オリジナル

■神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜■

40「残影−8−」

作・三月さま


 

 

 15 ハイウェイド侵攻。

 

 

 シルバリアが、ハイウェイドの属国となってから、三年あまり。ついに、シルバリア公国は、彼の国に牙を剥いた。

 その先月、ハイウェイドの覇王として君臨していた国王が、病気で亡くなった。三十年あまりも在位し、戦場を駆け巡っていた王の最後は、戦場ではなく、城のベッドの上。しかも、幾多の側妾に囲まれての死だった。

 その報は、シルバリアへと、ハイウェイドの使者によって告げられた。王の死ともなれば、最重要機密ともなりえることだ。それを、すぐ様、シルバリアへと知らせたと言う所に、この当時、ハイウェイドがどれほど、この友好国家を信用していたのかが伺える。その、使者の来訪と同時に、今後のハイウェイドとの友好関係を確固たるものにすると言う名目で、夜中でありながら、シルバリアの主だった重臣達が、城へと召還された。

 ハイウェイドの国王の、病死とは言え、あまりに急な死亡の報に、シルバリアの重臣達は騒然となった。ある者は、これに伴うハイウェイドの混乱に気を重くし、ある者は、同時に起こるであろう、他国の台頭に頭を悩ませていた。

 だが、その重臣達のいずれもが、集められてすぐに、バディスが使者の前で告げた言葉を、すぐには信じることが出来なかった。

 謁見用の広間。その玉座には、悠然とした態度でバディスが座り、両脇に控えている、十四名の重臣達の様子を伺っていた。使者は、ハイウェイドの高位の文官と言うことで優遇され、重臣達の最前列に立っている。

 バディスは、物憂げな仕草で、肘を玉座で支え、そこに、身を預けていた。その姿勢で、集まった直後から、心配ごとばかりを思案しあっている重臣達を冷笑さえ浮かべて見つめていた。重臣達の不安を知りながら、彼は敢えて、彼等に勝手な議論をさせているような節があった。そして、意地悪く、そんな相談を盗み聞きしている。

 十四名の重臣が集まりながら、なかなか、王を交えた議論が始まらないことに、ハイウェイドの使者は、段々と苛立っているようだった。ことは、この使者の生国の大事なのだ。それを、友好国であるシルバリアの国王は楽しんでいるようにさえ見える。使者が苛立たないわけがない。

 それさえも理解していながら、なおも、バディスは何の言葉も発しようとしない。

 彼は待っていた。最後の『主賓』をだ。

 重臣達も、何故、王が重臣達が揃っていながら、何も言おうとしないのを、判っているのだろう。使者のように苛立った様子も、また、不思議がっている表情も見られない。あるいは、彼等は、ここ数年で、一つの文句さえ出ないほどに、シルバリアの国力を上げた王を、恐れているのかもしれない。

 確かに、バディスの決断は常に強行なものだった。また、残酷でもあった。だが、彼の英断とも言える王としての取り決めは、常に、シルバリアに勝利と富をもたらしていた。最初こそ、宮廷内でくすぶっていた、反バディス派の空気も、彼が先の公王以上の戦果を上げることで、小さくなっていった。そして、宮臣の不満もまた、国が大きくなっていくことで、消えていった。

 今やバディスは名実共に、シルバリアの指導者だった。王としての権力と名声を確固たるものにしていた。

 そこにきて、このハイウェイドの赴報だ。王が何を考えているのか、聡い者ならば、察していたかもしれない。だが、これまでの、バディスのハイウェイドへの態度を考えると、ありえないこととして、その誰もが、考えついた事を一笑に付していった。

 そうして、重臣が全員集まって、三分ほど遅れて、公弟であるアルディスが、謁見の間に駆けこんできた。

「遅いぞ、アルディス」

 重臣より遥かに遅れてきた弟に、バディスは叱責の声を投げつける。

 それに、アルディスは持っていた剣を無言で差し出すことで、答えた。剣は、王の前であると言うのに抜き身であり、なおかつ、刀身が濡れていた。

 アルディスの愛剣の刃が、血で濡れていることに、重臣達は皆、騒然となる。

 ただ一人、バディスだけが落ち着いた様子で、手を振った。アルディスに、剣を引けと暗に言っているのだ。

 アルディスは兄に逆らう事もなく、剣を腰に差してあった鞘に収めた。この場でただ一人、王の傍にありながら、帯刀を許されている少年。本来ならば、公弟など、公位に近いだけに、最も王に警戒されてもよいはずの存在だった。だが、バディスは敢えて、アルディスに自分の身近での帯刀を許している。弟を信じていると言うよりは、弟以外の者を、より疑っているからなのだろう。

