新世紀エヴァンゲリオン

■希望(ノゾミ)■

- Revision Edition -

作・みゃあ

 

命名「希望(ノゾミ)」side-Aside-Bside-Cこんにちは、赤ちゃん

ふたつの祝福〜父〜〜母〜最終話・希望


命名「希望(ノゾミ)」 side-A

 ▲

 

 

るーるるるー、らんらんりんら……。

 

温かい日差しの差し込む窓辺に座って、上機嫌のアスカが編み物をしている。

始めたばかりの頃は、毛糸と格闘しては挫折しそうになっていた彼女であったが、シンジに、

 

「生まれてくる赤ちゃんのためだろう?」

 

と、たしなめられ、どうにかこうにかさまになるようになってきた。まだ本を見ながら、ではあったけれど。

今では、純粋にそうしていることが楽しいらしく、今も無意識のうちに、ルージュも引かないのにピンク色の唇から、優しいメロディの歌が紡ぎ出されている。

 

いま編んでいるのは、小っちゃな小っちゃなクリーム色のセーターだ。

春先から編み始めるにしては、ちょっと季節外れだったが、いま編んでいるのも含めてあと二着、おそろいのセーターを編むつもりだったので、それが編み上がる頃には……という彼女の気持ちが看て取れた。

 

「ねえ、シンジ?」

 

歌を止めて呼びかける彼女のお腹は、もう随分と大きい。

 

「なに?どうしたのアスカ?」

 

キッチンで昼食の支度をしていたシンジは、ちょっと滑稽なほど慌てて、持っていた「おたま」を放り出してやってくる。

このところのシンジは、アスカのどんな些細な変化も見逃すまいと、神経をすり減らしている。事ここに至って、彼のメンタリティは、優しい青年から心配性の夫へと変化しているようだった。

 

心配そうな様子で駆けてくるシンジの姿を見て、アスカは、くすりと笑みをこぼす。自分より、よほどお腹の赤ちゃんを意識している彼の姿がおかしかったし、嬉しくもあったのだ。

 

とはいえ、彼女も近頃、ようやく母になるということを意識し始めていた。

懐妊を告げられた時、もちろん喜びはあったが、どちらかというと戸惑いの方が大きかった。

自分が母親になる……。

それは、少し前までの自分には考えられないことであった。

 

不幸にするくらいなら、幸せにできないくらいなら……子供なんていらない。

 

それが、彼女の精神の根幹には根づいていたし、かつてのトラウマともあいまって、一種、信念めいたものになっていたほどだ。

それが、こうも方向性を転じたのは、いま目の前で慌てている、夫となったひとのお陰だ。

シンジ。

この人が自分の全てを変えてくれた。

 

(いつでも、あたしを優しく包み込んでくれるひと……)

 

これは、何度確認しても良いことだろう。

シンジとふたりならば、子供を産みたい。

シンジとふたりならば、きっときっと幸せにしてあげられる。

シンジがあたしを、幸せにしてくれたように。

 

(そう、あたしはママになる……)

 

もちろん不安がないと言えば嘘になるが、今は誇らしさの方が大きい。期待と喜びの方が大きい。

まして、一緒に支えてくれるシンジがいてくれるならば。

 

気がつくと、シンジは、相変わらず心配そうな顔で自分を覗き込んでいる。

黒瑪瑙(めのう)のような瞳と、視線が合う。

シンジの線の細さは相変わらず。女性と見間違えられる時が未だにある。

 

「違うのよ。……名前、決まったかな、と思って」

 

シンジは、ほっとため息をつくと、ちょっと困ったような顔をした。

頭の後ろを掻きながら、申し訳なさそうに答える。

 

「ごめん、実はまだなんだ……どうしても、これ、っていうのが浮かばなくて……」

「もうっ、しっかりしてよシンジ。シンジもパパになるんだから」

 

アスカは、やっぱりね、と軽くため息をついて、ちょっとからかうようにシンジを見る。案の定、シンジは頬を軽く上気させて呟く。

 

「パパ……パパか……」

 

言ってうつむく。

これが照れているんだ、と最近知るようになった。

何よりも赤ちゃんを喜んでいるのはシンジ。

いつも通り、いや…いつもより更に優しい。

 

結婚して、一緒に家事をするようになった二人だが、いまシンジは、アスカに何もさせてくれないのだ。

 

「ふふ……あっ!」

 

微笑みを向けていたアスカが突然声を上げたので、シンジは慌てて妻を見る。

 

「ど、どうしたの?」

 

またも心配そうなシンジに、アスカはいたずらっぽく、しかしどこか誇らしげに微笑んだ。彼女の少し伸びた栗色の髪が揺れる。

 

「……今ね。赤ちゃんがおなかを蹴ったの」

「え………」

 

呆けたような顔のシンジ。

アスカはそんなシンジの手を強引に取って、自分のおなかに導いた。

 

「あっ……」

「ほら……また」

 

言って、少女のように無邪気に微笑むアスカに、シンジは表情を変える。

それを見たアスカは、思わずどきっ、とさせられた。

シンジの顔は、すでに父親のそれであったのだ。

 

「………ホントだ」

 

静かにそう言うと、アスカのおなかを優しく撫でた。

 

少女の頃はスレンダーといっても良かった体は、より女性らしい丸みを帯びてきたように思える。

それでいて、少女の純粋さと美しさは、少しも変わることがない。

 

シンジは、アスカのおなかにゆっくりと耳を当て、もうひとつの心音を聞こうと目を閉じた。

そんなシンジを愛おしげに見つめたアスカは、おなかにシンジの体温を感じながら、そっと夫の頭に手を置いた。

 

とくん……。

 

とくん……。

 

とくん……。

 

次第に重なり合って行く三つの鼓動。

いつしかシンジとアスカは、そのまま眠りに落ちる。

 

遠くで赤ん坊の笑い声が聞こえた気がした。

 

穏やかな春の午後……。

 

 

命名「希望(ノゾミ)」 side-B

 

 

 

その日は、あいにくの雨だった。

梅雨入りも間もない時期なので、文句を言っても始まらないが、この日はシンジにとって、そして、もちろんアスカにとっても特別な日になるばずだった。

 

「ちょっと落ち着きなさいよ、シンちゃん」

 

手術室の前をうろうろと行きつ戻りつしている新米の夫に、ミサトがつとめて明るい声で笑いかける。

シンジは、色白の顔をさらに蒼白にしている。眉間には深い皺が刻まれ、表情はこれから死地に赴く戦士のごとくであった。

 

「そういうもんじゃないだろ、葛城。シンジくんにとっては初めての子供なんだ、心配で当然だろう?」

 

同じく、付き添いに来ていた加持が、ミサトをたしなめる。相変わらずの無精ひげを右手で撫で回しながら。

 

