いつから、そこに置いてあったのか、覚えていない。
ただ無性に、今は弾きたかった。
調弦――――。
アブラゼミ、ミンミンゼミ、クマゼミにツクツクボウシ。
閉めきったはずなのに、窓の外からは蝉たちの合唱が侵入してくる。
それが、今日はひどく耳障りで、ざらついた気分に拍車をかけた。
――――調弦。
弓を構え直すと、シンジは長い深呼吸を一つする。
戸外のノイズが、一段静かになったような錯覚。
目を軽く閉じると、主観では約1年ぶりくらいに、聞き慣れた音色がすべり出した。
ボーイング。
指先から全身へと伝わる低音の振動。
記憶にある音と、変わっていなかった。
少しだけ安心して、第一主題だけを、丁寧に繰り返す。
第一主題――――。
第一主題――――。
第一主題――――。
第一主題――――。
第一主題――――。
第一主題――――。
第一主題――――。
第一主題――――。
次第に、シンジは没頭し始めた。
Episode31:3「Humoresque in G-flat Major,Op.101,No.7」
ワシ………受けようと思う。
第一主題――――
そない驚くことかいな。
……意外やったか?
第一主題――――
………危険なのはわかっとる。
けど、それはシンジも惣流も、綾波かて同じやろ。
第一主題―――…
わかってへん、て………どういう意味やねん。
第一主題――……
………そんな言い方はないやろ。
ワシだって怖い。けどなぁ………。
第一主題―………
もし、ワシが断ったとしてもや。
………結局、誰かが乗らなあかん。
そういうことなんやないか?
―………っ
耳障りな異音で、シンジは我に返った。
足下に、弓が転がっている。
弓を持つ手は汗まみれなのに、妙に冷たくなっていた。
無意識のうちに、握ったり開いたり、を繰り返す。
パチ、パチ、パチ。
軽い拍手の音。
「…良かったけど。最後のはなによ」
驚いて振り返った先に、ピンクのワンピースを着たアスカが、腕組みをして立っていた。
「アスカ…」
「それ、初めて聴く曲ね」
「え…」
シンジは目を瞬いた。
「これ、ユモレスクだけど…」
アントニン・ドヴォルザークのユモレスク第7番。
曲名は知らなくても、この第一主題、誰しも一度はどこかで耳にしたことのあるようなフレーズだろう。
アスカは、なぜか心許ない顔をした。
「そういう意味じゃなくて……まぁ、いいわ」
ふーんと、軽く鼻息を吐き出して、アスカはポーチをテーブルの上に投げ出した。
「…アスカ。洞木さんと出かけてたんじゃなかったの」
「ヒカリったら、このあと用事があるんだって」
あまりお行儀良くなく椅子に腰掛けると、両手で頬杖をつく。
「鈴原のバカのところにでも、行くんだったりしてぇ〜」
「………」
「…?」
アスカは、右手でこめかみをカリコリ掻いた。
「なに」
「………」
「シンジ」
「…え?」
ハァ。
「…さっきの続き」
「え?」
「弾けるんでしょ、最後まで。聴かせなさいよ」
「う、うん」
シンジは、再び弓を取った。
低く、しかし軽快に流れ出す旋律。
アスカは、軽く目を瞑ったシンジの顔を、じっと見ている。
第一主題――――
アスカも、頬杖を突いたまま、目を閉じた。
第一主題の繰り返し。
…そして、ようやく次の主題が現れる。
シンジは眉間にしわを浮かべ、運弓に合わせて小さく首を振っていた。
切なく、激しい旋律。
浅く――
長く――――――
震え、尾を引くように高まっては消えていく…。
ふぅ…。
弓が弦から離れてしばらくして、小さな吐息が漏れた。
ゆっくり顔を上げると、さっきと同じ姿勢で、アスカがこっちを見ていた。
「いいんじゃない。音は荒れてるけど」
「………」
思わず、シンジの目が泳いだ。
アスカは、それには触れず、体を起こすといきなり切り出した。
「参号機と四号機の話、聞いた?」
ぴくりと、シンジの肩が揺れた。
弓を下ろす。
窓の外から聞こえるノイズ。
いつの間にか、主役はアブラゼミからヒグラシに取って代わられつつあった。
赤い色が、西の空を染めている。
「………え?」
数拍おいて、重大な事実に気づいたように、驚きを顔に刻みながら、顔を上げるシンジ。
「四…号機?」
無意識のうちに、反芻していた。
「フザケた話よね。一度に2機も」
皮肉、というより、どちらかといえば挑戦的にアスカは笑った。
「そ……それ。誰に聞いたの?」
「加持さん。絶対、誰にも言うなって言ってたわね」
前髪を弄びながら、話の内容自体にはあまり興味がないように、アスカは続けた。
「それで、あんたは参号機パイロットのことで頭を悩ませてるわけ?」
「え…」
「鈴原なんでしょ、フォースの候補」
「………」
ワシ………受けようと思う。
トウジの静かな決意を秘めた横顔が、脳裏を過ぎった。
シンジは、顔をしかめる。
「今、珍しい顔してる。不機嫌シンちゃんかしら〜?」
ミサトの口調を真似て、アスカが忍び笑いを漏らした。
「……茶化さないでよ」
「あぁら、こわーい」
「……アスカは、どう思うのさ。
トウジが…」
不機嫌そうに、しかし、どこかすがるような目で、シンジはアスカを見る。
「フォースチルドレンになったら、さ」
「別に、どうでも。…生理的に受け付けない部分はあるけど」
微妙にずれた酷評。
シンジの顔が翳った。
「……アスカは、もっと反対すると思った」
「はん?」
やおら立ち上がると、アスカはテーブルをバン!と叩いた。
「何それ、どういうこと?フォースチルドレンが何でこいつなの?わからないわ!何なのこれぇっ!!
