために、この建物は、幾度となく、代々のシルバリア公は改築を重ねてきた。改築は、神殿をより荘厳なものとするよりは、より、堅粉ものとするために、続けられてきた。その結果が、この大聖堂の周りの城壁並みの壁と、そして、幾多の塔。

　絶壁のようにある壁で敵を退け、そして、塔から、壁向こうの敵を攻撃するのだそうだ。

　ただ、神に祈るためだけに立てられた場所が、戦乱の中、一つの要塞と化してしまっていた。

　バディスなどは、城のすぐ横に、こんな建物があるのは、戦略の上で、邪魔だと言ってはばからない。城を攻められた際に、神殿を取られた場合を憂いているのだろう。幾度となく、重臣達に、神殿の一部の取り壊しを命じている。

　だが、そんな命を下してみても、バディスは直接的なことは言わない。重臣の中にも、神を深く敬愛している者達がいることを、熟知しているゆえだ。彼は、そんな重臣達の賛成を得るために、自分の、過去の印象を利用した。

　もともと、信心深かった彼。シルバリア公となる以前は、足繁く神殿に通い、そして、神に幾度となく祈ってきた。母親とあまり旨くいっていなかったゆえに、神に救いを求めたのか、あるいは、仲違いが激しかった母の影響を、やはり受けたゆえだったのか。小さいころ、母である正妃に連れられたままに、彼は長く、神殿に通い続けていた。

　その過去の行動を、彼は遠回しに示唆したのだ。つまり、自分の意を通すために、敢えて軍略ということを表に出さず、あくまで、信仰的な理由から、神殿の一部立て壊しを、重臣に申し入れたのだ。

　神と通じるための場所が、戦の汚れを持っていてはならない。彼はそう言って、宗教的な理由から、神殿の立て壊しを拒んでいた重臣達を説得したのだった。

　だが、アルディスは知っている。そして、説得された重臣達の一部も知っていた。

　そう言ったバディスの思惑に、宗教的なものが、一切なかったことを。

　彼は、ただ、城を攻められた時に、神殿が相手方の攻撃の支点となることを恐れていたのだ。神殿が、戦に巻き込まれるのを嫌っていたわけではない。まして、神殿が、血に濡れることを忌んでいたわけでもなかった。

　そして、神殿は少しずつ、改築されていった。

　塔は壊され、城壁も、一部を残し、取り壊されていく。

　それを、アルディスは、寂しい思いで見ていたものだった。幼いころから見慣れていたものが、壊れていく。そんな気分を味わっていた。

　だが、そんな神殿よりも、もっと大切なものを、この少年は壊されていた。

「……神様」

　神への愛の前に目を曇らせた者が作り上げた、石の神像。それを、少年はひた向きな視線で見上げていた。熱を持った瞳で、神を見上げ、そして、嘆息する。

　神殿へと来るために、身を清め、なおかつ、正装もした。長い間の習慣だった。だから、わずらわしいと思ったこともない。むしろ、こうやってきちんとした服装をすると、身が引き締まる気がした。神殿に来るための正装と言っても、わずらわしい装飾など、シルバリア公家の服装にはない。むしろ、城の中で強要される服装より、よほど質素で、そして、簡潔だった。

　そんな身軽な格好が好きで、また、神殿内に詰めている司祭達に魔法について語るのが好きで、アルディスはよく、ここに通っていた。兄のように、神を敬愛するゆえに、ここに通っていたわけではない。だから、司祭達はいつも、アルディスの訪問に苦笑いしていたように思える。それでも、自分達に懐く、子犬のような、気さくな王子に親しみを抱いていたのだろう。いつも、親しげに対応してくれていた。

　いつもは、彼がこの聖堂に来るにあたって、親しくしている司祭達のうち、一人か二人が、伴をしてくれていた。だが、今日に限って、アルディスは、彼等を遠ざけている。

　彼は、どこか虚ろげに見える神像に向かって片膝をつき、一礼した。そして、そのまま、両膝をついて、頭を垂れる。両手を胸にあて、心臓の鼓動を感じる。

　神に祈る。

　父や母とともに、続けてきた習慣だった。一ヵ月に一度、ここへと訪問してきた際には、必ずしなければならない儀式のようなものだった。そして、司祭達も、アルディスが神殿に遊びに来た際には、必ず、最初に神に祈らせた。それが、規律だと言う理由で。