「あ〜ら、あんたはあたしの初めての時、随分落ち着いてた…っていうより、まるっきり動じてなかったんじゃないの?」

「そんなことはない。オレだって不安で一杯だったさ」

 

訝しげなミサトをさらりとかわす加持。

 

そんな二人は、すでに二児の親だ。

結婚しても互いの呼び方が変わらないのは、一つには、ミサトが夫婦別姓を主張したからである。今でもシンジやアスカの前では、頑として以前の呼び方を加持に強制している。

おそらく照れがあるんだろう、とシンジが思うのは、彼らがいないところでは、「ミサト」「リョウジ」と呼び合っているのを知っているからである。

 

「……ありがとう、加持さん、ミサトさん。二人がいてくれるから、とても助かります。一人じゃ……きっと耐えられなかっただろうから」

 

シンジは、二人が気遣ってくれていることに気付き、できるだけ明るい表情をつくってそう言った。

その言葉には、まったく偽りなかった。二人が陰ながら支えてくれるので、シンジは、なんとか落ち着きを保っていられるのだった。

 

(シンジくん……大人になったわね)

 

シンジの言葉を聞いたミサトはそう思った。

ああいった言葉がすんなり出てくるというのは、間違いなく彼の成長の証だろう。

長いこと、彼とアスカの家族の一員であった彼女は、感慨深げな視線を向けた。

 

「シンジくん……少し休んだらどうだい。顔が真っ青じゃないか」

 

加持は、傍目には、今にも倒れそうなシンジの側に寄って、肩を叩いた。

 

「ええ……でも」

 

シンジは疲労しきった顔で加持の顔を見、次いで手術室の上のプレートを見上げた。

「手術中」

そこには、その文字が赤いランプの光に浮かびあがっている。

その凶々しい色が、余計にシンジの焦燥と不安を駆り立てるのであった。

 

 

先ほどまで、シンジはアスカの側で分娩に立ち会っていた。

次第に荒くなる呼吸。

おそらく想像を絶する苦痛が襲っているのだろう。側にいるシンジに心配をかけまいと、健気に笑ってみせるアスカだったが、額に浮かぶ大粒の汗がそれを物語っていた。

 

シンジは、そんなアスカの苦痛を少しでも和らげようと、彼女の呼吸に合わせながら、その汗ばんだ白い手をしっかりと握っていた。

 

シンジの無言の励ましを受けたアスカは、幾分楽になった様子で、夫に呼吸を合わせている。

怖れるものは何もなかった。

愛する夫が、自分を勇気づけてくれるのだから。

 

しかし。

事態が急転したのは、午前3時を回ったころだった。

 

「逆子だ……」

 

担当医の言葉が、シンジの心に鋭い棘となって突き刺さった。

「逆子」

その言葉がシンジの頭の中でぐるぐると回る。

 

アスカの呼吸は限界に近い。

意識も朦朧としているようで、時折小さく、

「シンジ……」

と愛する夫の名を呼ぶだけである。

 

「このままでは危険ですので、帝王切開を行います。……すぐに手術室の方へ」

 

その後は、あまりにも事態が早く進んだので、よく覚えていない。

ただ混乱した状態の中で、アスカの名前だけを呼んでいた。

この手術室へと運ばれる間も、ただただ苦しそうなアスカの顔を見守るだけだった。

 

 

「……やっぱり僕……」

 

うつむき、頑迷に休むことを拒むシンジに、加持はため息をついた。

このままでは、アスカよりもシンジの方が参ってしまう、と何とか説得にかかる。

 

「シンジくん。君が過労で倒れることを、アスカが望むと思うかい。それに……無事出産を終えた彼女に、そんな憔悴しきった顔を見せるつもりか?」

 

そう言われて、シンジは再び加持の顔を見た。

彼の顔は穏やかだったが、シンジを休ませようという揺るぎ無い意志を窺わせていた。

ミサトは無言で、そんな二人の様子を見守っている。

 

シンジは折れた。

こんなにも頼れる相手がいることが、今は嬉しかった。

しかし同時に、彼らにこんなに気遣いをさせてしまう自分が腹立たしくもあった。

 

「……分かりました。何かあったら呼んで下さい」

 

言ってシンジは弱々しく微笑む。

長椅子に腰掛けると壁にもたれ、すぐさま寝息を立て始めた。

 

「本当に疲れてたのね……」

「ああ……ここ数日の間、ろくに寝てなかったんだろう」

「昔から気ばかり遣う子だったけど、こんなに心配性だとは思わなかったわ」

「フ……それだけアスカが大事なんだろう。もう二人は、お互いなくてはならないパートナーなのさ。そのことに気付けば、シンジくんももう少し楽になるさ」

 

加持の言葉に、ミサトは無言で頷いたのであった。

 

 

 

シンジはずっと自分を責め続けてきた。

幼い頃からずっと。

自分はいらない人間だと。

自分は無価値な人間なんだと。

 

そんなものを吹き飛ばしてくれたのがアスカだった。

「あんた、バカぁ!?」

その言葉は、いつもシンジの心の迷いを打ち払ってくれる。

悩んでいること・こだわっていることが、とてもくだらないことに思えてくる。

彼女の笑顔はシンジの中で、次第に「かけがえのないもの」になっていった。

 

「護るべきもの」を見出して、シンジは強くなれた。

ふたりで手を携えることによって、どんな困難にも立ち向かえた。

彼女の存在はいまや、シンジのこころの「希望」そのものだった。

 

……それが今、彼女が苦しんでいる時に何もしてやれない。

側にいてやることすら叶わない。

 

シンジはそんな自分を不甲斐なく思うと同時に、怖れていた。

自分がアスカにとって必要な存在なのかどうかを、だ。

 

彼の精神の根底にあるのは、「棄てられる」ことへの恐怖である。

自分が役たたずの人間で、誰からも必要とされないのではないか。

どんなに信じていても、いつかは棄てられるのではないか。

 

アスカに出会い、愛し合い、結婚して、すっかり消えていたはずのその恐怖が、アスカの出産、しかも通常とは異なる手術によっての、という事態に直面して、再び顕在化したようであった。

数日に渡る疲労に、精神が失調状態にあったためかもしれない。

 

もしも、この場にアスカの笑顔があったのならば、彼の不安はとたんに霧散したに違いない。

自分がアスカをどれほど愛しているか。そしてアスカがどれほど自分を必要としているか。

そのことを、彼はこの時忘れていた。

 

ただアスカと、生まれてくる子供の無事を祈ることしかできない自分を呪いながら、彼は深い眠りの谷へと落ちていった。

 

 

命名「希望(ノゾミ)」 side-C

 

 

 

寒い。

……寂しい。

ここには何もない……。

あるのは暗闇だけ。僕の心の闇だけ。

 

光が見えないよ……アスカ。

アスカ……!