 そんな兄の思惑など気にしないまま、アルディスは収めがばかりの剣の柄に、右手を置いた。そして、不貞腐れた様子で、彼の右手前方に立っていた武官を睨みつける。

「西の警護がずさんだ。間者が入り込んでいたぞ」

「では、その血は……」

「衛兵が三人、他に、騎士が一人やられた。毒でやられたから、助かるか、判らないそうだ」

 アルディスはそう言って、厳しい視線を武官から反らそうとしない。

「お前の手落ちだな。こうやって、ハイウェイドから使者が来てるんだ。他国が気にしないはず、ないだろう?」

 気を付けるべき時に気を抜いた。アルディスは、そう、武官を叱責している。だが、その失態以上に、彼は、目前で傷ついた衛兵と騎士のことを思っていたらしい。武官が責務を果たしていれば、被害ももっと小さかったと信じてゆえだ。

 王と他の重臣達の面前で、公弟に叱責された武官は、萎縮してしまう。だが、それに助け船を出したのは、誰でもない、バディスだった。

 いつもなら、武官を真っ先に叱責し、最悪の場合、解任させてしまうはずのバディスが、アルディスを引かせた。そして、それ以上、武官の失態についても、何も言おうとしない。

 アルディスも、また、いつもとは違う兄の態度に、戸惑っているようだった。おとなしく引き下がりながらも、困惑した様子で、玉座にある兄を見ている。

 彼等の視線を受け、バディスは冷たい笑みを浮かべた。全員の注目が自分に集まったことに満足そうな笑みを浮かべ、目を細める。

「ハイウェイドに侵攻する」

 静かに、何の抑揚もなくつぶやかれた言葉。

 バディスがそう言った後、しばらくの間、重臣も使者も、また、アルディスも何も言えなかった。

 そして、喧騒。重臣と言う重臣が信じられないと言った様子で、自分の思いを勝手に叫び出し、また、武官の一部に至っては、高揚した様子で、王を賛えていた。

 謁見の間で一番うろたえていたのは、他でもない、使者だろう。

 これから、今だ少年の王を支えてくれる人物と頼って、敢えてシルバリアに王の赴報を伝えたのだ。それが、逆に攻め入ると目前で宣言されてしまったのだ。慌てないほうがおかしい。使者は、目を見開き、口を開いたまま、食い入るようにバディスを見つめていた。そして、我に返ると同時に、何としても、バディスに思いとどまって貰おうと、必死な説得を始めた。

 だが、それが徒労に終わるであろうことは、シルバリアの重臣達がよく知っていた。まず、バディスが一度口にしたことを、覆えすはずがない。そして、すでにシルバリアは、使者の目の前で、ハイウェイドへの反意を明かしてしまったのだ。すでに、引き返せなくなってしまっている。今さら、侵攻を取り止めたとて、ハイウェイドのシルバリアへの不審は、使者を通じて広まっていくだろう。そして、ハイウェイドが落ち着いたとき、シルバリアの運命は終わってしまう。ハイウェイドも、反意を抱くような友好国を、いつまでも庇護などしていられまい。

「レンハー、使者を」

 バディスは、自分の命を待っていたらしい武官の一人いそう言い渡す。

 命を受けた武官は、心得顔でうなずいた。この武官が、ハイウェイドへの侵攻を聞いて、真っ先に喝采を上げた人物だ。彼は、興奮仕切った表情で使者を捕えると、無理矢理に、謁見の間の外まで引きずっていった。そして、そこで控えていた、自分の部下に使者を引き渡し、地下の牢獄へ繋いで置くように言いつけた。

 武官が、自分の位置に戻るのを待って、バディスは重臣達に好き勝手な議論をさせた。

 今さら、バディスに反論する者はなかった。打倒ハイウェイドこそが、彼等の悲願だったからだ。

 ハイウェイドとは、長い間、争ってきた。大国である彼の国に、シルバリアは何度となく、脅かされてきたのだ。そして、シルバリアは孤高の国家として、他の小国を代表するような形で、ハイウェイドの侵攻を食い止めてきた。

