四人で朝食を済ませた後、螢一は勤め先であるチューニングショップ、『ワールウインド』へと向かった。
週末の二連休も終わり、今日からまた仕事である。愛車のBMWは昨日に続いてすこぶる元気であったが、螢一の方は少々やつれぎみであった。
一昨日、昨日…ウルド、スクルドと連日で情欲を交わしているためである。おまけに三人にはそれぞれ秘密という約束なのだ。肉体的にも精神的にも疲労の色が濃い。
「ふぁ、ふあ〜あ…」
螢一はバイクを走らせながら豪快にあくびをした。家を出るときから数えてもう何度目なのかわからない。夢すら見ないでしっかりと眠ったはずなのに、身体のほうは寝足りないと言わんばかりにあくびを強要してくる。
さすがにまぶたが自然と降りてくるほどではないので交通事故の心配はないが、これだけたるんだ様子では職場についた途端、社長である藤見千尋にどやされること間違いない。彼女は開放的で楽しい女性だが、妥協は一切許さない性格だ。
「さすがに疲れが溜まってる…今日は早く寝ようっと。」
自戒するように独語すると、螢一はもう一度大きくあくびをして、BMWのスロットルをひねるのであった。
森里屋敷では、午前中の時間は波立つこともなく穏やかに流れていった。
ベルダンディーは朝食の後片づけを終えてから、柔らかに日の射し込む縁側で読みかけの小説を読もうとしていた。スクルドから強引なほどに勧められた恋愛小説である。
直射日光を避けるよう日陰に座布団を置き、腰を降ろす。今朝はノースリーブシャツにスカートといったスタイルであったが、今朝は思ったほど暑くない。
それもそのはずで、今日は風がよく通っていた。空を見ると白い雲が、何を急いでか東の彼方へいくつもいくつも飛び去ってゆく。
「…雨が来そう…。お洗濯、今のうちにすませておこうかしら…。」
ベルダンディーの天気予報の的中率は船乗りのそれに匹敵する。ぱた、と文庫本を閉じると、ベルダンディーはいつもより早めに洗濯機を回しに行った。
ウルドは特にこれというあてもなく、居間で玄米茶をすすりながらテレビを見ていた。
適当に選んだチャンネルでは似たり寄ったりのモーニングショーをやっており、いつ、どこで、誰が、誰と、何をしたとかしないとかいうありきたりな色恋沙汰について取り上げている。
報道が必ずしも真実であるわけはないのだが、こうして見ていると人間という生き物はまっこと色欲には脆いものらしい。結婚何年で浮気発覚だ、やれ隠し子騒動だ…一週間に一回はこうした題材が目につく。
もっとも、誰もがすべて情に溺れてしまうわけではないとはいえ、このような話題をネタにするのはニーズに応えてのものだろう。見たい者がいなければ抗議の電話が殺到して即刻放送中止になり、とうの昔に廃れているはずだ。
つまりは…誰しもインモラルな誘惑に対して少なからず憧れを、期待を持っているということなのか…。
「あたいも…染まっちゃったのかも、ね…」
玄米茶を一息に飲み干し、ウルドは自嘲するようにそうつぶやいた。
スクルドは…自室で寝ていた。
寝ていたと言っても朝寝を決め込んでいるわけではない。
丸めた掛け布団を抱き締めてゴロゴロと、あっちに転がりこっちに転がり…。はぁ、と溜息を吐いてはまた同じ事を繰り返す。
憂いを秘めた翳りが可愛らしい表情に紗をかけていた。両手両脚で布団にしがみつき、そっと目を閉じると…唇を寄せるようにして顔を突っ伏す。ぎゅ、と布団を抱く両手に力が増した。
「けいいち…あたし…もうけいいちのコト忘れられないよ…」
布団に顔を埋めたまま、胸の奥のやるせなさを吐き出すようにつぶやく。
螢一に会いたい。一日中螢一と遊んでいたい。一晩中螢一と一緒にいたい…。
スクルドはもう一秒でも螢一なしではいられないほど骨抜きになっていた。
意識を切り替えようとすればするだけ胸が痛み…かといって思えば思うほど、より胸が痛む。息も詰まるほどの悪循環に、スクルドはくすん、と鼻をすすりあげてしまうほどだ。
こんな気持ちは仙太郎相手にも陥ったことがない。淡く恋心を抱きつつある、活発な自転車少年に対しても…。
そんな恋心を素直に認められない自分を見つめ直し、仙太郎が絶えず差し出す甘酸っぱい好意を受け入れ、大切にしたいと努力していた矢先なのに…。
