アルスラーン戦記。アルエス習作。
原作「王都奪還」の多少のネタバレを含みますのでご注意を。あったかもしれない、九月二日前夜のエステルとアルスラーン。
「君よ花よ」:アルスラーン戦記
Written by みゃあ
パルス歴三二一年九月一日。
まもなく、夏が終わりを告げようとしている。エクバターナに夜の帳が下りていた。
下弦の月が、ぼんやりと地上の風景に影を作っている。
王宮の片隅にある、ささやかな庵の端に腰掛けていたルシタニア人の騎士見習いエトワールことエステルは、名を呼ばれた気がして、背後を仰いだ。
晴れわたった夜空の色の瞳が、穏やかに彼女を見つめていた。
王太子アルスラーン。もうすぐ国王(シャーオ)となるその人の名を呼んだ。「花を…」
彼女より二月だけ年少の、まだ線の細い少年は、それだけ口にすると、後に続く言葉を忘れてしまったように、後ろ手に持っていた花束を差し出した。
エステルは、二度三度、目を瞬かせた後、やや怒ったような口調で嘆息した。
「花など贈られる謂れはないが」
「そう言われるだろうと思った」
答えを半ば予期していたかのように、アルスラーンは笑い、一度、その手を引っ込めた。
「座ってもいいかな」
エステルは一寸、躊躇うような表情を閃かせたが、結局、無言で自分の隣に少し隙間を作った。
少年は、恭しくとさえいえる動作で、そこに腰を下ろした。彼は暫く何もいわず、夜風に髪をなぶらせるままにしていた。
ここ数日、夜を徹して途切れなく響いていた宴の音声は、今は聞こえない。
王都奪還。
彼ら王太子たちにとっては、まさにそうであろう。
エクバターナの民たちから見れば、解放。その言葉が似つかわしい。
「侵略者」たるルシタニア人───自分たちにとっては、はて、何と表現するべきなのだろう。
隣で身じろぎをする気配があり、エステルは、愚にもつかぬ物思いから醒めた。
勝利の歓喜に湧く王都の空気の中で、虚脱したように立ちすくんでいた少女は、いつの間にか王宮の一角に部屋を用意されていた。
今となっては、この身を追われて当然のルシタニア人である自分に。エステルは、月光のもとで、頼りなくも見える王子の横顔を盗み見た。
今は、私などに拘わっている時ではあるまい。王都の復興、アンドラゴラス王の国葬、そして即位、なすべきことはかぎりなくあろう。
だいいち、すぐに国王となる人が、憎むべき侵略者の一員たる人間と話をしているところなど見られては、いらぬ軋轢を生むのではないか。
このお人好しの王太子に、言うべきことはたくさんあった。
しかし今、それらを口にする気持ちは全く起きなかった。それは、隣りに座る少年も同じようで、しばらく二人は無言のまま、なんとはなしに、夜気のなかに身を置いていた。
「この花の花言葉を聞いて、エステルの顔が浮かんだのだ」
不意に、少年は口を開いた。
花言葉?
エステルは、まじまじと王太子の顔を見た。「…お前が花言葉に興味があるのか」
「ギーヴに教えてもらった」
「楽士どのか…」
言った少女の声に、やや険が含まれていたように感じたのは、彼の浮名がすでに万人の知るところであった証左だろう。
ことさらに彼を嫌うわけではないが、ギーヴに花とくれば、色事がまず頭に浮かぶのだった。アルスラーンは苦笑して、折角、花言葉について教示してくれた先達を、少しだけ弁護する気になった。
「ギーヴいわく、『摘むのがいかような人物であろうと、手折られる花に罪はない』と」
「なるほど…」
それで何かが伝わったかは不分明だったが、とにかく少女は頷いた。
ファランギースあたりが聞いたら、鼻で笑ったところかもしれない。「殿下。あやつは花の無実を自らの悪事とすり替えようとしておるだけのこと。騙されてはなりませぬ」
と。
「聖賢王ジャムシードの御代に、君の国から伝わってきたものだそうだ」
アルスラーンが再び差し出したのは、長い茎の先端に、青い傘状花序をつけた花だった。
侵略者たちによって略奪され、それをとり戻そうとしたパルス人との戦いに巻き込まれた王都。
王宮とて例外ではなかったが、そこかしこに広がる花の園のいくつかは、蹂躙を免れた。
金や銀、琥珀といった財宝と違い、興味をひかれることのなかったのが、幸いといえた。…皮肉なことに。
「小さく、かれんな花だな」
ルシタニアと同じ綴りで始まる名を冠した蒼色のそれらは、花束と言うには、こぢんまりとしていた。
もし、そこにあったのが豪奢な花々であったなら、エステルは最後まで受け取るのを拒んだかもしれない。