　アルディスは、どちらかと言うと、神への信仰が薄い方だろう。神の存在を信じていないわけではない。ただ、敬愛することに、反発を感じているのだ。彼に言わせれば、見えず、また、触れることの出来ないものよりも、むしろ、確かに抱きしめてくれる、母や姉のほうに、神に向ける敬愛を向けた方が、よほど、自分にやさしくしてくれる者達に報えると思っているらしい。

　そんな彼だったが、この聖堂に来て、神の像に真向かったときには、一心に祈ることが出来た。幼いころから強要された、規律めいた動作だったが、それでも、ただ一つの事を思うことは出来た。心を沈めることを父に習い、そして、神に語ることを母に習った。

　どんな時も、静かに、雑念もないまま、『神』を思えた。父や母が言う、誰か、自分を見てくれているはずの存在のことだけを、考えていられた。

　それが、今は出来ない。

　今、一心に神に祈っているように見える少年の心に占めていたのは、彼の目の前に立つ神像ではなく、むしろ、彼が昨夜みた光景の方だった。

　ふと、アルディスの面が曇る。昨日の暗闇の中で見た、あの瞬間が、脳裏に蘇ってきたのだろう。なまじ、目をつむって、他の考えを払おうとしているだけに、その光景だけが、まざまざと、現実のもののように見える。

　後宮の林の中。そこに、姉と兄がいた。

　そこで、アルディスは聞いてしまったのだ。姉が兄に恋をしていたと言うことを。

　そして、兄も……。そう、バディスも、また、妹に対して愛着を持っていた。彼は、リディアを拒まず、むしろ、虚ろに見えた彼女を、そのままかき消えぬようにとするかのように、力強く抱きしめていた。

「兄上、姉上……」

　兄と姉の思いと行動が、罪であることは、よく判っていた。妹が兄に恋し、慕うなど、許されることではない。それは、人の倫理に外れている。宗教的にも、また、社会的にも、それは、絶対に認められぬ思いだった。

　愛の前に境界線はないと、司祭達は言う。だが、彼等でさえも、バディスとリディアのことを、聞けば、眉を潜めるだろう。いや、騒ぎ出すかもしれない。まるで、勢いを得たように、二人の元へと走り出すだろう。そして、彼等に、得意そうな顔で説教をする。それは、神の許されることではない。そのままでは、二人とも、地獄に落ちるであろうと。

　アルディスは、そんな司祭達が言うであろう言葉など、気にするつもりはなかった。神の存在を信じていないわけではない。だが、彼等の言葉には、いつも疑問を持っていたからだ。そんな地獄に落とすほどなら、前もって、注意してくれればいいのにと。そんな、子供心の疑問を持っているが故に。彼が、一心に神へと信仰を向けられない最大の理由がそれだろう。司祭達の言葉の矛盾ゆえに、不信心と言われかねない思いしか、抱けないのだ。

　それでも、兄と姉のことは、認められなかった。司祭達が認めないであろうと、同じようにだ。

　アルディスもまた、姉を慕ってはいた。だが、それはあくまで『弟』としてだ。彼女がいくら美しい人であろうが、また聡明な女性であろうが、彼女を『姉』以上に見たことはない。

　いや、むしろ、彼女を一人の『女』として見ることなど、想像しただけで、悪寒がよぎる。そういうものなのだ、兄弟と言うものは。

　そこには、生物としての、人の倫理としての、強い枷がある。生きている物として、人は自分に近すぎる物を拒絶する。そして、人としての倫理を持って、兄弟間の思いを禁じていた。

　それを、姉は考慮していなかった。まったく。

　そう、リディアは、それに対して、戸惑いや、迷いを持っているような素振りを見せなかったのだ。むしろ、彼女が気にかけていたのは、バディスの反応だった。彼女が、自分の言葉に迷いを見せたのは、ただ、バディスに拒絶されることを恐れてのこと。また、戸惑ったのは、彼が、彼女の思いを、あまりにもすんなりと受け入れてしまったからだった。