 

 

……………。

……………。

 

 

ふふ……うふふ……。

ふふふ……。

 

 

……どこかで笑い声が聞こえる。空耳だろうか……?

 

 

ふふ……うふふ……。

ふふふ……。

 

 

いや、確かに……いたずらっぽい、含み笑い。

 

だけど……どこか、懐かしい感じがする。

 

うふふ……ふふ……。

 

「ん………」

 

シンジは、温かな息吹を至近に感じて、ゆっくりと目を開けた。

息のかかるくらい目の前に、小さな顔があった。

あまりに近くにいたので、シンジの心臓は大きく一度、鼓動を鳴らした。

 

ふふ……やっと、起きた。

 

「えっ!?」

 

見覚えがあるようで、見覚えがない。

少しだけ色素の薄い黒髪。

白皙の、と表現するのが相応しい肌。

しかし、そこだけ花が咲いたようにほの赤いほっぺ。

 

ふしぎな少女が、濃紺の瞳でシンジをのぞき込んでいた。

彼女は、好奇心に満ちた瞳を輝かせ、口元からはいたずらっぽい笑みがこぼれている。

この闇の中にはまるで似つかわしくない。

彼女は今、この闇の中で中心をなすものだった。自ら輝きを発するもの。

 

「君………」

 

ふふ……。

 

シンジが目を覚ましたのを確認すると、少女は満面に花のような笑みを浮かべた。

シンジはその笑顔の中に、自分のちっぽけな苦悩が跡形も無く融けていくのを感じていた。不思議な感覚……。全てを許し、委ねてしまうような。

屈託の無い、無邪気な少女の笑み。

……それはまさに、シンジの疲労した心の暗闇を照らす「希望」のように輝いていた。

 

ふふ……きて!

 

突然少女は立ち上がると、シンジにも立つことを促すように、ぴょんぴょん飛び跳ねた。

つられてシンジが立ちあがると、少女は返事も待たずに駆け出した。

 

「あっ………!」

 

慌ててシンジは後を追い始める。

彼女の光り輝く笑顔は、この暗い心のトンネルを抜けるための、唯一の光源だったからだ。

 

ふふ……あはは。

 

少女は、楽しそうな笑い声を上げながら、一定の距離を保って駆けて行く。

彼女の後を追いながら、シンジは不可思議な既視感を味わっていた。

 

いつか、こんな風に誰かを追いかけたことはなかっただろうか?

 

それと同時にシンジの胸には、アスカの顔が見たいという切実な欲求が生まれ、少女に追いつくことができれば、その願いが叶うのではないかという予感、というより確信があった。

 

アスカ。

アスカ……。

アスカ……!

アスカ!

 

……やがて、やはり唐突に少女は立ち止まった。

 

そこは既に暗闇の支配する場所ではなかった。

シンジはいつの間にか、暗いトンネルを抜けていた。

雨上がりの陽光のように差し込む光の下で、振り返った少女の笑顔が、天使のように輝きを増した。

 

はいっ……!

 

肩で息をするシンジに、少女は勢い良く右手を差し出した。

シンジは、もはやなんのためらいもなく、その小っちゃな手を握り返していた。

少女はちょっと照れたように、えへへ、と笑って頬を染める。

 

温かい手だ。

母のような…恋人のような…娘のような…。

 

そして少女はシンジを見て、最高の笑顔を浮かべる。

 

パパ!

 

瞬間。その笑顔がアスカの微笑みと重なった。

 

ああ、そうか……。

シンジは例えようも無く幸せな気持ちになりながら、少女に微笑みを返した。

 

どこかで、自分を呼ぶ声が響いていた。

遠く……近く……。

さざなみが海岸をあらうように……。

 

 

……………。

……………。

 

 

「……ンジくん……」

「ん……」

「シンジくん」

 

目を開けると、加持が自分を呼んでいた。

加持の顔は、明るく輝いている。シンジが目を開けると、真っ先に言った。

 

「………加持さん」

「シンジくん、おめでとう!生まれたよ」

「……女の子でしょう?」

 

シンジの言葉に、加持は少し驚く。

 

「よく分かったなぁ」

「……なんとなく、そんな気がしたんです」

 

そう言って立ち上がったシンジの顔を見た加持は、今度ははっきりと驚きの表情を浮かべた。

まだ多少疲れのあとは見られたが、シンジの表情は先ほどまでとはまるで違っていたのだ。

穏やかな……そう、とても穏やかな目をしていた。何かがふっきれたように。

加持の見る限り、それはりっぱに父親の顔であった。

 

「アスカは赤ちゃんと一緒に病室の方にいる。今はミサト…葛城がついてるよ。早く行ってやれ」

 

礼を述べて、廊下を急ぐシンジの後ろ姿を見送りながら、加持はひとり呟いた。

口元に穏やかな微笑の気配を漂わせて。

 

「……シンジくん、少し変わったな」

 

 

病室の前では、シンジが来るのを予期していたようにミサトが待っていた。

彼女も、シンジの表情の変化に気付いて少し驚いたが、やがて満面の笑みとVサインでシンジを迎えた。

 

「手術は無事成功。母子ともに健康よん!やったネ、シンちゃん」

 

彼女らしい祝福の言葉に、シンジは笑った。

 

「ありがとうございます、ミサトさん」

「はやく!早く会ってきなさいよ。そしたら、あたしにも抱かせてね。最初の対面をしちゃったから、抱っこするのは遠慮してるんだから」

 

気を利かせたのか、ミサトはそのまま中には入ってこなかった。

シンジは気持ちを落ち着けて、ゆっくりとドアをくぐる。

 

「シンジ……!」

 

栗色の髪。アクアマリンの瞳。

そこには、彼が望んでやまなかった、愛しいアスカの笑顔があった。

まるで何年も会えなかった恋人に、やっと会えたような気持ちに、シンジの胸は高鳴った。

アスカは両手を広げて、愛する夫を迎える。

 

「アスカ……」

 

シンジはゆっくりと彼女の横たわる寝台に近付くと、優しく髪を撫でて、妻の健闘をねぎらった。

 

「よく、がんばったね」

「ん………」

 

アスカは疲労困憊の様子ではあったが、血色は良く、シンジの手の感触を気持ちよさそうに確かめていた。

そして、ふとシンジの顔を見上げたアスカは、やはり少し驚いたような顔になる。

 

「シンジ……」

 

シンジの顔には、憔悴のなごりが残っていたが、それに気付かせないほどに優しい、そして穏やかな表情があった。

アスカが驚いたのは、シンジの顔に全くの迷いがなかったかもしれない。

 

「なに……?」

「シンジ……なんだか逞しくなったみたい」

 