………
………とか、やってほしかったの?」
フフン、と鼻で笑う。
腕組みをすると、何事もなかったように再び腰を下ろした。
「あたしのことは関係ないでしょ」
そう言うアスカの顔は、どこか大人びて見えた。
「あんたは納得できないわけ?」
「僕は…っ」
もし、ワシが断ったとしてもや。
………結局、誰かが乗らなあかん。
そういうことなんやないか?
「………」
先ほど聞いた、四号機のことが頭を過ぎった。
たとえトウジじゃなくても、他の誰か、別の少年か少女が、参号機、そして四号機のパイロットとして選ばれる。
きっと、その事実には変わりがなくて。
それを止めたりすることは、自分にはできるはずもなくて。
トウジの顔を思い出す。
諦念とも違う、穏やかな顔。
決して、いい加減な気持ちで言っていたんじゃなかった…。
「だけど……」
やっぱり…。
どうしたらいいのかわからずに、シンジは肩を落とした。
「なんなのよ、一体」
そんなシンジを見ていたアスカは、ため息を一つついて、キッチンへ向かった。
バカッ。
冷蔵庫を開ける。
牛乳を取り出すと、直接パックに口を当てて、飲み始めた。
んぐ…んぐ…んぐ。
ふぅ。
んぐ。
……。
バタン。
冷蔵庫のドアを閉じると、居間を振り返った。
シンジは、相変わらず肩を落としてうつむいている。
「あんたって…」
あきれと憐憫の入り交じった目で、アスカはシンジの背中を見つめた。
そして、スッと真摯な眼差しになる。
窓の外からは、ヒグラシの合唱。
遠くから、選挙カーの騒音が近づいてくる。
差し込む日差しは、もうだいぶ傾いていた。
「いつも、いつもそうだけど。本当にバカね」
つま先を、居間に向ける。
あまりにもバカで、格好悪くて、見飽きるほど変わらない、いつものシンジに。
『…高橋覗。高橋覗でございます』
『ありがとうございます。ご声援、ありがとうございます』
『高橋覗です』
『第三新東京市の明日を見つめる、高橋覗が最後のお願いに参りました』
『市議会議員補欠選挙は、高橋覗。高橋覗をよろしくお願いいたします!』
『皆さまの温かいご支援、ありがとうございます』
『高橋覗。高橋覗です』
『第三新東京市の未来を担う…』
ぷは…っ。
「………っ」
ぱく、ぱく、ぱく…。
「………」
「……っ?……っ!」
「…何、ハトがマメデッポウ食べたような顔してるのよ」
「だっ、だ……あ、アス…アス、なんっ」
目を白黒させるシンジの顎から手を離して、アスカは、
「したくなったのよ。…悪い?」
「し、したくなった…って」
唇を押さえて、真っ赤になるシンジ。
「なんて顔してるのよ、バカ」
少し上気している以外は、何も変わらない表情のアスカ。
「あたしのセカンド・キスなんだから、光栄に思いなさい」
「…えっ」
セカンド…って、じゃあ一度目は誰と…?
「ほら」
ますます頭の中がパニックになるシンジに、アスカは立てかけてあった弓を差し出した。
「もう一度、弾いてよ。"Humoreske"」
訳がわからないまま、演奏を終えて、顔を上げるシンジに、
「さっきより、よかったわよ」
アスカは、屈託なく微笑んだ。
「ピアノでもあれば、合わせてあげられるのにね」
「…アスカ、ピアノ弾けるの?」
「あたしを誰だと思ってるの?」
どこか無防備なその顔にドキリとしつつも、シンジは聞かずにはいられなかった。
「あの………
アスカ、さっき『セカンド……』って、
その…最初は…」
一瞬、凶悪な笑みが浮かんだ。
しかし、すぐに何事もなかったかのように、
「Ich hasse einen gefühllosen Mann!」
彼女は、軽やかに栗色の髪を翻した。
Episode31:3 End