それなのに夕べ、螢一の気持ちに触れてしまった。
狭い部屋の中、自分だけに注がれた暖かな愛情が肌という肌、心という心すべてに染み込んで離れなくなってしまったのだ。
もちろん、気持ちよくしてくれるから、という極めて些細な理由もあった。それでもスクルドは螢一の真心に心酔してしまったのだ。
それに…仙太郎はいつでも側にはいられないが、螢一はいつでも側にいる。
触れたいときにはいつだって触れられる螢一の優しさに、スクルドは確かに心惹かれていた。
しかし…螢一に想いを寄せ、いつまでも夕べのような関係を求めるのは…即ち、ベルダンディーを出し抜くことになる。敬愛する姉を裏切ることになる…。
「けいいち…つらいよ…。一回のマスターベーションが、こんなことになるなんて…」
ジレンマとせつなさ。言いようもない焦燥感、そして倦怠感…。
スクルドはやるせなく、またゴロゴロと転がるのであった。
午後に入ると、スクルドの暴走した想いはすっかり行き場を失っていた。
昼食の素麺とトマトを適当に片付けると、大急ぎで自分の食器を洗い、デザートもそっちのけで自室に駆け戻った。
ピシャン、と障子戸を閉めて座り込む。息が上がっていた。駆け戻ったからではない。彼女は日の明るいうちから発情をきたしていたのだ。
螢一を想って布団を抱いているうち、理性と身体は螢一を要求し始めて退かなくなった。
さっきから熱を出したかのように頬が熱い。耳まで真っ赤になっていることは想像に容易かった。だから昼食の間もできるだけうつむき、あるいは行儀悪くテレビを見ながら素麺をすすっていたのだ。
「…うわ…もうこんな…」
今朝替えたばかりの下着が冷たい。スカートをまくり、白とスカイブルーのストライプパンティーをずりおろす。秘所を包み込んでいた部分はべっとりと濡れ、もう履き替えなければならないほどになっていた。
ぽい、と脱ぎ捨てると、スカートも一緒に脱いでしまう。これでスクルドは下半身裸だ。部屋の中で一人、おしりを出している格好になってしまう。
まさか、であった。淫らで、下品で、情けなくて…絶対にしないとまで思っていたマスターベーションがくせになりそうである。昨日初めて経験したばかりなのに、今日またすぐに始めようとしている。これが常用性と言わずしてなんと言おう。
一人遊びの後遺症を忘れたわけではない。
もちろん気持ちよくなるなら二人でした方がいい。
しかしもう螢一に頼るわけにはいかない…。
一瞬だけでもいい、夕べのような心地よさをもう一度味わいたい…。身体はもう後戻りできないところまで来ているのだ。
「だって…したいんだもん…。欲求を無理に抑制するのはストレスを蓄積する原因になるだけだから…もうこの際、仕方ないよね…」
後ろめたさに言い訳するスクルド。ちょうど昨日の今頃のように、プラズマモニターとひまわりくんのハードディスクを立ち上げる。睦み合う前の螢一とウルドがモニターに現れると、ボリュームを調整してヘッドホンを被った。
盗み見た二人の映像で、再び虚しい快感を得ようというのである。夕べはとうとう叶わなかった、憧れた行為を目にしながら…。
スクルドは膝立ちの体勢になり、両手でサラサラとおしりを撫でた。そのままゆっくり太ももからへそからを撫で回し…セーラーシャツの裾から両手を忍ばせ、乳房を揉む。
「けいいち…けいいち…好き…」
スクルドは無意識に想いを口にしていた。
すっかり敏感になった乳房を揉むたび…しっとり汗ばんでいるおしりを撫でるたびに夕べの螢一との淫らな記憶が蘇ってくる。かわいいって言ってくれた、螢一からの愛情が思い出される。
「けいいちの気持ち…すごい嬉しかった…」
モニターの中で交わりあう螢一とウルドを見つめながら…スクルドは右手を滑らせ、恥丘をやんわり指圧しながら熱い中心へ指先を進めた。中指が割れ目を押し割ると…
くちゅ…
すでに充血した濃桃肉はくんにゅりと左右に開き、奥の奥まで中指を誘った。愛液で濡れそぼった裂け目にそって、真っ直ぐに中指をあてがう。
「うあ…けいいち、けいいちお願い…夕べみたいにしてえ…!」
スクルドは狂おしく懇願すると、中指でのこぎりを挽くようにデリケートな粘膜肉を刺激した。指の腹全体を使ってクリトリスを擦る。
