ああっ女神さまっ

■For your love■

最終夜、ベルダンディー〜Promised Night〜(2)

作・大場愁一郎さま

ジャンル:X指定


 

 雨足はたちまち強くなり…それでも二人は敷石の上から動こうとしなかった。

 このまま雨に打たれていたかった。胸のわだかまりを涙とともに流し去って欲しかった。

 敷石の上に飛沫くほど強く降り始めた雨は、ベルダンディーが散らした鮮血も滲ませて洗い流すよう、一際激しくなってゆく…。

「ごめんなさい…ねえさん…」

「謝るのはあたいよ、ベルダンディー…掻き乱してゴメン…」

 二人の姉妹は仰向けに折り重なったまま、雨の中、声を出して泣いた。

 成り行きを玄関で見守っていたスクルドも…土間にうずくまって泣いた。

 螢一への想い。

 二人の姉への想い。

 こんなことになってしまった運命。

 なにもかもが小さなスクルドを泣かせる原因たりえた。

 

「ただいまーっ!ひっでえな、全然降り止まないんだもんな…!」

 螢一が帰宅したのは午後六時を少し過ぎた頃であった。

 勤務は五時には終了していたのだが、一向に衰えない豪雨が少しでも落ち着くのを千尋と二人、『ワールウインド』で待っていたのである。

 それでも雨足は強くなりこそすれ弱まる様子を見せず、とうとう痺れをきらして帰宅したというわけだ。

「ううっ寒い!くそ、ブーツも脱げないくらいびちょびちょだ…。」

 螢一が毒づいたとおりで、ヘルメットの中以外は全身くまなくずぶ濡れであった。ライダーブーツの中にまでじっとり浸水しており、密封状態でぴっちりくっついているため引き剥がすようにしないと脱げてくれない。

 おまけに夏だというのに寒くてならなかった。身体じゅうが冷え切っている。今すぐ熱い風呂に入って暖まりたいほどだ。

 そんな気持ちでブーツと格闘していた螢一であったが…なんとなく違和感が脳裏をかすめる。普段ならタオルを手にしたベルダンディーが出迎えに来てくれてもいいのに…。思わず居間の方の様子を伺ってみる。

「…いや、さすがに甘えすぎだよな。いかんぞ螢一!ベルダンディーの優しさにあぐらをかいてばかりいちゃ!」

 ふぬけた自分が見えたようで、螢一は雨に濡れた頬をぴしゃぴしゃ叩いて自分自身を叱咤した。急いでブーツを脱ぎ、靴下も脱いでペタペタ足跡を残しながら居間に向かう。

「ただいま…」

 螢一は居間に入ろうとして、そのまま立ち尽くしてしまった。そうさせない空気が…居間いっぱいに満ちていたからだ。

 明かりは点いているものの、テレビは点いていない。

 三人がちゃぶ台を囲んでいるものの、夕食の用意はできていない。

 同居人四人が一同に会したというのに、彼女たちはうなだれたままで顔を上げない。

「ど、どうしたんだよ…三人とも…」

「螢一さんっ…。」

 螢一から見て真正面に座っていたベルダンディーが顔を上げた。

 人目でそれとわかる、泣きはらした赤い目…。

 螢一はちゃぶ台の前にひざまづき、その上に身を乗り出して尋ねた。

「ベルダンディー、どうしたんだよ…泣いてたのか…?」

「姉さんやスクルドから…全部聞きました。」

「…っ!!」

 その一言で螢一の背筋に真っ白な電撃が走る。

 死刑の宣告を受けたような気がした。

 怯えきった子供のような目でウルドを、そしてスクルドを見る。彼女達も螢一の視線を受けると逃げるように目線を外し、うつむいてしまった。事実をベルダンディーに知られてしまった動揺は彼女達もまた大きかったらしい。

 独り突き放された螢一は乗り出した身を戻し、同様にうつむいて溜息を吐いた。

「…ベルダンディー、オレが何を言っても言い訳にはならないし…謝ったとしても、謝れば謝るだけオレのしたことが軽薄に感じると思う。でも…ごめん!」

 螢一は姿勢を正し、濡れた前髪から雨の滴を滴らせながら畳に額を擦り付けた。

「謝ったってダメなことはわかってるっ!信じてもらえなくなるだけだってことはわかってる!でも謝らせて!ゴメン!!君の気が済むならどんな罰だって受ける!軽蔑されても、嫌われてもかまわないっ!!」