アスカははにかんで、夫の変貌をそう評した。そして嬉しそうに頬を染める。

シンジは穏やかに笑った。

 

「ね……見て。あたしたちの赤ちゃんよ」

 

とたんにアスカは母親の表情になって、隣の寝台を指差した。

シンジは逸る気持ちを抑えながら、ゆっくり、ゆっくりと視線を向ける。

 

そこには予想通り、時に栗色の光を反射する黒い髪と、濃紺の大きな瞳を恐れげもなく輝かせる、小っちゃな愛らしい赤ちゃんがいた。

 

シンジは初めおそるおそる、そして慎重に、まるでガラス細工の人形を扱うように、娘を抱き上げた。

 

「……あったかい」

 

知らず知らずの内に、涙がこぼれた。

新しい命。

自分とアスカの大切な子供。

そして。

ふたりの希望………。

 

「女の子よ。シンジ……名前は決まった?」

 

娘を抱く夫の顔を、アスカはまぶしそうに見つめる。

アスカの期待を込めた言葉に、シンジは振り向いた。

かけがえのない娘を抱いて、何よりも大切な妻、アスカの顔を。

 

「うん。決まったよ……」

 

シンジは、春の日だまりのような笑顔で答えた。

彼の表情には、もう一片の曇りもなかった。

 

やがて、元気な赤ん坊の泣き声が、夜明けの光が射し込み始めた病室に響き渡った。

ミサトと加持が訪れた時、新しい家族を加えたシンジとアスカは、幸せそうに見つめ合っていた。新しい命を抱いて。

 

いつの間にか、雨は上がっていた。

 

 

―――――――――――命名「希望(ノゾミ)」。

 

 

こんにちは、赤ちゃん

 

 

 

「べろべろべろばあ〜!」

 

「ぷっ……」

「……トウジ、それじゃ赤ちゃんが脅えるよ」

 

赤ん坊をあやすトウジの顔があまりにもおかしくて、シンジは必死に笑いをこらえ、ケンスケはあきれた様にため息をついた。

 

「そうよ、トウジ!そんな恐い顔したら、ノゾミちゃんが恐がるでしょ!」

 

キッチンでアスカの手伝いをしていた―――というか、まだまだ危なっかしい手付きのアスカを指導していたヒカリが、居間の様子を見かねて大声を上げる。

 

「う、うるさいわい!」

 

しかし、ヒカリたちの心配をよそに、シンジに抱かれたノゾミはきゃっきゃっ、と楽しげな笑い声を上げている。

 

「見てみい、ノゾミちゃん笑っとるやないか。……しかし、ほんまに可愛いのぅ、ノゾミちゃん」

「うん……」

 

シンジは腕の中の娘の体を優しく揺する。

あやすトウジと同じく、シンジの目尻も下がりっぱなしだ。

 

「良かったのぅ、ノゾミちゃん。アスカに似んで」

「……どういう意味よ」

 

キッチンで材料と格闘していたアスカは、背を向けたまま低い声を出した。

シンジと結婚して丸くなったとはいえ、往年の迫力はまだまだ健在だ。むろん、シンジの前では借りてきた猫のようにおとなしくなってしまうのだが。

 

「目ぇなんぞシンジにそっくりやな。アスカに似とったら、えらいキョーアクになってたところや」

 

トントントントントント……。

 

連続して響いていた包丁の音が止まった。

アスカは無言のままであったが、背中に怒りのオーラをまとわりつかせている。

その迫力は、側にいたヒカリが思わず半歩後ずさったほどである。

自分のことを言われただけなら、今更こんなに過敏に反応することはなかったであろう。しかし、娘のこととなると話は別である。

なにしろ愛するシンジとの愛の結晶なのだ。

それに自分では気付いていないのかもしれないが、アスカもかなりの親馬鹿であった。

 

「……なんですって」

 

ほとばしる殺気。

 

「ま、まあまあアスカ。トウジもそのくらいにしてくれよ」

「そうよ、トウジ!なに失礼なこと言ってるのよ!」

 

ヒカリも同調し、トウジは渋々ながらも口をつぐむ。

アスカはなお不満そうであったが、シンジに言われた手前、これ以上言うわけにはいかない。

と……、 

 

「僕にとっては、最高の奥さんなんだから……」

 

シンジがなんのためらいもなくそう言ってのけた。

のろけというにはあまりにも真剣なその一言に、ヒカリは抱えていたザルを取り落とし、トウジとケンスケは同時に床に突っ伏した。ただ一人、アスカだけは頬を染めつつも、満足げに包丁の動きを再開する。

 

「……お前、よく真顔でそういうこと言えるよな」

「ノロけられる方の身ぃにもなってみい!全身かきむしりたくなるわ!」

 

なんとか立ち直った二人はシンジに詰め寄る。

 

 

「……うらやましいな、アスカ。こんなに碇くんに愛されてるなんて」

 

取り落としたザルを拾い上げつつ、ヒカリは幸せそうなアスカの背中に向かって呼びかけた。

 

「なに言ってんの。ヒカリにはあのトウジがいるじゃない」

「う、うん……」

 

ちょっと冷やかしてやろうと思ったヒカリだが、反対に冷やかされて頬を染める。

トウジとヒカリの二人は先日式を挙げたばかりの新婚ほやほやだ。

ついついトウジと話す時に、声が大きくなってしまうのは、ぎこちなさを誤魔化すためだった。

 

ヒカリがそっと見つめる先では、相変わらずトウジがノゾミをあやしている。

 

「ホンマに可愛いわ!ワシ、赤ん坊がこない可愛いなんて知らんかったわ」

「トウジが子煩悩か……分からないもんだね」

 

ケンスケがしたり顔で論評するものだから、シンジは思わず笑みをこぼしてしまう。

この3人の雰囲気は、以前と全く変わらないものだった。

三バカトリオと呼ばれていた頃から……。

 

「ワシらも早う、子供が欲しいなヒカリ!」

「……なっ、何言ってるのよ……バカ」

 

大声で呼び掛けるトウジに、ヒカリは真っ赤になってうつむく。

その姿を横目で見たアスカは、クスリと笑みをこぼした。

 

その時、ノゾミが元気良く泣き出した。

 

「あらあら、大変……」

 

アスカは包丁を置くと、エプロンで手を拭いながらシンジの元へ歩み寄る。

その後ろ姿をヒカリが眩しそうに見送ったのは、アスカの背中が既に母親のそれであったからだ。

 

シンジは、優しく娘をあやしながら、妻にバトンタッチする。

その仕草がなんとも自然で、隣にいたケンスケとトウジは思わず呆けたように、二人の姿を見つめてしまう。

 

「お〜よしよし。ノゾミちゃん、おっぱいが欲しいのね。待っててね、今あげるから……」

 