夕べの螢一の愛撫を模倣した指使いであった。長大なペニスでしてくれたように、強く押し当てつつ長いストロークで擦る。夕べとはくらぶべくもないが、何ともいえない心地よさが裂け目を発信地に、身体のすみずみにまで熱く拡がってゆく。
「好き…好き…っ、けいいち、好きだよぉ…!」
モニターで繰り広げられる嬌態、ヘッドホンから聞こえる嬌声、そして自ら愛撫する裂け目からの快感で、スクルドの中枢はたちまち淫ら色に染め抜かれてしまった。儚げに開いた口元からは上擦った呼吸が繰り返され…火照った頬に汗が浮かぶ。
「はあ、ぬるぬる…すごいぬるぬるっ…!ああんっ、気持ちいいっ!気持ちいいよぉっ!」
中指と裂け目の間では女神の愛液がニチュ、チュプ、ブチュ、と水っぽい音を強め、太ももを伝う前にポタ、と畳に落ちた。腰の中で細い筒が…きゅんっ、きゅんっと伸縮しているのが感じ取れる。本能が全力を挙げて愛液を絞り出しているのであった。
スクルドは震える手でコントローラーを操作し、モニターに可能な範囲まで螢一を映し出す。本来はウルドを撮影するために飛ばした衛星であるから、彼の顔がモニターに映りっぱなしになることはない。
それでも…ウルドと激しく睦み合う姿が少しでも映ると、スクルドはせつなさで胸がいっぱいになり、身震いしながらビヂュヂッとしおを噴かせた。ヴァギナ全体がガクガクし始める。もう腰が抜けてしまいそうであった。
「キスしたい…キスしたいよぉ…!」
螢一の唇恋しさにむせび泣くスクルド。思う様唇を重ね、舌を絡めたい…。聖痕に強く口づけてほしい…。左手の指で焦れる唇を慰めると、もういてもたってもいられなくなってしまった。
「けいいちっ、けえいちぃっ!好き、あたし、けいいちのこと大好きだよぉ…!」
畳の上に寝転がり、ブリッジするように腰を浮かせながら愛撫の手に加速をつける。ねとねとに濡れた中指を口に運んで自らの愛液を舐め取ると、もう理性は意識を夕べに連れ戻してしまった…。
「ちゅ〜ら、ちゅちゅら、ちゅっちゅら〜♪」
ベルダンディーはなにやら懐かしい歌を口ずさみながら、ご機嫌な様子で夕食の下ごしらえにかかっていた。
というのも、早めに済ませた洗濯物を取り込んだ矢先に雲行きが怪しくなってきたからである。自分の天気予報が的中したことが嬉しいらしく、ベルダンディーは先程からこの調子、というわけなのだ。
今日の夕食の献立はチキンカレーらしい。じゃがいも、にんじん、たまねぎの皮を剥き、適当な大きさにコロコロと切ってゆく。すり下ろしたニンニクも用意してあるが、これはウルドの強い要望によるものだ。ちなみに肉は鶏肉のむねを使用するようだ。
それらを鍋の中でゆっくり炒めてから水をはり、中火にかける。後はローレルを二、三枚放り込んで気長に煮つつ、灰汁をとれば下ごしらえは完了だ。
だんだんだんだん…
乱暴なまでの足音が聞こえてくる。それはまっすぐに台所へと迫ってきていた。
えてしてこれほど威勢のいい足音は、ウルドとスクルドが先を争って料理の味見に来るときのものである。しかし下ごしらえの最中であるカレー鍋からは、まだ食欲をそそる匂いは漂っていないのだが…。
不思議に思って小首を傾げると、ベルダンディーは鍋から視線をそらした。
「姉さん…。」
台所から居間に繋がっている仕切り戸に現れたのはウルドであった。よほど慌ててきたのか、額に汗の粒を浮かべ、肩で息をしている。つらそうにしかめられた表情は、どう考えても味見をしにきたようには見えなかった。
「どうしたの、姉さん…そんなに慌てて?」
「…ねえベルダンディー…あんた、螢一のコト、好き…?」
右手で仕切り戸に寄りかかりながら、ウルドはベルダンディーの問いかけには答えず、代わりに意味深な笑みを浮かべてそう問い返した。
なんの脈絡もない突拍子な質問であったが、ベルダンディーは素直に赤くなると、頬を右手で押さえてはにかむように答えた。
「ええ…。好きです、大好きです…。」
「じゃあ…もし、よ?もしあたいも…螢一のコトが好きだとしたら、あんたどうする?」
「えっ…?」
照れくさそうな瞳をパチクリさせ、二つ目の質問の意味を一瞬測りかねるベルダンディー。ゆっくりとウルドの言葉の意味が認識野に染み込むと…瞳の潤みが増し、まばたきの数が増えた。表情は不安に満ち、容易く壊れてしまいそうな印象を見る者に与えるだろう。
