オリジナル

■神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜■

41「残影−9−」

作・三月さま


 

 

 17 運命の輪が今、回り始める。

 

 霧そのもののような雨が大地に降り注ぐ。広野も町も、灰色に覆い付くし、全てを冷たく包み込んでいく。冷たい、秋の雨だ。昼ごろの陽の光が暖めた大地の熱も、また、空気の暖かさも奪い去り、全てを凍り付かせるような冷たさへと変えていった。

 その中、一人の少年が、誰も通らないような、路地の影でうずくまっていた。荒い吐息を繰り返し、苦しげに眉を潜める。彼の右手が抑える肩は、暗闇でもはっきりと判るほどに、異色の液体で濡れていた。遠くにある大通りの明りに反射するその液体は、薄暗い中でも、滑った、赤黒い色をしている。雨に濡れた服の水とは、まるで違う色合いだ。

 その血に、右手を染めながら、少年は静かに路地の壁に座り込んでいた。城から少し離れた路地とは言っても、すぐ傍には、今だ人通りがある大通りがある。ここから助けを呼べば、誰か、声の調子に引かれて、見に来てくれるかもしれない。だが、少年は肩口を鮮血で濡らしながらも、決して、人の助けを呼ぼうとはしなかった。

 少年は、その代わりのように、壁に力なく寄りかかりながら、小さな声で、何事かをつぶやいていく。すでに体力が失われてしまったため、声が出ない訳ではないらしい。疲労の影はその面に見られるものの、今だ、少年の意識ははっきりとしている。大声を出そうと思えば、十分、叫び出せるだろう。

 それでも、彼は人目を逃れるように、小声で朗々たる言葉をつぶやいていく。

 知識ある者が聞けば、それが、絶え絶えの回復呪文の詠唱の声だと気が付くだろう。

 少年は、誰に助けを求めることもなく、自分自身で、傷を癒していっているのだ。

 だが、少年のその魔法の効果は確かに発揮されているものの、傷から流れ出る血は、何時まで経っても止まらない。癒しの奇蹟は、少しずつ、少年の肩の剣傷を治癒していった。だが、魔法がすぐに癒せぬほどに、この傷は深いのだ。癒している間にも、どんどんと、彼の体から、その命の源たる血は、流れ出ていってしまう。

 彼は当初、人の助けを呼ぶよりは、自分で傷を癒した方が、効率が良いと判断した。その方が、人に見つかることもなく、また、傷を癒すにも都合がいいと思ったのだ。人の手を煩わせている間にも、血は流れ出るだろう。それを早く止めるためにも、自分で癒そうと思ったのだ。

 それが、今や、必死に魔法をかける羽目となっている。今からでも、人は呼べるだろう。だが、妙な意地と、また、焦りがそれを邪魔していた。

 今さら人など呼べるかと、天の邪鬼な部分が意地を張っている。馬鹿なことだと、理性では判っていたが、もう一つの考えが、声を張り上げることを止まらせていた。

 止めどなく、肩口から溢れていく血。それが、彼を酷く焦らせている。

 このまま、死ぬのではないかと、ふと不安が競り上がってくる。それを慌てて心の底に押し込めても、今度は、血の色が彼を責めた。

 あの時、剣を伝ってきた血の色。兄の腹部に見えた、あの色。それは、今自分の肩を染めている血の色と、まったく同じ色だった。

 兄をこの手で傷つけた。最後の別離を自分の手で下した。

 そのことが、今だ少年の域を抜け切れぬアルディスを責めていた。

 血が足りなくなってきたせいか、詠唱を続けるのも、億劫になってくる。

 酷く疲れていた。体も、心も。

 もう、どうでもいいかと思ってしまう。兄のことも、そして、姉のことも。

 この神のいない大地で死ぬのだ。きっと、先にあるのはただの『無』だろう。神殿の司祭達が語ってくれたような神の国はないはず。そして、また、地獄と呼ばれる悪魔の国もないだろう。

