オリジナル

■神のいない大地〜FOR HUNDREDS〜■

42「残影−10−」

作・三月さま


 

 

 19 ほら、闇はそこにある。

 

 

 連続で、これだけ大きな魔法を唱えたことはなかった。だが、ためらいもない。

 三発目の爆撃呪文を唱えながら、エルフィナはただ、目前にある白い壁を睨み付けていた。これ以上はないと言う必死な形相で、憎しみさえ篭った瞳で、アルディスの張った結界を睨み付けている。

 内にある激しい感情を露にしている少女は、孤高であり、また壮麗でもあった。何者にも犯し難い、不可侵な美しささえ持っているような、少女とも少年ともつかない性の、曖昧な美麗さだ。

 その面を、憎悪にも似たもので覆いつくし、エルフィナは声も高く、呪文の詠唱を続けていた。

 一発目、二発目。いずれの魔法も、呪文としては完全に成功していたのに、結界に傷の一つも付けられなかった。せいぜいが、結界の表面で爆発を起こした程度。回りの大気に、大きな振動を起こしたものの、結界事態を揺さぶることは出来なかった。その表面に、小さな波一つも立てることも出来なかったのだ。

 この呪文は、遺跡一つも簡単に吹き飛ばせるくらいの、エルフィナの持つ呪文の中でも、最高クラスの破壊力を持つ魔法だった。だが、それを持ってしても、このアルディスが張った結界を傷つけることは出来ない。

 それが、酷く苛立たしかった。まるで、目の前でアルディスに嘲笑われているような、そんな錯覚にさえ、陥りそうになる。

 アルディスへの憎悪の全てを込めるように、エルフィナは感情の篭った声で、呪文を唱え続けていた。こんな、精神も満足に集中していない状態で魔法を使えば、呪文の詠唱を失敗するかもしれないことぐらい、重々承知していた。それでも、この思いだけは止められない。

 ただ、アルディスのことが憎らしかった。すぐそこに、姉であるアディアナがいると言うのに、こんな薄い結界一枚で、彼女との間を阻んでみせるあの聖王が、誰よりも憎らしかった。

 アディアナへの思いの強さと同じくらいに、アルディスを憎んでいる。アルディスが、エルフィナとアディアナの間を裂いていると言う事実に、酷く苛立っていた。

 あと、もう少し。

 完全に頭の中に覚えている呪文が、終盤にさしかかったことに、エルフィナは歓喜した。この長い呪文の詠唱に比例して、魔法の威力は絶大だ。それを、アルディスの張った結界に思いきりぶつけられることは、快感でもあった。わずかだが、今のエルフィナは、結界そのものを、アルディスに見立てているところがあった。日頃の苛立ちを、そのまま、アルディスへとぶちまけているようなものだ。

 エルフィナが天に向かってかざしていた両手の上に、小さな赤い光球が現われた。それは、この嵐の中でも揺らぐことなく、妖艶とも言える光を放っている。エルフィナの呪文の詠唱を受け、彼女の魔力を吸収し、光球は次第にその大きさを増していく。紅の、炎のうちでは、それほど温度の高くない魔力の塊だ。だが、その内には、強大な破壊力を秘めている。

 それを、エルフィナは短時間の内に、既に二度も放っている。目の前の結界に向かって。そして、また、新たな炎の塊を、そこに投げつけようとしていた。

 急がなくては。

 そう、エルフィナはどこか焦っていた。先ほど、二発目の爆炎系の呪文を使う前に、彼女は奇妙な魔法の波動が、結界の表面を走ったのに気が付いたのだ。

 それは、わずかな変化だった。だが、波動から感じる力は、懐かしいほどに、彼女がよく知っているものだった。その感覚に、エルフィナは一瞬引き込まれそうになり、呪文を失敗しそうになったほどだ。慌てて、我に返ったものの、彼女は、誰がその魔力の源なのかを理解し、彼女は顔を狼狽したほどだった。

 バルスだ。

 そう、すぐに思った。これほど冷徹で、それでいて、不安をエルフィナに感じさせる魔力の持ち主はただ一人、このゴールドバーンの大神官であるバルスだけだ。

 彼が、何らかの目的を持って、結界に向かって『探査』の魔法を使ったのは確かだ。おそらく、結界の様子を探り、その正確な仕組を探り出して、結界破壊の呪文を使うつもりだったのだろう。魔法を打ち消すための対抗呪文は、対する呪文の仕組をある程度知っていなければ、成功しないものだ。そして、結界を確実に破壊するため、大神官は、アルディスの結界を探った。

 大神官ほどの腕ならば、すぐに結界の仕組を理解するだろう。そして、エルフィナの力押しとは、対極にある方法で、結界を破壊するはずだ。

 バルスが動いた以上、おそらく、傍にルドラもいるだろう。そして、その二人でなくても、先に起こった爆炎を誰が起こしたかくらいは気が付いていただろう。だからこそ、二発目を焦って撃ったのだ。だが、結果は一発目と同じ。この強固な結界を破るまでにはいかなかった。

