「追試 ∈ 日常あるいは平穏な日々。」

Written by みゃあ  

 

 

 

「フンフン…、フンフン…、フフーンフフーンフフー♪」

少し前を歩くアスカが、機嫌よく鼻歌を歌っている。

初夏の風は、まだ爽やかで、穏やかな日差しを時折きらきらと反射する彼女のセミロングの髪を、ふわりと揺らしている。

 

もう随分と前から、アスカに近寄りがたいものを感じる時がない。

むろん、体調やその他の要因で、ご機嫌斜めなことはあるが、そこに危うさや拒絶感といった負の感情はない。

会話が途切れても、無理に話題を探すこともない。

無言で肩を並べている時が、むしろ気持ちいい。

 

手を伸ばせばすぐ届くところに、アスカはいつもいてくれた。

そのことに、心の底からホッとしている自分がいる。

 

 

 

 

 

 

──────アンタ、家を出なさい。

 

そう言われたのは、確か2年前のある日。

まだ、第三新東京市にいた頃のことだ。

全ての使徒との戦いが終わった時、シンジにあったのは、喪失感と、茫洋とした未来への畏怖だけ。

彼の望みは叶えられたのに、皮肉なことに…。

 

ともすれば、厭世的になりかねなかったシンジに、アスカからの早々の宣告だった。

ひどく、うろたえたのを覚えている。

愛想を尽かされたのかと思った。

シンジは、ミサトのマンションから、近所のアパートの一室に移った。

時を同じくして、綾波レイも同様に、ミサトのマンションを出て、以前のように一人暮らしを始めた。

それが、アスカに何か言われての行動だったのか、シンジは知らない。

その後、時を経て、彼女はどういう経緯があったのか、赤木リツコと同居することになる。

突然の新生活に放り込まれたシンジだが、待っていたのは、何も変わらない日常だった。

アスカやレイは、シンジの家に頻繁に顔を見せたし、葛城家へも、度々お呼ばれした。

ミサトが留守の時には、レイの家で食卓を囲むこともあった。

結局、変わったことといえば、ミサトやアスカたちの世話をしなくなったことと、自分の時間が増えたこと。

「そうよ、あの女の面倒を一人で見るってんだから、私の涙ぐましい決意を、もっと褒め称えなさいよ!」

半分、ヤケクソのようにアスカが言っていたのを思い出す。

 

「アンタはね、もっと自分勝手に生きるべきなのよ。
 そうでなきゃ、釣り合いってもんが取れないんだから」

 

 

 

 

 


─────あれが、どういう意味だったのか。


当時はよくわからなかったが、今なら、少し理解できる気がする。

(希望を叶えて、希望を失っちゃうなんて、そんな馬鹿な話はないわよ。
 それじゃ、『あべこべ』だわ)

生きることは、望みを持ち続けること。

(アンタは究極のにぶちんだから、ずっと隣にいて、いつだって横っ面を張り飛ばして思い出させてあげる)

ここが、僕の居場所なんだってこと。

 

 

「フンフン…、フンフン…、フフンフフーンフフーン♪」

アスカは、相変わらず鼻歌を続けている。

その歌が、童謡の「アイアイ」であることに気づいて、シンジは、口元が綻ぶのを抑えられなかった。

幼児向けの歌詞の内容と、歩く速さでリズムを取りながらハミングするアスカのギャップ。


可愛い…。


急に、胸がどきどきし始めた。

アスカの金色の髪が揺れるたび、彼女の香りが、後ろを歩く鼻孔をくすぐる。
その甘いにおいに、胸が締め付けられる思いがした。

 

「アスカ」

「フフンフフーン…ん?」

首だけで振り向くと、彼女は鼻歌で返事をした。
シンジは立ち止まって、息を吐きだした。

 

「あの…キス、してもいい…?」

アスカの青い瞳が、大きく見開かれた。

 

いかにも、ぶしつけな物言いだっただろうか。
しかも、今は周りに人通りがないとはいえ、ここは往来。

何を言っているんだろう、僕は!

自分のあさはかさに、羞恥と後悔で、あっという間に顔中を血が駆けめぐる。

 

しかし、アスカが驚いた顔をしたのは瞬きする間だけで、すぐに、意地の悪い笑みを張り付かせた。

「ふーん。
 生意気にも、テストを受けようってわけね、シンちゃんは。
 上手くなったって、自信あるのかな〜?」

辛辣な言い方とは裏腹に、アスカの目は微笑んでいた。

 

(アンタって、本当にキス下手ねぇ。…もっと上達するまで、シンジからキスするの禁止)

そう言われてから、かれこれ数週間たっている。

「な、ないけど…
 今、したいんだ、アスカと…キス」

こうして話している間にも、シンジの衝動は抑えきれないほどになっている。
恥も外聞もかなぐり捨てて、シンジは言い放った。

 

大胆極まりないシンジの宣言に、アスカは体ごと振り向いた。

「…いいわよ。『追試』を許可します」

くすくすと、忍び笑いの気配を漂わせながら、アスカは両手でカバンを後ろ手に持ち、道の真ん中で仁王立ちする。

 

シンジは、喉の渇きを覚えて、一度、嚥下した。

そんな自分を、やや上目遣いで見つめる少女に近づき、二の腕に触れる。
そして、そのまま柔らかく、道路の端にいざなう。
アスカは、されるがままに移動すると、シンジの顔を覗き込んだ。