 あるのは、ただの闇さえも喰い尽くす『無』。それだけだ。

 虚無の存在に、恐怖しない訳ではない。だが、今のアルディスは、その恐怖以前に、安堵を感じていた。

 このまま死ねれば、もう、何に煩わされることもないのかもしれない。

 そう思うと同時に、それでも細々と呪文の詠唱を続けていた口が動かなくなった。理性の一部が、必死に、回復魔法を続けろと叫んでいる。だが、その声も、今はただ、彼の心を通り過ぎていくだけだ。

 疲れた。

 大通りとは正反対の方向にわずかに見える、城の明り。それを目を細めて、アルディスは眺めていた。

 さっきまで、彼はあそこにいた。そして、悲しみ怒っていた。どこまでも、心を激しくしていられた。

 それが今はどうだろう。兄を傷つけたことに衝撃を受け、心の激情の反動のように、酷く虚無的な考えに取りつかれている。

 肩を掴んでいた手が、地面に落ちた。汚水が溜まったような水溜まりに、手のひらが浸かる。

 赤い血に染まっていた手は、その泥水の中で、紅の染料をゆっくりと溶かしていく。まるで、アルディスの命そのものが、汚い水の中に解け出していることを、揶揄するようにだ。

 それを、アルディス自身は、何の感慨も持たないまま、見つめていた。まるで、そこに何もないように、ぼうっとした表情で、暗闇の中、色を変えていく水を眺めている。

 大通りの喧騒は、この裏通りにも当然届いていた。シルバリアの民の明るい声。時折、喧嘩によるものらしい騒ぎの騒音も聞こえた。それでも、その煩わしい喚き声も、すぐに笑い声にとって変われ荒れてしまう。

 暗い路地から見える人々の姿も、また、活気に満ちていた。人々は、明日にある未来を信じ、前向きに生活を営んでいる。こんな夜になって、騒いでいる若者や、労働者達でさえ、期待を胸に抱きながら、存在している。

 路地影にうずくまりながら、アルディスはその光景に顔をしかめた。

 どんなに狂っていても、バディスの取った道は、確かにシルバリアの民を未来へと導いている。あの、民の幸せそうな顔を見ていると、そう思えた。どんなに戦が続いても、彼等には信じられる希望があった。バディスがそれを提示している。だからこそ、何時徴兵されるか判らない青年達も陽気な表情を見せ、また、戦の悲惨さを知っているはずの中年の労働者達も家族のために、働いていられた。

 アルディスが非難したバディスの取った行動は、彼等が肯定している。妹を犠牲にしても、弟を排除しても、バディスは、民のために行動している。自分の信じる未来のために全てを捨てている。仇敵につき、その先走りをやらされても、また、今まで庇護を与えてくれていた国を裏切っても、バディスは自分の信じた道を突き進んでいる。確固たる信念のもとに。