 大国に脅かされる小国ほどみじめなものはない。戦を避けるために、時に無茶な要求をされる。それでいて、和平がなったと安心してみても、ハイウェイド側から条約を反故され、また攻め込まれる。国境の町や村は略奪され犯された。それが、長年続いたのだ。ハイウェイドへの恨み程、深いものはない。

 だからこそ、バディスがハイウェイドとの和平を伝えたとき、あれ程までに、宮廷は荒れたのである。仇敵に屈することが出来ないから、何人もの重臣達が反乱してきた。

 だが、今、重臣のほとんどが満足していた。これこそが、バディスの真意だったのだと、勝手に納得している。打倒ハイウェイドに向け、武官達は興奮し、文官達でさえ、日頃は対立しがちな彼等を全面的に支持していた。

 バディス自身が煽らなくとも、士気を高めていく重臣達に、彼は満足そうな表情を見せた。だが、それでいながら、彼の横顔には、どこか影が見える。

 同じように、面に暗い影を見せている人物は、他ならぬアルディスだった。

 一つだけ、興奮の中、重臣達が敢えて無視している事実があった。アルディスが、高まった士気を感じ、言いたくても言い出せない事があった。

 リディアのことである。三年前に、ハイウェイドへと人質になっていった、あの姫のことを、誰もが意識的に口にせず、無視していた。彼女が人質になっている事実さえないと言うように、いや、それどころか、その姫の存在さえないように、彼等は戦のことを熱く語っていく。

 武官の一人が、長年考えていたのであろう、対ハイウェイド戦での不利な点を、大まかにだが説明していった。それを、他の武官が細くしていく。一致団結し、議論していくその姿には、彼等がハイウェイドに屈しながらも、どれだけ、あの国と再び剣を交えることを考えていたのかが伺える。どれだけ、あの国がシルバリアに恨まれていたのかが、察せられた。

 アルディスは、その文官武官達の興奮した様をどこか冷めた目で見ていた。

 誰も、リディアのことを言わない。そのことを、今すぐにでも、叫びたかった。

 だが、出来なかったのだ。彼には。

 どれだけ、この重臣達の気分が高揚しているのが、アルディスは知っていたからだ。彼等が、苦汁を飲み耐えてきたことを、彼は判っている。同時に、重臣達の心が、その辛さから、ようやく解放されたこともだ。

 言いたいことを言い出せぬまま、アルディスは玉座にある兄を盗み見た。

 そこには、先ほどあった影など、もう見られなくなってしまっている。そして、その影の存在すら知らないアルディスは、兄の冷酷さに、改めて打ちのめされていた。

 理想のために非情になる。

 時には必要なことだと、判ってはいた。兄ほどの理想を掲げるには、時に、辛い決断をしなければならないことも。

 だが、兄はそんなことを微塵にも感じさせないのだ。リディアが犠牲になるかもしれないと言うのに、悲哀の表情一つ浮かべない。

 そう、リディアはおそらく犠牲となるだろう。ハイウェイドも馬鹿ではない。裏切られながら、シルバリアの姫を生かして置くはずがないのだ。きっと、リディアは殺されるだろう。シルバリアと同じように、姫を差し出していた国への見せしめとして。また、反抗したシルバリアへの、最初の報復として。

 ふつふつと、アルディスの心の中で、何かが煮えたぎっていた。

 怒りだろうか。いや、これは悲しみだ。

 兄の、どこまでも非情な様子に、彼の心は、もう、耐えられないところまで来ていた。

 理想は同じであっても、目指すところは一緒でも、辿ろうと思っている道が違い過ぎる。

 アルディスには、兄と同じ決断は出来なかった。いや、したくなかった。例え禁じられた思いであろうと、最愛の人物を、理想のために生贄にすることなど、アルディスには許せなかったのだ。

