71
プシッ。
「!」
開いたドアの前に立っている人物の顔を見て、冬月は、わずかな驚きとともに、その細い目を瞠(みは)った。
「…シンジくんか。私のところへ来るとは、めずらしいな」
副司令執務室のドアの前に立っていたのは、制服姿のシンジだった。
冬月の驚きも当然で、未だかつて、シンジが個人的に自分の所を訪れたことなどなかったのだから。
「どうした、碇なら今日は本部にいないが…」
「ええ、知ってます。発令所に寄ってきましたから」
もしや、父・ゲンドウに会う目的で、自分を頼って来たのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。
「まあ、立ち話もなんだ。入りたまえ」
「はい。…失礼します」
冬月は、とりあえずシンジを部屋の中に招き入れた。
冬月の執務室は、他のNERV職員の部屋と比べても、たいして広い方とはいえなかった。
彼自身がほとんど、発令所か司令執務室に詰めているせいもあるだろうが、質素を旨とするのは、セカンドインパクト前時代からの、彼の性格らしかった。
室内は、質素ではあるが閑散とはしておらず、良く片づけられており、たとえばミサトの執務室などとは比べるべくもない。
冬月は、執務机の手前の応接テーブルを示すと、シンジにソファを勧めた。
「すまんな。近ごろ、ろくに掃除もしていないもので、散らかっているが」
「いえ、そんなこと全然…」
もの珍しそうに、室内をキョロキョロと見回していたシンジは、冬月に言われて、あわてて首を振った。
「ああ、そうか。そういえば君は、葛城一尉と同居中だったな」
自らもソファに腰を落ち着けながら、冬月は笑った。
言われたシンジは、なんとなく恥ずかしくて、ソファの上で肩を縮こまらせた。
ミサトさんの片づけ下手って、みんなに知れわたってるのかな…。
「…で、何の用かね」
チラリと、冬月に視線を向けられたシンジは、持参したデイバッグを開けた。
「いえ、たいしたことじゃないんです。……あの、よろしかったら食べませんか」
言いつつ、シンジはランチボックスをテーブルの上に置いた。
「ふむ、そういえば、もう昼時か。…シンジくんが作ってきたのかね?」
「はい」
「そうか…私だけというのは、悪いな」
「あ、今、マヤさんたちには差し入れしてきたんです。副司令だけ執務室にいるって聞いたので…」
「ハハハ…なかなか如才(じょさい)ないな。碇とは大違いだ。では、遠慮なく頂こうかな」
「ええ、どうぞ」
シンジは、ランチボックスの中から取りだしたものを、別に持ってきた紙皿の上に並べていく。
「……ちょっとしたピクニック気分だな」
「そうですか?」
久しく、こうした食事などしたことのなかった冬月は、シンジが支度するのを、不思議そうに見ている。
彼はNERVの副司令であり、彼の上には、碇ゲンドウただ一人がいるのみである。
ために、他の職員からは、ある種「雲の上の人物」と捉えられているふしがあった。
もちろん、彼自身が公私を混同するような人物でないのは事実ではあったが、あえて彼のプライベートに立ち入ろうとするものは、だれもいなかった。
だから就業中に、一パイロットにすぎない14歳の少年が作ってきた昼食を食べる…などということは、当然ながら初めてのことであった。
普通ならば考えられないことであるが、碇ゲンドウの息子という微妙な立場と、彼の持つ自然さが、冬月に拒絶する暇(いとま)を与えなかったようである。
「副司令は、いつも食事はどうしてるんですか?」
「うむ…まあ、聞くだけ野暮というものだ。食事に注文を付けていられる立場ではないしな」
「どうぞ」
「ああ、スマンな」
冬月は、差し出された物を受け取り、思わずそれをじっと見る。
「おにぎりか…こんなもの、久しく食べていないが…」
「あの…お口に合いませんか?」
「いや、そんなことはないよ。ただ、こういったものが懐かしくてな」
手の中のおにぎりを見て、まったく別の感慨を抱いていた冬月は、少し慌てたようにそれを口に運んだ。
少し塩の利いた飯、ほどよい堅さの飯粒。中身は、おかかだった。
冬月は、もぐもぐと咀嚼しながら、再び、食べかけのおにぎりに目を落とした。
…何やら、懐かしい味がするな。
「シンジくんは料理が上手と、評判になっているのを知っているかね」
「えっ、そんなことないですよ」
冬月からの思わぬ賞賛を受けて、シンジは照れくさそうに、自分もおにぎりを頬張った。
「いやいや、この味はユイくんそっくり…」
「………」
16年前、京都の山道で食べた、ユイの弁当の味を思い出していた冬月は、何気なくそれを口にしてしまってから、まずいことを言ったと、苦い顔になって口をつぐんだ。
一瞬、沈黙がその場を満たした。
だが、シンジは自然な動作でポットから麦茶を注ぐと、冬月の前に差し出した。
「どうぞ」
「う、うむ…」
冬月は気まずい顔をしながら、差し出された麦茶をすすった。
「副司令は…母さんのこと、よくご存じなんですか」
「いや…ご存じというほどではないが…うむ、知っている」
「そうですか…」