『行って、自分が愚かではないと、証明してみせろ!』

 兄が最後に叫んだ言葉が、不意に脳裏に蘇った。

 あの誇り高い兄が、自分に求めたもの。全てに立ち向かっている彼が、アルディスに最後に受けた言葉。

 生きて、自分の言葉を証明しろと、あの人は言った。アルディスの信じる者が、彼の進む道と外れるのならば、その違う道で、目的を達成しろと、バディスは挑戦してきた。

「……兄上」

 泥水の中に両手を付き、アルディスはヨロヨロと立ち上がった。壁にすがり、今にも倒れそうになりながら、何とか起き上がろうとする。

 死にたくない。

 不意に、生に対する渇望が蘇ってきた。

 あの人が正しいとは思わない。また、彼の非情さを認める気にもなれなかった。

 バディスのやり方に不満があるのは確かだ。愛する者さえ犠牲にするあのやり方には、絶対に賛同出来ない。

 甘いと笑いたければ、笑えばいい。子供じみていると言うのならば、そう言え。

 俺は、俺の信じる道をいく。それでも、未来が掴めると証明してやる。

 自分の愛する者を幸せにも出来ないで、国そのものを幸せに出来るはずがない。

 心が闇に囚われてしまった者の目指す未来は、暗黒そのもののはずだから。

「……だから、俺は……」

 血が足りないせいだろう。やっと起き上がれたと思った途端、また、身が傾いだ。それを、アルディスは何とか踏ん張る。

 兄をもう一度なじるためにも、生きなければならない。

 彼に、自分の信じる物の正当さを、証明してやらなければならない。最低でも、彼の信じる道でも、この大地で幸せが掴めるのだと、叫んでやらなければ。

「……諦めないぞ、絶対に」

 一歩、一歩、引きずるように歩いていく。

 目指すのは、目の前にある、あの大通り。もう、意地も後悔もない。あるのは、未来への渇望だけ。きっと掴めるはずの、幸せ。

 シルバリア公城にいて、不幸せではなかった。いや、むしろ幸せだった。

 だから、今から目指すのは、もっと違う幸福だ。自分の信念と相入れる、もっと、満足出来るものが欲しかった。

 今、彼を動かしていたのは、その『欲望』だった。

 死にたくない。

 兄上に屈したくなんかない。

「誰か……」

 目の前に、人々の喧騒があった。その前に、アルディスの声は、容易にかき消されてしまう。

「……畜生」

 罵る声さえも、小さく、掠れがちなものになっていく。

 もう、足にも手にも力が入らず、体も、冷たくなってきた。いや、もう、感覚さえもないのではないだるか。雨で濡れていたはずの服の不快感もない。足元の水溜まりの感触も伝わってこない。前の前の人々の声さえも、酷く遠かった。

「……バディス」

 兄の狂気に満ちた笑みが、脳裏に蘇った。冷たい、酷薄な表情。かつての兄の微笑みとは、まるで対象的な笑みだった。それに、アルディスは何もない空を睨みつけた。まるで、そこにバディス本人がいるかのようにだ。自分が思い描いた幻覚の兄に反発するように、アルディスはまた一歩踏み出す。ゆっくりと、引きずるような足取りで。

 だが、そこが、彼の限界だった。意識が遠のいていくのを感じながら、アルディスは前のめりに倒れていく。ゆっくりと、体の限度に心が抗いながらだ。何もない空を手が掴もうと彷徨う。足が、何とか踏みとどまろうと、前に踏み込んだ。それでも、不意に最後の歯止めがなくなったように、彼は前へと頭から突っ込むように、倒れていった。

 そのまま、汚水のたまった路地に倒れ込むのだと思った。そして、そのまま打ち捨てられ、死ぬのだと。だが、倒れかけていたアルディスの体が、不意に宙で止まる。何かが、彼の肩を抑え、彼が汚水の中に突っ伏そうとするのを止めたのだ。アルディスをギリギリで支えたそれは、彼の目から見て、一瞬、一つの大きな影に見えた。

 その暖かい感触が、消えかかっていた意識を繋いだ。予期していなかった感覚を感じ、アルディスは顔をノロノロと上げる。

「あ……誰?」

 誰なのか。尋ねたつもりだった。だが、声は掠れ、小さな呻き声としかならない。

 アルディスを支えている人物に、その声は届かなかったようだった。ただ、相手はアルディスの赤く染まっている肩を見て、顔をしかめている。

「何やってんだ、お前……?」

 アルディスの目の前に、明るい茶色の髪が見えた。彼の物よりも、もっと濃く、そして、陽に晒された大地のような暖かさを持っている。そして、その髪の色とよく似た瞳が、彼の面を覗き込んでいた。心配そうに、気づかうような視線で。

 気が付いてくれた。

 その事に、アルディスは淡い笑みを浮かべる。そして、ふっと目を閉じた。安堵で、張り詰めていた意識が、ついに途切れたのだろう。だが、まだ死んだわけではない。切ないほどに生への渇望を心に忍ばせている少年は、ただ、自分の命をこの目の前の人物に託しただけだった。もう、それしか、彼の生きる術はなかったから。

 いきなり、身も知らぬ相手に、命を託されてしまったことを、相手も気が付いたようだった。アルディスを抱えるその少年は、酷く困ったような表情になり、気を失ってしまったアルディスの面を、見下ろしていた。

 おそらく、彼だけが、誰もが聞きのがしていた、アルディスの微かな声を聞き取ったのだろう。人を見捨てられない質なのだろう。アルディスを困ったように見つめながら、諦めたように吐息する。