 負けたくない。急がなきゃ。

 姉と自分の間にそびえ立つ壁を取り除くのは、自分自身でありたかった。だから、酷く焦っている。

 同時に、呪文をこじつけとは言え、理由を得て、おおっぴらに放つことの出来る機会を失いたくもなかった。せっかく、思いのままに魔法を使えるのだ。日頃は、バルスに口やかましく、呪文を使う場所と時を制限されていた。それは、簡単な口約束でしかない。だが、幼いころから言い聞かされてきたことなので、なかなか逆らえぬ言葉でもあった。

 バルスの制限には、アディアナの微笑みも付きまとっていたから。

 大神官が、魔法を使う上での訓戒を口にしたとき、傍にアディアナもいた。そして、言ったのだ。『絶対に守りましょうね』と。微笑みながら。いまだ幼い少女だったが姉が、そう言ってくれた。

 その時の姉の笑顔が、眩しく見えた。だから、バルスとの口約束とも言えない訓戒を守っていた。

 焦りながら、呪文の最後のフレーズを、彼女は口早に唱えようとした。だが、その瞬間、アディアナの、あの時の微笑みが不意に蘇る。

 ビクリと、エルフィナの体が震えた。今まで、それでも滑らかに呪文を紡ぎ出していたのが、不意に止まってしまう。

「姉上……」

 エルフィナは、不意に呪文を中断すると、煩わしそうに、自分が掲げていた炎の玉を目前に持ってきた。そして、それを両手で抑えるようにして、押し潰してしまう。

「何やってるんだ……僕は……」

 魔法を消し去ったばかりの手で、エルフィナは顔を覆った。小さく深呼吸を繰り返し、首を振る。

「こんなの……姉上が知ったら、悲しまれるだけなのに……馬鹿だ。頭にきて、そんなのも、判らなくなってるなんて……」

 そうつぶやきながら、彼女はゆっくりと顔を上げた。結界に走った衝撃に気が付いたのだ。

 その衝撃は連続して二回あった。一回目で、結界は大きな軋み音を立てる。よく見てみれば、先ほどまで、あれほど強固に見えていた結界が、いつのまにか、紫の光に覆い尽くされ、薄っぺらい、安ものような膜に成り果てていた。

「こんなものも、見えなかったのか……」

 呪文の詠唱に集中し、同時に、アルディスに対するわだかまりに捕えられていたために、結界の変化にも気が付けなかった。いや、破壊する喜びに浸っていたために、無意識的に見ようとしなかったのだ。

 二度目に走った衝撃が、結界全てにひびを入れた。そして、すぐに、結界は壊されてしまったガラスのように、細かい破片となり、崩れていった。結界は、地面へと落ちながら、細かい光へと変化していった。何よりも、白く清廉な光を発するそれは、一風変わった雪のように、嵐の中、静かに舞い降りてくる。

 それを受け取るようにエルフィナは手を差し出した。そして、落ちてきた光の一辺を、右手で砕けろとばかりに握り締める。

 姉上がいなきゃ、僕は駄目になっちゃう。

 ふと、そんな不安が沸き上がってきた。それから逃れるように、エルフィナは今だ崩れ落ちていく光の結界の中を走り出していた。

 嵐の風も、また、叩き付けてくる雨にも構わず、少年と少女の狭間で揺れている存在は駆け抜けていく。泥水の溜まり場に、時には足を取られそうになり、また、時々、転びそうにもなる。だが、それにも構わず、エルフィナは全力で、東の宮の庭を走り抜けていた。

 アディアナがいるであろう場所は判っていた。この暗い中でも、煌々と輝く場所が見えるように、彼女の居場所がはっきりと判る。光の優しい面そのままが、具現化したような少女。その姉の存在を、すぐ近くに感じていた。

 結界が崩れた今、もう、エルフィナを邪魔するものはなかった。だが、感じるままに、姉がいるであろう場所へと走っていけばいい。

 バルスの存在も、また、ルドラの存在も、すでに彼の頭の中にはなかった。何故、アルディスが結界を張っていたのかも、少しも気にならない。ただ、もう少しで姉に会えるだろうと言う喜びだけが、彼女の心の中にあった。先ほどまで、体の隅々まで支配していたような、破壊衝動はすっかりなりを潜めている。

 アディアナの存在の前では、全てが無力のように思えた。どんな負の気持ちも、彼女のことが思えるのならば、すぐに消えてなくなる。自分に対する惨めな気持ちも、また、アルディスに対する訳の判らない苛立ちも、どこにもなかった。あるのは唯、アディアナを崇拝するような思いだけ。

 いよいよ、最愛の姉が近くにいるような気がした。そして、それを裏付けるように、嵐の豪雨の合間に、人影が見え始めた。この薄暗い中でもはっきりと見える存在。間違いない、アディアナだ。

「姉上!!」

 どうして、姉がこんな雨の中、外にいるのか、一瞬不思議になった。だが、どんな理由でもいい。すぐに、彼女を連れて、東の宮に戻ればいいだけのことだから。

 そう思って、姉の名前を呼んだ。何とか、自分の存在に気が付いてもらいたかったのだ。アディアナがエルフィナの呼び声に気が付いて、振り返り、微笑んでくれればいいと思った。