アスカはノゾミを抱き上げて隣室へ向かう。

 

『おっぱい……!?』

 

まさにキラーン、といった感じで、トウジの目とケンスケのメガネが光る。

この辺はまだまだ三バカトリオののりである。

 

「な、なあシンジ。おっぱいってことは……アスカが乳、やるんかいな?」

「え?う、うん。そりゃ当たり前だろ」

「あ、あのアスカが……」

「くぅ〜!想像できへんわ、覗いたろか!?」

「だっ、だめだよそんなの!」

 

瞬間。思わず立ち上がってシンジは叫んでいた。顔を真っ赤にして。

きょとん、とそんなシンジの様子を見た二人は、同時に吹き出した。

 

「あははははっ!冗談だよシンジ、そんなことするワケないだろ?」

「そうや……誰がそんな非常識なことするかいな」

「えっ……あ……」

 

気付いてシンジは、さらに赤面した。

ことアスカのこととなると、シンジには冗談ではすまなくなるらしい。

 

「ホント……シンジはアスカのことが大事なんだな」

 

不意に、ケンスケは穏やかな顔でシンジを見た。

そして少し遠い目になる。

 

「……思い出すよ。オレたちが初めて会った時のこと。シンジ……あの頃はいつも孤独な目してたもんな」

 

ケンスケの言葉につられたように、トウジも真顔になる。

 

「それが今や、アスカと結婚して一児の親やもんなあ……ホンマ、良かったのうシンジ」

「トウジ、ケンスケ……。ありがとう」

 

シンジの口からは、とても素直にその言葉が出ていた。

そこにも、二人はシンジの成長のあとを見て取っていた。

ヒカリはアスカに代って料理を続けながら、かつて三バカトリオと言われた三人の会話を、背中で聞いていた。

 

ピンポーン。

 

その時、不意にチャイムが鳴った。

 

「あ、ミサトさんと加持さんかな?」

 

彼女ら二人も、今日の昼食会に呼んである。時間より少し早いが、しっかりものの加持がミサトを引っ張ってきたのかもしれない。

穏やかな気分に浸っていたシンジは、隣室のアスカに声をかけてから、二人を残して玄関へと向かう。

 

しかし……。

ノブを回し、扉の向こうに思いもかけない人物の姿を見とめたシンジは、硬直する。

シンジの見開かれた目は、濃いひげを生やした男の顔を凝視していた。

 

「………父さん………」

 

 

ふたつの祝福〜父〜

 

 

 

「………父さん………」

 

シンジにはその後につぐべき言葉が何もなかった。いや、それどころか、何かを考えることすら困難であった。

 

父。ゲンドウ。

 

もう4年も会っていない。 

別れの際にも、それらしい言葉はなかった。

結婚式にも、ノゾミ誕生の際も連絡だけはした。

しかし、それも全てアスカの提案によるものだった。

 

シンジは父が決して来てくれないだろう、と思っていた。そしてそれは正しかった。

結婚式の、祝福をくれた参列者たちの中にも、かわるがわるにノゾミを抱く優しい笑顔の人々の中にも、ゲンドウの姿を見ることはついになかったのである。

 

父さん………。

 

久しぶりに見た父の顔は、あまり変化がないようにシンジには見えた。最後に別れたあの時のまま。

 

「久しぶりだな。シンジ……」

 

父の声。

冷徹で、感情を窺わせるもののない言葉。あの頃と全く同じ……。

シンジは激しく戸惑っていた。

 

なぜここに父がいるのか?なぜ今ごろになってここに現れたのか?

 

本心から言えば、彼は嬉しかった。心の底から嬉しかったのだ。

なにしろゲンドウの方からシンジを訪ねるのは、これが初めてであった。

だが、父の冷静な顔を見た時。

冷徹な声を聞いた時。

シンジは4年間、いや、生まれてから今まで溜め込み続けた父への激情を迸らせていた。

 

「なにしに来たの、父さん。……何をいまさらなんだよっ!」

 

最初は、静かに言うつもりであった。しかし、言い募るうちに激情は一層高まり、シンジはいつのまにか叫んでいた。

 

「4年間も放っておいて……いや、ずっとその前から放っておいて、何をいまさらなんだよっ!なんで今なんだよ!?」

「……………」

 

ゲンドウは、無言であった。

無言でシンジの激しい視線と糾弾を真っ向から受け止めていた。

 

「はぁはぁはぁはぁ………」

 

シンジの目には、いつのまにか涙が滲んでいた。父の顔が彼の視界の中で歪む。

シンジは父と、そして己に素直になることのできない自分に腹を立てていた。

情けなかった。

シンジの叫びを聞きつけたのか、ケンスケ、トウジ、ヒカリの三人が、心配そうに玄関を覗き込んだ。

 

「あれは……」

「シンジのオヤジさんとちゃうか……?」

「うん……アスカに写真を見せてもらったことがある。碇くんのお父さんよ」

「なんで、今ごろ……」

 

ケンスケとトウジが、シンジと同じ疑問を漏らした時、彼らを押しのけるようにして一人の女性が進み出る。

我が子ノゾミを抱いたアスカであった。

アスカはノゾミを抱いたまま、さらに一歩踏み出すと、玄関先で立ちすくむ2人に向かって呼び掛けた。

 

「シンジ……」

 

「……あんたバカァ!?……どうしてお父さんに対してだけ素直になれないのよ!あたしにはこんなに心を開いてくれるようになったじゃない。みんなには心を許すようになったじゃない。……なのに、なぜお父さんにだけは素直になれないの、シンジ!」

 

その時のアスカは、今までシンジが見たこともないような、真剣で誠実な顔をして立っていた。

シンジは半ば呆然と、そんな妻の姿を見つめる。

 

「アスカ………」

 

「………僕は………」

 

それきりうつむいて拳を握り締めるシンジ。

その様子に我慢できなくなったように、アスカは二人の前まで歩いていった。

こちらを見るゲンドウを真っ向から見据え、そして言う。

 

「はいっ!……あなたの孫よ、おじいちゃん」

 

そしてノゾミをゲンドウの眼前に差し出す。

シンジはあまりのことに声もなかった。ただ、心拍数が上がっていくのを意識しながら、父と娘の様子を見守る。

一方のゲンドウも、全く意外なことに、この時、一瞬だけ驚いたような顔を見せた。

しかしそれもほんの一瞬のことで、再びいつもの表情のまま、眼鏡越しに「孫」にあたるノゾミを見た。

 

「……あかん。ノゾミちゃん泣き出すんとちゃうか?」

「うん………」

 

トウジたちが思わず額に手を当てる。

シンジも全く同じことを想像していた。

ノゾミは泣き出し、父とはそれで終わり。

そんな恐怖がシンジを襲っていた。そしてこの時シンジは、初めて思ったのだ。

 

父さんと離れたくない!