 彼は、優しさを持ったような、人好きのする顔だちをしていた。アルディスでさえ、この状況でその身を任せてしまうような、人を信頼させるような雰囲気を持っていた。

 その少年は、アルディスを抱えたまま、小さく舌打ちする。彼が不意に抱え込んだ怪我人が、ずいぶんと危ない状況であることを、見て取ったのだ。

 アルディスよりは、一つほど上だろうか。年の割に大柄な彼は、意識を朦朧とさせているアルディスを軽々と抱えると、表情を厳しくしたまま、大通りの中を急いだ。面倒臭そうな顔をしながら、拾った物を捨てられない様子で、ともすれば、走り出さんばかりの勢いで、人々の間を歩いていく。

 時折、少年は気になったように、腕に抱えたアルディスの面を覗き込んだ。そして、まだ彼が生きていることに、何度も安堵する。

「まったくもぉ、やっかいなもん、拾っちまったなぁ……」

 少年は、ぶつぶつと文句を言いながら、それでも、何か満足そうな表情をしていた。何か、おもしろい事が起こりそうな予感に、興奮していると言ってもいい。

 そして、その少年の予感は、まさしく的中することとなった。彼はこの先、この夜に拾った、怪我を負った少年のために、自分の命さもえ、危険に晒すこととなるのだから。

 それが、運命の輪が回り始めた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 18 純白の羽が黒く染まるように、君を汚してしまおう。

 

 煌々と輝く光の壁。東の宮全体を包み込み、何人たりとも侵入不可能としている結界だ。それは、優しげな光を放ちながらも、どこまでも人を拒絶していた。その結界を張った人間の心のままに。

 揺らぎ、そして、ともすれば誘い込むような光を発している結界は、それい触れようとするモノ全てを拒絶した。嵐に舞っていた葉や枝は、その結界の陽光のような白い壁に触れると共に、一瞬で塵となっていった。雨粒さえも、あっと言う間に蒸発していく。

 結界は、その外にある全ての一切の物を完全に拒でいた。それでいて、中から出ようとするものを排除しようとはしない。

 現に、外の異変に感づいた、ある程度、魔法的な感覚に鋭いらしい侍女が、外に出ようとすると、安易に出られたと言う。東の宮を探っていた武官の一人が、結界のせいで、大怪我を負った目の前で、その侍女は、易々と、結界の外に出てきたのだ。

 そうやって、結界は外にある者を内に入れず、内にある者を優しく押し出していった。

 その結界の目の前に、ようやく、東の宮までやって来た、大武聖と大神官の二人がいた。背後に、数人の武官を従え、二人は常にないほどに、険しい表情をしている。

 堅固な結界だな。

 ルドラは、魔導的な感覚の乏しい自分でさえ、はっきりと見られることの出来る結界を、半ば呆れたように見上げていた。

 東の宮全体を覆うような壁だと、ここに向かう途中に出会った武官に聞きはした。だが、まさかこれほどだとは思っていなかった。

 淡い乳白色の結界は、まさしく、東の宮全体を包み込んでいたのだ。壁のように、東の宮全体を覆い、なおかつ、その天井にまで広がっている。

 確かに、この聖王宮全体にも、アルディスの結界が強いてある。この聖都にもだ。だが、その二つのいずれもが、この結界には遠く及ばない。

 覆い、守っている広さならば、前の二つの結界のほうが、よほど広いだろう。だが、強固さとなると、圧倒的に、ルドラ達の目の前に広がっている結界に劣ってしまう。聖都を覆っている結界は、せいぜいが、小物の魔物を退ける程度。ある程度の魔族には、まったく効かない。せいぜいが、聖都に居続けるのを、厭わせる程度のものだ。

 聖王宮に張っている結界も、王都の結界に比べれば、はるかに強いものだが、やはり、用心程度のものだ。魔物程度ならば、アルディスが意識すれば、そのまま圧し潰せる。微弱な魔族ならば、居続けることも出来ないだろう。だが、一定の段階を超えた魔族ならば、そこで悠々と生活出来てしまうほどだ。

 どちらの結界も、主に対魔族用のものだった。魔族は、どの属性を持っていても、その魂の持つ波動は闇に近いのだ。それを利用して、アルディスの光の結界は、その闇に近い魂を排除するようなしくみになっている。