また、祖国の花と聞けば、心も揺れた。「それで、その花言葉とやらは?」
興味を惹かれたように、彼の手元を見た少女に、王太子は、「高潔」、「忠義」、そして「敬虔」であると説明した。
「私は、そんなに大層な人間ではない」
聞いた少女は、わずかに顔をゆがめた。
自らを卑下するわけではないが、いつもエステルの脳裏をよぎるのは、惨殺された同胞たちの血と埃にまみれた、あの姿であった。
彼女の瞳が暗く、深い色に沈むのを、アルスラーンは、痛ましげに見やった。「では、君が目指すところ、ということではどうだろうか」
「ふむ…」
高潔というのは、いささか気恥ずかしいが、忠義という言葉は気に入った。
そして、イアルダボート神に身を捧げる自分にとって、敬虔というのは何より自負するところであった。「もっとも…」
「なんだ」
「君はすでに、その言葉にふさわしい人物であると、私には思えるのだが」
エステルは一瞬、返答に窮したが、やがて、小さく鼻を鳴らした。
「異教徒の親玉に言われたところで、なんの説得力もないぞ」
アルスラーンはほほえんで、「確かに」と呟いた。
しかし少女は、王太子の差し出した花々を、今度は素直に収めた。
そしてしばし、手の中のそれを見つめたまま、自らの内面と向き合っているようだった。「異教徒の…、いや。いまだ一人前の異教徒たり得ぬパルスの王太子よ」
呼ばれて、アルスラーンは顔を上げた。
彼女の瞳は、蒼い花の向こう側を見つめていた。「私は、この花の花言葉に恥じぬ人間であろうか」
「うん」
「…私がこの花を持っていても、おかしくはないか」
「些とも」
アルスラーンは、瞬きもせず、生真面目な顔でうなずいた。
「そうか」
彼女は、ほんのすこしだけ、嬉しそうな表情を閃かせた。
それは、すぐに消えてしまったが、アルスラーンにはそれで十分だった。「それと、これを…」
王太子は、懐に入れていた一輪の花を、大事そうに取り出した。
黄色い筒状花を囲んだ薄紫色の花弁が放射状に伸びた、これも小さな花だった。「髪に挿しても構わないだろうか」
その言葉に我に返り、エステルはおいと、彼をにらんだ。
「騎士が──私は騎士見習だが──、髪に花を飾ると思うか?」
「飾って悪いことはないと思うよ」
王太子は、真面目な顔で、はなはだ説得力のないことを言った。
なおも彼をにらんでいる少女に、アルスラーンは仕方なしに、その言葉を口にした。「餞別だ。私からのささやかな」
できれば、いつまでも言わずにいたかったという顔だった。
「明日には、ここを発つのだろう?」
答える代わりに、エステルは小さく首肯した。
亡きイノケンティス七世の遺骨を、故国に持ち帰るのだ。
それは、聖マヌエル城からようやく王都に到着した傷病者たちが惨殺されているのを目の当たりにしたあと、エステルのした決心であった。「餞別なら、すでに十分すぎるほどもらっているが…」
隣国ミスルを経由して、海路帰国するための旅費、そして護衛。
それは破格の処遇といえた。
しかし、王太子は目をそらさず、まっすぐに少女を見つめた。「受け取ってもらえるだろうか」
「…お前がどうしてもというのなら」
「どうしても」
エステルは観念して、横を向いた。
少年の意外な頑迷さを見た気がした。「それも、わが祖国の花か?」
「いや、これは遠く絹の国(セリカ)から来たものだ。シオン、というのだそうだ」
不思議な響きの名だった。
「この花には、どんな花言葉があるのだ?」
その問いには答えず、アルスラーンは、おごそかとさえいえる動作で、一輪の花をエステルの耳の上あたりに挿した。
少女は、王太子が髪に挿した花の形を、そっと指先でなぞる。
そうして、居心地が悪そうに、肩を揺すってそっぽを向いた。「私にこのような辱めを与えて…満足か」
「うん」
悪びれもせず、できばえに満足したように少年はうなずいた。
「…冗談だ。一応礼を言っておこう。ルシタニア人が礼を軽んじるなどと思われてはいかぬからな」
小さく咳払いを繰り返してから、エステルは姿勢を正した。
「…ありがとう」
その時、彼女が浮かべた表情を、アルスラーンは終生忘れえぬだろう。
「エステル…」
「?」
「いや…」
言いさして、口ごもる。
髪に異国の花を飾った君の姿はとても美しく、可憐だ。
きっと、言えば彼女は怒るだろう。
だから、アルスラーンは黙っていた。
ただ、そこに咲いた花のようなエステルの笑顔を、ずっと見ていたかったから。
最後に、彼女に送ったシオンの花言葉は───「遠方にある人を思う」、そして…「君を忘れない」。
(了)