「ど、どういうことなの…?」
「そのままの意味よ。あたいもあんたみたいに螢一が好きなんだとしたら…。」
「…そんな…」
どうやら意味を取り違えてはいないらしい。ウルドは暗に…自分も螢一のことが好きだと言っているのだ。
ベルダンディー自身は螢一のことが好きである。このことに偽りはない。
そして今…ウルドまで螢一のことが好きだというのか…。
それじゃあ螢一は…自分のことをどう思うようになるのだろう。自分達二人の想いに対してどう答えてくれるのだろう。
あの日、自分のことを好きだと言ってくれたあの気持ちは…
ズキン。
「うっ…!」
胸の奥で不安が渦巻き始め、呼吸を詰まらせる。
他人を信じる心に翳りが拡がってゆく。
押さえ込もうとすればするだけ不安は募り、信じようとすればするだけ、ウルドの気持ちと螢一の気持ちとの価値観に惑った。
即ち、螢一は信じたい…。ウルドは信じたくない…。
「ウソでしょう…?」
思わずベルダンディーは疑いの言葉を口にしていた。胸を圧迫する不安を振り払いたいがために実の姉を疑ったのである。普段の彼女では絶対にありえないことであった。
あからさまに動揺する妹を前にしながら、ウルドは意に介する風でもなく、鼻の頭の汗を拭って微笑した。誇らしげにそっと胸を張ってみせる。
「ウソじゃないわ。あたいも…螢一のことが好きよ?」
「ウソなんでしょう?姉さんが、そんな…」
「信じたくなければそれでもいいわ。神罰が下らなければウソじゃないってことになるものね…?」
そこまで言うと、ウルドは不敵な笑みを浮かべて天井を…その遙か彼方にある神界を見晴るかすようにして仰いだ。
女神が嘘をつくことは厳しく禁じられている。
軽微な嘘程度ではそうでもないが、気持ちを偽ったりすると…特に愛の言葉を偽ったりしようものなら、『神罰』と称される大落雷がその身に襲いかかると同時に、神族免許停止という容赦のない処分に付されるのだ。
ウルドは確かな口調で想いを告白した。もし心に少しでも疚しいところがあったならばたちまち神の稲妻に撃たれるはずなのだが…その気配はいつまでたっても訪れなかった。
がくっ…。
思わずすのこの上にひざまづくベルダンディー。
ウルドの言葉が嘘偽りなどではなかったことによる衝撃。
ウルドが稲妻に撃たれることを少なからず期待してしまったための自己嫌悪。
そして…それらによって胸の奥を占拠してしまった不安。
それらは彼女を脱力させるに十分であった。
「わ、わたし…ね、姉さんの気持ちを…」
「…おまけにスクルドまで螢一のコトが好きだとしたら…?」
ウルドは淡々とした口調も意味深な微笑も崩さず、ベルダンディーのつぶやきに覆い被せて追い打ちをかけた。うなだれたベルダンディーの肩がビクン、と跳ねる。
信じたくない。
ウルドだけでなく、スクルドまで螢一に想いを寄せているなんて…。もし本当なら、純心の持ち主であるスクルドのことだ、ましてやその想いは強く、一途であろう。
今のウルドが自分を困惑させるためにデタラメを列挙しているとも思えなかった。そうする必要性が皆無だからだ。
しかし…ベルダンディーはウルドを信じたくなかった。
「そんなのウソです…そんなことって…あるはずが…」
とうとうベルダンディーは姉の言葉を否定した。嘘であると一方的に断定した。
そうしないと…今度は最愛の螢一すらも疑ってしまいそうだったからだ。
あの日の告白には螢一自身の強い言霊がこもっていた。螢一の本心が窺えた。恐らく問いかけたなら未来すらも約束してくれただろう。
しかし今は…不安だった。怖かった。
螢一が自分以外の誰かを選んでしまうことが。
螢一が自分に背を向けて立ち去ってしまうことが。
誰よりも愛しく思う、この胸の奥の大切な温もりを置き去りに…。
「いや…っ!」
いたたまれなくなったベルダンディーは思わずそう叫んでいた。溢れた涙が白皙の頬を滑り、すのこに落ちる。両手で顔を覆うと、震える声で嗚咽を始めた。
「…ちょっとこっちに来なさい!」
カレー鍋がかかっていたコンロの火を消すと、ウルドはベルダンディーの左手をつかみ上げ、有無を言わさぬ様子で彼女を台所から連れ出した。引きずるようにしながら居間を抜け、廊下に出る。