 土下座したまま一心に叫ぶ螢一。雨の滴と…涙が畳に滴る。

 頭一つ下げただけで許してもらえるなんて思っていない。ウルドやスクルドと睦み合っている間、一瞬でもベルダンディーから目を背けたことは確かな事実だからだ。

 その間だけは最愛の女性を忘れた…。

 そんな男が今さら何を言おうが無意味であることはわかっている。どれだけ深く頭を下げても、どれだけ謝辞を述べようとも…それは結局、謝らずにはいられないような悪事を働いたことを肯定するに他ならない。

 さらにつきつめて考えれば、あの時ウルドやスクルドにささやきかけた言葉のどれもが、謝れば謝るだけ彼女達にとって嘘であったかのように聞こえてしまうだろう。睦み合ったことはもちろん、きれいと言ったことや、かわいいと言ったことまで謝るというのなら…。

 それでも。螢一はベルダンディーに頭を下げ、謝るほかにできなかった。

 ベルダンディーはもちろん、ウルドやスクルドにだって申し訳がなかった。

 誰も悲しませないで済むはずなどないのに…詫びずにいられない。

 ウルドにも、スクルドにも…そしてベルダンディーに対しても抱いた気持ちは嘘なんかではないのに…自責せずにはいられない。

「消えてしまいたい…ベルダンディーどころか、ウルドにも、スクルドにも合わせる顔なんてないのに…!!オレは色欲に惑いやすい、軽薄な最低野郎だっ…!!」

「そんなこと言わないでっ!」

 自己嫌悪の言葉を吐き、ぎゅっと唇を噛み締める螢一の姿がいたたまれなくなり、スクルドは上擦りながら叫んでいた。螢一に寄り添って頭を起こさせる。

「スクルド…」

 見るとスクルドも泣いていた。涙がぽろぽろと美少女の素顔の上を伝い落ちている。

 スクルドはふるふる首を横に振ると、螢一をかばうようにしてベルダンディーを見た。

「お姉様、責めるならあたしを責めて!悪いのは螢一じゃない、あたしだもの…。言ったでしょ、あたしが螢一を脅して、それで…してもらったんだって!本当だよ!」

 ベルダンディーは無言のまま、妹の独白を聞いた。スクルドはさらに続ける。

「でも…そうしてるうち、あたし…自分の気持ちがわかんなくなってきたの。お姉様には悪いと思ったけど、螢一のことが好きになってた。螢一があたしにキスしてくれたときのあの感じは…今も忘れられない。あたしだって女神だもん、螢一がどんな気持ちだったかわかるから…。あの時の螢一は…本当にあたしのことを思ってくれて、それで優しくしてくれた!かわいいって言ってくれたときも、間違いなく言霊が籠もってた!!」

 敬愛する姉に食ってかかったのは恐らく始めてなのだろう。スクルドは早口にまくし立てるだけまくし立てると、螢一の胸に顔を埋め、大声であんあん泣いた。それでもベルダンディーは押し黙ったまま、困惑に表情を曇らせているのみであった。

「…スクルド、あんたは悪くないよ。悪いのはやっぱりあたい。あたいは…ベルダンディーから螢一を寝取ろうとしたんだからね。螢一、今だから言うけど、あたいあの時、ウソついてたのよ?」

「ウソ…?」

 ウルドはベルダンディーと螢一に言い聞かせるよう、そこで言葉を区切って二人を見る。二つの視線が集まるのを確認してから、ウルドは小さく深呼吸して事実を告白した。

「あたい…あのときマイルーラなんて使ってなかったのよ。」

「え、ええっ!?」

 驚愕の声をあげる螢一を見ながら、ウルドはそっと下腹に右手を当てて告白を続ける。

「あのまま…螢一のこども、作っちゃうつもりだった。そうすれば螢一、お人好しのあんたのことだからあたいを無下には見捨てられないでしょうしね。たったこれだけでベルダンディーから螢一を奪うことができる。そう信じた。でもあんたは…しっかりと避妊してくれたわよね。それで計画は失敗。」