 

それがシンジの本心であった。父に認められたい。父に誉められたい。父に祝福してほしい。

20数年間。それはシンジが追い続け、求め続けたものであった。

それが壊れてしまう!このままでは跡形もなしに……!

シンジは恐怖に歪んだ目で、ノゾミを見た。

 

しかし………。

 

「ふふふふ……きゃっ、きゃっ!」

 

ノゾミは笑っていた。

楽しそうに。嬉しそうに。

そしてノゾミはゲンドウのひげに手を伸ばして、それを小さな手で弄んでいた。

 

「!………」

「…………」

「……ホンマかいな……」

 

一堂が絶句する中、アスカだけが、満面の笑みを浮かべていた。

まるで、こうなることが分かっていたかのように……。

 

「…………」

 

しばらくひげを弄ばれていたゲンドウは、やはり表情を変えないまま、ノゾミの手を取った。

ゲンドウの大きな手を、ノゾミが必死で握り返す。

そのまま、しばらく無言でノゾミを見つめていたゲンドウは、不意に口を開いた。

 

「……シンジ。この子の名は……?」

「……えっ……」

 

何を言われたのか、とっさにシンジには分からなかった。

呆けたように父の顔を見返す。

 

「ほら、あたしたちの赤ちゃんの名前よ、シンジ」

 

見かねたアスカが、シンジを促す。

 

「あ!?……あ、ああ………ノゾミ。「希望」と書いてノゾミ」

 

まだ混乱しているような顔で、シンジはしどろもどろになりながら答えた。

 

「……ノゾミか」

 

ゲンドウはノゾミの手を握ったまま、もう片方の手を孫の頭に置いた。

 

「良い名だな。その名の通り……幸せにしてやれ」

「え………」

 

今度こそ、シンジにはゲンドウが言った言葉が分からなかった。

 

父さん?

 

父は今なんと言ったか。ノゾミを見て何を言ったか。

 

父さん……今、なんて?

 

しかしゲンドウはそれ以上何も言わず、ゆっくりとノゾミの手を離すと、そのまま踵を返した。

あわてたアスカがその後ろ姿に呼び掛ける。

 

「あっ!お義父さん、また来て下さい!必ずですよ!」

 

シンジはそんな父の後ろ姿を端然と見送った。

 

『良い名だな。その名の通り……幸せにしてやれ』

 

「幸せに………」

 

シンジは同じ言葉を繰り返した。

 

「父さん……」

 

不意に涙がこぼれた。

シンジの心を温かくて、穏やかなものが満たしていく。

幸せに。

それは父がはじめてくれた祝福の言葉。

シンジはいつのまにかアスカにすがって泣き出していた。

 

「………アスカ……父さんが…父さんが、ノゾミを幸せにって……父さんが」

「……良かったわね。シンジ」

 

ノゾミを片手に抱いて、シンジの背中をやさしくさするアスカの顔はまるで聖母のようであった。

そして温かい涙を流し続けるシンジの頬をノゾミが撫でていた。

 

父さん……。

分かったよ。必ず……。

必ず幸せにするよ。そして……幸せになるよ、僕。

 

とめどもなく溢れる涙と激情の中で、シンジはそう父に誓っていた。

ケンスケとトウジとヒカリの三人は、その様子に思わずもらい泣きしていた。

 

 

 

「……久しぶりの対面は終わったかね」

 

マンションを出ると、そこには冬月が待っていた。

 

「ああ………」

 

ゲンドウはいつものように、そっけなく答える。しかし、その声はどこか満足げであった、と思うのは、さて冬月の錯覚であるのか。

 

「心配ない……あの子は幸せになるさ。私と同じ失敗を、シンジは繰り返すまい」

「……そうか」

 

冬月は少し驚いたような顔でゲンドウを見た。

 

「そう、幸せになるさ………」

 

再び呟いたゲンドウに、冬月は言う。

 

「お前とシンジくんも……まだ遅くはないぞ」

「…………………ああ」

 

返答まで時間があったが、確かにゲンドウは頷いた。

 

碇は気付いているだろうか?自分が笑っていることに。

冬月はそんなことを考えながら、ゲンドウの背中を穏やかな顔で見守っていた。

 

 

その頃、ゲンドウが置いてきたレイが、碇家のチャイムを鳴らしていた。

 

 

ふたつの祝福〜母〜

 

 

 

 

水色の髪の少女(彼女には未だ「少女」という言葉が良く似合う)がやってくると、碇家に不思議な雰囲気が流れ始めた。

 

彼女は相変わらずの無口で、自分からは滅多に喋らない。

彼女を以前、苦手としていたケンスケとトウジの二人は、なんとなく話し掛けづらい。

ヒカリは、アスカが中断させた料理の方が忙しく、キッチンで慌ただしく動いている。

 

そのアスカは、以前のようにつっかかることはなくなったものの、やはり彼女を苦手としていた。

彼女と話していると、どうにも自分のペースが乱されるためだ。

自然、水色の髪の少女の相手を務めるのはシンジとなった。

 

「久しぶりだね、綾波。元気だった?」

 

ゲンドウと入れ違いにやって来たレイ。

 

シンジは初め驚いたが、久しぶりに見る綾波レイの姿に郷愁にも似た思いを感じていた。

彼女は現在に至るまで一人暮らしを続けていて、なんとなく行きそびれていた。

 

「ええ……」

 

相変わらずレイの反応はそっけない。

 

しかし、以前のように感情が欠落したかのような印象は姿を潜めていた。

応答がそっけないのは、ただ話すことが苦手なだけなのだ。

その真紅の瞳の視線にも、透けるような薄い唇から紡がれる言葉にも、柔らかさが加わっている。

そのことをいち早く察知していたのはやはり、彼女に最も近い距離にいたシンジであった。

 

「結婚式の時以来……だね」

「そうね」

「あの時はありがとう……」

「……ええ」

 

端から見ればいらいらするような会話を、シンジとレイは平然と交わしていた。

 

「ほえ〜〜〜〜〜〜」

「……アイツだけは、よう分からん」

 

ええ…とか、うん…とかだけの返事にも関わらず、シンジは嬉しそうに笑いながら相手をしているのだ。

トウジとケンスケの二人は、物珍しそうに彼らの会話を見つめている。

 

「………」

 

同じくそんな二人の様子を見ているアスカは、どことなく不機嫌そうだ。

原因はもちろんレイである。

ちょっと見ただけではいつもの通りの無表情なのだが、アスカの目にはレイが嬉しそうにしているように映っていた。

 

無論アスカも成長した。

わだかまりは捨てたつもりだし、子供じみたライバル意識ももはや感じない。

今は、彼女の置かれてきた境遇に同情するくらいだ。

しかし、それでも今ひとつ釈然としないのは、シンジとレイの距離があまりに近いことだ。

時折、自分が入り込めないような雰囲気の時がある。

今がまさにそんな時だった。

 