 だが、目の前の結界は、そんな相手の性質を利用するような、生半可な物ではない。魔力を全てかけた、全力の結界ではないかと、思わせるくらいに、これは強い。人間だろうと、魔族だろうと、そして、おそらく魔神であろうと、この結界は弾いてしまうのだろう。もう、相手の区別などしていない。唯ひたすらに、拒絶するだけのものだ。

 範囲は狭いが、その分、強固になっている。バルスが言う所によると、例え、聖都まで範囲を広げても、この結界の威力は弱まらないかもしれないと言うことだ。強すぎる光の結界。それが、人をも拒絶し、なおかつ、傷つけられることを、ここにいる人間達は知った。

 呆然と、唯見ているのも嫌になり、ルドラは剣を利き手から持ち変えると、その手を結界へと延ばしてみた。横から、バルスが止めろとでも言うのか、小さい声でルドラの名前を呼ぶ。

 ルドラは、その注意に、苦笑いしただけだった。そして、構わず手先で結界に触れて見る。

 瞬間、弾かれたように、ルドラは手を引いた。そして、呆然とした表情で、自分の手を見つめる。

「まずいな、こりゃ……」

 心底困ったように、大武聖たる青年は、自分の手の無残な様子を眺めていた。

 指先が裂け、血で染まっている。一瞬だが、うっすらと煙が上がったようにも見えた。最初に走った衝撃のせいか、今だ痛みはないものの、すぐに、顔をしかめたくなるような激痛が来るだろう。

 ルドラは黙って、手先をバルスに見せた。まるで、結界に触れた結果を、彼に見せつけているようにも見える。

 バルスは彼の手の状態に何も言わないまま、小さく、回復呪文を唱えた。淡い光の灯った手のひらをルドラに向け、彼の手を治療していく。

「ありがとよ」

 こんな状況なのに、笑みさえ浮かべて、ルドラは礼を言う。その陽気さが、バルスには気に触ったようだった。いつもながら無表情さに、わずかだが、怒りが混じったようにも見える。

 何時も、アルディスの事を気にかけている大神官の当然とも言うべき不況に、ルドラは自嘲気味な笑みを浮かべる。それでいて、彼に悪びれた様子はなかった。むしろ、当然とでも言うように、自分を嘲笑っていたはずの笑みを、誇らしげな表情に変える。

「しょうがねぇだろ、俺は鬱々とは、してらんないんだからさ」

 同意を求めるように、彼はそう言う。

 大神官であるバルスが、この非常時だと言うに、アルディスのことに気を取られ過ぎている。事の中心がアルディスであるだけに、バルスが彼のことを気にかけるのは間違っていない。だが、大神官として、王を気にかける他にも、彼には仕事があるのだ。ルドラと同じように。

 それを、ルドラは暗に言っているようだった。普段ならば、自分がむしろ、ルドラを諌めるべき立場だと判っているだけに、バルスはその事に、ばつの悪そうに顔を背けた。

「さぁってと、どうする?」

 バルスの横顔を眺めながら、ルドラは他人任せな口調で、そう聞いてきた。

 武に秀で、アルディスが最も信頼している人物。だが、やはり武人なのだろう。この結界に対して、なす術がないらしい。

 あるいは、敢えて自分に機会を与えてくれているのだろうか。ふとそう考えてバルスは首を振った。ルドラなら有り得ることだと、何か無性に可笑しくなってきたのだ。

「結界は、壊そう」

「平気か?」

 魔導の知識に疎いと言っても、やはり、アルディス達の傍に四百年以上もいるルドラだ、結界を壊せば、術者に影響が出ると言うことぐらいは知っている。

 友を気づかうルドラの心を感じて、バルスは厳しくしていた表情を緩めた。

「我が君に、影響が出ないように、極力は努力する」

「多少は、あっちにダメージ来るってことか?」

「まぁ、少しだけだがな」

 バルスはそう言って、目の前にある結界を見上げる。

「だが、仕方ないだろう。このまま、この結界の中に我が君が居続けられても、何も変わらない。むしろ、自体は悪化するばかりだ」

「確かに、アイツ、一人で悪い方ばっかりに、考える時あるからなぁ。今もきっと……」

 そう言いかけて、ルドラは慌てて口をつぐんだ。

 バルス相手に、アルディスの愚痴を言うことも出来る。だが、今はすぐ傍に、部下達の目があった。彼等の前で、聖王に対する不満を露にすることは出来ない。それが、ちょっとした、友としての愚痴であってもだ。