 そこまで言うとウルドは肩をすくめ、螢一とベルダンディーに苦笑して見せた。それは見ようによっては自嘲ともとれる笑みであったかも知れない。

 居間から言葉が消える。スクルドのしゃくりあげる声と柱時計の振り子の音、そして雨音以外はすべて沈黙に支配される。四人の想いはそれぞれの内で錯綜していた。

「螢一さんにお願いがあります…。」

 ふと顔を上げ、ベルダンディーは螢一を真っ直ぐに見つめた。螢一も顔を上げ、視線をそらすことなくベルダンディーを見つめ返す。

 一方でスクルドはベルダンディーを、ウルドは螢一を見つめ…そのままさらにしばしの時間が意味もなく流れていった。

「螢一さんの本当の気持ちを…本当に好きな人を…教えてください。わたし、わたし…もうこんな事を確かめなければいけないくらい自分を見失ってるんです!お願いです、今すぐ教えてください!!」

 迷子の子供のように儚げな表情で、ベルダンディーは螢一に訴えかけた。ベルダンディーの心は大波のような不安のなか、ちっぽけな木の葉一枚のように揺れているのだ。

 ウルドもスクルドも…間違いなく螢一に対して愛情と呼べるほどの好意を抱いている。

 それでもし、螢一がウルドかスクルドを最終的に選んだとしたら自分はどうなってしまうのだろう。

 想像もできない。怖くてならなかった。

 だから昼間のように…今すぐ螢一の本心が知りたかった。

 以前まではこんなことをあらためて尋ねる必要性を感じなかったのに…。しかし、もしそれが単なる自信過剰によるものであったとしたら…。

 すでに自分は堕落しきっているのであろう。独占欲と嫉妬に塗り固められた、堕ちた女神にすぎないだろう。否、女神ともよべない存在かもしれない。

「わたしは…螢一さんが好きです。大好きですっ!」

「あたいも…螢一、あんたのことが好き。ずうっと前から好きになってた。」

「螢一っ!あたしだって螢一のこと、好きなんだよっ!」

 三人の女神は…想い人に視線を向け、一斉に暖めていた愛情を言葉にした。

 螢一はそっと目を閉じ、気持ちを整理しているようであったが…

コクン。

 小さくうなづいてから目を開け、再び正面のベルダンディーを見つめた。

「オレは口が下手だから誤解を招くかもしれない。でも、ハッキリ言うよ…。」

 そこで一区切り付ける螢一。三人の女神に緊張が走る。

「オレは…ウルドが好き。」

「え…」

 声を漏らしたのはウルドであった。ふくよかな左胸を押さえ、呆然としたままたちまち頬を赤く染める。

「そして…スクルドも好き。」

「えっ…」

 螢一に寄りかかっていたスクルドも、同じく声を漏らした。呼吸を忘れ、鼓動が増幅されているかのように、小さな身体が微震を始める。

「それに長谷川も…沙夜子も、千尋さんも好き。恵だって好きだ。」

「え…?」

 とうとうベルダンディーまで声を漏らした。しきりにまばたきし、口元を両手で押さえてしまう。

 そんな彼女を見つめたまま、螢一はさらに続けた。

「…田宮先輩や、大滝先輩だって…好きだ。」

「ええっ!?」

「ちょ、ちょっと待って!続きがあるんだよっ!」

 最後に三人の女神は揃って驚きを口にした。慌てた螢一は真っ赤になり、身振り手振りも激しく彼女達を鎮める。

 場が落ち着きを取り戻したのを見計らい、螢一は恥ずかしそうに咳払いをして、続けた。

「確かにオレには好きな人がたくさんいる。みんなかけがえのない、大切な人だ。でも…なんか照れるなぁ…あ…あの…こんな言葉はみだりに使っちゃいけないんだろうけど…」

 うつむいたり、頭を掻いたり、鼻の頭の汗を拭ったりしながらしどろもどろになる螢一。もったいぶったようにそこまで言って区切ると、一度だけ深呼吸をしてから宣言した。

「きっとこんな気持ちを言うんだと思う。オレが本当に愛してるって言えるのは…ベルダンディー一人だけだ…!」

「あっ…!!」

 張りつめた空気を引き裂くように、ベルダンディーは悲鳴にも似た声をあげていた。螢一は耳まで真っ赤になりながらも、愛の告白を続ける。

「愛ってよく聞く言葉だけど…どういうものが愛なのか曖昧だから、オレは簡単には口に出さないようにしていた。でも…わかったよ、この気持ちが愛なんだって。つらいことも、楽しいことも…この人となら一生大切に噛み締め合っていける自信っていうか、覚悟っていうか…とにかく、ベルダンディーにならオレは胸を張って言えるよ。ベルダンディー、愛してる…!」

