淀んだ鈍色の空を見上げていた。
今にも泣き出しそうな空。
でも、雨は降らない。
赤錆のようなあの色は、朝焼けか、夕焼けか。
瞳は乾いている。
それでも、見上げ続けた。
抗うように。
いつか、意地になって抱き締めていた、あのサルのぬいぐるみのことを思っていた。
どこからか、日だまりの匂いがする…。
「…またか」
目を開けて、アスカはため息をついた。
目と鼻の先に、規則正しい寝息を立てる水色の頭。
せっかく開いたまぶたを半分下ろして、寝起きとは思えない身のこなしで勢い良く上半身を起こす。
ボリボリと栗色の髪をかき回すと、うんざりしたように、その名を口にした。
「レイ」
寝息は、相変わらず規則正しい。
「レイ、起きなさいよ!」
その肩をゆさゆさ揺すると、ようやくまぶたの間に、紅い色が覗いた。
「あんたね…って、また目ぇ閉じるんじゃないわよ!起きなさいっての」
再び眠りの園に招待されかけたところを、腕を引っ張られて無理矢理起こされた彼女は、迷惑そうに目をこすりながら、アスカを見た。
「......なに」
「…そりゃ、こっちが言いたいわよ。なんで、あんたがここで寝てんのよ」
言われて、半開きの目で室内を見渡す。
「......部屋を間違えたわ」
「間違えたってねぇ…」
げんなりと、アスカは悪気のかけらもないレイの顔を見返した。
ちなみに、レイの部屋は廊下の手前、アスカの部屋はリビングの奥。
構造の同じ葛城邸でいえば、シンジの部屋とミサトの部屋にあたる。
これで、どうやったら間違えられるというのか。
「何回目よ、これで」
「確か......4回目?」
「数、数えろって言ってんじゃないわよ…」
ボケた答えに、アスカは思わず両手で髪をかき回す。
「あんたまさか、人恋しいとか言うんじゃないでしょうね。そういうのはミサトんとこ行ってやってよ…。
…それとも、バカシンジのとことかさぁ。あいつ、鼻血出してぶっ倒れるかもよぉ?
って、聞いてないし! ちょっとぉっ」
レイはさっさとベッドを降りて、背を向けている。
「アスカ」
戸口のところでピタリと足を止めたレイは、振り返った。
「な、なによ」
「......おはよう」
言い忘れてたから、とレイは付け加える。
アスカは根負けしたように、肩を落とした。
「…おはよ」
綾波邸の朝は、割と早い。
女には、身だしなみってもんが必要なんだから、当然よ!
…とは、アスカ談。
では、そんなことはお構いなしに、ぎりぎりまで惰眠を貪る某作戦部長は、彼女に言わせれば、もはや女にカテゴライズされないのかもしれない。
髪を整え、制服に着替えたアスカは、居間のソファで朝のTV番組をはしごする。
チャンネルがせわしなく変わって落ち着かないのは、性格の故か。
その背後、キッチンでは、やはり制服姿のレイの前で、ケトルがしゅんしゅんと湯気を上げている。
基本的に、食事は葛城邸で(シンジが)作るのだが、その前にお茶を一杯飲んでいく。
これは、レイが始めたこと。
アスカがこの家に来る前からの、習慣。
やがて、紅茶のいい香りが漂ってくる。
「......お茶、入ったわ」
「ん」
カップを受け取って、ズズッとすする。
天気予報の画面を見たまま、二口目。
「あんた、お茶入れるの上手いわね」
ソファにある後ろ頭を見やって、レイは自分のカップに口をつける。
ちらり、とした微笑みだったが、彼女は嬉しそうだった。
蛇足。
アスカの体内時計は、かなり正確無比だ。
起きる時間がくれば、しゃっきり目を覚ます。
逆に、それまでは大抵のことでは目を覚まさずにぐっすり。
非常に健康的といえるかもしれない。
それを知ってか知らずか、たまに早く目が覚めた朝、レイはアスカの部屋にやってくる。
部屋に入る。
ベッドの側に立つ。
寝顔を確認する。
あどけない寝顔だ。
腰を屈める。
おもむろに、右手の人差し指を伸ばす。
つん。つんつん。
「………」
アスカのほっぺたは、柔らかい。
ぷにぷにとした触り心地。
つん、つくつん。
「ん…」
むずかるように、アスカが寝返りをうつ。
身を起こす。
ベッドの反対側に回り込む。
再び、人差し指を伸ばす。
つん、つん。
「んむ〜…」
アスカが寝返りをうつ。
以下、繰り返し。
………。
十分ほども、アスカのほっぺたを堪能すると、どこか満足げにレイは部屋を出ていく。
別に、起こそうという意図はないらしい。
仏頂面のアスカがキッチンに入ってくる。
なぜか、ほっぺたをさすっている。
レイは、素知らぬ顔でお湯を沸かしている。
「なんかさ、ほっぺたがジンジンするんだけど」
「そう......」
「…アンタ、何かした?」
「知らないわ」
「………」
納得いかない、といった表情のアスカに、レイはいつものようにティーカップを差し出す。
「お茶......入ってるから」
最近のレイの、ささやかな秘密。
(つづく)