 だが、姉を目の前にして、顔をほころばせていたエルフィナの表情が不意に凍り付いた。

 彼女は、後少しで姉の傍までくると言うところで、ピタリと立ち止まったのだ。そして、信じられないと言った表情で、目の前に立っている人物を見た。

「アルディス……」

 エルフィナの、搾り出すような、掠れた声。その声で、ようやく、彼女の存在に気が付いたように、アルディスが、アディアナへと向けていた視線を反らす。

「あぁ、エルフィナか」

 エルフィナの養父たる人物は、さして気のない様子でそうつぶやいた。

 そんな彼の、気力のない様とは対象的に、最初の衝撃から回復したエルフィナは、限度を超えた憎悪と怒りに身を震わせていた。

 今、彼女の目の前に立っている男。その彼が延ばしている手の先に、姉の体があった。よりにもよって、アルディスは、この嵐の中、アディアナの首を掴み、半ばつり上げるようにして、彼女の首を絞めているのだ。

 何よりも、エルフィナの心をズタズタにしたのは、姉の姿だった。美しかった銀髪は乱れ、泥で汚れてしまっている。白かった質素なドレスも同様だ。血さえ付いている。普通に雨に濡れた程度で、あんなに泥で汚れるはずがない。何があったのか、エルフィナでなくても、想像が付くと言うものだ。

 姉の細い首を、アルディスが絞め上げている。雨のせいかもしれない。冷たい風のせいかもしれない。だが、アディアナの顔色は、極限まで蒼白となり、赤く可愛らしかった唇は、泣きたくなるほどに青ざめ、血の気を失っていた。

 姉に意識があるのかどうかも判らなかった。かろうじて、左手が申し訳程度に、アルディスの手に添えられている。だが、右手は既に力なくダラリと体の横に垂れ下がっている。

 姉の無残な様子に、エルフィナは心を引き裂かれる思いだった。激しく逆上し、今にもアルディスに切ってかかりそうな様子で彼を睨み付ける。

「アルディス、姉上から手を離せ!」

「何故だ?」

 エルフィナの感情を逆撫でするように、アルディスは皮肉った口調でそう聞き返してくる。

「今、大事な作業をしている途中なんだ。後にしてくれ」

「姉上をそんな様にして、何が大事な作業だ!!」

 アディアナから目を反らせぬまま、エルフィナは感情的に叫ぶ。

「いいから、早く姉上を解放しろ!!」

 彼女はそう言って、腰に帯刀していた剣の柄を握り締める。

 だが、エルフィナのその動作も、アルディスにはさして大きな衝撃は与えなかったようだ。彼はただ、氷つくほどの冷たい表情で、エルフィナをひたと見据えている。

「何を……するつもりだ?」

「姉上を離せ。さもないと、切る!」

 言葉に嘘はないとばかりに、エルフィナはその長剣を引き抜いて見せる。

 それを、アルディスはクスクスと笑った。やって見ろとばかりに、表情で言ってくる。

 それが、エルフィナを余計に逆上させた。彼女は、苛立たしげに顔を歪めると、アルディスの望みのままに、剣を構え、地を蹴っていた。

 だが、その瞬間、彼女の体が弾き飛ばされた。先のように、結果に触れた訳ではない。ただ、アルディスが口早につぶやいた呪文の効果で弾き飛ばされただけだ。

 まともに突っ込んでいったエルフィナは、そのまま、近くの泥水の中に叩き付けられるように見えた。だが、彼女は猫のように空中でわずかに身をひねると、膝を付きながらも、地面に着地してみせた。

 『娘』のその受け身の様を見て、アルディスはやや、感心したような表情になった。おかしそうに笑いながら、アディアナの首を掴んでいた手を、パッと離して見せる。

「姉上!!」

 力なく、地面へと落ちていく姉を見て、エルフィナは酷く慌てた。その隙をついたように、アルディスがまた呪文を放ってきた。ただし、今回のは苔脅しではない。本物の、光術系の呪文だ。

 短いスペル。威力はそれほどではあるまい。だが、エルフィアも、仮にも聖王たる者の呪文を受ける気はなかった。剣を盾にするように、彼女は、アルディスが放った呪文を付け止める。

 魔力が付与していある魔剣だ。このくらいの魔法ならば、容易に受け止められる。

 だが、剣で受け止めてみても、それを押し返すことが出来ない。このまま、力まかせにアルディスの呪文を弾き、そのまま攻撃に回りたかったのに、それが出来ない。

「ちっくしょぉ……」

 ビリビリと痺れるような衝撃が、剣の柄を握り締める手に響いてくる。

 ふと、嫌な予感がした。それに、彼女は慌てて顔を上げる。

「……な!!」

 アルディスが、もう、次の呪文を手にため込んでいたのだ。すでに呪文が完成した、何時でも打ち出せる状態で、薄笑いさえ浮かべて、エルフィナを見据えている。魔法の光の量と、光球の規模は、今エルフィナが抑え込もうとしている呪文と同じくらい。だが、彼女には判った。あの魔法が、今彼女が手間取っている呪文の何倍もの威力を持っていることに。