「あ…ああっ…あああああっ!!」

 その言葉を聞き届け、ベルダンディーは泣き崩れてしまった。うつむいた顔を両手で覆い、声をあげて泣く。一級神の号泣であった。

 胸の奥の不安を一息で払拭してくれる、真心のこもった言葉。螢一の偽らざる愛情が不安にとって代わり、ベルダンディーの胸の奥を占拠してしまう。

 ウルドもスクルドも…螢一の言霊を感じ取り、恋の終わりを、失恋を知覚していた。

 やはり結果は見えていたらしい。叶わぬ願いであったこと。適わぬ相手であったこと。

 ベルダンディーへの絶対的な愛情に隠れてはいるが、自分達への好意も確かに螢一の胸の内に存在していることだけがせめてもの救いであったかもしれない。

「…螢一。ほら、早くお姉様のところに行きなさいよっ。」

 スクルドは強引に涙を拭うと、螢一から一歩退いてベルダンディーへの道を開けた。健気に微笑んで見せたものの、その微笑は一瞬だけのもので…ぷい、とそっぽを向いた横顔はしっかり泣き出す準備ができていた。

「…スクルドのお許しが出たんだ、早く慰めてあげな。」

 ウルドも苦笑しながら促した。ぱっと見では判別できなかったが、その苦笑もどこか作り物めいてギクシャクしている。切れ長の瞳にはスクルドに負けないくらいの涙が浮かんでいた。

「ごめんな、ウルド…スクルド…」

「なんで謝るのよっ!そんなに悪いことしてたつもりなのっ!?」

「ふん、螢一らしくて怒る気にもなれないわ。」

 泣き出したいのを必死に堪えて食ってかかるスクルドと、白けたように鼻で笑うウルド。そんな二人の言葉で弾かれるように、螢一はベルダンディーの側に寄り添った。

 嬉し泣きであることは彼女から漂う雰囲気でわかるのだが…どうにも螢一はバツが悪い。泣かせてしまったことが胸の奥で痛みになっている。

「ベルダンディー…。」

 雨の滴をポタポタ落としながら、螢一は寄り添ってベルダンディーの背中をさすり、微笑みかけながら名前を呼んだ。

 それはあまりに呼び慣れた名前。すっかり近親感の身に付いた名前。

 だがこうして親しく呼びかけることが許されている現実を、今夜ほど幸せに感じた夜は今までになかった。

「…けいいちさんっ!けいいちさあんっ!!うわ、わあああんっ!!」

 ベルダンディーは泣き顔を上げると、自分を愛すると言ってくれた男の胸へ…恥じらいも躊躇いもなく、真っ直ぐに飛び込んだ。

 嬉しさが心から溢れ出し、激しく爆発を繰り返す。同じ気持ちを共有することができた歓びを…自分だけを選んでくれた歓びを言葉で伝えたかったが、声は精一杯の嗚咽にしかならなかった。

