For example...

「同居人」

作・みゃあ


 

 

なぜ、あのコがそんなことを言い出したのか、私には未だに理解できない。

 

私にそんな資格がないのは、誰かにあらためて指摘されるまでもないし、彼女に安息の場所があるとすれば、それはミサトのところだと、半ば確信もしていた。

実際、ミサトは、結婚後も養女として引き取る心づもりであったことを私は知っている。

だから、レイが私と暮らしたいと言ったとき、感じたのは狼狽でしかなかった…。

 

 

 

 

 

 

 

リツコは、寝起きがあまりよくない。

低血圧気味なこともあるだろう。

だが、実際のところ、睡眠時間が平均4時間を切っていれば、だれでも寝起きが悪くなろうというものだ。

彼女のハードスケジュールは、今も昔も変わりがない。

昨夜も帰宅したのは深夜で、ベッドに入ったのは、2時を回っていた。

そして、今朝もいつも通りの6時起き。

あくびをかみ殺しながら、のろのろと起きあがり、二、三度、目をしばたたかせる。

裸身の上から、Yシャツだけを羽織ったリツコは、前のボタンを止めながら、鏡台の前で自分の顔を見た。

 

「…ひどい顔」

 

ここしばらくの多忙さで、ろくに鏡を見る時間もなかったが、我ながら疲れた顔をしている。

一通り顔をなで回し、リツコはため息をついて自室のドアを開けた。

 

「……!」

 

廊下に出たとたん、びちゃっとした感触を素足の足の裏で感じ、リツコは顔をしかめて反射的に足を上げた。

 

「なにこれ…」

 

水浸しのフローリングを半ば茫然と見やって、リツコはその原因を探るべく、視線を動かした。

また足を濡らさないように、気を付けながら歩を進める。

水の跡は、点々とバスルームの方へと続いていた。

僅かながら歩調が早くなる。

 

「レイなの?…いったい、これはどうし…」

 

バスルームに飛び込んだリツコの目が、思わず点になる。

 

「あ......博士。オハヨウゴザイマス」

 

廊下以上に酷い有り様になった水浸しの洗面所の真ん中で、全裸のレイが、愛猫と格闘していた。

 

「……おはようじゃないでしょう。何なの、この有り様は」

 

脱力しきった顔で、リツコはその場にへたり込みそうになるのを何とかこらえた。

 

にゃー、にゃーというエコーのかかった元気な猫の声が、洗面所に響く。

じたばたじたばたと、腕の中から抜け出そうと暴れる三毛を危なっかしい手つきでレイが抱えている。

 

「シャンプーをしようとしたら、この子が暴れるので......」

 

よく見れば、レイの髪には、まだシャンプーの泡がこびりついたままだ。

にゃんこも右に同じ。

にゃー、にゃー。

 

「……それで、家中かけずり回ったわけね」

 

すべてを理解したリツコは、がっくりと肩を落とした。

こくりと、レイが頷く。

目眩がした。

 

くしゅっ。

 

ネコがくしゃみをする。

 

くしゅん。

 

レイもつられてくしゃみをした。

 

「……ここはいいから、もう一度シャワー浴び直してきなさい。いつまでもそんな格好じゃ、風邪をひくわよ」

「はい、すみません...」

 

雑巾を探し始めたリツコに、レイはちょっと小さくなる。

 

「ほら、早くなさい」

「ハイ......」

「それからね、レイ」

「......?」

「その子は、毎日お風呂に入れる必要はないのよ」

 

そうなの.....?と言いたげに、腕の中のネコを見るレイ。

目があったネコは、にゃうんと頷いた(ような気がした)。

 

「わかりました」

 

バスルームへと消えたレイを見送って、リツコは小さくため息をついた。

結局、起きがけだというのに、レイ(と愛猫)が出てくるまでの20分間、床掃除をするハメになった。

 

 

 

ぶおぉぉ〜……。

 

弱いドライヤーの温風を当てられて、のどをくすぐられている三毛は、リツコの腕の中で気持ちよさそうにしている。

ゴロゴロ……と喉を鳴らす愛猫を見つめるリツコの目は、穏やかだ。

 

「.........」

 

身体を拭いているレイが、それを見つめている。

 

 

 

「はい、終わり」

 

カチッ、と送風が終わると、にゃん、と一声鳴いて、勢い良くネコが腕の中から飛び出した。

もう少し、その感触に浸っていたかったリツコは、小さくため息をついた。

そこで、レイの視線に気付く。

 

「……どうしたの、レイ?」

 

タオルを身体に巻き付けたレイは、濡れ髪のまま、ぼぅっと立っている。

 

「......私も」

「え…?」

「私もしてください」

「………」

 

レイの視線の先を追う。

…リツコの手の中には、ドライヤーがあった。

 

「あのね、レイ…」

「(じっ......)」

 

レイは、リツコの手の中のドライヤーを見ている。

 

………。

………。

 

 

ぶおぉぉ〜……。

 

「………」

「.........」

 

弱いドライヤーの温風を当てられて、鏡の中のレイは、目を閉じている。

リツコは、朝っぱらから、何故こんなことをしているのかしら…と不条理にとらわれている。

 