 ルドラはごまかすように苦笑いして、一歩引いた。後は、バルスに任せると言う意思表示だ。

 爆音が響いたのは、その時だった。

 聖王宮内で聞くことはないと思っていた爆発の騒音に、その場に居た武官、全員が騒然となる。

「何だ!?」

 ルドラ自身も、驚愕した表情で、爆音が起こった方へと目を向けた。この非常事態、魔族か、または、魔神でもやって来たのかと思ったのだ。

 聖王が魔王を封じた当初、多くの魔族が、魔王の胎動を感じて、アルディスが狂う度に、聖王宮へと頻繁にやって来ていた。彼等は、聖王宮に満ちた黒い波動を感じ取り、それを確かな物とするために、まるで誘われたように、アルディスを襲いに来ていたのだ。魔王がアルディスを覆い尽くそうとする度に、聖都と聖王宮の結界は弱まる。それもまた、魔族を聖王宮に誘い込んでしまう原因なのだろう。

 だが、それも数回、魔族達が訪れた後、パタリと止んでしまった。魔王が面に現われようとする時こそ、アルディスがその力を最も利用出来る時でもあるのだ。それを、魔族は何十年もかけて、ようやく気が付いたとも言える。聖王を襲うのに、魔王が胎動している時が、もっとも不利な時だと判ったのだろう。むしろ、魔王が最も抑え込まれている時期の方が、聖王を害するには適している。魔王を聖王の内に復活させるよりは、魔王の『魂』事態を奪った方が、彼等には効率的なのだ。

 それが判ったからこそ、魔王の胎動時の魔族の襲来は止んだと思っていた。また、魔神の襲撃も、同様な理由で、長年なかった。

 その隙をつかれたのだろうか。爆音を聞いた瞬間に、ルドラが思ったのはそれだった。

 だが、苛立った表情をしているルドラとは対象的に、バルスはずいぶんと落ち着いた表情をしていた。何時も通りの無表情なので、その感情の機微は本当にわずかだ。だが、魔族や魔神が襲撃してきた割には、落ち着きすぎている。

 バルスのせの冷静さに感化されたように、ルドラも苛立ち紛れの表情を引っ込めた。そして、まじまじと、バルスの面を見る。

 彼もまた、こんな事態が起こっている時に、わざわざ聖王宮で爆発を起こすような人物に思い当たったのだ。

「……エルフィナか、もしかして?」

「たぶんな。魔族も魔神も、近ごろは賢くなっているから、魔王の胎動を感じて、逃げることはあっても、敢えて、ここには来ないだろう?」

「……しっかし、あんなすごいもん、普通、ぶっぱなすか?」

 ルドラはそう言って、呆れ顔で、爆音がしたであろう方向を見た。

 彼の視線の先には、蒙々と立ち上る黒煙が上がっている。よほど大きな爆炎系の呪文を使ったのだろう。呪文の副産物である煙は、太い柱となり、この嵐の中でもかき消されることなく、天へと立ち上っていく。

 呆れ顔のルドラに対し、エルフィナの魔法の面での師にあたるバルスの表情は、どこか笑っているようにも見えた。それも、一瞬のことだったが、滅多にないことに、ルドラは顔をしかめる。

「おい、いいのかよ、エルフィナに結界を破らせて」

「いくら、あれがエルフィナの得意呪文でも、結界は破れないだろう」

 落ち着いた表情で、大神官は答える。

 彼は、すでにずぶ濡れになってしまった祭服の裾を翻すと、結界のすぐ傍まで歩み寄った。そして、小さく呪文を唱えてから、恐る恐る、結界に手を近づける。

 魔法の淡い紫色の光に守られた手は、結界ぎりぎりのところで止まった。そして、バルスは何かを探るように、その手を動かさないまま、目をつむった。

 大神官が、結界の様子を探っていることに気が付いた武官達は、今の今まで、煩わしいほどにさわいでいたのを、ぴたりと沈めた。皆、息を飲むような静けさで、大神官の動向を見守っている。