 姉を犠牲にされると言うよりは、兄の非情さゆえに、彼は悲しんでいた。

 そして、同じ道は辿るまいと違う。たとえ、この先、同じ理想を抱き続けたとしても、決して、兄と同じ行動は取らないと、少年は誓った。

 それは、兄との完全な決別だった。幼いころ慕い、そして、理想を知ってからは尊敬もした相手から離れ、自己を作り出した。

 憎しみさえ持って、アルディスは完全に兄から離れた。兄の理想に振り回されることなく、己の信じるもののために行動するべく。

 

 

 

 

 

 16 紅の別恨。

 

 

 これが最後の賭けだ。

 アルディスは、城の薄暗い廊下を駆けながら、心の中で何回もそうつぶやいていた。いや、自分に言い聞かせていた。

 城の、一定感覚で明りが灯されている廊下。それは、夜も最も闇が濃い時刻になったせいが、薄暗いどころか、闇が迫ってくるような感覚さえあった。その闇は、灯篭の明りの届かない、小さな影などに潜み、今か今かと、その灯篭の命がかき消えるのを待っている。その闇の深淵達は、とても卑屈で、そして、みじめだ。

 だが、そんな哀れみの感情よりも、アルディスは、影に潜む闇達に憎しみさえ感じていた。彼には、朝日が昇る頃には消えてしまう運命の灯篭が、姉の命の光のようにも見えていたのだ。シルバリアが反抗したと言う報が、ハイウェイドに届けば、その瞬間にも見せしめのために殺されてしまうであろう、美しい姉。ゆらめく炎の優しい光は、あの人そのままにさえ、見える。

 それの人の命の灯火を、かき消そうとしているのは、他でもない、彼女の母国であるシルバリアだ。だた一つの目的である、打倒ハイウェイドのために、このシルバリアの宮廷の人間全ては、彼女を見殺そうとしているのだ。

 憎しみがあるわけでもない。あの姫は、王都などに住んでいる、どの従姉妹姫達よりも、愛され、そして、敬愛されていた。幼い頃から、その美麗さと聡明さは他に並ぶ者もなく、父にも母にも、そして、兄弟達にも当然愛されてきた。今、彼女を見捨てようとしている重臣達だとて、リディアのことは、愛すべき姫として慕い、そして、可愛がってきたはずだった。いや、それどころか、彼女が成長した後には、彼女に相談を持ちかける者達も、山ほどいたほどなのだ。それは、宮廷の女官にとどまらず、重臣や、その奥方達までに及んでいた。

 そんな姫が、憎まれ、厭われて見殺しにされるはずがない。

 彼女が見捨てられるのは、それだけ、シルバリアのハイウェイドへの憎しみが強いから。そして、彼女への信頼もあるのだろう。

 あの姫ならば、きっと、判ってくれる。

 重臣達が考えているであろう思いを心に描き、アルディスは片手で顔を覆った。

 何と言うことだろう。あの姉が、捨てられるだなんて。

 今だ少年の域を出られない彼は、廊下を走り抜けながら、呻き声を上げる。

 ただ、彼は悲しかったのだ。これから、姉が失われるかもしれないと言う事実に、身が砕けそうだった。

 リディアは、アルディスにとって、ただ一人の姉だった。彼女は、誰よりも優しかった。そう、時には母である側妃以上にだ。聡明で、アルディスを叱ってもくれた。泣いた時には、慰めもしてくれた。ずいぶんと年の差があったと言うのに、いつも彼と一緒に遊んでくれもした。本を読んでくれた。文官に怒られた時、一緒に隠れもしてくれた。いつも一緒だった。いつも傍にいて、アルディスのことを気にかけてくれていた。

 そんな優しい姉だった。その彼女が、今、本当の意味で奪われようとしている。

 遠くに行って会えなくなるならば、まだいい。まだ、生きているのだから、何時か会える可能性があった。

 だが、もし、殺されてしまえば。

 殺されてしまっては、もう二度と会えなくなってしまう。もう三年も会っていないのだ。それなのに、何も言えないまま、いや、何も出来ないまま、彼女が消えてしまう。

 それが、アルディスには耐えられなかった。

 彼が耐えられないことは、もう一つあった。それは、兄バディスの対応だ。

 兄は誰よりも聡明だった。アルディスが何の文句もなしに尊敬できる程に頭が切れ、そして、その知力でもって、未来の予測さえ立てられるような人物だった。

 その彼が、ハイウェイドに侵攻した際に、人質としていた妹に何が起こるかくらい、判らないはずがない。いや、彼のことだ、あの国に進撃すると決めた時、すぐにも、リディアがどういう目に遭うかくらい、想像がついていたはずだろう。