冬月は、どう答えたものかと戸惑いながら…シンジの顔をさりげなく盗み見た。
シンジと冬月、そしてユイは、11年前にも一度、同じ場所で顔を合わせている。
NERVの前身組織、ゲヒルンで。
そして、あの時…。
………。
彼は、何かを思いだした…或いは、初号機の秘密を、何か感じとったのだろうか。
だが、冬月の目に映ったシンジの顔は、意外なほど穏やかで…川底をたゆたう水のような深みを感じさせた。
それは、彼の知る碇ユイの表情に、良く似ていた。
麦茶の紙コップを手にしたまま、冬月はしばらく動けなかった。
「父さんは……」
「ぅ…む?」
ポツリと、シンジが呟くように言った。
「今でも母さんを…思っているんでしょうか……」
そう言った時のシンジの瞳を、冬月は長い間、忘れることができなかった。
それは、どこか寂しげで、儚げで――――そして、悲しい色をしていた。
この少年は、どう見ているのだろうか。
碇ゲンドウという男を…。
父親としてはあまりに酷薄で、
他人と呼ぶには切れない絆の多すぎる、
他者に対し、また自分にすら頑なな、あの男のことを。
そして、母・ユイのことを。
分かり合えぬ、彼ら親子のことを。
……冬月には分からなかった。
彼を見ていると、自分がここにいる理由が、揺らぐのを覚える。
自分は何のために、ここにいるのか。
そして、何をしようというのだろう。
もし、ユイ君が生きていたら……諫めただろうな。
利発で、物事をはっきりと言うユイのまっすぐな瞳が、冬月の脳裏を過ぎっては消えた。
思えば、あの瞳に惹かれて、自分はここまで来たのかもしれない。
そしていま、彼女と同じ瞳を持つ少年が、目の前にいる。
彼の生い立ちを思う。
自分たちと比べても、決して、幸福とはいえない子供時代を過ごしてきたはずの少年。
自分たちにとっては、計画の一部にすぎない。
サードチルドレン。
彼は何故、現在の境遇を受け入れたのだろう。
それに、彼はこんなにも親しみやすい少年だったろうか。
冬月の頭の中で、初めて目にした時の印象と、現在のシンジの像が重ならなかった。
「また、来なさい…」
その後、ユイの話題には一切触れず、努めて明るく振る舞っていたシンジが部屋を出かかった時。
冬月は、自然にそう口にしていた。
どうにも、彼をただのシナリオの駒とは割り切れなくなっている冬月だった。
Episode-15「修学旅行に行こう」
72
陽光の下を、アスカが軽やかに歩いている。
彼女の蒼い瞳に宿る輝きは、夏の日射しですら圧倒することはできない。
ブルーのノースリーブシャツにバナナイエローのショートパンツ姿のアスカは、手にしたポーチのひもをぐるぐる振り回しながら、長い足を繰り出して歩いていく。
14歳にして日本人離れしたその足の長さ、そのウエストの位置の高さは、同世代の少女にとって、まさしく羨望に値する。
アスカは、とにかく目立つ少女だった。
街中を歩けば、9割以上の人間が、振り返って目を向けるだろう。
だが、アスカ自身は、そんな好奇の目は気にもとめない。
そういう視線には慣れっこになっていたし、何より、自分が他人に与える印象を十分に把握していた。
そして、アスカ自身は、それを大したこととは思っていなかった。
いい気分だとは思っていたが。
そして、そのすぐ横を歩く水色の髪の少女。
彼女は対照的に静かな佇まいを見せている。
それはいまや、存在感が薄いということでは、決してなくなっている。
アスカを動とするならば、レイは静の美しさ。
太陽と月、というと語弊が生じるかもしれないが、陽光と月光といえば、少しはその雰囲気が伝わるかもしれない。
薄いブルーの半袖セーラーに、色の濃いジーンズ。
レイがズボン姿も似合うというのを、シンジは知った。
この二人が並んで歩くと、見る者に与える印象も相乗効果を生じるようだ。
中心街のショッピングモールを歩く2人の周囲には、ちょっとした人だかりができるほどだった。
そして、その後ろ…。
「アスカ。ま、まだ買うの…?」
両手に紙袋をどっさり抱えたシンジが、よろよろと歩いていた。
その姿は、はっきり言って2人の従者か召使いか…といったところだ。
美少女2人に釣り合わない…という視線があちこちから突き刺さるのを、否応なしに感じる。
赤と黒のチェックのシャツは、すっかり汗だくになっていた。
「なぁーに言ってんの。まだまだ目的の物はこれからじゃない」
げっ…。
アスカの言葉を聞いたシンジは、思わず目眩を覚えてしまう。
「大体、このあたしが買い物に誘ってやってんのよ。ありがたいと思いなさい」
くるりと身軽に体を翻し、チッチッと指を振ってみせるアスカ。
シンジは軽いため息をついた。
そりゃ、誘ってくれるのは嬉しいけど、これって単なる荷物持ちじゃないかぁ…。
「碇君......大丈夫?」
見かねたレイが、シンジに歩調を合わせて、聞いてくる。
「私......半分、持つ」
レイは手ぶらだ。
彼女は、ハンドバッグの類を持っていなかった。
それを聞いたアスカが、得たりとばかりにレイの物まで大量に買い込んだため、シンジの手にある紙袋の中身も、半分はレイの物だった。