「……どうして……姉上」

　あの聡明で、清かった姉が、どうして兄に恋をしなければならないのだろうか。姉ほどの器量ならば、他のどんな男性だろうと、良かったはずだ。彼女ほどの女性に恋をされれば、きっと、どんな男性だろうと、神に感謝する。これほどの美しさと、聡明さを持った、清い女性が、自分を思ってくれたのだと、天に祈りを捧げるだろう。

　だが、姉は、城にいたどんな男性よりも、兄を選んでしまった。

　そんな、人の道に外れた恋を、どうしてしてしまったのか。

　母が違うからと言って、許されることではない。リディアとバディスは、確かに、父を通じて、血が繋がっている兄弟なのだから。同じ血が流れている、兄と妹なのだ。

「姉上の馬鹿野郎！！」

　アルディスは、突然そう叫ぶと、地団太を踏んだ。彼は、分別のないように、腕を振り回し、一人で暴れ回る。

　もし、ここの司祭が居合わせていたのなら、おそらく、アルディスの気が狂ったと思っただろう。それくらい、彼は滅茶苦茶に、気が違ったように暴れていた。

　腕を大きく振り、空気を蹴るような真似をする。その際、バランスを崩してしまったのだろう。思わずギョッとなったときには、小柄な体は、良く磨かれてた聖堂の床の上に、背中から見事にひっくり返っていた。

「いって……」

　アルディスは、背中を抑え、小さく咳こんだ。転んだ拍子に、背中を思いきり打ちつけてしまったのだろう。背を抑えたまま、床に転がり、身を丸める。痛そうに顔をしかめ、そのまま、しばらく動かなかった。

　十分も経っただろうか。

　とうに、背中の痛みは引いただろうに、アルディスはまだ動こうとしない。

　ただ、床につけた耳が感じ取った靴音に、彼は身を固くした。

　この、足音。

　重々しい、その音に、アルディスは瞬間的に、兄の事を思い浮かべていた。そして、続いて感じた気配に、その直感が、まさしく正しかった事を確認する。

「何をしている……」

　聖堂の入り口から喋っているのだろう。バディスの声は、どこか遠く、そして、反響して聞こえる。

　寝転がったまま、アルディスは兄に背中を向け続けていた。このまま、兄に返事をしないまま、動かなければ、彼を苛立たせることはわかっていた。だが、体が動かない。

「アルディス？」

　静かな、落ち着いたバディスの声が、また聖堂内に反響する。

　彼の声は、いつになく、抑揚のない音を響かせていた。その、あまりの感情のない音に、アルディスは不意に怖くなって、慌てて起き上がった。

　床に手をつき、座り込んだまま、兄の方へと振り替える。

　聖堂の出入り口から、ゆっくりとこちらに向かってくる兄の姿が見えた。彼のすぐ傍に、年老いた司祭の姿が見えたが、バディスは、彼を入り口近くで、引き返らせた。司祭は、渋々と言った様子で、不本意な面持ちのまま、引き返していく。のろのろと、年齢相応の、頼りない足取りで、明りの乏しい、暗い廊下へと消えて言った。

　バディスは、司祭の背中を見送ったあと、また、先程と同じゆったりとした歩調で、アルディスの方へと向かってきた。いつも通りの、白い正装をし、右肩に長い、薄青の刺繍の入ったマントを羽織っている。

　公王としての、その正装に、アルディスは思わず見入ってしまう。父が、それと同じ形の服をまとっているのを、何度も見たことがあった。だが、このバディスほど、この正装が似合う人物もいないだろう。そう思う。神への祭服をまとっている兄は、どんな時よりも、凛々しく、また、毅然として見えた。誰よりも壮麗で、また、気高く見える。