「痛いっ、ねえさん、はなしてっ…!!」
つかまれた左手がどんどん赤くなる。ベルダンディーは苦痛の悲鳴をあげたがウルドは聞く耳を持とうとせず、ひたすら目的地まで突き進んだ。
「…着いたわよ。」
放り捨てられるように左手が解放されたのはスクルドの部屋の前であった。ベルダンディーは左手をさすりながら涙でベトベトの顔を上げ、ウルドに問いかける。
「…いったいなにが…」
「通りかかったときに聞いちゃったんだけど…あんたもちょっと聞いてみなさい。」
豊かな胸の前で腕組みしたウルドは少し高揚した面持ちで、部屋の方をあごでしゃくって促した。言われるままにベルダンディーは髪を後ろに流しつつ、耳を障子戸に近づけてそばだてる。中からはネチュ、ピチュ、とかいう水っぽい音とともに、
「あああっ!け、けいいちっ!好き、好きぃっ!あっ、けいいちっ!!」
というスクルドの泣き声が聞こえてきた。ベルダンディーは目を見開き、ぶわ、と涙を溢れさせる。力無く開かれた唇は呆けたようにハクハクしていた。
スクルドの泣き声は苦痛によるものでも、悲嘆によるものでもない。
これはどう聞いたとしても聞き間違えようのない、女のよがり声であった。ウルドはもちろん、ベルダンディーにですら判別できる。むろん、中で何が行われているかも…。
「いや…いや、姉さんっ…!」
現実を受け入れたくない一心に両手で耳を押さえ、激しくかぶりを振るベルダンディー。ウルドは一言も発せず、なんの躊躇いもなしに障子戸を全開にした。
「…スクルドッ…!!」
「…見られてたとは…うかつだった…」
障子戸が開け放たれた途端、湿っぽい空気とともにスクルドの発情したフェロモンが外に溢れ出る。二人の女神は室内の様子にそれぞれ表情を歪めた。
ベルダンディーはスクルドの下半身裸というただれた姿に…彼女がよがる声で連呼し続けている男の名前に愕然とうなだれた。頭から血の気が音立てて引いてゆくのがわかる。
ウルドの言ったことはまたしても事実であった。
涙が止まらない。
苦しくて、つらくてならない。胸の奥が今にも潰れてしまいそうである。
「どうして…スクル、ド…」
板張りの廊下に両手をつき、ベルダンディーはうめきながら泣き顔を上げた。その瞳は真っ直ぐに…正面の大型モニターに映し出されている男女を認識してしまう。
「けいいち、さん…ねえさん…」
映像の男女を確かめるような、呆然としたつぶやき。
狂ったように睦み合っている男女が…最愛の男性と、実の姉であるなんて…。
たちまち意識は粉々に崩壊し、目の前が乱暴に暗転した。
ウルドもモニターに映る自分達の嬌態を慄然と眺めていたが…そのうち口元をいびつに歪め、危険な微笑を浮かべる。
「ベルダンディー、わかる?あたいと螢一は…もうこんなになってんのよ…?」
ウルドの言葉にもベルダンディーは反応を示さなかった。凍り付いたようにモニターの映像を見つめたまま、不規則な呼吸だけを繰り返している。
ウルドはそんなベルダンディーを見下ろし、凛とした声で宣言した。
「もう一回言うわ。あたい、螢一のことが好き。この気持ち、あなたにも負けない。」
ビクッ、とベルダンディーの肩が震える。その言葉でようやく意識が再生したようで、ベルダンディーは微かにイヤイヤしながら頭をうつむかせた。
「イクッ!イッちゃううっ!!けいいちっ、あたし、イク…」
ヴァギナを、乳房を慰めながら恍惚の鳴き声をあげて寝転がったとき…ようやくスクルドは二人の姉に目撃されていることを知った。
苦笑しながら腕組みし、直立しているウルド。
くずおれ、うなだれて震えているベルダンディー。
「うそ…」
両脚を大きく拡げたまま、ヘッドホンを外してスクルドが呆然とつぶやいた瞬間、
「い、いやあああああっっ!!」
絶叫を残し、ベルダンディーは涙を散らしてその場を走り去った。
しなやかな両脚が廊下を蹴る音に混じり、背後からスクルドが呼び止める号泣が聞こえてきたが…一度駆け出した両脚は止まることはなかった。
「待って!おねえさまっ!待ってえっ!!」
「待つのはあんたよ、スクルドッ!!」
濡れたおしりも隠すことなく、滂沱してベルダンディーを追いかけようとしたスクルドであったが、廊下に駆け出たところでウルドにセーラーシャツの襟を引っ張られ、強引に羽交い締めにされて足止めされた。