 だが、彼は決行した。ハイウェイドに、シルバリアから戦を仕掛けることを決意したのだ。

 これは、否応無しの戦などではない。ハイウェイドが、新王を得て、その王がシルバリアを潰す事を決意した訳ではない。あの国の王は、今だ幼い、少年王が新しい王となったばかりなのだ。宮廷は混乱し、その鳴動は、軍部までに及んでいるだろう。そんな状態のハイウェイドが、大国とはいえ、シルバリアに戦をしかけられる訳がないのだ。むしろ、これからのハイウェイドは、次第に勢力を延ばしつつあるシルバリアの力を借りてでもいて、新王の威光を高めていかねばならない時期。

 その一時的とはいえ、国力が弱まっているハイウェイドに戦をしかけたのは、シルバリアの方。妹を人質に差し出したバディスが、侵攻を言い出した。そして、姫を敬愛しているはずの重臣達が、それに一つの異論もなく賛同していった。

 重臣達の気持ちはよく判る。彼等が常日頃、影でどれだけ悔しい思いをしてきたか。それを見てきたアルディスには、彼等の積年の思いがよく判っていた。同時に、今、彼等がどれほど解放されているかもだ。

 判らないのは、いや、本当に判らなくなってしまったのは、兄バディスの気持ちだった。

 自ら、妹の首を絞める真似をしてみせる兄。しかも、何のためらいも、後悔もなしに、彼はハイウェイド侵攻を言ってのけた。

 その彼の気持ちが判らなかった。そして、許せなかった。

「兄上!」

 前方に、近衛を従えて歩いている兄の背中を見て、アルディスは反射的に、彼の名前を叫んでいた。

 兄の広い背中。アルディスよりは、よほど体格のいいバディスの背は、広く、そして、たくましく見える。男らしく、また、王としての威厳にも満ちている姿だ。後ろからでも、彼の持つ威圧感を感じることが出来る。

 その、王としてのカリスマ性に圧倒されぬよう、アルディスは自分の心を叱咤した。気持ちを引き締め、そして、それを維持するかのように、手を握り締める。兄を、これ以上はないくらいの激しい瞳で睨みつけ、憎しみでも叩き付けるような気持ちで相対した。

 アルディスの必死な声に引かれたように、バディスは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。いつも通りの冷酷な表情で、十四になったばかりの、少年の面影を濃く残す弟を見据える。黒い、ぬばたまの瞳が、アルディスを突き刺すように睨みつけた。

 アルディスは一瞬、兄の気配に圧され、後退りそうになる。だが、それを彼は必死にこらえた。そして、その怯えを気取られぬように、兄のすぐ傍まで来たと言うのに、走る速度を上げた。そして、彼の目の前で立ち止まり、きつい表情で、まだ頭一つ分も背の高い兄を見上げる。

「兄上、本気か!?」

 アルディスは、兄の黒い瞳を見るなり、そう叫んでいた。

 冷酷な、凍り付いたような黒い瞳。かつては、どこまでも優しく見えた瞳だった。夜の闇のように、包み込んでくれる優しさがあると思っていた。

 だが、今はその黒い瞳が、何よりも冷たく見える。バディスの心のままに。

 目的のためにならば、妹さえ切り捨てる。そんな、恐ろしい人。

 それが、自分の兄なのだ。

 握りしめていた拳を、さらに強く、爪が食い込むかと思うほどに、固くする。

「本気で、ハイウェイド城に攻め入る気なのか!?」

「そうだが?」

 熱く、感情の篭った声で尋ねるアルディスに対して、バディスの声はどこまでも冷静だった。冷静沈着と聞こえはよいが、今この状況では、この声の静かさは、彼の酷薄さを表わしているだけのようにしか聞こえない。