 アルディスが、笑みを浮かべていた面を、さらに歪めた。こらえ切れなくなったように、彼は高く笑い始める。

 その瞬間、判ってしまった。彼が楽しんでいると。彼の手の内にある光球の威力を知ったエルフィナが愕然となったのを、アルディスは笑っているのだ。

「こんのぉ!!」

 誰よりも憎らしい相手に、嘲笑われたと知って、エルフィナは怒りに面を歪ませた。その怒りのままに、一気に、魔法を押し返そうとする。

 同時に、心の奥で、何かがズルリと鎌首を持ち上げた気がした。その闇に包まれたような最奥に眠っていた何かが、エルフィナの怒りに反応して、眠たげにその鎌首を持ち上げた。

 その気色の悪い反応を感じて、エルフィナは思わず笑い声を上げそうになった。この闇の感覚。それを、こんなに歓迎するとは思っていなかった。

 彼女が認識したことで、闇は顕著なものになりつつあった。エルフィナの内の闇が、次第に濃くなっていく。それと同時に、光を押し返そうとする腕にも、力が篭っていった。

 以前とは違い、今のエルフィナには、闇を受け入れる容易があった。そして、エルフィナが受け入れれば、闇は彼女と一つになれる。彼女が拒絶しなければ、闇は完全な力を震えるだろう。彼女の力の一部となり、もう一つの属性である炎とも手を組み、絶大な力となるはずだ。

 それを予感し、エルフィナの体は震えた。恐怖ではなく、歓喜によって。

 アルディスもまた、狂った笑みを浮かべていた。エルフィナの中の闇が、次第にその姿を露そうとしているのに、以前のような悲哀を少しも見せず、むしろ楽しそうにしている。彼の中にある『魔王』が狂喜していると言ってもよかった。

 光と闇。それが混じりあったような奇妙な大気。

 それを裂いたのは、一つの悲鳴だった。

「やめて!」

 嵐の中でも、はっきりと聞こえた悲鳴。それに、アルディスもエルフィナも、同時に声の主を見た。

 泥の身を埋めながら、毅然と顔を上げている少女。エメラルドの瞳に、悲哀を浮かべている彼女は、二人を悲しげな表情で見つめていた。

「やめてください、二人とも!!」

 いまだ、身を起こすことも出来ないまま、アディアナはそう叫んだ。同時に、アルディスの手に灯っていた光と、エルフィナが打ち消そうとしていた光が消えてしまう。

「な……?」

 突然にして抹消された光に、エルフィナは息を飲んだ。

 魔法を消すなど、生半可な実力では出来ない。その魔法に篭った力そのものを、抹消しなければならないからだ。ちょっとした初級の魔法の火であっても、打ち消すならばまだしも、消滅させるのにはかなりの実力と魔力がいる。

 だと言うのに、この姉は、よりにもよって、アルディスの呪文をかき消してみせたのだ。しかも、二つ同時に。

「姉上……」

 姉の光が、全てを包み込むほどに大きいことは知っていた。だが、これほどとは、思っていなかった。

 改めて見せつけられた姉の力に、エルフィナはただ呆然としていた。

 アルディスもまた、現実に戻ってきたアディアナに、酷く戸惑っていた。

 

 

 

 

 

 20 貴方の温もりを感じられるように。

 

 

 雨が打ち付ける泥の上に、アディアナは、辛そうにしながらも、何とか身を起こそうとしていた。彼女の美しかった髪は、ドロドロの土の上に広がり、その艶やかさは形を潜めてしまっている。血の気を失った面も、また、泥にまみれた体も無残としか言いようがなかった。それでも、彼女には、まだ美しさが残っていた。嗜虐的な精神を刺激するような姿だった。

 だが、そんな残虐な興奮を起こす以前に、エルフィナは顔色を変えて、姉へと走り寄っていた。直前まで、自分と相対していたアルディスの存在を気にかけながらも、唯只管に一途な様で、倒れている姉を抱き起す。

「姉上!!」

 今にも泣きそうな顔で、自分の様子を伺ってくる妹に、アディアナは淡く微笑んで見せた。自分は大丈夫だからと、その笑みで伝えたつもりだった。

 だが、逆にエルフィナは顔をグシャグシャにして、泣かんばかりの勢いで、自分に取りすがってきた。

「姉上……姉上!!」

 どうして、こんなに必死なのかと、アディアナでさえ驚くほどの、エルフィナの取り乱しようだった。

 彼女が、自分のことを強く思ってくれているのを、アディアナは知っていた。だが、妹がここまで感情を高ぶらせている理由が、なかなか見つからない。

 半ば朦朧とした様子で、アディアナは目を彷徨わせた。そして、小さくため息をつく。

 そうだ、自分はアルディスに首を絞められていたのだ。それを、きっと、この一途な妹は見てしまったのだろう。だからあそこまで逆上し、アディアナが見た、二人が対峙するような所までいってしまったのだろう。

 逆上したエルフィナと、今のアルディスなら仕方ない。

 ついさっき、悲壮な悲鳴を上げたのは、自分自身だと言うのに、アディアナはどこか納得してしまっていた。二人が収まれば、それでいいとも思っているようだった。もちろん、二人の非は承知している。だが、今はそれを突きつける時ではないのだ。

 アディアナはそう納得し、養父であるアルディスの姿を求め視線を彷徨わせる。

 アディアナが小さく身じろぎすると、エルフィナは素早く彼女の意をくみ取って、身をずらせてくれた。今の今まで、アルディスと激しく対立していたと言うのに、その彼の姿を、姉に見やすいようにと、彼女の身をそちらに向けてくれた。