「離してっ!離せっ!この裏切り者!!汚い手で触らないでっ!!」
「汚い手はあんたも同じでしょっ!!この淫乱のメス犬!!」
「人のこと言えるのっ!?泥棒猫のくせに!!」
「なぁんですってえっ!!」
「なによなによっ!!」
口汚く罵り合い、乱暴に羽交い締めから逃れるとスクルドは真っ向からウルドを睨み付けて右手を翻した。
ぱしんっ。
精一杯拡げられた手の平がウルドの頬を打つ。ウルドも両目に涙を浮かべながら右手を翻し…ぱしんっ、とスクルドの頬を打った。
ぱしんっ。ぱしんっ。ぱしんっ。
二回、三回、四回…頬を叩き合う音は繰り返された。
姉妹喧嘩は今までにも数え切れないくらいにこなしてきたが…今日ほど無意味で、悲しくて、自分までも痛い喧嘩はなかった。喧嘩でここまで涙を流したのも初めてであった。
はあっ…はあっ…ひくっ、はあっ…はあっ…
十回ほども叩き合った後で…二人の右手に小康状態が訪れた。しゃくりあげつつ肩で息をして…嫌悪の目で互いを睨み合う。
「ぜんぶウルドが悪いんじゃない…」
スクルドはうなり声でつぶやいた。憎々しげに両手が拳を固め、震える。
「なによ…あんたには悪いトコ、ひとつもないっていうワケ?」
「当たり前でしょ!!ウルドが螢一とあんなことしなきゃ、あたしだってこんなに掻き乱されてないよっ!!無駄に苦しんだりしてないよっ!!」
「覗いたりするから悪いんじゃないのっ!!」
「覗かれて困るようなことするのが悪いのよっ!!」
絶叫するスクルドの目から涙の粒が飛び散る。ウルドはそれから先を言い返さなかった。
そのことがスクルドを錯覚させたらしい。自分が精神的優位に立てたのだと…。ウルドは自分の論破の前に為す術を失ったのだと…。
ニィッ…。
嘲笑するように口元を緩めると、小さな女神は禁断の言葉を口にした。
「…そもそもウルドなんかがお姉様にかなうワケないのに…。」
理性の崩壊は刹那でよかった。
ばくっっ…。
上体のひねりを加えた重い拳はスクルドの腫れ上がった頬を容赦なく殴りつけ…口元から血を噴かせる。スクルドの小さな身体は…ウルドの右拳で文字通り殴り倒された。
「…っ!!」
畳の上にうずくまったスクルドは激痛と衝撃に目を見開き、ようやく自分が何を口走っていたのか気付いた。死にたいほどの自己嫌悪に見舞われる…。
なんの配慮もない抜き身の指摘は、常に悠然たるウルドの理性を一瞬で打ち砕いたのだ。
誰にも知られたくない苦悩…妹への劣等感。
ベルダンディーが産まれたときから始まった、屈辱だらけの人生…。
そんなそぶりを絶対に見せぬよう、努めて明るく振る舞ってきたのだが…今の今だけは押さえ込んできたコンプレックスのすべてを暴力的衝動に委ねてしまっていた。
神の精神が悪魔の精神を繋ぎ止めるいとまもなく…。
ウルドは自分の拳と倒れ込んだスクルドを交互に見つめ、あごをわななかせた。
「あ、あたい…あたい、なんてこと…」
「ふぁ、ふああああっっ!!あああああ…っっ!!」
張り裂けんばかりの声をあげて泣き出すスクルドにも…ウルドはなにもしてやれることなく、呆けたままひざまづき、うなだれるのみであった。
居間に駆け込んでいたベルダンディーもちゃぶ台に突っ伏し、ありったけの声を出して泣いていた。恐ろしいほどの焦燥感が涙を止めどなく溢れさせる。
わたしは螢一さんが好き。
姉さんも螢一さんのことが好き…。
そして、スクルドも螢一さんのことが…。
これはつまり、自分の最愛の男性が姉や妹の想いの対象になっているということ。三人の女性に想いを寄せられているということ…。
その想いに応えているわけでもないのであろうが、螢一は確かに自分達姉妹に対して特別の好意を日頃から抱いているようである。
同居しているため、顔を突き合わせない日は皆無であるから自然と情が移っていることもあろう。それに、自分はさておきウルドもスクルドもそれぞれに魅力的な女性である。健全な男子である螢一が別格の思い入れを抱いたとしても不思議はない。
そうなると…螢一自身のウルドやスクルドへ向けられる好意は、自分に向けられるそれに比べてどれくらいのウエイトを占めるものなのだろう。
