「蒸し暑い日 ∈ 日常あるいは平穏な日々。」
Written by みゃあ
チッ、チッ、チッ…
目覚まし時計の秒針の音。
先週、梅雨に入ったと聞いた気がしたが、窓の外は眩しいくらいの陽光に満ちている。
ゆっくりと流れる、まだ薄い雲。ォ……ォ……ン……
遠く、尾を引くように聞こえるのは、遥か上空をゆく国際線の飛行機のものか。
フィー………
外気温は知る由もないが、エアコンの効いた室内は、快適な温度と湿度を保っている。
チッ、チッ、チッ…
「………暑い」
天井を見つめたまま、不快指数100%の表情で、アスカは呟いた。
「…そりゃそうでしょ、38度も熱があるんだから」
身も蓋もないツッコミを入れたのは、この家の主。
部屋の入り口のドアにひじをついた姿勢で、少し呆れたような顔をしている。
同居人であるところのアスカは、ベッドの上で布団に包まっていた。「でも、こういうの何て言うのかしらね。やっぱり、鬼の霍乱?」
「うるっさぃ…ミサト」ニヤニヤ笑いの気配が伝わってきて、アスカは目も向けずに、忌々しげに唸った。
文句を言うのも、今は億劫な気がする。
ハハハ…と、小さな苦笑を、シンジが隣で漏らした。きっ。
「…何笑ってんのよ、アンタ」
「え? わ、笑ってないよ」
ベッドの横に座っていたシンジは、冷たい一瞥を受けて、あわてて両手を振った。
「なぁ〜んで、うそつくのかな? シンジぃ〜」
「う、うそじゃ…イテッ! …ごめん、わかったから、足しまって」
布団の間からケリを入れられて、シンジは早々に降参した。
だらん、と垂れたアスカの脚を、布団の下に戻して、乱れた布団を掛け直した。「だから…暑っいって言ってんでしょぉ…」
「でも、風邪引いてる時は、体冷やすと良くないよ」
「ンなこと誰が決めたのよ」
「いや、決めたとかじゃなくて…」
「あたしは、暑いって言ってるの」
「…のワリには、大人しく肩まで布団にくるまってるわよねぇ」
ニヒヒ…と、したり顔で笑うミサト。
「私がいくら言ったって、すーぐベッド抜けだして来ちゃうんだから。やっぱ、シンちゃんが来てくれると、アスカが素直で助かるわあ」
「ミサトぉ〜」
風邪にやられて嗄れた声が、一段と低くなり、シンジは思わず、うっと首を縮める。
しかし、一緒に暮らして長いミサトには、そんなものは屁でもないようだ。「悪いわねぇ、シンジ君。せっかくの試験休みなのに。何か用事あったんじゃないの?」
「い、いえ、僕は別に。たまってた洗濯しようと思ってたくらいなので…」
「誰も来いなんて言ってない!」
「あーら、そんな心にもないこと言っちゃって。
にしても早かったわよね、シンジ君。電話して10分もしないで来てくれたのよ」「い、いえ、すぐ近くですし…」
もうそれくらいで…と、シンジは目配せするが、そんなものに構う彼らの保護者ではなかった。
「うんうん、愛を感じるわねえ〜。
どう、アスカ、うれしい? うれしいわよね〜、このこの」「ミぃ〜サトぉ〜?」
アスカの声のトーンが、地獄の底から湧き出すような低さに移行する。
ギ、ギ、ギと、枕に埋まった首が、きしみながらミサトの方を向きはじめた。「あ、アスカ、興奮すると体に響くから…。ミサトさんも、あんまり刺激しないで…」
もちろん、彼女はわかってやっているのである。
これもある種、ミサトなりの愛情表現であった。
…具合が悪い時には、はた迷惑極まりないのだが。ニャー。
猫が鳴いた。
場違いなその声に、気勢を削がれたように、アスカはそちらへ視線を向けた。
…猫?