 バディスは、その声以上の冷たい瞳で、弟を見下ろしていた。その面には、謁見の間で一瞬だけ見せた、だが、アルディスが見逃してしまった影など、どこにもない。

 どこまでも、彼は冷徹だった。妹を見捨てようとする事実などないかのように、いつも通りの表情、そして、態度で弟に接している。

「それが、どうかしたか?」

「姉上がいるんだぞ、ハイウェイドには!」

 バディスの冷静さにたまらなくなり、アルディスは声を張り上げ、そう叫んだ。

 その瞬間、アルディスの少年的に細い体が中に舞う。彼が、それを認識した瞬間には、彼は近くにあった石作りの壁へと叩き付けられていた。

 反射的に頭を庇ったせいか、少しだけ頭が朦朧とするだけで済んだ。だが、まともに、石壁へと突っ込んでいった背中が、かなり痛む。壁から床へと、反動で跳ね返りながら、アルディスは背中を丸めた。大きく咳込み、苦しそうに息を吸い込み、そして、吐き出した。

 アルディスが顔を上げて見れば、バディスの回りにいる近衛の騎士達が、主の目が無いのを幸いに、痛ましそうに顔をしかめているのが見えた。だが、止めようとはしない。彼らは、主であるバディスの怒りを恐れているのだ。

 近衛と言う以上、バディスの傍に常に付き従っていたはずだ。そして、今のアルディスのように、勘気を被り、罰せられた者達をたくさん見てきただろう。その中には、アルディス以上の折檻を受けた者もいるだろう。いや、それどころか、殺されてしまった者もいるはずだ。

 公子の痛みに、顔をしかめながらも、騎士達の面には、どこか慣れたような色あいがある。

 それに、アルディスは酷く皮肉な思いがした。一瞬だが、苦笑が漏れてしまう。

 兄の表情もまた、アルディスの苦い笑みを引き起こしたものだった。兄は、弟を平然と殴りつけ、壁へと叩き付けながら、何の表情も浮かべないのだ。先ほどと同じ冷徹なまま、床に座り込んでいる弟を見下ろしている。

 バディスは、握っていた拳を解くと、薄い皮肉った笑みを浮かべた。自分を憎らしげに見上げてくる弟の前に膝を付き、彼を冷たい目で見据える。

「今攻めなければならんのだ。これを逃せば、ハイウェイドを抑える機会はなくなる。それは、判るな?」

 そう言うバディスの声は、氷のように冷たかった。

 だが、彼はどこか同意を求めている。

 その事に、怒りで目が曇っているアルディスは、気が付けなかった。いや、気にかけようともしなかった。あれほどに、望んだ兄の小さな心の吐露を、この少年は見過ごしてしまっているのだ。

 ただ、もう、彼の頭の中には、姉のことしかなかった。シルバリアが軍を動かせば、すぐにでも殺されてしまうであろう、リディアのことしか、もう、なかったのだ。

「姉上はどうなる。人質なんだぞ、殺される!!」

「そうだろうな」

 淡々と、諭すように言うバディスの口調。弟の激しい感情を見て、逆に彼はどんどんと心を冷めさせていく。唯でさえ冷徹な面は、仮面のように凍り付き、瞳の闇はその濃さを増していくばかりだ。

 その兄の酷薄さは、アルディスの怒りをさらに煽っていった。彼は、突然訳の判らない言葉を叫ぶと、目の前に膝をついていた兄へと飛びかかっていた。拳を握り締め、冷酷な兄の面を殴りつけようとする。

 だがその動きも、バディスは用意に避けた。彼は口元を歪め、弟の体を交すと、そのまま、彼のがら空きになった腹部を膝で蹴り上げた。そして、床に落ちた弟を、さらに蹴る。

 いとも簡単に攻撃をかわされ、さらには、腹をえぐるように蹴り上げられてしまった。アルディスは、爪先をめり込まされた腹部を抑えながら、苦しそうにせき込んだ。腹の中にあったものを、何回も吐き出し、苦痛のために眉を潜める。