 それがまたもどかしく、悪循環のように泣けてしまう。しかし不快ではなかった。

 声を上げ、涙を流して泣くことがこんなに気持ちいいこともあるなんて…。ベルダンディーは目から鱗が落ちる思いであった。

「け、けいいち、けいいちさんっ!わ、わたし、わた…ううっ、うううっ…!!」

「好きなだけ泣いていいよ、ベルダンディー…。思いっきり、気の済むまで泣いて…それから笑ってくれ。」

 ベルダンディーにささやきかけ、螢一は強く強く彼女の頭を押し抱いた。雨で冷えた胸元に熱い涙が染み込んでくる。

 この涙を、未来永劫背負って生きていく用意はできていた。

 不安はない。気負いもない。

 しかし歓びがあった。自信もあった。それらはこうしてベルダンディーを抱いているだけで…彼女にしがみつかれているだけで無尽と思えるほどに湧いてきた。

 様々なアクシデントが重なり合ったとはいえ、こうして最愛の女性への想いを再確認できたことは、確実に螢一に次なる一歩を踏み出させていた。

 安らげる場所で思う存分涙を流し、どうにかこうにか落ち着きを取り戻したベルダンディーはゆっくり頭を上げ、螢一に顔を見せた。

 歓びの涙を流していた、少しも飾らない素顔を見てもらいたかったから…。

 恥ずかしさも照れくささも…何もかも差し出して受け入れてもらいたかったから。

「あ、あれ…あれ…?」

「慌てないで。オレ、怖い顔してるかい?」

「そ、そんなワケじゃないですけど…。」

 ベルダンディーは懸命に微笑もうと努力するのだが、上気した顔はなおもそうすることができず、危なっかしい泣き顔を繕ってしまう。

 螢一がおどけてみせ、親指で涙を拭ってくれると、刺々しいほど高ぶった感情は溶け出すようにして鎮まった。それでベルダンディーはようやく笑顔を見せることができた。

 見る者すべてを和ませる、ベルダンディーのアーケイックスマイル…。

「わたしは…姉さんの気持ちを、スクルドの気持ちを知ったとき、焦燥感に駆られて螢一さんに会いたくなりました。会って気持ちを確かめたかったから…。嫉妬してたんです、姉さんやスクルドに…。嫉妬に狂ったわたしは無我夢中になり、引き留めようとした姉さんを滅ぼそうとまでしました…。こんな嫉妬深い女なんて螢一さんに嫌われて当然だと思ってたんですけど…」

 独白し、再びうつむきかけたベルダンディーの肩を螢一は両手でつかんだ。ハッと顔を上げたベルダンディーに、気取らない笑みを浮かべて諭すように言う。

「女の子だもん、ヤキモチのひとつくらい焼いたっていいじゃないか。そんなの自然な生理現象だよ。焼かせたオレの方が悪いのさ。」

 そっと彼女を抱き締め、耳元で、ごめんね、とささやく。ベルダンディーはきゅっと目をつむり、たまらない愛しさで首をふるふるさせた。

「…螢一さん、こんなわたしでも…本当に愛していただけますか…?わたしはずっとここにいてもいいんですか…?」

「もちろんさ。君のような女神に…ずっとそばにいてほしい…」

 螢一は揺らぎ無い口調で答え、そっと右手をベルダンディーのうなじにまわした。それに合わせてベルダンディーは目を閉じ…螢一もそれに倣って…

ちゅ…。

 少しだけ角度をつけたキス…。ベルダンディーも螢一の背中に手を伸ばし、そっと抱き寄せて抱擁に応じた。幸せな…満たされるような心地よさが唇を介して伝わり合う。

 螢一とは何度かキスしたことがあったが…今のキスが一番素敵に感じられた。

 夢を見ているように実感がない。身体がぼうっとしてくる…。

「はいはいそこまでっ!!螢一、あたしそこまでしていいって言ってないわよっ!」

「う…やっぱり。」

「スクルド…ごめんなさいね、螢一さん…」

 目の前で見せつけられたらスクルドだって黙っていられなかった。いつも以上に強引に、膝で割って入るようにして螢一とベルダンディーを引き離す。

 姉に負けないほどのヤキモチを焼いてみせるスクルドに、螢一とベルダンディーは頬を染めて苦笑しあうのであった。

「あーっ、なに笑ってんのよっ!!」

「なんでもないよ、いて、痛いってばスクルド!」

「まったく…いつまでたってもお子様だねぇ。」

「あーっ!!ウルド、またあたしを子供扱いしたっ!」

「どっからどう見たってお子様じゃないのっ!」

「もう…姉さんもスクルドもその辺にしてくださいっ。」

 それはごくありきたりの、さりげないきっかけにすぎなかった。

 いつの間にか、四人の気取らない笑い声が室内に満ちている。

 いつの間にか、四人の屈託のない笑顔が交わし合わされている。

 そう、いつの間にか…森里屋敷は普段の柔らかな空気を取り戻していた。

 ようやく長いトンネルを抜けたような心地が、四人それぞれの胸に拡がっていた。実感のない、漠然とした嬉しさであったが…それだけで笑顔は、笑声は絶えなかった。

「…すべてはコイツが元凶なのよねえ。」

 和んだタイミングを見計らったように、ウルドはデニムベストの胸ポケットから小さななにかを取り出し、ちゃぶ台の上にころん、と置いた。

 それはプラムの実を梅の実サイズにしたような小さな果実であった。一回も噛めばあっさり飲み込めそうな大きさである。

「元凶って…なんなの、この実?」

 興味津々といった様子で早速スクルドが手を伸ばし、その紅い実をつまみ上げた。ぷにぷにと柔らかで、瑞々しさが薄い皮ごしにわかる。甘い果汁を想像し、スクルドは小さく喉を鳴らした。