好意どうしは磁力のように引き合い、思い入れが強ければ強いほど結びつく力も増す。
従って自分達三人の愛情の違いで、螢一は本当に好きな人を選ぶはずだ。
自分の抱く螢一への愛情は絶対的存在であり、他のいかなるものよりも優先する。
しかしウルドは彼女の情熱で、スクルドは彼女のひたむきさでそれぞれに想いを募らせ、愛情を育てているはずだ。
もし自分が姉や妹に愛情の深さで劣っていたとしたら…。自分は螢一を失ってしまうことになるのだろうか。螢一は自分を置き去りにしてしまうのだろうか。
「姉さんの気持ち…す、スクルドの気持ち…わたしの気持ち…う、んうっ!!」
様々な考えが、思いが頭の中で交差して支離滅裂に陥るベルダンディー。苦しい胸の奥からふつふつと醜い感情が立ち上り始める。吐き気を催し、口元を右手で押さえた。
醜い感情は独占欲。醜い感情は嫉妬。
螢一はすでに自分だけのものだと思っていた…。そう考えることが安らぎと幸福の礎となってきていたような気がする。
しかし、それはあくまで早合点であった。もし螢一を好きだと思う者が他に現れたら、そのとき自分はどうすればよいのだろう。
第三者を傷つけたくはない。螢一も傷つけたくない。自分も傷つきたくない。
さりとていずれの条件をも満たすことはできない。
ひとつだけ…ひとつだけ我が儘を言えるとしたら…ただ、螢一を失いたくない。
どうしても螢一を失いたくない。
いやだ。螢一だけは失いたくない。螢一は自分だけのものであってほしい…。誰にも渡したくないっ。たとえ姉や妹であっても…譲れないっ。
「うっ!あううっ!!あ、あうっ!!」
ベルダンディーはより強く嗚咽し、嘔吐感を堪えきれずに少量の胃液をちゃぶ台の上に吐き戻した。苦く、からい刺激が喉を灼く。
ベルダンディーは這うように立ち上がると、よろめきながら玄関へと駆け出した。美しい素顔を怯えた涙でびちょびちょにし、文字通り家を飛び出す。
螢一を信じたい。
不安で断言できないこの気持ち、もう一秒でもイヤだから…
だから、今すぐ螢一の気持ちを教えてほしい…。
螢一に…会いたいっ…。
「…どこへ行くのよ、ちょっと、ベルダンディーッ!?」
「姉さん、離してっ!離してえっ!!」
裸足で駆け出したところを、追いすがってきたウルドに背後から抱き留められた。ベルダンディーは人が違えたかのように絶叫し、激しく身じろぎしてウルドの両腕を振りほどこうとする。敷石の上に取り乱した涙が舞い散った。
どさっ。
もつれあってよろめいた二人はそのまま敷石の上に倒れ込んでしまう。ベルダンディーはなおも敷石に爪を立て、ウルドから逃れようと必死になってあがいた。
「螢一さんのところへっ…!螢一さんのところへ行くんですっ!!会っていますぐ気持ちが聞きたいっ!!離してください、ねえさんっ!!」
「あんたの気持ちはわかるわっ!でも今行ったって、あいつは仕事中だよ!?あんた螢一に迷惑をかけにいくだけなんだよ!?それに…言いたかないけどねぇ、あんたが螢一のコト、信じられなくってどうするの!」
「だって姉さんは…!!スクルドだって…!!螢一さんっ!わたし、こんなに好きなんですよっ!?わたしを置いていかないで…!!おいていかないでえええ…!!」
べちっ…。
ベルダンディーの右手…中指の先から最悪の音がした。敷石の上に、あたかも彼岸花が咲いたかのように赤が散る。それでもベルダンディーは最愛の男の名前を連呼しながら嗚咽し、もがき続けた。
「行かせて、螢一さんのところに行かせてよおっ!!」
「なんであたいが…ここまでしてんのよっ!」
ウルドはそう涙声で舌打ちすると、これ以上妹の身体を傷つけまいと強く身体をひねった。ベルダンディーを身体の上に乗せ、二人で仰向けの体勢になる。これでベルダンディーは這い進むことができない。
「ああっ、あああああっ!!うわあああああ…!!」
ぴきっ…ぱきゃっ。
ベルダンディーの哀号がいよいよ激しさを極めると、彼女の左耳を飾っていた小さなピアスが音立てて弾けた。
彼女のピアスは一級神としての実力を著しく制限させるための安全装置。
その気になれば人間界など、指のひと振りで容易く破滅させることができる神の力…。それを無力同然なまでに押さえつけるための封環であった。
即ち、それの解除はベルダンディーが全力を発動させることを意味している。