 十秒も経っただろうか。ルドラ達には、一分も十分も経ったようにも思えた。バルスは閉じていた紫の瞳をゆっくりと上げ、また新たに、呪文を唱え出した。手を結界に添えたまま、結界の白い壁の先を見通すように、その先を見つめている。

 彼の冷淡さそのままを表わすような、冷たい詠唱の声。ルドラはあくまで平然としているが、武官の中には、おの呪文に圧されたように、後退った者さえいる。

 バルスの白い髪を、雨が濡らしていた。髪の先から落ちる滴の一つは肩へと落ち、また、違う滴が真直ぐに地面へと落ちていく。だが、いずれも自然に、重力に導かれ落ちて行ったものだ。バルスが身動きして、その拍子に落ちて行ったものではない。

 彼は手を結界に触れるか、触れないかの位置に置いたまま、指の一本も動かそうとしなければ、また、瞬き一つもしなかった。ただ、祈るような切実さで、呪文を唱えている。

 常日頃から、冷淡でまた、真剣な人物だった。だが、今のバルスには、ききせまる様子さえある。

「大武聖……大神官は一体?」

 バルスのあまりの真剣さに不安になったのだろう。武官の一人が、尋ねてきた。

 それに、ルドラはクスリと笑う。

「結界を壊す呪文だろうよ。極力、アルの奴を傷つけないようにしてるから、神経使ってるんだろうけどな」

 バルスの神経の細かさを笑うように、ルドラは可笑しそうだった。同時に、大神官のその配慮を、感謝している様子もある。

「たぶん、エルフィのやつも、もう一回、結界に呪文をぶちまけるだろう。そのタイミングも計ってるんだろうな。へたにやると、エルフィが結界打破に巻き込まれるかもしれないし、あるいは、エルフィの呪文が、アルに影響するかもしれんからな」

 陽気さを留めながらも、大武聖自身が、誰よりも真剣なことに、武官達はよくやく気が付いた。

 この場で、一番聖王のことを気にかけているのは、他でもない、このルドラだったのだ。バルスも、比類ないほどに、アルディスのことを心配している。だが、それ以上に、ルドラは自分を責めているようだった。

 それを気取られないようにと、また、回りの者を不安にさせまいと、ルドラは敢えて、明るく振る舞っていた。それが判ったからこそ、バルスも落ち着いていられたのだ。

 バルスの詠唱の声が、次第に高まっていった。結界破壊の呪文の完成が間近いことを感じ、ルドラの手が、自然に、持っていた大剣の柄に伸びる。その拍子になった乾いた音が、彼を苦笑させた。

 先ほどの探査の時に灯った光とよく似た、薄紫の光が、バルスの手から発せられた。それは、一気に広がり、結界全体を包み込むようにも見えた。だが、光はせいぜいが人の大きさ程度まで広まった所で、ピタリと動きを止めてしまう。

 それとほぼ同時に、爆発の第二波が怒った。間髪を入れずに、エルフィナも呪文を唱えていたのだろう。先の爆発とタイムラグが起こったのは、それだけ、呪文に時間がかかったと言う所だろうか。

 爆発の衝撃が結界の表層を走り抜けると同時に、また、紫の光が広まっていった。それは、広がりながら、結界の根本となっている、白い光を喰い尽くしていく。紫の光は、白い光にどちらかと言えば、圧されがちだった。だが、すでに術者の手を離れてしまっている結界にくらべ、紫の光は、バルスを中心に止めどなく流れ出ていく。ゆっくりとだが、バルスの呪文が、アルディスの結界を浸食していった。