「間違っても食べちゃダメよ。」

「わ、わかってるわよっ。なんなの、これは?」

「『リバティー・ベル』なんてかわいらしい名前なんだけどね。メチャクチャ希少品で高価なんだけど、こいつがまたとんでもない催淫効果を持ってるのよ。」

「催淫って…ウルド、お前なんでこんなもの…まさか試してみたのか?」

 螢一はスクルドから実をまわしてもらうと、しげしげと小さな果実を明かりに透かしたりしながらウルドに訊いた。ウルドは肩をすくめて苦笑してみせる。

「…ホントにひどかったわ。覚えてるでしょ、熱出したとか言って一日中部屋から出てこなかったコト。」

「ああ、そう言えば先月だっけか…。ま、まさか一日中…!?」

「指がイクのに追いつかないのよ。どんなのか想像もできないでしょ?じっとしてるだけでもイキまくるのって…つらいわよ。本当に気が狂いそうになったわ…。」

 ウルドは螢一の手からリバティー・ベルを返してもらうと、忌々しげに果実を見つめてそう言った。螢一とスクルドは思わず効果のほどをイメージしてしまったが…さすがにピンとこない。

「こんなもの試さなきゃ…螢一のこと、ここまで思い詰めなかったんだろうけどね。こんなロクでもないもの、とっとと潰しちゃおう!」

 ウルドが摘む果実に、ぎゅ、と力がこめられたときであった。すっ…とベルダンディーの手が伸び、ウルドの指を制止させた。

「ベルダンディー…」

「姉さん、わたしにさせて…。」

「いいわよ…。」

 一番掻き乱された自分自身の手でとどめを刺したいのであろう。

 ウルドはそう思い、真摯な面持ちの妹にリバティー・ベルを手渡した。ベルダンディーは感慨深げな面持ちで受け取った果実を見つめ、指先に力を加えると…

…ごくん。

 その場にいた誰もが声を発することができなかった。制止するいとますらなかった。

 ベルダンディーは果実を咀嚼することもなく、一息に飲み込んでしまったのだ。

 ふぅ、と息を吐いた顔は早くもほんのり赤らみ、これから襲いかかるであろう激症に備えてか、少しだけ緊張しているようであった。

「ベルダンディー!あんた、ナニ考えてんのよっ!?」

 最初に我に返ったウルドはベルダンディーの両肩を乱暴につかみ、激しく揺さぶりながら怒鳴った。にわかに起こした妹の行動が信じられなかったからだ。

 それでもベルダンディーは微笑を浮かべ、自分は間違ったことをしていない、とばかりに首を横に振った。

「希少品で高価なものなんでしょう?潰してはもったいないわ。それに…わたし、今夜は螢一さんと一緒に過ごしたいから…」

「なっ!?えっ!?なあっ…!?」

 愛しい女性の恥じらいがちな言葉で、軽い錯乱状態に陥る螢一。ベルダンディーは両手で顔を覆い、うなだれてイヤイヤした。今頃になって照れくささが襲いかかってきたらしく、耳まで真っ赤になっている。

 一緒に過ごしたい、というだけでは催淫果実を飲み込んだりせずともよい。結ばれることを望んでいたとしても、そこまでする必要はないだろう。

 それは結局…今夜一晩じゅう螢一と睦み合いたい、と暗におねだりしているのと同じであった。

 姉や妹に先を越されて悔しいような思いもあったし、なにより螢一との愛を確かめ合った今、身体をも確かめ合いたくなったというほうが核たる理由だ。

 もちろん…性欲だってそれなりにある。一級神とはいえ、彼女も年頃の女性だ。異性を知りたい、という欲求は少なからず作用を始めている。

 それに…ベルダンディーはこの果実を信じていた。

 きっとこの果実は自分に勇気をくれる…自分を解放してくれる、と。

 だからこそベルダンディーは、『リバティー・ベル』というかわいらしい名前のオブラートにくるまれた悪魔の果実を飲み込む気になったのだ。ウルドにして戦慄させるほどの凶悪な毒性を秘めた魅惑の果実を…。