「ダメよ、レイ。シンジを甘やかしちゃ」
すかさず、アスカがレイを止める。
この場合、甘やかすってことになるんだろうか…。
シンジは、もっともな疑問を浮かべたが、それでもレイに笑ってみせる。
「大丈夫だよ、綾波。このくらい、平気だよ」
「そうそう。シンジはもっと鍛えた方がいいのよ」
「......?」
アスカの言葉に、少し首を傾げたレイだが、やがて納得したようにアスカに並んだ。
このところ、レイはシンジと同じくらい、アスカの言葉に耳を傾けることが多かった。
同じ女の子同士、男のシンジよりも通じるものがあるのだろう。
とはいえ、「女の子らしさ」を、すべてアスカの基準でレイが実践したとしたら、それはコワイと思うシンジだった。
アスカの横を、少しだけ遅れながら並んで歩くレイ。
アスカも、彼女の歩調に合わせて、わずかにゆっくりと歩いている。
本人は意識していないのかもしれないが、後ろから見ているシンジには、それが分かる。
それは、はたして先日のユニゾンのせいなのか…。
綾波は変わった…。
そして、アスカも変わりつつある。
アスカとレイの仲の良い光景。
それは、シンジに幸せな気分をくれる。
それに比べたら、荷物持ちくらいはいくらでも甘受していいと思う。
それに、今、シンジにとってアスカは、憧れの対象でもある。
むろん、前回もそういった憧憬は感じていた。
だが、それは手が届かないと思う故の「畏敬」に近い感情であり、現在のシンジの心情とは異なる。
現在のシンジの気持ち。
それは、明らかに、一人の少女への、恋心を秘めた憧れだった。
少し前ほどではなくなったものの、アスカを見ていると、時々、ぼーっとなっている自分に気付く。
それに気付いた時は、どこかむず痒くて、気恥ずかしい。
だが、それは同時に、このうえなくシンジの心を温かくもしてくれるのだ。
アスカの額に、うっすらと輝く汗。
アスカの快活さに良く似合った服から伸びる、躍動感に満ちた四肢。
時折、吹く風に翻っては、金色の軌跡を描く、栗色の髪。
レイと言葉を交わし、頻繁にこぼれる笑み。
それらの全てが、シンジには愛おしい。
狂おしいほどに愛しく、そして切ない。
そして、そう思えることが、シンジには幸せだった。
シンジは気付いているだろうか。
いつの間にか、自分がアスカにとって、「一番近い」男性になりつつあることを。
むろん、それがアスカの恋愛感情に直結するかといえば、それほど単純なものではないだろうが、今までその場所を占めていた加持の存在が、少し違ったものになったことは確かだった。
加持のことが嫌いになったわけではない。
だが、いつの間にか、本当に気付かぬうちに、あこがれを「あこがれ」と認める冷静さが、アスカの中に生まれつつあった。
シンジは知らなかったが、前回、アスカの買い物に付き合ったのは、加持であった。
加持の側に用事があったのかもしれないが、アスカは今日、あえて加持に頼んでいない。
そして、今回はレイが一緒とはいえ、シンジを誘っている。
これは、大きな変化といえた。
とはいえ、アスカは基本的に男が嫌いである。
トウジやケンスケの立場にしても、他の有象無象と比べればマシ、という程度であり、友達としては合格であっても、それが恋愛の対象となることはない。
シンジはその少し上、一緒に暮らしても、嫌悪感を感じないという辺りである。
それは端から見れば驚くほど高い位置なのだが、アスカ自身は大したことと思っていない。
もちろん、彼女が気付いていないだけで、芽生えつつある気持ちは存在するのであるが、それは表面化するのはまだまだ時間のかかる、発展途上のものであった。
それが、今後どのように育っていくのか、アスカにも、もちろんシンジにも定かではなかった。
「あっ、ヒカリ。こっちこっちー!」
中心街で一番大きなデパートの前に差し掛かったとき、アスカが大きく手を振った。
すると、入り口付近で日傘を差していた、お下げ髪の少女が、小走りにやってきた。
「あれ、洞木さんだ」
シンジは顔を上げて、向日葵のような笑みを浮かべてやってくる少女を見つけた。
「あたしが呼んだのよ。一緒の方が、楽しいでしょ」
それは、シンジもまったく同感だった。
それというのも、今日の買い物の目的が、数日後に迫った修学旅行の準備だからだ。
遠足とか修学旅行というものは、そのもの以上に準備が楽しいという説があるが、それはなかなか正鵠を射ている。
実際、荷物持ちをさせられてはいるが、本当は楽しくてしようがないシンジだった。
アスカと手を取ってキャーキャー言っていたヒカリは、日傘を畳むとレイとシンジに笑いかけた。
レモンイエローのワンピース姿が眩しい。
「こんにちは、碇くん、レイさん」
「やあ、洞木さん」
「......こんにちは、ヒカリさん」
淡い笑みを浮かべるレイと、隣のアスカを見て、ヒカリは微笑んだ。
「アスカとレイさんって、仲がいいのね。並んでいると何だか、姉妹みたい」
言われたアスカは、目をパチクリとさせて、隣のレイを見た。
レイも、つられるようにアスカのシャープな輪郭を覗き込む。
姉妹......?