 結界が次第に弱まっていくのを、魔的な感覚ではなく、戦いで鍛えた直感で感じ、ルドラはおもむろに、大剣を引き抜いた。刀身にきらめく雷を映しながら、剣を低く構える。

 そのまま、ルドラもバルスも待った。ただ一つの瞬間を。

「ルドラ!」

 不意に、バルスが詠唱を中断し叫んだ。同時に、ルドラが雨に濡れた地を蹴る。

 ルドラが走り抜ける横で、バルスはすぐに次の呪文に入っていた。

 彼を横目で見ながら、ルドラは剣を振り上げる。

 彼の大剣が、紫の光によって弱められていた結界を撃つ。極限にまで弱められていたそれは、大剣が帯びていた魔力に衝撃を受け、ガラスが軋むような音を経てた。そして、結界の表面に亀裂が入る。

 ルドラは、一撃では不十分だったことに気が付き、すぐに剣を引いた。そのまま、突き刺すように、また、結界を撃つ。

 それが、白い結界の最後だった。ガラスが砕け散る音、そのものを発し、結界は粉々に砕けていった。そのかけらは、始め、鋭利なガラスの破片のように砕け、そして、光そのものへと還っていく。

 幻想的な美しい光景だった。だが、ルドラには、それに見惚れる余裕はなかった。彼は、すぐにきびすを返すと、光が降り注ぐなか、泥にまみれた地面にうずくまっているバルスへと駆けよった。

「大丈夫か!?」

「私は大丈夫だから……早く、我が君を……」

「わぁったよ」

 バルスの身を心配するよりは、アルディスを探し出してやったほうが、彼のためになる。ルドラはそう判断し、近くで呆然としている武官達をどやしつけた。

 我に返った武官達に、バルスの身を任せ、すぐにでも、アルディスがいるであろう場所に駆けつけるつもりだった。結界が砕けた今ならば、アルディスの心を多少だが感じられた。同時に、彼がどこに居るかも判る。

 その場所へと、駆けようとする直前で、ふと、ルドラは立ち止まった。そして、武官に支えられているバルスの青ざめた表情を見下ろす。

 この大神官は、結界が砕けた衝撃を一つも逃さなかったのだ。そして、自分の身に『取り込んだ』。結界を破壊し、その反動がアルディスを襲わないようにと、この大神官は、結界を浸食した直後に、また、新たな呪文を詠唱したのだ。アルディスが負うはずの全ての衝撃が、自分に向かうようにと。

 簡単な魔法で、力の向かう方向を少し変えただけだった。結界を襲った衝撃が、紫の光を通じて、彼の体に来るように導いただけ。

 だが、その衝撃はかなりのものだっただろう。結界が壊れた際の反動の他に、ルドラの剣の衝撃まで襲ってきたのだから。

 それが判っていたからこそ、ルドラの第一撃目は鈍っていた。自分の剣撃が、どれほど、バルスの体を苛むか、怖かったのだ。

「絶対に、アルのこと、とっつかまえてくるからな」

 青ざめた表情で、なお、ルドラを厳しく睨み上げてくるバルス。そんな彼を見て、ルドラは苦笑いした。この大神官は、今にも気を失いそうになりながらも、アルディスのことを気づかい、ルドラにさっさと探しに行けと言っているのだ。

 ルドラは、思ったよりも、バルスが大丈夫そうなことに、胸を撫で降ろした。そして、この場をさる間際にと、部下達に指示を残していく。

「レンとアールはバルスを正宮に連れて行け。残りは二手に別れて、東の宮の連中を避難させるのと、エルフィナを取り押さえるの、やっとけ」

 大武聖の乱暴な言葉に、武官達はすぐに動き出した。

 部下の機敏な動きに関心しながらも、ルドラもまた、駆け出していた。

 目指すは、アルディス。ただ一人。

 この嵐の中心だった。

 

 

 

 

 

 ちょっとだけ次回予告

 

<CENTER>

姉上がいなきゃ、僕は駄目になっちゃう

 

「何を……するつもりだ?」

「姉上を離せ。さもないと、切る!」

 

光と闇。それが混じりあったような奇妙な大気

 

「どうして……そんな表情で俺を見るんだ」

「お父様……?」

 

それでも、わたくしは貴方のことを思っています

 

「だから俺は……自分が嫌いだった」

 

 

 

 

(つづく)

 

 


(update 99/06/27)