「あーっ、もうわかったわかった!好きにしなさいっ!」

 付き合っていられない、といった風にウルドは立ち上がると、手の平をひらひらさせながら居間から出ようとした。

「待って、姉さん、夕食は…?」

「今から準備を始めて、四人揃っていただきまぁす…なんて言う前に、ベルダンディー、あんた、必ずクルわよ?ノンビリ構えてなんかいられなくなるのは目に見えてるわ。」

 ウルドはベルダンディーの方に振り返りもせず、背中越しにさらに続けた。

「あともう一つ言っておくけど…くれぐれも避妊には気を使うのよ?特に螢一!」

「わ、わかってるよっ!自分だって避妊してるってウソついてたくせに…!」

「う、うるさいっ!とにかくそういうことだからねっ!!」

 焦ったような螢一の言葉に自分も思わず焦ったような口調で言い残し、ウルドは足を踏みならすようにしてそのまま廊下の奥へと消えていった。

 次いでスクルドも立ち上がった。あたしもご飯はいらない、と前置きして、

「螢一、今夜一晩だけだからね!?お姉様、貸したげる!」

「貸したげるって…いつからベルダンディーはスクルドのものになったんだよ?」

「あたしが産まれた時からよ!いい?そういうことならく・れ・ぐ・れ・も!あかちゃんできないように気を付けてよねっ!?」

「いてっ!しつこいな、もう…わかってるってば!」

 螢一を睨み付けながら厳しく言いつけ、とどめとばかりにデコピンをくわせる。

 居間を出るときにベルダンディーを一瞬見て、寂しそうな顔をしたのが印象に残った。

しいん…。

 静まり返った居間に取り残された形の螢一とベルダンディー。立ち去った二人の後ろ姿を見送ったままで、しばし無駄に時間を過ごしてしまった。

「いけない…!」

 ハッと思いついたように口元に手を当てると、ベルダンディーは螢一のTシャツの袖をクイクイ引っ張り、ペコンと頭を下げた。

「螢一さんごめんなさい!びしょ濡れだったのにわたしったらタオルも用意しないで…!」

「そ、そんなこと気にしないでよ!あんな状況じゃタオルなんて持ってこれないだろ?そんなことよりも…ベルダンディー、その中指どうしたの?」

 慌ててベルダンディーの頭を上げさせ、螢一は先程から気になっていた、彼女の右手中指をくるんでいる包帯の理由を尋ねた。

 朝まではこんな包帯なんてしていなかった。どうやら仕事に出ている間に…彼女が一切の事情を知った辺りでなにかあったらしい。

「いえ、なんでもないんです…爪がはがれただけで…」

「爪!?なんでもないことないじゃないかっ!どうして…!?」

 いたたまれない表情で問いかける螢一に、ベルダンディーは事情を語って聞かせた。

 ウルドやスクルドとの関係を知り、メチャクチャに取り乱したこと。

 どうしても螢一に会いたくなり、家を飛び出したこと。

 ウルドに制止され、その時に中指を負傷したこと。

 我を忘れ、ウルドを滅ぼそうとまでしたこと。

 事情を聞き終えると、たちまち螢一は悲痛な面持ちとなり、きつくベルダンディーの身体を抱き締めた。

「許してくれ…オレがもっとしっかりしていたら…痛い思いなんてさせなかったのに…!」

「いいえ、螢一さんを疑ったりした罰があたったんだと思います。これくらいの痛みで済む贖罪なら、わたしにはどれだけでも受け入れる覚悟があります。」

 ベルダンディーは頑なな口調で言うと、同じようにきつく螢一を抱き締めた。

「どうかお気になさらないで…。あ、とにかくシャワーを浴びてきてください。このままじゃ本当に風邪をひいてしまいますよ?その間にお夕食の用意をしますから…」

「ううん、シャワーだけでいい。みんな揃わない夕食ってのは、きっとどんな料理でも美味しさが半減しちゃうよ。すぐに上がってくるから、テレビでも見ながら待ってて。」

 ベルダンディーは必死に気を使おうとするが、螢一としてはもうこれ以上彼女に気苦労をかけたくはなかった。たとえそれが彼女の望みであったとしても。

 心の中を洗いざらい告白してしまったいま、これまでベルダンディーに甘えっぱなしだったぶん、彼女の方から自分に甘えて、頼ってほしい心境であった。

「ごめんなさい…」

「さっきから謝ってばかりだよ?ベルダンディーは召使いなんかじゃないんだから、もっと胸を張りなよ!」

 ちょこんと正座してかしこまるベルダンディーの頭を優しく撫で、螢一は立ち上がって風呂場に向かおうとした。ベルダンディーはそれで照れくさそうに微笑する。

 その時であった。

「はっ、あ、あああっ…!?」

 自分自身を抱き締めるようにしながら、ベルダンディーは身震いして叫んだ。畳の上に倒れ込むよう、くて…と横になってしまう。