「ありがとう、エルフィナ」

 小さく礼を言うと、妹は悲しそうに笑った。自分が馬鹿なことをしていると思っているのだろう。それでも、姉がやんわりと礼を言ってくれたことで、いいと思っている。

 切ないくらいに優しい妹の頬に、アディアナはそっと触れた。そして、彼女が望んでいるであろうそのままに、淡く微笑んでやった。

 そして、アルディスへと視線を向ける。

 滝のように振り付ける雨の中、彼はそこにいた。

 エルフィナが来たときから、既に解いていたのであろう結界後から、ヨロヨロと後退りながら、まるで恐ろしいものでも見るかのように、アディアナを見つめている。怯え、動揺しきった表情で、彼は彼女から、一歩、また一歩と逃れていた。

「どうして……」

 アルディスは、また一歩下がりながら、困惑した声でそうつぶやいた。

「どうして……そんな表情で俺を見るんだ」

「お父様……?」

 アルディスの様子が、先ほど以上におかしいことい、アディアナは身を固くした。

 彼女の緊張が伝わったのだろう。エルフィナも、どこか落ち着いた表情を見せながらも、表情を厳しくした。アディアナを抱き起す時に、一度は手放した剣をもう一度、握り直す。

 アディアナは、エルフィナに小声で頼んで、立たせてもらおうとした。エルフィナも、アディアナが極度に体力が落ちているのが判っているから、それに渋る。だが、アルディスの様子が、極端におかしいことは、彼女も気付いていた。また、このままの姿勢では、何かあった時、姉を即座に守れないこともだ。

 それらの危機感と、アディアナの重ねての頼みに応じ、エルフィナは片手で姉を立ち上がらせた。利き手には、相変わらず、愛用の長剣が握られたままだ。

 エルフィナの腕が軽々と自分を立たせる中、アディアナは、アルディスから視線を逸らせようとはしなかった。悲哀を込めた瞳で彼を見つめ続けている。

「お父様……」

「見せたはずだ!」

 また一歩、後ろによろめきながら、アルディスはそう叫ぶ。

「俺がどんな人間か、見せたはずだ!」

「えぇ、そうですわね」

 エルフィナに支えられながら、アディアナは頷いて見せる。

「お父様の兄上のこと、姉上のこと……ルドラ様と出会った時のことも知ることが出来ました。他にも沢山……」

「だったら……判っただろう!?」

「確かに、お父様の言う通りでしたわ。『兄を傷つけた罪、父を見殺した罪。そして、姉上の卑しい行いを止められなかった罪』……そうでしたわね。確かに、それだけのものがありました」

 ゆっくりと、何かを物語でも口にしているかのような、滑らかな口調でアディアナはそう言った。

 彼女の泥にまみれていた金の髪がわずかに光を発しているようにも言えた。間近にいるエルフィナには、それが、時折走る雷の光のせいだと言うことはよく判っていた。だが、取り乱しているアルディスには、そんな簡単なことも判らないでいる。

「アディ……」

「お父様、貴方が兄上を傷つけたことは、弟としての罪です。父親を助けられなかったことは、子としての罪。でも……姉上のことは、罪でしょうか?」

「なに……?」

 アルディスの表情が変わった。

 静かに、言葉を紡いでいく姫の表情はどこまでも静かだった。ともすれば、愕然となるアルディスを労るように、微笑んでさえみせる。

「わたくし、人を愛することが罪だとは思えないのです。わたくし自身が、許されない思いを抱いているせいかもしれません。でも、わたくしは、自分の思いを恥じたことはありません」

「恥じたことは……ない」

「はい」

 背後で、エルフィナが身を固くしたのが感じられた。それに、アディアナは目をつむる。

 だが、今だけは、どれほどエルフィナが辛く思っても、アルディスのために、言葉を続けなければいけないと思った。それが、アルディスの過去をかいま見た自分の勤めだ。

「わたくし、思うのです。例え一瞬でも、人を思う気持ちに偽りはないと思います。まして、禁じられた思いならば、なおさらのこと。明らかにする以上、それだけ相手を思っているのだと信じています。それを、わたくしは、『卑しい』などと言う言葉で、終わらせたくない」

「俺は……」

「お父様は、わたくしが過去をかいま見ることで、貴方のことを嫌うと思っていらしたようですけれど……でも」

 ふと、アディアナは顔を伏せた。

 今さらと、アルディスに嘲笑われるかもしれない。何を馬鹿なことをと、また、なじられるかもしれない。

 背後で自分を支えてくれているエルフィナもどう思うことか。

 それらの思いが、アディアナをためらわせていた。

 だが、その逡巡も一瞬のことだった。

 彼女は毅然と顔を上げると、いつもの微笑みを面に浮かべ、アルディスに笑いかけていた。

「お父様、それでも、わたくしは貴方のことを思っています」

「アディ……」

「ずっと、変わりませんわ、この思いは」

 そう、宣言するように、彼女は、はっきりと言った。

 ギュッと、アディアナを支えていたはずのエルフィナが、姉を抱きしめる。彼女の言葉を聞いて、急に、姉が遠くに行ってしまうような気がしたのだろう。その彼女を引き留めるように、エルフィナは、姉の体を抱いていた。