　バディスは、マントの裾を軽くはためかせながら、今だ座り込んでいるアルディスの横を通り抜けて行った。そして、神像の前に立ち、ピタリと立ち止まる。

「立て、アルディス」

　自分に背を向け、低い声でそう命令した兄の言葉に、アルディスは反射的に立ち上がっていた。そして、下唇を噛む。

　何も思わないままに、兄の言葉に従ってしまった。厳しい、冷たい声だったと言うのに、反発一つ覚えなかったのだ。それが、悔しい。

　そんな、アルディスの思いを感じたのだろうか。バディスが小さく笑った。アルディスの目の前で、彼の肩が小さく揺れているのが見える。

「兄上……」

「……お前と、こうやって二人きりになるのも、久方ぶりだな」

　何の前触れもなく、バディスがそう切り開く。彼はわずかに首を回し、横目でアルディスを見た。

　兄の、暗闇より濃く見える、黒い瞳。それが、どこか優しげに見え、アルディスは思わず目を細める。

　一瞬、昔の兄に戻ったのかと思った。だが、心の片隅で、警報が鳴ってもいた。

　油断するな。この兄は、やはり、変わってしまったままだと。彼が見せる小さな、酷薄な笑みや、人を拒絶する雰囲気は、少しも変わっていないと。

　弟の頑なな態度に、バディスはおかしそうに笑った。皮肉そうに、口元を歪める。

「お前が、私に対して、一番正直だよ。重臣達は、私の豹変振りを恐れて、あくまで『公王』として接してくる。母は……あの人は、もともと、私に対して怯えていたからな。父は、もう気が狂いかけだ。そして、リディア……」

　昨夜のことを思い出したのだろうか、思わず、バディスは言い淀む。

「あれは、もともと、私の本質に気がついていたのだろうな。少しも態度を変えようとしない。そして、変えなくても、私と接していられる。馬鹿なやつだ」

　おそらく、昨夜の場面を、アルディスが見ていたことに気がついてはいないのだろう。リディアのことを口にしながら、バディスは、昨日の事をおくびにも出そうとしない。

　アルディスは、妹に告白されたと言うのに、少しも態度を変えようとしない兄を、挑むような視線で睨んでいた。

　バディスは、そん視線に気がつかないふりをしている。彼も、戦場に幾度となく行っているのだ。アルディスの、攻撃的な態度に気がつかぬわけはないだろう。だが、あくまで、気にしていない。

　気にすれば、弟を苛まねばならない自分に、彼は気がついている。同時に、弟を傷つけたくないが故に、アルディスの視線を無視している。

　今だ、彼の心の中に、以前の優しさがあるのだろうか。

　だが、アルディスも、また、バディスもそれには気がつかなかった。ただ、重苦しいばかりの沈黙が、辺りに漂い始めている。

　不意に、バディスが小さく何かをつぶやいた。まるで、この沈黙を払おうとするかのように、歌うような、低い声で、アルディスには聞き取れぬ言葉をつぶやいていく。

「……兄上？」

　突然のことに、アルディスは小さく首を傾げた。

　自分の小声を、目敏く聞きつけた弟に、バディスはクスクスと笑った。

「シルバリア公家の伝承だ。聞くか？」

「……伝承って……後継の？」

「そう……」

　バディスはそう言って、先程、小声でつぶやいた言葉を、今度ははっきりとした、アルディスにだけ届く声で、唱え始めた。

　後継の伝承のことを、聞きかじっているアルディスは、慌てて兄を止めようとする。その伝承が、シルバリア公にのみ、伝えられることを知っているからだ。自分が、その資格に当てはまらないことを知っている彼は、何とか、兄の暴挙を止めようとした。

　代々の言い伝えを汚すような行為に、彼は、子供心に怯えていた。

　だが、バディスは、そんなアルディスの反応さえ楽しむように、言葉を続けていく。

「滅びゆく国々。人々の悲鳴が大気を覆い、命と言う命は刈り取られ、大地は崩れ落ちていく。壊れていく世界。気付かないほどにゆっくりと、だが、確実に滅んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと」

