さぁー…さぁー…と、雨音。
時折、強くなったり、弱くなったりを繰り返す。
「雨...やまない」
戸外の細雨に音を吸い取られたかのように静かな室内に、レイのつぶやきが流れた。
パラリ、と雑誌をめくる音。
聞いているのか、いないのか、行儀悪くカーペットに寝そべったアスカは、暇そうに脚をぷらぷらさせている。
さぁー…さぁー…。
「そうだね。なんか、明日も一日中、雨だって天気予報で言ってた。…そういえば、おとといも夜雨降ってたし、なんか最近、雨が多いよね」
沈黙が気になったのか、それともフォローをしなくてはと思ったか、シンジがやや唐突な感じで切り出した。
「…誰も、お天気情報なんて聞いてないわよ〜」
シンジ的気遣いを上の空で軽く台無しにして、アスカはまたページをめくる。
「………」
ぴちゃん、ぴちょん。
小さく雨滴が落ちる音。
「静か...」
今度のレイの独り言には、誰も応えなかった。
時間の止まったような、ある日の午後。
Episode33:3「雨の午後」
ふぁ〜あ…。
あくびをして体を起こすと、肩をトントン、と叩くしぐさ。
「ヒマねー」
雑誌を放り出して、アスカは天井を仰いだ。
今日は後ろで縛っている栗色の髪が、ぴょこんと揺れる。
「シンジ、何か面白い話しなさいよ」
「え?」
いきなり何を言い出すかと思えば。
「そんなの、急に言われても…」
「面白い話」
「………」
そんなの、今までしたことないじゃないか。
シンジは困って、
「えっと、じゃあ…昨日コンビニに行ったときの話なんだけど」
「あ、もういいわ。その時点で面白くなさそうだから」
「………」
ぱくぱく、と二の句が継げないシンジ。
「…悪かったね」
じゃあ、最初から無理難題ふっかけないでよと思う。
と、こちらをじーっと見ているレイと目が合った。
「.........」
何かを期待するまなざし。
「……えぇっと。もしかして続き、聞きたいとか?」
こくり。
「えと、じゃあ昨日のことなんだけど…」
物好きねぇ…という、アスカのあくび混じりの声はもう無視して、シンジは話し始めた。
「確か、初めて見る店員さんだったんだよね。若い女の人でさ。
レジ打ちとか、まだ慣れてない感じで…」
うっかり切らしていた牛乳を持ってレジに並ぶ。
シンジの前に2人。後ろにも1人と、にわかに忙しくなった感じ。
裏で補充作業でもしているのか、彼女以外の店員はあいにくいなかった。
しかも、1人前の人が結構買い込んだので、レジ打ちが忙しい感じになっていた。
「で、ようやくボクの番が来たんだけど」
あいにく、1万円札しか持ち合わせがなかったので、牛乳1本で悪いな…と思いつつ、それを出した。
「そしたら、その店員さん。…いきなり1万円札にピッて。あの、バーコードを読み取るやつを。
『えっ、それ1万円札ですけど…』
って言ったら、店員さんも気づいて、
『すっ、すみません!慣れてないものですから…』
その瞬間、僕の後ろに並んでた人が吹き出して、
『そんなの見たことないよ』って、大爆笑し始めちゃって。
僕も可笑しかったんだけど、店員さんすごく恥ずかしそうにしてるから、どういう顔していいか困っちゃったっていう…」
チラリ、とレイを見る。
実は話はこれで終わりなのだが、どうもうまくオチなかったっぽい。
きょとん、としたような顔のレイから顔をそらして、
コホン。
ぶふっ…
「………」
咳払いと同時に、何か聞こえた。
…よく見ると、背中を向けたアスカの肩が、小刻みに震えている。
あれ…ひょっとして、受けた?