 そして、ささやく。アディアナにだけ聞こえる声で。

「それでも、僕、姉上のこと、一番好きだよ。貴方が誰を好きでも」

「ごめんなさい、エルフィナ」

 それしか、アディアナには言えなかった。その他のどんな慰めの言葉も、今は偽りにしかならないことを、彼女は判っていたのだ。

 彼女達の目の前で、アルディスは、はっきりと見て取れる狼狽を見せていた。また一歩、後ろによろめきながら、信じられないと言うように首を振る。

「どうして、俺を……俺は……俺は!」

 アルディスは、娘の視線から逃れるように、両手で顔を覆った。その彼の回りに、いくつもの光球が現われる。そのどれもが、先ほど、エルフィナが受けた魔法より、一回りも、二回りも大きく見える代物だった。威力もそれに比例して巨大だろう。

 エルフィナは、七つの光球を見て、体を強ばらせた。姉を庇うように、彼女を背に隠そうとする。だが、それをアディアナがやんわりと押し止めた。淡く優しい表情のまま、アディアナはあくまで、エルフィナの前に立とうとした。

「いいのです、エルフィナ」

「姉上、でも……!!」

「今は、お父様の前から退く訳にはいかないのです。わたくしは、一歩も引いてはいけないのです。少なくとも、今だけは」

 彼女はそう言って、妹の前に立った。

 アディアナの見守る中、アルディスの起した光球は、彼の回りを止めどなく彷徨っていた。アディアナ達に向かってくる訳でもなく、また、消失する訳でもない。ただ、機を待つように、術の中心たる彼の回りを舞っているばかりだ。

 その光球の存在に気が付いているのか、いないのか。自分で起した光球ながらも、アルディスは、おそらく、これらの光に気付いてはいないのだろう。ほぼ、無意識に出したようなものだ。

 これは、呪文などではない。アルディスの暴走しかけた心が引き出した、不自然な光だ。だから、アディアナも安易には打ち消せない。彼女に出来ることと言えば、ただ、痛ましげに、苦しんでいる最愛の人物を見守ることしか出来なかった。

「本当は、俺の方なんだ……」

 顔を手で覆ったまま、アルディスがくぐもった声でそうつぶやく。

「アディに言ったのは、全部俺のことなんだ……」

 アルディスがそう言った拍子に、光の一つが、その軌道を外れた。解き放たれた光は、まるで意思を持っているかのように、真直ぐにアディアナ達へと向かってくる。いや、アディアナただ一人を目指していた。

「姉上!」

 瞬間的に、エルフィナがアディアナの前に出ようとした。

 だが、アディアナは頑として譲ろうとしない。

 彼女は、その細腕を広げると、まるで、光を受け止めようとするかのように、身を乗り出した。そして、迫ってくる光を抱きしめる。

「馬鹿な……姉上!?」

 姉の奇行に、エルフィナは悲鳴のような声を上げた。

 その妹の声を聞きながら、アディアナは淡く笑って見せた。そして、強く、光を抱きしめる。

 まるで、アルディスその人を抱きしめるかのように。

 アディアナの腕の中で、光は、次第にその大きさを小さくしていった。次第に、光が消えていっているのだ。だが、どこにも、その光が漏れた形跡はない。光球がただ縮小する訳がなく、エルフィナは、消えていく光の行方に躍起になった。

 そして、気が付く。姉自身が、その光を受け止めていることに。彼女こそが、アルディスの漏らした光を、自分の身に受け入れていることに。

「無茶だ、姉上!」

 剣を取り落としそうな勢いで、エルフィナが絶叫する。

 それでも、アディアナは着実に、光を取り込んでいった。次第に小さくなっていく光球はついに、掌大の大きさになり、最後には、アディアナの胸の中へと消えていった。

「信じられない……」

 姉の行動も、そして、光が消えていったことも、全てが信じられなかった。

 表情を険しくするエルフィナの目の前で、アディアナの身が傾いだ。それを、彼女は慌てて支える。

「姉上!!」

「大丈夫です……」

 あくまで、妹には微笑み続けるアディアナ。その姿に、エルフィナは泣きたくなってきた。

「どうして……姉上が、こんなに苦しまなくちゃ、いけないんだよ!」

「大丈夫……苦しくはないのですから」

 むしろ、アルディスの自分を責める思いが辛いのだ。

 彼は必要以上に、自分をおとしめている。それも、ただ卑屈になっている訳ではない。むしろ、責め続けているのだ。まるで、世界の全ての非は、自分にあるとばかりに。

「可愛そうね……」

 もう、立ってもいられないアディアナの身を、エルフィナが健気に支えてくれている。

 その様子を見ないまま、アルディスは泣き声のように絶叫した。

「情けをかけてもらえると思っていたのは、俺のほうだ」

 また、光球が飛ぶ。今度のものは、アディアナ達をそれて、彼女達の背後で地面にぶつかった。その拍子に、大きな爆発が起る。だが今度はそれを、今度はエルフィナが身を持って、アディアナを庇った。姉を自分の身で覆いながら、彼女のたおやかな体を爆風とつぶてから守る。