しかし今回は自らの意志で封環を外したわけではなく、封環自体がベルダンディーの暴走に耐えかねて崩壊してしまったのだ。
ふわぁっ…。
ベルダンディーのグレイの髪が拡がり、神々しい金色の輝きを放ち始める。神をも滅ぼさんとする気配に悪寒が走り、ウルドは二の腕に鳥肌を立たせてしまった。
「この嫉妬のムシが…。ふふっ、マジで絶体絶命…ってヤツ?」
戦慄するウルドをよそに、ベルダンディーはおもむろに泣きやむと、両手を高々と天空に差し出した。彼女の額にある細い紡錘形の聖痕が真っ白に輝く。
すると空一面を埋め尽くしていた雨雲が突然渦を巻き、たちまち二人の直上でまるく晴れ間が拡がった。その向こうからまばゆく光り輝く物体がいくつか舞い降りてくる。
きら、きら、きら…。
なんと神秘的な光景であろう、それは七体の天使達であった。
透けるような薄布だけを身に纏い、背中に純白の翼を六枚持った美少女達。左手には身の丈の二倍はありそうな、アンバランス極まりない長弓。右手には一本の矢。
一定の高度で滞空すると彼女達は一斉に矢をつがえ、弓を引いた。天使の持ち物であるわりに恐ろしく禍々しい形をした弓と矢は…敷石の上で転がっている二人の女神へとまっすぐに向けられる。
「そこまでするかぁ…?こんなメチャクチャな大技使ってまで螢一のところに行きたいとは…かなわないわね、ホント…」
ベルダンディーの腰に回した腕から力を抜こうとせず、ウルドはやるせなくベルダンディーの後ろ姿を見つめた。覚悟を決めたかのようにそっと目を伏せる。
ふわっ…。
ベルダンディーの差し出されていた腕が音もなく動いた。すっ…と胸の前で両手を組み合わせる。それを合図に七体の天使達は矢を放った。殺意の秘められた七本の矢は、まさに迅速で、空気を引き裂いて二人に肉薄する。
ウルドはカッと目を開いた。
「森羅万象に基づく自然現象の前には、にわかに起こした奇跡など無意味!!」
高らかに叫ぶとベルダンディーの腰から両手を離し、天空に突き出す。
ピシャ、バッシャーンッッ…ズゥウーン…
次の瞬間、七本の矢に七筋の稲妻が襲いかかり、衝突すると同時にこの世の終わりもかくやとばかりの閃光を放った。
鼓膜を突き破らんばかりの轟音が地表に襲いかかる。
不吉な振動は大地を叩き、地震を引き起こした。
「…くうっ…!!」
予想以上の衝撃から守るよう、ウルドはベルダンディーの身体を強く抱き締める。ぽっ、と小さな防護フィールドが展開され、二人は半球形の光の中に隠れた。
予想以上の大落雷は見事七本の矢を撃ち、爆発四散させていた。人知を越える閃光、爆発。それは一瞬だけのことではあったが、まさしく神々の戦争のワンシーンであった。
「…ふぅ…。」
衝撃がおさまったのを確認し、防護フィールドを解くウルド。全身の緊張が解け、安堵の吐息が漏れる。
厚い雷雲が大挙していたことも幸いしていた。おかげで最大出力以上の法術を行使することができた。そうでなければベルダンディーの最強クラスの攻撃を回避することなどできなかったであろう。
事を仕損じた天使達は無表情のまま、ポッカリと開かれた晴れ間の彼方へ飛翔して消えていった。雨雲はすぐさまその晴れ間を埋め隠してしまう。それで天空は何事もなかったかのように元通りの曇り空となった。
「あう…ううっ…」
思い出したかのように嗚咽を再開するベルダンディー。しかしもう抵抗しようとはしなかった。
大技による消耗もあるが、取り乱していた自分自身にようやく気付いたことが、なによりも彼女から行動力を失わせていた。無意識下とはいえ、嫉妬と苛立ちにまかせて姉を滅ぼそうとしたなんて…。
「姉さん…わたし、わっ、わたし…!!」
「泣かないで、ベルダンディー…。螢一は必ず帰ってくる。それを待とう…」
なだめるようにささやくと、ウルドはベルダンディーの下敷きになったまま彼女をきつく抱き締めた。
ぽつ、ぽつん、ぽつぽつっ…。
雨が降り始めた。
いくつもいくつも降り落ちてくる小さな水滴がベルダンディーを、ウルドを濡らす。雨滴がベルダンディーの涙と混ざり、滑らかな頬を流れ落ちた。
雨足はたちまち強くなり…それでも二人は敷石の上から動こうとしなかった。
(つづく)
(98/10/23update)