しかし、「面白くなさそう」とか言った手前、笑うのはアスカ的に許されないのか、背を向けたまま、いきなりクッションが飛んできた。
「っ…ぉ面白くないのよ、あんたの話は!」
ばふっ。
「いたっ。なんだよ、もう…」
「......おもしろかった」
「そ、そう?」
こくん。
「………」
「.........」
「……っ(ぷるぷる)」
沈黙。
その後もアスカは、しばらく背中を向けていた。
さぁー…さぁー…。
少し、雨足が強くなってきたようだ。
再び窓を伝う雨を目で追う。
その窓に映り込んだアスカが、肩越しに、
チョイチョイ。
と手招きする。
レイは、まばたきとともに外の雨景色に背を向けると、とことこと歩いて、ぺたんと彼女の横に腰を下ろした。
アスカは、真剣な顔で、その色素の薄い髪に手を伸ばすと、一本一本より分け始めた。
「なんか、おなか空かない?」
これまた唐突に。
自分に言ってるんだとシンジが気づくまで、少しかかった。
「もう少ししたら、夕飯の買い出しに行くけど…」
チラリと時計を見る。おやつには中途半端な時間だった。
「ね、おなか空いたわよね」
「......」
自分で振っておきながら、シンジの言うことなどまるで聞こえていないかのように、レイに同意を求める。
素直なレイは、こくりと頷いた。
「…わかったよ」
聞き分けのいい、というより、あきらめの早いシンジは、椅子から立ち上がってエプロンに手をかけた。
「ああ、凝ったもんじゃなくていいわ。…言っておかないと、あんたやたら手間ひまかけるんだから」
いったい、どうしろっていうのさ…と、さすがに憮然としながら、シンジはキッチンに入った。
「レイはいいから、座ってて。…いつも、あんないい加減な洗い方してるのに。なんで枝毛が全然ないのよ」
理不尽だわ…と、ぶつぶつ言う声が、背中に聞こえた。
シンジは、聞こえないようにため息をついた。
結局、昨日ゆですぎて冷蔵庫にしまってあったパスタを塩・胡椒、ニンニクと鷹の爪で炒めて、ペペロンチーノもどきをつくった。
つるつると、屈託なくパスタを口に運ぶレイと対照的に、アスカは頬杖をついて、しばらくフォークでパスタの海をかき混ぜていた。
彩りに添えたプロッコリーが、あまりお気に召さないらしい。
ツンツンと、緑色の固まりを寄せてから、ようやくくるくるとスパゲッティを巻き取って、口に入れる。
「学校もつまんなくなっちゃったわねー。ヒカリもジャージ男もいなくなっちゃって」
ぴくりと、シンジの手が止まった。
…2人が転校したのは、つい数日前のことだ。
これで、大体クラスの半分くらいがいなくなったことになる。
レイが、気遣うようにシンジに視線を向けた。
カチャッ。
「………怒ってるの?あんなこと言ったこと」
ためらいがちに、シンジはアスカを盗み見た。
トウジたちに関して言えば、追い出すようなことを言ったのは自分だ。
「別に」
案外満足そうにパスタをすすりながら、アスカは無頓着に首を振った。
「あんたがそうしたかったんなら、それでいいんじゃない。それにね…」
もぐもぐ、ごくん。
「あんたに言われたぐらいで、家族ごと引っ越すなんてこと、現実的にあるわけないでしょ。なんでも自分のせいだと思うの、やめたら?」
そういうの勘違いもいいところなんだから、と食べ終わった皿を持って流しに立つ。
責めるような口調ではないので、表情の選択に迷いながら、シンジは残りの一口をかきこんだ。
レイが、何か言いたげに口を開いたとき、聞き慣れた音が、3つ同時に鳴り出した。
《非常召集》
携帯電話をパタンと閉めて、レイが真っ先に立ち上がった。
「…使徒ね」
文面を確認するように、アスカが言った。
硬くなったシンジの顔が、心なしか青ざめている。
「雨の中のご出勤か。レイ、あんた傘ちゃんと差すのよ」
取るものもとりあえず、靴を履きだした少女に、彼女の分の傘を取るアスカ。
シンジは、思わず呼び止めた。
「…アスカも、行くの?」
「なんでよ」
「だって…」
言い淀む。
弐号機は動かない。
前回の損傷はすでに修復されているが、シンクロ率がまったく上がらない。
「もう動かせない」とは、アスカ自身の公言だった。
それなのに…。
しかしアスカは、あきれたように肩をすくめた。
「別に、来るなとは言われてないんだし、あたしのことはいいでしょ。あんたは、自分のことを考えればいいの」
さぁー…さぁー…。
レイの黄色い傘が、前の方で揺れている。
後ろ髪が揺れるたび、水滴がはねて、景色に溶けるように滲む。
はっ、はっと、規則正しい呼吸が3つ、アスファルトをたたく雨音の中にこだまする。
いつかの光景が、脳裏をよぎった。
耳障りなサイレンと、悲鳴、雑踏。
陽炎の揺らめくホームを汗をしたたらせながら、シェルターへ向け走った。
恐ろしい轟音と閃光、震動。そして…
きゅ。
「!」
不意に、手を取られた。
足を止めずに首を動かすと、赤い傘の陰から伸びる、白い腕。
隣を走るアスカの手が、自分の手を握っていた。
シンジはあわてて立ち止まった。
「きゃっ。…何よ、もう」
シンジは手を離したつもりだったのだが、アスカがしっかりと握っていたため、急ブレーキをかけられた格好になる。
「い、いや…アスカ、手…あの」
今置かれた状況も忘れて、シンジはドギマギと口ごもった。
しかしアスカは、何を訳の分からないことを言ってるんだ、コイツは…という顔をした。
「なに、イヤなの?」
「い、いや、そうじゃなくて…」
「さっさと走りなさいよ。レイが行っちゃうじゃない」
「う、うん」
半思考停止になりながら、シンジはアスカに引っ張られるように、再び走り出した。
赤い傘の向こうに見えるアスカの横顔は真摯で、シンジはそれ以上、何も言うことができなくなった。
右手が、温かい。
遙か彼方で、砲声がこだました。
Episode33:3 End