そんなものは、ここにいないはずだった。
ウチにいるものといえば、ペンギンと、大酒飲みの年増くらいだ。「…レイのところの猫じゃない」
ミサトの足元から、どこかで見たことのある黒猫が顔を出していた。
「そ。リツコともどもお出かけらしいから、今日だけ預かったの」
ミサトが抱き上げると、黒猫は、猛烈な勢いで暴れだした。
「あらら、この子ってば、ホントに抱かれるの嫌がるわね」
ウチに…というより、ミサトに預けようだなんて。なんて命知らずな。
絶対、言い出したのはリツコじゃなく、レイね。「さぁさ、向こうに行ってましょうね。感染したらリツコに怒られちゃうわ」
「猫に風邪が感染るかっ!」
あははっ、と笑いながら、ミサトは部屋を出て行った。
ごゆっくり、などという余計なひと言を残して。
チッ、チッ、チッ…目覚まし時計の秒針の音。
ミサトが出て行くと、すっかり静かになった。
先ほど興奮したのが効いたのか、さすがに38度も熱があると堪えるようで、アスカは、いつもより少し呼吸が早い。
仏頂面のまま、天井を睨んでいる。シンジは、気遣わしげに、その横顔を見つめた。
「シンジ」
「なに?」
献身的な衝動に駆られて、間髪入れず返事をする。
「アイスたべたい」
「…風邪引いてる時は、だめだよ」
「なんで」
「体が冷えるから」
「冷えていいじゃない。暑いの、あたしは」
「胃腸を冷やすのはよくないんだ」
「………フン」
要望には応えてあげたいけど、こればかりは仕方ない。
「そうだ、ちょっと待ってて」
はた、と思い立って、シンジは部屋を出て行った。
・
・
・
三十分後。湯気を上げる土鍋を手に、戻ってきた。
「おまたせ」
「遅い」
ギロリ、と布団の中から睨まれる。
「…ごめん」
「この状態のあたしを長時間放置するって、どういう了見なの」
どういう了見って言われても…
「これ作ってたから…」
「何よ、それ」
「おかゆ。おなかすいたかなと思って」
ふぅふぅ…と少し冷ましてから、レンゲをアスカの口元に運ぶ。
もぐ、と素直に口に入れて、咀嚼。
「…あんまりおいしくない」
「そりゃまあ、病人食だから…」
食欲ないかな、と思って塩味だけにしたのだが、お気に召さないらしい。
「じゃあ、これを」
かつおぶしに醤油をまぶしたものを乗せる。
ふぅーふぅー…
もぐ。
「……ちょっとすっぱい」
「梅ペースト混ぜてあるから」
ふぅーふぅー…
もぐ。
「やっぱり、おいしくない?」
「……」
「アスカ?」
「うっさい。気が散る」
「…はいはい」
ふぅーふぅー…
もぐ。
・
・
・
結局、アスカは土鍋半分くらいのおかゆを口にした。「シンジ、暑い」
「ええと…」
食事をしたためか、少し汗が出てきたのかもしれない。
それはいい傾向なのだが、アスカ的には不快指数が上がったらしい。「どうにかして」
「あ、ちょっと待っててね」
シンジが、また席を立った。
今度はすぐに戻ってきた。「…なにそれ」
手にしているのは、二重にしたポリエチレンの袋に入った無数のロック用アイスと水。
「即席の氷のう。…ミサトさんち、アイスノンとかないんだね」
「あのズボラ女が、そんなもん買っておくわけないでしょ」
「……」
言われてみれば、かつて三人で一緒に暮らしていた頃も、なかった気がする。
ペンペン(とお酒)用に、氷だけは大量にあったけど。
ジャララ…。「冷たっ」
「あっ、ごめん。手ぬぐいで巻いて…と」
ゴロロ…。
「…ごつごつして痛い」
「やっぱり、即席じゃダメか…。じゃあ、濡れた手ぬぐいで」
「髪が濡れるからヤダ」
「……」
・
・
・
「シンジ…暑い」「…って言われてもさ」
途方に暮れたように、シンジはため息をついた。
アスカは、むっ、と熱のせいで腫れぼったい目で睨みつける。
私が具合悪くてつらいというのに、落ち着き払ったシンジの顔がにくらしい。(誤解)