先ほどシンジを、「なぜゲンドウに対してだけ素直になれないのか」と言って諌めたアスカだが、それとは少し違った理由から、レイに対して素直になれないのだった。

 

ふう……。

 

アスカは心の中でひとつため息をつく。

彼女の視線の先では、相変わらず笑顔のシンジがいた。

シンジに他意はない。

誰に対しても優しい彼ゆえの行動だ。

自分が一番愛されていることも、己惚れではなく分かっている。

それでもレイの存在は無視できないものだった。

思えば以前レイを毛嫌いしていたのも、無意識の内にシンジから遠ざけようとする防衛本能が働いたためかもしれない。

 

はあ……。

 

そんなことを考えて、幾度目かのため息をついた時、不意に抱いていたノゾミが、アスカの腕をもぞもぞと抜け出した。

 

「あっ……!」

 

アスカが止めるより早く、ノゾミはハイハイで果敢にシンジたちの方へと進んで行く。

 

「ノゾミっ!」

 

おや、という顔のシンジと、やはり表情の分からないレイの前にノゾミがやってきた。

一度シンジの顔を覗き込んで、天使のような笑顔を浮かべたノゾミは、そのままレイの膝元に進んだ。

 

「あ〜、あ〜……あぶぶ……」

 

ノゾミはレイに向かって手を伸ばしながら、しきりに楽しそうな笑い声をもらす。

一方のレイは、アスカやシンジから見れば、きょとんとしたような顔で、小さな天使の顔を覗き込んでいた。

 

ピンポーン。

 

「あっ……は〜いっ!」

 

意外な展開に、事態を見守っていた一同の耳に新たなチャイムの音が届く。

シンジは立ち上がると、玄関へと向かった。おそらく今度こそミサトたちだろう。

扉の開く音。

 

『どぉも〜、お呼ばれしてきたわよン』

『やあ、シンジくん。今日はありがとう』

 

そんな声が玄関の方から聞こえてくる。

すると……。

 

「赤ちゃん……」

 

ぽそり、と呟き。

 

「きゃっ、きゃっ!」

「え……?」

 

はしゃぎ声に振り向くと、ノゾミの小さな手を取って、その頭を撫でているレイの姿があった。

 

「……新しい、命……」

 

その顔を見て、アスカもトウジもケンスケも、そしてヒカリも絶句した。

 

レイは笑っていた。

優しい顔をして……。

 

「レイ……」

 

この時初めて、アスカはレイという人間の本来の姿を垣間見た気がした。

 

 

 

宴はたけなわ。

 

ミサトがいることで、初めから波乱の予感を孕んではいた。

彼女が一気を始めると、トウジとケンスケがはやし立てる。

彼ら二人もすっかり出来上がっている。

 

最初は静かなディナーだったのだが、抑止役の加持がいきなり、酔ったミサトのパンチを受けてダウンした辺りから雲行きが怪しくなった。

意外にも酒乱だったヒカリはトウジとケンスケに絡み、成人したアスカとシンジに堂々と酒を勧められるようになったミサトは、二人にビールを飲ませまくる。

6杯を過ぎたあたりでアスカが早々にダウンし、その後、シンジは一人で延々とミサトの相手を務めさせられることになった。

 

 

シンジは夢を見ていた。

懐かしい夢だ……。

 

「母さん……」

 

シンジの目の前には、彼の母である碇ユイが微笑んでいた。

隣にはゲンドウもいる。

シンジが知るはずもない、若かりし頃の二人は、赤ん坊をあやしていた。

 

『早く大きくなれ、シンジ……』

『ダメですよあなた。そんなに早く大きくなってしまったら、母親の楽しみがなくなってしまいます……』

 

ゲンドウの笑顔。ユイの幸せそうな顔。

シンジの知らない二人の姿。

 

(腕の中の赤ちゃんは……僕?)

 

覗き込もうとして、シンジはユイと目が合う。

するとユイは優しく微笑み……。

 

『……おめでとう。シンジ……』

 

「えっ……」

 

何時の間にか、ユイの腕の中にいるのは、ノゾミに変わっていた。

ユイとゲンドウは、ノゾミをシンジの腕に抱かせると、寄り添ったまま穏やかに微笑んだ。

 

「母さん……。父さん……」

 

 

 

 

「うっ、う〜〜〜ん……」

「もう飲めへん……」

「……気持ちわる〜い」

「すー、すー……」

「ごがー………」

「……うっぷ」

 

シンジが目覚めた時、部屋の中はむせ返るような酒気が充満していた。

 

「うわ……ひどいなこれは」

 

目の前に、ひっくり返ったミサトの足があった。

ふと見回すと、全員にタオルケットがかけられていた。もちろんシンジにもかけられている。

 

「あれ……?」

 

アスカがやったのだろうか。

そう思って妻の姿を探すと、隣の部屋へと続く戸口の前で、彼女もダウンしていた。

 

「じゃあ、一体誰が……」

 

呟いたシンジの耳に、静かな歌声が聞こえてきた。

 

 

LuLu………LaLa………。

 

 

囁くような澄んだ調べ……。

切ないような……懐かしいような……。

 

「子守唄……?」

 

シンジは歌声に誘われるように、ノゾミを寝かせてある部屋へと………。

 

 

LuLu………LaLa………。

 

 

ほの青い月光の差し込む、静寂に満たされた部屋に、その歌声は慎ましやかに流れていた。

柔らかに差し込む月の光の下で、眠る赤ん坊を抱いていたのは……。

 

「綾波……」

 

シンジはその神秘的な光景に、思わず声に出して呟いていた。

 

 

Lu………

 

 

歌声が途切れた。

どうやらシンジの呟きが耳に入ったようだ。

 

レイは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「………!」

 

そしてシンジは絶句した。

 

デジャ・ヴュ。

その顔は、先ほどの夢の中のユイと酷似していたのだ。

 

「………碇くん」

 

レイの声に、シンジは我に返る。

 

「綾波……綾波があやしてくれてたの……?」

 

レイはちょっと恥ずかしそうに頬を染めると、わずかに俯いた。

 

「私……泣いてたから……」

 

「………ありがとう」

 

シンジはレイに近づいて、その腕の中で幸せそうに眠る我が子の顔を覗き込んだ。

 

「…………」

「…………」

 

流れる自然な沈黙。

 

「ノゾミちゃん………」

「え?」

 

再び口を開いたレイに驚いたように、シンジは彼女の顔を見た。

意外なほど近くにあった顔に、シンジはちょっとどきっとする。

 

「………可愛いわね」

「え!?」

「おめでとう………碇くん」

「綾波………」

 