　どこか、子守歌のような音程で語られていく言葉。

　それを聞いていくアルディスの面には、次第に、はっきりとした落胆が現われていった。

　シルバリア公家の伝承だと言うから、もっと難解な、難しい言葉が続いていくのかと思っていた。だが、これでは、ただの言葉の羅列ではないか。

　もしかしたら、兄に引っかけられたのかもしれない。これは公家の伝承などではなく、ただの、兄が思いつきのままに語っている言葉なのではないだろうか。

　そう思ったアルディスは不満も露に、兄に向かって文句を言おうとした。

　だが、その不安も、伝承の最後の言葉を聞いたところで、驚愕へと変わっていた。

「それは、神のいない大地。その定め」

　バディスが重々しく締めくくった、伝承の最後の言葉。

　それを聞いたとたん、アルディスは目を見開き、そして、顔色を変えた。

　神のいない大地。

　それが、この家の伝承。

　その意味を理解するよりも先に、兄の言葉の物悲しさゆえに、彼は驚愕していた。

　今、理解したのだ。

　この伝承こそが、兄を壊した最大の理由だと。

　１４　どんな罪人も、ここでは罰せられない。

　それは神のいない大地。その定め。

　兄の言葉が、頭の中で何回も、繰り返し、繰り返し響いている。バディスの低い声でつぶやかれた、その言葉。文章にすれば、たったの一行にも満たない、短い文だろう。

　だが、公家に伝わると言うその伝承に、アルディスは深い衝撃を受けていた。

　彼の、今だ幼い少年としての体が、小さく震え始める。始めは、肩が小さく揺れた。そして、膝。ガチガチと、歯までが鳴り出す。アルディスは、自分の身を襲ってきた震えと怯えを、必死に抑えようとしていた。だが、我慢しようとすればするほど、彼の心の中のおののきは、大きくなっていく一方だ。

「神の……いない大地？」

　信じられないと言ったように、つぶやく。自分で聞いても、酷く掠れている声だった。アルディスの声本来の、少年らしい響きを持ちながら、どこか、死にかけた老人の言葉のようにも聞こえる。

　怯えきり、そして、おののいている者の声だ、これは。アルディスは知っている。兄の前で糾弾された家臣達が、何人も、似たような声を出しているのを、彼は目の前で聞いてきたのだから。

　バディスは、冷酷な微笑さえ浮かべ、弟の狼狽に見入っていた。自分のつぶやいた言葉が、どれほどの衝撃を弟に与えたかは、よく判っているだろう。だが、彼はそれを楽しんでいるような節があった。薄く口元に笑みを浮かべ、アルディスが震えている様子を静かに見守っている。

　アルディスは、床へとその緑の瞳を向け、そして、兄の姿を避けながら、神殿の中を見回した。

　そこは、いつも見慣れた、大聖堂の壁であり、床であり、そして、天井だった。壁には、宗教的な色合いの濃い、神官の姿絵や、風景画が飾られている。暖かな色合いの、心休まる絵ばかりだ。それは認める。

　だが、いつもは荘厳に、そして、神秘的に見えていたそれらの絵が、バディスのたった一言のつぶやきのせいで、その神々しさを失っていた。神を賛えている司祭の姿は、皮肉な風刺画へと変わり、そして、神の光と題された絵は、ただの雨上がりの風景を描いたものへと変わってしまっている。

　絵自体が変わったわけではない。アルディスの見方が変わっただけだった。

　自分の『神』に対する態度が一瞬で変わってしまったことに、アルディスは怯えた。今までの自分の思いと、そして、行動を否定されたような気分になる。

　確かに、彼は不信心と言われても、仕方のない信仰心しか持っていなかった。それでも、アルディスは『神』はいると信じていたのだ。きっと、どこかで自分達を見守ってくれていると思っていた。そして、この戦乱に嘆いていると、時々、その『神』のために、少年の心で悲しみもした。

　だが、その存在が否定された。

　シルバリアの伝承によって。

『神のいない大地』

　なんと言う、身も蓋もない、浅はかな言葉だ。これでは、奥の意味を勘繰ることも出来ない。裏に何か、もっと深い謎が隠されているとも、思うことも出来ない。それは、そのままの意味。聞いた瞬間に判ってしまった。

　深い意味も持たない、謎かけにもならない言葉だ。だが、その言葉自体に、一つの深い悲哀が込められている。アルディスは、それをバディスの言葉から感じ取ったのだ。そして、この一節が、なんの深読みもいらない、悲しみと嘆きをつぶやいたものだと、理解した。