さっきから、立場の弱い私に対して、上から目線なのも気に食わない。(言いがかり)
これは少し困らせてやらないと、とアスカは思った。
「…じゃあ、キス。してよ」「えええっ!」
笑ってしまうくらい簡単に、シンジはあわてふためいた。
「ええっ、て何よ」
「だ、だって、熱と全然関係ないじゃ…」
そのうろたえぶりが滑稽で、アスカはだいぶ溜飲を下げた。
しかし、面白いので、このまま追い詰めることにする。「あのね、シンジ…あたしは気分が悪いの」
「う、うん…」
「暑くてダルくて不快なわけ」
「わ、わかってるけど…」
「かわいそうだと思わない? 思うでしょ」
「ええと…」
「(ギロッ)」
「…思います」
「じゃあ、少しでも気分よくしてあげようとか思わないわけ?」
言ってることが無茶苦茶だ。
シンジは思ったが、病人の手前、口には出さない。しかし…。
ちらちらと、しきりにミサトのいるリビングの方を気にするそぶりを見せる。
「あーあ…わたしってかわいそう。こんなに具合悪い時に、お願いのひとつも聞いてもらえないなんて」
「わ、わかったよ」
「え? なに? きこえなーい」
「わかった。す、するよ」
「あっそ。じゃ、早く」
アスカは内心ほくそ笑んだ。
キスなんて簡単だけど、シンジの方からさせるのは、いつも骨が折れる。
まったく、意気地がないというか、気配りが足りないというか。
本来、向こうからするのが筋ではないか。
こいつは、男としての自覚に欠けている。「ん」
催促するように、アスカは少し唇をとがらせてみせた。
「……」
「……」
「……」
いらいら。
「…何よ」
「ちょ、ちょっと恥ずかしいから…目を閉じてもらえないかな、って」
乙女かこいつは。
「あんたねぇ…」
情けないことを言う奴には、もう少しいじわるしてやろうかと思ったが、このまま目を開けていては、いつまでもしてもらえそうになかったので、仕方なく目をつむる。
「ほら、これでいいでしょ」
「う、うん…じゃ、じゃあ…
あの、本当に目をあけないでね?」「わかったわかった」
……
………
…………
いい加減、待ちくたびれてきた頃、
ちゅ…
え?
ひんやり、とした柔らかい感触が、額のあたりにした。
えっ。
がばっと瞼を開くと、ぎゅっと目を瞑って、おでこにキスしているシンジの首筋が、至近距離にあった。
「なっ、なにしてんのよ! キスっていったら、口でしょ、口ぃ!」「えっ」
きょとん、として、シンジは、アスカと自分の手元を見比べた。
「熱が早く下がりますようにと思って…少しは冷たくなかった?」
シンジの手の中には、氷。さっきの即席氷のうの中から取り出したのだろうか。
もしかして、それを自分の唇に押し当てて冷やしてから…。
がばっ。
「〜〜〜〜〜〜〜っ、あんたバカ! 変! そんなんで冷たくなるわけないでしょ!」
うかつにも真っ赤になった顔を見られたくなくて、アスカは頭まで布団をひっかぶった。予想外の方向からの攻撃に、パジャマの下の胸が、早鐘を打っている。
耳が熱くて止まらない。
「アンタのせいで、余計に暑苦しくなったじゃないの、どうしてくれんのよ、このバカ、おバカ!」
「え、え?」
アスカにクリティカルヒットを放った少年は、そうとも知らず、氷を片手におろおろ。
こんなのでドキドキしてない!するわけない!
キスどころか、おでこにちゅ…くらいでぇ!シンジのくせに生意気すぎる!
シンジのくせにシンジのくせにっ!
治ったらおぼえてなさいよっ!
ますます熱が上がってきた気がする顔を布団に埋めながら、身悶える少女。
リビングでは──────────。
「なーにやってんだか」
廊下の向こうから聞こえてきたアスカの怒声に、したり顔で、ミサトが本日一本目の缶ビールに口をつける。
テーブルの上で、黒猫があきれたようにあくびをした。
(おしまい)