レイが、その言葉の意味を咀嚼し終える前に。
不意に、アスカは、こちらを向いたレイの頭をぐっと引き寄せると、ニカッと笑った。
「そう? ま、あたしの人徳ってやつ?」
冗談でしょ、なんであたしがファーストなんかと…!
昔のアスカならば、そう怒って否定しようとしたに違いない。
エヴァのパイロットとしてはともかく、日常的な部分において、アスカのレイに対する確執は霧散していた。
ある面においては理知的かつ、怜悧な印象のレイが、まるで子供のような一面を持つことに気付いてからは、あれこれと世話を焼いている。
アスカ本人は否定したがるかもしれないが、母の愛を失った…そう信じている少女の、それは小さな母性の発露ではなかっただろうか。
レイは、相変わらず表情豊かとまではいかず、アスカのされるがままになっているように見える。
だが、そのわずかな表情の変化にヒカリが気付いたのは、ここ最近の付き合いの成果だろう。
レイは、表情の選択に困っている。
それはつまり、彼女が照れている証拠なのだ。
ヒカリはくすっと笑った。
「……それはいいとして」
レイの頭を開放したアスカは、半眼になって、ヒカリの後ろにいる2人をにらんだ。
「ちょっと、どうしてあんたたちまで付いて来てんのよ」
「ごあいさつやな。相変わらずキツイで、惣流は」
「ヨッ、おはよう」
休日だというのに、相変わらず暑苦しそうなジャージを着て、体育会系丸出しで腕まくりをしているトウジと、繁華街だというのに迷彩のズボンをはいて、片手にビデオカメラを構えたケンスケが、ひょっこりと顔を出した。
「イインチョとは、さっきそこで会ってん。買い物するなら、一緒の方が何かと便利やゆうて。なあ、ケンスケ」
「ん? ああ、そうそう」
トウジはまったく分かっていないようだが、ケンスケは、ヒカリの意図が分かったので、曖昧な笑みを浮かべた。
相変わらず、トウジは鈍感だ。
「ふーん…?」
納得しがたい表情で、アスカはちらりと、ヒカリに視線を走らせた。
お下げ髪の少女は小さく頬を染めると、申し訳なさそうに縮こまってみせた。
当然といおうか、ヒカリの態度はあまりにも単純なため、アスカは彼女の「好意を向ける相手」について、早くから気が付いていた。
ただ、その好みだけは、どうにも理解できなかったが。
「…にしても。シンジ、なんやそのカッコは」
トウジは、両手に複数の紙袋を抱えたシンジの姿を見て、「嘆かわしい」という顔をした。
「同じ男として、情けないわ」
「は、はは…」
シンジとしては、笑うしかない。
と、アスカが割り込んだ。
「ま、当然でしょ。このあたしの付き合いができるんだから、そのくらいやってもバチは当たらないわ」
得意げに胸を張るアスカを見てから、トウジはポンッとシンジの肩に手を置いた。
「難儀やな…お前も」
シンジは、同情してもらって嬉しいやら、悲しいやら。
ケンスケは、滅多に見れないアスカやレイの私服姿を、早速ファインダーに収めながら、うんうんと頷いた。
「ま、まあとにかく、お買い物に行きましょ。ね、アスカ」
ヒカリが場をとりなすように、建設的な意見を述べ、それはみんなに了承されたのであった。
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(updete 2000/12/28)