 爆音が収まってまた、アルディスの絶え絶えの声が、彼女達の耳に届いてきた。

 ただ悲哀を浮かべているアディアナと違い、エルフィナはそれを、聞き苦しいもののように聞いていた。

 それらの言葉の端に、自分と共通するものがあると気が付いたのだ。

「お前より、俺の方がもっと浅ましい。レイナードがいなくて、俺はホッとしてたんだ。喜んでさえいた。これで、リースが少しは俺を見てくれるかもしれないと思って……それで……」

 光球が飛んだ。今度は、東の宮の方向にと。

 そのことに、アディアナが小さく悲鳴を上げた。あちらには、まだ、侍女が何人もいるはずなのだ。

 だが、光球は、東の宮に触れる直前で、まったく違う力によって爆発を起していた。その正体を見極めたエルフィナが苦笑いする。

「バルスの結界だ……見越してたのか」

 アディアナも、また、ホッとため息をついていた。ここで、東の宮が光球に襲われれば、それは、自分の責だ。アルディスをここまで追い込んだのは、他でもない、自分なのだから。

「お父様……」

「兄上の事でもそうだ……『愛する者を犠牲には出来ない』と、あの人に言ったのに……そう、誓ったのに、結局リースは……!!」

 光球が一斉に軌道を外れ出した。

 やはり、リースだった。彼女のことを持ち出した途端、アルディスの心は一気に乱れた。だからこそ、それでも彼の無意識の制御下にあった光球が、一度に暴れ出したのだ。

 今度こそ、エルフィナは譲らなかった。彼女は、乱暴に姉を自分の背に押し退けると、めい一杯の魔力を傾けて、結界を張ろうとした。足りない分は、自分の体で補うつもりだった。何としても、姉だけは守ってみせる。たとえ、自分の身がズタズタになっても。

「エルフィナ!!」

 妹の考えに気が付き、アディアナは彼女の背を叩いた。そして、我に返ると同時に、彼女も呪文を唱え出した。これ以上の結界はあまり意味をなさないだろう。爆発があまりにも近すぎる。光球が直撃しなくとも、爆発に巻き込まれるのが落ちだ。

 ならば、せめて光球の威力をそごうとした。一瞬でもいい、光そのものを、光球から離散させ、その威力を削ごうと言うのだ。

 一瞬、一瞬が勝負だった。

 そして、二人の命運を分けたのは、その最後の一瞬だった。

「こんの、馬鹿野郎!!」

 叫ぶが早いか、風を切るよりも早く、一つの剣撃が光球にぶつかっていった。

 おそらく、衝撃波だろう。それが、光球の勢いを削ぐ。

 同時に、駆けこんできたルドラは、その大剣で持って、光球へと剣撃を叩き込んでいた。彼の剣に打たれた光球は、易々とその軌道を変え、もう一つの光球へとぶつかっていく。その瞬間に、ルドラは既に、すぐ近くにあった光球を二つに裂いていた。

 二つに割れた光球へと、アディアナが先に唱えていた呪文を付与する。真っ二つになっていた光球は、それによって、一瞬で、光に返っていた。

 その光量に目を潰されることもなく、ルドラが最後の光球と弾く。同時に、先にぶつかっていた光球が、爆発した。それも、エルフィナが衝撃だけは、結界で抑え込もうとする。

 それでも、二つ分の光球の爆発だ。彼女の結界のみでは抑え切れなかっただろう。

 その余剰の衝撃を抑えたのは、他ならぬアルディスだった。

 始め、アディアナでさえもが、最後の衝撃を殺したのが誰だか、判らない様子だった。だが、不意に思い当たったのだろう、彼女は、安心したような表情を、養父である人へと向けた。

 彼は、酷く情けない顔でルドラを見つめていた。そして、最後のように、一言だけつぶやく。

「だから俺は……自分が嫌いだった」

「ぶわぁか!」

 間髪を入れずに、ルドラがそう怒鳴り散らす。

 その声に篭った怒りに、エルフィナが思わず首をすくめたくらいだ。アディアナの苦笑を見て、彼女も酷くばつの悪い表情をする。

 ルドラは彼女達が見守る中、平然とアルディスに近づくと、その襟首を乱暴に掴んだ。どこかぼうっとして見えるアルディスを手荒く引き寄せると、彼の面を睨み付ける。

「お前、何考えてるんだ?」

「色々と……」

 何か、ごまかそうとしているようにも聞こえるアルディスの声。それが癪に触ったのか、ルドラはアルディスを解放すると、そのまま、彼の顔を殴りつけていた。

 耳を覆いたくなるような声が響き、アルディスはそのままよろけ、倒れた。

 その彼を見下ろす形で、ルドラはまた怒鳴る。

「なぁにが、『自分が嫌いだった』だ。本当に自分が嫌いな人間はなぁ、四百年も生きてねぇんだよ!」

「ルー……」

「お前がどう思おうが、お前の本性は、自分が好きでどうしようもない野郎なんだよ。じゃなきゃ、生きたいなんて、思えるもんか。一時的な感傷に引きずられて、浸ってんじゃねぇ!」