　神はいない。

　この世界に神はいない。

　伝承は、そう『泣いている』のだ。悲しんでいる。

　陳腐な言葉でしかないのは、それ以上、何も言えなかったからだ。そんな言葉でしか、この事実を、シルバリアの先人は、伝えられなかったのだ。

　それほどに深い悲哀。それを、最初にこの伝承を伝えた人物は心に抱えていたのだろう。

　今のアルディスのように。そして、かつてのバディスのように。

　アルディスは、なおも、何かを拒絶するように、辺りを見回し続けた。よく磨かれた床を睨みつけ、その大理石の白さに、何故か泣きたくなった。

　涙を流すまいと、今度は天井を睨む。だが、その天井にある光取りようの、小さな入り組んだ窓から見える空も、また、空しく思えた。

　あそこに、誰かがいるのだと思っていた。そう信じていた。父もそう言っていた。母である側妃もだ。親しくしていた司祭達も、そう言って、笑っていたはずだった。

　なのに、彼等が言った言葉は、皆、嘘だったのだ。真実ではなかった。

　世界中の人間が騙されている。

　この辛い戦乱の中、報われない彼等が最後に頼った存在が『神』だと言うのに、それは、まったくの虚無だったのだから。それらの、皮肉で、そして悲しい現実に、アルディスは顔をしかめた。激痛にでも見回れたかのように、面を歪め、そして、拳を握り締める。

　悔しそうに。ただ、悔しそうに、彼は呻き声を上げていた。

「畜生……畜生！！」

　知らず知らずのうちに騙されていた。その悔しさに、アルディスは思わず叫んだ。

　そんな弟を見て、ふと、バディスが表情を緩める。

「アルディス……何故だ。何故、怒りを感じる前に、悔しがる？」

「兄上は、悔しくなかったのかよ！」

　今までの兄への恐怖など忘れさってしまったかのように、アルディスはごく自然に、兄に食ってかかっていた。

「だって、神様、いないんだぞ。誰も、戦場の跡で泣いている子供、助けてくれないんだ。誰も、恋人が死んで悲しんでいる女の人、救ってくれないんだぞ！？」

「……たまに姿を見ないと思っていたが、お前、城の外に出ていたのか？」

　バディスは、冷ややかな表情で、弟が思わず漏らしてしまった秘密を指摘してた。

　今まで、絶対の秘密としていたことを、兄に察せられてしまったことに、アルディスは体をビクリと震わせる。彼は、言葉を失ってしまったかのように、十秒、二十秒と、沈黙した。

　城の外に、密かに出ていることがバレれば、兄に叱責されることは判っていた。十一のアルディスが出られる範囲だ。せいぜいが、町の中であろう。彼が今、叫んだ言葉も、そんな町で聞いた、悲しい話の受けうりかもしれない。

　それでも、一国の王子が、気軽に町の中とは言え、出て行っていいはずがない。バディスはそれを、決して許しはしないだろう。アルディスの身を案じてと言うよりは、王子としてのアルディスが原因で、シルバリアに何かしらの不利に見舞われるのを懸念してでだ。

　いずれ、兄の口からつぶやかれるであろう、城外への外出の禁止の言葉に、アルディスは身を固くした。

「……そうだよ、出て……たよ」

「……なるほどな」

　バディスの凍り付くような声。

　それに、アルディスは心の中が燃え立つのが判った。

　この兄は、何も感じていないのだ。かつては、何か思ったかもしれない。だが、彼はもう、『神』について、何も思わなくなっている。そのことに、アルディスは瞬間的に逆上していた。

「何で、そんなに、落ち着いてられるんだよ、兄上！？」

「……この戦乱の世、『神』がいないと言うだけで、取り乱してはいられぬのだ。そんな暇があるのなら、この国をより確固たるものいしたほうがいい」

「それでも、皆、信じてるんだ、神を。シルバリアの人達だって……皆、祈ってる。早く、戦が終わりますようにって。神様に祈ってるんだ。平和が欲しいって！！」

　少年は、数日前に見た光景を思い出し、胸を詰まらせていた。

　町の中の小さな神殿で、彼よりほんの二、三年上の少女が、神に祈りを捧げていた。彼女は、自分の幸せを祈っていた訳ではなかった。ただ、戦がなくなればいいと。皆が、幸せに笑っていられればいいと、祈っていたのだ。