 何回も、何回も繰り返し咳込みながら、彼は兄を見上げた。床に這いつくばったままの、みじめな姿勢で、怒りだけは失わないまま、激しい瞳で、兄を睨みつけた。

 感情的な弟を、バディスは哀れむかのように見下ろす。

「愚か者が」

「愚か者だって!?」

 兄の言葉を受けて、アルディスは身を起こした。膝をつき、いつでも起き上がれる態勢になりながら、自分を叱責する兄に食って掛かる。

「確かに、俺は愚かかもしれない。でも、アンタよりはましだ!!」

「ほう……お前のどこが、この私よりもましだと言うのだ?」

 見下すように、バディスはそう言う。

 それに、アルディスは全てを打ち消すように、全霊を込めて叫んだ。

「兄上のように、領土を広げるために姉上さえ犠牲にするくらいなら、馬鹿の方がましだって言ってるんだ!!」

 ついに言ってしまった。

 自分で叫んでおきながら、アルディスはなかば呆然としていた。

 この言葉は、誰もが避けてきた言葉だったのだ。リディアを犠牲にすると言う事実から逃れたいために、重臣さえも誰一人として口にしなかった言葉だ。それを、アルディスが、今、見ずから声も限りに避けんでいた。

 だが、これは最後の賭けでもあった。

 これで、バディスが何かの変化を見せてくれるのならば、まだ、希望があるはずだった。リディアを犠牲にしても、それを後悔する気持ちが少しでもあるならば、兄に付いて行ける気がしたのだ。姉が死んだとしても、兄を許せる気がしたのだ。彼の傍に居続けられるような気がしていたのだ。

 そう、アルディスはまだ、バディスの傍に居たかったのだ。

 尊敬していた。憧れていた。その人の傍にいて、彼のやることを見届けたかった。

 この『神のいない大地』で彼が何をするのか、それを見たかった。

 だが、今にも泣きだしそうなアルディスに返ってきたのは、今まで以上に冷酷なバディスの声だった。

「そうか……」

 何か、納得するようにつぶやきながら、バディスは腰に差していた剣を抜いた。ごく普通の動作のようにだ。

 その動きは酷く滑らかなものだった。ためらいも、また、焦りもない。まるで、自然に歩を踏み出すような動きだった。

 スローモーションのように見える兄の行動を見ながら、アルディスは顔色を変えた。青どころか、真っ白にさせて、息を飲み込む。

 背筋に、何か酷く冷たい物が走っていった。

「兄上……」

「アル、そんな馬鹿なら、死んでしまえ。その方が、楽だろうからな」

 バディスは笑いながら、そう言った。

 笑いながら!

 その事実に、アルディスは顔を歪ませた。怒ったような、それでいて泣きそうな顔で兄を見上げる。 

「あ……兄上」

 ブルブルと、情けないほどに体が震えた。子供のように、止めどなく怯えている。

 だが、自分は何に怯えているのだろうか。

 目の前にある抜き身の剣に震えているのだるか。

 それとも、兄その人に恐怖しているのだるか。

 もう、何がなんだか、判らなくなっていた。

「な……なんで……兄上……」

 バディスの剣は、廊下の明りを受けて、微弱にきらめいて見えた。刀身に写る炎の揺らめきは、この世のどんなものよりも美しく見えた。赤く、オレンジ色に見える、不思議な色合い。それを、刀身に写しながら、炎以上の壮麗な冷酷さを、バディスは見せている。