「ベ、ベルダンディーッ!!どうした、どうしたんだよ、ベルダンディー!?」

 振り返った螢一は慌ててベルダンディーを抱え上げ、不安げに彼女の名前を連呼した。熱でも出したかのように額が、頬が…そして身体じゅうが熱い。

「は、う…け、けいいち、さん…んっ、ん…!」

 ベルダンディーはうっすら目を開けて安堵の微笑を見せた。螢一の身体に触れて存在を確かめると、とぎれとぎれに名前を呼ぶ。

 病にうなされてつらそうにしているようにも見えるが、病人はこんな上擦った声なんか出すはずがない。この声は…連夜聞いたウルドやスクルドが出していた声に似ていて…。

「…始まったんだ…」

 リバティー・ベルの催淫作用…。

 螢一は悟っていた。ベルダンディーの身体中に淫乱の毒素がまわり始めていることを。

 抱えられている間にもベルダンディーの呼吸はみるみる早く、熱くなり…焦れ始めたのか、両手で乳房をシャツごしに揉み始めた。

 あらためて見ると、けっこう膨らみは大きい。彼女の手の平いっぱいでなお持て余し、おまけにムニュ、と指の間から溢れ出ようとするほど柔らかそうだ。

 スカートの中の膝もモジモジと摺り合わされていた。ときおり腰がビクンと跳ねると、それに呼応してか彼女の唇から、んっ、とせつなげなうめきが漏れる。

「ベルダンディーしっかりしろ!今ならまだ吐き出せるかもしれない!ちょっと待ってて、水と洗面器、持ってくる!!」

 ここまで効果が現れてしまってはさすがに手遅れだとは思う。そうは思ったが、少しでも毒素を吐き出せば多少は違うのではないか。

 座布団を折り曲げて枕にし、ベルダンディーを寝かせると螢一は台所へコップの水を取りに行こうとした。しかしベルダンディーは螢一の腕を強くつかみ、激しくイヤイヤして制止した。

「だ、大丈夫です…少し焦れったくなっただけですから…んっ、平気です…」

 螢一を心配させないよう、懸命に強がってみせるベルダンディー。その裏では感じたこともないほどの情欲で、身体中をじっとり汗ばませていた。

 ブラの中の乳首は固くしこり、ショーツの奥は…じわっ、じわっと気色悪く濡れていくのがわかるほど愛液を吐き出している。内側の粘膜も大きく腫れ上がっているかのようにジリジリ痺れ、外にまではみ出てしまっているような感じだ。

 思うがままに慰めたい。

 オナニーに没頭してみたい。

 はしたない誘惑がベルダンディーの貞淑を冒しにかかる。

 しかし淫欲などに負けたくはない。自分は我慢する術をわきまえているはずではないか。まがりなりにも自分は女神なのだから…。

 チラと視線を上げると、螢一は心配そうに自分を見つめてくれていた。申し訳なくもありながら、それだけ気遣ってくれているのだと思うと幸せで胸がいっぱいになる。笑顔を維持しようと必死で努力した。

「螢一さん…わたし、先に螢一さんのお部屋でお待ちしています。だから気にしないでシャワーを浴びてきてください。そのままでは風邪をひいてしまいます…。」

「本当に大丈夫なのか…?」

「信じてください…。大丈夫です、わたしは…淫らな誘惑なんかに負けませんから…!」

 毅然とした口調で言い切ると、ベルダンディーは螢一の右手を両手で包み込み、しっかとうなづいた。

 そうは言ったものの、少しでも油断するとたちまち自慰にふけってしまいそうなほど、身体じゅうが焦れったくなっている。なにもかもが性感帯になってしまったようで…身じろぎひとつするのも怖いというのが本音であった。

 それでも…これ以上螢一を引き留めておくわけにはいかない。風邪なんかひかせてしまったらどう責任をとっていいかわからない。

 自分で飲み込んだ果実のせいで螢一が体調を崩してしまったら、それこそ謝っても謝りきれないというものだ。

「螢一さん…どうか、わたしを信じてください…。これでも一級神なんですよ…?」

「…わかった。じゃあすぐに戻ってくるから、それまで耐えててくれ!」

 螢一もベルダンディーの手を強く握り返すと、駆け出すように浴室へと向かった。

 森里屋敷の浴室には、スクルドと螢一が二人で制作した小型ボイラーが設備されている。いつでもシャワーが浴びたい、というスクルドの我が儘のもと、この小型ボイラーは制作されたのだ。

 そのおかげでいつでも好きなときに、ボタンひとつで給湯が可能となっている。手間は絶対にかからない。

「スクルドさまさま、だよな…。」

 今日ばかりはスクルドのわがままを感謝せずにはいられない螢一であった。

 

 

(つづく)

 


(98/10/24update)