「ホントに、ここでするつもりなの〜だっいたーん」

あんたにそんな度胸あるの?
からかうような彼女の瞳が、そう言っている気がした。

シンジは構わず、カバンを置いて、肩に手をかけた。
一瞬だけ、ぴく、と震える。

「アスカ…」

「ん」

無意識に、呟きが漏れる。

彼女は、まっすぐに自分を見ていた。
二人の距離が近づくにつれ、その青い瞳の中に、自分の顔が映っているのが見える。
吐息が、お互いの顔をくすぐった。

微かに触れる鼻と鼻。

唇が重なり合った刹那、触れ合っているところから電流のような甘い痺れが走り、シンジは肩を震わせた。

鼓動が早い。

柔らかくて、温かい、女の子の唇。

何度しても慣れることはない。

その感触をもっと味わいたくて、堪えきれず、シンジは少しだけ顔の角度を変えて、アスカの上唇をついばんだ。

「……っ」

今度は、二人同時に震えが走る。

アスカの両手が、シンジの腰に回された。
衣替えを終えたばかりの夏服のブラウス越しに、彼女の膨らみが感じられる。

そうなると、もうだめだった。
理性ではなく情動が、シンジの脳裏を満たす。

二度三度、四度五度と、アスカの上と下の唇をついばみ、貪欲にその感触を求めた。
その隙間から、アスカの吐息が漏れ、それを感じるたびに、シンジは、もっと乱暴に彼女の口を吸いたくなる衝動に駆られた。

しかし、今のシンジは、何よりもアスカへの愛しさに満たされていた。

彼女の唇をつかまえたまま、思いを込めて、強く押しつける。
同時に、両肩を引き寄せた。

もっと、そばに来てほしい。
重なりあうくらい近くに。

このまま、融け合ってしまいたいと、強く思う。

息が苦しくなり、互いの唇が離れる頃には、シンジは熱に浮かされたように、真っ赤な顔で浅い呼吸を繰り返していた。

「今の…アンタ的には何点のつもりなの、シンジ?」

同じように顔を上気させたアスカが、いたずらっぽく尋ねる。

(え………?)

しかし、半ば、忘我の境にいたシンジは、目の焦点をアスカに合わせるのに精いっぱいで、思考がまとまらない。

(アスカ…きれいだな)

考えていたのは、全然別のことだった。
反応の鈍いシンジに、アスカはあきれたように吐息した。
少年の体を、ぎゅっと抱きしめる。

「じゃあ、同じようにしてあげるから、採点してみて…」

濡れた唇が、小さく囁いた。

「ほら…手はここ」

シンジの手を、腰へと導く。

「それで…こう」

アスカの唇が、ゆっくりと押し付けられた。
そして、先ほどシンジがそうしたように、優しくついばみ始めた。

(ぅわ…っ、何だこれ)

呆けていたシンジの頭を揺さぶり起こすほどの衝撃が突き抜けた。
アスカの唇にとらえられるたびに、頭の中が真っ白になっていく。

 

(アスカ…)

 

されるがままになりながら、シンジはぼんやりと思っていた。

彼女はなぜ、こんなにも自分を受け入れてくれるのだろう。

 

こうして、キスをしている今も、


初めて体を重ねた時も、


そして、エヴァと決別した、あの時も…

 

 

そういえば、いつの頃からか、アスカに「バカシンジ」と呼ばれることが少なくなった。


代わりに、鈍い、と言われることが増えた。


確かに、僕は鈍い。


本当のところ、僕にはアスカの気持ちがわかっていない。


肉体のつながりを持つ関係になった今でも。


それは、とても情けないことだ。


だけど…。

 

アスカ。


僕は、


僕は…

 


「こ〜ら…」

気がつくと、いつの間にか彼女の唇は離れ、不貞腐れたような顔が自分を覗き込んでいた。

「また、つまらないこと考えてるでしょ、シンジ」

「えっ…あ…」

返す言葉もない。

アスカの両手が、シンジの顔を両方から、そっと挟み込んだ。

「もう…。途中まで及第点だったのに、台無しよ」

「ごめん…」

うなだれるシンジの顔を、アスカは、くりくりと大きな目で眺め回した。

「自分なんかが、受け入れられていいのかな…、
 な〜んて考えてたんじゃないの?」

ハッ、とシンジは顔を上げた。

「ど、どうして…」

不安と怖れの入り混じった瞳の色を確認して、アスカは一瞬だけ、怒ったような顔をした。

「バカね」

その瞬間、彼女は、花が咲くように、屈託なく、満面の笑みを浮かべた。

「あたしには、アンタのことなんて全部お見通しなの。

 よく覚えときなさい。
 ごまかそうと、昔に逃げようとしたって無駄。
 あたしはアンタの全部を知ってる。
 アンタはもう、とっくの昔に…あたしのものなんだから」

 

高らかに宣言して、ぱちんと、シンジの頬をたたく。

それだけで、先ほどまで抱いていた少年の不安と葛藤は、すべて霧散していた。

ふわりと身を翻しながら、彼女は、あははと笑った。

 

シンジはただ、その姿に見惚れていた。

言葉の意味を咀嚼する暇もなく、先ほどの笑顔だけが、脳裏に焼き付いている。


「にぶちんのシンジ。
 まあ、自分からキスしたい、って言えたから、ギリギリ赤点は回避したことにしてあげる。
 けどね、まだまだ精進を怠らないことね。ちょっとやそっとのテクじゃ、あたしを満足させようなんて百万年早い…」

くるくると回りながら、お説教を繰り返すアスカの言葉が途切れた。


きゃっ、と小さな悲鳴が漏れる。


気がつくと、シンジは彼女の体を後ろから抱きすくめていた。


ああ。


「アスカ…」


僕は…


「なぁに」


たまらなく、この女性(ひと)のことが。


「…好きだよ」


初めて。
心から、そう言えた気がする。


「うん」


アスカは、そっと掌を重ねて、さっきと同じ顔で笑った。


「知ってる。ずいぶん前からね!」

 

 

 

 

 

(おしまい)


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