　その光景を思い出し、アルディスはますます逆上する。

　それとは対象的に、バディスはどこまでも冷静だった。弟の取り乱し様を、懐かしむように眺めている。

「アルディス、神に祈るなど無駄なのだ」

「兄上！！」

「事実だ」

　突きつけるように、バディスはそう言う。

「仕方あるまい。神がいない以上、俺は、国を纏めるための『儀式』でしか、祈らん。無駄だからな。俺は、そんな意味をなさないことに、かまけている時間はない」

「……無駄って……兄上の言うことも、判ってるよ。でも……でも！！」

　懸命に、アルディスは兄の言葉を拒絶しようとする。いや、それ以上に、シルバリアの伝承そのものを、拒絶しようとした。

　出来うるならば、先ほど聞いた言葉全てを、忘れてしまいたいほどだったろう。時間を巻きもどし、兄があの言葉を口にする前に逃げだし、全てを聞かずに済ませたかった。

　だが、すでにあの言葉は、アルディスの心に刻まれてしまっている。深く、暗い場所いだ。そして、それはもう、忘れさることも出来ないものだった。

　アルディスは、兄の冷ややかな視線から逃れるように、自分が力の限りに握り締めている拳を見下ろした。力任せに握り締めるあまり、一部が白く、そして、赤くなってしまっている拳。わずかに伸びていた爪が肉に食い込み、それでいて、その痛みも感じられない。ブルブルと小刻みに震え、そして、固く閉ざされている拳だった。

　その上に、一滴、水滴が落ちる。

　とうとうこぼれてしまった涙を見て、アルディスは顔をしかめた。

　それから、関を切ったように、いくつもの涙が、後から後から、彼の目元から拳へと、落ちて行った。一つは、人さし指の付け根に落ち、そして、一つは手の甲をかすり、床へと落ちていく。

　我慢しようとしても、涙は際限なくこぼれ落ちていく。

　拳を握り締め、悔しさを全身で表わしている。そんな、アルディスの姿に、バディスは一瞬だけ、表情を緩めた。

「アルディス……」

　バディスは、今、弟の姿に、自分の姿を重ねていた。

　彼も、これほどの衝撃を受けていた。いや、なまじ誰よりも深く神を敬愛していたために、アルディスよりも強い衝撃と絶望を感じていたものだった。『神のいない大地』としての事実に怯え、そして、恐怖した。自分の信じていたものが、偽りだったと言うことに怒りを感じ、そして、悲しいんでいた。あの瞬間。

　そして、その直後に、バディスは父の裏切りにあったのだ。

　先のシルバリア公である父は、どうして、殺そうとした息子に、直前になって伝承を伝えたのだろうか。バディスはそれを、ずっと疑問に思っていたものだった。だが、今このアルディスの反応を見ているうちに、何故か合点がいく思いがした。

　あれは、復讐だったのだ。こんな、絶望に満ちた事実を自分に伝えた先代に対する、先のシルバリア公の復讐だった。子供に事実を伝え、絶望される様を見て溜飲を降ろす。その、みじめで、そして、卑屈な手段。

　軽蔑していた父を同じことをしたと言う事実に、バディスは自重気味な笑みを浮かべた。

　その気はいを察して、アルディスが顔を上げる。

「……兄上、どうする気なんだ？」

「どうする、とは？」

「この『神のいない大地』で……世界で、何をする気なんだよ！！」

　少年はそう叫び、腕で涙を拭った。

「兄上は、この世界が神様もいない……罪人も罰せられない、そんな世界だから、たくさん殺して、裏切って、ハイウェイドと結んで……そんなこと、してるのか！？」

「違うな」

　弟の浅はかな思いを、兄は冷笑する。

「私が戦を重ねるのが、お前は気にいらないらしいな。だが、私には私の思惑がある。理想もだ」

「理想……？」

「そう」

　アルディスが、興味を示したことに、バディスは満足そうな笑みを浮かべる。それは以前、冷酷な支配者の微笑だった。だが、同時に、バディスの面に浮かんでいる表情は満足げであり、また、高尚でもあった。大きな理想を持ったものが、己の望みに自身を持っているかのように。