「この戦乱の世、馬鹿では生きてはいけまい。そうだろう、アルディス?」

 兄が暗に、『神のいない大地』のことを言っているのは判った。

 だが、彼の真意が計れない。

 何を思っているのだ、この兄は。

 妹を見殺しにする前に、唯一の弟も血祭りに上げようと言うのだろうか。戦の門出にと。

「兄上!!」

「ならば、今ここで、死んだほうがましだろう」

 アルディスの恐怖をあざ笑うかのように、バディスはクスリと笑った。

 その笑みに、弟であるアルディスは総毛立つ。

「兄上ぇ!!」

 アルディスの見つめる前で、バディスの長剣がふり上げられた。

 近くで、騎士の一人がたまらず、何か叫んだのが聞こえた。だが、それも遠い国の音のように聞こえる。

 もったいぶったように、バディスはアルディスに向かって剣を振り降ろしていた。それを、アルディスは、一瞬、呆けたように見つめていた。

 剣を抜かれても、まだ、兄はそれを自分には振り降ろさないものだとばかり思っていた。せいぜいが、もう二、三発も殴られるくらいだと思っていた。

 まさか、本当に兄に剣を向けられるとは思っていなかった。まして、兄が自分に切りかかってくるとも、考えていなかった。

 一瞬遅れて、アルディスの体が反応していた。頭ではない。感情でもない。ただ、本能がその生命の危機を感じて、体を動かしていた。

 バディスの剣の軌道を見極めて体が横に動く。同時に、右腕が、剣の柄を握っていた。

『……ドッ!!』

 左肩に、かつて感じたことのない衝撃と、そして、熱さがあった。断ち切られる痛みに、体が悲鳴を上げる。

 だが、その時、アルディスの口から叫ばれていたのは、苦痛による絶叫ではなかった。むしろ、彼が叫んだのは、怒りの吠哮。

「畜生!!」

 怒りに目をくらませて、悲しみに心を閉じて。感情と本能の命じるままに、心を動かしていた。

 手の先に、なじみのない感覚が伝わってくる。剣を通して、その刀身を叩き付けた感覚が、腕を痺れさせる。

「公王!!」

 バディスの凶行に、凍り付いたようになっていた騎士達が、騒然となる。

 同時にアルディスも、一時の怒りの混乱から我に返っていた。そして、自分の手の中を見る。

 パタパタと、剣の刀身を伝って、血が幾筋も落ちてきていた。剣の柄に当たったそれは、重力のままに下へと落ち、すでに床を染め始めていたアルディスの血と混じっていく。

 二つの血は、まったく同じ色をしていた。赤い、美しい色だ。見入ってしまいそうな、魔性の色あいは、頭がクラクラするほどの魅力を持っている。

 だが、今のアルディスは、その血の紅に見入ることは出来なかった。ただ彼は、自分の剣がえぐっていた、兄の左腹部を見つめている。

「あ……に……うえ……」

 バディスも、反射的に避けていたのだろう。それほど、深い傷には見えなかった。それでも、傷口から溢れてくる血は、彼の白い正装を、赤い色で染め上げていく。

「あ……あ……」

 カタカタと、剣を握っている手が震えた。

 左肩に、激痛が走る。だが、それに気が付かぬまま、彼は恐怖に囚われようとしていた。

「あ……にう……えを……」

 かつての優しいバディスの笑みが、脳裏に蘇ってくる。

 兄を傷つけてしまった。リディアと同じように大切だった人を、一時の怒りにまかせて、この手で傷つけてしまった。

 剣を握る腕に走っていた震えは、今や全身に及んでいた。

 そんなアルディスを、騎士の一人が抑えようとする。他の近衛達は、腹部を抑え、膝を付いた公王へと駆けより、その傷の具合を見ている。

 ゆっくりと近寄ってくる、顔なじみの騎士を、アルディスは呆然を見ていた。

 その彼を殴りつけるように、厳しい声が飛んでくる。

「アルディス、行け!」

 弾かれたように、アルディスはその声の元へと、視線を走らせた。

 騎士に囲まれた中心に、バディスがいた。傷に顔をしかめながら、彼はまっすぐに、弟を見据えている。

「アルディス、行け。行って、自分が愚かではないと、証明してみせろ!」

「兄上……」

 兄のまっすぐな瞳を、アルディスは見返した。そして、目前まで迫った騎士の手から逃れるように、彼はきびすを返してきた。

 今まで、思い詰めた表情で走り続けていた廊下を、駆け抜けていく。肩を切られたため、その速度は酷く遅い。それでも、彼は必死に走っていた。

「アルディス様!」

「追うな!」

 慌てて、アルディスに食い下がろうとした騎士を、他でもないバディスが止めた。

 彼は、相変わらず冷たい表情を面に浮かべながら、弟の走りさる後ろ姿を見送っていた。

 ふと、腹部を抑える手をはずし、手のひらを見つめる。その手は、自分の血で真っ赤になっていた。そして、目の前の床には、同じように赤いアルディスの血が敷き詰めてある。

 赤く染まった手で、バディスは顔を覆った。

 騎士達は、傷が痛むのかと、慌てた様子だった。そんな彼等に構わぬまま、バディスは低い呻き声を上げる。

「私は……どこまで気が狂っていくんだ」

 誰にも聞かれぬまま、バディスは、そうつぶやく。そこには理性と、そして、何よりも強い悔恨があった。後悔を抱きながら、彼は傷ではなく、心の痛みに呻き声を上げていた。

 ただ一人、遠くへと行ってしまう弟だけに向けて言葉をつぶやいただけだった。

「アルディス……私は……」

 

 

 

(つづく)

 

 


(update 99/06/13)