シンジに向けられたレイの顔。

……それは、いつか見たあの笑顔だった。

 

「………ありがとう」

 

もう、どぎまぎした気持ちは感じなかった。

夢の中で、母からの祝福を受けた時のように……。

 

「うう〜〜〜ん………シンジぃ………」

 

突然背後でした声に、シンジは驚いて振り返る。

 

「うう〜〜〜ん、ノゾミ……」

 

どうやらアスカの寝言のようだ。

幸せそうに眠りこける母娘の姿を見て、シンジとレイは顔を見合わせてくすり、と笑った。

そのまま二人は寄り添って、しばらく身じろぎもせずに月光を浴びていた……。

 

 

 

 

翌日。

 

「うう〜〜〜〜〜〜頭が痛いわ……」

「ほら、大丈夫かミサト」

「トウジ……」

「昨夜は飲み過ぎたわ……」

「うぷっ……」

 

二日酔いの面々の中、比較的症状の軽かったシンジとアスカの二人は、レイを見送りに玄関に出ていた。

今日も元気一杯のノゾミはシンジの腕の中だ。

 

「じゃあ……」

 

いつもと変わらない様子で振り返るレイ。

しかし、今のシンジとアスカには、彼女の変化が良く分かった。

 

「待ちなさいよ、レイ」

 

アスカが呼び止める。

アスカがレイのファーストネームを呼ぶのはこれが初めてではなかろうか。

 

「?」

「……あたしたち、お互いを良く知らなすぎたわね」

 

アスカはそう言って、勢い良くレイの前に右手を差し出した。

 

「なに……?」

「握手よ、握手。ほら……」

 

アスカは、反応の鈍いレイの手を取ると、強引に自分の手を握らせた。

ひんやりとした感触がアスカの手に伝わる。

不思議そうにそれを見つめるレイの手をアスカは二、三度振った。

 

「また来なさい」

「待ってるよ………」

 

二人の様子を微笑ましそうに見守っていたシンジが後を継ぐ。

 

「あ〜〜〜〜う〜〜……あぶ」

 

すると、抗議するように腕の中のノゾミが声を上げた。

 

「それに……ノゾミも、ね」

 

しきりに自分に向かって手を振るノゾミ。

シンジを見て、アスカを見て、そしてノゾミを見て……レイはゆっくりとうなずいた。

 

 

 

希望

▼ 

 

 

 

そして時は流れた……。

 

 

 

 

過ぎ行く日々には宝物のような思い出が一杯。

それも過去の記憶の内に、次第にモノクロになっていく。

しかしそれは悲しむべきことではない。

なぜなら、想いは成長し、積み重なってゆくものなのだから………。

共に過ごす人たちと一緒に。

 

 

 

 

「ああっ!お鍋が吹いてるっ!!」

 

ノゾミ、4歳。

母の隣で絵本を読んでいた彼女は、キッチンの方を見て元気な声を上げる。

 

「あらあら、大変……」

 

立ち上がろうとするアスカ。それをとどめる白い手。

 

「あたしが……アスカは座っていて」

 

そのまま静かな足取りでキッチンへ。

 

「ありがと、レイ」

 

落ち着いて座り直したアスカのお腹は既にかなり大きい。

 

「いいのよ……」

 

返事をするレイの顔は、だいぶ表情が豊かになってきたようだ。

 

 

 

アスカがレイを同居させよう、と言い出した時、さすがにシンジは驚いたものだ。

しかしアスカが自分から言い出したこと、シンジは快く了承し、レイも素直にそれを受けた。

 

そして……。

 

 

 

「これは……こちらで良いのか、シンジ?」

 

金槌を持った手を休め、シンジを振りかえるゲンドウ。

 

「どれどれ……ああ、これじゃだめだよ父さん。これは……こう」

「ああ……そうか」

 

二人が作っているのは、新たに生まれてくる子供のためのおもちゃだ。

アスカが古風にも、生まれてくるまで赤ちゃんの性別は知りたくない、と言うので、おもちゃも男女二人分だ。

 

「ふむ………」

 

しばらくして手を休めたゲンドウに、ノゾミがちょこちょことやって来て袖をぐいぐいと引っ張る。

 

「おじいちゃん、ご本読んで!」

 

「ああ………シンジ?」

「うん、ノゾミの相手をしてやってよ父さん。ちょっと疲れただろう?」

「うむ………では行くか、ノゾミ」

「うんっっ!」

「今日は何がいいんだ?」

「うーんとね……赤ずきんちゃん!」

「よし………」

 

居間へと戻っていく父と娘の姿を、穏やかな顔で見送るシンジ。

しばらくして、再びトントントン……、という規則正しい音が響き出した。

 

 

 

ゲンドウとレイを加えた5人の共同生活が始まってから、もう3年が経つ。

当初はさすがにぎこちなかったが、ノゾミを緩衝材として、急速に家族の絆が深まっていった。

ノゾミの愛らしさ、奔放さ、素直さ。

どれだけ彼らが助けられたか知れない。

この小さな天使は、ばらばらだった家族を再びひとつにまとめてしまったのだ。

 

幸せな日々。

 

今では、誰一人欠けた生活も考えられない。

かけがえのない家族。

この一見奇妙な三世帯同居の中で、ノゾミはまっすぐに、すくすくと育った。

 

シンジは思う。

この子は僕らの「希望」そのものであると。

 

 

 

 

「あっ!動いたよ、ママっ!」

「そうね……分かった?」

「うんっ!今、お腹をけったんだよ!」

 

母のお腹に耳を押し当てていたノゾミが嬉しそうに声を上げる。

アスカは、目を輝かせている我が子の顔を嬉しそうに見つめながら言った。

 

「じゃあ……ここを触ってごらんなさい」

「うん……ここ?」

「そう」

 

……………。

 

……………。

 

とくん。

 

「あっ!」

 

とくん。

 

「ねっ!今とくん、とくんってしたよ!」

「そうね」

「これが赤ちゃんなの!?」

「そうよ……。あなたの弟か妹……」

「はーーーーーーーー……」

 

ノゾミは一層目を輝かせて、掌から伝わってくるもう一つの鼓動を感じている。

 

 

 

「もうすぐね………」

 

居間の様子をキッチンから見ながら、レイが言う。

 

「うん……」

 

シンジはうなずく。

 

「シンジ……もう名前は決めてあるのか?」

 

二人の肩に手を置きながら、ゲンドウが聞く。

 

「うん、決めたよ。男の子だったら…………」

 

 

 

………………。

 

………………。

 

 

 

 

希望。

 

それは人にとって一番大切なもの。

愛も夢も、全てはここから始まる。

これを持ち続けることが叶えば………

 

もう、何も恐くない。

 

 

(Fin)


(update 99/09/03)