「……レイ、あなたはもう高校生なのよ。分かっていて?」

「はい」

「……髪くらい、自分で乾かしてちょうだい」

「.........」

 

やれやれと、ため息をつく。

 

「......気持ち、良さそうだったから」

「………」

「.........」

 

ぶおぉぉ〜……。

 

 

 

 

 

TVでは朝のニュース番組の真っ最中で、天気予報士の女性が、妙に明るい声で全国的に雨の予報を告げている。

テーブルには、パンを中心としたブレックファストメニューが並んでいる。

リツコは、めったに料理をしないため、それが誰の手によるものかは言うまでもない。

 

政治家の汚職から交通事故に移ったニュースに、興味を失ったように視線を外してレイを見る。

セーラーの上にエプロンをしたレイは、器用にサラダを盛りつけていた。

 

ピピピッ、ピピピッ…

 

小さな電子音に、リツコはテーブルについていた頬杖を外して、辺りを見た。

 

「博士......止めてください」

 

いつの間に仕掛けたのか、テーブルの隅にキッチンタイマーが置かれていた。

スイッチを押して、ささやかな騒音を消したリツコが振り向くと、レイが高級そうなティーセットをキッチンからいそいそいと運んでくるところだった。

 

「ウェッジウッドじゃない……いつ買ってきたの?」

 

ソーサーに置かれた空のティーカップに手を伸ばして、その表面に描かれたワイルドストロベリーの絵柄をためつすがめつする。

こうしたものにさぼど関心のないリツコでも、その上品な高級感はわかる。

 

「この前の日曜日です」

「ああ、ごめんなさい」

 

答えて、ティーポットを持ち上げたレイに、リツコはティーカップを元の位置に戻した。

トポポポ……と、細い滝を作って、紅い液体が静かな湯気を上げる。

手元をじっ…と見ながら、頃合いを図っていたレイは、半分ほど入れたところで、自分のカップに移る。

 

「…随分と手際が良いのね。驚いたわ」

 

手慣れた様子で紅茶を注ぐレイの姿を、物珍しげに見つめる。

アールグレイ独特の香りが、室内に漂い始めた。

 

「碇君に、教えてもらいました」

 

リツコは黙って、丁寧に丁寧に、ティーポットから紅茶を注ぐレイの姿を見つめる。

やがて、ゴールデンドロップまで注ぎ終えたレイは、ミルクピッチャーを持ち上げて、リツコを見た。

 

「ミルクは入れますか......?」

「…お願いするわ」

 

 

 

 

 

「……ん。 おいしいわ、これ」

 

レイの煎れてくれた紅茶を一口含んで、リツコは手の中にあるカップをまじまじと見つめた。

普段はコーヒー派のリツコだが、ちょっとはまってしまいそうな美味さだ。

眠っていた頭が、少しずつ晴れていく。

 

対面に座ったレイも、同じようにカップに口をつける。

こく……。

 

「.........」

 

そして、レイは小さく微笑んだ。

カップを手にしたまま、リツコはしばらく、その表情に吸い寄せられていた。

 

「………」

「.........」

 

カチャ…。

 

「ねえ、レイ。……あなた、どうして……私のところに来たの」

 

意識せず、伏し目がちになる。

問い掛けてしまってから、後悔したように、リツコは視線をさまよわせる。

 

レイは、ちょっと意外そうに、小さく首をかしげ、しばし思案している様子だった。

 

「......そう、したかったからだと思います」

 

レイの答えに、リツコは、その意味を咀嚼するように、レイの紅い瞳を覗き込んだ。

 

「………」

「.........」

 

波のない、静かな瞳が、無垢な表情で自分を見つめていた。

 

「………そう」

 

ぽつりと呟いて、リツコは再び、一口紅茶をすすった。

 

かしゃっ…

 

「あっ......」

 

不意に、それまで大人しくキャットフードをかじっていた三毛が、ぴょんとレイの膝の上に飛び乗った。

カップを手にしていたレイは、少し慌てたように、それをソーサーに戻した。

そして、少し非難めいた顔で、言う。

 

「ダメ......『レイ』」

 

三毛猫のレイは、「知りません」という顔で、レイの膝の上で丸くなる。

レイは、その頭をなで始めた。

 

「.........博士」

「…なにかしら」

「......なぜ、この子は、私と同じ名前なんですか」

「………」

 

不意の質問に戸惑ったように、リツコは視線を逸らした。

 

「……別に、意味はないわ」

「.........」

 

レイの紅い瞳が、自分を見ているのを感じる。

 

「……も、もう一杯もらおうかしら」

 

その視線から逃れるように、リツコは無造作にティーカップを押しやった。

 

ぱち、ぱち。

 

レイは二度、まばたきすると、

 

「はい......」

 

そう言って、自分の膝の上の「レイ」を抱き上げ、リツコの膝に移し替え、何事もなかったかのように、キッチンへと向かった。

 

膝の上で、「レイ」がけだるそうに大あくびをする。

 

リツコは困ったような顔で、愛猫を撫でていた。

 

 

 

(おわり)

 

 

 


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(updete 2002/08/31)