 ルドラは、そうアルディスを叱責した後、後ろを振り返った。そして、ボロボロになっている二人の姫を、交互に睨み付ける。

「お前等もだ!」

「はい!」

 アディアナとエルフィナ、ほぼ同時に、身を縮こませて返事をしていた。

 思わず笑ってしまうような場面だったのだが、ルドラに睨まれ、それどころではない。

「アディアナ!」

「は……はい」

「お前が、まさか、出しゃばってくるとは思ってなかったぞ。何考えてるんだ!」

「あの……わたくし……」

「アルディスを納めようってのはいい。文句は言わない。けどなぁ、こんな嵐の中、ノコノコ出てくるような真似、二度とするな。下手したら、死ぬぞ!?」

「はい……」

 ルドラの説教に、しゅんと小さくなるアディアナ。

 いつもなら、そのアディアナを守ろうと、エルフィナが相手に食って掛かる場面だった。だが、さすがのエルフィナも、完全に頭にきているらしいルドラの前には、手も足も出ない。

「エルフィ!」

「う……」

「『う』じゃない。お前だ、お前!」

 ルドラはそう言うと、問答無用で、エルフィナの頭を殴りつけた。本気ではないにしろ、かなり痛いのだろう。あのエルフィナが、思わず涙目になっている。

「痛い……!!」

「痛いじゃない。いったいどこの誰が、王宮内で魔法ぶっぱなすってんだ。この、馬鹿!!」

「あれ……」

 思わず、アルディスを指差してしまうエルフィア。

 その彼女の頬を、ルドラは思いきり引っぱっていった。

「はぁい、折檻、折檻」

「えーはまのまへれ、ひはいっていってはおひ!!」

 頬を引っぱられたまま、エルフィナはジタバタと暴れている。

 こんな場面を見たのは、始めてなのだろう。アディアナは完全に呆気に取られている。

 その場面をさらに和ませたのは、アルディスの笑い声だった。高い、いつものアルディスの笑い声が、その場に響いていく。

 ルドラは、無責任にも笑い続けているアルディスをジト目で睨み付けた。それでも、彼が心底おかしそうに笑っているのを見て、呆れたような顔で苦笑してしまう。

「アル……?」

「ん?」

 地面に座り込んだまま、アルディスはキョトンと首を傾げてみせる。

「なんだ?」

「悪かったな」

「何が?」

「だから……お前のこと、俺が拒絶した」

「……でも、お前は来てくれただろう」

 アルディスは、それがどうしたとばかりに、そう言ってのける。

 ルドラは、それになおも何か言おうとした。だが、思いとどまり、ばつの悪そうに笑った。

「そうだな」

 そう言って、濡れた髪を、煩わしそうにかきあげた。

 見上げれば、今までの嵐が嘘のように、雷も風も、そして、雨さえも消えていた。いまだ雨雲はそらに止まっているものの、先ほどまでの荒々しさが見られない。

 ルドラは、アルディスに歩み寄ると、手を差しだし、彼が起きるのを手伝った。

 が、そこはやはりアルディスである。逆にルドラを勢いを付けて引っぱっていた。

 何とか踏みとどまろうとしたルドラだったが、うまい具合に泥に足を取られ、まともにすっ転んでいる。

「こらぁ、アルディスぅ!!!」

「さっきの、お・か・え・し」

 アルディスはクスリと笑って見せる。泥に突っ込んでしまったアルディスを尻目に、さっさと一人で立ち上がろうとする。

 その彼も、すぐにまた、地面に逆戻りした。

 自分自身、意外だと言う様子で、横でふてくされているルドラを見る。

「なぁ、ルー?」

「んだよ!」

「頭クラクラする……」

 そのまま、横に倒れそうになるアルディスを、ルドラが慌てて支えた。そして、困ったように、こめかみを抑えた。

 ハラハラと、養父とルドラの様子を見守っていたアディアナは、そのルドラの仕草にますます慌てたようだった。心配しきった表情で、尋ねてくる。

「ルドラ様……??」

「あぁ、アルね……熱だわ、こりゃ」

「え……?」

「こりゃ、高熱どころじゃねぇぞ」

 考えてみれば、アルディスは、この中で一番長く、冷たい雨の中にいたのだ。熱の一つや二つ、出てもおかしくはないのだ。

 だが、そんな辛い状態であっても、アルディスは薄く笑っていた。熱のせいで、頭も朦朧とし始めているようだが、自分を支えてくれているルドラだけに聞こえる声で、内緒話のようにつぶやいた。

「ルーエル……ごめんな」

「あ?」

「本当にごめん」

 かすれがちな声でつぶやきながら、彼はふっと言葉に詰まる。

 ルドラは、やれやれと言うように小さくため息を付きながら、親友の泥に汚れた銀色の髪を、くしゃくしゃと乱した。ぽんと、軽く肩を叩き、ほとんど抱え上げるように支えながら、アルディスを立たせてやる。

「謝るんなら、アディ達に言え。それと、バルスだ」

「うん……」

「やーれやれ。俺達もとっとと着替えねぇと、風邪ひくな、こりゃ」

 そうだろうと、明るい笑みを浮かべて同意を求めてくるルドラ。

 彼に、アルディスはどこかほっとしたような、それでいて、今だ悲しげな表情を浮かべた。

 

 

 

 

(つづく)

 

 


(update 99/07/11)