「いいか、アル……」

　久しぶりに、アルディスを愛称で呼びながら、バディスは目前にある神の像を見上げた。

　すでに、その像は彼にとって、何の意味もなさないだろうに、彼はそれを愛しそうに見上げている。表情の片隅に、侮蔑と皮肉った笑みを浮かべながらだ。

「俺は手に入れてやる。全てをだ。この世の全て」

「あ……兄上」

「手にいれられる限りのものを、手に入れてみせる。シルバリアの名を、この大陸中に広めてみせる」

「なぜ……もっと広い国が欲しいから。他の国の王みたいに、もっと大きくなりたいのか？」

「馬鹿かお前は？」

　バディスの、男らしく筋ばった手が、アルディスの茶色の髪をわしづかみにした。彼は弟をそのまま乱暴に引き寄せると、無理矢理、彼の顔を上げさせる。

　髪を引っぱられる痛みに、アルディスはわずかに眉を潜めた。そして、挑むような目つきで、自分を見下ろしてくる、はるかに長身の兄を見上げる。

　弟の視線をバディスは満足そうに受け止めている。まるで、その憎しみに似た目こそが、自分にふさわしいと言うかのようにだ。

「アルディス。この世には、神も悪魔もいないのだ。人を傷つけたとて、罰する者はいない。まして、戦に手を貸す者もない」

「だから、なんだよ！」

「この世に戦乱をもたらすのも、また、平和をもたらすのも、『人』次第なのだよ、我が弟よ」

「……兄上」

　目を見開き、アルディスは兄の静かな面を見た。

　相変わらず、酷薄にしか見えない表情を、彼は浮かべている。

　だが、そこには確固たる意思があった。兄らしい、悲壮な決意だ。

　不意に、バディスはアルディスから手を離した。弟を突き放し、興味がなくなったと言うように、無言のまま、彼の横を通りすぎて行く。

　段々と遠くなっていく兄の背中を、アルディスは呆然とした様子で見守っていた。新たな涙を目元に浮かべ、眉を潜める。少年らしく、刹那げに顔をしかめ、嗚咽を漏らした。

「なんで……兄上……アンタは強いのに……頭いいのに……」

　心が強いから、兄は『神がいない』事実にも、また、父親に裏切られた事実にも屈しなかった。そう、彼はそれでも、傷つかなかった。負けなかった。

　兄が変わったのは、確かに、アルディスが感じた通り、『神』がいないからだった。だが、彼は絶望した訳ではなかった。ただ、決意を新たにしただけだった。

　例え自らの手を血に汚しても、かつて自分が理想としたものを、手に入れようとしている。

　『神』と言う存在に縛られなくなっただけ、兄の理想は確かなものとなっただろう。かつての兄は、神の理想郷を目指しているようなところがあった。

　だが、今のバディスの理想は違う。彼が理想としているのは、人の理想郷だ。人が自らの手でつかみ取った平和。それを、戦乱に終止符を打つと言う形で、実現させようとしている。

　いつになく、アルディスの目には、バディスが大きく見えた。確かに、彼は尊敬できる存在だった。目標と出来る男だった。彼の理想は、また、アルディスにも同調出来るものだった。

　もしかしたら、バディスは、そのアルディスの理解が欲しかったのかもしれない。ただ一人で、神がいないと言う事実に耐えるのが、孤独だったのだろう。だから、伝承を敢えて、弟たるアルディスに伝え、なおかつ、自分の理想も語った。

　そして、彼の思惑通り、アルディスはバディスの理想を自分の願いと重ねた。そう、今のアルディスは、バディスの思いを理解し、なおかつ、彼と同じものを切望している。

「でも……兄上」

　しかし、それでも唯一つ、今だに納得出来ないものがあった。

　姉リディアのことだ。

「俺も、平和は欲しいよ……でも、そのために、好きな人まで、犠牲になんて、出来ない……俺は、理想のためだとか言って、好きな人を手放したりしないぞ」

　バディスがリディアを引き離したのは、一つに、禁じられた思いを断ち切る思惑があってのことだろう。だが、同時に、リディアは理想を実現させるための道具とされたのだ。バディスは、現在、大陸でもっとも強大な勢力を誇っているハイウェイドの力を利用するために、生贄にされたも同然だった。

　理想のために、どこまでも非情になる。そのことを、少年はまだ、受け入れられなかった。

(つづく)

(update 99/06/06)